継体天皇皇位継承で注目 福井出身の現天皇家直系の天皇  1500年続いたY染色体    TOPに戻る                
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       足羽山の継体天皇像(福井市) 継体天皇が植えた淡墨桜阜県根尾村) 伝・欽明天皇陵(奈良県高市郡明日香村)
   継体天皇(?〜531)は応神天皇5世孫であると日本書紀は伝える。しかし、直木孝次郎(敬称略)ら幾人もの有力な古代史学者の間では、継体天皇は元々天皇家とは何の血縁もない越前の豪族であり武力で大和を制圧して天皇位を簒奪し、これまでとは違う別王朝を作ったとする「王朝交代説」が根強い。無視できない幾つもの傍証が挙げられる
 
 ◎第25代・武烈天皇は残虐非道の王とされ、妊婦の腹を切り胎児を取り出したり、爪をはがして芋を掘らせたという。そのような人だったので皇后はいても跡継ぎがなかった言われるが、当時の天皇は幾人もの女性を伴っていたのだから、天皇家の血筋の者が大和や河内に全くいなかったとは考えられない。
 
第26代・継体天皇は第25代・武烈天皇の10代も前の第15代・応神天皇の更に5世孫だというが、その間に幾人もの皇子達がいただろう。継体天皇の系図。
 ◎ 河内国樟葉宮(大阪・枚方市)で即位後大和に入り磐余の玉穂宮(奈良県桜井市)に入るのに20年もかかったのは大和の勢力の反対にあったからだ。それで継体天皇陵が大阪・高槻に築かれている。
◎ 継体には、血統は嗣がないが家は継いだという意味が込められている。
 等である。奈良時代に淡海三船(おうみのみふね)が歴代天皇の漢風諡号(かんふうしごう)を撰定したが諡号には深い意味があるようだ。
 
 
継体天皇が応神王朝(第15代・応神天皇〜第21代・雄略天皇〜第25代・武烈天皇)から天皇位を奪ってそれに替わる新王朝を作ったという立場に立つなら、現天皇家が継体天皇の末裔であることは疑う余地がないのだから継体天皇は現天皇家の始祖である。第26代継体天皇から令和の第126代天皇・徳仁(なるひと、1960〜)まで連綿と101代、1500年、これだけの長い歴史を持つ王家は世界史上に例がない。

 
  継体天皇は天皇家との血縁関係が薄かったので手白香皇后(第24代・仁賢(にんけん)天皇の皇女で第25代・武烈の姉か妹)を迎え入れた。 継体天皇の3人の子が
第27代・安閑天皇(466〜536)、第28代・宣化天皇(467〜539)、第29代・欽明天皇(?〜571)である。 継体天皇の死後、嫡男の安閑・宣化王系と弟であるが天皇家嫡流の欽明王系の間に対立があったといわれるが血で血を洗うようなものではなかったと考えられる。宣化天皇の娘・石姫が欽明天皇の皇后になっているからである。

 
   

       継体天皇
 福井市立郷土歴史博物館蔵、無断転載禁止
  欽明天皇は手白香皇后(たしからのこうごう、第24代・仁賢(にんけん)天皇の娘で第25代・武烈天皇の姉か妹)との間に生まれた人で、百済(クダラ)の聖明王からの仏典・仏像を受け取ったことで我が国に仏教が広まり(538年とも552年とも言われる仏教公伝)、仏教普及に大きな役割を果たした。その名にふさわしく賢明な天皇だった。聖徳太子の仏教文化振興や渡来人の重用は欽明天皇の施策を手本にしたと考えることができる。
 
  
「越前の豪族が天皇になった事」対抗意識を燃やして筑紫で起こったのが磐井の反乱(527年)である。越前、筑紫ともほぼ同じ位の耕地を持ち、更に筑紫は大陸の先進文化を受け入れやすく温暖で生産性も高かった。戦闘は1年半続いたが苦戦の末に大和朝廷の勝利に終わった。
 
