邪馬台国鯖江論 芸術家が奏でる邪馬台国論   越前・若狭紀行
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 『邪馬台国への旅』(東京書籍)は、これまでに提起された邪馬台国の比定地やそれほど注目を集めたわけではないが熱心に比定地を論ずる書が存在するなど、100程ある邪馬台国候補地の中から50を選んで紹介している。邪馬台国や卑弥呼が江戸時代から一貫して人々の心を捉えてきたのは、それらが大和朝廷や天皇家の歴史に深く関わる可能性があるからである。新井白石、内藤湖南、松本清張などその時代きっての名だたる論客が百家争鳴を繰り広げてきた邪馬台国論争への御招待である。

 50の内の一つが
邪馬台国は初め鯖江(福井県)で建国(後で大和に遷った)されたと力説する珍奇の書『古代出雲帝国の謎』(祥伝社)である。著者の武知鉄二(たけち てつじ、1912~1988、演劇評論家、演出家、映画監督)の邪馬台国論は投馬国(いつもこく)を古代出雲国に比定するなど「これまでの定説とはかなり違っているので注意して欲しい」と自ら断りながら、芸術家として磨き抜かれた鋭い感性を駆使して次の様に主張する。

①鉄文化を持つ大陸の騎馬民族系テュルク人(古代トルコ人、英語ではTurks、トルコ語ではTürk)が
BC300~400年頃北陸に渡来し、邪馬壱(さばい、今の鯖江)を都とした。
②『魏志倭人伝』に言う邪馬壹(壱)は邪馬臺(台)であるという今日広く信じられている解釈は正しくない。『魏志倭人伝』に記録されているままの邪馬壹で良い。「邪」は本来は「シャ」「サ」「ジャ」であって、「邪」に「ヤ」音が生じるのははるか後世の晋・隋の時代。「馬」も「バ」「メ」で「マ」は後世の音。「壹」つまり「壱」は「一」に通じるので「イ」である。だから、
邪馬壱「サバイ」と読むのが正しい。倭の五王の時代になって、王都が鯖江から大和に遷っていた事を知った中国人が壱を台に入れ替えて邪馬台と読むように改めたのだろう。
③テュルクの音はツルガ(敦賀)とまったく相似している。テュルク族の王は柔然と同じで可汗(カカン、Qaγan)、王妃は可賀敦(カガトン、Qaγatun)。この可汗は加賀(石川県)の語源だろうか。しかも、偶然なのか可賀敦の下二字をひっくりかえすと敦賀になる。
④丁零(ていれい)、鉄勒(てつろく)、突厥(とっけつ、Türük)はテュルクの宛字(あてじ)である。鉄勒15部族の一つの骨利幹(くりかん)は倶利伽羅(くりから)に似ている。九頭竜(九つの頭の竜)は八つの頭の大蛇と奇妙に類似している。
⑤鯖江に本拠を構えたテュルク人は九頭竜川付近の平野に定住し、支配者(王)として採集や狩猟や鉄生産に専念した。金沢や金津の地名は鉄生産を暗示している。この辺りからは古代溶鉱炉の遺址が200以上も発見されている(と同書は言うがこれは事実であろうか?)。
⑥BC100年頃、彼らは鉄資源を求めて滋賀県のマキノ、信楽を経て大和に至った。生駒山でも低品位の褐鉄鉱を産出したがサバイ族はここで北国とは比べものにならない大和の豊かな地味や温暖な気候に出会い、最終的に
サバイ族(邪馬壱族)は大和-山田(やまた)-に定着した。
 第4代・懿徳天皇(いとく)を大日本彦耜友(おおやまとひこすきとも)と呼ぶのはテュルクから鉄文化を受け入れた大和の最初の王を意味する。
 第5代・孝昭天皇(こうしょう)を観松彦香殖稲(みまつひこかえしね)と呼ぶのは稲作を推し進めた王を意味する。
⑦サバイ族は鉄資源を求めて更に中国地方(投馬国)へも侵略の足を伸ばしていった。「高志の山田の大蛇」(こしのやまたのおろち)というのは、越の国-
