本願寺吉崎御坊  蓮如が最も輝いた時   越前・若狭紀行
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 吉崎御坊跡に立つ蓮如上人像(高村光雲作、1934年) 『鮫』に登場する見玉尼の墓(吉崎御坊跡) 

   浄土真宗の開祖は親鸞(1173〜1262)である。老若男女、更に身分の違いや貧富の違いを問わず、狩猟などの殺生を職とする罪深い者もひたすらに南無阿弥陀仏を唱えれば極楽往生でき、浄土真宗こそが真実の教えであることを常陸や武蔵などの東国にまで赴き布教した。しかし、親鸞の孤高の教えは民衆の心に伝わらず親鸞の時代の本願寺は全くの零細教団に過ぎなかった。
   本願寺第8世・
蓮如(1415〜1499)は6歳の時に父・存如が「正室として」海老名家より如円尼を迎えたため1420年暮れに「親鸞様のあとについてお行き」と最後に言い残して去って行った母と生き別れをした悲しい体験をし、終生瞼の母と再会する事はなかった。
 43才で第8代法主に就いた時、
本願寺は消滅の危機に瀕し家族はその日の食事さえままならぬ生活だった。蓮如は近江で布教に着手するや大きな信者の集団が生まれたが、比叡山延暦寺は蓮如と本願寺を仏敵と見なして襲撃し(1465年、寛正(かんしょう)の法難、大谷法難)、坊舎を壊され命を狙われた蓮如は各地を転々とした挙げ句に寂しい寒村に過ぎなかった越前・加賀の国境に近い吉崎(福井県あわら市吉崎)に拠点を得た(1471年)。ここで講(寄合)を構えるなど意欲的な布教活動を展開した結果、北陸は言うに及ばず東北からも応仁の乱(応仁・文明の乱)の政情不安下であるにも関わらず人間味溢れる教えを乞う人々が集まり巨大な本願寺教団が育ったが教団を快く思わない勢力との軋轢も生まれた。
 
 吉崎の南大門付近から出火し門徒達が山を切り開いて建立した寺院が全焼した(1474年3月28日)。吉崎の発展を憎む高田専修寺派や平泉寺など他の大寺院が放火したのではないかと当時は疑われたが定かではない。
 この時、蓮如は命からがら避難する際に親鸞が著した『教行信證』六巻の内一巻だけを部屋に置き忘れてしまった。目の前で瞬く間に火の海が広がった。この時、状況を察知した本光房了顕が周囲の制止を振り切って火の中へ飛び込んで行ったが再び戻ってくる事はなかった。人々が焼け跡から蓮如の部屋付近で了顕の焼死体を発見すると了顕は大きく腹を切っていて、よく見ると黒焦げの体内から血に染まった『教行信證』が発見された。親鸞直筆の貴重な教えを了顕が命をかけて守ったのを知った蓮如達一同はその場で号泣したという。その『教行信證』は「
血染めの聖教」として本願寺の宝物となり現存している。
 吉崎御坊の建物は門徒達の力で再建されたが1475年戦乱に巻き込まれて再び焼失し再建される事はなかった。蓮如が活躍したのは、日々戦いに明け暮れ人々は明日の命も保証されなかった戦国時代(1467年頃〜1590年頃)の始まりの時期だった

物は

 過酷な年貢の取り立てに苦しむ門徒達は信仰を媒介として政治権力との対決姿勢を強め一向一揆の蜂起に至るようになった。一向一揆は蓮如とは何の関係もなく、一揆に加わった門徒達は破門するとして厳しく非難する書状も近年見つかっている。一向一揆は大勢力となった農民達の権力者への反抗であり、無慈悲な年貢を取り立てる領主に対決してその後100年近く朝倉や織田らの戦国大名を脅かす勢いであった。朝倉義景が義昭を奉じて上洛できなかった最大の原因はいつ侵攻して来るかも分からない一向一揆への恐れであり、戦国の覇者・信長をもっとも苦しめたのも本願寺教団だった。
 本来の教えに反する行動を制止できなくなり身に危険すら迫ってきた蓮如は僅か4年余で万感の思いを抱いて吉崎を去った(1475年)。同行したのは家族数名に僅かな側近、護衛の者達だった。蓮如上人の失意の念が伝わってくる。
        よもすがら たたく舟ばた  吉崎の  鹿島つづきの  山ぞ恋しき
    海人(あまびと)の 炬火(たいまつ) つてにこぐ舟の 行衛(ゆくえ)もしらぬ 我が身なりけり

