長曾禰虎徹と越前康継   越前・若狭紀行
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 かつて、江戸、京都、大坂に並んで福井に幾人もの優れた鍛冶師が足跡を残した。
 
 長曽祢虎徹入道興里(金象嵌銘)
四胴 山野加右衛門六十八歳ニテ截断 于時寛文五年二月廿五日
     東京国立博物館蔵


 
長曾禰虎徹(ながそね こてつ、1605?~1678?、長曾禰興里入道虎徹、本名は興里(おきさと))は越前(福井)で成人して甲冑師となった。歴史小説では「越前の人」として描かれている場合が多いが、滋賀県彦根市の彦根城西部に長曽根という地名が見られる。生国は滋賀県であろう。福井県立歴史博物館(外部サイト)には虎徹の刀が展示された。
 
  虎徹は明暦1~2年(1655~1656年)50才の頃、江戸に出て刀工として活躍するようになった。情熱の人であった。
 戦いの時代が終わり新しく安定した江戸時代の社会を象徴するような美しい曲線と力強さを持つ
江戸新刀(慶長元年(1596年)~安永末年(1871年))を代表する名工で、長曾禰虎徹、野田繁慶、越前康継の3人は「江府三作」とされた。刀の最高格である「最上大業物」(さいじょうおおわざもの)と評価され、四つの死体を重ねても真っ二つに切断する程のすさまじい切れ味だったという。 虎徹は茎(なかご、刀の柄(え)に覆われる部分)に試し斬りの銘文を入れた。江戸時代の作刀師に大きな影響を与え、虎徹の刀は大名や高位の武士達の垂涎の的であった。

  最高の評価故に多くの贋物が伝わっている。
 東京国立博物館学芸部刀剣室長の故・佐藤貫一(さとう かんいち、1907~1978、号は寒山、1960年「御紋康継の研究」で文学博士)は出身地の山形県で、虎徹として登録されている刀約200振りを調べたところ本物と考えられたのは12、3振りだけだったという。現在は一振り何千万円の値が付くと思われるが、税金対策、盗難対策など様々な理由で持ち主は明らかではない。
 
 新撰組組長・近藤勇は1864年7月8日祇園祭の最中、池田屋事件(池田屋騒動)で死闘を演じた。本人は本物の虎徹だと信じ切って僅かな同士と共に池田屋に切り込んだ。「二時間余りの死闘で沖田総司、永倉新八、藤堂平助らの刀はぼろぼろになったのに自分のは刃こぼれがなかった」と言ったとされるが、この時の刀は贋物だったのではないかと言われる。
 司馬遼太郎は、近藤が所有した三本の内、大阪の豪商・鴻池からの贈り物と斉藤一が見つけた掘り出し物を譲り受けた二本は本物だったが、ふだん帯刀していたのは源清麿(1813~1855?)の贋作だとした。

 
虎徹は現代の人々の心も捉えて放さない。『半百の白刃 虎徹と鬼姫』(長辻象平、講談社文庫)、『いっしん虎徹』(山本兼一、文春文庫)、『千両花嫁』(山本兼一、文芸春秋)、『虎徹という名の剣』(森雅裕、新潮社)、『虎徹宵話』(太宰治、筑摩書房)、『新選組血風録』(司馬遼太郎、角川文庫)、など多く作家が取り上げている。

 
越前康継(えちぜん やすつぐ、1554~1621、下坂市之丞)は近江(滋賀県)の出身。北ノ庄藩(後の福井藩)68万石の藩祖・結城秀康に召し抱えられ、慶長の頃(1605~1609年頃)、秀康の父・徳川家康に召致され隔年で福井と江戸に住み作刀した。家康から康の字を与えられ、刀に葵紋の刻印を許され葵康継と呼ばれた。江戸新刀の開祖とまで言われる。
 家康は大坂の陣で落城時に焼けた名刀を惜しみ、初代・康継に再刃(焼き直し)を命じ幾本かの名刀を蘇らせた。

 
兼重(かねしげ、?~?、辻助右衛門)も福井の人と言われる。藤堂高虎に気に入られ津藩主・藤堂家に仕えた。寛永(1624~1644)の頃江戸で活躍した。兼重が虎徹の師匠だったという説が有力。

