橘 曙覧         越前・若狭紀行
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橘曙覧
橘諸兄が居宅を構えた井手町を流れる玉川堤は当時から山吹が植えられていたという。4月、玉川堤は桜と山吹が満開を迎える。
 京都府綴喜郡井手町の山中に
橘諸兄旧址(外部サイト)がある。 付近の地図案内  
 福井市橘曙覧記念文学館(福井市足羽(あすわ)1−6−34) 地図案内 
ここは、黄金舎(こがねや)跡である。家業を弟に譲って最初に住んだ所で、石垣の山吹が美しかったので「黄金舎」と名付けたとされる。
福井市立郷土歴史博物館蔵
無断転載禁止
 橘曙覧(たちばな あけみ、1812〜1868)は福井県出身の国学者・歌人。花鳥風月を詠ずることより日々の身近な事柄を題材にした『独学吟』は、「たのしみは」で始まる和歌で大変に親しみやく、小学校の国語教科書でも紹介された。
 たのしみは 朝おきいでて 昨日まで 無かりし花の 咲ける見る時  1994年天皇皇后両陛下が訪米された時の歓迎式典で、クリントン大統領は日米関係が日々新たな花が咲くように進展していく喜びを曙覧の和歌を用いて表した。
 
たのしみは とぼしきままに 人集め 酒飲め物を 食へといふ時
 たのしみは まれに魚煮て 兒等(こら)皆が うましうましと いひて食ふ時

 それは曙覧の魂を根底まで揺さぶる出来事であっただろう。1836年に長女が、1837年には次女が出生間もなく亡くなった。更に1841年に出生した三女・健子(たけこ)が1844年に当時恐れられていた天然痘で夭折、8年間に三人もの幼い愛娘が去っていった。慟哭の情が伝わってくる。
 
きのふまで 吾が衣手に とりすがり 父よ父よと いひてしものを
 
 曙覧は紙商・正玄五郎右衛門(しょうげん ごろうえもん)の長男として福井城下で生まれたが、井出左大臣 橘諸兄(いでのさだいじん たちばなのもろえ)の39世の子孫にあたるのを誇りとして橘に改姓した。

 
橘諸兄(葛城王、たちばなのもろえ、684〜757、正一位、左大臣)は敏達天皇の後裔で、光明皇后(701〜760、藤原不比等の娘、聖武天皇の皇后)は異父妹である。臣籍降下して、藤原四兄弟が737年に天然痘で相次いで亡くなった状況下で政権を担い、恭仁京遷都(740年)、大仏建立(752年)などで首班を務めた。
 
降る雪の白髪までに大君に仕えまつれば貴くもあるか(橘諸兄)
 華やかな天平時代の裏側では橘氏と政権を奪還したい藤原氏との暗闘が展開され、その様子は『
穢土荘厳(えどしょうごん)』(杉本苑子、文春文庫)に活写されている。時代の深淵を創造力豊かに描いた作者の会心作。

 
『雪の花』(吉村昭、新潮社))は天然痘の治療に心血を注いだ笠原白翁の苦闘を描いたものである。健子の没後5年を経た1849年、白翁はようやく福井で種痘を始めたがそれからも多くの困難が待ち受けていた。

   尚、
春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬は雪さえて すずしかりけり(道元)は1968年に川端康成がノーベル文学賞受賞演説の冒頭で日本人の代表的心情として引用した。国際交流の場では、このような四季折々の身近な移り変わりを詠った和歌が紹介される。