海南市と 私の会社の ご案内      

       詳しくは上記地図をクリックして下さい.
御来店の節は上記駐車場にお停め下さい。


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海南市は 大阪JR天王寺駅より 電車で約1時間半で海南駅に着きます。
 東に高野山の連峰を仰ぎ、南に秀麗な藤白山峰を頂き,北は梨木山脈の丘陵を背負い、
三方山に囲まれ、西は黒江湾に臨み、紀伊水道を隔てて、淡路島から四国の連山を望見して、
古来より、風光明媚を以って知られ、熊野への道筋に当たるところから、交通の要衝であった。
市内には熊野参詣の途上で遙拝や休憩、宿泊に利用された王子跡が9ヶ所もあり、又
万葉歌も数多く詠まれ、都の文化がいち早くもたらされ、発展してきました。
 
 昭和9年(1934)5月海草郡黒江、日方、内海、大野の4町が合併して海草郡の南部に位置して、
いる所から海草の南で海南市と名付けたとの事です、その後、昭和30年4月
巽、亀川、南野上、中野上、北野上の各村が編入し、又、平成17年4月下津町と合併して
現在の海南市となりました、人口約56500人です。


 熊野古道の通る 藤白山より海南市を 真下に 下ろす、
海の 向こうに霞んで見えるのは 淡路島と 四国徳島


尚又 海南市は、南北朝時代には、紀伊の国の守護所となり、
古くから「大野市」が開かれ、小都市に発展したと伝えられています、
熊野街道の要衝で 熊野古道が通り、
万葉集には海南ゆかりの歌が下記の13首が詠歌されています。

 ●黒牛潟 潮干の浦を紅の玉裳裾引き 行くは誰が妻。  詠人不知
    黒牛潟の潮が干いた浜辺を 紅の裳の裾を引きながら
    優雅に戯れている女官はいったい誰の妻だろうなあ。

 ●いにしえに 妹とわが身しぬば玉の  黒牛潟をみればさぶしも  柿本人麻呂
    かつて 愛する妻と一緒に眺めたこの美しい黒江潟は、
    その時と少しも変わっていないが妻はすでにこの世にいない。
こうして今一人で立って眺めているのがとても淋しさが身にしみる事よ。

 ●黒牛の海 くれないにほふ ももしきの 大宮人しあさりすらしも。  藤原卿
     黒牛潟の海の浜辺がくれない色に美しく照り映えている 宮廷のお供の女官たちが磯遊びをしているらしい。

 ●紫の 名高の浦のなのりその 磯になびかむ 時待つ我を。  詠人不知
     紫は高貴な色名高の枕詞、名高の浦のなのりそ(海藻の一種)が 磯になびく様に、あなたが(私に)なびく様になる時を待っている私です。

 ●むらさきの 名高の浦のなびき藻の 心は妹に寄りにしものを。 詠人不知
      名高の浦になびいている海藻の様に 私の心はすっかりあの娘になびいてしまつたことよ。
 
 ●紫の 名高の浦の まなごつち 袖のみ触りて 寝ずか成りなむ。詠人不知
名高の浦の愛子地(きめ細かい綺麗な砂)の様な綺麗な肌の恋人に、
袖を触れるだけで一緒に寝る事もなく私達の恋いは終わるのだろうか?。
   
 ●家にあれば け(笥)にもるいひ(飯)を草枕 旅にしあれば椎の葉に盛る。   有間皇子
      京の都の家であれば美しいお椀に盛って食べられるのに 今は旅、しかも捕われの身 椎の葉に盛って食べることよ。

 ●藤白の み坂を越ゆと白たへの わが衣手は濡れにけるかも。  詠人不知
      藤白の坂を越えるにつけ ここで殺された有間皇子のことが思い出され 私の袖は涙で濡れてしまつたことよ。

紀伊の海の 名高の浦に寄せる波 音高きかも 逢わぬ子ゆえ。 詠人不知
紀伊の国の名高の浦に寄せる波の様に、人の噂の高いことよ、
未だ逢っても居ないあの娘との間に噂が立ってしまった事よ。

