松平慶永(春嶽)春嶽の幕末伝  越前・若狭紀行
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慶喜と春嶽の絆を表す慶喜筆「西洋雪景画」(福井市立歴史博物館蔵)
1870年慶喜が春嶽に贈った。  
徳川慶喜(左)と松平春嶽(右)国立国会図書館蔵 
  第16代福井藩主・松平慶永春嶽(よしなが、1828〜1890、号は春嶽)は「江戸時代を通して類いまれな名君である」(司馬遼太郎)と賞賛された。慶永という本名よりも春嶽(しゅんがく)の号で知られる。幕末は一般に江戸時代末期の黒船来航(1853年)から大政奉還までとするのが一般的であるが御三家御三卿の出身者で幕末にここまで顕著な働きをした名君は珍しく幕末四賢侯の一人。 混迷する幕末に大きな事績を残した春嶽を手短には語れないが足跡をたどると変転を極めた混迷の幕末史が身近になる。  
ご案内参考資料 福井県史「幕末の動向」
 春嶽は1828年(文政11年)御三卿である田安斉匡(なりまさ)の8男に生まれ、それから第15代福井藩主・松平斉善(なりさわ、第11代将軍・徳川家斉の24男(22男?))の養子となった。将軍家から次の将軍を出せない時には御三家と御三卿(田安、一橋、清水)から候補者を立てたので、将軍になれたかも知れない点で福井藩初代藩主・秀康とも共通していた。福井藩は親藩筆頭と目されていたが田安家からは春嶽が将軍になれずに福井藩主になることに落胆の声もあがったという。

 
1838年(天保9年)第15代福井藩主・斉善(なりさわ、1820〜1838)が病没すると春嶽は同年11才で福井藩主に就いた(10月20日)。春嶽と同じ田安家出身で55人の子女をもうけた第11代将軍・家斉は伯父、第12代将軍・家慶は従兄弟にあたるなど福井藩は将軍家と深い関係にあり、必然的に生活は派手で出費がかさみ、しかも災害が多く財政は苦しかった。寛政の改革に取り組んだ名君の誉れ高い松平定信は従祖父。学識が深く優れた政治手腕を発揮した老中首座・阿部正弘の夫人・謐は越前松平家に縁があるなど、春嶽は幅広い知己を有した。
 しかし、福井藩は何かとごたごたが多く、秀康が初代福井藩主になった時に68万石を与えられた領地は一時25万石になり、その後加増されたとは言え春嶽が藩主に就いた時には32万石に過ぎなかった。

 春嶽が先ず手がけたのは破綻寸前の財政改革だった。32万石とは言っても実際には29万石に過ぎず、前の藩主の松平斉善は子だくさんで知られる家斉の子だったので贅沢だった。借金は90万石に達しそこへ毎年2万石余りの赤字を繰り返していた。そこで、藩政改革上の大きな障害になっていた保守派を罷免して財政改革を積極的に進め(1840年1月23日)、春嶽はそれまでの藩主手許金1000両を500両に半減した。
 藩主に就いた春嶽の食事は朝は一菜、昼晩は一汁一菜とし家中もこれに従うようにした。江戸城登城ではお供を減らし綿服にし、幕府への献上品を5ヶ年間停止することを願い出た。春嶽の入国に際して町衆からの献上品は厳正に町の役所へ分配し窮民救済に当てる、等の施策を推進した結果、前藩主の時代に120000両要した歳費が1855年(安政2年)には30000両となり際だった成果が出た。しかし、藩主が質素倹約を心掛ければ家臣達もそれにならい、領内の消費は冷え込むので倹約だけで財政再建はできなかった。

 1847年9月保守派の反対を押し切って、刀、弓矢、槍で編成した旧式軍制から洋式軍制への脱却を決断した。砲術師範・西尾源太左右門父子を高島流砲術家・下曽根金三郎に入門させ洋式砲術の習得に当たらせ、海岸線の防御を高めるために1849年から大丹生、糟、三国宿、安島などへ鋳造した洋式砲を配備、演習をした。
 1852年2月丸岡藩は坂井郡梶浦(坂井市三国町)に砲台を築造した。これは現在 丸岡藩砲台跡として国指定史跡になっている。原形をこれだけ良く留める砲台跡は全国的にも貴重という。

 1851年9月18日福井藩は種痘の接種を徹底するよう指示を出した。各藩も積極的に種痘接種に取り組んでいた。
 1853年6月3日、ペリ−率いるアメリカ艦隊が浦賀に来航して国内は騒然となった。この頃の春嶽は強固な攘夷論者であった。1853年6月9日福井藩は品川御殿山に藩兵を配置して警備に当たり、6月16日鯖江藩も警備のため江戸へ家臣を送った。同年6月福井藩は大砲を6門鋳造した。
 1853年9月福井藩は霊岸島の福井藩邸内で鉄砲師を招き洋式のゲ−ベル銃の生産を始めた。巨大な鋼鉄船に強力な大砲を備えて高速で進むリ−艦隊に対して火縄銃を持った藩兵が小枝のような小舟で警備に当たるのは漫画のような風景であった。幕府は大型船の建造を許可した。
 1854年12月23日安政東海地震が発生し、ロシアのディアナ号が大破して修理したがその後沈没したので1855年1月からロシアの設計図に基づいてロシア人の監督下で日本の船大工が3ヶ月で60人乗りの代船を完成させプチャ−チンを感激させた。これは日本が大型船の建造技術を修得する機会にもなった。
 1857年からは、それまでの細々とした鉄砲の生産体制を改め佐々木権六と三岡八郎(由利公正)を製造所の正・副頭取にして、志比口に鉄砲製造所、松岡に火薬製造所を建設して増産に努め、維新の頃までに7000挺の洋式銃を生産した。
 1857年老中首座・阿部正弘(1819〜1857)が亡くなり、将軍継嗣問題で同一歩調を取って来た阿部正弘の死は春嶽にとって打撃となった。優れた政治手腕を持つ阿部正弘は頑強な攘夷論者の水戸斉昭や公武合体、富国強兵を目指す島津斉彬らと協議しながら日米修好通商条約の締結を目指し、長崎海軍伝習所(後の日本海軍)、洋学所(東京大学の源流機関の一つ)を創設し、明治を開いた西郷隆盛らの人材を育てた。対立する困難な条件を克服して日米修好通商条約を成立させたアメリカの初代駐日総領事タウンゼント・ハリス(1804〜1878)は正弘の死を「日本の損失」として悼んだ。
 
