勝山は1574年の一向一揆の蜂起までは袋田(ふくろだ)と呼ばれ、平泉寺の門前町として古くから歴史を刻んで来た。 かつて、強力な僧兵を持ち源平合戦や南北朝争乱、更に一向一揆や朝倉と織田の戦いなどで領地拡張を目指して様々な争いに介入し、中世のある時期には寺領
9万石、僧兵8000人に達したとされる。しかし、平泉寺は1574年にそれまで何百年にもわたって農奴として収奪・支配してきた袋田を中心とする一向一揆衆に襲撃されほぼ全山が灰塵に帰した。この時、一向一揆衆が自分達の城塞のあった村岡山(むらこやま)を「勝つ山」、従って勝山と改めた。『朝倉始末記』の原本著者は不明であり、一部に誇張した記述も見られるが当時の状況を今に伝える貴重な資料である。
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石畳の参道 | 苔におおわれる境内 |
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お盆で参拝者が多かった | 平泉家正門 |
『物語日本史』(平泉澄、講談社学術文庫) ![]() ・・・・・
一年たって昭和二十八年五月二日、先賢の八十年祭に福井へ参りましたところ、出て来たついでに成和中学校で講話を頼まれました。その中学校を私は知らず、中学生は私を知らず、知らぬ者と知らぬ者とが、予期せざる対面で、いわば遭遇戦でありました。講話は極めて短時間で、要旨は簡単明瞭でありました。「皆さん!皆さんはお気の毒に、長くアメリカの占領下に在って、事実を事実として教えられることが許されていなかった。今や占領は終わった。重要な史実は、正しくこれを知らねばならぬ。」と説き起して、二、三の重要なる歴史事実を説きました。その時の生徒の顔、感動に輝くひとみ瞳、それを私は永久に忘れないでしょう。生徒一千、瞳は二千、その二千の瞳は、私が壇上に在れば壇上の私に集中し、話し終って壇を下りれば壇下の私に集中しました。見るというようなものではなく、射るという感じでした。帰ろうとして外へ出た時、生徒は一斉に外へ出て私を取巻き、私がタクシーに乗れば、タクシーを取巻いて、タクシーの屋根の上へまで這い上って釆ました。彼らは黙って何一ついわず、何一つ乱暴はしない。ただ私を見つめ、私から離れまいとするようでした。ようやくにして別れて帰った私は、二三日後、その生徒たちから、真情流露(りゅうろ)する手紙を、男の子からも、女の子からも、数通もらいました。私の一生を通じて、最も感動の深い講演でありました。 |
『朝倉始末記』 (藤井正規訳、勉誠社)
![]() 天正二年四月十四日大野南袋七山家の一揆勢は協議して、「村岡山を寺より取り城をつくれば、この山中の田畠はみな荒れてしまう。そうなると山中の人は非常に困るであろう。これから攻めて行き今夜の内に村岡山に堀や柵をつくり陣をしくべきだ」との意見が出て一同賛成した。すぐ七山家の者どもが夜間に堀の柵、乱株と逆木をぬい、小堀を掘ってたてこもった。漢書にも、智者の千の考えにも一つの過ちがあり、愚者の千の考えにも必ず一つの良案があるという。ここで平泉寺の足軽たちが未明に出て見ると、村岡山に柵が作られ兵が陣どっているのか、刃が光り人声がきこえた。急いで寺に帰り主の大衆に知らせた。 寺内ですぐこれを協議したが、このままだと城の備えは堅固となり常に脅威となる。すぐ今日中に攻め追い払った方が良い」との意見であった。すると式部大輔が、「今日は日柄も悪い。時刻も遅いので先にのばし、よく計画して攻めた方が良い。・・・・・ |