 ●潮みたば いかにせむとかわたつみ(海神)の 神のと(門)わたる あまおとめ(処女)ども。 詠人不知
      潮が満ちて来たらどうするつもりなのだろうか 恐ろしい海神の支配する 
神の手を渡って行く あの海女の乙女達は。

大崎の神の小浜は狭けれど 百船人も過ぐといはなくに。  石上乙麻呂
大崎の神の小浜は狭いけれど、全ての船人達は此処に立寄らずに過ぎて行く事は無いのに。

大崎の荒磯の渡延ふ葛の 行方もなくや恋渡りなむ。 詠人不知

安太(あて)へゆく 小為手(おすて)の山の真木の葉も 久しく見ねば 苔むしにけり。 詠人不知
安太へ通じる 小為手の山の立派な木の葉も、久しく見ない内に苔が生えてしまったことよ。 


 

名勝 和歌の浦を詠じたものに 


 万葉集で歌われている、風向明媚な和歌の浦の片男波

 和歌の浦 潮みちくれば 潟を無み
   葦辺をさして たづ鳴き渡る。  
               山部赤人(万葉集巻6.919)

 玉津島 見れども飽かず いかにして
    包み持ち行かむ 見ぬ人のため。  
                  藤原郷(巻7.1222)





 
玉津嶋 よく見ていませ あおによし 平城(なら)なる人の 待ち問はば いかに。   作者不詳(巻7.1215)

玉津嶋 見てし善(よ)けくも 我は無し 都に行きて 恋ひまく思えば。          作者不詳(巻7.1217)

名草山(なぐさやま) 言(こと)にしありけり 我が恋の 千重の一重も 慰めなくに。   作者不詳(巻7.1213)

解説は、現在海南市民病院副院長をされています 佐々木政一先生著「紀の国万葉歌碑散歩」
「ふるさと万葉故地に遊ぶ」等より引用させて戴いております。
 
 昔の和歌浦の絵図
左側は西国33ケ寺第2番紀三井寺と塩田。  右側不老橋と観潮櫓
現在の和歌山医大は昔の塩田で、
旭橋や日産自動車や東照宮前は海だった事が判ります。

 

2017年 玉津島神社発行の「文化財担当者と学ぶ名勝和歌の浦」より掲載

下記の絵図から、紀ノ川は、中島、小雑賀は、紀ノ川の中州で、和歌浦へ流れていました。
 
  定  (藩の村役を通じてのお達し)
 前の5ケ状は幕末外国船が来る気配になり、
異国船を見た者や漁の途中で出会った者は直ぐ庄屋に報告し、
庄屋は直に大庄屋へ通報し、
その上船の行方を見届等、
定めの如く行動する事。
日本船でも不審船は同じ。
 後の2ケ状はキリシタンの法を勧めたり、
隠したり、お金で騙そうとする者は黙って受取り、直ぐ届け出る事。
届出ない者は、親類、その村の者共まで罰せられる、届出た者は、約束の褒美を一杯下さる。
 これ等のの事を百姓共によくよく聞かせろ事、
   海南市下津町 割烹旅館 「一木」 より 
  左の地図は 1805年8月
伊能忠敬の測量地図
東松江村から紀ノ川、紀伊殿居城から
毛見浦、船尾浜、日方浦、名高浦、鳥居浦、
藤白浦、冷水浦、塩津浦、大崎浦まで

   




有間皇子像 
海南市の 著名な画家 雑賀紀光先生画

(紀光先生画歴史的町並みと漆器の町黒江のスケッチ集絵葉書出来ました)
 斎明四年(658)十一月 
孝徳天皇の忘れ形見であった 有馬皇子は 
皇位継承の渦に巻き込まれ、わずか十九歳の若さで
曽我赤兄(そがのあかえ)、中大兄皇子等の 陰謀に掛かり 
牟婁温湯(現白浜町湯崎温泉)の帰途 ここ 海南市の藤白坂で
殺害された 悲劇の皇子 

 鈴木屋敷

 ここ海南市藤白は全国各地に200万人も居ると言われている「鈴木姓」のルーツとされています。
平安時代熊野詣でが盛んな頃、宮家の接待、案内役として、熊野から藤白に移りっ住んだ事が始まりで、
後に、熊野信仰の普及のため、全国に渡り、熊野神社の神官として各地に根付いたとされています。
 庭園には「曲水泉」(和歌の上の句を流し、下流の人は下の句を作る遊び)、
源義経、弓掛の松等あります。現在の鈴木屋敷は江戸後期の建物との事です。