 
金重(かねしげ、?~?)は福井県出身(敦賀、清泉寺の僧とも)で、美濃・関に移り、関鍛冶繁栄の基礎を作ったという非常に大きな評価を得ている。正宗十哲の一人。「地金に生国越前の趣が色濃くあらわれている」『新潮日本人名大辞典』(新潮社)

 
明珍吉久(みょうちん よしひさ、?~1664)は越前(福井)明珍家の初代。明珍は江戸が本家。大英博物館所蔵の「鷲」の置物などを残した。

 
友重(ともしげ、?~?)越前藤島出身で1312年頃に加賀に移った。加賀国守護・富樫政親(とがし まさちか、1455~1488)が20万の一向一揆勢に攻められ高尾城(たこうじょう、加賀)で自害した時に友重の大太刀を帯刀していた。(『官地論』、外部サイト)
   
『半百の白刃 虎徹と鬼姫』(長辻象平、講談社文庫)より転載 
 (はんびゃくのはくじん)

愛刀家の著者・長辻象平が所蔵する刀の銘文は以下の通り。もし、本物の虎徹なら何千万円の価値である。
 
寛文三年二月十六日
山野加右衛門六十六歳永久(花押)
貳ツ胴度々三つ胴截断

 『いっしん虎徹』(山本兼一、文春文庫)より転載
.....世に稲葉乕徹と称し、越前の家老稲葉氏の差料也、伝え云ふ乕徹越前に在りし頃頗る稲葉氏の知遇を得たり、江戸出府に臨み従容として稲葉氏に対して曰く、他日良匠となるを得ば必ず一刀を鍛造して之を座右に捧げ 聊か謝恩の意を表すべしと約せしが 後稲葉氏の出府するや即ち此刀を贈れりと      藤代松雄『名刀図鑑』より.....

 長辻象平は司馬遼太郎も在職した事がある産経新聞社の論説委員。司馬遼太郎は『梟の城』(ふくろうのしろ)で昭和三十四年第四十二回直木賞を受賞した。社内ではちょうど文化部長に昇任した時で、社内の人達はこの時まで遼太郎が小説を書いている事すら知らず、突然の直木賞受賞に驚いたという。『梟の城』は素人っぽさが残る作品であるが遼太郎は文壇に飛躍する事になった。
 
  著者の長辻象平は
虎徹の故郷を越前国(福井県)として同書を執筆した。創造性豊かで魅力的な作品であり、産経新聞社から二人目の遼太郎か!と期待しよう。下巻は少しごちゃごちゃな内容になっている。下巻は必要なかった。
 
『半百の白刃 虎徹と鬼姫上下巻 (長辻象平、講談社文庫)       
.....
  「越前とは、どのような国でございましょうか」と鬼姫は問いを発した。
 「万葉の歌人が、み雪降る越―と称した雪深い土地よ。山が海に迫りその山地を抜けて流れる九頭竜川の作った平野の中に福居の城がある」
「越山若水(えつざんじゃくすい)というのを聞いたことがございますが」
 「さよう、それは越前の山と若狭の海の風光明媚をあらわす言葉よ。若狭の海では春夏秋の夜に、舟の上で篝火(かがりび)を焚いて鯖を釣る。数百の舟が沖に集まって夜空を焦がすごとき景観でござってな」
 ・・・・・

 山本兼一は虎徹を深く追求した作家である。『千両花嫁』(山本兼一、文芸春秋)にも虎徹が登場する。
『利休にたずねよ』で第140回直木賞。
『いっしん虎徹』(山本兼一、文春文庫)                          
.....
  虎徹の太刀は、土壇の下まで深々とめり込んでいる。
 兜は両断されている。あの鉄塊までも、真っ二つに断ち切ったのだ――。
―切れた。
 土壇の土から、加右衛門が、太刀をそっと引き抜いた。
まっすぐ天にかざすと、陽射しを浴びて輝いている。
 虎徹は、思わず駆け寄った。懐紙をさしだすと、加右衛門が太刀をぬぐった。刀身はまっすぐで歪みもなく、刃こぼれひとつしてない。
 一座はしずまりかえつて、誰も声を発しなかった。
「あっぱれ見事な太刀。まこと、虎徹は日本一の鍛冶である」
 声の主は、将軍家綱だった。