店主のつぶやき日誌の
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1900……2月22日(火)
朝日新聞の一面トップは、葛城王国の"居城"跡と推定される遺跡についてでした。葛城氏は、大和盆地における有力豪族のひとつだったのですが、北陸出身の雄略天皇グループが中央政府に乗り込んで以来、排除されてしまいます。"葛城"という名は、ヤポネシア先住民の香りがします。
この排除された葛城族を表象しているのが"一言主(ひとことぬし)"でしょう。異語をさぐる民として葛城族は、渡来系である他の大和盆地内の豪族たちや雄略天皇グループによって、言語・民俗が違ったように描写され、異族あつかいを甘受するのです。
奈良・大和は、筆者の父祖の地です。古代の歴史がそのまま冷凍保存されているような(あるいはフリーズしたままの)地域にみえてきます。
1899……2月21日(月)
カルメンの定休日。オフの日です。
銀行に行かなくていいので、拙宅周辺で生きていました。灯油を買いに行きます。ポリタンクを自転車にくくりつけていると、途中でゴムが切れてしまいます。車軸に巻き付いたゴム紐をはずしていると、二度ほど筆者の顔面を直撃。「痛ぁ〜」。国道2号線を反対の方向に向かい、コープ神戸のリビングセンターで新しいものを買います。入り口に置いてある盆栽をちらちらと見て、気に入ったものがないので、店内へ。以前はもっとDIYの売り場が充実していたのですが、縮小されています。
再び国道沿いを走ります。少し見ない間にラーメン店が増えています。筆者は時々「ラーメン太郎」に食べに行きすが、他の店もチャレンジしたい気分。
灯油をポリタンクに注入している時、将来はこうしたガソリンスタンドなどで、燃料電池用の水素を購入する時代になるかもしれない、と思っていたのです。今でも、暖房器具は多様な選択方法があるように、家庭の発電用燃料電池も、こうして水素だけを別売りにするステーションみたいなところに行って、専門容器に補充する選択肢もあるかもしれません。
そんな時代になっても、オフの日は、筆者が自転車こいで、水素を買いに出ていることでしょう。その時、ゴム紐は丈夫なものがよろしいようで。
1898……2月20日(日)
『A』という雑誌で、資料提供などお世話になった俳人の立岩利夫、若森京子両氏をねぎらうために、食事会をもちました。場所は、大阪駅近くのホテルヒルトンのウェストビル内にある懐石料理店。筆者は西洋料理系なので、こうした和食系は珍しい。次々とピンチョス(一口サイズ)の小皿料理が運ばれてきます。
かつて懐石料理を初めて食べた西洋人が、「最初から最後までオードブルを食べさせられた」と感想を述べたそうです。今日もそれを感じました。スペイン的に言えば、なんだかみんなピンチョスやタパスみたい。
中心(メインデッシュ)不在の懐石料理の美意識は、そうした料理文化のコンテクストを理解していないと、醍醐味がわからないものです。懐石料理は、ひとつのゆるぎない定型があって、その定型の中で、どのようなテンションを、作り手は演出し、食べ手はその意外性を楽しむかという高度な文化の遊びなのです。
昼間なので、アルコール類は控えめにします。立岩氏はかつて関西前衛俳句の担い手として活躍し、今では貴重な生き証人です。現在80歳を越えていらっしゃるのですが、元気そのものです。この日、出席したのは、堀本吟、小池和博、島一木、岡村友昭、堺谷真人各氏と筆者です。
1897……2月19日(土)
昼、若者があつまる場所へ。終わった後、「お茶でも」と誘われたのですが、先約があり先を急ぎました。
筆者が向かった先は、天満橋。打ち合わせをします。午後1時半に終わり解散。打ち合わせをした相手の人は、沖縄・辺野古沖に棲むジュゴン(沖縄名ザン)が食べる海草類などを研究している人の話しを聞きに行きました。どうやら、辺野古沖の長期にわたる海上基地反対闘争が結実しそうです。筆者のところには、現地で闘っている人から、殆ど毎日、「闘争レポート」が電子メールで送られてきます。
日付が変わった午前1時すぎ、筆者の携帯がなります。カルメンの非常ベルが鳴り続けているとのこと。ちょうど、その時、筆者は大阪にいました。もう終電車はありません。一挙に酔いが醒め、携帯で連絡をとります。鳴った原因は分からないのですが、緊張が走ります。出火は認められなかったので安堵。それにしても、いたずらにしては、ひどい話です。
1896……2月18日(金)
このところ、夜になると、シトシト小雨が降る天気が続いています。カラスが拙宅の"猫の額庭"にやってきました。朝のことです。カラスと目が合いました。彼らと目が合うというのは、お互いが正面を向きあうというのではなく、あちらは、横顔を向けます。ちょうど映画で見たティラノサウルスのように横顔を向け、片方の目で、じっと筆者をみつめています。筆者の顔はしっかり認知されてしまいました。どうしましょう。
カラスって大きいですね。黒という体色が聡明そうに見えます。人類が滅びても生き残るのは、カラスと官僚? まさかね。
1895……2月17日(木)
きのうようやく2004年の新聞切り抜きファイルを完成させました。「一般篇」と「奄美・沖縄篇」。365日分のすべての新聞をみて、切り抜く。それをA5判の紙(チラシなど裏が白のもの)に張り、ファイルに閉じていく。この作業がけっこう大変なのです。莫大な労力と時間を必要とします。
筆者がこのファイルを作り出したのは最近のことです。去年から作り出しました。2003年版が予想したより薄かったので、去年はあれもこれもと切り抜いたために、あふれんばかりの量となりました。
さて、本当はこれをどう活用していくかが大切なことです。飾っておくだけではもったいない。分厚くなってしまった二冊のファイルをみながら、筆者は思案しています。
1894……2月16日(水)
筆者の長男が昨日から東京へ。独りで行くのは初めてではありません。以前、一回だけ、埼玉の親戚の家に向かうために独りで新幹線に乗ったことがあります。その時は横に座ったおばさんに声をかけられ、親切にされたそうです。筆者に似て目がくりくりと大きな男のこです。
今回は、まったく独りで行動するために、筆者が東京駅からの乗り換え方法を教示します。時刻表をコピーなどして、出来るだけ詳細に説明しました。それでも昨日、新宿駅を降りたところで、ホテルへの行き方を携帯電話から尋ねてきました。筆者が去年9月に宿泊した歌舞伎町のビジネスホテルです。
早朝、関東南部で大きな地震がありました。新宿でも揺れたと思います。長男に帰宅後聞いてみたところ、直前に目が覚めていたとのこと。地震はいやです。
夜に拙宅に帰ってきた長男は、次男が借りてきたDVD「スパイダーマン2」を見ていました。
1893……2月15日(火)
不思議なことがあるものです。今日、来店されたお客様の半数以上が、30年ぶり、40年ぶりに来られた人たちでした。フラメンカ・エッグを懐かしそうに食べておられます。岡山から来ました、という方は、古いカルメンのパンフレットを持参されて、筆者に見せてくれます。それをみますと、Aコースが350円。いったい、どれほど前のものなのでしょう。ちなみに現在は税込み2650円です(魚介類)。
1892……2月14日(月)
カルメンの定休日。FMわぃわぃ「南の風」の放送日です。
05年奄美冬旅の2回目の放送として、皆吉恵理子さんのファーストアルバムの特集をしました。彼女のお母様は、坪山豊さんのハヤシを永年務めている皆吉佐代子さんでです。奄美では特に、坪山さんを慕う若手の唄者が伸びています。これは坪山さんの島唄/唄者に対する包容力の好影響でしょう。これからも"エコール・ド・ツボヤマ"の活躍が楽しみです。ところで、FMわぃわぃを含む鷹取教会が今年の夏から全面建て替えとなるために、約1年間、仮住まいをすることになります。移転先は、JR新長田駅南のビル内とのこと。その後は、新社屋となります。FMわぃわぃの現社屋はプレハブ建て。この雰囲気に慣れ親しんでいるので、なんだか妙な気分になります。
放送が終わって、つたつたと「琉球ワールド」へ。そこで、西表島出身の池田卓くんという唄者のコンサートがあったので、30分間きいていました。5曲を歌います。ヤマト口のオリジナル3曲と、「安里屋ユンタ」「デンサー節」。これまで3枚のCDを出していて、その内の一枚は八重山の民謡だけのものです。
26歳の若さにしては、ステージ度胸もすわり、歌唱力もあるので、評価していいと思います。ただ、筆者の親しい友人によると、「沖縄には池田くんのようなレベルははいてすてるほどいる」とのキビシーイ評価です。
琉球新報と沖縄タイムスの読書欄が掲載された日付の新聞を購入。両紙とも文化欄が充実しているのはさすがです。そして、読書欄も地元の人たちになるべく書かせようとする姿勢は見事。「地方紙」というのは、共同・時事から配信される読書欄記事を採用することが多いのですが、沖縄は地元で書き手を育てようとしています。
あと、書店と、電器店をまわり、寒い中、立ち飲み屋で、生ビールによる"うがい"。そこで何通か携帯メールを発信。
1891……2月13日(日)
最終日なのですが、風邪をこじらせそうなので行きませんでした。京都国立近代美術館で開催されている「草間弥生展」の最終日です。ひたすら水玉を追究するオブジェ作家です。最近は、この美術館も地下鉄の東西線が出来たので、ずいぶんと交通の便がよくなりました。
ところで、来月で新しい携帯にするつもりなので、携帯電話屋をのぞくようにしています。Docomoは、どうやらどの機種もメールの漢字変換機能の上達に対して熱心ではないようで、どうも関心しません。FOMAにするというメリットも、おじさん的にいえば、もうひとつ訴求力に欠けるのです。
このDocomoからVodafoneに移った某氏は売り上げ不振のために社長から会長に「降格」されたようです。Vodafoneも最近、広告の出稿数が多いのですが、売り上げ増には結びつかなかったようです。一度いきおいの無くした企業が回復の道をたどるのは、容易ではないようです。
1890……2月12日(土)
春節祭で、南京街は入場制限されています。そこへは行かない一団の人の群れ。場外馬券場に急ぐおっちゃんたち。筆者はその南京街もお馬さんも関係なく別方向へ。とある人と、昼、元町にある「H」という店にいました。琉球畳が敷いてあるということで行ってみたのですが、最初通されたのが一階のカウンター席。あとで、琉球畳があるという二階に行けたのですが、結局座った席は、普通のテーブル・椅子席でした。隣に座った女性二人は、最初から最後まで"ヨン様"の話。まあよくおしゃべりだこと。
