コシヒカリ物語            生まれは新潟  育ちは福井      越前・若狭紀行
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   晩生(おくて)の「農林22号」を母、早生(わせ)の「農林1号」を父として戦中の1944年新潟県農業試験場の高橋浩之技師が人工交配に取り組んだ時からコシヒカリの物語が始まる。

 自然受粉は、モミガラがわずかに開き6本のおしべがわずかに顔をのぞかせて開花し始めるやいなや花粉を包んでいたおしべの袋が破れて雌しべに花粉が降りかかり、やがてカラが閉じて受粉は終わる。一方、稲の人工交配は「温湯除雄法」と言い、穂を43℃の湯につけると雄しべは死滅するが雌しべはじょうぶなままである事に注目して、元気な「農林22号」の雌しべに「農林1号」の花粉を降るかけるとその後モミのカラが静かに閉じて受粉は終わる。
 戦時中なので栽培に詳しい人たちは次々と戦地に赴いてしまった。相撲で大けがをした高橋浩之は2ha(1haが普通の野球場一つ分の広さ)に植えられた20万本の1本1本を草丈、穂数、茎の状態、病害虫、出穂期(しゅっすいき)はいつか、など毎日何回もていねいに見て回った。2haの田を中腰になってはいずり回ると10km歩いた事になり、しばしばめまいであぜ道に座り込んだ。
命を削るような努力があっても優良な品種は12万本に1本くらいだった。
 初代のコシヒカリは味は良いが背丈が高いので倒れやすくイモチ病に弱いという大きな欠点を持っていた。  かくして、新潟県では脚光を浴びることなく、全国から新しい品種をほしがっていた設立間もない福井県農事試験場(後に福井県農業試験場)に「くれてやる」ことになった。当時の農林省幹部までが「捨てるものがあったら福井へやってくれ」と言っていたという。所が、石墨慶一郎率いる福井県農事試験場ではその系統から「ホウネンワセ」のような大物品種を生み出した。更に、コシヒカリ(この当時はまだ越南17号と言われていた)は、兵庫南部沖地震までは戦後最大の地震だったマグニチュード7の福井地震で実験所の建物は全壊、用廃水路や農道までもが崩壊したのに、建物の下敷きにもならず、早めに植えられていたので浮き稲にもなることなく、数々の幸運に恵まれて品種が固定された。育成されたコシヒカリは倒れやすくイモチ病に弱かったが味は極上で収量も多かった。
 
 
コシヒカリを最終的に品種固定したのは石墨慶一郎率いる福井県農事試験場というのは定説であり、コシヒカリは福井で育ったと考えられる。

   一度見放されたコシヒカリが再び新潟県に戻ると、今度は杉谷・新潟県農事試験場長の「栽培法の工夫により克服される欠点は致命的ではない」という英断により一転して新潟県の奨励品種に抜擢される事になった。
 
コシヒカリの安定栽培法は、室内育苗施設で丈夫な稲を作って早植えし梅雨前に必要な茎数を確保する。その後、田の水を切り田面がひび割れするほど中干して稲株の間に溝を作る事で根の一部を切って窒素の吸収を減らす。その反面根に酸素を供給する事で、かえって根が丈夫になり、軟弱徒長に生育しやすい梅雨を健康体で乗り切らせる。そして下部節間や上位の葉の徒長に影響が出なくなった出穂18日前頃から追肥を与え、光合成作用を高めてでんぷんを作らせるというものだ。

   新潟県全体の作付け面積は1996年に72.7%、魚沼地方では94.5%に達するするに及んで、短期間に収穫時期が集中するとカントリー・エレベーター前にトラックやトラクターの長い列ができ徹夜の作業にもなる上に風水害が襲えば同じ成長段階の稲が全て被害を受けるなどの弊害を避けるために新潟県ではコシヒカリの作付け面積を減らす指導に乗り出した。しかし、上級品種でも寿命は10年と言われる中でコシヒカリは1956年に誕生して実に半世紀以上たった今も全国の栽培面積のトップクラスの地位にあり、コシヒカリの後継種については今のところ見当も付かない状態が長年続いてきた。
現在、幾つかの新しい品種が生まれているがどれもコシヒカリの系統である。参考になる外部サイト(農林水産省)

   「国境の長いトンネルを抜けるとそこは雪国だった」と紹介された所が新潟県魚沼地方で、「世紀の大銘柄」と評価されるコシヒカリの中にあって更に普通米の2倍の価格で取り引きされることもある「魚沼コシヒカリ」の産地だ。魚沼地方は平均50a位の兼業農家が多く、5〜6万トン程度の出荷能力しかなくその希少価値も手伝って1俵32000円という普通米の2倍の高値を付けたことがある。魚沼地方がコシヒカリに向いているのは美しい水、さわやかな風そして昼の温度上昇による光合成作用ででんぷんがたくさんできるが夜は気温低下が大きくて休眠状態になるからだ。

 数々の偶然でこの世に現れたコシヒカリだが、ホウネンワセやコシヒカリという世紀の大品種育種の成功による賞賛と栄誉に輝いたのが石墨慶一郎(1921〜2001年5月6日)福井県農業試験場長。コシヒカリ物語の関係者の中では『日本人名大辞典』(講談社)にただ一人石墨の名前が刻まれた。

 一方、痛惜の念に堪えないのは、炎天下に中腰でめまいを起こしながらたんぼをはいずり回りながらコシヒカリの交配実験を続けた新潟県農業試験場の高橋浩之主任技師が1962年53歳で他界した事や、コシヒカリの父に当たる「農林1号」を育成した功績で姫路の農事試験場に栄転した並河成資主任技師が新しい任地で手掛けた小麦育種がはかどらないのを苦に1937年に自殺するという痛ましい運命をたどるなど、コシヒカリという偉大な品種の育成に文字通り身を捧げた2人がコシヒカリの栄光を見ることなく他界している事である。並河技師が「農林1号」を世に出し、高橋技師がそこから越南17号を育て、石墨達が品種を固定してコシヒカリができた。
                           参考資料 『コシヒカリ物語』(酒井義昭  中央公論社)