   全国に15万基程もある古墳で被葬者が確定できているのは何十もないと言われる中、
継体天皇陵や皇后の手白香皇后陵はほぼ確定されている。又、全長310mに及ぶ見瀬丸山古墳(五条野丸山古墳)を欽明天皇陵とする(橿原市見瀬町、外部サイト)見方がある。
 
 天皇堂(てんのうどう、福井県坂井市丸岡町女形谷)は507年に大和朝廷の使者・大伴金村らが男 大迹王(おおどおう、後の大和朝廷第26代・継体天皇)を大和へ迎えるために拝謁した所という。

 継体天皇には、福井を初め勢力圏内の近江や尾張の豪族から娶った何人かの妃がいて皇子・皇女は幾人もいた。福井市の足羽山(あすわやま)中腹にある
足羽神社の社家・馬来田(まくた)氏はその内の一人である馬来田(うまくた)皇女の末裔という。

   この時代、継体天皇の第4皇子・欽明天皇の第3皇女である第33代・推古天皇(554〜628、欽明天皇第2皇女、継体天皇の孫)も話題の多い天皇であり、
聖徳太子(継体天皇の曾孫、574〜622)、更にそこから繋がる蘇我氏など興味の尽きない人達の名前が挙げられる。英明な人達だったとされる第29代・欽明天皇、第33代・推古天皇、聖徳太子らが活躍して大和朝廷は目覚ましく発展した。
 
 ご案内継体天皇に関する参考資料 福井県史 (原始・古代の4)

              出自に関する参考資料 福井県史    その他の資料
     
 皇位継承を性染色体から考える興味深い視点がある。人は精子や卵子などを除いて1個の細胞中に23対(計46本)のらせん階段状をした染色体が入っている。その内の22対が常染色体、もう1対は性を決める性染色体で男性はXY染色体、女性はXX染色体なら成っている。Y染色体は父から男子にのみ受け継がれ、これまで全ての男性天皇は同じY染色体を持っている。男性天皇のXYは、母親のXと父親からのYであり、Yは常に父親に由来するので、父親、祖父、曽祖父、さらにその先祖の父など、同一のYが無限に続いている。実在が確実視されている第10代・崇神天皇、更に遡って実在したかも知れない初代・神武天皇から受け継がれてきたY染色体は第126代の今上天皇まで受け継がれている。神武天皇から男系天皇(父方が天皇)が即位してきたのでこの点からも万世一系と言う事ができる。過去8人(10代)の女性天皇が即位したが彼女らの父親は天皇(皇極(=斉明)天皇のみ敏達天皇のひ孫)なので女性天皇だが男系天皇だった。今、女性天皇(男系天皇でも女性なのでXX染色体を持つ)が即位すると旧宮家などのY染色体を持つ男性と結婚して男子が誕生しない限り古代の天皇から受け継がれてきたY染色体は皇室から絶えてしまう。
 輿論調査では女性天皇を肯定する意見も多いがそもそも天皇を希望する女性がいるのか、更に女性天皇との結婚を希望する男性はいるのだろうか。その女性天皇の次の候補者はどうするのか。


 
天皇家に受け継がれてきたY染色体は臣籍降下した源平直系の男性子孫にあたるような相当多くの人達などにも引き継がれているが、ここに来て菊栄親睦会(きくえいしんぼくかい)の存在が注目されている。
 
GHQ占領下にあった1947年、昭和天皇の意を受けて皇族と旧宮家(1947年に皇籍離脱した11宮家)からなる菊栄親睦会が結成された。当時、宮家は昭和天皇の弟にあたる秩父宮、高松宮、三笠宮の三家になってしまった。皇族を減らすというGHQの強い圧力があり、皇籍離脱を強いられる宮家からは猛反発もあったという。跡継ぎがいない宮家は他の宮家と養子縁組する手もあったからである。昭和天皇の心の内には皇后以外の女性を身近におけない新しい時代に三宮家だけでは将来にわたって皇位継承できるのかという不安があったのではないだろうか。
 
