一乗谷朝倉氏遺跡 日本遺産 越前・若狭紀行
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信長打倒の機会を幾度も逃して滅ぼされた戦国大名 朝倉義景の居城
 
東西の山の隔たりが80mの所に築かれた防衛施設の下城戸     10〜40トンの石が使われている  
 
義景館跡の唐門(からもん) 一乗谷朝倉氏遺跡  大きな写真はこちらへ 復原町並
 
     
記念碑 義景公墓所 女性達が住んだ諏訪館跡庭園は特別名勝
館跡は東西南北80m 下城戸(下木戸)と土塁 敵の侵入を阻む土塁と濠
付近は名所史跡が豊富な観光スポット。 福井の歴史探訪はJR福井駅からのレンタカ−が便利。県内の渋滞は僅かで、格安のレンタカ−が利用できる。ご案内
明智神社(NHK『麒麟がくる』、当地から3km)
盛源寺(佐々木小次郎の師・富田勢源の菩提寺、直ぐ近く)
高善寺(最有力の佐々木小次郎生誕伝承地、NHK『武蔵MUSASHI』、同13km)

永平寺(曹洞宗の聖地、道元禅師開創寺、同11km)
吉崎御坊(浄土真宗の聖地、蓮如の里、同40km)
越前和紙の里(和紙生産1500年、15km、外部サイト)
花筐公園(第27代・安閑天皇、第28代宣化天皇誕生地、越前和紙の里から1km、外部サイト)
称念寺(光秀に有縁の寺、新田義貞墓所、同25km)
丸岡城(現存天守12城、同23km)
大野城(福井の小京都、同21km)
福井城(春嶽や忠直の居城、同12km、JR福井駅前)

天皇堂(継体天皇関連の伝承地、同25km)
劔神社(信長の先祖が神官だった社、同28km)
福井県立恐竜博物館(国内最大、同35km)
勝山スキ−ジャム(5800mの滑走コ−ス、同38km)
西山公園(日本の歴史公園100選、同19km)
平泉寺白山神社(日本の道百選、同35km)
北前船主の館・右近家(浅野らと日本海上保険 創業(損保ジャパン日本興亜)、同34km、外部サイト)
  一乗谷朝倉氏遺跡(福井市城戸内町)は戦国時代を代表する遺跡で、京都と同じように街の中央を一乗谷川が流れ最盛期に人口は10000人に達し越前の政治経済文化の中心地として「北の京」とも言われて繁栄した。我が国で唯一の戦国時代城下町跡として注目を集め、農地は国が買い上げ1971年(昭和46年)城下町を囲む山城の一乗谷城跡を含む278haが国特別史跡に指定された。数珠屋、紺屋、鉄砲鍛冶屋、鋳物屋、左官屋などの遺物や調理、化粧、武器、将棋などの遊戯、暖房、茶、明かり、生花、文房具、石仏など生活用品も出土した。中級武士の屋敷や染物屋など10棟の建物は出土した礎石をそのまま使って復原したので当時にタイムスリップしたような気になる。学術上も貴重な遺跡で未発掘の所もありこれまでに出土品2000点以上が重要文化財になっている。
 尚、一乗谷川上流にある一乗滝で
佐々木小次郎がツバメ返し(号は巌流、?〜1612)をあみ出したと伝わる。
ご案内参考資料 明智神社     福井県図説(人々の生活2)    福井県図説(戦国大名朝倉氏)
福井県朝倉氏遺跡資料館(外部サイト)
 
館跡(やかたあと)は東西南北80m、東は山で西南北は4mの土塁に囲まれ、常御殿、主殿、会所、蔵、武者溜などの建物跡が見られる。 唐門(からもん)は朝倉攻略に参加した豊臣秀吉が、伏見城にあった唐門を朝倉家の菩提を弔うために寄進したという言い伝えがある。 諏訪館跡庭園(すわやかたあとていえん)は義景の愛妻・小少将の館跡に造られた見事な物である。しかし、信長の侵攻で朝倉本家が滅ぶと(1573年)一乗谷の城下町は徹底的に破壊され焼き尽くされて廃墟となり草深い野原と化した。それから400年余、そのままの姿でかつての遺構が発掘されかつての姿を偲ぶ事が出来るようになった。 
 

