橋本 左内     今も人気の福井藩士     越前・若狭紀行
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橋本 左内
 


弟 橋本 綱常




 橋本左内生母 梅尾
  
国立国会図書館蔵  福井市立郷土歴史博物館蔵 橋本左内先生像  左内公園(福井市左内町7) 地図案内
  橋本左内(はしもと さない、1834~1859)は幕末の福井藩士。蘭学者の双璧である緒方洪庵(1810~1863)や杉田成卿(せいけい、杉田玄白の孫、小浜藩医、(1817~1859)、幕府天文台訳員、幕府蕃書調所教授、1844年オランダ国王の親書を翻訳、1853年アメリカ大統領の国書を翻訳、江戸出身)らに学び、福井に戻ると(1852年)父の後を継いで福井藩医となった。しかし、左内は医業は本意ではなかった。当時の医業は社会的地位が低くガンや結核など治せない病気が多く、左内は病人以外の貧窮民救済をも志していた。尚、左内とほぼ同じ年齢で、大坂の適塾に学んだ福沢諭吉も医業に就かなかった。
ご案内橋本左内に関する参考資料 福井県史

 1854年江戸の杉田成卿の門下に入ると、成卿は左内に蘭書一冊の解読を命じた。一ヶ月間昼夜を分かたず没頭して解読を終えた左内にその内容を尋ねるとよどみなく答え一点の誤りもなかった。成卿は、「我が後継者は左内あるのみ」と賞賛したという。 
 江戸への遊学(1854年)は他藩士との交わりも増え、激動する日本の現実に直面する事となった。江戸に出てから幕吏の捜査・尋問を受ける(25才の1858年10月頃)まで、西郷隆盛、藤田東湖、武田耕雲齋、川路聖謨、青蓮院宮、岩瀬忠震らと深い交わりを持った。左内の鋭利で冴え渡る弁舌に接した彼らは、ある者は驚嘆し、ある者は敬服し兄事した。
 「
数多い幕末志士の中にあって、もっとも開明性豊かで、日本の近代的展開過程における先駆的担い手の一人であり、幕末から明治への歴史の中で、橋渡し的役割を果たし、近代日本誕生のために、偉大なる足跡をのこした、忘るべからざる志士であったと評価できる。」(『日本の歴史開国と攘夷』(小西四郎、中央公論))
 
 藩命で帰国(1855年)すると医員を免じられて書院番となり福井藩主・松平慶永を積極的に補佐し、
貿易をして西欧の進んだ技術を取り入れ国力を高めて幕府の体制を強化するという開国貿易論を唱え、更に一橋慶喜の将軍擁立に尽くした。
 松平慶永はペリ-来航時の1853年頃は水戸藩・徳川斉昭らと共に頑強な攘夷論者(外国人を追放する)であった。しかし、鎖国は国際情勢から見て無益であり、貿易に対する課税は幕府の莫大な税収になり、それが国富や国防に繋がる事など、
積極的に開国貿易論を説く左内の影響を受け1856年初代駐日総領事・ハリスが着任した頃より徐々に開国へと思想転換した。

 第13代将軍・徳川家定(いえさだ、1824~1858、1856年天璋院篤姫と結婚)が暗愚で子もいなかったため次の将軍を誰にするかで、家定からの血統が濃い(従兄弟)徳川慶福(よしとみ、第14代将軍・家茂、1846~1866、1862年17才で同い年の和宮と結婚)を推す井伊直弼達(
南紀派)と、英明の誉れ高い一橋慶喜(14代将軍・家茂の後見職、家茂の死後15代将軍に)を推す松平春嶽達(一橋派)の対立は「継嗣(けいし)問題」となって政権争奪の様相を呈した。この継嗣問題以外に、攘夷か開国か、更に尊皇派(天皇を支持)と佐幕派(幕府を支持)の対立など、三つもの対立軸があった。

