勝山市           写真紹介(弁天桜)      越前・若狭紀行
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 勝山は1574年の一向一揆の蜂起までは袋田(ふくろだ)と呼ばれ、平泉寺の門前町として古くから歴史を刻んで来た。
 
 越前・麻生津(浅水、あそうず)に生まれた泰澄(たいちょう)大師(682?〜767年?)は「越の大徳(こしのだいとこ)」と言われ、信仰の山として仰がれるようになった白山(2702m)を開き、717年には白山の表参道として平泉寺を建立した。正式には平泉寺白山神社(へいせんじ はくさんじんじゃ)という神社であり我が国の白山神社の総本山である。

  かつて、強力な僧兵を持ち源平合戦や南北朝争乱、更に一向一揆や朝倉と織田の戦いなどで領地拡張を目指して様々な争いに介入し、中世のある時期には寺領 9万石、僧兵8000人に達したとされる。しかし、平泉寺は1574年にそれまで何百年にもわたって農奴として収奪・支配してきた袋田を中心とする一向一揆衆に襲撃されほぼ全山が灰塵に帰した。この時、一向一揆衆が自分達の城塞のあった村岡山(むらこやま)を「勝つ山」、従って勝山と改めた。『朝倉始末記』の原本著者は不明であり、一部に誇張した記述も見られるが当時の状況を今に伝える貴重な資料である。
 本願寺8世の蓮如(1415〜1499)が出現し、1488年には加賀の農民達が富樫氏を倒すなどして農民達の一向一揆が強大化していった時期であった。又、1573年には信長が朝倉氏と浅井氏を滅ぼしている。

 境内にそびえる大木の多くはそれ以後のもので樹齢2、300年程度だが境内にある老杉(ろうさん)は2万本という。石畳の参道「日本の道100選」である。かつて、山伏姿に身をやつして奥州に逃れる義経や弁慶一行も立ち寄った平泉寺であるが、藤原氏が栄えた奥州平泉との結びつきもあったのではないかという説もある。『街道をゆく』で司馬遼太郎が「
京都の苔寺の苔など、この境内にひろがる苔の規模と質から見れば笑止なほどであった。しかも、苔寺は金をとって収入を得ているが、平泉寺は無料であった。すでに、社寺の観光化と金儲けが常識になっている時代に、このことも肝にひびくほどにおどろかされた。」と述べている。白山は深田久弥の「日本百名山」

 平泉寺(へいせんじ)の社家である平泉(ひらいずみ)家は現代になっても逸材を輩出している。平泉渉・前科学技術庁長官・経済企画庁長官(ひらいずみ わたる、1929〜2015)もその一人であるが、東京帝国大学教授・平泉澄(ひらいずみきよし、1895〜1984年)は熱烈な皇国史観の主唱者であり戦時中、大きな影響力をもった。太平洋戦争降伏阻止をもくろみ皇居を占拠しようとするクーデタ計画 (宮城事件) を企てた陸軍将校達もその影響を強く受けた人たちだった。門柱には両氏の表札が掲げられていた。
 戦後の天皇人間宣言や教育勅語の否定により平泉らが熱唱した皇国史観は消滅したようにも思われるが、1950年以後、建国記念や靖国神社法案や元号法の制定、教育勅語の復活傾向,天皇の尊厳性の強調、国民の権利意識への批判的傾向の中に見られる「期待される人間像」や教科書検定などの一連の動きにその影響を指摘することができる。皇国史観が社会を動かす時代ではなくなったが平泉は昭和の代表的思想家の一人には違いない。


 平泉澄の子・平泉渉は1974年〜1975年にかけて、英語教育に疑問を呈し中高校の生徒全員が高度な英語教育を目標にする必要はないという趣旨で独自の論点を提示した。今、英語教育の方針は大きく変わっている。

 平泉寺が選定を受けたものとして、「日本の道100選」、「歴史の道百選」、「新・日本街路樹100景」、「美しい日本の歴史的風土100選」、「かおり風景100選」等がある。  関連のサイト。

 近年、勝山付近は恐竜の骨がしばしば発掘されることで注目され、福井県立恐竜博物館(外部サイト)は国内屈指の規模を持つ。
参考文献  『世界大百科事典』(平凡社)

                                                                    

石畳の参道      苔におおわれる境内
     お盆で参拝者が多かった   平泉家正門
 物語日本史(平泉澄、講談社学術文庫)                     
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一年たって昭和二十八年五月二日、先賢の八十年祭に福井へ参りましたところ、出て来たついでに成和中学校で講話を頼まれました。その中学校を私は知らず、中学生は私を知らず、知らぬ者と知らぬ者とが、予期せざる対面で、いわば遭遇戦でありました。講話は極めて短時間で、要旨は簡単明瞭でありました。「皆さん!皆さんはお気の毒に、長くアメリカの占領下に在って、事実を事実として教えられることが許されていなかった。今や占領は終わった。重要な史実は、正しくこれを知らねばならぬ。」と説き起して、二、三の重要なる歴史事実を説きました。その時の生徒の顔、感動に輝くひとみ瞳、それを私は永久に忘れないでしょう。生徒一千、瞳は二千、その二千の瞳は、私が壇上に在れば壇上の私に集中し、話し終って壇を下りれば壇下の私に集中しました。見るというようなものではなく、射るという感じでした。帰ろうとして外へ出た時、生徒は一斉に外へ出て私を取巻き、私がタクシーに乗れば、タクシーを取巻いて、タクシーの屋根の上へまで這い上って釆ました。彼らは黙って何一ついわず、何一つ乱暴はしない。ただ私を見つめ、私から離れまいとするようでした。ようやくにして別れて帰った私は、二三日後、その生徒たちから、真情流露(りゅうろ)する手紙を、男の子からも、女の子からも、数通もらいました。私の一生を通じて、最も感動の深い講演でありました。                    
 朝倉始末記 (藤井正規訳、勉誠社)                                              
  天正二年四月十四日大野南袋七山家の一揆勢は協議して、「村岡山を寺より取り城をつくれば、この山中の田畠はみな荒れてしまう。そうなると山中の人は非常に困るであろ。これから攻めて行き今夜の内に村岡山に堀や柵をつくり陣をしくべきだ」との意見が出て一同賛成した。すぐ七山家の者どもが夜間に堀の柵、乱株と逆木をぬい、小堀を掘ってたてこもった。漢書にも、智者の千の考えにも一つの過ちがあり、愚者の千の考えにも必ず一つの良案があるという。ここで平泉寺の足軽たちが未明に出て見ると、村岡山に柵が作られ兵が陣どっているのか、刃が光り人声がきこえた。急いで寺に帰り主の大衆に知らせた。
 
寺内ですぐこれを協議したが、このままだと城の備えは堅固となり常に脅威となる。すぐ今日中に攻め追い払った方が良い」との意見であった。すると式部大輔が、「今日は柄も悪い。時刻も遅いので先にのばし、よく計画して攻めた方が良い。・・・・・