  吉崎は、戦国時代に第11代顕如(1543〜1592)が本願寺の存亡をかけて10年間も信長と対決し続けた大坂・石山本願寺と共に、名もない無数の門徒衆の心血が刻み込まれた浄土真宗の聖地であり、吉崎を本拠地として本願寺の再興を願って命掛けで布教した4年間は蓮如の生涯で最も輝いた時であった。蓮如は吉崎で、飢え、貧困、病苦、離別などの不安や明日の命も分からない様な絶望の中で地獄のような苦しみに苛まれながら戦国の世を生きる信徒達に対して親鸞の教えを基に心の琴線に触れる温かい手紙を(東本願寺は御文(おふみ)、西本願寺は御文章(ごぶんしょう)と言う)書き続けた。現在、手紙は80通に整理してまとめられているがその半数の40通は吉崎滞在中に書かれたもので吉崎での活動が如何に精力的であったかを知ることができる。その他、河内の光善寺滞在中が7通、山科本願寺で5通、大坂本願寺で6通が書かれ年月不明が22通という。『続 風変わりな郷土史』(青園鎌三郎、福井新聞)吉崎での足掛け5年にわたる命懸けの布教活動がなかったら今日の本願寺は存在していない。
 
 御文の中でも「白骨」は特に良く知られる不朽の名文である。
・・・・・朝には美しい紅顔であっても無情の風が吹けば夕には白骨となれる身なり。・・・・諸人は阿弥陀仏を深く念じて南無阿弥陀仏を唱えるべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。・・・・
 ご案内
  吉崎御坊蓮如上人記念館        福井県史1     図説 中世22越前一向一揆

 次に拠点としたのは吉崎御坊をモデルにした27万坪という京都・山科本願寺である(1483年落成)。本願寺は10年余で大教団に育ていた。蓮如は山科本願寺に隠居しながらも(1489年法主を第9世・実如に譲る)布教活動は続け、大坂に坊舎(1496年、大坂御堂)を建設して居所としこれが後の石山本願寺になりその寺内町は大坂発展の中心になった。ただ、山科本願寺は宗派間の争いである天文法華の乱で全焼した(1532年)。

 越前では天台寺院も多かった上に、既に傘松峰大佛寺(さんしょうほうだいぶつじ、1246年
吉祥山永平寺に改名)も開創されていた(1244年)。卓越した論理能力を持って真理を求めた貴族出身の道元は、ひたすら厳しい座禅に集中する只管打坐(しかんたざ)を説き、焼香も儀式・礼拝も省き南無阿弥陀仏を唱えるだけで誰もが極楽往生ができるとして大衆の熱烈な支持を得た念仏宗を顧みなかった。
 永平寺は修行道場の性格が強かった事も関係しているが、義貞、朝倉、信長などの武将が次々ともたらす戦乱と支配・収奪・暴力・恐怖、そして貧困・飢饉・病苦・ひでりや暴風雨・肉親との離別などに苦しむ民衆の心に道元の厳格な教えは響かず越前で強力な教線を広げたのは浄土真宗だった。
親鸞は旧来の仏教戒律を破棄して女性こそ救われるとする「女人正機」を掲げた。蓮如は4人の妻と死別して5度婚姻し男子13人女子14人を儲けて有力な寺院に送り込み親鸞の血筋をもつ子孫を増やして本願寺の盤石の基盤を創り、山科本願寺に戻って没した(1499年)。妻帯を認めない旧来の宗教では血縁者の強固な絆による寺院継承はできなかった。人々に希望を与え本願寺の衰退を救い後世に中興の祖と讃えられる85年に及ぶ実り大きい人生だった。「畠山・斯波・朝倉・富樫ら守護大名の権力闘争に便乗、門徒農民の一揆勢力を巧みにコントロ−ルして、本願寺の繁栄を築いた”傑僧”」(辻川達也)である。
 

 作家・津本 陽は当時の日本の人口が約1500万〜1800万人、その半数は浄土真宗の信者だった推定する。戦国大名達は急速に勢力を伸ばしてきた信長包囲網を作るために死を恐れずに大兵力で組織的に団結して戦う本願寺教団を取り込んで共同戦線を作った。それは信長にとって四面楚歌の危機的状況だった。
 
信玄と顕如は双方の夫人が実の姉妹なので義兄弟(あい婿)の関係である。しかし、1573年4月武田信玄の死をきっかけに信長包囲網は、室町幕府(1573年7月滅亡)、朝倉(1573年8月滅亡)、浅井(1573年9月滅亡)、伊勢長島一向一揆(1574年)、越前一向一揆(1575年)等、次々と坂道を転がり落ちるようなスピ−ドで消滅していった。
 その後も毛利の力を頼り木津川口(大阪府)などで戦っていた本願寺は徹底抗戦を止め、ついに正親町天皇の仲介という形で1580年に信長と和睦する事を余儀なくされた顕如は4月9日紀伊国鷺森別院に退去した。8月にはその屈辱的な和睦を良しとせず徹底抗戦を唱えた顕如の長男・教如も退去すると、直後に難攻不落の要塞だった石山本願寺は二日一夜燃え続け灰燼と帰した。

