歩く喜び  深田久弥     越前・若狭紀行
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   深田久弥(ふかだきゅうや、1903〜1971) は石川県大聖寺生れだが、福井に母の実家があったため福井中学(今の福井県立藤島高校)へ進学。1930年文芸春秋に発表した「オロッコの娘」で小説家としての地位を確立。小学生時代に関心を持った登山を第一高等学校在学中に本格的に取り組み始め、1966 年シルクロード学術踏査など国内外を旅行し主に山岳についての随筆を発表することになる。
 登山家として知られ1964年には「日本百名山」で読売文学賞を受賞し 「ヒマラヤの高峰」はヒマラヤ登山の必読書となった。間もなく日本は経済成長や週休2日制の普及で登山ブームを迎える。1970年日本山岳会の植村直己らが世界で6番目となるエベレスト登頂、1975年には田部井淳子らが女性だけでは世界初のエベレスト登頂に成功したが、この頃日本山岳会の重鎮だった深田久弥は1971年68才で山梨県の茅ヶ岳登山中に脳出血で急死した。 下記の「歩く喜び」は亡くなる前年の貴重なものである。自筆の署名が巻頭言に添えられている。  
久弥の山に対する情熱を育んだのは福井の山々である。  (参考文献   世界大百科事典(平凡社))
                                                                            

日本山岳会副会長   深田久弥『福井の山と半島』の巻頭言 (福井大学ワンダーフォーゲルOB会、1970年発行)
                                                      「 歩く喜び 」深田久弥
  私が歩く楽しみをおぼえたのは、福井中学(藤島高校の前身)の一年生一学期の試験の終わった日、福井から故郷の大聖寺へ歩いて帰った時ではなかろうか、と今になって思う。正午すぎ福井を出て、森田、丸岡、金津を過ぎ牛ノ谷峠を越えて大聖寺へ入ったのは、夕方の七時頃であった。
約八里の道のりをただ一人、幾らかの不安と幾らかの冒険心を抱きながら、小倉服の肩にカバンを下げた十三歳の少年がトツトと道を急ぐ姿が、今私の心に浮ぶ。歩いて帰ったと知って家の者はおどろいたが、私にも何か一つのことをなしとげたという気持があったのだろう。歩くことに自信がついた。と同時に歩く楽しみをおぼえた。
 それ以後中学在学中、私は実によく歩いた。その頃使った参謀本部五万分の一の地図(現在の国土地理院の地図)が手許に残っているが、無数に赤線の引かれているのは歩いた道である。図幅でいえば、大聖寺、永平寺、三国、福井の四枚が、私の領分であった。
 もちろんその頃はバスどころか、普通の自動車さえ見かけることがなく、歩く前をはんみょうが飛び、かたわらの小川に目高が群れていた。まだリュックサックというものも知らず、大ていはワラジばきであった。私の山登りもその頃から始まっていたが、学校に山岳部というようなものはあるでなし、また一般にも今日のような登山の風潮はなかったから、自分で地図を案じながら登るのが常であった。
 それから四十年たった。もう今では車の幅のある道ならどんな山奥へもバスが通い、昔のようにのんきに歩く楽しみはなくなった代り、行動半経が広くなった。登山の施設も整い、本書のようなガイド・ブックまで出るようになった。
 福井県の山々は私にはなじみ深い。中学生の頃はそう遠くまで足を伸ばすわけにはいかなかったから、登り残した山も多いが、もし今の便利な時代に福井の学生であったら、このガイド・ブックを頼りに片っ端から登ったかもしれない。
 私が広く日本の山へ登るようになったのは東京へ出てからで、それまでは郷土の山に限られていた。見える山々を一つずつ登り了せて行くのが無上の楽しみであった。山がどうのこうのという理屈ではなく、ただやみくもに登った。登っているうちにだんだん山に對する目がひらけてきた。
 何ごとであれ、若いあいだはただやみくもに執する時代があって、そのうち選択と好尚が現われるものでなかろうか。もしこのガイド・ブックの活用者から真の大登山者が生れてきたら、どんなに愉快なことだろう。