筆者と一緒に座った人は、インフルエンザにうなされている人です。普段は一重瞼なのが、風邪をひいている時はきれいな二重になる人。いくさかの連絡事項や取り決め、情報交換をしていきます。今日は、昼間でも寒く、筆者は短い髪の毛なので、帽子を被っていきます。東急ハンズに行って、その人にあいそうな帽子をみつくろい、かぶってもらいました。紺・青系統が好きな人だったので、良く似合います。
ふと携帯電話をみると、またストラップが変わっています。携帯の使用頻度の高い人なので、ストラップの痛みもひどいとか。筆者もいくつかストラップをあげたつもりなのですが、それもとっくの昔にとれています。筆者が今付けているストラップは、ダイソー(100円均一ショップ)で買った無愛想なものですが、丈夫なので長持ちしています。
2時間ほどしゃべって、その人と別れました。「H」を出て帽子をかぶってマスクをかけるものですから「きみ、その姿、不気味だよ」とアドバイス。マスクをはずし、少しふらつく足取りで帰っていきました。
1889……2月11日(金)
「建国記念日」という日。高熱が続く筆者の友人がいて、医者に診てもらったら、インフルエンザB型だということ。医者から会社を休みなさい、と言われたそうです。このドクターストップを金科玉条のごとく喜ぶ人もいると思いますが、その人、契約社員なので、一日休めばその分、給料に直結する。だから、働くということの実質的な意味を、身体に刻み込んで生きている人です。筆者は、経営者ということもあって、風邪をひいたぐらいでは、休めません。ただ、インフルエンザは別ものです。潜伏期間は三日間。このところ流行のきざしがあると聞きます。読者の皆さん、気を付けてください。
1888……2月10日(木)
拙宅の隣りが工事をしています。3階建て。2階以上は学生用ワンルームマンション。1階は事務所スペースだったのですが、冷暖房設備会社が去年11月に撤退してから、空室のままでした。それをどうやら、1階もワンルームマンションに改造するようです。拙宅の周囲は事務所需要が多いとは思えないので、ワンルームにした方がいいのかもしれません。しかし、地域社会と交わりの薄い住民がまた増えるという不安とリスクはあります。それでなくても、拙宅周辺は、戸建て同士でも近所つきあいは薄く、自治会もないので、煩わしさがない分、地域社会というのが存在しないのです。
つまり"地縁"はありません。あるのは"学校縁"。市立小学校の校区でまとまりがあり、筆者でさえ、あそことあそこの子は、こんど何年生になっている、ということを知っています。つまり面ではなく、点と点を結ぶ縁(えにし)なのです。
1887……2月9日(水)
さきの日曜日、サンチカのイベントスペースで、古書販売が行われていたので、のぞいてきました。持ち合わせがあまりない時に限って、ほしい本が多くあるものです。
ぐっと我慢して、三冊ほど。島尾敏雄論(松岡俊吉著)。ヤポネシア、琉球弧をどう評しているのか興味あり。北海道で僧職をしながら俳人である西川徹郎氏の句集。この人、関西前衛俳句の島津亮についての論考があります。そして昭和36年に編まれた神戸の俳人たちのアンソロジー。36年といえば、まだ関西前衛俳句が元気だった頃です。アンソロジーなので、全容はつかめませんが、詳しく読み込んでいこうと思っています。この句集、第六巻なので、当時の神戸は、神戸という地域が、アンソロジーを編む文学的領域として強く認識されていたことが分かります。これも興味がそそります。震災後にこうした文学アンソロジーは影を潜めているからです。
1886……2月8日(火)
昨日みたDVDの話です。満州をどう見るかは、視点によって大きく違ってきます。現在の中国政府は、「満州」という名辞を極端に嫌います。必ず「偽満州」と表現し、贖罪意識の強い日本のマスコミもまた「中国東北部(満州)」という表記を使います。何百年ぶりに華人中心の国家(中華民国--中華人民共和国)を建設したことにより、異民族である満州族が国家元首であった満州国が、清朝滅亡後も存続していたことを認めれば、チベットなどの異民族地域の独立を容認することにつながるからでしょうか。
確かに、満州は日本(関東軍)の傀儡政権でした。なので、いくら愛新覚羅溥儀、溥傑兄弟が、清朝復興を目指そうにも、満州国じたいが、民心を離反しているので、関東軍の影響下を脱しても、その復興は絵空事にすぎなかったでしょう。
作品では、波乱の歴史を貫いた夫婦愛という、テレビドラマ向きの作り方をしていて、これ自体すでに甘さが漂っています。帝都・新京の「満州建国大学」に通っていた中国人学生は、はっきりと共産党グループと、国民党グループに分かれていたと、韓国人OBの人に聞いたことがあります。「五族協和」などという絵空事を半信半疑でも信じようとした日本人学生には、その両グループの区別も、確執もおそらく見えてこなかったに違いありません。
いまも、アジアで、日本の戦争犯罪を厳しく問う声が、絶えることがありません。いくら、日本人が国内では「犠牲者」然としていても、一歩アジアに出ると、国内の被害者意識は通用しない現実があります。しかし、60年もたっていまだ嫌われている日本国(人)のアジアに対する強い意思というのは、一体何だったのでしょう。「新東亜の建設」とか、「大東亜共栄圏」という美辞を弄しながら、実際は、利権がらみだったり、植民地から「解放」したアジア諸国に、実質的には日本の軍政を強いたり。どうして日本の軍人たちは、強圧的で威張っていたのでしょう。この日本の軍人たちというのは、60年前に絶滅した種族ではなく、われわれの隣人であることを自覚する必要があるでしょう。
「新東亜の建設」や「大東亜共栄圏」の発想には、ピュアな部分があったことを百歩ゆずって認めたとしても、それをアジアという他者に対して、どうして一方的にその「理念」を押しつけたのでしょう。戦前までは、日本という国ならびに日本人が、強い国家意識と国民意識をもっていた時代でした。いわばそれは、世界に「民主主義」というグローバルスタンダード(その実、きわめて反普遍的政治形態)を軍事力を背景に、押しつけようとしている現在のアメリカに似てはいないでしょうか。
日本は敗戦によって、アジアを統べようとする国家意識は破綻してしまいましたが、多くの日本人がアジア諸国に出かけていった事実だけは残ります。言ってみれば、戦前の方が、良くも悪くも、日本(人)は、アジアを身体化していたのではないでしょうか。
関東軍にとって、皇帝・愛新覚羅溥儀は、維新政府中枢にとっての明治天皇のような存在だったのでしょう。青年天皇に近代国家としての国父を演じきることを要求し、"玉(ぎょく)"と奉(たてまつ)っても、維新政府中枢の思いのままに行動しつづけることが、存在の最低条件だった。天皇の祭祀やその環境もそれまでの伝統と切り離して、「神道原理主義」的な発想から作為してまでも新しい天皇(軍部の傀儡国王)を造ってしまった。これがもし、孝明天皇のように、薩長の意思から外れると、「抹殺」されたことでしょう。軍人政府というのはそういうものです。
日本の敗戦によって満州における「第二の維新」は潰えてしまいましたが、日本(人)がもっていた強い国家意識、アジアに向かう強い意識は、敗戦でも死ぬことはなく、亡霊のようにこの国土に彷徨っています。表面は(まったく反対の)贖罪意識という皮膜で覆っていますが、この贖罪意識というのも、アジアに向けられた強い民族意識なのです。それがまた日本主導によるアジアを統べる国家/民族意識に転位しないとは、だれも保障できないのです。戦前の殆どの日本人は、神国日本の不滅を信じていましたし、日本が進んでいる道は、大東亜の平和のための着実な歩みだと疑わなかったのですから。当時の「異端(戦争の欺瞞性を訴えた人/思想)」が戦後の真理となりましたが、当時は異端は異端でしかなかったはずです。
1885……2月7日(月)
カルメンの定休日。今日はオフの日。
大和に花紀行をしようと思ったのですが、寒牡丹(当麻・石光寺)には遅すぎ、かといって、椿、梅には早すぎ。なんとも中途半端なんですね、2月上旬というのは。インターネットを検索して、ああでもない、こうでもないと悩んでいるうたに正午を過ぎ、外出する気が萎えてしまい、映画でも見ようかと思ったのですが、あえて電車に乗ってまでも見に行こうとする作品もなく、これまた悩んでいるうちに時間経過。
こういう日は何をしてもダメですね。といってせっかくの休日なので、なにかアクセントがほしいので、ビデオ屋に走りました。
ところが、ここでも悩みます。こういう悩み多い日は帰って午睡をするしかないと諦めかけた時に、2枚組DVDが目に入ります。「流転の皇紀と最期の皇弟」。満州国皇帝の弟・愛新覚羅溥傑とその夫人・浩(ひろ)夫婦の波乱に富んだ人生がテレビドラマ(TVアサヒ)化されてものです。
テレビドラマは、テレビという枠(フレーム)で、どのように効果的に視聴者に訴えるか、という作り方をしててるので、劇場用映画の大画面用には作られていません。なので、若干、画面づくりに甘さが出てきます(テレビ画面の制約で、人間の大写しが中心となるため)。それでも、最近は、テレビ画面そのものを週一時間程度しか見ない筆者にとって、刺激的な4時間でした。
1884……2月6日(日)
朝、出勤前に散髪。家人から「坊(ぼん)さんみたい」と言われてしまいました。
思い切って極端に短くしました。「髪型を変えたのですか」と言われるですが、筆者が散髪するのはだいたい八カ月ごとです。散髪屋に一年に何度も行くのが面倒なので、行く時は、ばっさりと切ってしまうのです。おかげで、髪の毛を洗う時間が、圧倒的に短くてすむし、シャンプー、リンスの使用量も格段に少量ですみます。ただ、真冬に髪を切ったので、風が吹くと、頭が寒い。その代わり、帽子を被ることができる(かつては禿げるというおそれから、帽子は被らないようにしていたのですが、どうやら若年禿げの危機は去り、額は広いのですが、"頂点禿げ"も回避されそうなので、短い髪の状態の時は帽子を被ってもいいかな、と思い始めたのです)。
1883……2月5日(土)
昼、友人たちがカルメンへ。「スペースAK」の岩田祐佳さんも来てくれました。ここは大阪天神橋商店街にある、おもろい場所です。以前、倉橋健一氏を交えた鼎談で使用しました。本に囲まれています。人文系の本読みの人なら、垂涎の的となるようないい本揃えをしています。しかし、値段が書かれていなかったり、これは"売り本"なのか、店主のこだわりで売るつもりはない本なのか、分からず、筆者がそこで本を買う時は、「この本、買わしていただいていいですか」と断ったほどです。こうした雰囲気、筆者は大好きです。