 安政の大獄(1858~1859)では譜代大名家出身の直弼が将軍代行役のような大老に就いていて、徳川家に雇われた幕府の番頭の様な立場の直弼が将軍継嗣問題や開国問題で対立した徳川家主軸の第9代水戸藩主・徳川斉昭(なりあき、慶喜の父)、第10代水戸藩主・徳川慶篤(よしあつ、慶喜の兄)、尾張第14代藩主・徳川慶恕(よしくみ、慶勝(よしかつ)とも)を処分した(1858年7月5日)。水戸徳川家と尾張徳川家は徳川御三家だった。江戸時代は長きにわたって将軍の家来にあたる譜代大名達が幕政を担っていて御三家や親藩(御家門)大名は幕政に参加して来なかった。
  慶永は藩主を松平茂昭(もちあき、1836~1890)へ継がせられ江戸の福井藩別邸で5年間(1858~1862)に及ぶ隠居・急度慎(きっとつつしみ、切腹に次ぐ重い処罰で家族との面会も禁じられた謹慎幽閉)を命じられた。これは徳川家に雇われた番頭が徳川家や松平家を処罰するという前代未聞の出来事であり、これをきっかけにして
井伊直弼が主導した安政の大獄は国内に深い遺恨と亀裂を作り幕府は急速に崩壊へと歩み始めた。
 橋本左内や吉田松陰ら8人は死罪や獄門に処せられ、更に梅田雲浜ら2名が獄死した。隠居・急度慎を命じられていた春嶽は左内を救う事ができなかった。合わせて約100人に厳しい処分を下した事(1859年、安政の大獄)は井伊直弼の悪名を広め、水戸藩の激しい憎悪は
関鉄之介(せき てつのすけ、1824~1862、逃亡生活の末1861年に越後の雲母温泉で捕らえられて江戸で斬首)ら水戸浪士達が直弼を惨殺する桜田門外の変(1860年3月3日)へ繋がった。左内や吉田松陰を処罰して僅か半年後の出来事である。
  直弼はその著書『茶湯一会集』の中で茶道の大切な心得として「
一期一会」を使い四字熟語として世に広まった。

 『
日本の歴史開国と攘夷』(小西四郎、中央公論)は「わたしは井伊直弼を、開国の恩人と賞賛することには組しない。・・・・・政治家として、大老として、自己の決断で幕政を運営したことは当然で、それについて非難することは当たらない。ただ、時勢の動きについて的確な判断を欠き、前途についての明察力のなかった人物であるとの評価は、与えられてよいものであろう。」と述べている。至って的確な指摘である。死罪は理不尽だと誰もが思う。左内は貿易をして西欧の進んだ技術を取り入れて国力を高め幕府の収入を増やし徳川幕府を強化するという開国貿易論を唱えたのであり、死罪に当たる理由は何ら見当たらない。開国では直弼とほぼ同じ方向を向いていたのだが、将軍継嗣問題で対立し「橋本は死罪にしておかねばならぬ」という直弼の独断により死罪に処せられた。直弼にとって左内は実に手強い相手だったのだ。左内は刑場で最後に大粒の涙を流し斬首されたという。直弼に対しては独善主義者と開明主義者の両方の評価がある。
 若すぎる26才の死であった。
 1862年、福井藩主松平慶永(春嶽)が政事総裁職(かつての大老、現代の首相、9ヶ月後に辞職)に就いて公武合体に務めたがブレ-ンとして左内がここに近侍していたら、西郷隆盛らとも連携しながら多くの偉業が積み重ねられただろうと思う。
 左内は26年間の短い人生を将軍を出す御三家御三卿に続く家格の福井藩主・松平慶永に近侍し、命懸けで強い徳川幕府の体制強化を目指して奔走した。左内を「不世出の英傑」(皇国史観を主導した平泉澄)と激賞する論者もいた。ただ、子供や暗愚でも血筋が良ければ将軍に、武士の家に生まれればその子も武士になって、勤労生産活動をせずとも生活が保障される幾万もの藩士や旗本が存在する強固な階級的身分制度下で、それらごく一部の者だけが飢えや貧困や病気に苦しむ百姓を搾り取って太平楽で暮らす幕藩体制はもう必要なかったが、左内が新しい世に生きていたら明治の英傑をリ-ドして大きな足跡を残していただろうと思われる。