2004年熊野古道世界遺産登録を記念して、オークワ文化財団
等の御寄付で「熊野古道祭り」が執り行われました。
熊野第1の鳥居藤白神社にて

出発点の春日神社にて
右端十番頭の私、4番目法王の海南市長。
 


平安衣装の女房

 神のこもる国と信じられてきた聖地熊野の地は、壮大で、神秘的な大自然は不思議な力に満ちた空間として、
多くの人々の心と体を癒して来ました。
 熊野夫須美神(ふすみのかみ)をお祭りする那智大社、御子速玉神(はやたまのかみ)をお祭りする速玉大社、
家津御子神(けづみこのかみ)をお祭りする熊野本宮大社の三大社によって代表され佛が神に化身して
現れると云う三所権現の地でもあった。それに
 山嶽宗教の修験道が加わり、極楽往生の霊験あらたかなものとして全国に広まり、12世紀、平安時代後期には、
熊野三山に対する信仰が急激に高まり、鳥羽上皇、後白川上皇、後鳥羽上皇の熊野御幸に代表される
熊野詣での盛行期を迎える事となった。

もっと詳しく知りたい方は動画で説明します。下記ホームページをクリックして
「熊の古道の自然と霊山信仰の歴史を学ぶ(動画付き講座)」を御覧下さい

http://wakayama.shiminjuku.jp/


 「梁塵秘抄」にもみえる様に、主として大阪より南下し西熊野街道(紀伊路)を通り田辺より中辺路経由で入る道、と 
伊勢路(東熊野街道)八鬼山越を経て伊勢に通じる道が険難苦行の道とされたにもかかわらず、利用された。
 他にも吉野へ抜ける大峰道、高野へ入る小辺路、海岸沿いに串本を通る大辺路がある。

 古い記録によると、延喜7年(907)宇多法皇から始まった熊野御幸は、
弘安4年(1281)の龜山上皇まで100回を越えたと云うから如何に盛んだったか伺い知れる、
これらの御幸は1000人近くの人馬を従え1日食料16石に及んだと云う。

 熊野詣での旅は、時代につれて武士階級、庶民へと拡がっていった、それは、すさまじいばかりの信仰ぶりであった。 
江戸中期の享保元年(1716)、田辺の旅宿に泊まった参詣人は6日間に4,776人、1日800人というおびただしい
人の数である、とすれば、「蟻の熊野詣」と言う形容も大げさではない。

 或る人は、極楽往生の国を目指して又子孫繁栄をかなう事を願い、数日間の食料だけを舟に積み、
太平洋に沈む夕日を目指して船出をして行った人々も居ったとの事です。


王子とは
熊野詣の途中にある 遥拝所や休憩所で 紀伊路は「九十九王子」があり
伊勢路では「九十九折」 つづらと 呼ばれ歴史のロマンが感じられます。

以下に海南市内に有ります王子のご紹介をします。
松坂王子
且来の集落を過ぎて、小野坂にさしかかるところの
道のそばにまつさかの王子跡が 有ります。ここに
王子が有ったと 伝えられています。
現在は且来八幡神社に  合祀されています。

呼び上げ地蔵
京都から下り初めて海(汐)の見える峠として
旅人の安全を守る、汐見峠のお地蔵さんとして親しまれてきました。
江戸時代に起きた 安政の大地震の時 、峠から不思議な光が放たれ、
このお地蔵さんが現れて逃げ場を無くした人々を、
呼び上げて命を救ったと伝えられています。