ここから『スペースAK通信』という紙メディアを出していて、カルメンは、No,45から置いています。まだ残部少々あります。
ここに連載していのが、ミュージシャンの、のむらあき氏。「筆が乗ってきた」と絶好調宣言。でも、彼の文体が変わっています。一つのセンテンスが短くなっている。いわば、現代風。書く中身は、こだわりの強い濃い内容なのですが、彼のように短期間で文体を変化させるのも、筆者の同年齢からして、珍しいでしょう。
1882……2月4日(金)
携帯電話を替えたいのですが、電話番号は同じで(メールアドレスは代わる)で、会社変更が出来るのは、来秋以降ということなので、もう一回Docomoで、"機種変"をしようと思っています。筆者が使っているのは、"P504i"。Panasonicの頭文字のPでしょう。Docomoはどの機種も似たり寄ったりだそうですが、メールの漢字変換能力が、VodafoneやAUに較べて、(かなり)劣ります。「メールおじさん」の筆者としては、Docomoの能力は耐え難いレベルです。20年前の一字ごとに変換していた初期ワープロに近い程度。今度はAUにしようかと思っています。今回、奄美大島で、絶対に優位だと思っていたDocomoよりAUの方が"アンテナ数"が多くたつことを知って、一挙に興ざめしてしまいました。筆者が、Docomoを持っている理由というのは、一年に数日も滞在しない奄美で、安定した通話が出来るからです。その根拠が崩れた今、Docomoを持ち続ける理由なんて全くありません。しかし、法律が施行されるまでの期間、もう一度、Pで機種変をするつもりです。
1881……2月3日(木)
とある女性との交換メールが再開します。筆者の大学の後輩です。沖縄や奄美を初めとして、台湾や中国少数民族の唄を自分たちの感性でアレンジして歌っている人なのですが、仕事は団体職員といったらいいのでしょうか。
その人がつい最近、仕事で北海道へ行って来たとのこと。雪質が全く違うとのこと。関西の雪は降りながら溶ける、といった感じですが、あちらはパウダースノーなのです。
北海道といえば、筆者は縁が薄いのですが、札幌に面白い古書肆があるのと、二風谷に「アイヌ語放送」をしている萱野さんに会いにいきたいですね。それに、旭川近くに西川徹郎氏という面白い俳人がいるので、何十年ぶりかでお会いしたいのです。
1880……2月2日(水)
1.17も過ぎ、奄美冬紀行も無事おえたので、ようやく2004年を総括できます。筆者にとっての04年総括の大きな仕事は、新聞整理。みなさん、新聞はどうされていますか。そのまま、回収業者にひきとってもらっているのでしょうか。筆者は、せっかく購読料を払っているし、膨大な知的財産をただ捨ててしまうのは、もったいないと思い、3年前から、切り抜きファイルを作っています。ただ、筆者の性格では、切り抜きをしてはそのたびごとに、ファイルに収納するということは出来ず、切り取った記事は、一カ所に留め置いて、一年分をまとめて、えいやっ、とばかり整理するのです。
切り抜くのは、やはり夕刊学芸欄の記事が多くなります。筆者もA新聞学芸欄に二度依頼されて書いたことがあるので、思いこみも強いものがあります。「思想・評論」「沖縄・奄美」「俳句・短歌・詩」「文学」「自然・科学」「文化・関西文化」「コラム」「芸術(映画/音楽/美術)」「震災関連」といったジャンルに分けます。
それで、その切り抜きコピーが役立っているかって。読者の皆さん、それは愚問です。「役だっていないでしょ、自己満足でしょ」と言われたら「いいえ、ちゃんと役だってます」と筆者は答えるでしょうし、「あれも大変ですよね」と言われると「実は、ファイリングの労力のわりには、使う頻度が高くなくって」と言うでしょうし。
1879……2月1日(火)
ここ数日、日付が変わる前に眠っています。疲れたのでしょう。しばらく寝続けて、身体と心を再生を果たしたいと思います。今月は、去年の新聞を整理する時です。3月になると、年度末になって、忙しくなります。変わる、といえば、FMわぃわぃの局舎がある鷹取教会が全面的に建て替えをすることが決まり、5月にも仮事務所に移転することになるようです。今ある"ペーパードーム"は台湾で第二の人生を送るとか。これも良いニュースです。
FMわぃわぃの仮事務所ですが、JR新長田駅の南、国道をさらに南に下ったビルに移動するとのこと。そこは「琉球ワールド」に近い場所なので、筆者と「南の風」の番組にとっては、良きことです。ここには一階の食堂があって、昼間から泡盛を飲めるという素晴らしき環境にあります。今から楽しみです。
1878……1月31日(月)
カルメンの定休日。FMわぃわぃの「南の風」放送日です。
本日は、05年奄美旅での総集篇をお届けしました。
これから何回にわけて、特集を組んでいきます。本日の番組で、唯一、島唄ではないものを聞いてもらいました。沖永良部のユタの話しです。約1時間ぐらい話を聞いたのですが、その中で放送したのは、東京のとある不動尊で神参りをしていた時、ユタになるその女性と接見した坊主が、人間ではなく、大蛇に見えたそうです。閉鎖された大部屋で、その大蛇はシャンシャンシャンという音を立てながら、ユタに近づいたそうです。怖がるその人、大蛇は人間の言葉をしゃべります。しかし「正体」を知っているユタは殆どしゃべることなく、その場を去ったそうです。
番組終了後、「琉球ワールド」へ。二階の沖縄書店に行って、「琉球新報」日曜版を買います。読書欄を読むためです。神戸で、「琉球新報」「沖縄タイムス」「宮古新報」「八重山毎日新聞」が買えるというのは素晴らしいことです。ついでに「南海費日日新聞」が買えたら文句ないのですが。
1877……1月30日(日)
奄美で買ってきたもの。食べ物の話です。空港から名瀬に向かう途中に、大型スーパーがあり、食糧以外に、日常雑貨も置いています。奄美特産コーナーで、筆者はヤマトにはない食糧を買いました。シマダコの燻製、シマのみそ(大粒の豆が入っている)、ゴーヤのみそ漬けなどなど。
筆者は、レストランという仕事をしているために、神戸以外の場所に赴くと、好んでスーパーに行きます。すると、かなり均質化されているとはいえ、よく注意すると、かならずその地域ならではの産品があります。そうした発見をするのが楽しみです。
1876……1月29日(土)
本日は「ランプの家フラメンコ教室」のディナーショーを行いました。グルーポ柴田を率いる柴田由美子さんは、さすがに3月が臨月だけに、踊りはセーブしています。その分、生徒さんたちが上手に踊ります。このカルメンの場所で、若いバイレたちが毎月の舞台ごとに上達していく。それを眺める"小屋もの"の主(あるじ)の立場としての筆者の至福。会場に来ていた同教室の木下美登里主宰も目を細めて「上手になってる」と満足そうでした。
今晩、ある人は京都の北にあるホテルに泊まっています。そういえば、筆者が京都精華大学に特別講義に行く途中で見ましたので、そのあたりは地の利があります。
1875……1月28日(金)
島酔いでしょうか。ぼおっとしています。奄美で一年分笑ったり、泣いたりしてきました。
地元新聞に筆者の来島のことが紹介されているようです。何本か電話をいただきました。奄美は、こうして、島に来る人を大切にする文化がある。これは神戸の人間も見習いたいものです。震災の時、実に多くのボランティアの人たちに救われました。その恩は忘れることはありません。どんな理由だっていいのです。震災から10年後の神戸をみてやろう、訪ねてみよう、という人たちは歓迎です。震災から立ち直ってはいません。しかし、それでも今日を精一杯生きている神戸の人たちと、場所と時間、空気を共有することだけでもいいのです。みなさん、神戸に来てください。神戸の人たちは、笑顔で応えてくれるはずです。
1874……1月27日(木)
奄美の最終日の朝は、森本眞一郎氏の家で目覚めました。三次会は森本宅でワインを呑み、久しぶりに夫人とも世間話。ところが声の大きい二人がいつまでもしゃべっていると、「うるさいわよ、眞ちゃん、何時だと思っているの」と夫人に注意され、即時に散会。早朝、なんとかホテルに帰りつこうと、家を出たところで、後から来た車の男性に呼び停められ「今から畑に行く。乗っていきなさい」と言われ同乗しました。撰(エラブ)さんという沖永良部出身の男性で、満州の帝都・新京にも住んだことがあるとか話しているうちに到着。名瀬という都会でもこういう親切を体験できるのかと感動することしきりです。やはり奄美は人間関係が濃いですね。関西人の筆者も驚くぐらいです。
朝帰りしたホテルで"仮眠"して風呂に入り、チェックアウト。南海日日新聞社に向かい、松井輝美編集局長に挨拶。文化担当の當田由紀子記者に来奄の目的などを取材されます(28日付に記事が掲載)。
再びあまみ庵へ。森本氏と昼飯。鶏飯スープで作るラーメンや小魚が入った"油ゾーメン"など。生ビール(大)を3杯ずつ呑んでいると、空港行きバスの時間が迫ってきます。「まだもうちょっと呑め」と森本氏がなかなか離さない。とうとうバスが行ってしまい、夫人や社員スタッフに電話をかけるのですが、つかまらない。
「よし、ワン(私)が送る」と赤い顔をした森本氏。(え、死にたくない)と思ったのが本音です。空港に行く途中、食料品店でビールを買い込んできたのには二度びっくり。「森本さん、これだけはやめよう」とビール缶をこちらに置きます。いくらなんでも、飲酒運転は死につながる。森本氏はせっかく二年前にガンを克服したのに、飲酒運転で死ぬわけにもいかない。筆者も、20歳代に、飲酒運転で車を大破させたことがあるので、もう二度と事故は御免です。
空港に行く車中、途中で同乗した親里清孝氏(寺子屋という学習塾経営)と筆者が「何故奄美に関わるか」で車中で大声をだしての言い合い。
空港についてもその余韻が残り、「もう帰るのか」とまだ飲み足りない様子の森本氏。テイクオフ10分前。「あそこで呑んでいこ」と食堂に行くのを促します。参ったなあ。土産物を選ぶ時、「森本さん、この中で一番"植民地主義的"なものって何」と筆者が聞きます。「ん〜、これだな」と言っていくつかそれらしいお饅頭を指さすのはご愛嬌です。「よし、それ買おう」と筆者。
筆者にとって奄美旅は、いつもいつも濃い旅ですが、今年もまた濃い内容でした。これでは神戸に帰ってからまた、"島酔い"になるなあ。
1873……1月26日(水)