 この頃、小浜藩出身の
梅田 雲浜(関連のサイトは京都で尊皇攘夷派の先頭に立ち幕政を厳しく非難した。その為、1852年に小浜藩の士籍を奪われた。1858年安政の大獄では真っ先に捕えられ、江戸に送られても何一つ口を割らず1859年獄死した。
 第7代鯖江藩主・
間部詮勝(まなべ あきかつ、1804~1884、関連のサイト)は日米修好通商条約調印(1858年)の勅許を得る事に尽力し、更に安政の大獄に積極的に関わったが、間もなく井伊直弼と対立して1859年12月老中職を追われた。間部詮勝は左内を死罪にする直弼の専断に対しても激しく反対したという。

 
左内の母・橋本梅尾(うめお、1817~1882)は大行寺(だいぎょうじ、福井市蓑町)の住職・静境(じょうきょう)の長女。16才で福井藩士・橋本長綱(ながつな、1804~1851、福井藩奥医師)と結婚した。梅尾は1854年左内が江戸遊学中に左内の実家が火災に襲われた際、親戚は左内を呼び戻すようすすめたが、断固拒絶して左内には知らせず江戸での学業に没頭させたという賢母の誉れ高い人と伝わる。
  橋本左内の姉・烈子(れつこ)は鯖江藩士・木内家に嫁いだ。弟に綱維(つなこれ)と綱常(つなつれ)がいて共に医業に身を捧げた。橋本綱維は大阪鎮台病院長、
橋本 綱常(1845~1909)は外科学者でドイツに留学後、東京大学教授、陸軍軍医総監、1886年には初代日本赤十字社病院長を務めた。『日本人名大辞典』(講談社)には、父・橋本長綱、母・梅尾、長男・左内、三男・綱常(つなつれ)と、同一の家族から四人もの名が記載されている。希有な一家である。

 1858年薩摩の西郷隆盛(吉之介、吉兵衛や吉之助とも言う、号は何洲)は大獄の捕縛を免れるため薩摩に逃れたが、藩から滞在を拒否された。
「慶永の周旋によって」(福井県史)養女・篤姫(篤子、天璋院)を第13代・家定の正室にするなどして幕政に強い影響力を持っていた斉彬は1858年亡くなり、藩内の方針は変わっていた。お月見と称して月照(げっしょう、1813~1858、清水寺の住持で梅田雲浜らと共に幕政を非難する密勅を出すなど精力的に活動した)と共に錦江湾へ乗りだし、入水したが西郷だけは辛くも蘇生して、しばらく奄美大島に身を潜めていた時に左内の死を知った。西郷は坂本龍馬の仲介で薩長同盟(1866年)を結び戊辰戦争(1868~1869年)を主導し江戸城無血開城(1868年)に導き大西郷と言われているが、征韓論などで敗れ西南戦争(1877年)を起こした。西郷は西南戦争で敗れ城山で自刃するまで、1857年に敬愛していた左内から受け取った書簡を身近に持っていた。左内が生きていたら西郷はあのような悲惨な結果にならなかっただろうという論者がいる。 
 奄美大島配流中には大島へ対する薩摩藩の酷税取り立てに異を唱えるなどした。島民の愛加那(あいがな)との間に生まれた長男・菊次郎(1861~1928)は1904年から6年間余り京都市長を務め発電事業、上下水道事業、市電事業を推進した。隆盛の孫・西郷吉之助は第2次佐藤内閣(1968年)で法務大臣を務めた。