阿部は「慶永の仲立ちによって」島津家の養女・篤姫(篤子、天璋院)を第13代将軍・家定の正室にすることにも尽力した。 ご案内    参考資料 福井県史
  又、1862年幕府が朝廷との融和を孝明天皇の妹・和宮が第14代将軍・家茂(いえもち)の正室に降嫁した時には小浜藩主・酒井忠義(さかい ただあき、1813〜1873)がその画策を主導し奔走した。 参考資料 福井県史

 1858年6月19日幕府は朝廷の許可が得られぬままに日米修好通商条約に調印した。勅許を得ずに調印したのは朝廷を無視した行為であるとの非難が高まったが、一方では貿易をして経済力を高め国防を充実して清国のように外国人から蹂躙されない国作りに努めるべきであるという議論も徐々に高まった。
橋本左内の献言もありこの頃から春嶽は開国、通商の方針へ思想転換した。

 1859年10月7日
橋本左内が将軍の後継ぎ問題で大老・井伊直弼と対立して26才の若さで斬首され(安政の大獄)、吉田松陰も10月27日に処刑された。積極的に献策し西郷隆盛、藤田東湖、武田耕雲齋、川路聖謨、青蓮院宮、岩瀬忠震ら多くの要人達の間を奔走して春嶽の政策実現に尽くした左内の死は春嶽にとって大きな衝撃だった。井伊直弼が主導した安政の大獄は国内に深い遺恨と亀裂を作りやがて急速に幕府崩壊へとつながって行った。直弼に対しては今なお独善主義者と開明主義者の両方の評価がある。
 1860年(安政7年)安藤信正(1820〜1871)は老中になった直後の3月3日直弼が暗殺される(桜田門外の変)と老中筆頭となり久世広周(くぜ ひろちか、1819〜1864)と直弼の強硬路線を修正し、1860年9月4日には春嶽の隠居・急度慎(きっとつつしみ、切腹に次ぐ重い処罰で家族との面会も禁じられる謹慎幽閉)を緩めた。信正は朝廷と公家が融和する公武合体路策を進めようと政略結婚を画策し、孝明天皇の妹・和宮親子(かずのみや ちかこ、1846〜1877)内親王を第14代将軍・家茂の正室に降嫁させた(1862年2月21日)。
 
 左内の死後、礼を尽くして熊本藩から招いた横井小楠が顧問として春嶽に近侍する事になったが、1860年福井藩内の意思統一の必要を感じた小楠は藩政改革の方針として「国是三論」、即ち、富国(生産奨励)、強兵(海軍力強化)、士道(文武強化)を打ち出した。小楠は藩主が先頭になって倹約するだけではなく、領民を豊かにするため農家の生産物を藩が直接買い入れて外国へ販売し、正貨(小判など)を得てそれを農民に支払う藩営貿易のシステムを作り、商人の利益独占を防いだ。時代を先取りした考えだ。
 小楠の考えを更に進めたのが由利公正である。由利が実行したシステムは、借金だらけの藩に当初、お金がないので藩札(福井藩が発行する紙幣)で生産者から品物を購入し、藩は長崎や横浜の藩営物産商会所を通して外国へ品物を売り正貨(小判など)を得てから、生産者は手元にある藩札を正貨に交換してもらう、というものだった。商会所では生糸、茶、麻、木綿、蚊帳地(かやじ)などを扱ったが、当時ヨ−ロッパで流通していた中国産生糸に比べて日本産生糸は品質が良いので予想外の莫大な貿易額に達した。オランダ商館に販売した生糸は初年度で25万ドル(100万両、当時の1ドル=4両)、更に北海道へ販売した総額は20万両余り、1861年(文久元年)末には取引した物産の総額は300万両に達し、福井藩の金庫には約50万両の正貨が貯蓄され福井藩の財政は劇的に改善された。外国では金1に対する銀の比価は約15だったのに日本では金1に対する銀の比価が約5だったので外国人は手持ちの銀を日本で金に交換するだけで約3倍の富になり、思わぬ財を得た富裕な外国人が多かった事も幸いした。

 1863年(文久3年)福井藩の財政再建を聞いた
坂本龍馬がその師・勝海舟の指示で来福し、勝海舟が進めている神戸海軍操練所建設の支援として福井藩から5000両の借用金を得た。高い見識を持つ海舟は外国から船を購入するだけでなく、操船技術を伝授する海軍操練所の建設が不可欠であることを常に力説していた。龍馬は福井藩主・春嶽や財政再建に豪腕を振るう由利公正とその師・横井小楠の存在の大きさを再認識して福井を去った。龍馬は数回来福し、由利らと酒肴を交え夜を徹して日本の将来について語り合った。後に由利は明治新政府の財政金融を担当(実質的には日本最初の財務大臣)するようになったが、そこに坂本龍馬の意向が強く働いていた。