奄美旅の3日目は、瀬戸内町勝浦集落の義富弘さんの家で迎えました。みそ汁とご飯で朝食。そのみそ汁が半端な量ではない。続いて、五右衛門風呂に入れていただく。これは貴重な体験です。筆者にとって二回目の体験ですが、この風呂に入る心地よさといったら格別のものがあります。
続いて奄美関係の情報交換。この勝浦集落に歌い継がれている「八月踊り歌」が小冊子になっていて、それについて興味深い箇所をいくつか書き写します。また、現在、森本真一郎氏から依頼された1609年の薩摩入りの歴史的検証を行うための作業をしています。義氏が担当しているのは、文献を集めて、最新の研究成果も含め、ひとつの論考に書き上げるというものです。考えてみると、奄美史の文献で、過去の『大奄美史』を含めて、現時点で批判的に(しかも奄美の側から)検証した文章といのはそう多くないのかもしれません。面白いことをする人たちです。
これは、2009年に迎える「1609年薩摩の琉球侵略から400年」に向けて行われている作業です。この執筆過程で、今まで鉄砲を所持していなかったとする琉球王国軍が、薩摩との戦闘で、使用していたことが、中国に向けた琉球の外交文章に書かれているなど、新たな発見もあります。この論考を叩き台にして議論をするというのです。楽しみです。この運動の中心人物だった藤井勇夫氏が、去年、無念の死をとげているため、彼の供養のためにも必要でしょう。
お世話になった義氏の先祖は、シマ役人をしていました。「義」という一字姓を守り続けていること自体、先祖からの姓について矜持をもっていることの証拠です。琉球に服属していた時は、大親(フーヤ)。薩摩時代は与人(ヨヒト)との名称です。今では言えば区長が管轄する範囲で、村長の役割を果たしていた階級といていいのでしょうか。与人といえども、役場というものはなく、自宅が事務所がわりだったということです。こういうことも、今まで知らずにいた自分の不明を恥じるばかりです。
納屋に、与人として上国(鹿児島に上ること)した時に使った箱がなにげなく置かれています。「中身の文献(紙資料)が残っていたらいいんだけど」と悔しそうにいいます。(その納屋の道向かいは保育園でしょうか、園児たちの元気な声が聞こえてきます。義氏「むかしここに"若者宿"があったんです」となにげなく言います)。
義氏と二人で出発です。古仁屋の街では重野書店に立ち寄り挨拶。機嫌よく迎えてくれた女史は、ビールの差し入れ。昨晩の保田大介くんの実家は重野書店の向かいにある花屋さん。「そういえば、島唄のいい音が聞こえてくると思っていた」と義氏。
今回の大島小紀行は、瀬戸内町(ヒギャ)に滅法くわしい義氏にナビゲートされて、いままで通り過ぎただけの光景が、筆者の前で活写されていくのです。まず見たのは、"先島スオウ"の大木。赤の染料をとる木です。気根が特徴的で、一つ一つが壁のようになっています。義氏は道路の途中で車を止め、「この季節はハブは大丈夫でしょう」といいつつ、急斜面を降りていきます。ハブと聞くだけで足がすくんでしまうヤマトンチュの筆者です。義氏がするするとアッという間に降りていく姿に焦りを感じつつも、斜面を、たどたどと降りていきます。なんとも情けないありさまです。ようやくとだりついた"先島スオウ"の大木は堂々としていて、台風の多いこの琉球弧でよくも年輪を重ねてきたものだ、としばし木肌をなでていました。木であれ、人であれ長寿であることへ、敬意を表することは大切なことです。
続いて各集落の墓を見てまわります。奄美は書かれた文献は数少ないので、歴史を知るのには、遺された墓などを見て回るのが有効なのです。古い墓制では、石や珊瑚を積み重ねて中を空洞にしてそこに骨を埋葬します。上は平べったい大石を置くのです。分限者(ぶげんしゃ/庄屋階級)の募石に彫られた銘文も面白い。中には、「膝巣立之墓」もあります。"膝"とは、債務奴隷だった家人(ヤンチュ)の子供。一生小作人を抜けられない"膝"の墓を見るのは初めてです。
筆者はいままで家人の子どもの膝が増えると、分限者にとって食糧調達などで、迷惑であると思っていたのですが、どうもそうではなく、支配階級側にとっては労働力が増えるのは歓迎だったようです。ただし家人は自留地で耕すことは不可能で、収穫したものはすべて支配階級側に収めていたとか。
車を走らせている途中、「このシマは家人(ヤンチュ)が殆どのシマ」と教えてくれます。債務奴隷だといっても、ヤマト的な社会的階級差別を受けてはいません(ただ、奄美でも、自分は分限者(ぶげんしゃ/庄屋階級)やユカリッチュであると自称したりする人はいますが、かつて自分の祖先は家人(ヤンチュ)だったと宣言している人はいるのでしょうか、筆者は知りません)。
ただ今回、義氏に聞いたのですが、戦後すぐの時、古志集落などで、「小作人騒動」があったとか。この時奄美は米軍統治下にあったのですが、本土における農地解放の情報に刺激された家人の人たちが、本土並みを求めたというのです。このことについてはもう少し知りたいところです。瀬戸内の人たちは"ヒギャヤバン"といって、おとなしいようで勇猛な側面も持ち合わせているのだ、と義氏は強調します。
立派な墓といえば、瀬戸内町薩川集落の芝家の墓は、大名の墓所のごとく歴代当主の豪奢な墓が並んでいます。この集落は近世に芝家の先祖が開墾し、薩摩へ多くの上納糖を"納税"しました。その功績により、郷士格に昇格し、一字姓を名乗っていいことになったのです。芝/文/林/朴/純/種/南/澤/栢/泊の中から選べということになり、加計呂麻島の"芝"にも住んだことがあるという理由で選択したのです。一字姓についての本格的論考はいままで多くなかったのですが、弓削政巳氏から「奄美の一字姓名字と郷士格について〜その歴史的背景〜」(『奄美学』に収録)のゲラのコピーをいただき、参考になったのです。
芝家について面白いエピソードがあります。3年前のことでしょうか、義氏と共に、名瀬のスナックへ行った時、芝家出身の女性が働いていたのです。世が世であれば、豪農の令嬢として多くの使用人にかしづかれていた身分でした。その芝さんが幼い頃聞いた話として教えてくれたのです。薩川に赴任してきた小学校の先生が、知り合いの老夫婦の家に間借りしていた時のこと。昼、風呂を使う音がします。老夫婦は「女先生が使っている」となにげなく思っていたところ、後で気付けば、先生は出張中だったことが分かったのです。すると老夫婦「アゲ〜、そんじゃ、あれはイマジョじゃないかね」と話し合っていたとか。それを我々に語ってくれた芝さんも恐怖にひきつっていました。
島唄の故地めぐりの話にもどしましょう。勝浦では、唄達者で有名だった"節子のトミ"の墓に詣でます。イマジョが家人として働き非業の死をとげた"小名瀬"を通りすぎ、久慈へ。山越えの途中にある「カンティメ節の碑」に到着。義氏に、"カンティメ節"に登場する岩加那がカンティメと逢瀬を重ねるべく通った旧道を教えてもらいました。山道だけど道幅が広い。逢い引きした場所に直線的につながっているのです。お互い45分程歩けば、到着します。昔の45分というのは物の数ではなかったでしょう。しかも愛する二人です。歩く時間など気にならなかったに違いありません。でも、この現地にたって筆者が直感したことは、カンティメと岩加那の二人が逢瀬を重ねた回数、日数は、おそらくそんなに多かったでしょう。
車は、大島の端の集落・西古見へ向かいます。唄者の西和美さんの故郷です。明治末から大正にかけてカツオ漁で栄えたシマです。ここのノロたちも豊漁祈願、安全航行についてのウガンも行っていたと高橋一郎氏の著作に書かれています。一度行きたかったシマなので、そこに到着するだけで感激です。今は鰹節の工場跡があるだけで、当時の栄華は偲ぶべくもないのですが、ここがカツオ漁から撤退した主因に、二度の漁船遭難事故がありました。カツオの漁獲量の減少が衰退の主因だと思っていたのですが、そればかりではなかったようです。遭難者の碑には、亡くなった働き盛りの男達の名前と年齢が記されています。阪神大震災以後、そうした遭難者や被害者の碑に目を向けている自分を発見します。やはり、奄美や琉球弧というのは、その場に立たなければ、分からないことが多い。今回の旅で、いかに筆者は奄美を知らないかを実感したのです。
管鈍(くだどん)や屋鈍(やどん)といった名のみ知るシマを過ぎて、宇検村平田(へだ)へ。ここに住む傑物・新元博文氏が、マシュ(塩)を浜で造っていると聞いていたので、捜します。以前、新元氏が塩造りをしている時は、煙りを頼りに見つけたそうですが、今回はどう捜しても見つかりませんでした。
焼内湾をぐるりと回って、大和村に入らず、住用村周りで名瀬に到着。まず会ったのは、重村晃氏。南海日日新聞で永年にわたり学芸欄を担当していた人で、すべての知を奄美に呼び込む高度な紙面づくりは、「重村文化欄」と呼んでいました。いまは退職されていて、悠々自適の日々。ハイデッカー、ヤスパース、丸山真男らを読んでいるとか。次は、本処あまみ庵へ。ここで奄美関係書籍をまとめ買い。そしていよいよ庵主・森本真一郎氏と対峙するのです。いつもの奄美大島のハイライトです。
毎年、奄美大島に来ているので、名瀬に来れば、だいたいは"かずみ"に寄ることにしています。唄者の西和美さんが経営している店です。ここで筆者が声をかけて集まる飲み会は、新年会のような感じです。参集したのは、義、森本、詩人・藤井令一、歴史研究家・弓削政巳、映像作家・越間誠、奄美の文学を研究している間弘志、南海日日の亀山昌道、大野純一各氏。そして、島唄が好きで奄美に移住してしまった太田真貴さん。この時、東京・新宿で「朝花」という島唄の店をしている唄者の森田照史氏からも電話が入り恐縮します。
宴は盛り上がり、和美さんの島唄も聞けて、各人のスピーチの内容にも濃い反応があり、島尾論あり、文化論ありで沸騰していきます。奄美は終電車を気にせずに呑めるのがすばらしい。夜が深まり、人数も減ってとうとう筆者と森本氏の二人に。私を散々批判しつづけながらも、最後の最後まで付き合ってくれるのも彼なのです。2年前に舌癌を患い、歯のすべてを摘出するという大病を経た現在です。二人でもう一件はしごします。ゆったり語れる店で、名古屋のウニタ書房の店主が店をたたみ奄美に移住を決意するまでのエピソードなど話は尽きません。
こうしていつもいつも名瀬の夜は深く熱くいつもでも続くのです。
1872……1月25日(火)
