お江の娘たち松平忠直   越前・若狭紀行
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 北ノ庄(のち福井)には江戸時代に徳川家康と妻・築山殿の侍女・お万の間に家康の二男として生まれた結城秀康の居城が置かれた。家康の長男・信康が早く亡くなったので家康の次男・結城秀康が将軍になってもおかしくなかったが秀康は結城家に養子に出されていたために5歳年下の家康三男・秀忠が第二代将軍となった。北ノ庄藩は「制外の家」であり、秀康は将軍・秀忠の兄なので江戸城滞在中は他の大名と違って破格の扱いであったが、これは弟・秀忠から兄・秀康への思いやりだったと言われる。
 
  娘時代のお江(1573〜1626、お江与、小督)が母・お市と悲しみの別れをしたその越前に、今度はお江の三女・勝姫(1601〜1672)が時の福井藩主・松平忠直(1595〜1650)の正室として嫁いで来た。しかし、大阪夏の陣では徳川家康を追いつめた真田幸村を討つなどの大功を立てたものの、その後の忠直に恩賞が少なかったため、幕府に不満を持ち、更に乱行を問われて1万石の大名に落とされ豊後(大分)に配転されることになる。「二度と大名などにはなりたくない。」と言い残したと伝えられる。この辺の事情は小説ではあるが忠直卿行状記(菊池寛著)から伺う事ができる。江戸時代を通して隣国・加賀が比較的安定していたのに対して越前は波乱が多かった。

  保護者をなくした三姉妹の親代わりは秀吉であり、結婚当時は秀忠の父・家康はまだ秀吉の臣下の立場だった。しかもお江の方が秀忠よりも六歳年上、更にお江は三度目の結婚であった。表向きは最後まで秀忠に側室はいなかった。秀忠とお江は夫婦仲も睦まじく二男五女(二男が三代将軍・家光、三男は忠長、長女は千姫)をもうけた。
 三女・勝姫は福井藩主・松平忠直の正室となり北ノ庄(福井)にやって来た。

 
四女・初姫は小浜藩主・京極忠高の正室である。

 五女・和子(かずこ、まさこ、東福門院)は1620年、後水尾天皇の正室となり次女・興子(おきこ)を産んだ。
 秀忠の外孫である
興子は1629年紫衣事件に依る父の譲位により7才で第109代明正天皇(めいしょうてんのう、1624〜1696)となり21歳まで天皇位にあった。859年ぶりの女性天皇である。天智天皇の第4皇女である第43代元明天皇(661〜721、※1)とその娘・第44代元正天皇(680〜748、※2)の名を一字ずつ当てられた。少女天皇であり事績は何も記録されなかった。女帝で結婚はできなかった。奈良時代の第48代・称徳天皇(718〜770、※3)が道鏡を天皇にしようと謀ったため女帝を忌避するようになり、皇后は次期天皇を出産するだけの存在になっていた。
 かくて信長の妹・お市の方の三女・お江によって
織田家の血脈は日本の二大権力中枢の徳川将軍家と天皇家双方に受け嗣がれることになった。こんな事になるなんてお市の方は予想だにしなかっただろう。ただ、次の第110代天皇は異母弟の後光明天皇(ごこうみょうてんのう、1633〜1654)である。

※1 第43代元明天皇(661〜721、和同開珎を作り、藤原京から平城京に遷都)
※2 第44代元正天皇(680〜748、養老律令制定や日本書紀の完成、衣服の襟を右前に決め、三世一身法を制定)
※3 第48代・称徳天皇(718〜770,第46代孝謙天皇と同一人物、東大寺大仏の開眼、鑑真来朝、道鏡とのスキャンダル)