 
直弼の強硬路線から安藤・久世政権の公武合体への方針転換はこれまで遠ざけられてきた外様大名を含む諸藩に幕政中央への参加機会を与える事になった。
 1862年3月薩摩藩の島津久光(藩主・島津忠義の後見役)は藩兵1000名を率いて上洛し朝廷に政治改革を建言した。1000名もの武装した軍隊が京都を経て江戸へ入るのは前代未聞の珍事だった。幕政の中枢は10万石程の中堅譜代大名から選ばれた老中に委ねられて来たが、幕末は彼らの力ではもう手に負えない時代だった。
 建言内容は、安政の大獄で処罰されている一橋慶喜、松平慶怨(よしくみ、尾張藩)、松平春嶽の謹慎を解き、慶喜を将軍後見職に、春嶽を大老にする事、公家、近衛忠煕、高司輔煕、高司政通、青蓮院宮を謹慎から解放する事、京都で過激な尊皇攘夷を唱えて狼藉や殺人を繰り返す浪人らを召し捕る事、等の命令を幕府へ出させるという内容だった。無位無冠ながら久光の胸には混沌とする現実を動かそうとする野望が秘められていた。間もなく、幕府は5月に春嶽を幕政に参加させるために江戸城登城を命じた。当時の久光は公武合体を目指し、5月23日に薩摩藩内で過激に走る尊攘派を殺害、捕縛して(寺田屋事件)朝廷から賞賛されこの上なく意気高揚していた。

 1862年7月9日春嶽は
政事総裁職(総理大臣、大老よりも上位)に就任した。この時、橋本左内は世を去っていて(1859年)春嶽の知恵袋として活躍したのは横井小楠(1809〜1869)で新しい国家の青写真とも言える「国是七策」を建言した。
1.将軍は上洛してこれまでの無礼を謝す。
2.参勤交代はやめて術職(藩内の状況を将軍に報告する)とする。
3.大名の妻子は国許へ帰す。
4.外様・譜代の区別なく有能な人物を抜擢して重要な政務に当てる。
5.大いに言論を広め公共のための政治を行う。
6.海軍を諸藩と共に創設する。
7.海外との交易を盛んにする。
 春嶽は「国是七策」を念頭に積極的に行動を開始した。
 春嶽は、第14代将軍・家茂(いえもち、1846〜1866)が上洛して朝廷に、これまで幕府のための私政や独善をわび 、朝廷に臣下の礼を取って尊崇の真意を示せば朝廷との間の信頼感ができて幕府の信頼が高まり安定した政治体制がもたらされると考えた。春嶽は参勤交代の負担を軽くして各藩が海防や軍備を増強するように仕向けた。
このような画期的な施策は譜代大名らで構成していた従前の幕閣ではできなかった。
 京都では過激な尊皇攘夷の名の許に狼藉や殺人を繰り返す動きが活発化していた。そこで、会津藩主・松平容保を京都守護職とし京都所司代、大坂城代、近国大名、新撰組、京都見廻組などを配下に置いて京都の治安を維持しようとした。

 1862年8月21日
これまで外様大名では関与できなかった幕政が大きく変わった事を確認した久光は江戸を出発して颯爽と帰国の途についた。所が、島津久光の行列が神奈川宿近い生麦村へさしかかった時、薩摩藩士がイギリス人・リチャ−ドソンらを死傷させる生麦事件を起こし、翌1863年7月の薩英戦争に繋がる事になった。 英・仏・米・露国などが日本近海にしきりに到来し、アヘン戦争(1840〜1842)に敗北した清国が南京条約(1842年)で莫大な国富を英国に奪われることになった経緯はすでに我が国にもたらされていた。松平春嶽は政事総裁職に就任して、直ぐに外国の強大な圧力にさらされる過酷な現実に苦しむことになる。

 1862年11月安政の大獄で対立した政敵への処分を実施した。井伊家へは32万石から10万石を召し上げて22万石へ、間部詮勝には1万石召し上げた上で永蟄居を命じた。更に、安政の大獄で処罰された人士の名誉回復を実施した。

 1863年(文久3年)3月、第14代将軍・家茂は第3代将軍・家光以来(1623年)になる朝廷へ参内した。朝廷に臣下の礼を取って尊崇の真意を示せば朝廷との間に信頼感ができて幕府の信頼が高まり安定した公武合体の政治体制が構築できると考えた。それにも関わらず、授与された勅書は、これまで通り政権は委任するものの幕府に攘夷を強く督促する一方で、国内の政治に関する政令は事柄によっては朝廷が出すという内容だった。これでは幕府の統治は行き届かず、将軍が参内によって幕府の権威を高めようとした当初の目的は達せられなかった。
 1863年3月21日外国人を追い払うよう強硬に攘夷を迫る朝廷との対立や生麦事件の処理など重要事案に苦悩した春嶽は政事総裁就任後9ヶ月で絶望して福井へ強硬に帰藩してしまった。開国した以上攘夷が不可能である事は自明であった。

