丸岡藩砲台跡         越前・若狭紀行
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  江戸時代末期、欧米列強は中国へ進出し、更に幕藩体制が動揺する鎖国下の日本に開国するよう迫って来て日本海沿岸にも緊張が高まっていた。丸岡藩砲台(福井県坂井郡三国町)はペリ−来港の前年1852年沿岸を警備するため丸岡藩によって建設された。海上へ突き出した海岸線上に弓状に築かれた高さ1.8mの土塁には5個の砲眼が4.5メートル間隔で設けられている。著名な砲術家であった高島秋帆(たかしましゅうはん)に教えを受けた栗原源左衛門らが設計して、南常太郎らが建設に携わったとされるが、当時の丸岡藩の財政は窮乏を極めた。原形をこれだけ良く留める砲台跡は全国的にも貴重であり、丸岡藩砲台跡は東京の品川台場などと共に国指定史跡となっている。 1853年浦賀にペリー来航、1854年には日米和親条約が結ばれた。 地図案内
土塁に開けられた砲眼 砲台の外側
  日本海を隔てた大陸との位置は飛行機で僅か約1時間の距離に過ぎない。日本海側唯一の戦闘機部隊を有する小松基地に所属すると思われる戦闘機の編隊が丸岡藩砲台跡の上空に飛来し、隊形を変えて小松方面に飛び去った(右の写真)。都会では滅多に見られない風景だ。