"フーチャランド"で目覚め。大きな部屋なので、心もゆったりします。ところが残念ながら、この日は徳之島がみえず。このあたりは、鯨の親子が周遊しているらしく、朝早くみかけたとのこと。残念。午前中は国頭沖、昼過ぎは住吉沖に姿をみせるとか。鯨は見かけませんでしたが、海面を一斉に移動しているなにかがいます。宿の主人・山本氏(西宮出身)によると、イルカに追われたトビウオではないかということ。このトビウオ、美味しいんですよね。
ついでに言うと、沖永良部と徳之島の間は、潮流が激しく海の難所といわれています。「烏賊(イキャ)曳き」を題材にしたしまうたが、この両島にありますが、徳之島版では、両島間にある海域を"エラブドゥ"といってよく船が遭難する場所としておそれられています。ただし、沖永良部側には、こうした呼称は存在しないということです。目と鼻の先のふる両島ですが、島民の性格もしまうたも違っているのは興味ぶかいことです。
午前中は、"みちしおのユタ"と呼ばれている女性に、フーチャランドに来ていただき、インタビュー。ユタとは、シャーマンの琉球弧での呼称。よく東北の"イタコ"と比肩されます。このユタさん、若い時はさぞかし美人であったろうと思われます。しかし、夫に苦労して、ついにユタになるしかない人生を歩んだのです。その問わず語りに語る人生は聞いていて興味が尽きません(奄美のユタは、相談に来た人から見料を取る時と取らない時がありますが、沖縄のユタは職業として確立しているので、無料というのはあり得ません。中には高額な見料をとるユタもいます)。
空港へは、山本氏の車で送ってもらいました。与論にあって、沖永良部にないもの。それは民謡酒場です。"はかま屋"の鍋田武則さんが店を持つのはどうかとか、山本氏自身も考えているとかで盛り上がりました。この島の島唄振興には欠かせない話です。その店で、うたあしびも復活させるという試みもいいですね。
飛行機を待っている時、とんかつ定食を食べようと思って待合室横の食堂で注文したのですが、筆者の飛行機便を確かめて「時間がないのでダメ」と言われてしまいました。親切なのか、ぶっきらぼうなのか、なんとも言えぬ境地に。仕方なくピラフを食べたのです。
機中で寝ていると、アッという間に奄美大島に到着。沖永良部から来ると、大きな島に思えます。ここで迎えてくれたのが、瀬戸内町に住む義(よし)富弘氏。「しまがたれ」という瀬戸内の民俗・歴史雑誌を出している人で、みずからも研究をされています。そして友人の森氏。
今回の大島行きは、この義氏というすぐれたナビゲーターと共に行動したので、いつになく密度の濃い旅が出来たのです。筆者が何を聞いても答えてくれるという博識ぶりです。まず、義氏がつれていってくれたのは、「薗家庭園」。観光地図にも載っています。かつての豪農だった薗家の庭園が、保存されているのです。薩摩が奄美を支配していた近世の「ヤマト世」では、ユカリッチュ、ブゲンシャと言われる支配階級が各地に群雄し、その屋敷は豪壮な構えだったのです。薩摩から派遣された役人はどちらかというと、下級役人だったので、その壮大なユカリッチュの屋敷には度肝をぬいたとか。支配される側である奄美の方が豊かだったのです。
その庭園にいらっしゃったのが、薗家当主。百歳近くだそうで、箒をもっています。とうてい独りでは掃ききれない広大な庭園に立つ姿は、"人"を越えた"神"のような優麗とした存在にみえてきます。
名瀬市は経由するだけだったのですが、筆者の知らない抜け道をするすると通っているうちに、市街地をいつのまにか通り過ぎていました。さすが土地勘のある人の車に乗っていると違うものです。
三太郎トンネルを越えると、住用村のマングローブが見えてきます。なんでも今回のスマトラ沖巨大地震で、マングローブが残っていたアチェ州の集落は、津波の被害が少なかったそうです。スマトラは近年の開発施策によって、往年の半分しかマングローブが残っていないとか。ちなみに奄美がマングロープ林の北限だったと思います。
車は舗装された国道を外れてでこぼこ道を行きます。標高300メートルぐらいのところから、だんだら坂をくだること30分。「青久」という集落(シマ)に向かいます。「あおく」というのが一般名称ですが、現地では「おく」と呼び慣わしているようです。いずれにせよ「青」なり「おう」という呼称がついている地名は死者との交わりのある場所とされています(神戸にも「青木」と書いて「おおぎ」と読む地名があります)。
このシマに流れ着いたのが、ムチャ加那さんです。その死体はきれいな青い服装に包まれていたと言われています。アオサ取りの最中に、そのあまりの美貌ゆえに、同じ集落の女性たちに嫉妬されて、海に突き飛ばされ、喜界島から、ここ住用村まで流れ着いたのです。アオサ取りといえばちょうど今の季節でしょうか。
この青久という集落、浜辺に青みを帯びた石が多くあります。なんだか、ムチャ加那さんの青の服がこの浜の石を青く染めたという物語も誕生してもおかしくないぐらいです。
ここにムチャ加那を顕彰する碑が立っています。毎年旧暦9月9日には、慰霊祭が行われるそうです。島唄にも「ムチャ加那節」というものがあり、筆者にとってはもうひとつ実感がわかない曲のひとつだったのですが、故地を訪ねることで、おぼろげなイメージから一挙に鮮明な印象を持つ曲に変わったのです。
ところが、この集落についた途端、義氏の表情が曇ります。去年末の台風で砂浜が消去されたとのこと。なんでもすぐ沖で海砂を採取しているのが、今回の大量の砂浜消去につながったのではないかと疑っています。義氏は環境問題にも敏感な人です。瀬戸内町が飲料水用貯水池の近くに産業用廃棄施設を作ろうとしていることに反対しています。海砂の採取が砂浜消去につながったかについては、所管の県は否定しているようですが、義氏は強い疑問をなげかけているのです。
この日の夜は、義さん宅にお世話になることにしました。夕食を食べた食堂は、震災まで神戸で店を持っていたという人でした。やはり震災の影響は、奄美に来ても離れることは出来ません。
夜から、義さんと同じ集落(勝浦)に住む藤岡俊一氏の島唄を録音します。自宅にお邪魔しました。この家が都会風なコンクリート打ちっ放し。北風(にし)が吹く中、6曲を録音。初期のころの武下和平を聞き込んでいるだけに、ヒギャらしい素晴らしい歌声です。ハヤシは福田ノリ子さん。
録音終了後、古仁屋に繰り出します。「凪」という民謡酒場です。ヒギャの本場にしてはいつも島唄が聴ける店がなかったのが不思議でした。川畑春子さんという唄者の方が4年前から開業されたとのこと。そこで待っていてくれたのは、NAOさん。そして若手の保田大介くん。さっそく島唄が店内に響きます。保田くんの歌声が、島唄をはじめてまだ数年にしては"なつかしさ"が漂っていて、将来が楽しみです。
ヒギャにもいい店があることを発見して大喜びです。
店内から大阪のある人に携帯を入れようとしたのですが、アンテナが立っていなく、店外の路地に出てようやく通じました。Docomoはあかんなあ。でもその人、風邪をひいているらしく、酔っぱらった筆者のハイな調子にも話半分で聞いています。「ごめん、もう寝る」と言われ、がっかり。
1871……1月24日(月)
今日から奄美旅に出ます。鹿児島経由なのですが、空港でのトランジットの時間が長く、かつ鹿児島市内に行くのにも、往復2時間かかるので、あまりこの空港は好きではないのです。沖縄経由にしようと思ったのですが、奄美への航空運賃がそれでなくても高い上に、鹿児島経由の方が安いと旅行会社の人に言われて、仕方なく選択。
鹿児島から沖永良部島へ。
飛行機を降りたら、誰も迎えにきていませんでした。携帯で、筆者を取材する予定の大島新聞・斉藤記者に電話して迎えにきてもらいました。斉藤さんは、この島に赴任してきてからすでに3年。以前、奄美大島の古仁屋で島唄録音を共にしたことがあります。本社より沖永良部勤務の方がのびのびしているように見受けます。和泊町立歴史民俗資料館へ。先田光演館長とお会いして、最近の論考などのコピーをいただく。先田氏は「沖永良部郷土研究会」会長として、多様な仕事をされています。
大島新聞から取材を受けたあと、和泊へ。国頭集落の唄者の人たちのしまうたを、南海日日新聞沖永良部総局の新社屋で収録することになり、準備。合計6曲を、FMわぃわぃ用に録音。シーサーズの持田明美さんが、この国頭集落のしまうたをCD用に収録するべく来島する予定だという。発売元は「満月レコード」。楽しみです。
収録終了後は、「はかま屋」で飲み会。南海日日・肥後記者とも痛飲。黒糖焼酎のお湯割りを呑むのは、1927年うまれの林ジャージャーと、唯一のヤマトンチュである筆者のみ。あとは、真冬でも、水割りで呑みます。
沖永良部での宿泊地は、国頭の先端にある"フーチャランド"。1月といっても、暖かい。満天の星のもと、部屋の外の芝生に寝っ転がって、大阪のある人に携帯で話す。今回の奄美旅には、何人か同行する予定の人がいました。結局筆者ひとりになったのですが、この時電話をした人も、同行予定だった人。筆者がハイになって、あれも楽しかった、これも楽しかったとしゃべり続けると、「行きたいけど、行けないわたしの立場も考えて」と苦言を言われてしまいました。ごめんなさい。
1870……1月23日(日)
筆者が前回に発表したとある会にも出ずに、明日からの奄美旅の準備をしています。夜は、カルメンスタッフの新年会です。近くの「味ビル」へ。豚しゃぶ食べ放題コースを選びました。最初は、阿修羅のごとく食べていたのですが、若いスタッフが多いのにもかかわらず、鯨食というまでにはいたらず、お腹が満杯になってしまいました。
飲み放題も選びました。ワインも呑んでみたのですが、そう悪くはない。焼酎は麦しかなかったので、パス。一次会終了後、スタッフたちはどこかへ行きます。元気ですねえ。
1869……1月22日(土)
大学入学偏差値をみつめています。何十年ぶりでしょうか。受験生の時は、この偏差値表に随分しばられていました。ところが今もそこから解放されているとはいえません。一番最初に注目したのは、筆者が卒業した大学・学部・学科の偏差値でした。同学部の中でも真ん中より低い方。59という数字。高いのか低いのか分かりません。
大学受験がいよいよ本格化するシーズンです。筆者は一浪しています。現役の時はなんと11(学部数)も受けて全滅。「滑り止めは滑り初め」と予備校の先生に皮肉たっぷりに言われたものです。その通りだったので、なんとも反論出来ませんでした。今、この11の学部をすべて言え、と言われても自信がありません。
1868……1月21日(金)