 1863年6月福井藩ではこの様な政治状況の打開を目指して福井藩主・茂昭、前藩主・春嶽と藩士が揃って京に上って朝廷に藩意を上申しようという
挙藩上洛が議論されていた。福井藩の藩意の一つ目は、開国をしてしまった以上攘夷は出来ないので、各国代表を京都に呼び将軍や朝廷の代表とが一同に会して一部の港だけは閉じる等の話し合いをする事。二つ目の論点は、政治判断は朝廷が主導するが将軍や賢英の大名、更に列藩から俊英の藩士も招いて議論に加わる公武合体体制に移行する事であった。5月末には福井藩の挙藩上洛の決定に藩士達は大いに高揚した。しかし、複雑な情勢も絡む上に親藩家がする事ではない等の反対意見もあり挙藩上洛は中止された。将軍・家茂は5月10日の攘夷実行を朝廷に約束してやっと江戸へ戻る事ができた。幕府からは参勤交代の年なので福井藩が江戸に参府するよう督促が届いた。
 1863年8月11日春嶽に近侍してから(1858年)破綻寸前の財政を立て直すなどで藩政に大きな影響を及ぼした横井小楠は中根雪江と意見が対立し(6月4日)挙藩上洛の中止を聞いて大いに失望し熊本に帰ってしまった。幕末は藩内で激しい対立を抱えていた藩は多かったが
春嶽は反対派の前に最後の一歩を決断する事ができなかった。
 しかし、故郷の熊本はこれまでも小楠に対して冷淡で、士道忘却(1862年12月江戸で)を指弾する声も渦巻いて切腹を命じられる可能性さえあった。熊本に戻った小楠は福井藩からの嘆願もあって命は助けられたが士籍剥奪されて収入がなくなり1863年から1868年(明治元年)までの5年間近くを沼山津(ぬやまづ)でひっそりと生きたが、その間も収入のない小楠に福井藩や弟子達からの援助は絶えなかった。 

 毛利家は関ヶ原の戦いの頃は112万石の大藩であったが37万石に減封され、幕府に対する恨みは藩内にくすぶり続けた。尊皇攘夷派はどの藩にも存在したが安政の大獄(1859年)で刑死させられた吉田松陰の門下生が多い長州は幕府を毛嫌いする藩風が特に強かった。朝廷の許可を得ずに開国した違勅調印による混乱や貿易開始により急騰する物価やこの神州を我が物顔で闊歩する外国人を見て尊皇攘夷(尊攘)志士は激怒し、幕府ではなく天皇を奉じる社会にならなければならないと確信し一部は過激化し外国人を殺傷した。でも、その莫大な賠償金は主に幕府が支払った。
吉田松陰の影響が強い長州藩は尊皇攘夷の気風がどこよりも強かった。
 1863年5月10日長州藩は
幕府が5月10日を攘夷の期限と決めていた事を理由にアメリカ商船を砲撃、23日にフランス艦隊、26日にはオランダ艦隊を砲撃し長州藩の尊王攘夷派は勝利に酔ったが、直後の6月1日米艦・ワイオミングが下関沖に現れ庚伸丸(こうしんまる)と壬戌丸(にんじゅつまる)を撃沈、亀山砲台を破壊した。6月5日にはフランス軍艦2隻が長州藩の砲台を攻撃、約250名のフランス陸戦隊が上陸して砲台を徹底的に破壊した。たった3隻の米仏軍艦により長州藩の海防基地は消滅した。幕府が決定した攘夷を実行したのは長州藩と長府藩だけだった。
 1863年7月2日生麦事件の賠償を求めてイギリス艦隊が鹿児島湾に侵入して鹿児島城下の1割を焼失させる
薩英戦争(1863年8月15日〜17日)が起こった。しかし、軍備を近代化していた薩摩藩の反撃でイギリス旗艦・ユ−ライアラス号の艦長や副長が戦死し戦艦が大打撃を受けた英国と砲撃で大打撃を受けた薩摩藩は、賠償金として幕府から借用して英国に10万ドルを払った後これまでとは逆に互いに接近していくことになる。イギリスが力を入れたのは市場規模の大きな中国市場であった。

 1863年8月18日薩摩藩と会津藩らが中心となって、過激な尊皇攘夷を唱える三条実美達(七卿落ち)や
長州藩を京都政界から追放した。(八月一八日の政変) 一説には、長州の過激な尊皇攘夷派は倒幕も視野に祇園祭の前の風の強い日に御所へ火を放って孝明天皇を長州へ動座させようと画策したとも言われるが、1962年孝明天皇の妹・和宮は家茂に降嫁しており孝明天皇に倒幕の意思はなかった。

 1864年(文久4年、元治元年)1月4日第1回の
参与会議(参預会議)が開かれ徳川慶喜、松平春嶽、松平容保、山内容堂(豊信)、伊達宗城、更に過激な尊攘派を追放した島津久光が加わり朝廷と二条城に隔日に出勤して国政にあたる事になった。これは挙藩上洛して奏上しようとした福井藩の建言の一つである雄藩連合の基本の形であった。会議では神奈川港の鎖港、京都守護職などの案件があったが、慶喜と保容は外様大名(久光)を嫌って幕権の強化を目指す一方で、春嶽、容堂、久光、宗城は徳川の為の私政をやめて雄藩連合を目指すなど対立ばかりが目立った。慶喜は比類なき論客であくまでも徳川の立場を強調した。3月13日には春嶽はこの事態に深く絶望し参与の解任願いを出して2ヶ月で参与会議は崩壊した。 

 1864年6月5日京都三条木屋町の池田屋に潜伏していた30数名の長州藩と土佐藩の過激な尊攘派志士を新撰組の沖田総司、近藤勇、永倉新八、藤堂平助らが襲った。
(池田屋事件)過激派の主要人物である吉田稔麿(としまろ)や宮部鼎蔵(ていぞう)ら死者5名、路上で落命11名、捕縛者20余名にのぼり新撰組は大いに武名を挙げた。