 
朝倉家略記 朝倉家は当初、福井平野の北にあった黒丸城(くろまるじょう、福井市黒丸町)を居城としていた。黒丸城主初代は越前朝倉家の祖とされる広景(ひろかげ)で初めて越前に移り住み、2代・高景(たかかげ、1314〜1372)、3代・氏景(うじかげ)、4代・貞景(さだかげ)、5代教景(のりかげ、1380〜1463)、6代・家景(いえかげ、為景)と続いた。2代・高景は1333年(正慶2年=元弘3年)足利尊氏の倒幕に加わり斯波高経(しばたかつね)の配下として越前に入りその後越前守護代になった。 
 黒丸城主6人と一乗谷城主5人で11人の城主名が残っている。朝倉家には教景など同名が幾人もいるのでややこしい。

 更に、1471年家景の長男・敏景(としかげ、教景、孝景、英林、1428〜1481)は戦いが続いた戦国時代に黒丸城を離れて自然の要害に囲まれて防御に適し以前から関わりがあった一乗谷に居城を構え初代の一乗谷城主となり家訓「朝倉敏景十七箇条」を残した。2代・氏景(うじかげ)、3代・貞景(さだかげ、1473〜1512)、4代・孝景(たかかげ、法名は宗淳、1493〜1548)、5代・義景(よしかげ、1533〜1573)と続き一乗谷に移ってから織田信長に滅ぼされる(1573年)まで5代103年にわたって栄華を誇った。
 1506年(永正3年)
孝景の8男・教景(幼名は金吾、宗滴、1474〜1555)は貞景、孝景、義景3代の参謀を務め九頭竜川の戦いでは11000程の朝倉勢で30万(?)を越える一向一揆を鎮圧して勇名を残した。加賀では1488年富樫氏が滅び「百姓の持ちたる国」になると一揆勢は次に越前を狙ったが宗滴が率いる頑強な朝倉勢はその都度、一揆勢を押し返した。
  1555年越後の上杉謙信(1530〜1578)と結んで加賀・能登の一向一揆を両方から攻めてせん滅しようとして戦いは有利に展開したが宗滴は8月に病没してしまった。しかし、間もなく一揆側と和平が成立、以後10余年は平和な時代が続くことになる。
宗滴は一生戦い続け朝倉家を繁栄に導いて没したが23才の義景は大きな支柱を持たずに戦国を生きなければならなかった。

 一乗谷には応仁の乱で荒れ果てた京を逃れて1479年連歌師・宗祇が来訪、1532年に招かれた名医・谷野一伯(たにのいっぱく)が一乗谷で『八十一難経』と『図経』という医学書を出版した。三段崎安指は谷野一柏の養子となって三崎玉雲軒と称し医薬を職として朝倉家が滅亡すると北の庄へ移り住んだ。1542年(天文11年)『日本書紀神代巻抄』で知られる清原宣賢(きよはらの のぶたか、1475〜1550)が来訪するなど、一乗谷には200人もの公家、学者や僧侶が来訪し「朝倉文化」が栄えていた。1556年頃明智光秀もやって来た。光秀がセヰソ散(生蘇散)という傷薬を処方する知識を持っていたと指摘されるが朝倉家は京の先進文化を積極的に吸収して一乗谷は元々医薬の先進地だった。
ご案内 福井県史「武田・朝倉の文化」
 1567年(永禄10年)10月には義秋(覚慶、1537〜1597)が下向し、翌年一乗谷で元服して義昭と改めた。
  義景の力で上洛する望みを持って一乗谷に入った義秋を義景は厚くもてなし上洛を契って連日盛大な宴を催した。 
         もろ共に月も忘るな糸桜年の緒長き契と思はば(義秋)
         君が代の時にあひあふ糸桜いともかしこきけふのことの葉(義景)
   義景(1533〜1573)は風雅を愛する人だったが戦国の時代は戦う事で生き残れた時代である。応仁の乱で焼け野原となった京を嫌って集まってくる一流の文人墨客を集め、文化の爛熟を堪能し宴会に明け暮れる義景を配下の武将達はどのような思いで見ていただろう?義景に見えるのは武者としての雄々しい姿ではなく、毎晩のように盛大な宴を張り、朝倉100年の名門意識に浸り京に憧れて貴族的・文人的な趣味嗜好に熱中する姿であった。天下統一を目論む信長が日に日に勢力を伸ばしつつある情勢下にあって
軍備・兵力の強化に努めるべきだったが文人墨客を迎えて莫大な財を費やしていた。貴族文化に憧れて消滅していった平家を思わせるところがある。足利氏も貴族化して力をなくしていた。
 京の都では第13代将軍足利義輝1536〜1565)が松永久秀と三好義継の奸計で自害したために将軍は空位のままで、松永らは義昭の従兄弟の義栄(よしひで、1538〜1568)を将軍に就ける動きに出ていて義昭の焦燥はつのっていった。実際、義栄(1568年 9月病死)は義昭に先立って1568年第14代将軍として7ヶ月だけ将軍位に就いた。
 
