鯖江市北陸一の古社・舟津神社 邪馬台国鯖江論   近松門左衛門有縁の地 
                                     
 
 50000本のツツジの名所で知られる西山公園        日本の歴史公園100選       TOPへ 

  鯖江市は室町時代に開かれた誠照寺(じょうしょうじ、初めは真照寺と称した)の門前町であった鯖江荘が始まりで、300年程前は北国街道に沿った寒村だった。間部家の祖は間部詮房(まなべ あきふさ、1666〜1720)である。間部詮言(鯖江藩初代藩主、まなべあきとき、1690〜1724)は詮房の実の弟であったが詮房の養子となって間部家の家督を継いだ。1720年に越後(新潟県)村上からその間部詮言が5万石で入封して鯖江藩が成立した。
  この様な歴史的な縁で1981年から新潟県村上市と姉妹都市となり、スポ−ツ等を通して交流を深めている。 

 間部家の祖・詮房は、もと能楽師・喜多七太夫宗能(むねよし)の弟子である。強固だった当時の身分制度を超えて大名となり、第6代将軍・徳川家宣(いえのぶ、1662〜1712)の老中格側用人(そばようにん)として高崎藩主(5万石)に上りつめた異色の人である。新井白石と共に「正徳(しょうとく)の治(ち)」を進めた。その後5歳で将軍についた第7代将軍・家継(いえつぐ、1709〜1716)が病没し、治世が第8代将軍・吉宗(1684〜1751)になると直ちに越後村上に移された。 権力者が変われば権勢を振るった側近が更迭、失脚、或いは左遷されるのは世の常であり新井白石も同様だった。
  1840年には第7代藩主・詮勝(あきかつ、1804〜1884)の時に幕府から鯖江城築城を許され準備が開始された。長泉寺山頂(112m、ふもとが西山公園)に天守を置き40000本のツツジの名所で知られる西山公園一帯から誠照寺、北国街道付近にまで及ぶ計画であったが、飢饉や財政難などで鯖江城は実現せず、第9代藩主・詮道(あきみち、1853〜1892)の時に廃藩置県を迎えてしまった。 
 間部詮勝は寺社奉行、大坂城代、京都所司代という幕府の要職を経て1840年老中となった。1843年辞任、1858年老中に再任されて安政の大獄に深く関わったが京都所司代・酒井忠義の手で梅田雲浜などは既に逮捕されていた。勅許なしで日米修好通商条約を結んだ件はやむを得ない状況だったので直弼の責任は問わないという朝廷からの許しを得たが、1859年12月井伊直弼と対立して辞任した。間部詮勝は左内を死罪にする直弼の独断に対して激しく反対したという。地元に気を配り西山を開発して
嚮陽谿(きょうようけい)という公園にして領民に開放した。幕末の「傑物の一人」(青園鎌三郎)で波乱に富む人生を送り1884年81才の長寿を全うした。

 

 街道をゆく 18越前の諸道(司馬遼太郎、朝日文芸文庫)       

・・・・・ 鯖江などというのは五万石の城下町であることと、明治後、金沢の第九師団の隷下としての歩兵第三十六連隊のあった町としての認識しか私になかったが、近年、鯖江のパンがうまいという話をしばしばきくようになった。文化の肥えた地というのは、うまいパンをつくる才能を生むし、それを支持して育てるひとびとにも事欠かないのである。

