継体天皇の曾孫 聖徳太子(574〜622年)   蘇我馬子 (?〜626年)  越前・若狭紀行
  成立した古代国家の中で群を抜く著名人は言うまでもなく聖徳太子である。継体天皇の孫が用明天皇でありその第1皇子が聖徳太子であるから太子は継体天皇の曾孫である。
  継体天皇の名が不滅であるのはその子孫の推古天皇や聖徳太子らが古代国家の揺るぎない礎を築いていったからである。太子が推古天皇の摂政になった頃は20才あまり年上の舅にあたる
蘇我馬子が勢力を誇っており、今に伝えられる太子伝はかなり潤色されているという指摘は方々から出されているが次の天皇になる実力は十分に備わった人であった。ひとたびに十人の話を聞く、というのは多くの人の言い分を皆が納得するように調停したということと思われるが太子を讃える逸話は枚挙にいとまがない。
 隋と対等の外交を求めて小野妹子を遣隋使として送ったり、冠位十二階、十七条憲法制定など蘇我馬子と共に古代日本の基礎を固めた。
622年に后・膳部大郎女(かしわべのおおいらつめ)が亡くなった翌日に聖徳太子が亡くなり、その2ヶ月前に母の穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとこうじょ)が亡くなっている。相次いで3人の死が続いたのは伝染病ではないかと指摘する学者もいるが断定できない。1879年の廟墓修理に際して実検が行われたが、太子の乾漆棺は破損して僅かな断片を残すのみであったという。「形あるものいつかは滅びる」の定めを改めて思う。
  推古天皇の時に整備された飛鳥と難波を結ぶ日本最古の官道・
竹ノ内街道が大阪府・太子町を通る辺りに用明天皇、推古天皇、敏達天皇、聖徳太子、小野妹子が永久の眠りについている。大阪府太子町のこの辺は磯長谷古墳群(しながだにこふんぐん)とも言われる王陵の谷で、埋葬されたのは小野妹子を除けば天皇クラスの人ばかりである。その中に妹子が大規模な墳墓をもって埋葬されているところに彼を亡くした大和朝廷の衝撃の大きさや妹子への尊崇の大きさを看ることができる。磯長谷は飛鳥から西を望めば真っ赤な夕日が二上山の向こうに沈む所である。TOPへ
  参考文献  日本の歴史(直木孝次郎  中央公論社)       
                 
 
 
 大阪府太子町にある聖徳太子御廟所・叡福寺。 付近の地図  叡福寺の近くの小野妹子の墓。太子の外交方針を実現した有能な外交官であり、随に渡った翌608年随の皇帝・煬帝の特使・裴世清(はいせいせい)を伴って帰国した。   秋には彼を讃えるかのように無数の彼岸花が咲き誇る。日露戦争後のポーツマス講和会議や不平等条約の改正にあたった小村寿太郎らに並ぶ日本史上最も著名な外交官の一人である。  蘇我馬子を埋葬したとされる石舞台古墳(奈良県高市郡明日香村) その政策は朝廷の中で重きをなした。   606年止利仏師作の飛鳥大仏。尚、東大寺の盧舎那仏は752年開眼である。