 1864年7月19日池田屋事件に激怒した長州藩は、今度は軍勢を上洛させて京のあちこちで衝突し、強力な火器を使ったので京の町は二昼夜にわたって燃え30000軒の家屋が焼失した。御所にある九門の一つの蛤御門(はまぐりごもん)で長州藩は会津、薩摩、桑名、大垣藩の兵士や新撰組と衝突し長州の弾丸は御所へも飛んだので天皇の激怒を買い長州藩は朝敵となってしまった。福井藩は堺町御門で長州藩兵と激戦を交え軍監・村田氏寿は銃弾を受け重傷を負った。
蛤御門の変(禁門の変)である。戦陣に送られた鯖江藩百姓の不満と混乱の様子が福井県史に記されている。(外部サイト)
 1864年7月23日幕府は長州藩への徹底的な制裁を決定して第一次長州征伐(第一次征長の役)を発した。征長副将は福井藩主・松平茂昭で
福井藩は8ヶ月間もの戦役に莫大な軍事費を使い、領民は食料や軍用資材の供出や運搬などを命じられて苦しんだ。9月2日福井藩は長州出兵のために藩内から6000人もの人足を出した。征長総督参謀は西郷隆盛で、この時にはまだ幕府軍に加わっていた。西郷は莫大な支出と犠牲を出して人々を苦しめる戦いを早く終わらせるために、禁門の変の責任を取らせて長州藩の3人の家老を切腹、4人の参謀を死罪にするよう主導し重要な役割を果たした。外国が日本の内政に干渉しないようにする上でも戦いを早期終結させる必要があった。
ご案内 禁門の変や第1次長州征伐の様子は福井県史に詳しい。    図説福井県史 近世の33

  1864年8月5日から7日にかけて英仏米蘭の四カ国連合艦隊の17隻に下関と彦島を砲撃され長州藩は大打撃を受け過激な攘夷行動をとって来た
長州藩は連戦連敗を重ねて存亡の危機に立った。しかし、坂本龍馬は幕府に対抗できるのは薩摩と長州だけだと考え両者を結びつけて新しい日本を創る薩長同盟を推進しようとした。薩摩藩は当初、藩の指針が一統ではなかったが西郷隆盛や大久保利通らは幕府への強硬論を持っていた。
 1865年(慶応元年)龍馬は長崎で亀山社中を創り海運事業を始めた。1865年アメリカの南北戦争終結で武器が値下がりしていて、長州藩は薩摩藩名義でイギリス商人・グラバ−等から莫大な金額に上る新式銃、火薬、弾薬を購入し、亀山社中に料金を払って薩摩の船で長州に運んだ。龍馬は商売上手だった。薩摩と長州の絆は徐々に強まり
薩長同盟は1866年1月21日(慶応2年)成立した。その直後の1月23日龍馬は伏見奉行の襲撃を受け(寺田屋事件)、お龍の急報で危うく逃れ伏見薩摩藩の保護を受けた。翌日、薩摩藩は伏見奉行から龍馬を引き渡すよう要求があったが拒否した。

 1865年5月16日第14代将軍・家茂は
第2次長州征伐のため江戸を進発した。長州藩は密貿易をして外国から銃や大砲を購入している疑いがあるという理由であった。しかし、大名も万民も苦しむ戦いに対して越前、尾張、紀州など多くの藩が反対し、今回は長州に接近していた薩摩藩の西郷や大久保利通は反対に回った。
 春嶽は莫大な出費に藩も領民も苦しむ事や欧米列強から様々な圧力を加えられている時に国内の対立抗争は避けるべきだと朝廷や幕府に力説し、慶喜に長州再征伐の不可を力説した(1865年3月27日)。
 1866年6月7日江戸を出てから1年以上もたって幕府軍は火縄銃や槍・刀で武装した10万の大軍で長州へ攻め込んだが高杉晋作が率いる最新の軍備をした奇兵隊や大村益次郎の南園隊などに次々と破れた。
長州藩は士気が高く薩長同盟により新式の武器を装備していたが一方の幕府軍の兵士は早く帰藩したくて土産物を買っている者までいるなど士気が低く軍用金も著しく欠乏していた。幕府は7月20日大坂城で家茂が21才で病没したのを口実に休戦へ持ち込んだ。諸藩は膨大な出費に苦しみ、豪商に何百万両もの軍資金供出を命じながら一つの藩すら屈服させられない幕府の非力さが明白になり人々は徳川の終わりを実感した。戦さのために1年で米が1.5倍程に値上がりし他の商品も値上がりして特に畿内の庶民の生活は逼迫しあちこちで打ちこわしや百姓一揆が起き社会不安が高まった。福井藩は神戸の警備(1866年4月25日)を、丸岡藩は兵庫の百姓一揆の鎮圧にあたった(1866年5月8日)。
      
 1867年5月上旬から薩摩藩が主導する
四侯会議(四賢侯会議)が開かれ松平春嶽、山内容堂(豊信)、伊達宗城、島津久光が参加した。薩摩藩は幕府を更に弱体化して朝廷中心の政治体制にしようとするので対立ばかりが目立ち5月下旬に解散した。いつまでも外様としての立場でしかない薩摩藩は倒幕にかじを切っていた。一方、春嶽は大政奉還するが、天皇を中心として徳川家を筆頭として有力な藩からなる雄藩連合体制を目指していた。

