てんのう堂
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 『日本書紀』は507年に大伴金村大連らが男大迹王(おおどおう、後の大和朝廷第26代・継体天皇)を天皇として大和に迎えるため兵備を整えて越前に赴いた時の状況を事細かく伝える。この丸岡町指定文化財の天皇堂(福井県坂井市丸岡町女形谷)は文献的・考古学的な確証があるわけではないが地元では古くから、大伴金村らが継体天皇に拝謁した所として、周囲は水田であるがここだけは田地にせず永年にわたり特別に保存してきた所である。
  付近は女形谷・長畝遺跡が位置し1999・2000年の県道改良工事に伴う発掘調査で弥生時代後期〜古墳時代前期の土師器、古墳時代終末〜飛鳥時代の須恵器・土師器が出土し、堀立柱建物3棟が確認されている。建物の1棟は弥生時代終末〜古墳時代初頭の物である。  (『第20回福井県発掘調査報告会資料』より)
 地図案内 福井県坂井市丸岡町女形谷(おながたに)
 
 福井県史にも記述され丸岡町が熱心に保存を進めている てんのう堂 について、直木孝次郎氏(日本古代史、大阪市立大学名誉教授)は「伝承ですからねえ−−−」とコメントされている。   
 
 この付近から『日本書紀』の記述が俄然真実味を帯びるような考古学的発見がなされる事を期待しよう。
農閑期に付近の発掘調査をもっと進めたらどうだろう。

 近くには継体天皇の皇子・椀子(まろこ)皇子の墓と言われる椀貸山古墳(わんかしやまこふん、福井県坂井市丸岡町坪江3−6)がある。

ご案内 てんのう堂の参考資料 福井県史(外部サイト)      『本朝百将伝 大伴金村』(国立国会図書館蔵)

  尚、大伴金村の6代目に万葉集編者として知られる越中国司・大伴家持(おおとものやかもち、718〜785)がいて万葉集に福井関連の作品を100首程載せている。越中への行き帰りには越前で宿を取っただろう。  参考資料 雨晴海岸
 
 我が国の正史『日本書紀』は大伴金村大連らが男大迹王に謁見した時の様子を伝える。

日本書紀(直木孝次郎ら、小学館)                  
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 六日に臣・連らを遣わして節旗(しるし)を掲げ御輿(みこし)を準備して三国にお迎えに行った。兵備を整え粛然として往来の人を止め、にわかに到着した。その時、男大迹王は落ち着きはらって胡床(こしょう)に座っておられた。整然とした家来を従えて、すでに帝王の風格を漂わせられていた。節旗(しるし)を掲げた使者らは、これを見て尊敬の念で命をかけて忠誠を尽したいと願った。しかし、天皇は内心なおもお疑いを抱かれて直ぐにはお受けにならなかった。たまたまご存じであった河内馬飼首荒籠(かわちのうまかいのおびとあらこ)が、ひそかに使者をお送りして、大臣・大連たちが男大迹王を天皇としてお迎えしようとしている本意を詳しくご説明申しあげた。二、三日の後、出発なさることになり、嘆息して、「よかった、馬飼首よ。お前が使者を送って知らせてくれなかったならば、天下に笑われるところだった。世間の人が『貴賤にこだわるな。ただその心だけを重んぜよ』というのは荒籠(あらこ)のような者を言うのだろう」と仰せられ、即位されてからは荒籠を厚遇された。
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