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 私どもは、おかみさんに要らざる気くばりをさせつづけているようだった。彼女は素姓の知れぬ一団を三階へあげたものの、果たして払いは大丈夫なのかどうか、ともかくも鑑定すべくあがってきたのかもしれなかった。
「うちの父さんの父さんは近衛にとられたんだよ」ともいった。戦前、村で近衛兵にとられるというのは、よほど人格、志操が堅固な壮丁にかぎられていて、いわば一門一家のほまれともいうべきものだった。(ひょっとすると、彼女は、衛生関係の役人が内偵にきたのかと思っているのではあるまいか)とも私のほうで、勝手推量した。しかし私どもの一座は、須田画伯以下、衛生関係や宮内庁の役人にふさわしい人物など一人もおらず、まして衛生状態を内偵できるような気のきいた者はいなかった。結局、私どもは寄席から出てきたような気分のよさで、路上にもどった。しかも、みごとなすしだった。
 さらにいうと、勘定は信じがたいほどに安かった。材料なども、地元の魚だけでなく他のものも多かったから、その値でひきあうのだろうかとかえって不安だった。
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 7代将軍・家継の生母月光院に仕えて権勢をふるった大奥年寄の絵島(1681〜1741、江島とも書く)は、1741年月光院の名代として前将軍・家宣の墓参のため奥女中らを連れて徳川家の菩提寺である寛永寺、増上寺へ詣でた。その帰り芝居小屋・山村座に立ち寄り帰城が遅れた事から山村座の役者・生島新五郎との密会を疑われた。拷問にもかけられたが自白せず、絵島生島事件として世間の大きな注目を集めた。幕政を握る学者・政治家 新井白石と側用人 間部詮房が二人で協同して、激しく対立する幕閣や譜代大名を相手に政権運営する一場面を描く。
 
『市塵』(しじん、藤沢周平、講談社文庫)                          
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「御生母さまの勢力を削ぐ、ということですか」
 鍋松が将軍家継となるにしたがって、生母である月光院の大奥における勢力は肥大し、相対的に家宣御台所だった天英院、側室の法心院、蓮浄院らの権威は低下した。
そして力関係のその急激な変化は、大奥の中に月光院とその周囲に対する嫉視と憎しみを生み出したことを、むろん白石は承知していた。
 月光院がもっとも信頼する年寄絵島を、法廷に引き出して罪人の極印を打つことが出来れば、それは月光院が誇る権力に対する一大打撃になるはずだった。
 白石がそう言うと、間部はうなずいた。そして、低い声で狙われているのは御生母だけでなく、この間部、そしてそこもともだと言った。
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絵島の墓所(蓮華寺、外部サイト)は1916年田山花袋が発見するまで忘れられていたが、その後、絵島を慕う歌舞伎関係者により整備された。
  舟津神社(鯖江市舟津町1−3−5)は 『延喜式神名帳』(えんぎしきじんみょうちょう)に記載された式内社(しきないしゃ)。北陸一の古い歴史を持つ古社であり大彦命(おおひこのみこと)を祀る。中世には斯波氏や朝倉氏の崇敬を受けた。  

『日本書紀』の崇神天皇(すじんてんのう)の条文には有名な四道将軍(しどうしょうぐん)派遣の記述が見られる。
 以大彦命遣北陸 武淳川別遣東海 吉備津彦遣西道 丹波道主命遣丹波 
 即ち、
 朝廷は大彦命(おおひこのみこと)を北陸に遣わし、武淳川別(たけぬなかわわけ)を東海道に、吉備津彦(きびつひこ)を西道(山陽道)に丹波道主命(たにはのみちぬしのみこと)を丹波(山陰道)に派遣し、もし朝廷の命に従わぬ者がいれば兵を差し向けて征伐せよとの勅令を出した。
第10代崇神天皇の時代には四道将軍、更に第12代景行天皇になると日本武尊(やまとたけるのみこと、倭建命、小碓命)らの西征や東征により大和朝廷が更に支配を広めた記録が伝わる。
 

 
大彦は敦賀から丹生郡宮崎村に入り、舟で当地に着いたので舟津と言われるようになった。従わぬ賊を討つために祈るとどこからともなく「佐波乃矢」(さばのや、鯖の尾に似ていた)が飛んできて賊将に当たりこの地を平定する事ができたので鯖江という地名になったというという。当時の北陸は大彦が遠征しなければ大和朝廷に臣従しない地域であった。舟津神社(ふなつじんじゃ、鯖江市舟津町)は、大和朝廷の勢力の進展をかいま見る事ができる。更に、大彦命と武淳川別は次第に北に向かって進み、再会した所が現在の福島県・会津であり、会津の語源になったという。
 