 1568年(永禄11年)7月朝倉家内が一統でなく義景に上洛の意志がないのを確信した義昭は一乗谷に8ヶ月過ごしただけで信長の許へ走った。 朝倉家内では女性達の争いが絶えず義景の長男・阿君丸(7才)が毒殺され義景は嘆き悲しんだ。

 1568年9月義昭がだらしのない義景の許を去ってその僅か2ヶ月後、信長は義昭を第15代将軍に擁立して京に入った。義景に従っていた武将達は京の都へ晴れやかに上洛する夢を絶たれ、朝倉家の落日を予感したに違いない。 義昭擁立に関心があったのは織田以外に毛利、島津らの大名もいたが彼等とて自分が天下人になりたいという野望を持っているだけの事であった。

 
1569(永禄11年)信長は義昭の名で全国の大名に京都へ来て新将軍の義昭に挨拶をするよう命じたが義景にとって京へ行く理由はなかったが、信長にとっては狙い通りでここに朝倉討伐の理由ができてしまった。
 
1570年(元亀元年)4月信長は越前に侵攻を始めた。信長が敦賀の金ヶ崎城を攻撃すると予期せぬ事に背後から浅井長政が攻めたので挟み撃ちに遭い命からがら僅かな家来を連れて朽木(くつき)街道を敗走し京に戻った義景は信長を倒す絶好のチャンスを逃した。信長を助けた朽木元綱(くつき もとつな、1549〜1632)は関ヶ原の戦いの後に朽木荘9500石を与えられた。秀吉、家康、光秀らも帰京した。お市の方が両端を結んだ小豆袋を届け挟み撃ちの危機を知らせたというが伝承ともいう。
 同年5月19日見張りの厳しい関ヶ原の主要道を避けて岐阜に戻るために千種街道(ちくさかいどう、滋賀県)を進んでいた信長は鉄砲の名人・杉谷善住坊に20m程の至近距離から銃撃されたが偶然に2発とも外れた。
 1570年6月28日朝倉・浅井と信長・家康が戦った
「姉川の戦い」は激戦になり双方に大きな損害を出したが、特に家康軍は朝倉軍に打撃を与え大太刀で知られる真柄重郎左衛門など朝倉軍は多くの勇将が命を落として朝倉勢の衰退が始まった。織田軍は秀吉も家康も参戦したのに、一方の朝倉軍に義景の姿はなかった。翌29日横山城(長浜市)も陥落し兵士は逃亡した。
 
