藤野厳九郎記念館 三人の藤野先生  越前・若狭紀行
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 藤野厳九郎(藤野厳九郎記念館蔵)  魯迅  (々)  藤野厳九郎旧宅(芦原駅前へ移転された)
        
                                                 
 藤野厳九郎(ふじの げんくろう1874〜1945)は福井県あわら市の代々続く医家に生まれた。仙台医学専門学校(現在の東北大学医学部)の解剖学講師として着任、1904年に教授に昇格した。
 藤野厳九郎記念館(福井県あわら市)は1983年芦原町と中国浙江省紹興市との間で結ばれた友好都市を記念して坂井市三国町宿にあった藤野家旧宅を移築したものである。
 中国近代文学の父とされ
る魯迅(ろじん、1881〜1936,本名は周樹人(チョーシューレン))は1904年9月仙台医学専門学校に入学し2年間勉強した。魯迅はロシア人のスパイとなって銃殺される中国人に向かって万歳!を叫ぶ中国人が登場する幻灯を見て、今一番大切なのは医学よりも文学だと気付き、思想転換した。当時は日清戦争(1894〜1895)の後で中国を見下す風習が強い時期だった。しかし、藤野厳九郎は中国からやって来た魯迅に温かい指導・援助を惜しまず、中国に帰る際に別離を惜しんで写真を送ると魯迅はその写真を大切に書斎に掲げて怠惰の心がでると写真を仰いで発憤した。魯迅は藤野との温かい交流を生涯忘れることなく小説「藤野先生」を著した。中国に戻った魯迅は偉大な文豪・思想家として母国で指導力を発揮し中国の近代化に尽くした。著書に「阿Q正伝」、「藤野先生」、「狂人日記」、「小さな出来事」、「故郷」、「宮芝居」などがある。
※1904年は日露戦争が始まった年。

『藤野先生』(魯迅・松枝茂夫訳、旺文社文庫)                         
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 なんと私のノートは最初から最後まで、ぜんぶ赤を入れてあるではないか。たくさんのぬけたところを書き加えてあるばかりでなく、文法のまちがいまでいちいち訂正してあった。こうしてそれは、彼の担任している授業が終わるまでずっとつづけられた。
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(一九二六年十二月十二日)



(1)当時の大学や高等専門学校は、七月に学年が終わり、九月から新学年が始まった。
 (2)一四二人中、六六番。平均点六五・五(六〇点以上合格)。
(3)このノ−トはその後発見されて、現存している。
(4)聖人ではなく、正人。自ら正義派と称し、君子然とかまえて、ひたすら他人のあらさがしをするやからをいう。ここではかつて教育総長(日本の 文部科学大臣にあたる)をつとめた章士釧(チャンシ-チャオ)やその一派の北京大学教授 陳源(チェンユアン)などをさしていう。当時、魯迅はそういう連 中とはげしい論争をしていた。
 
 もう一人の藤野先生は藤野恒三郎(ふじの つねさぶろう、1907〜1992)であわら市出身の細菌学者である。大阪大学微生物病研究所長などを務めた。藤野恒三郎は藤野厳九郎の甥(おい)にあたり、祖父の藤野升八郎は大野藩の蘭学所で学んだ。1950年に集団食中毒の原因となる腸炎ビブリオを発見した事や適塾に関連する近代医学史の研究で知られる。当時の研究者は、病原細菌は19世紀のコッホやパスツ−ルの時代にほぼ発見され尽くされていると考えていたので、1950年に大阪で発生したシラス干しによる集団食中毒の原因が腸炎ビブリオという新種の病原菌だったことに驚いたという。