 橋本左内(1834~1859)の同時代に多くの英傑が歴史的な足跡を残した。左内も明治新政府に招聘されて彼らを先導して偉業を残す筈であったが、新しい明治を駈ける事はできなかった。
勝海舟(1823~1899、江戸出身)咸臨丸艦長、神戸海軍操練所を開き坂本龍馬らを育成、陸軍総裁として西郷と会談し江戸城無血開城。」。
岩倉具視(1825~1883、京都出身)和宮降嫁、明治政府の中枢で欽定憲法制定や日本鉄道会社設立。
大村益次郎(1824~1869、周防出身)明治政府の兵部大輔として近代兵制確立に努めた。
西郷隆盛(1828~1877、薩摩出身)龍馬の仲介で木戸孝允と協議して薩長同盟を成立させ倒幕を推進し江戸城無血開城
由利公正(1829~1909、福井出身)明治政府の財政・金融政策を担い、五箇条の誓文の起草に参画。
大久保利通(1830~1878、薩摩出身)討幕運動の中心となって明治政府を樹立。
吉田松陰(1830~1859、萩出身)松下村塾で高杉晋作、伊藤博文らを教育。
木戸孝允(1833~1877、萩出身)西郷と薩長同盟を結び倒幕、明治政府の中枢で五箇条の誓文の起草、廃藩置県、版籍奉還を主導。
松方正義(1835~1924、薩摩出身)日本銀行設立、金本位制実施。
土方歳三(ひじかた としぞう、1835~1869、武蔵出身)新撰組副長、倒幕勢力を警戒し池田屋事件などで名を残した。
坂本龍馬(1836~1867、土佐出身)神戸海軍操練所塾頭、亀山社中(海援隊)で貿易・海運を営み薩長同盟、大政奉還に尽力。福井藩を数回訪れ松平春嶽、橋本左内、由利公正らと新しい日本について語り合った。
山岡鉄舟(1836~1888、江戸出身)1868年勝海舟の使者として敵陣に乗り込み勝・西郷の江戸城無血開城へ向けた道を開いた、明治天皇の侍従。
榎本武揚(えのもと たけあき、1836~1908、武蔵出身)黒田清隆の尽力で助命され、ロシアとの間で樺太千島交換条約締結。
板垣退助(1837~1919、土佐出身)民選議院設立建白書を出し自由党結成。
大熊重信(1838~1922、佐賀出身)地租改正推進、早稲田大学設立、板垣と日本最初の政党内閣を組織。
山県有朋(1838~1922、萩出身)徴兵制施行、初代参謀本部長となり絶大な発言力を持った。
伊藤博文(1841~1909、周防出身)初代内閣総理大臣、大日本帝国憲法制定、天皇制近代国家の枠組み策定、日清戦争遂行、朝鮮併合。
井上毅(いのうえ こわし1844~1895、肥後出身)伊藤博文のもとで、大日本帝国憲法、皇室典範、教育勅語を起草。

  
 江戸時代、国内統治の実権は幕府が握り寛永の鎖国令(1639年)では幕府は朝廷の了解なしで断行した。アヘン戦争(1840~1842)で敗れた清朝の悲惨極まる実態は日本にも衝撃を持って伝わrり、1844年オランダ国王は日本に開国を進言。しかし、1846年朝廷は国防を厳重にすべきとの勅書を権威の落ち始めてきた幕府に下し政治に影響を強めてきた。米英露仏蘭の外国船はしきりにやって来るようになった。
 ハリスの強硬姿勢をなんとかしのいできた幕府は1858年(安政5年)ついに
朝廷の同意なしで日米修好通商条約を締結し、ここに混沌たる動乱の時代が始まった。力が衰えてきた幕府では朝廷を無視して重要事項の決定ができなくなっていた。直弼が桜田門外に倒れる2年前である。
 
朝廷の許可なく行動した直弼の専断に対する水戸藩主らの怒りは凄まじかった。水戸藩主・水戸慶篤(よしあつ)とその父・斉昭(なりあき)、尾張藩主・徳川慶恕(よしくみ)、松平慶永(春嶽)は直弼を糾弾せんと江戸城に乗り込んた(1858年6月24日)。直弼は突然の押しかけ登城に老獪な対応をした。御三家でない松平慶永を家格の違いを理由に別室(下の間)に控えさせ、昼食も出さずに六時間待たせ疲労させてから直弼は斉昭達の前にやっと現れて来た。斉昭には老衰が見られ、慶篤も御三家の中で重きをなす尾張の慶恕も緊迫した議論のやり取りは苦手だった。
橋本左内 (白崎昭一郎、毎日新聞社 )                      
・・・・・
 井伊大老らが、水戸斉昭たちの前に姿を現したのは、八ツ半(午後三時)すぎであった。昼食もとらずに六時間も待たされたのである。
水戸斉昭は疳癪(かんしゃく)をたぎらせて、
「この度、勅諚に背きて無断調印いたせし段、ご違勅の罪軽からず、掃部頭、不届きであろう」とわめいた。
井伊直弼は少しも騒がず、
「ご勅諚は、国体をけがさぬようにとのご趣旨と存じ奉ります。今西洋諸国はインド・清国との合戦にうち勝ち、旬日のうちにわが国に押し寄せようとしております。このとき古制を守って和親通商の願いを拒絶すれば、戦端を開くことになりかねません。さすれば、万民塗炭の苦をなむるはもとより、国体をけがすような事態に至るやも知れません。されば今条約に調印いたしましたことは、表向きは叡慮にそわないと思し召されるかも知れませぬが、その実はもっとも天意に添い奉っているものと信じております。違勅の気持などはさらさらございません」
と淀みなく述べ立てた。
.....・
......
 常盤橋の越前藩邸では、今日の一大事の首尾如何と、春嶽の帰りを待ちわびていた。
 日暮れて帰った春嶽は、雪江らに、
「天下もこれきりのことになったぞ。徳川のお家ももはや末か」
と長大息した。
 夜遅く、桜田の藩邸に帰った井伊直弼は、出迎えた宇津木六之丞に、
「六之丞、生きて帰ったぞ」
 直弼もまた決死の覚悟だったのである。

