小浜市 海のある奈良    越前・若狭紀行
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お水送り 例年3月2日           臨済宗 常高寺(じょうこうじ)
  小浜市から京都に至る幾つかの道は鯖街道と言われた。道筋は複数存在したが、盛んに鯖が運ばれたので総称して鯖街道と呼ばれた。奈良に都があった1000年以上前から多くの人や物が往き来した歴史街道で、現在の国道27号線と367号線付近を経由していた。昭和初期まで塩鯖を運ぶ人の姿が見られ「塩鯖を運んだ担夫は負荷、また夜半に若狭湾岸を出発したので夜出稼ぎと呼ばれた。彼らは40kgほどの荷を背に約60kmの山道を夜通し歩き、翌日の午後京に着いた。帰りもほぼ同じ山道を夜通し歩いた。鯖は一塩のもので、京へ着く頃には良くなれて食べ頃になったという。」『角川日本地名大辞典⑱福井県』

 
「京は遠ても十八里」の街に北陸新幹線がやってくる。それだけの隔たりがあった小浜・京都間に北陸新幹線が通ると京都まで19分、片道約2000円の距離となり小浜は関西の奥座敷として発展することになる。新大阪までは34分と想定される。
  美浜町以西は北陸電力ではなく関西電力の供給エリアであり、関西のテレビが良く映る。長年にわたって嶺南(れいなん、敦賀から小浜付近にかけての地域)では多くの原子力発電所が稼働し関西で使用される電力を供給して来た。若狭は更に関西に近づく。
 かつて、1930年頃日露支通運電鉄の構想が大阪の実業家より出された。大阪から若狭まで105kmを複線の鉄道、そこから先は航路でウラジオストク、釜山などと結ぶ提案であったが1933年に不許可になった。
 又、近江今津~JR小浜線上中駅の約20kmを結ぶ琵琶湖若狭湾快速鉄道(リゾ-ト新線)を設置する運動が20年以上も続いていたが2017年に北陸新幹線小浜・京都ル-トが決定した事や滋賀県の理解が得られない等の理由で中止された。
  若狭周辺には「海のある奈良」と言われるように多くの古寺があり小浜市近辺だけで130を超えるとされる。若狭に足を踏み入れるとこれだけの地域によくもまあこれだけの集積した歴史、若狭湾を中心とする水産資源や観光資源があるものだと驚かされる。鳥浜遺跡(福井県三方上中郡若狭町、旧石器時代にまで手が届く膨大な数の遺物が出土)、小浜市では常高寺
(お市の生んだ三姉妹の二女・お初の菩提寺)神宮寺(お水送りの神事)明通寺(坂上田村麻呂が開山の名刹)、瓜割の名水(福井県三方上中郡若狭町)、等があげられる。更にあれだけの海水浴場、観光地や水産資源である。日本書紀の中に、景行天皇が東国巡行の折り膳(かしわで)臣の祖が白蛤(うむき)を調理し、なますにして献上し天皇の絶賛を浴びて位を賜った話があるが、これは調理の腕前もさることながら若狭の豊富な海の幸の存在を示しているようだ。

 大陸との親密な関係を伺わせる言葉が幾つも見つかる。 朝鮮語で奈良は都の意味、「わっしょい、わっしょい」は「ワッソ、ワッソ」(来たよ、来るよ)が訛ったものと言われる。若狭はワカソ(往き来)、遠敷(おにふ)はウォンフ-(遠くにやる)、そして根来(ねごりはネ、コ-リ(汝の古里))が訛って生まれたという説がある。 

  杉田玄白(1733~1817)は江戸・牛込の小浜藩酒井家江戸屋敷で生まれ、1740年から1745年まで家族そろって小浜で過ごした。家業は医業であった。蘭書『タ-ヘルアナトミア』の翻訳書である『解体新書』の飜訳過程は『蘭学事始』(杉田玄白)として伝わっている。
  杉田玄白と中川淳庵(1739~1786)を輩出した小浜市は杉田玄白記念公立小浜病院を運営している。
 若狭(福井県三方郡美浜町)出身の佐藤達次郎(1868~1959、旧姓 河合)は佐藤家の養子となり、東京医専(東京医科大学)、順天堂医専(順天堂大学)、女子美術学校(女子美術大学)の校長になった。更に佐藤達次郎は順天堂医科大学の初代理事長兼学長に就いた。

 
 若狭幻想(水上 勉、福武書店)                                     

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 若狭は、京都の北辺にある仏教国として、古くは奈良ともかかわりをもって、文化人が往来し、神社、仏閣に古きものをのこし、十一面観音像においては、奈良や山城、近江をしのぐ名品を温存していることで有名である。
 
かの二月堂への水おくり行事が、今日も古式通り、お水取りに先立って催されることを見てもわかるように、古き仏都と同じ根をもって生きてきた国である。風土はむしろ、帰化人により近いところがあって、あるいは、奈良よりも古かった古刹のありようを示す史料もあって、これはまた民俗的にも、研究家の足を踏み入れたがる国であることの証しである。
 
