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      岡倉 天心                       越前・若狭紀行
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 「岡倉家の祖先は、戦国時代に北国に勢威を張った戦国武将・朝倉義景の一族で、当時は朝倉姓であったが、徳川時代に岡倉と改めて松平家に仕えた」(『人物叢書 岡倉天心』(吉川弘文館))とされる。

 
岡倉天心(おかくら てんしん、幼名は覚蔵(角蔵)、1863~1913)は福井藩士・岡倉勘右衛門(おかくら かんえもん)を父に 福井県三国町出身の この を母として横浜で生まれた。

 1858年に結ばれた日米修好通商条約により1859年横浜港が開港すると外国人商人や国内から多くの大商人が集まり横浜は大発展し始めた。福井藩は横井小楠や由利公正らの指導で、福井の産物を商人を通さずに藩営の物産総会所へ直接集めて海外に輸出し莫大な利益をあげていた。勘右衛門は計算に長じ珠算に優れた才能があったので納戸役(財務管理など)を命じられた。この時に横浜で岡倉天心が生まれた。
 両親は外国で評価が高い生糸・紙・茶などを輸出して繁盛する藩営の横浜商館の経営に忙しかったので福井から つね という女性を呼んで幼い天心の世話を委ねた。つねは福井藩に仕える武家の出で、その本家からは幕末の志士として名高い
橋本左内が出ている。つね は大変に賢明な女性だったようで天心は両親同様に つね の影響を受け、横浜に生まれながらも福井を郷里として強く思い描いていた。西超勝寺に岡倉家の墓がある。

 
1889年に開校された東京美術学校(今の東京芸術大学)の開設に中心的な役割を果たした天心は翌年1890年に27才の若さで第2代校長に就任した。東京美術学校には絵画、彫刻、建築、図案の四科が設けられた。当時の教師に狩野友信、高村光雲、橋本雅邦、山田鬼斎(福井県坂井市三国町出身の彫刻家。三国町の仏師・鬼頭家に生まれ19才で山田家の養子に。25才で天心の妹・ちょう(てふ)と結婚)。第1回入学生には近代日本画の巨匠・横山大観(1868~1958)、下村観山らがいた。
 そうそうたる顔ぶれであった。

  岡倉天心の甥・岡倉秋水(おかくら しゅうすい、1869~1950?、福井市出身)は1889年東京美術学校に入学し、翌年から女子高等師範学校の教壇に立ち、後に学習院教授を務めた。
 狩野芳崖門下の岡不崩(
おか ふほう、本名は名和吉寿、1869~1940、福井県大野市出身)は1890年に高等師範講師となって図画の教科書を編集した。

 福井県関係者の活躍が顕著であった。

 福井では、岡倉天心やその周囲の人達の作品にふれる事が出来る。福井県立美術館には『岡倉天心書簡』(東京美術学校長正木直彦宛)、『五浦即時』、他の人々の作品としては春草の代表作とされる『落葉』(菱田春草、『落葉』という名の作品は複数存在する)、『伏龍羅漢図』(狩野芳崖)、『馬郎婦観音像』(下村観山)等が所蔵されている。
 
  
岡倉天心
(福井市立郷土歴史博物館蔵、無断転載禁止 )
  吉崎御坊跡に立つ蓮如上人像(高村光雲 、1934年作)。命をかけて教線を拡大した蓮如上人の勇姿を仰ぎ見ることが出来る。高村光太郎は光雲の長男。山田鬼斉(福井県出身)は天心を頼って22才で上京し高村光雲の助手になり東京美術学校(現・東京芸術大学)教授になった。
 『茶の本』(岡倉天心、ちくま学芸文庫)
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 茶室の簡素にして卑俗の感なきは、正に茶室をして外界の煩いを知らぬ聖堂たらしめている。ただ茶室においてのみ人は心ゆくばかり美の崇拝に身を棒げることができる。十六世紀においては日本の統一と改造に携わった勇猛な武士や政治家にとって、茶室は有難い休息所となった。十七世紀といえば、徳川幕府の厳格な形式主義が発達した後で、茶室は芸術的精神と自由に交通し得る唯一の機会を与えてくれた。偉大な芸術品の前には大名も武士も平民も差別はなかった。今日の産業主義は世界中に本当の優雅を楽しむことを益々困難ならしめている。今日ほど我々が茶室を必要とする時はあるまい。・・・・・

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 十六世紀以後に建てられた宮殿や寺院でさえも、みなこれを受けている。多芸な小堀遠州は、桂離宮、名古屋城、二条城及び孤蓬庵に、彼の天才を示す注目すべき実例を残している。日本の有名な庭園はみな茶人によって設計された。我が国の陶器も、茶人達から鼓舞されなかったならば、あの優秀な品質にまで達することはできなかったであろう。

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