 押しかけ登城の一幕は、井伊大老の完勝に終った。 一橋派の威信はいちじるしく低下したが、殊に低落したのは水戸斉昭の声望だった。
「老公、老公と、鬼神のようにもてはやされていたが、さてお会いしてみると、何ほどのこともなかったわい」
 と大老が言うと、老中たちは、
「越前、越前としきりに越前守を頼りにしておられたが、笑止千万、はやご老耄(ろうもう)なさったものと見えますな」
と声を合わせて笑った。

・・・・・
  1857年(安政四年)師走、左内は久しぶりに西郷吉兵衛の訪問を受けた。斉彬は「慶永の周旋によって」島津一族の篤子(1837~1883、島津斉宣の孫)を13代将軍・家定の正室にするなど、目を見張る行動力を発揮した。
麒麟 橋本左内伝
(岳 真也、角川書店) 
 ・・・・
 それで斉彬は、
一族の篤子(篤姫、後の天璋院)なる娘をいったん自分の養女にして、敬子(すみこ)と改名させた。これをさらに縁戚関係にある公卿、近衛忠熙(ただひろ)の養女とし、家定に輿入(こしい)れさせたのだった。そうして将軍御台所となった敬子に、家定をして一橋慶喜を自分の継嗣にえらぶよう説得せよ、と斉彬はひそかに言いふくめた。と同時に、敬子つきの老女幾島にも、大奥内の諸工作を命じておいた。
 一方、慶永のほうにも、まるで大奥に手蔓(てづる)がないわけではなかった。
家定の生母、本寿院の実姉の本立院が、かつて福井藩の前藩主斉善の侍女をしていた。そのつてをたよりに、慶永は本立院をつかって、なにかと大奥の様子をさぐらせようとした。
 しかしいずれも、思うほどにはうまくいっていない。
 また、いかに正室になったとはいえ、新参の敬子には海千山千の奥女中たちを籠絡するだけの手腕はない。それどころか、このたびの輿入れは外様の薩摩が徳川家を乗っとろうとしてのものではないかという噂までたつありさまだった。
 じっさい、万が一にも家定と敬子のあいだに男児でも誕生すれば、島津侯の発言力は多大なものとなる。ために、こともあろうに、おなじ一橋派の水戸の家中からも猜疑の声が聞こえはじめた。
「わが殿は、まっこち苦しかお立場におかれたのでごわす」
・・・・・
・・・・・
「橋本氏、お願いでごわす……どうか、越前さま御家中の方々と同様におぼしめして、この吉兵衛めをつこうてくだされ」
黒目のきわだつ眼を、いっそう大きくみひらかせた。