朝、出勤途中、JRは今日も遅れて急いでいるのにもかかわらず、三宮のサンキタ通りを歩いていると、鳩が気にかかってしまったのです。いつもパタパタと道路を歩いている彼らが、なぜかいない(筆者は、だいたい毎朝、堂々と道路を歩いている鳩たちに「きみたち、歩いてばっかりせんと、飛ばんかい」とひとりごちながら、道路をジクザクに歩いて"ルゥ、ルゥ"といいながら、追いかけて脅かしてあげるのです)。ふと上を仰ぎ見ると、アーケードの上に鳩たちが並んでいる。その整然とならんでとまっている姿に関心して、数えたくなり、1.2.3.4…と指さし確認をして、19羽いることを確認しました。それにしても、三宮の鳩たちは丸々と肥えています。彼らには食糧難なんてないでしょうね。
鳩といえば、17日の夕方、サンキタ通りを東に向かっていくと、筆者の頭上をかすめるように、何匹も何匹も低空飛行で、駅北の公園に向かっていきます。すでにその公園には何十羽という鳩の群れ。鳩たちの中心には、"鳩女"。いるんですね、どこの都市にも。鳩たちは、時間と嗅覚で、毎日の食事時間がわかるのでしょう。
1867……1月20日(木)
大寒。神戸・三宮は曇り空。
朝、メールを開けると、兵庫県の北播のある町で町会議員をしている女性から「1月号の『ニュー兵庫』に載ってましたよ」。そういえば、去年の暮れ、FMわぃわぃに兵庫県広報課の人が、生放送の最中に、写真を取りに来ていたのを思い出しました。本人はすっかり忘れていたのです。同誌は、兵庫県が発行しているお洒落な広報誌です。
いかにも雪が降ってきそうな空模様。
来週月曜日からカルメンは3日間ほど休ませていただきます。筆者はまた奄美旅に出ます。冬の奄美もまた格別な雰囲気があるのです。
1866……1月19日(水)
朝、一階の筆者の部屋で、パソコン越しに庭を見ていると、隣家との境界の塀の上を歩く野良猫と目線があってしまいました。大人の猫で、まったくかわいげのないやつです。全体は白いのですが、しっぽだけが模様がついている。おそらく、あっちもびっくりしたのでしょう。猫にしてみれば、いつも通る道で変なヤツを見てしまった、といったところでしょうか。猫というのは、面白いもので、こちらがじっと目線を外さないで見つめ続けると、最初に目をそらすのはたいてい猫のほうです。気が弱いのか、はりあう人間を相手にするのがばからしく思うのか、分かりません。そのあと、「ふん」といった風情で、塀を渡りきって、さっていきました。
1865……1月18日(火)
当たり前のことですが、「1月17日」の翌日は1月18日なのです。重い重い1.17が物理的に過ぎ去った後、当然のごとく巡ってきた1月18日。
昨日は一日めいっぱい活動したので、今日は腑抜け状態です。
街もどこか"翌日の空虚感"が漂っています。こんな日は何も考えずに、寝ることにしましょう。
1864……1月17日(月)
やってきた10年目の「阪神・淡路大震災」の当日。朝は雨。
今日は一日忙しく移動します。
正午、JR新長田駅の南広場前にしつらえられたFMわぃわぃ特設ブースに集合。今日はここから放送を発信します。広場中央では、竹筒にろうそくを灯す慰霊のイベントの準備作業が続きます。この日、寒いのと、風が強く竹筒が倒れてなんどもやりなおしています。ボランティアは、近くの小学生、中学生も集団でやってきて手伝っています。
「南の風」は、こうした中で午後1時に始まりました。本来なら、1.17は一日中、特別放送の日なのですが、今年は月曜日にあたるので、無理を言って、レギュラー番組の「南の風」が放送できるよう、局スタッフのみなさんに頼み込んだのです。
本日のゲストは津村喬氏。近年は気功の専門家として有名ですが、筆者の世代にとって、70年安保の重要なイデオローグとして、人文系の思想・評論の読書をする者なら、この人の著作に出会ったものです。1980年に東京から太極拳の先生として神戸に転居した津村氏は、毎月満月の日に、「満月会」という宴を開催していました。太陽暦ではなく、太陰暦を身体化してみようというのが、その会の趣旨だったと思います。筆者もその時以来のつき合いです。
1985年には、『焼酎通信』という月刊のメディアを出していました。津村氏が編集長。筆者が編集担当でした。このメディアは「焼酎ブームから焼酎を守れ」というテーゼでした。当時も焼酎ブームです。ところが、本土中央で売れ出すと、都会向けの安易な焼酎を作るようになり、都市民も焼酎とはそういうもの(本来の風味を抹消した作り方)と受け入れ、そうした傾向に対して警鐘を鳴らし続けたのです。
番組は、神戸で被災した津村氏が、震災直後からどう行動し、なにを考えたのを中心に回顧してもらいました。一度崩壊してしまった後に、出てきたさまざまな現象にこそ、可能性を見いだすことができる、といった見方を津村氏はとったのです。
例えば、アジアの屋台。電気もガスもない神戸の街で、あるベトナム人が、建物が全壊したのを逆手にとって、屋台をひいて営業を始めたのです。もちろん無許可です。すると、いろいろな場所で、屋台をする人が出てきた。いわば神戸がアジアに近づいたのです。Japonの中でもお洒落な街といわれている神戸で、その対極のイメージのようなアジアの屋台が出現することの面白さ。
この屋台は秩序が回復してくると姿を消していきます。しかし、神戸という都市の表皮を一枚はがすと、アジアが起動する、盤石と思われていた近代が一瞬のうちに不全状態になると、アジアが吹き出してくるおもしろさを、津村氏は直観的にその本質を見抜いたのです。
番組はその後の神戸の姿についても語っていきます。神戸市政は、あいかわらず開発優先形を変更しないままです。神戸空港のことでも、あれだけ市民参加の投票条例をつくろうと多くの署名を集めたのに、神戸市と市議会は無視してしまいました。空港建設に反対の人もいれば、賛成の人もいる。それを聞く直接民主主義的な手法を採用してもよかったのではないでしょうか。
午後1時に番組が終了。寒風ふきすさぶ野外からの筆者の放送はおしまい。筆者もいろいろなところから実況放送をしますが、今日ほど寒い場所での放送は初めてです。自然と身体がたくましくなっていきます。
津村氏と二人で「琉球ワールド」へ。そこで昼食。「震災でひとつ決意したことがあって、ぼくにとって大切なことをひとつ止めようと決め、酒をたったのです」と意外なことを聞きました。あの津村氏がこの10年間酒を呑んでいなかったとは!
二人は偶然同じものを食べます。ソーキそばと、ゴーヤチャンプルー。筆者はオリオンの生ビール、そして津村氏は「久米島の久米仙」の水割り。10年の禁を破っての飲酒なのでしょうか。このゴーヤにしてみても、10年前は神戸で入手するのは困難でした。津村氏は常に時代の先を走っている人です。その人が、しみじみと「ゴーヤも手に入りやすくなったね」と言うのですから、今日という日は、10年間の来し方を思わず振りかえざるを得ない磁力というのを持っているのでしょうね。
二階で演奏していた島唄(?)グループの生演奏を聴いたあと、われわれは三宮に向かいます。新しく出来た地下鉄に乗り、神戸市役所前で行われていた震災に抗議するグループのステージを見ていました。着いた時はラテンのサルサグループ。野外でしているので、ともかく寒い。今日からズボン下をはいてきてよかったと自分を誉めます。10年前も、震災の夜、小学校に避難するために、やむなくはきはじめたのが、ズボン下だったのです。教室にはタオルケットを持参して敷いていましたが、寒さで常に寝返りをうたなければならない状態です。こんな時、下着を一枚でも多くきていることがせめてもの救いでした。
寒さに凍えて聞いていると、知り合いのミュージシャンと会い、その場を離れようかと思っていたのですが、我慢して聞き続けることにします。圧巻だったのは、お〜まきちまき&のむらあきの二人でした。この震災の日の演奏にぴったり。ちまきさんは上手になりました。そして舞台運びもまったくのプロ。こういうタイプのうたうたいは大好きなので、筆者は曲の途中で津村氏におもわず「いいですね」と伝えたのです。
日が暮れてきます。津村氏と別れた後、一度カルメンに帰り、広告原稿を出稿した後、友人たちが主催している1.17の飲み会に参加します。北野坂を少し登ったところです。狭い場所に大勢の参加。どちらも筆者と親しい二人が、主に八重山の民謡を歌います。ひとり(永江東風坊くん/陶芸家)は三線、稲垣暁氏は横笛です。ふたりともいい感じです。会場は大阪や遠くは松山からも参加して、楽しく盛り上がるのです。八重山の民謡といいながら、八重山どころか、沖縄出身者もいないのです。それでこのレベルと盛り上がり。沖縄文化と音楽のすそ野の広さは驚くべきものがあります。これは奄美にはない。奄美にずっと接していますが、ここまでヤマトンチュが、自分たちの音楽としている光景は奄美の島唄ではまだ多くありません。
この会の主宰者と親しいので、今日の1.17を印象づけるために、昨日、カルメンで朗読した筆者の作品「あの街に還る」を無理をいって、朗読させてもらいました。三線とうたは山内由紀子さんが、今日も担当してくれました。本番の昨日が終わったので、少し精神的余裕があって、自分でも朗読をしていることを楽しんでいることが分かります。
それから、また宴。食べ物は料金からすると少なかったのですが、泡盛は多く呑みました。
1863……1月16日(日)
本日は、1.17を前にして、中川マリさんとアルテフラメンコ舞踊団のフラメンコ・ディナーショーを催しました。震災から10年。カルメンもなんとか営業を続けることが出来たのは、ひとえに多くのお客様に愛されてきたからこそです。ネットの上からではありますが、感謝したいと思っています。
///////////////以下は挨拶と料理内容です//////////////////////////
もうあれから10年がたつのですね。1995年1月17日に起きた阪神大震災。カルメンではずっとこの日にちなんで、鎮魂のフラメンコ・ディナーショーを行ってきました。今年は、いつものように、中川マリさんとアルテ・フラメンコ舞踊団のみなさんに登場してもらいます。また、第一部として、震災を追悼する詩の朗読を行います。《特別コースの内容》(1) ラ・マンチャ産赤ワイン 00年 グラス(2)ほたて貝のソテー イディアサバルチーズのせ(3)真鯛のソテー 香草添え シェリービネガーソース(4)コネホのパエジャ(5)コーヒー(6)〈デザート〉タルタ・デ・サンチャゴ
(第一部)午後7時00分〜詩人たちによる震災追悼作品朗読
〈朗読者〉・高谷和幸・安西佐有理・富哲世・檀朋美・寺岡良信・大橋愛由等(大橋の朗読バックに山内由紀子の三線とうた)
(第一部)午後8時15分〜中川マリ&アルテ・フラメンコ舞踊団《料金》6800円(税込み/ショーチャージ、特別コース料金を含む)
