久宝寺遺跡 弥生時代から古墳時代初頭の風景 越前・若狭紀行
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@方形周溝墓 A土壙墓(どこうぼ) B墳墓群(下は拡大写真)
  旧国鉄竜華(りゅうげ)操作場の跡へ寝屋川流域下水道竜華水環境保全センター水処理施設を建設するにあたって行われた久宝寺遺跡(きゅうほうじいせき、大阪府八尾市西久宝寺)の発掘調査結果が2002年8月24日発表された。久宝寺遺跡は縄文時代から平安時代まで続く遺跡であるが、今回は弥生時代末期から古墳時代初期(3世紀後半)に築かれた38基の墳墓を中心に発掘が行われた。卑弥呼に近い時期の可能性がある。河内平野における同時代の物としては北西2kmの加美遺跡で発掘された46基に次ぐ規模である。20000平方mにわたってきれいに発掘された様子からは相当な人と金を投入した大阪府の埋蔵文化財に対する並々ならぬ姿勢が窺える。財力の豊かな自治体でなければこのような大規模な発掘は無理である。

 周囲に溝を掘りその土を小高く盛って正方形の墳丘を築いた
@方形周溝墓が38基も累々と並ぶさまは壮観である。(畝(うね)のような物は調査のために故意に設けられた。)どれも低い丘陵の上に築造されていて墳丘の大きさは最大で1辺が15mから最小で3m四方、高さは1.2m以下で、組合せ式木棺や土器棺に入れて埋葬されていた。時代が下る程大型化する様相を呈しており弥生時代の方形周溝墓から古墳時代の古墳へと推移する様子が良く分かる。墳丘の横には木棺に入れずに埋葬されたA土壙墓(どこうぼ、土葬のようなもの)もあり縄文時代から弥生時代によく見られ、屈葬された状態で頭蓋骨や大腿骨が見つかった(Aの鏡に映っている)。まだ見つかっていないが近くには住居跡がある筈である。魏志倭人伝(正しくは 『三国志  魏書烏丸鮮卑東夷伝・倭人の条、ぎしょうがんせんぴとういでん・わじんのじょう』)は、屋室があって父母兄弟が処を異にして起臥すると伝える。
 屈葬を行う理由は,伸展葬に比べて小さな墓穴ですむこと、或いは,死者に座位という休息の姿勢をとらせて安らかに来世を過ごすことを期待したのかも知れない。又、屈葬して母胎内の胎児の姿勢をとらせ再生回帰の願いを込めたとも受け止められる。或いは死者がこの世に戻ってくるのを恐れ縛って埋葬したのがその後、屈葬となったとも言われる。

 延々と続くB墳墓群は壮観で、魏志倭人伝
(関連のサイト)に描かれた弥生時代の村の風景である。魏志倭人伝は我が国に仏教が伝わった538年(552年と)以前にすでに葬儀の風習があったことを伝えている。10日余りの間、肉を食わず、喪主は大声で泣き明かして過ごし、周囲の者は歌舞飲酒する。そして、土を盛って冢(つか)を作り埋葬した後は禊ぎ(みそぎ)をして身を清めたという。弥生時代から古墳時代前期へと移行した1700年余り前の我々の祖先は死を「けがれ」として意識すると共に、哀悼と惜別の情を込めて縁者を丁重に埋葬する奥深い人格を備えた人達であった。
 墳
丘の横では割れた土器が見つかり、埋葬時に土器を割る風習があったことがうかがえる。古墳時代後期に出土する鉄剣や兜など戦争の道具は見つからず比較的平和な生活だったのだろうか。墳墓が築かれた横には畑や水田の跡があって農耕生活を営んでいたことが分かる。生活圏と墓地をはっきりと区分けしてのどかに暮らしていた人々の様子が想像される。倭人伝は、冬夏生菜を食らい、と伝えるので喪に服する間は肉を食わないが普段は肉食をし野菜を食していたのだろう。当時の大阪湾は現在よりも内陸に入り込んでいて低湿地も多く、水害を恐れながらも水田や畑を耕し海の幸や山の幸を採って生活していたようだ。日本の社会の原形が弥生時代に始まっていることを感じさせられる。 写真集へ