 しかし、古代史学者の直木孝次郎氏は「第10代崇神天皇の時代の大和朝廷は、近畿地方のわずか一部を掌握した程度の勢力に過ぎなかったのでその様な遠征軍を派遣する力はなかっただろう」と疑問を呈される。

 尚、ずっと時代が下り658年(斉明天皇4年)には越国守・阿倍比羅夫(あべのひらふ、?〜?)は日本海沿岸を北上して北海道に到り蝦夷(えみし)や粛慎(みしはせ)を討ったとされる記録を残した。阿倍比羅夫は地図などなかった時代に、果敢に北上して北海道を越え樺太から奥尻まで遠征した。その後、662年中大兄皇子の命で百済救援のため朝鮮半島へ向かったが、663年新羅と唐の連合軍に大敗した(白村江の戦い)。安倍氏は越の地方豪族とも、中央豪族の安倍氏の一支族が越に派遣されたとも言われる。
 
 1968年(昭和43年)埼玉県行田市の稲荷山古墳から古代の錆びた鉄剣が出土した。いわゆる
稲荷山鉄剣である。その10年後、奈良市の元興寺(がんごうじ)文化財研究所が保存処理をしていたところ金象嵌(きんぞうがん)された115文字が浮かび上がってきた。
 辛亥年(かのといのとし、471年)7月中記す。.....一番の
先祖がオオヒコその児タカリノスクネその児テヨカリワケその児タカハシワケその児タサキワケその児ハテヒその児カサハヨその児オワケノオミ。オワケノオミの一族は代々杖刀人首(じょうとうじんのかしら、武官長)として奉事して今に至っている。ワカタケル大王(※1)の宮がシキ(※2)にある今我は大王の天下統治をたすけている。       .....
 ※1(雄略天皇)  

 ※2(現在の奈良県桜井市から磯城郡付近)

 
大彦は第9代開化天皇である大日日(おおひひ)の兄であり、第10代崇神天皇の叔父に当たる。福井県史も執筆された門脇禎二氏ら有力な古代史学者はこぞって第2代綏靖(すいぜい)天皇から第9代開化天皇までは実在しなかった天皇だと断言する。『日本書紀』に事績が記録されていない「欠史八代の天皇」である。 古代史学者の門脇禎二氏は「欠史八代の天皇がもし実在したと考えると、様々な関係がごちゃごちゃになってしまって整頓できなくなってしまう。」とコメントされたことがある。

 ところで、舟津神社や稲荷山鉄剣は大彦が実在したことを伝えている。大彦の実在に疑問を呈する人もいるが、大彦が実在しなかったならば人々は1000年以上にもわたって大彦を祀る舟津神社を崇拝しなかっただろうし、稲荷山鉄剣にそのような金象嵌文字を残さなかっただろう 。更に大彦が実在した人物とすれば、古代史学者が「欠史八代」の天皇として歴史から抹殺してしまっている大彦の弟の第9代開化天皇(大日日)も実在していたと考えることもできるだろう。舟津神社や稲荷山鉄剣は我が国の古代史研究に対して重要な問題を提起をしている。

 邪馬台国は当初鯖江で建国されたという主張がある。
   

舟津神社(ふなつじんじゃ、祭神は大彦命地図案内 樹齢250年の大ねじり柿
 舟津神社の背後には50基の古墳を持つ王山古墳群(おうざんこふんぐん)がある。山頂部に築かれた多くは方形周溝墓である。方形周溝墓は弥生時代後期(3世紀末)から古墳時代前期に築かれ、近年大阪で同じ時期の方形周溝墓の大規模な発掘が報告された。
王山古墳群