松代王子
日方川の春日橋の手前に まつしろの王子跡の案内板が有ります
左の春日神社への参道を上がると 小さな祠があります、
祠の中には、青石に刻まれた 「松代王子」の石碑があります、
現在は春日神社に合祀されていると伝えられています。
菩提房王子
国道を横切り、蓮華寺から山田川を渡ってから10mの処に
ぼだいほうの王子跡が有ります、
ここ等の地名を「ボダイ」と 呼ばれて居り  
周辺からも古瓦片が出土したりしています
祓戸王子
如来寺の 西側三叉路の交叉路に 
「熊野一之鳥居跡」の 石碑が有ります、
そこを南に行くと、
 はらえどの王子跡の 道標が有ります
藤白王子
 藤白神社として現存しています、古くは、藤代若一王子とも云われ、
熊野九十九王子の中でも 格式の高いとされて来た 五躰王子の最初が
ここ藤白王子で、天皇、法皇の熊野詣でのときには、
必ずここに泊まられた所と伝えられています。
 京都から来られて始めて海の見える峠「潮見峠」もあり、
ここから急な山道がますます厳しくなり、難所の熊野路にはいります。
一の鳥居もあった事から、鳥居と云う地名にもなっていて、
 足に自信のない人は、此々からはるか彼方の熊野三山を参拝して帰られた人々も居ったそうです。

2005年合併した下津町に入り

塔下王子
藤白王子から険しい急阪を登った所にあり、
別名「若一王子」とも呼ばれ、
現在王子社はなく、橘本神社に合祀されている。
橘本王子
麓の集落まで来ると右手に「岩屋観音堂まで二丁」
左に「うらみのたきあるてら」の道標に従って進むと、
阿弥陀寺山門の前に出る、
境内は橘本王子社の跡地である。
所阪王子
加茂川に出て支流の市坪川を又を登ると、
石の鳥居がある「橘本神社」前に出る。
ここが所阪王子跡である、
明治40年神社統合令により、
「塔下王子」「橘本王子」「所阪王子」
更に蜜柑と菓子の祖神「田道間守」を合祀し
「橘本神社」とし、現在は菓子業界の信仰を集め、
毎年4月3日「菓子祭り」が行われる。
一壺王子
更に市坪川を登ると石の鳥居のある「山路王子神社」に出る。
ここが一壺王子跡である、昔は「踏掛王子」とも呼ばれ、
毎年10月10日に、奉納される獅子舞と花相撲「泣き相撲」で
有名である。

     
 井澤弥惣兵衛像さいたま市緑区見沼自然公園内  和歌山県海南市坂井、亀池の畔  2015年埼玉県文化財保護委員会員青木義脩氏によって発刊されました
 
  江戸時代の治水家 井沢弥惣兵衛為永

 掲示板の要約
 郷土が生んだ水利の神様
 井沢弥惣兵衛は紀州溝の口村(現在海南市野上新)に生まれ、若い頃より紀州藩に仕え、地方役人として水利事業にその才能を遺憾なく発揮しました。
 亀池は宝永7年(1710)井沢弥惣兵衛の計画により起工、同年4月に竣成しました。以来、亀池の水の及ぶ所は旱魃の被害を受けた所は有りません。水源は上流約4`先より極僅かの勾配で谷を幾つか渡り、水路と、亀池を造成、阪井、且来、多田、仁井辺、小瀬田、薬勝寺、本渡、岡田、内原、毛見、紀三井寺と各大字に新田開発のため亀の川の改修、新川の築堤をも手掛けました。
 享保7年(1722)60才で将軍吉宗に召され、幕府勘定吟味役となり全国各地の新田開発に「紀州流土木工法」の技術を駆使し、なかでも武蔵の国見沼代用水の開削は最大のもので、利根川と荒川を僅か1年で結び約13fの田を灌漑しました、この水路にはパナマ運河に先立つ事約150年前に閘門式工法が使われています。
 晩年美濃郡代を兼ね元文3年(1738)その生涯を閉じたとされています。江戸麹町、心法寺墓碑によれば76才、寛政重修家譜には85才とあります。