邪馬壱「サバイ」-からやってきて大和に定住した異民族(おろちょん)の事で高志族(古志族)である。この八岐遠呂智は出雲の原日本人(以前から定住していた倭人)に鉄文化をもたらしたが、出雲は異民族支配を受ける事を拒んだ。先頭になって戦った代表がスサノオで、彼はオオアナモチ(大穴持命、大国主命、大物主命)の妻・ヤノワカヒメの父である。大穴持命(大国主命)というのは高志族を出雲から追い出して倭人の独立を回復し「鉱業権を取り戻した大鉱山の主」を意味する。倭国大乱(147~188)とは出雲が「高志の山田の大蛇」を撃退した戦いの事である。
  古代の出雲国(武知は投馬国と考えている)はかつては今の中国地方一円(瀬戸内地方)にまで及ぶ広大な勢力を持っていたが、大和朝廷の侵攻で日本海側に追いやられた。でも、古風土記の中で唯一の完本である『出雲国風土記』(733年)の編纂者として出雲国造家の出雲広嶋(いずものひろしま、?~746?)の名が伝わる。これは、出雲家が広島平野を開拓し稲作を推進した過去の栄光が後世に語り継がれた証拠ではないか。
⑧出雲から敗退したテュルク人は疲弊して大和(奈良)に戻っていたが、
AD190年頃サバイ族の卑弥呼(ひみこ、?~247没?或いは248没?)が女王となり国を建て直し、大和に中心を置いた。しかし、大和はやがてイワレヒコ(神武・崇神-258没?或いは318没?)の攻撃を受ける事になる。神武と崇神はハツクニシラシシと同名であるので同一人物だとする説があるが陵墓は別なので別人と考えるべきだろう。
 大和を目指したのはサバイ族だけではなく神武東征軍も大和を目指した。日向を出た神武東征軍は速水の門(はやすいのと)-豊予海峡-を経由して東に向かい淡路島に至った。水先案内人の「渦彦」は鳴門の渦と関係ありそうだ。淡路島は国産みが成功した島なのでイザナキ・イザナミ二神を祀っている。
⑨神武は熊野(和歌山)で大熊に出会って戦死したので、東征軍の統率者は崇神に変わったとみて良い。247年(正始八年)頃大和に侵入して来た東征軍(崇神ら)の持つ馬や広い羽のついた矢(天の羽々矢-あめのはばや-)を見て大和軍(卑弥呼らの女王国)は驚いた。この戦いで卑弥呼は死に、大和軍司令官の長髄彦(ながすねひこ)は講和を結んで長髄彦が王位(第8代・孝元天皇)についたがニギハヤヒの裏切りで殺され、ニギハヤヒが王位(第9代・開化天皇)につき、次いでミマキイリヒコ(第10代・崇神天皇)が三輪王朝を建てた。
⑩卑弥呼の死後、孝元、開化、崇神へと目まぐるしく王は交代したが「国中服せず」内乱が続いた。大和の原住日本人は侵入者(東征軍)の王の支配を嫌った。疫病は流行り人々は稲作を止めて逃散した。そこで卑弥呼の宗女である13歳の壱与(いよ)を女王に立てると国中がついに定まった。壱与は東征軍ではなく出雲系の女性だったのかも知れない。
  更に崇神は天照大神(イザナキの子)を三輪の宮中から出し、豊鍬入姫(とよすきいりひめ、崇神皇女)に大和の笠縫邑(かさぬいむら)において祭祀させた。
 その後、第11代・垂仁天皇の命で天照大神を託された倭姫(やまとひめ、垂仁皇女)は各地の豪族を歴訪し終に伊勢に至った。こうして天照大神は伊勢で祭祀される事になった(倭姫は斎王)。


 この様に『古代出雲帝国の謎』は「奇想天外な妙想」(京都大学教授・多田道太郎)の書である。でも、邪馬台国に思いを馳せながら通説とはかなり違った見解を提示する同書を片手に芸術家が奏でる邪馬台国論に耳を澄ますのも一興である。
 可賀敦の下二字をひっくりかえすと敦賀になるのは偶然なのだろうか?天日槍(アメノヒボコ)の伝承は大陸からの鉄器工人の渡来を意味するとする説もある。韃靼(ダッタン)の語源である搭搭児(タタ-ル)が日本で転訛してタタラ(製鉄炉)になったとされる。鉄と共に世界の歴史は大きく動いてきた。
 又、福井弁丸出しで「あのお~」と言った時などの抑揚(イントネーション)は朝鮮語によく似ていて、大陸と日本との交流の深さを示しているようだ。