現在の菊栄親睦会の中には20代半ばまでの若い男性が7名程おられるようで、折に触れて注目が集まる。今は悠仁親王(ひひと、2006〜)がおられるので皇統途絶の声はあまり聞かれないが、1500年前に継体天皇が血縁が薄いながらも皇位を継いだ事実があったように、菊栄親睦会の男性が将来天皇位につく事があり得るのではないか。国会議員の中にも(自民党・青山繁春ら)旧宮家に注目する人達がいる。旧宮家の男子は皇族に戻る覚悟を、と力説する人もいる。女性宮家よりも旧皇族の皇籍復帰が現実的であろうし、政府からも皇籍復帰の声が聞かれる。約1500年前、継体天皇が即位するまでに多くの困難があったと『日本書紀』は伝えるが皇位継承に混乱が生まれないようなシステムが必要である。

 江戸時代には将軍の跡継ぎを絶やさないシステムとして御三家(尾張徳川家、紀州徳川家、水戸徳川家)と御三卿(田安徳川家、一橋徳川家、清水徳川家)が設けられ、将軍家に跡継がいないなら、御三家、御三卿からも将軍を出し家康のY染色体を受け継い

 
 過去から受け継いできた歴史や伝統を安易に捨ててはいけない。かつて日本中にあった多くのお城が明治に壊され、JR福井駅前まで広がっていた福井城の百間堀という壮大なお堀を埋め立ててしまったのを今になって多くの人が惜しんでいるように、一旦失ったものはもう取り戻せない。
 
  「王朝交代論」とはどのようなものだろうか。江上波夫(以下、敬称略)、松本清張、直木孝次郎ら諸大家の説は各所で違いがあるが、『日本神話と古代国家』(直木孝次郎、講談社)を参考に短くまとめてみる。短くまとめなかったらこの話は終わらない。初代・神武天皇から平成の第126代天皇・徳仁まで3人の「神」をいだく天皇が挙げられる。

@ 初代・神武天皇は本当の名前は神大和磐余彦(かみやまといわれひこ)で、奈良・畝傍(うねび)にいて天下を治めたと紀記は伝える。しかし、天皇を支えたとされる大伴氏や物部氏は5世紀の大阪に本拠を置く豪族であり矛盾が生ずる。又、初代天皇としてふさわしい古墳が畝傍付近に見あたらない。神武天皇は実在しなかった天皇である。第2代・綏靖天皇から第9代・開化天皇までは、日本書紀には行動、事績が記載されておらず実在しなかった天皇と考えられる。実在したと考えられる第10代・崇神天皇(すじんてんのう、和風諡号(わふうしごう)は、みまきいりひこいにえ)は御肇国天皇(はつくにしらすすめらみこと)つまり初めて国を治めた天皇という称号を持つが、もし初代神武天皇が実在した天皇なら後の第10代崇神天皇がそのような称号を持つはずがない。

A 3世紀末から有力な豪族が現れ始め、4世紀中頃からそれらを統合して三輪山の麓の
巻向付近で初期大和政権が成立した。その長が第10代・崇神天皇(すじんてんのう)として日本書紀に記載された人であり、実際にはこの人が実在した初代の天皇で第1次大和朝廷の祖であろう。(水野祐、井上光貞など殆どの史家は崇神天皇を実在した初代の天皇とする。)実在のほぼ確かな第10代崇神天皇、第11代・垂仁天皇(すいにんてんのう)、第12代・景行天皇(けいこうてんのう)の後に、第13代成務天皇(せいむてんのう)と第14代・仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)の名があるが、この2人は崇神王朝と第2次大和朝廷の祖である第15代・応神天皇とを繋ぐために作り出された(実在しなかった)天皇ではないか。崇神王朝は長く続かなかったようだ。

