天台宗   若狭神宮寺小浜市) お水送りの寺      神仏混淆   越前・若狭紀行
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良弁和尚生誕之地の碑 神宮寺本堂  神宮寺からこんこんとわき出る霊水 お水送り(鵜之瀬)
   本堂は1533年朝倉義景の再建によるもので、入母屋、檜皮葺である。本堂内陣は神仏混淆の世界で左に薬師如来などの仏像が、右には白石鵜之瀬明神や和加佐彦比古・和加佐比女大神などの神々が祀られている。古来の神祇信仰と大陸伝来の仏教信仰が融和した神秘的な姿である。
 
  鵜の瀬と100mも離れていない所に奈良市長・大川請則書「良弁和尚生誕の地」と大書された石碑が建っている。
お水送りの地・鵜之瀬は良弁和尚の故郷だ(神奈川県出身説も有力。滋賀県出身説もある)。良弁和尚(689〜774)は733年東大寺の起源とされる金鐘寺(きんしょうじ、現在は東大寺法華堂又は三月堂と言われ不空羂索観音像や天平彫刻の最高峰とされる日光・月光菩薩立像など所蔵している)を建立し大仏造立に尽力し、64才で東大寺初代別当(長官)になった。更に石山寺(滋賀県大津市)も開創した。鵜の瀬の川沿いには京に至る鯖街道が通っている。
 
  東大寺の修二会14日間の内5日目と14日目に「過去帳」が読み上げられる。筆頭は聖武天皇から行基菩薩、藤原不比等、良弁僧正、実忠和尚、更に源頼朝と続いていく。
死者に戒名をつけるという奇習が一般化したのは江戸時代であり、戒名は何の歴史性も仏教の教義との関わりもない事を我が国最古の過去帳を持つ修二会が証明していて、更に1300年前に実忠和尚や良弁和尚が現れなかったら今日の東大寺はなかっただろうと司馬遼太郎は言う。東大寺四聖(ししょう)と言われるのは聖武天皇、良弁和尚、行基菩薩、そして大仏開眼の導師としてはるばるインドからやって来た菩提僊那(ぼだいせんな)である。752年大仏開眼の時は良弁64才、実忠26才、菩提僊那49才だった。

   「天平の昔、若狭の神宮寺から東大寺に行かれたインド僧・実忠和尚が大仏開眼供養を指導の後、753年に二月堂を創建し修二会を始められた。その2月初日に全国の神を招待され、全ての神が参列されたのに若狭の遠敷明神(彦姫神)のみが見えず、ようやく2月12日(旧暦)夜中1時過ぎに参列された。それは川漁に時を忘れて遅参されたので、そのお詫びもかねて若狭より二月堂の本尊へお香水の閼伽水(あかみず)を送る約束をされ、その時、
二月堂の下の地中から白と黒の鵜が飛び出てその穴から泉が湧き出たのを若狭井と名付けその水を汲む行事が始まった。それが有名な「お水取り」である。その若狭井の水源が鵜の瀬の水中洞穴で、鵜がその穴から奈良までもぐっていったと伝える。この伝説信仰から地元では毎年3月2日夜この淵へ根来八幡の神人と神宮寺僧が神仏混淆の「お水送り」行事を行う習いがある。」(小浜市「鵜の瀬」由緒書きによる)

 神宮寺の由緒書きは次のように伝える。
  「 若狭は朝鮮語ワカソ(往き来)が訛って宛字した地名で、奈良も朝鮮語ナラ(都)が訛って宛字されている。この地方が若狭の中心で白鳳以前からひらけ、この谷は上陸した半島文化が大和(朝鮮語でナラともいう)へ運ばれた最も近い道であった。それは対馬海流にのってきて着岸した若狭浦の古津から国府のある遠敷(おにふ=朝鮮語ウォンフ−「遠くにやる」が訛った)や根来(ねごり=朝鮮語ネ、コ−リ「汝の古里」が訛った)と京都や奈良が百キロほどの直線上にあることである。 この地方を拓き国造りした祖先が、遠敷明神(若狭彦命)で、その発祥地が根来の白石で、都へ近道の起点に良地をえらび、遠敷明神の直孫和朝臣赤麿講が八世紀初め山岳信仰で、紀元前銅鐸をもった先住のナガ族の王を金鈴に表し地主の長尾明神として山上に祀り、その下に神願寺を創建され、翌年勅願寺となったその秋には、起源一世紀頃唐服を着て白馬に乗り影向し、すでに根来白石に祀られていた遠敷明神を神願寺に迎え神仏両道の道場にされた。これが若狭神願寺の起源で鎌倉時代初め若狭彦神社の別当寺となって神宮寺と改称したのである。
  又、神願寺の開山赤麿(和氏)公は白石の長者の神童(幼児)を大和に伴い、当寺の名僧、義淵僧正(大樹)に「託され、後、東大寺開山良弁僧正になられ、神願寺へ渡来した印度僧実忠和尚が良弁僧正を助けて東大寺を完成し、さらに、二月堂を建て、お水送り行法を始められた。その若狭井の水源が白石の鵜の瀬であるから、白石神社で行ったのを伝え根来八幡宮では毎年三月二日、山八神事を行い、同日夜、神宮寺から神人と寺僧で鵜の瀬へお水送り神事がある」