曹洞宗永平寺      曹洞宗の聖地     越前・若狭紀行
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 唐門。豪雪地帯にある永平寺境内は700年の風雪に耐えた杉の巨木が生い茂る。参考資料(永平寺の巨木)
 
   永平寺(福井県吉田郡永平寺町)は1244年道元(1200〜1253)によって開創された道場で、10万坪の土地に樹齢700年に達する鬱蒼とした老杉(ろうさん)で囲まれた七堂伽藍を中心にした静寂の霊域である。
 道元の父は鎌倉の内大臣・久我通親(こがみちちか)、母は藤原基房の娘・伊子(いし)であったが3才で父を亡くし8才で母に死別した。13才で出家し24才で仏の道を究めるために宋に渡り、天童山で生涯の師・如浄(にょじょう)に出会った。

 卓越した論理能力を持って真理を求めた貴族出身の道元の教えは、
ひたすら厳しい座禅に集中する只管打坐(しかんたざ)である。焼香も儀式・礼拝も省き南無阿弥陀仏を唱えるだけで身分の低い民も極楽往生ができると説いて大衆の熱烈な支持を得ていた念仏宗を顧みなかった。しかし、新田義貞、朝倉、信長、勝家などの武将が次々ともたらす戦乱と支配・収奪・暴力・恐怖、そして貧困・飢饉・病苦・ひでりや暴風雨・肉親との繰り返される離別などに苦しむ民衆の心に貴族出身の道元の厳格な教えは届かず曹洞宗は越前に多くの信者を獲得することなく、越前に教線を広げたのは浄土真宗だった。永平寺は修行道場の性格が強かった事も関係したようである。
 それでも東西本願寺の末寺が全国に各10000寺程度(計20000寺弱)であるのに対して永平寺の末寺は現在15000寺という盛大なものである。大伽藍の造営や年間100万人の観光客を迎えることは道元の目指すところではなかったが永平寺に参拝する人は絶えない。

 道元の教えはとにかく難しいが残した和歌は一転して分かりやすく道元が身近に感じられてくる。「
春は花夏ほととぎす秋は月冬は雪さえてすずしかりけり」は川端康成がノーベル文学賞受賞演説の冒頭で日本の心の代表的思想として引用した。
                                         
水鳥の行くも帰るも跡たえてされども路はわすれざりけり
                        
春は花夏ほととぎす秋は月冬は雪さえてすずしかりけり(道元)     

 1253年、病を得た道元(1200〜1253年)が病気治療で京に上る時、都までの随伴を熱願する徹通ら高弟に本山の守護を厳命して、木ノ芽峠で越前国に別れを告げた。それは徹通や越前国との今生の別れであった。万感の思いを込めた別れの歌が伝わっている。道元は再び木ノ芽峠に姿を見せることはなかった。関連記事 木ノ芽峠   関連記事
街道をゆく (司馬遼太郎、朝日文庫)                             
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 大宋宝慶二年丙戍(へいじゅつ)春三月のころ、夜間、やや四更(しこう)になりなんとするに、上方に鼓声三下(くせいさんげ)きこゆ。坐具をとり、搭 袈裟(たつけさ)して、雲堂(註・僧堂)の前門よりいづれば、入室牌(につしつはい、註・入室せよという掲示)かかれり。

 僧堂で寝ていた修行僧道元が、太鼓の音にとびおき、袈裟を肩にかけながらいそぐ姿が目に見えるようである。どの人も、法堂(はっとう、講堂)をめざしていそぐ。道元も、衆に従っていそぐ。ところが法堂ではなく、法堂の西壁をつきあたって、寂光堂()じゃっこうどうへゆく。寂光堂という名の方丈があったらしい。天童山がいかに多くの建物を持っているかがこの叙述でも察せられる。衆は、その寂光堂にも入らず、その西の階段をのぼり、西壁に沿ってやがて大光明蔵(だいこうみょうぞう、方丈の名)に至り、その西の階段をのぼる。このあたりで、道元は衆からはぐれてしまったらしい。
 (この大光明蔵で待つのか)
 と思っていたが、 一僧も見あたらない。道元はとりあえず焼香礼拝し、堂外に出ると、大方丈である妙高台(みょうこうだい)の方角から、如浄(にょじょう)大和尚の法音がきこえてきた。道元が足音を忍ばせて妙高台に入ったところ、すでに僧たちが堂に満ちていた。道元は「ひそかに衆のうしろにいりたちて聴取(ちんしゅ)」した。
 このとき、如浄の弟子でのちに道元のあとを追って日本に来る洛陽うまれの寂円(じゃくえん)も、この不時の法座につらなっていたはずである。

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松岡古墳群 振姫一族の墓     越前・若狭紀行
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二本松山古墳からの眺望  鍍金冠(現地資料より)  鍍銀冠(現地資料より) 
 
  松岡町(福井県吉田郡松岡町)にある松岡古墳群(まつおかこふんぐん)は九頭竜川が福井平野に出ようとする付近の山々で発見された古墳群を指し、50基前後の円墳、方墳、前方後円墳から成っている。この中には北陸では第2位の規模を持つ全長129mの手繰ケ城山古墳(4世紀中期)も含まれる。標高273mの二本松山山頂にある二本松山古墳(にほんまつやまこふん、五世紀後期)は全長90mの前方後円墳で後円部から2つの石棺が見つかっている。

 特に、1906年に見つかった2号石棺からは、
金銅冠(こんどうかん、金メッキをした王冠、国立博物館蔵)、銀銅冠(ぎんどうかん)、かぶと、鎧(よろい)、刀、玉が見つかった。朝鮮半島では国王クラスの人が儀式や外国の使節に会う時にこのような王冠を被る風習があり、越の国に朝鮮の文化や風習がいち早く入ってきた事を証明する2個の王冠は貴重な物である。奈良に戴冠の風習が入るのはその1世紀後で、継体天皇の孫の崇峻天皇を葬った(592年)とも同じく継体天皇の孫の穴穂部・宅部両皇子(あなほべおうじ、やかべおうじ)を葬った(587年)とも推測される藤ノ木古墳においてである。
 
二本松山古墳の被葬者としては、豪華な埋葬品や規模から、継体天皇の母の振姫(ふりひめ)やその兄の都奴牟斯君(つぬむしのきみ)、など継体天皇にきわめて近い人であろうと推定される。
 2個の王冠は東京国立博物館にあるが、地方の物を何でも東京へ持って行ってしまうのは如何なものだろうか?東京で展示すればより多くの人々の目にとまるからというのであれば、地元にも展示館を建て1年交替で地元と東京で保管・展示してはどうだろう?東京の一極集中を廃し地域おこしが大切だというのであれば尚更であろう。


 福井平野と九頭竜川を見下ろす二本松山古墳からの眺望は素晴らしく、継体天皇に深い関わりを持つ三島古墳群(大阪市高槻市)を思わせる。
 二本松山古墳へは登山道が整備されているが、40〜60度の心臓破りの階段が3カ所もあり、立ち止って休めばたちまちヤブ蚊が群がってくる。熊に注意という看板もあり、夏は水分補給用の水筒が不可欠。しかし、頂上には爽やかな北風が吹き付け日本海までの展望が広がり、季節によっては清楚な笹ゆりが心を和ませてくれる。