B4世紀後半に大量の鉄製武器を持つ強力な武力を持つ豪族が河内・和泉方面に現れた。これが
第15代・応神天皇であり、第1次大和政権を打倒して第2次大和政権を担った。応神天皇は大阪地方の豪族と考えられる。と言うのは、応神は難波の大隅宮、第16代仁徳は難波の高津宮、第18代・反正天皇は柴籬宮(しばがきのみや、羽曳野市)に都し、更に陵は応神陵や仁徳陵など第19代允恭天皇まで全て河内・和泉に築かれた。応神王朝は、中国にもたびたび使いを出し、「宋書」倭国伝には讃(さん)・珍(ちん)・済(せい)・興(こう)・武(ぶ)という倭王の名が見られるが、武は第21代・雄略天皇であろう。この頃に東北以北と九州南端を除く日本全域がほぼ大和朝廷の支配下に入ったが抵抗の激しい地域もあった。5世紀を通じて大いに栄えた応神王朝は、第25代・武烈天皇が奇怪な遊びをし時には妊婦の腹を割いて見るなどの暴虐を行い子もなかった。このために大和朝廷は断絶の危機に立たされ混乱に陥った。

C大伴金村らが各地に皇統を探しついに
三国(現在の福井県坂井市丸岡町付近)から出たと日本書紀が伝えるのが第26代・継体天皇で第3次大和政権を担った。しかし、彼は越前の豪族に過ぎず「応神5世の孫」という日本書紀の記述は皇位継承を正当化する口実に過ぎない。応神王朝は武烈で絶え、継体天皇が建てた新王朝が現在の天皇家である。

 
 古代の天皇について大家の見解を紹介する(敬称略)。
◎応神天皇は大阪地方の豪族である。第26代・継体天皇は元は越前の豪族に過ぎない。継体天皇が建てた新王朝が現在の天皇家である。 (古代史学者・直木孝次郎)
◎三国より出た継体天皇を新王朝の始祖と考えている。応神の母・神功皇后は母方でさかのぼると新羅の王子・アメノヒボコ (天日槍)にたどり着く。『古事記』に継体天皇は近江の出身という記述が見られるが、これは生誕地が近江であるという意味であろう。(考古学者・森浩一)
◎継体大王の勢力や人柄が形成されたのは越前の風土の中においてであったろう。三尾氏というのは、本来は越前が中心だった可能性がある。 (古代史学者・門脇禎二)
◎応神天皇は朝鮮半島から九州北部に上陸し、その後河内に至った。書紀の記事も継体紀からはよほど信用して良い。
応神天皇5世孫などというのは赤の他人と同じだ。(作家・松本清張)
◎越前から近江まで即位前の継体天皇の一家の力がのびていたために、『古事記』は近江から継体天皇を迎えたと記したのだろう。 (古代史学者・武光誠)
◎第10代・崇神天皇も第15代・応神天皇も満州・蒙古系の騎馬民族であり朝鮮半島を経由して日本に渡来した。 
騎馬民族征服王朝説で知られる江上波夫・東大名誉教授
◎六世紀初頭において越前人が、その勢力をひきいて倭政権の首長になったということは、その後あまり冴えなかった越前という地の日本政治史上の位置から考えて、尋常ならざるできごとといっていい。(作家・司馬遼太郎)

 研究者の主張にはあちこち違いが見られるのだが、継体天皇から現在の天皇家まで皇統が確実に繋がっているとする点では全員一致している。
 
 これ以外にも継体天皇の母・振姫(ふりひめ)の父・オハチ(乎波智)君は朝鮮半島にあった加羅王国のハチ王ではないか、継体天皇は渡来系ではというような話が高名な史家の口からも出てくる。
 当時も今も日本に近い国・韓国との往き来は盛んである。福井弁丸出しで「あのお〜。」と言った時などの抑揚(イントネーション)は韓国語にうり二つである。朝鮮半島と日本との交流の多かったことを示しているようだ。