1570年9月朝倉・浅井軍は信長が朝倉軍の南下を阻むために交通の要衝に築いた宇佐山城(滋賀県大津市南志賀町)を攻撃して森可成(もり よしなり、1523〜1570、森蘭丸の父)や織田信治を敗死させた。危機を知った信長が比叡山麓の坂本へ急行したが比叡山の僧兵も朝倉・浅井勢に加勢して旗色が悪いため正親町天皇に仲裁を頼み岐阜へ戻って行った。この時は信長を倒す絶好のチャンスだったのに義景は再び踏み切れなかった。比叡山の加勢は翌1571年比叡山が焼き討ちされる事に繋がってしまった。
 1572年信長は浅井長政を攻撃する動きを見せ浅井・朝倉軍と幾つかの戦闘があった。しかし、義景の家来の前波善継(まえば よしつぐ)と富田長繁(とみた ながしげ)が信長軍に降伏するなど浅井・朝倉軍の士気はもう急速に低下していた。
 10月武田信玄は家康を討伐するため甲府を発進して二俣城(静岡県)を攻め落とし信長に対して共に戦うよう朝倉、浅井、本願寺へ伝えてきた。しかし、12月義景は又もや越前に帰国してしまい信長を挟み撃ちにする機会を逃してしまった。信玄は激怒したという。義景は信長を倒す絶好のチャンスを又もや逃した。
 1573年(元亀4年、天正元年)4月信長にとって東方の脅威だった
武田信玄が病没するという衝撃的事件が起きた。信長包囲網の中で特に大きな存在だった信玄の死は極秘にされたが織田・徳川軍は諜報活動を活発にして察知していた。
  1573年7月信長が近江に侵攻する動きがあり浅井長政から緊急の加勢依頼が義景に届き従兄弟の朝倉景鏡に出陣を命じたが病気を理由に、溝江長逸(みぞえ ながはや)も疲労と休養を訴え両者とも拒否した。朝倉軍の士気の低下は明らかで浅井長政の部下にも寝返りが目立っていた。7月17日義景は一乗谷を発ったが小谷城を見下ろせる大嶽城(滋賀県長浜市、google map)や丁野城を守っていた平泉寺宝光院、斎藤刑部少輔らが織田軍に降伏してしまった。
 1573年8月20日信長軍に攻め込まれたので義景は一乗谷を捨てて賢松寺(福井県大野市)まで落ち延びてきたが最後は従兄弟の朝倉景鏡に裏切られて自刃した。 

 文弱の戦国大名が信長を相手に七転八倒した様子が伝わってくる。
    
七転八倒 四十年中  無他無自 四大本空    1573年(天正元年)8月20日 義景 の辞世
※しちてんばっとう しじゅうねんのうち たなしじなし しだいもとよりくう。万物を構成する地水火風の四大は本来実態のない空。
 1574年正月、信長に仕える諸将が集う新年の酒宴に珍奇の肴が出された。これが朝倉義景、浅井久政、浅井長政の頭骨を漆
塗りした上に金粉をかけたものであったと信長公記(しんちょうこうき)は伝える。
  朝倉家その後 朝倉本家は滅びたが一族で残った朝倉景鏡(かげあきら、?〜1574)は自害した義景の首を府中龍造寺(越前市)の信長の陣営に届けさせ、土橋信鏡(つちはし のぶあきら)と改め信長の陣営に加わったが翌年一向一揆に攻められ自害した。
 朝倉景嘉(かげよし)は1573年か1574年頃、朝倉家の再興を目指して以前に宗滴と同盟した(1555年)越後の上杉謙信の許に赴き信任を得る事に成功した。
しかし、謙信は没し(1578年)その後景嘉の消息は不明となる。
 朝倉景忠(かげただ)は1575年織田軍が越前に再侵攻した時は鳥羽城(福井県鯖江市)に立てこもり一向一揆の力を利用して柴田勝家・丹羽長秀軍と対峙し、落城後も景忠は抵抗を続けたというが以後消息は不明。
 
名歌手だった島倉千代子は義景の子孫で家系図も所有しており時折福井へ墓参していたという。彼女は義景の子孫であるという確信を持っていたようだ。所で、皇室が貧乏を極め誰も皇室に関心を持たなかった戦国時代の1535年、孝景が第105代・後奈良天皇の即位費用の一部を献金した所以で1915年(大正4年)になって朝倉家に正四位が贈位される事になると全国から8名が朝倉家子孫の名乗りを挙げて福井県庁に出頭したが判断できず贈位御沙汰書は菩提寺の心月寺(福井市)に保管されているという。彼女が義景の子孫とは公認されなかったのだろうか。
 更に、
岡倉天心が出た「岡倉家の祖先は、戦国時代に北国に勢威を張った戦国武将・朝倉義景の一族で、当時は朝倉姓であったが、徳川時代に岡倉と改めて松平家に仕えた」(『人物叢書 岡倉天心』(吉川弘文館))という。
 
 芸術を愛した朝倉家に関わる話として違和感はない。