 
こののちも、左内と西郷は何度かたがいに往き来して、将軍建嗣に関する密談をかわしあった。
 さらに左内は、もうひとりの信頼できる同志、 一橋家の平岡円四郎が主君慶喜について明かした行状の記を手ずから写しとって、西郷のもとにとどけさせた。
 大奥はおろか、友藩と思っていた水戸藩からも疑惑の目をむけられている。しかも、藩主島津斉彬の委託をうけているとはいえ、ひっきよう身分の低い西郷には幕吏や諸侯諸士と気ままに会うこともかなわない。苦境におちいっているさなかであった。
 左内からの書状を受けとった西郷は、いたく感激し、
「貴公こそは真の友、無二の友でごわす」
くりかえし、ひとりごちた。
 それがどれほどの感激であったかを証すかのように、彼は維新ののちまでもこの書状を大切に所持。
世にいう西南の役で、戒山に当刃するときまで肌身はなさず、たずさえていた。
・・・・・
  15才の時に自己の生き方をまとめた左内の『啓発録』(伴 五十嗣郎訳注、講談社学術文庫)は死後150年以上経っても読まれている。
啓発録
(橋本左内、 伴 五十嗣郎訳注、講談社学術文庫)
  ・・・学とは詩や文を作ったり本を読むことであると思っているが、これは間違いである。作詩・作文や読書は、学問の添物のようなもので、刀とその外装の柄(つか)や鞘(さや)、二階とそこへ登る階段のような関係にある。従って作詩・作文や読書を学問と思うのは、ちょうど柄・鞘を刀と考え、はしご段を二階と思うのと同じで、まことに浅はかで雑な考え方といわねばならない。
 さて、学問の本旨とするところは、忠孝の精神を養うことと、文武の道を修業することの二つしかない。
・・・・・

数え15歳で志を立てる(コマツ会長 野路国夫、日本経済新聞2017年8月7日)   「私は社会に貢献するためにAI技術者を目指して勉強に励みます」
 私の郷里の福井市では幕末の志士、橋本左内を見習って数え15歳、つまり中学年の時に「立志の集い」を行っている。自分自身を見つめ直し、校長先生、先生方、そして全校生徒の前で「自分の将来の人生の誓い」を宣言するのだ。私は橋本左内とは浅からぬ因縁がある。 私が生まれたのは、左内の生誕地から百メートルの所で、子供時代は、左内が産湯として使った井戸「常盤の井」の近くで遊びまわっていた。その後、春山小学校、明道中学校、藤島高校で学んだが、どれも自宅から歩いて通える範囲だった。大学になって初めて福井を出て大阪大学に進学したのだが、偶然にも阪大は左内と縁があった。左内が左蘭方医を学んだのは緒方洪庵が開いた適塾だが、それが阪大の原点だった。

 左内が15歳の時に自分の生き方の指針として書いたのが「啓発録」だった。ここで左内が述べたのは、①稚心を去る(子供じみた心をやめる)、②気を振う(努力する)、③志を立てる、④学に勉める、⑤交友を択ぶ、の5項目である。15歳の少年が自らに課した言葉とは思えない立派なものである。

 私たちは「15歳はまだ子供だ」と、つい思ってしまう。左内とは時代が違うと言われるかもしれないが、年齢的にも将来のことを話し合う適切な時期かもしれない。ドイツでは小学校修了時(4年)に自分の将来の進路を、職人の徒弟制度に由来する職業教育と大学教育に代表される高等教育のどちらにすべきか決めるそうだ。ドイツの10歳は早すぎるとは思うが、いつまでも子供扱いするのも問題ではないだろうか。

  岡倉天心(おかくら てんしん、幼名は覚蔵(角蔵)、1863~1913)は福井藩士・岡倉勘右衛門(おかくら かんえもん)を父に 福井県三国町出身の この を母として横浜で生まれた。両親は福井藩が横浜に出店した貿易商店・石川屋の経営に忙しかったので福井から つね という女性を呼んで幼い天心の世話を委ねた。つねは福井藩に仕える武家の出で、その本家からは幕末の志士として名高い橋本左内が出ている。つねは大変に賢明な女性だったようで天心は両親同様に つね の影響を受け、横浜に生まれながらも福井を郷里として強く思い描いた。

日本の目覚め
(岡倉天心、斉藤美洲訳、ちくま学芸文庫)              
.....
 
