井沢弥惣兵衛
 承応3年(1657)〜元文3年(1738)
紀伊の国那賀郡野上村溝ノ口(現海南市野上町溝ノ口)出身
1690年、紀州藩勘定方に就任、紀州藩主徳川吉宗の命を受け
地元では1707年亀の川を改修して新川を作ったほか1710年亀池を築造、
工事僅か40日で仕上げ、その他紀ノ川流域の新田開発を行いました。
 その後、1722年八代将軍となった吉宗に請われ江戸に赴き
(その節、「田畑一部を近くの野上八幡神社に寄付し残りを実弟、岡左太夫へ
譲り」、と野上八幡に古文書あり、尚 岡左太夫の妻は尾崎家娘)
江戸に出た弥惣兵衛は、灌漑や新田開発事業に尽力しました。主な事業に
武蔵国の見沼干拓、見沼代用水開削、多摩川改修、下総国の手賀沼の
新田開発、木曽三川の改修計画等があります。幕臣としても1731年勘定吟味役
1735年美濃国郡代に就任して活躍しています。
 特に 見沼代用水建設の測量は、利根川からの上流側と
見沼溜井から流れ出ていた芝川の下流側からの二手に別れ、
延長80kmの水路を、30間に付3寸の勾配で彫り進み、出会った地点で、
僅か2寸のずれしか無かったと伝わっています。
 着工から約五ヶ月で利用出来、工事費用賃金1万5千両、工作物5千両、計2万両、
出来た新田1175町歩、毎年5千石の年貢米が幕府の倉に納められる様になった。
 尚又1731年埼玉県の見沼通船堀(ミヌマ ツウセンボリ)を完成させ
江戸と船が行き来出来る様にした。此は水をせき止めたり、流したりする
「閘門式」で同じ方式の1914年完成のパナマ運河より183年も前に作られていて、
弥惣兵衛の知識の豊富さ、技術の高さを伺えます。