  1867年10月14日慶喜は大政奉還を朝廷に上奏したが、朝廷は直ちに政権を運営できる筈がなく実権は徳川家が握る事になるだろうと考えていた。
 1867年(慶応3年)11月15日福井藩とも深い繋がりを持った坂本龍馬は蛸薬師下ルの近江屋で襲撃を受け中岡慎太郎と共に殺害された(近江屋事件)。10月14日慶喜が大政奉還を天皇に上奏し翌15日に天皇が勅許して間もなくの事件だった。
幕府にとって薩長同盟と大政奉還を強力に推進した龍馬は幕府を消滅へと導く大敵だった。大政奉還後も京都の警察権は幕府が行使していて、襲撃の実行犯は幕府の組織である京都所司代配下の京都見廻組であるとの説が有力である。由利公正が足羽川(あすわがわ、福井)の土手を歩いていた時に突風が公正を襲い龍馬からの手紙を紛失した。龍馬が京都で暗殺されたのはその時だったという話が今に伝わる。
 
偉大な足跡を残した幕末の英雄・坂本龍馬は僅か3週間後の王政復古の大号令を聞かずに世を去った。

 1868年1月3日(慶応3年12月9日)明治天皇の御前で岩倉具視が
王政復古の大号令を発令して、幕府制廃止とこれまでの朝廷の官職を廃止し、総裁、議定、参与の三職を施政の中枢組織とした。同日、福井藩からは議定に春嶽、その後、参与に中根雪江、酒井十之丞、毛受鹿之介、由利公正らが最終的に選ばれた。
 9日明治天皇の御前で
小御所会議(こごしょかいぎ)が開かれた。岩倉具視、西郷隆盛、大久保利通(一蔵)らは当初から慶喜を将軍職から除き幕府の領地を朝廷に返納させる辞官納地を行って徳川幕府を徹底的に破壊して、朝廷が全権掌握する事を目論んでいた。西郷らは慶喜を無収入の浪人にしようとした。これに対して松平春嶽や山内容堂は、慶喜を首班として諸侯と公卿からなる上院と有能な藩士や平民からなる下院を置く公議政体を構想していた。
 議定・中山忠能(なかやま ただやす、明治天皇の外祖父)が開会の挨拶を済ませると、山内容堂が「大政奉還して王政復古に至った功労者の徳川慶喜を参加させないのは不公平であり朝議に加えるべきである」と怒気を込めて詰問した。春嶽も「江戸二百数十年の太平は幕府の功績であり内府を出席させるよう」主張すると、岩倉は「幕府は皇室をうとんじ勅許を得ずに外国と条約を結んで社会を混乱させ多くの有能な人士の命を奪った。慶喜は先ず官位を辞し領地を朝廷に戻すべきで、朝議への参加はその後である」とやり返した。
 
西郷隆盛には幕府に対して強い遺恨があった。度重なる自然災害下であっても諸藩の窮乏化を狙った参勤交代や江戸表の藩邸を維持する容赦ない莫大な出費を強いられ、安政の大獄で追求されてると隆盛は清水寺の月照と共に鹿児島湾に入水自殺を図り月照は亡くなり隆盛は溺死寸前で引き上げられた。1754年(宝暦4年)には薩摩から遙か離れているにも関わらず、毎年氾濫を繰り返していた木曽三川の工事(宝暦治水,外部サイト)を命じられ1755年までに40万両を越えるとされる巨額の工事費を投入した上に84名もの藩士の命が失われた。命懸けで築いた堤を夜陰にまぎれて破壊するなど幕府の嫌がらせは執拗で33名は病死、51名は幕府への抗議を込めた自害という凄まじい工事だった。莫大な負担は藩の商人や貧しい領民へ押しつけられた。
 激論の末、春嶽と徳川慶勝が、慶喜に自ら辞官納地を申し立てるよう伝える事になった。翌10日朝、春嶽が踏み込んだ二条城は薩摩に戦いを挑まんとする会津藩、桑名藩、旗本の遊撃隊らの怒気と殺気がきみなぎり春嶽は今にも殺されかねない状況下に死を覚悟した。慶喜は春嶽らの助言を受け武力衝突を避けるため12日に兵士達を率いて二条城から大阪城へ向かった。
 その後、事態は複雑に動いた。薩摩藩は幕府の領地と権力を全て奪う幕府体制の徹底的破壊を狙っていたが、春嶽と徳川慶勝があっせん役を務めたために、新政府の経費は全国諸藩(薩長なども含む)が石高に応じて負担する事になり、
天皇を最高君主として慶喜が政治の最高執行者になる公議政体が成立した。岩倉具視も三条実美も朝幕間で和解して公議政体を立ち上げる事に異論はなかった。これは慶喜、春嶽、慶勝、後藤ら佐幕派が絶妙に仕組んだ勝利であり、彼らは喝采を叫んで喜びにひたり、30日に春嶽らは慶喜の辞官納地の受け入れ受諾を朝廷に届けた。
そして、新しい政権下でもこれまで通り慶喜が最高執権者として政治を動かす事になるであろうと考えていたが、それは西郷の思いとは著しく違ったものだった。

 この時に事態が急変した。12月23日江戸城二の丸が全焼し、薩摩藩の仕業だという見方が流れた。
25日それに激怒した庄内藩兵は江戸の薩摩藩邸を焼き討ちし、28日急報を聞いた大坂城の会津藩と桑名藩の怒りも爆発し一気に薩摩藩討伐に向かい始めた。それは「最後は武力で決める」と確信して最新兵器を整えてきた西郷の思うつぼだった。
  