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そして、1.17は終わりました。筆者はひとりで帰りました。朗読してくれた友人たちも早くに帰ってしまったからです。
この震災から10年を迎えるのが、こわく、去年夏ごろから、少しく神経症のような状態になっていたのです。でも本当の1.17は明日。まだまだ心の平安は訪れません。1862……1月15日(土)
雨。センター試験の初日。
いまはもうない「共通一次試験」も筆者が高校を卒業した後の世代が対象だった、センター試験といっても、勘が働かず、一から学習しないと、その内容がつんめませんでした。筆者は一浪しています。現役の時は、華やかに二桁の大学(学部)を受験したのですが、見事にみんな不合格でした。予備校に通っていた時、教師に「すべり止めはすべり初め」とよく言われたものです。
当時と較べて、子どもの数は減って少しは「広き門」となっているのですが、難関校は相変わらずそう簡単に入れるものではありません。受験生にとっては、震災から10年の感慨にふける間もないでしょう。
1861……1月14日(金)
震災1.17が近づいているせいか、筆者、少しチックが走ります。やはり10年目というのは、重い意味があります。日曜日に行うイベントに使うために、写真を整理していたら、カルメンの震災直後の混乱した店内を撮影したものがありました。あの時、お客様がいたら、と思うとゾッとします。
夜も、ある神戸の医師についてのテレビ・ドキュメンタリーが放映されています。復興住宅に住む中高年の孤独死があとをたちません。それを、その医師は自分が出来る範囲で、ひとり暮らしの人たちを訪れる、という内容です。
神戸は、ボランティアを、肩肘張って意識的にしているということではなく、自然に身体を動かしていることが、すなわちボランティアとなっている事案が多いと思っています。それほどあの震災体験は強烈なのです。
1860……1月13日(木)
笑われてしまいそうですが、ようやく年賀状を出しおわりました。筆者の賀状は、正月用というより、正月に出すメールニュースのような体裁にしていますので、「あけましておめでとうございます」とは一切書いていないのです。
ポストに投函して店に戻ってくると、カルメンの絵の上手なスタッフが「ようやく年賀状が出来ました」と、きれいな女性が描かれたはがきを見せてくれました。筆者より上手(うわて)がいるものです。
1859……1月12日(水)
昼、神戸は雪が降っていました。筆者が通うJRの駅の前に立つビルで小さな変化です。
高級そうな犬の服屋さんから商品が撤去されています。つぶれたのでしょう。お客さんが入っているのを見たことがありません(失礼!)。開店して半年もったでしょうか。近くに犬猫グッヅ店があるのですが、そこは繁盛しているようです。
もうひとつ、コンビニの進出で閉店してしまった本屋の後には、不動産屋が入るようです。これも筆者にとって、生活に直結しないぶん、関係のない職種です。おじさん的に言えば、おしゃれなワンショット・ドリンクバー(スペインのバルのような感じ)が出来たらいいなあ、と思っていたのでずが、だめでした。
1858……1月11日(火)
カルメンは休みです。銀行まわりをする他は、拙宅周辺ですごしました。
灯油を買いに行ったついでに、「古本ショップ」に行き、何年ぶりかで漫画を買いました。『イエス』(NTT出版)という上下巻です。一気に読みました。筆者は、幼稚園、小学校とカトリック系学校でしたので、『聖書』そのものではなく「聖書物語」が染みついています。つきり、イエスはキリスト(救世主・メシア)であり、聖母マリアの処女懐胎して誕生したこと。馬小屋で生まれ、羊飼いや、東方の賢者たちが誕生を祝ったこと、などなどです。
しかし、漫画は、『聖書』をもとに描かれているので、こうした筆者が受容した伝承は登場しません。そしてこの作品に通底しているのは、イエスそのものを直視していこうとする姿勢です。13人の弟子たちが無能あるいは、裏切り者としてしか描かれていないのは、ちょっとワンパターンのような気がするのですが。
1857……1月10日(月)
阪急六甲道駅の南側で行われたミニコンサートに顔を出しました。"サラ・シャンティ"というフリースペースで、そこで語りあっているのは、気功家の津村喬氏、そして音楽家の林昌彦さん。震災の話から、身体をいやすという話まで幅広くテーマとなります。
林さんは、ピアノで、震災をイメージした曲を演奏。大きな曲想で、ゆたかな才能を感じさせます。1.17は芦屋の浜で被災。震災の直前、天空をイスヅチのごとくの稲妻が走ったのを目撃したそうです。家の中で、金魚鉢が割れてしまい、可哀想に思った林さんは、金魚を生かせるために、西宮の甲山近くの池まで歩いていって、放生してやったとか。
1856……1月9日(日)
奄美・沖永良部島から、前利潔氏が来神。例の如く、カルメンで新年宴会。ジャーナリストや沖永良部出身者などが、10人ほど集まり、わいわいがやがや。前利氏、昨日は東京だったそうです。
ゲストに、淡路島出身で、毎日新聞西部本社に籍がある、A編集委員。筆者が論考を書いているN氏(沖永良部出身で中学校教諭などをしながら、奄美についての新聞などを発行していた)に、お世話になった人。
本日も唄を歌う人が二人ほど。そのうちの一人の女性は、そうそうにダウン。その人も沖永良部出身なので、同じ島出身のN氏の子息が、A編集委員とともに、帰宅することに。島唄も出て、楽しい会となりました。
宴は続き、筆者はある人と打ち合わせ。夜ははてなしなく続きます。
1855……1月8日(土)
みなさん、これはあくまでウワサ話ですよ。信じる信じないは読者の皆さんにお任せします。T国のことです。
T国のR総統のこと。
民選としては初代の総統となった人ですが、T国にとっても初めて民主的手続きを踏んで、選ばれた国の代表なのです。これはC民族にとっても、歴史上経験したことのないことで、国家代表を自分たちの一票で選べるわけですから、大きな転換だったわけです。今でもT国の選挙は、かつてのJaponの選挙のように、幟はたつわ、宣伝カーはうるさいわ、動員はすさまじいわ、で一種の祝祭的(カーニバル的)行事なのです。選挙戦が激しいということは中傷合戦も激しい。R総統はT人意識を全面に押し立てて闘った人ですが、これに反発する勢力も多い。そこで、反対勢力がR総統の過去を徹底的に調べたそうです。すると、ひとつの驚くべき事実がわかった。それは、R総統の母は日本人だというのです。T国では、まことしやかに語られているそうです。
みなさん、これはあくまでウワサ話ですよ。信じる信じないは読者の皆さんにお任せします。
1854……1月7日(金)
昨日、行った店は、自由律俳人の種田山頭火の最期をみとったという人を、親戚にもつという人がオーナーだそうです。ということは、出身は愛媛県松山市でしょうか。かの都市は俳句にかかわる人にとっては、大切な場所で、いわば"俳都"というべきところ(三重県の伊賀上野もそう呼んでいいと思っています)。筆者が数年前に松山を訪れた時はまだ、廃屋のままに、山頭火終焉の家として残っていました。シンプルな平屋でした。なんだか、奄美の田中一村終焉の家とイメージがだぶります。なんとか是非、残してほしいものです。ただ、あの都市は俳句にまつわる関係場所が多いので、なかなか手が回らないのかもしれませんが。
1853……1月6日(木)
京都精華大学で、筆者が特別講義をしました。テーマは「震災から10年 「南の風」放送8年」。
同大学は、神戸からは、JR京都駅で下車して、地下鉄に乗り換えて終点・京都国際会館で下車。そこからスクールバスに乗るというのが、時間的にもいいようです。
ここはユニークな先生と生徒があつまる学校として知られています。「まんが科」という学科もあり、筆者の友人である村上知彦氏が先生をしています。
筆者が呼ばれた同大学の「総合講座」は、学内外から講師を呼ぶという試みです。筆者はB4判裏表の資料を用意したのです。この講座は当初、中規模の教室でおこなう予定だったのが、人気が出て、普段は授業につかわない大部屋ですることになりました。
大部屋なために、200人ちかい生徒たちが座るまでに、間があきます。そして私語をやめさせるまで、間があくのです。だから90分授業でも実質は70分ほどでしようか。
授業終了後、アシスタントをしてくれた学生と、友人でわざわざ聴講してくれた友人とともに、大学を離れ、叡電にのり、出町柳で京阪に乗り換え、丸太町に。そこからバスに乗って、堀川あたりで下車。友人のいきつけの店で、魚介料理に舌鼓。小部屋に通され、後で参加した詩人とともに、なんだか幕末の志士たちが密議したような六畳間で、しっとりと飲んでいました。
大学で講義するのも面白いですね。それに京都の街のすばらしさ。筆者は大学時代5年間住んでいたこともあって、感慨はひとしおです。特に冬の京都がいい。
その店、黒糖焼酎を置いていて、心地よい酔いを持続しながら、神戸に帰ったのです。
1852……1月5日(水)
インドネシア・アチェ州沖を震源地とする地震によって発生した巨大津波が、周辺国に大きな被害をもたらし、犠牲者は20万人ちかくにもなるといわれています。阪神大震災という都市型直下地震での犠牲者六千余名から較べても、その桁違いの犠牲者にはただただ驚いてしまいます。このアチェ州は、インドネシアからの独立闘争が盛んな地域で、インドネシア国軍が独立派に対して、徹底した弾圧政策をとっていることでも知られています。
もともとここは、インドネシアがオランダの植民地になった後も、最後まで頑強に植民地化に対して抵抗した歴史をもっています。そうした地域の自律志向が、インドネシアにも向けられているのです。
こういう事情があるために、インドネシア国軍は、外国軍がアチェ州に入ることを嫌悪しています。弾圧の実態をしられたくないのと、避難者のキャンプが、独立派の巣窟となるのをおそれているからです。
昨日でしたか、見たテレビ映像では、米軍のヘリコプターが、無作為にアチェ州の上空を飛んで、人がいそうな場所に、支援物資を投下するということをしています。考えてみると、支援という形であれ、外国に軍隊を入れて、勝手に国土を飛び回るわけですから、アメリカもいい根性をしています。それともひょっとして、インドネシアの地政を実際に上空を飛ぶことで、見聞できるという軍事目的が裏にちゃんと隠されているのかもしれません。