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※水上 勉(みずかみ つとむ(本名)、 みなかみ つとむ(筆名))は福井県大飯郡おおいちょう出身。1919年~2004年。探偵作家クラブ賞、直木賞、菊池寛賞、吉川英治賞、谷崎潤一郎賞、川端康成賞を受賞。)

 『若狭 日本の風景を歩く (水上 勉、河出書房新社)           
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 三峠とは、吉坂峠を越える北陸街道、堀越峠を越える丹波街道、保坂峠を越える若狭街道である。この道は、京へ急ぐ道だ。新鮮な魚を、いち早く、京のお得意さまにとどけねばならない。早起きして、漁師の妻が魚籠を背負って急ぐ道だ。めずらしい魚がとれても、いい紙が漉けても、苦労のべにがらができても、塗り物が仕上っても、若狭の人は、みな京へはこぶ。京が待っていたからである。農家の米もみなそうであった。
新米ができると、車に積んだ青い俵が、三街道を越えた。
 その若狭人が、京から持ち帰ったものは何だろうか。物資的には、これといったものを知らないが、次男三男や、娘たちを奉公に出す先を見つけてくることぐらいだったろうか。あるいは、無住の寺に住んでもらうための和尚さまをひとり見つけてくることぐらいだったか。京文化なるものは、つまりは、こうした若狭の行商人が持ち帰ったとみていいようである。若狭路は、その往還の道なのである。
 
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  杉田玄白ら四名は蘭書『タ-ヘルアナトミア』の和訳に挑み始めた。彼らは直ちに、前野良澤(1723~1803)が青木昆陽(1968~1769)らから授かった僅かな蘭語の基礎知識を持つのみで他はABC(アベセ)すら知らないという絶望的状況に直面した。しかし、一年半の劇的な苦闘を乗り越えて得たのは蘭書『タ-ヘルアナトミア』の和訳に成功するという快挙であった。次に、『解体新書』を刊行して医家に届けようとする玄白達に立ちふさがったのは、和訳が未だ然るべき水準に達していないという良澤のかたくなな反対、洋書の輸入と読書は宗教書以外は厳禁とする幕府の鎖国政策であり玄白達は重罪に処される可能性であった。1774年になってこれら困難な状況を克服して『解体新書』を刊行した。
 『冬の鷹』は完全無欠な蘭語研究を目指して、立身出世にも名誉も金銭にも目もくれず何事にも妥協せず、孤然として終生 蘭語研究に打ち込んだ前野良澤の半生を描いた歴史小説である。不滅の功績を残した前野良澤は孤高の蘭語研究者として清貧に生きた。「通夜にも葬儀にも焼香客はほとんどいなかった」という。  杉田玄白の参考資料  福井県史
『冬の鷹』(吉村昭、埼玉福祉会)                           
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 中川淳庵、桂川甫周もやってきて、酒宴がひらかれた。かれらは「解体新書」を感慨深げにページを繰りつづけた。
 本文の巻之一から巻之四の冒頭には、「解体新書」訳業の関係者の氏名が左のようにしるされていた。

 若狭 杉田玄白翼         譯      (※玄白の本名は翼(たすく))
 同藩 中川淳庵鱗         校
 東都 石川玄常世通       參
 官醫東都 桂川甫周世民   閲

 その部分に眼を落した淳庵、甫周の顔には、 一様に複雑な表情がうかんでいた。
ターヘル・アナトミアの飜訳事業に従事したのは、杉田玄白、中川淳庵、桂川甫周とそして前野良澤の四名であった。
飜訳を手がけた頃、オランダ語の知識をもっていたのは良澤のみで、玄白らはABC(アベセ)……すら知ってはいなかった。そして、その後の飜訳も、良澤の語学力をたよりにすすめられた。そうした事情から、玄白らは、良澤を飜訳事業の盟主とも師とも仰いだのだ。
 
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 梅田雲浜(うめだ うんぴん、1815~1859) は小浜藩士で、藩政を批判して士籍を奪われた。尊皇攘夷派の中核とされ日米修好通商条約調印に反対し、大老・井伊直弼の排斥を目指したが、1858年京都で数十人を越える捕手に捕縛され、1859年に江戸で獄死した。
 同時代の人に橋本左内や吉田松陰(関連のサイト)がいる。
 
梅田雲浜 (国立国会図書館ウェブサイトより)

『花の生涯』舟橋聖一、新潮文庫)
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  また、諸藩の処士には、頼三樹三郎、宇喜田一蕙、同松庵ら、二十余名が、検挙された。そして、いずれも六角の牢に投げこまれたのである。この獄のうち、十六室を以てこれらの囚人を収容したが、特に梅田を首魁と見ているので、彼の独房には、五寸釘で厳重に固めた二重牢を当てたと云われる。然し、彼らは、普通の罪人とは異って、自ら罪の意識がないのであるから、宇喜田父子は、日蓮宗の題目を、昼夜をわかたず、高声に唱えてやまないかと思えば、金田伊織は観音経を誦し、三国大学は、孝経、中庸、小学などを暗誦する声がかまびすしかったそうだ。
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