 
1868年1月3日(慶応4年、明治元年)天皇を最高君主として慶喜を政治の最高執行者にするという春嶽らの提唱する公議政体が成立しようとしていた矢先、この様に事態は激変し鳥羽・伏見で戊辰戦争が始まってしまった。
 5日錦の御旗を掲げて最新兵器を揃えた薩摩長州軍の前に朝敵になった旧幕府軍は戦意をなくし惨敗した。
 6日慶喜は大阪城大広間で決戦宣言をしたが、夜には松平容保(かたもり)らと大阪城を出て7日朝に開陽丸で江戸に逃亡し取り残された幕府軍も江戸に逃げ帰り、7日に慶喜征討令が出された。
 2月12日慶喜は新政府の議定・春嶽、勝海舟、和宮(静寛院宮)らを通して朝廷に恭順の意を表し江戸城を出て上野寛永寺へ移った。春嶽は新政府の実力者・岩倉具視や天皇側近・中山忠能らに内戦拡大の阻止を働きかけた。
 3月14日江戸城総攻撃は中止されたが慶喜の屈辱的な恭順の姿勢に反発する一部の徳川家の家臣達は以後も戦い続けため、これに対して福井藩は新政府から越後口へ出兵を命じられた。9月22日に会津藩は降伏して戊辰戦争は一応終わったが、更に戦場は東北、北海道へと移った。ご案内福井県史 戊辰戦争への出兵
 1869年5月箱館で土方歳三は戦死し 旧幕府海軍副総裁・榎本武揚らは新政府軍に降伏した。蝦夷開拓の実績があった大野藩は箱館戦争へ出兵を命じられて出征兵150名中11名もの戦死者を出す熾烈な戦いに直面した。
 ご案内   福井県史 大野藩の出兵

 1869年(明治2年)1月5日京都御所での勤務を終えた横井小楠が丸太町付近で暗殺された。橋本左内、坂本龍馬、横井小楠が相次いで不運な最後を遂げ春嶽は深い悲しみに襲われた。
 1869年太政官札を発行して財政金融を担当した由利公正は太政官札の流通難や偽札問題に直面して辞任した。後任の大隈重信が新たに導入した明治通宝(ゲルマン札)も色あせや贋札が絶えなかった。
 1869年7月8日政府の組織改革が行われ2官6省とし、春嶽は民部卿に、大蔵卿(8月11日)も兼任した。その後間もなく薩長土肥(さっちょうとひ)の倒幕藩出身者が躍進するようになり、1870年全ての官職を辞し春嶽が活躍した舞台は終った。新政府内部の覇権争いで薩長は著しく勢いを伸ばしていた。鎖国を止めて開国する、藩札を発行して福井藩の財政を改善する、参勤交代を止める等、松平春嶽に日本の未来を語って福井藩や幕府に重大な影響を与えた橋本左内、坂本龍馬、横井小楠はもうこの世の人ではなくなっていた。明治新政府に横井小楠ほど開明的な思想家はいなかった。小楠は勝海舟、坂本龍馬、由利公正に大きな影響を与えた。
  1874年板垣退助、由利公正、江藤新平らは、広く会議を興し・・・と言いながら薩長出身者らが主要部門をほぼ独占する明治政府を激しく批判して民撰議院設立建白書を政府に提出した。

 杉田定一(すぎた ていいち、1851〜1929)も民権を求めて板垣らと共に国会開設運動に加わった。北海道庁長官(1898年)、衆議院議長(1906年)。金津から三国までの三国鉄道敷設に力を入れて芦原温泉や坂井郡の発展に尽力、風水害の多かった九頭竜川、日野川、足羽川の改修工事を国策として推進したが政治活動に私財を投入して清貧の晩年を送った。
     
 禁門の変(蛤御門の変、1864年、元治元年)で福井藩・薩摩藩・土佐藩・宇和島藩らと長州藩が激戦を交え軍監・村田氏寿が銃弾を受け重傷を負った堺町御門 地図案内強力な火器の投入で京都は3日間に30000戸が焼け、御所へ発砲した長州藩に朝廷は激怒し、同年7月24日第一次長州征伐が始まった。8月28日福井を進発し1865年3月7日帰藩するまでの8ヶ月間に藩は莫大な軍事費を費やし領民は苦しんだ。福井県史(外部サイト)  鷹司邸跡に立つ巨木(手前)と堺町御門(向こう)
三国大学(幽眠、1810〜1896、坂井市三国町出身)は豪商で儒学者。1838年鷹司家の侍講に。橋本左内と交流し将軍を一橋家から出すように鷹司政通・輔煕に働きかけ重要な使命を履行したが直弼と対立し処分された。  
     
 現地案内板  蛤御門 中央の松の木の向こうに来島又兵衛が戦死した付近のムクの巨木 向こうの山は大文字山     地図案内 
   1862年3月(文久2年)薩摩藩の島津久光(薩摩藩主・島津忠義の後見役)は藩兵1000名を率いて上洛し、朝廷に政治改革を建言した。内容は、安政の大獄で処罰されている松平春嶽らの謹慎を解き、春嶽を大老にする事などだった。
  御三家・御三卿に次ぐ親藩筆頭格で橋本左内、横井小楠、由利公正らの献策を元に進んだ藩政改革を進め、広い人脈を持つ春嶽の中央政界への進出には多方面から大きな期待があった。春嶽は横井小楠の献言を基に、参勤交代をやめて術職(藩内の状況を将軍に報告するだけ)とする、大名の妻子は国許へ帰っても良い、外様・譜代の区別なく有能な人物を抜擢して重要な政務に当てる、等これまで譜代大名中心の幕政では実行できなかった次元の違う政策を直ちに実行した。


