笠原白翁 天然痘と闘った人   TOPに戻る       越前・若狭紀行
                                                             
 
 
   笠原 白翁
 
福井市立郷土歴史博物館蔵無断転載禁止  笠原白翁の墓所(福井市田ノ谷町)  地図案内

 笠原白翁(かさはら はくおう、笠原良策とも、1809〜1880)は京都の日野鼎哉(ていさい)の門下に入り蘭方医学の研究に没頭した。天然痘は日本には8世紀に進入し、恐るべき感染力で幾たびも大流行を繰り返しておびただしい人命を奪ってきた。
 
1796年、イギリスのジェンナーは牛も天然痘にかかり人間にもうつるが、その場合、症状が軽く発病しない上に一度かかると一生天然痘にかからない事に注目し種痘に成功した。長崎で種痘が成功を収めていることを知った白翁は、1849年オランダ人医師オットー・モーニッケのもたらした液状の痘苗(とうびょう)を入手した。鎖国下日本で名君の誉れ高い松平春嶽に牛痘苗の輸入を嘆願してから3年の歳月が流れていた。その間、私財をなげうっての苦闘の連続であった。
 液状の牛痘苗(ぎゅうとうびょう)で成果が出なかった白翁は次に保存性の高い牛痘(ぎゅうとう)のかさぶたを使うと今度はみごとに発痘(はっとう)させることに成功し、日野鼎哉(ひの ていさい、1797〜1850、シ−ボルトに学んだ蘭方医)らと共に京都に種痘所を設けた。京都で100名以上の子供に種痘を済ませた頃、その噂を耳にした名医の緒方洪庵も大阪に種痘を広めるために白翁を訪れている。しかし、京都で成功を収めた種痘も、
福井では痘苗をうえつける恐怖が先に立つなど多くの困難が立ちはだかった。

雪の花(吉村昭、新潮社)」                         

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 しかし、このような祈祷(きとう)をあざわらうように天然痘にかかって死亡する者は増すばかりだった。各町村では、感染を恐れて天然痘で死んだ者を一刻も早く家から運びだす習慣があり、そのため死者の出た家では、死者を棺におさめ、大八車を走らせる。貧しくて棺も買えない家の死者は筵(むしろ)でつつまれただけなので、顔や手足がむき出しになっていることもあり、その死体の顔や手足には、青ずんだ吹き出物がひろがっていた。
  
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