  蓮如が去って500年、北陸は今も変わらぬ真宗王国である。毎年4月23日に吉崎で行われる蓮如の御忌法要のために東本願寺から上人の御影を迎え送る「
蓮如上人御影道中」は、吉崎・京都間往復480kmを御影を納めた御櫃(おひつ)を背負い徒歩で行くもので、蓮如上人の遺徳を偲んで18世紀から行われている。

  現在のJR京都駅前の広大な2つの本願寺は、1591年第11世顕如(けんにょ、1543〜1592)の代に豊臣秀吉から京都七条堀川の土地を寄進された所に祖堂を建立したのが西本願寺の始まりであり、1602年に顕如の長男・第12世教如(きょうにょ、1558〜1614)の代に徳川家康から京都六条烏丸に寄進された4町四方の土地に阿弥陀堂と御影堂を建立したのが東本願寺の始まりである。これは武士よりも強く団結して死をも恐れずに戦う門徒衆の根絶が不可能である事を悟った徳川家康の本願寺分離政策である。かくして本願寺は東西に分立することとなった。

  浄土真宗は真宗とも一向宗とも言われる。真宗門徒の中に一向衆と呼ばれた時宗 (衆) の信者が大量に入り込んだので浄土真宗が一向宗と呼ばれたが、本願寺は一向宗と呼ばれるのを嫌い 浄土真宗を正式の宗派名とした。しかし歴史的に当初は浄土宗を浄土真宗と言った時期もあり、更に真宗には真の教えという意味が込められているので浄土宗側が激しく抗議、明治政府は真宗の宗名だけ許した。 現在、西本願寺は宗名として浄土真宗本願寺派(信者数約800万人)と称し、東本願寺等真宗 9派 (大谷派,高田派,仏光寺派,等) は真宗大谷派(略称として大谷派、信者数300万人)と称している。  参考になるサイト    『宗教年鑑』 (文化庁)

   真継伸彦(まつぎ のぶひこ、1932〜2016)は信仰をテ−マにした作品を多く残した。姫路獨協大学教授などを務めながら、信心とはどのようなものかを追い求めた。『鮫』は本願寺教団から出されている様々な啓蒙書よりも読者を強く魅了してやまない傑作である。日本の人口約1500万〜1800万人の半数近くが浄土真宗の信者であったと言う論者(作家・津本陽)がいるが、巨大で強固な本願寺教団が育った背景を考えさせてくれる作品である。絶版になっているのが惜しい。
 越前国坂井郡坪江庄三ヶ浦安島で生を受けた「おれ」は飢えと差別の中で育った。応仁の乱の頃、実った米は領主に取られ農民はカエルやヘビやとかげを食らい、雑草やむしろのわらまで食べた。栄養不足で結核も異様に多く、坪江荘の半数を超える1500余人が餓死した。激しい飢饉でも年貢を払えない村には朝倉敏景の侍衆が押し寄せ、見せしめに女子供の耳を削ぎ家を焼き払ったという。「おれ」はふるさとを捨てて逃散し途中で死肉を食べながら京の都を目指した。でも、温かいかゆを布施する寺があると聞いて行き着いた都では何万という屍が河原に放置されていた。生をつなぐために東山や山科などの公卿の別荘、神社や寺に押し入り、略奪や暴行を繰り返し数えれば十以上の命を奪った。ある日、林の中の尼寺に押し入り寝所のうら若い尼を奪って欲情に燃えながら駆け続け木陰で止まった。
   「はようすきなようになさりませ。あとで、きっと、南無阿弥陀仏と申されませ。」
 地獄の闇の中で悪逆を尽くして生きてきた「おれ」と見玉尼(けんぎょくに、1448〜1472)との運命的な出会いであった。
 「おれ」はその一年後、父(蓮如)と共に吉崎に移っていた見玉尼を追い、命が尽きようとしていた見玉尼に再会した。


