常高寺 福井県小浜市小浜浅間1番地    越前・若狭紀行
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常高院墓塔 お初画像(常高寺蔵) 豊臣秀頼 淀殿ら自刃の地(大阪城公園) 
 お初(1568?〜1633)は父が浅井長政、母が信長の妹・お市の方で三姉妹の二女として生まれ小浜藩主・京極高次(1563〜1609、92000石)の妻となった。姉が秀吉の側室・淀殿(お茶々、二の丸殿、西の丸殿、淀君は後世の呼称)であり、妹が第二代将軍・秀忠の正室・お江である。お初は夫・高次が没すると常高院と称して剃髪し仏門に入ってしまい歴史の舞台から姿を消した。
 
 その後京都・方広寺の梵鐘の銘「国家安康・君臣豊楽」をきっかけに起こった1614年大坂冬の陣で、お初が家康に和睦の使者を申し出ると家康は、秀頼の参勤交代、大和へ国替、淀殿を江戸へ人質として差し出す、等を和解の条件として示した。お初が再び歴史の舞台に現れたのがこの時で
お初の調停により大坂城の外堀を埋める事で和解が成立した。それにもかかわらず内堀まで埋められた大坂方の憤怒により1615年に起きた大坂夏の陣でもお初は和平と姉・淀殿の救助を目指して豊臣・徳川間を幾度も往き来した。しかし、淀殿と秀頼は幾度にもわたる家康の裏切りについに妥協する事はなかった。お初が姉・淀殿に最後の別れを告げて大坂城を去ったのは1615年4月7日、大坂城落城は翌8日だった。秀吉(1537〜1598)没後17年で豊臣家は消滅した。
                                  露と落ち露と消えにし我が身かななにはのことも夢のまた夢(太閤秀吉)     

 お初は1573年に幼くして滋賀・小谷城落城で父・浅井長政を亡くし、1583年福井・北の庄落城ではそれまで堅く結び合って暮らしてきた母・お市の方の自決を目のあたりにし、更に結婚相手の高次が47才で亡くなくなるという不運を乗り越えてお初64才(66才?)で京極家江戸屋敷で亡くなった。遺骸は江戸から木曽路を越えてはるばると若狭に帰り常高寺裏山で荼毘に付され、若狭湾を見下ろす高台で7人の侍女に守られながら静かな時間を送った。

   常高寺の門をくぐって驚くのは建物の立派な事である。沢口輝禅住職に案内されて入った大部屋には江戸時代中期の狩野派の名手・狩野美信筆の書院障壁画が目に入り、展示室には京極高次とお初の掛け軸が大切に保存されている。お初の妹婿は徳川家なのでさぞかし徳川家からの支援も大きかったのだろうと思いきや連絡しなかった事もあり、京極家から多少の支援があっただけという事だった。住職に就いて10年余りでよくぞここまでと再び感心させられた。

 小浜湾を見下ろす景観が美しく、
NHK連続テレビ小説「ちりとてちん」の撮影場所(外部サイト)になった。

 以下は常高寺由緒書き。
  「常高寺は、江戸時代初期の小浜藩主京極高次の妻、常高院(お初の方)(信長の妹お市の方の次女)の発願によって建立された寺であります。寛永七年(一六三〇年)に建設に着手し、小浜出身の槐堂周虎(かいどうしゅうこ)禅師を迎えて開山としました。常高院は寛永十年、江戸にて没し、その遺骸は後瀬山麓にある常高寺の境内地に葬られ、四メートルに及ぶ宝筐印塔が建てられ現存しております。常高院が寄進した近江国長田村の三百石の寺領に対しては、将軍家光を始め、代々の将軍より、御朱印状が下賜されました。又、京極家やその後を継いで小浜藩主となった酒井家よりも保護を受け、江戸時代から明治にかけては大変隆盛を誇り明治期には多くの禅界の逸材を輩出しました。
 明治以降、寺領は没収され、又、京極家よりの庇護もなくなり、寺は次第に衰運に向かい、大正十二年には本堂焼失などの災難が続き、戦後の農地改革では寺の田畑も失って、ついに無住の寺となり荒れるに任せておりました。が、近年になり、次第に再建の気運が高まり、平成二年より新住職のもとに再建に着手しております。」
 
常高寺本堂 方広寺梵鐘(京都市)