 承応3年(1654)当地海南市野上新の豪農の家に生まれ、
幼少より数理に闌け28才で紀州藩に仕え、その折り土木技術の練達者と言われた大畑才蔵から
水利技術を学び、在紀州時代、海南市では亀池や亀の川改修,小田井用水開削、
享保元年(1716)紀州藩主徳川吉宗が八代将軍に就任すると、その腕を見込まれ、
江戸に呼ばれ旗本に登用され諸川の改修、新田開発を一手に引き受け、享保の改革に於ける治水、
農政面で大きな役割を果たした、経営面でも実力が認められ勘定吟味役まで上り、
武蔵国の見沼代用水建設、見沼通船堀は日本最古の閘門式運河で、
パナマ運河に先立つ事約150年前物資輸送として造られました。
此の遺跡は土木技術、流通を考える上で貴重なものとして国の史跡に指定されています。
他にも、多摩川改修、下総国手賀沼の新田開発、70才を超えてからも美濃群代を兼ね、現地を踏破し、
木曽三川の分流計画を立案し幕府に建言して、その後の宝暦治水に引き継がれました。
元文3年(1738)天寿を全うしました。


井沢弥惣兵衛生誕の碑は海南市阪井
井沢弥惣兵衛頌徳碑はさいたま市万年寺
井沢弥惣兵衛墓地は
千代田区麹町心法寺
井沢弥惣兵衛墓地は埼玉県白岡町
  


 R42を和歌山市から海南市に入るとすぐ「琴の浦、温山荘」がある、近くに日疋信亮将軍の顕徳碑が目に付く、
その存在が忘れられているが、同氏は安政4年、日疋文七の3男として生まれ、幼名常吉と称した。
彼はまだ5才の頃、兄の師匠の塾に付いて行く内にいつしか論語、孟子の本を読めるようになり、
 ある時下女におんぶされて取引先の川端六衛門方に集金に行くと、同家では受領書を書くよう言われた。
ところが下女は田舎娘でそれを書くことが出来ず困っていると、僕が書くと背中から5才の常吉が
紅葉の様な手に筆を握って受領書を書いたので、川端家の人はびっくり、沢山お菓子を
褒美に貰ったと、古老の語り草となっている、
 彼は精励して後、陸軍主計藍少将となりアメリカではウイルソン大統領と会見し、
日方高女昇格に文部大臣鎌田栄吉を説き伏せ、黒江、日方、内海、大野の四か村を合併して、
海南市設立に尽力し郷土の人々から親しまれ敬われた偉人「日疋将軍」は
かくの如く二葉の頃よりかんばしいかったとの事である。

 全国で海南市程地蔵さんの多い処はなかろう。
日限地蔵、首落地蔵、椿地蔵、馬目崎地蔵、六地蔵、
小中地蔵、国宝に指定されているので峠の地蔵、藤白に
19体、鳥居に91体、幡川に88体、全部数えると何百あるか
判らない。その中でも今一番祀られているのは日限地蔵さん
は別として黒江池崎の子安地蔵であろう。
 この地蔵さんは室町時代、足利義尚が江州に六角高瀬と
戦った時に陣中の念仏仏としていたもので、我が尾崎氏が
この討伐に加わっていたが、これを乞い請け神田の地に堂を建て
て祀っていた由。
 その後神田から黒江南の浜に移りに及んで池崎のサイレンの下に
新しく堂を建てて祀る事になったものである。
 納屋の魚屋さんはじめ近所の方々で実誠会と言う会を作り、
その方々の奉仕で祭礼を執り行っています。
 戦時中この地蔵堂が盗難にあった。拝礼の時にカランカランと鳴らす
青銅製のワニグチが何者かに盗まれてしまった。
 誰が盗んだのかと地蔵さんに聞いても一向に答えて呉れない、
これを聞いた産婦人科の片山先生が蒐集品の中に手頃なワニグチが
有るからと寄進された。之また実に見事な出来で
再び盗難にあっては大変と年に一度の夏の祭礼の日だけ使う事に
して平素はフライパンを裏返して之を代替えしている。
 古美術の研究家が之を見てフライパンのワニグチは日本中でここだけだと
珍しがって居られた。
 堂に掲げられた善人は極楽へ悪人は針山や釜で炊かれる地獄の絵図
を見て、子供時代まっこと信じたものだった。


春日神社の板橋
「板橋を削って、煎じて飲むと 赤ん坊の夜泣きがピタリと直る」
と言い伝えられています。そのため たくさんの傷が付いています。
この板橋は熊野古道の松代王子のそばに掛けられていたものです。