『鮫』(真継伸彦、河出書房)                        
・・・・・
「お話しなされ、お話しなされ、妾(わらわ)にいっさいを話して、そして忘れてしまいなさればよい。人の世の思い出は、みんな忘れてしまわねば、重石となって妾どもが浄土へ参るさまたげになるもの。人の世に置いてゆくものじゃ。思い出は心に閉じこめておくより、人に話したほうが忘れやすい。さあ、忘れるために、妾にみんなお話しなされ」
 かすかに鈴をふるわすようなお声で仰せになった。
 見玉尼様、貴女様のお言葉にうながされ、無限にひろがる闇をたたえるしずかな貴女様のまなざしに、いっさいが吸いこまれ消えうせてゆくがようにやすらかな心で、おれが畜生に堕ちて過ごしたながい歳月の思い出を語り終えたとき、貴女様はしばらく瞑目し、無言でおられた。
・・・・・
「くりかえし、念仏申されませ。そなたの極楽往生は、ただ一度の念仏で決定(けちじょう)いたしておりまする。」
・・・・・

※見玉尼(けんぎょくに、1448〜1472)は、比叡山延暦寺の襲撃を避けるために福井県あわら市吉崎(現在)に道場を築いた本願寺八世・蓮如の二女。1471年からは吉崎で父(蓮如)と過ごし翌年25才で没した。「信心が定まって極楽往生した」と蓮如は記した。
  越前では、大地を血で何度も塗り替える死闘を繰り返してきた一向宗と朝倉家は信長や信玄の勢力拡大に対抗する必要に迫られ、1571年朝倉義景は娘を浄土真宗本願寺11世である顕如の子・教如(1558〜1614)に嫁する約束を交わして敵対関係から同盟関係へと転換し越前で60年振りに一向宗を解禁した。1573年朝倉家は滅んだが義景の娘は越前を脱出して生き残り石山本願寺の教如の許に迎えられている。
 信長に対して徹底抗戦で団結していた本願寺教団は1573年の武田信玄の死をきっかけに穏健派と強硬派とに分裂しやがて本願寺は東西に分立した。本願寺はその後、権力に対決する事なく静かに宗教活動に専念している。

『関ヶ原』(司馬遼太郎、新潮文庫)
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 金川(神奈川)の宿で休息したとき、西のほうから黒衣の僧数人がやつてきて家康に拝謁をもとめた。近臣は追おうとしたが、その僧の名乗りをきいて驚き、家康に取りついだ。
 「教如」(きょうにょ)
というのである。年は四十二三で、旅にやつれてはいるがいかにも貴族的な風貌をもっていた。
 教如、名は光寿。本願寺門跡顕如(けんにょ)の長男としてうまれている。天正年間、当時摂津石山(大坂)にあつた本願寺が織田信長と数年にわたって戦い、ついに正親町帝(おおぎまちてい)の勅諚(ちょくじょう)で和睦した時、長男の教如はこの屈辱的な和睦をよろこばず、抗戦派の僧俗と本山を脱走し、その後、織田軍に追跡されて諸国を流浪した。
 やがて秀吉の代になり、秀吉によつて本願寺は京都に移され、教如も寺にもどり、本願寺門跡十二世を継いだ。
が、すぐ秀吉の内命で異母弟の准如(じゅんにょ、光昭)に法統をゆずらざるをえなくなり、若くして隠居した。
 この間の事情について世間では、
――太閤の好色によるものらしい。
と噂した。先代顕如の後妻が世に聞こえた美人だったため秀吉はひそかに召してこれを愛した。この後妻の実子が准如だったために秀吉が教如を隠居させて准如に十三世を継がせたのだという。
 そういう噂を、家康はきいている。(教如は、当然、太閤と豊臣家に恨みを抱いている。それについてわしになにか頼みがあるのであろう)と思って引見すると、教如は果たして、
 「このたびの御出陣につき、なにかお役に立ちとうござります。幸い、われらが門徒はこのたびの戦場である美濃や近江に多うござりますゆえ、彼らをそそのかせて一揆をおこさせ、治部少輔の足搦みをさせようかと存じまするがいかがでござりましょう。」といった。
 家康はさすがに苦笑し、
「私はべつに僧の力を借りる必要はない」
と言い、しかし御坊のお立場についてはかねがね同情していた、この戦いがおわれば身の立つべきよう思案してさしあげるゆえ、ゆるりと江戸で滞留しておられよ−といった。
 家康は、戦国以来、諸大名がもてあましてきた本願寺の勢力を、この教如を用いることによって二つに裂こうと考えた。
 やがて戦後、京の本願寺の東側にいま一つの本願寺を建てることを許し、この教如を法主(ほっす)にしてやった。いわゆる東本願寺である。全国の本願寺の末寺は二つに割れ、西本願寺のほうには一万二千ヵ寺が残り、家康によって創建された東本願寺のほうには九千数百が集まった。
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