 朝廷は幕府新宰相の僣越ぶりに激怒し、京都は不平大名の密使が参集して対抗策を謀議する中心地となった。まもなく水戸老侯のもとに勅書が届いて、早急に諸大名を召集して幕府内閣の改革を謀るべしという指示があった。井伊は、配下の間諜を通じてこれらの動きをすべて偵察していたので、おくれをとるようなことはなかった。
一八五九年の春、四十名におよぶ首唱者たちが一斉に捕えられて、それぞれ大逆人として斬首、投獄された。彼らはいずれも当代の名士で、中には学者、文人、画家もいた。宮廷の女官が一人(近衛家の老女村岡)連坐して流罪に遭った。このほかに多くの公卿が剃髪出家を命ぜられた。
このクーデターがもたらした最大の損失は、多くの偉大な天才を日本が失ったことであった。斬首された者のうちには長州の吉田松陰――のちの木戸、伊藤両侯爵の先輩でもあり教導者でもあった人物や、日本のマッツィーニともいうべき知性の政治家橋本左内がいた。この越前の偉才を殺しただけでも、徳川幕府は滅びて然るべきだと言われたくらいである。日本のガリバルディ、薩摩の大西郷は井伊の放った走狗の牙から間一髪のところで逃れることが出来た。
.....間一髪ところで逃れることができた。
 花の生涯(舟橋聖一、新潮文庫)                            
・・・・・
 当時、橋本は、二十六歳の青年であった。彼の伝馬町在獄は頗る短く、十月二日、下獄の後、七日には死罪の決を受け、直ちに執行されたものらしい。よって、橋本も亦、吉田と同じく、幕府がこれを斬ったというより、幕府に斬るべく、越藩が彼を逮捕して差出したと見ることが出来る。既に取調べは、藩吏によって尽くされ、幕府は刑の執行に急なるため、碌碌、訊問もしなかった模様だ。
処刑に当っては、藩主松平慶永より賜わった新衣をつけ、従容然として伝馬町大牢斬り場口に臨んだと伝えられるが、彼の心事では、藩主の身代りとなったつもりであったろう。
・・・・・
 時に松陰は三十歳。
 左内は二十六歳。
 二人とも、脂の乗った青春時代である。理想に漲り、意慾に炎え、生活力も旺盛であるのに、 突然、極刑を宣告されたのであるから、いくら浪曼的性格の所有者であっても、簡単に、自己の死を肯定するわけにはいかなかったに相違ない。
 殊に、吉田は、この裁判には不服であり、獄吏によって、勝手に捏造された口書は、悉く虚偽なりとした位だから、死罪の判決が下るや、顔色蒼白、口角より泡を吐いて、猛然と反抗した。
 伊勢の人、世古格太郎の著したものに拠ると、
「吉田も斯く死刑に処せらるべしことは思わざりしにや、彼、縛らるヽとき、誠に気息荒々しく、切歯して、実に無念の顔色なりき」と、その日撃したところを、述べている。
 吉田は、評定所のまン中に、あばれ出し、大声でその刑の不当を鳴らしたが、同心十人程に取っておさえられた。高手小手縦棋に協められ、上衣は破れて、下帯一本のまゝ、曳き立てられた。
 斯(か)くて一旦牢へ下されたが、同日の四ツ時には、はやくも刑の執行が終っている。死体は小塚原へ棄てられた。

・・・・・
 幕末早春賦(有明夏夫、文春文庫)
・・・・・
「横井小楠先生を招く案は、どうなりました?」
 と、慎蔵は声の調子を変えて尋ねた。
「今、村田氏寿が熊本へ交渉に行ってます。あの先生にお越し願えれば、大いに助かるのですが....」
 越前藩に、左内の支持者がいないわけではない。だが、何分にも朱子学者のことゆえ、反対派から攻撃されると、己れの身の潔さを守るしか考えず、さっさと辞任してしまう。大事に堪える人才、大業を成す人品は、我が家中には見当らない、と左内はこぼす。
 二十三歳の左内は、藩内の腐敗を罵倒し続けた。三十二歳の慎蔵は、ただ黙ってうなずく。慎蔵は己れを目立たせることを好まない。
だから、大野藩内では余計な波風を起さずにやってきている。だが、この左内は少し危ないな、と四十五歳の龍湾は考える。こうまで思いつめては、予期せぬ事態を招きかねない。これが常人であれば、酒なり女なりで憂さを晴らしもするのだが、そういう手は考えてもみないらしい。ま、コッヒィでも立てるとするか。
 左内の熱弁が一段落ついたところで、龍湾は宮五郎にコッヒイの道具を持ってこさせた。
「おや、これは珍しいものを……」
 左内が素早く眼をとめて云った。
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※横井小楠(よこい しょうなん、1809~1869)は熊本藩士で、1858年に福井藩の藩政顧問になり富国策を主導した。明治新政府でも活躍し始めた1869年京都で暗殺された。