 邪馬台国論争で注目される争点の一つに方位の問題がある。松廬国は(まつらこく)で松浦市付近、伊都国(いとこく)は糸島市付近、奴国(なこく)は福岡市付近とするまでは諸説かなり一致している。
 次に水行二十日で投馬国に至るというが、その付近(福岡)から水行二十日南行すれば海上に出てしまうので
正しくは東と書くべきだったのに間違って南行と記述したのではないか、という議論がある。陳寿は自ら各地に足を運んだわけではなく、多くの人からの伝聞をまとめて書いたのだろうから『魏志倭人伝』の一言一句にまで至るまで正確を極めているとは思えない。
 ただ、武知説では『魏志倭人伝』のままに解釈し、有明湾から南行して薩摩・日向の沿岸をぐるりと回り、豊後水道を北上して岩国・広島・宮島へ、文字通り舟行二十日で投馬国(今の中国地方つまり古代出雲国)に至り、更に水行十日陸行一月(一日四里として百二十里450km)で邪馬壱(鯖江)に達するとしている。

  所が、興味深い話がある。
『沖縄古語辞典』では「北をニシという。」(外部サイト)と記載されている。仮に北が西になるように東西南北の方位軸を90度左回転したらまさしく南は東になる。
  
  鯖江市にはこの時代に関係する可能性のある王山古墳群(おうざんこふんぐん、弥生時代後期~古墳時代)がある。
  1999年には福井市泉田町の集落遺跡「林・藤島遺跡」(弥生後期、西暦200年頃)から全国で最多の出土数となる1000点を超える鉄器、鍛冶(かじ)跡が見つかり、当時の福井が(越)が鉄器の先進地域であった事を見せつけた。しかし、まとまった歴史観が出来上がるためには吉野ヶ里遺跡や巻向遺跡のような大規模な考古学的発見が不可欠だ。

 
卑弥呼は元々、鍛冶屋の集団である和爾氏の女性だったのでは。蘇我氏が覇権を掌握する前に、和爾氏は最も大事な氏族だった。」(山尾幸久・立命館大学名誉教授)というような指摘もある。和邇氏は朝鮮半島系の鍛冶集団で航海術にも優れ日本海側から畿内へ進出した氏族だとされる。  参考資料(和邇氏)
 
 
 
著者は演劇が専門で、右足を出す時に右手を出す歩き方(ナンバ)が昔はかなり一般的だったと言う。洋の東西、民族を問わず赤ちゃんはみなナンバで動き、田植え、盆踊り(阿波踊りなど)、伝統的芸能の能や狂言や阿国までの歌舞伎も例外なくナンバ歩行したが、天明期以降(1781~1789)ナンバでない動きが入ったと指摘する。
 以下に少し、引用させて頂いた。『古代出雲帝国の謎』(祥伝社)は残念ながら絶版になっていてwebサイトで買うか図書館で借りるしかない。
『古代出雲帝国の謎』(武知鉄二、祥伝社)     ・・・・・
 邪馬壹(壱)国--壹(壱)を臺(台)の書き間違いとする解釈が行なわれているが、 壹と臺とは冠(かんむり)も違うし、また『倭人伝』の中でも混用しないで用いている形跡が強い。また、邪の字にヤの音が生じるのは後世のことで、魏の当時の音はサである。だからこれは、文字どおり邪馬壱(さばい)と読まなければならない。いまの鯖江(福井県)のことである。邪馬壱が中国の他書(正史)で、 邪馬台、 または邪馬堆(やまたい)と書き変えられるのは、倭の五王の時代になって、王朝の所在地が大和であって、鯖江から遷(うつ)ったことを知った中国人が、壱を台に入れ換えてヤマト(ティ)と読ませるよう改めたものであろう。・・・・・