日方川の大水で流され、和歌浦の別荘の扁額となりましたが、「春日へ帰りたい、春日へ帰りたい」と
夜な夜な泣き出すのです、この事が評判になり、神のたたりを恐れて神社に返されました、
今は 春日神社に祭られています。

筆捨て松

藤白坂の七合目辺りに「筆捨て松」と呼ばれる2本の大きな松の木が有りました。
平安時代の始めの頃、京の都に巨勢金岡という名高い絵描きが居りました、
有る時 熊野詣でをして道々の絵を書こうと思い立ち、何とも言えない美しい此の黒江の海の景色を見惚れるて、
此の美しい景色を書こうと、どっかりと腰を下ろして、此の松の下で絵を書き始めました、
 
 そこえ 峠の方から 14,5才の少年が降りて来て、熱心に絵をのぞき込みました、
少年は「絵を書くのが好きで、熊野から 絵の勉強に行く処だ」との事で、話が弾んで
 金岡は 面白い少年とめぐりあったものだと大喜び、

「ヨーシ では一つ、わしと絵の書き比べをしよう。」と言うことになりました。
金岡は 鶯が松の枝に止まっている絵を書きました。少年は 烏が松の枝に止まっている絵を書きました。
どちらも 大変上手で 勝ち負けが付きません。
「では 手をたたいて、この鳥を追っ払った方が勝ちと云う事にしよう。」
 
 二人は一緒に手をたたくと 両方とも鳥が絵から抜け出し、南の方へ飛んで行ってしまいました。
これでは やはり勝負が付きません。「今度は 手をたたいて 鳥を呼び寄せよう」と云うことになり、
まず少年が手を叩きました、烏が帰って来て、元の枝に止まりました。
 
 しかし 金岡の鶯は いくら手を叩いて呼んでも帰って来ませんでした。
金岡の負けです 悔しさの余り 金岡は 持っていた絵筆を松の根元に投げ捨てました。
 実は この少年は熊野の神様だったのです。
金岡の思い上がりを戒めるために この様に姿を変えていらっしゃったのです。
 こんな 事があって以来、 いつしかこの松を「筆捨松」と呼ぶようになりました。

◆海南市の地名の起こり

◎琴の浦......和歌山市との堺の浜は砂や小石が美しい うす紫色でした、
        その砂を踏むと音が琴を 聞いているようでした、
        それがそのまま地名となったと言われたいます。

◎船尾(ふのお).......今から700年位も昔 
         和泉の国(大阪府堺市)大鳥郷船尾村の人達が移り住んで
         塩田や漁業を始めて人家が建ち並び 船尾の地名となりました。

◎黒江(くろえ).........海の入り江に 大きな黒石があり その形が黒い牛に似ていたので 
          黒牛潟のある入り江から 黒江の地名の 起こりと言われています。

◎西の浜、南の浜........今から300年位前、この辺りまで波が打ち寄せていました、
           黒江村の西南 に人家のある所を「西の浜」 
           南にあたる浜を「南の浜」と呼ぶようになりました、
           100年位前まで この辺りまで 船が入って来ました、 
           この南の浜に 船の安全をお祈りする金比羅宮が祭られ、
           石灯篭もあり、今も 多くの人達のお参りがあり 
           毎年お祭りが行なわれています。私の家のすぐ近くです。
            昔から 浜では貝堀りで賑わいました。
           誰が詠ったか、若い娘さんの貝堀り姿を見て
           「はまぐりの 出るまでまくる 汐干狩」
           本物の貝と 水に映っている貝を間違えたと言って笑う声も聞こえ
           賑わったとの由。
◎東浜(ひがしはま).......船尾の東に当たるので そのまま地名になりました、
           池崎の城山の南に六 軒の家しかない淋しい浜でした、
           この事から 六軒浜(ろっけ浜)とも言われています。

◎井松原......井引の森(いびきの森)の近くに松原が続いていました、
        井引の松原と言うので、 「井松原」と言われるようになりました、
        ここで豊臣秀吉時代 井松原合戦がありました。

◎新浜(しんはま)........1868年ごろ海を埋め立てて 新しく塩田を開きました。
◎日方(ひかた).............干潮になると、干潟(ひがた)になったので、日方となりました。