 『最後の将軍』(司馬 遼太郎、文春文庫)                                          
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ここに、 一人の行動家がいる。
「いかなる犠牲をはらっても、一橋卿を将軍世子に押し立てねばならぬ。それ以外に救国の道がなく、それが実現せねば日本は潰(つい)えるしかない」
 と説きまわり、持っているかぎりの人力と財力をつかってその運動に没頭している男がある。むろん、慶喜が頼んだわけではなく、それどころか、慶喜はその男についてほと知るところがなかった。
 松平春嶽である。
「越前少将」
 と通称されている。のち安政ノ大獄で隠居を命ぜられ春嶽と称し、むしろそのほうの名で、後世記憶されている。
 春嶽松平春嶽は、越前福井三十二万石の藩主で、田安家から出て十八歳で襲封した。養子である。ついでながらこの時代、養子大名のほうが一般に能力があり、行動的であった。それに春嶽ほどの聡明な大名は三百年来、類がすくないであろう。春嶽はペリー来航前にすでに藩の洋式化に着手し、藩財政を米穀依存から産業中心主義にきりかえていた。民政家としても進歩的で、領民に種痘をさせて天然痘による死亡を一挙に減少させている。
 その気質は書生くさく、書生といえば、大名というより、理想に燃えた政治書生というべきであろう。
 ただ、それほどの開明家でありながら、思想的にはあくまでも水戸風な攘夷主義者で(のちに変貌するが)、外国の侵略に対して、居ても立ってもいられぬほどの危機感をもっている。
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 ・・・春嶽の政事総裁職は新設の職であった。老中の上にあって幕政を総攬する。つまり首相にひとしく、従来の大老のようなものであった。春嶽は辞退した。春嶽の家来たちも、
――御家に対する侮辱である。
として受諾に反対した。徳川家の行政は、始祖家康いらい、譜代大名がこれを担当することになっている。商家でいえば番頭であった。ところが越前福井三十二万石の松平家は徳川御家門の筆頭であり、井伊、本多、酒井などといった徳川家の番頭大名ではない。春嶽が政事総裁職になることは、商家でいえば主筋の者が番頭になりさがるようなものであった。春嶽は何度も辞退したが、ついに拒みきれず、受けた。

    将軍後見職   一橋刑部卿慶喜
    政事総裁職   前(さきの)少将松平春嶽
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 この年、九月一日、幕府はその外交方針を決定しなければならなかった。前代の井伊直弼が列強の武威に屈して結んだ安政仮条約を踏襲するか、それとも京都朝廷の至上命令ともいうべき攘夷を断行(安政仮条約を列強に対し一方的に破棄し、それによっておこるであろう戦争を敢然として遂行)するか、二者いずれかをとらねばならなかった。幕府としては前者(開国)をとれば国際社会に忠実であっても京の朝廷に不忠になり、国内の攘夷世論の総攻撃をうけねばならず、後者(攘夷論)をとれば条約の一方的破棄として列強の軍事攻撃をうけ、ついには日本は列強に分割され、植民地化されざるをえない。

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 『天翔ける』は松平春嶽(春嶽)を描いた歴史小説である。春嶽は多くの人と出会った。

『天翔ける』(葉室麟、角川書店)  
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「実は勝先生は神戸に海軍操練所を造り、諸藩の士に海軍の修業をさせようと思うちゅうがです」
「そのことは聞いている。将軍家は四月二十一日に大坂城に向かい、順動丸に乗って大阪湾を巡航されたそうな。そのおりの艦長が勝安房であったゆえ、艦上で海軍操練所創設のお許しを得たらしいな」
「ところが先立つものがありませんきに、越前福井藩にお願いに行けと言われたがです」
龍馬のあけすけな話を聞いた小楠が、木彫りの面のような顔をわずかにしかめて、
「それで、どれほど入用だと勝殿は言われているのですかな」
と訊いた。龍馬は間髪をいれずに答えた。
「五千両――」
春嶽は落ち着いてうなずいた。
「わかった。五千両出そう」
間をおかずに五千両もの大金を出そうと言ってのけた春嶽の器量に龍馬は驚いて目を丸くした。
「こりゃ、たまらん、びっくりしたぜよ」
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※非常に大まかな目安としては一両=100000円。
 1868年1月3日(慶応3年12月9日)明治天皇の御前で岩倉具視が王政復古の大号令を発令すると、同日早速小御所会議が開かれた。そして、激論の末、春嶽と徳川慶勝が、慶喜に自ら辞官納地を申し立てるよう伝えに行く事となった。その後も事態は複雑に動いた。

『明治天皇』 (杉森 久英 人物文庫)
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 議論が続いて、両派に疲労の色がみえて来たので、天皇は休憩を宣した。
休憩の間も、それぞれの間で論争が続いたが、やがて後藤象二郎が芸藩の辻将曹に説得されて、意見を変え、容堂、春嶽に説いたので両侯の考えも変わった。辻の説得は、薩藩の兵力をちらつかせるなど、多分に脅迫の気味があった。
 休憩がすんで、ふたたび会議がひらかれたが、容堂も春嶽も、もはや、前説を固執しなくなったので、結論は簡単に出た。決定はつぎの二点である。
  一、慶喜辞官のこと
  二、納地のこと
 将軍職については、さきに慶喜の方から拝辞(はいじ)を申し出たのに、しばらく待つようにとの勅諚だったが、改めて受納になった。以後は前将軍、前内大臣となるわけである。
 納地が問題である。・・・・・
・・・・・・これで家臣を養い、天下に威を張っている。それを差し出せどいう。丸裸になれということである。
 この決定を慶喜に伝達する役は、尾張の慶勝と、越前の春嶽に命ぜられた。二人は徳川の分家である。分家の主人公が、本家の主人公に破産を宣告にゆくわけである。
徳川もナメられたものだ。

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