米軍ヘリコプターに同乗したジャーナリストは、その場を飛び去ろうとしているのに、まだ支援物資を求めてヘリコプターの側から離れようとしないアチェの人たちをカメラに写しています。Japonのわれわれからすると「ギブミーチョコレート」の世界。
1851……1月4日(火)
たまった正月の新聞も、詳しく読まないうちに、仕事が始まってしまいました。お餅も、充分に食べきれずに、2005年の仕事が始まっています。
年末・年始に二本も2時間特別ラジオ番組をしたので、その準備のために、ひっくり返っている筆者の部屋は、そのままになっています。
今年も資料・文献に埋もれて生活していきそうです。でも、今年はいくつか新しいことをします。そしてもちろん、カルメンは今年も新しいスペイン料理の新作を提供していきます。
1850……1月3日(月)
さて、カルメンの仕事始めです。今年こそ景気の本格回復を望みたいところです。
筆者は昼、ちょっと抜け出して、FMわぃわぃ「南の風」の正月特別番組を放送しました。今年に活躍しそうな人を中心に、番組を進行します。2時間編成。
正月はいつも筆者以外に、パートナーをお呼びしています。今年は、山内由紀子さんです。二人で番組をすすめながら、由紀子さんにも「遊びシュンカネ」「祝い歌」の二曲を歌ってもらいました。沖縄の"情け歌"と呼ばれるジャンルで、由紀子さんが得意とする分野です。ゆっくりとしたテンポで、しみじみとした曲です。
さて、今年は奄美の島唄にとって、どんな年になるのでしょうか。楽しみです。
1849……1月2日(日)
思い立って、身内で食事会。ただ全員ではありません。和風の食べ放題の店です。ハーバーランドの中にあります。
比較的おおく食べる筆者にしては、小食でした。食事のあと、初代と筆者、息子(次男)をつれて、慰霊の神戸めぐり。献体を供養している禅宗の寺、中国の開帝廟、そして湊川神社。タクシーでめぐります。初代にとって、いずれも人生の中でこだわりの強い場所。筆者は息子なので"耳に蛸"もので、いまさら聞かなくてもわかっているので、もっぱら息子に聞き役を任せます。
思うに、人の一生というのは、そんなに多くの"ものがたり"はないのかもとしれません。昔の記憶、昔から興味のあること、こだわっているいくつかの"ものがたり"の中に、その人は生きている。いわんや、70歳代後半の初代とすれば、その自分の軌跡ともいえる"ものがたり"を反復することのいとおしさを噛みしめているのでしょう。
1848……20051月1日(土)
あけましておめでとうございます。新年の言祝(ことほ)ぎをいたしたいと思います。
今年はなんとか、みなさんにとって、いい年でありますよう願っています。そしてなにより、みなさんが健康であられるよう願っています。
今年は阪神淡路大震災から10年。被災地と被災地に住むすべての人が、しあわせであるよう願っています。
1847……12月31日(金)
大晦日は、年賀状を印刷しています。350枚ほど印刷します。カラーでするので、時間がかかります。途中、インクカートリッジがなくなったので、ダイエーに走りました。売っているのですね。午前中に餅網器を買った時に、売り場を確認していました。
筆者は、大晦日の夜はテレビを見ません。ひたすら、年賀状の印刷のために、プリンターの面倒をみているのです。
そして年があける時、ベランダに出て、神戸港の新年を祝賀する汽笛を聞いたのです。2004年は終わりました。
1846……12月30日(木)
FMわぃわぃの年末特別番組「ながた人物交差点」の制作とDJを担当しました。この番組は、いつも筆者がしている「南の風」とは関係がなく、長田を、ひと、もの、情報、こころが行き交う交差点とみなして、各界で活躍する素敵な人たちに、ゲストに出ていただくトークと音楽で楽しんでもらう2時間特別番組です。
数年前からこの番組があったのですが、去年は、FMわぃわぃの機構改革で、放送スタッフの都合がつかず、放送しませんでした。今年は局の理解をいただき、再開できたのです。
今年のゲストは、4人(組)。胡弓奏者の木場大輔氏、詩人の高谷和幸氏、台湾籍の"神戸っ子"で歌手の李浩麗さん、そして神戸大学大学院生の山本かよ子さん。もちろん、木場さん、浩麗にはスタジオ内で、生演奏してもらいました。番組は、4人がそれぞればらばらに紹介するのではなく、お互いがお互いを刺激しあって、トークがすすみ、番組の最後の方になると、スタジオ内に一体感が生まれ、そのわくわく感も、リスナーの人たちに伝えようというものです。
番組のアシスタントに、劇団「インフィニットガーデン」所属の小野愛寿香さんにしてもらいました。
番組終了後は、三宮に場所を変えて、番組でのったその勢いのままに、しばらく語り合っていました。楽しかったなあ。
1845……12月29日(水)
カルメン、今年最後の営業日です。今年は年末の日程がよかったのか、クリスマスを過ぎても、お客様は来てくれました。これは阪急電車の無料配布紙「TOKK」クーポン付き12月25日号に、カルメンが目立つところに掲載されているためです。
おかげさまで、この「TOKK TOKK」には時々掲載させていただき、そのたびごとに効果があります。関係各位に感謝です。
1844……12月28日(火)
筆者の母方の祖父・岸本邦巳についてです。彼が齢80の時に描いた履歴書がありますので、ここに転載します。
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岸本邦巳 略歴明治28年(1895)7月21日、岡山県上道郡古都村の岸本熊太の三男として産まれる。母は亀。叔父にあたる西毅一(微山)により邦巳と名付けられる。人は終日朝の気分で暮らせとの意。また氏は同年頃(=その当時の社会状況の成熟度を時間で表せば)を、邦(くに)の巳(み)の刻(午前十時)と考えられていたと亡き母からも聞かされていた。
岡山の内山尋常高等小学校を卒業し閑谷(しずたに)学校に入るつもりでいたが西氏死去のため中止。
明治42年(1909)4月、神戸に出てきた。(13歳の春)
幸徳事件に影響されて賀川豊彦氏を新川に訪ね兄事する。
川崎、三菱の争議には側面から参加したが、日本農民組合の創立に使走りをし、次いで神戸印刷工組合と神戸サラリーマンユニオン等を組織した。(この組合〈SMU〉は我が国に於いては最初の月給取りの労働組合で、後に山本宣治氏を委員長とする日本俸給生活者連盟になった。)
当時、御影町に居られた山川均氏の指示を受け日本労働組合評議会の創立に奔走した。また政治研究会を始めて、川上丈太郎氏を同支部長に推挙。労働農民党を結成して、以来郷土の大先輩・大山郁夫氏の知遇をえて専ら無産政党運動に専念した。また非合法の日本共産党神戸班の組織にも協力していたが、三・一五事件によって以上の諸組織はすべて破壊させられてしまった。
戦後は神戸文化人協会、日中、日ソ友好協会創立に参加したが、特に大正以来の、今は亡き同志達を記念するために、兵庫県無産階級戦士の碑建設に努力し、佐野好雄氏を会長として総評その他全労働組合または各無産政党の協賛を得て、大倉山に「平和の礎」碑を建て、旧同志の霊を合祀することを得た。
昭和初年(1926=31歳)より、生計を得るために、古本業を始め「広重書林」「元町書院」を自営して今日まで45年馬齢70有五に到るまで、多くの旧知読書人に奉仕する目的で古書鑑定と古書売買を斡旋する「神戸古書研究会」を御影本町4丁目5に設置し業務内容の促進を図っている。
郷土関係資料の収集とその研究発表を老後唯一の楽しみとしている次第である。
(この文章は、昭和45年=1970、70歳=に書かれた文章であると思われる。)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
私は当年80歳になりました。全く夢の如き茫々とした思い出(が浮かんできます。)此の書が私の最後のお別れの辞となる可能性もありますので、私事で恐縮乍らご勘弁を願い略歴を記します。
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1843……12月27日(月)
ある人とあることの打ち合わせをするために、ある場所に向かったのですが、途中、電車が止まってしまいます。踏切に異物が落ちていることで、約30分遅れてしまいました。その人、待ちぼうけをくらった上に、いかにも疲れた表情。「どしたの」「さむい。しんどい」。珍しく三つ編みにしている髪の毛も少し乱れています。めったに手に入らない焼酎を持参したのですが、歩くのも大儀(たいぎ)そう。必要最低限の打ち合わせをしてすぐに別れました。せっかく忘年会をしようと思っていたのに。まあ、体調が悪いので仕方ありませんが。それにしても、体調がはっきりと表情にでる人です。
1842……12月26日(日)
ルミナリエ、最終日。今年は一回も見ることが出来ませんでした。
例年はだいたいこの最終日になんとか間に合って、最後の数分間の消灯の瞬間を楽しんでいたのですが、今年は仕事が終わらず、年末の光の祭典を見ることは出来ませんでした。
なんだか寂しいような、ああ、これで2004年はもう終わりやな、と感慨にふけったり。
1841……12月25日(土)
筆者が、カトリック系小学校でにならったイエスは、馬小屋で生まれた聖なる人。でもこのことは『聖書』には書かれていなくて、西洋社会に永年にわたって蓄積された「聖書物語」での"事実"。イエスの誕生を祝って、まず羊飼い、そして東方の賢者たちが、参集します。これは、もうすぐ生まれる子どもの中に、為政者にとって邪魔となる者がいるとの"預言"が流布することによって、行われていた「幼児虐殺」を忌避するために、ヨセフとマリアは難を逃れるべく逃避している最中に、産気づき馬小屋で生まれたというものです。イエスは、こうした幼子イエスと、十字架に磔にされた死者としてのイエスが強烈なイコンとして表象されていますが、青年イエスこそ、"愛の人"なのです。
1840……12月24日(金)
今年のクリスマス・イヴは金曜日。恋人たちにとっては、これほど素敵な曜日はないでしょう。カルメンも数組をのぞいてすべてカップルのお客さんでした。ところが、このイヴの晩にチェーンメールが。高校生、大学生を中心に、どうやら携帯で回っている怪情報のようです。
いわくに「友だちの友だちの友だちの話たせけど(ここですでに眉唾ものの気配)、アラブ系の男性に道を尋ねられ、その友人は英語が出来たので、丁寧に教えてあげると、「あなた親切だから、とっておきの情報を教えてあげる。イヴの晩、この国で一番大きなクリスマスツリーでテロがある」と」。
この国で一番大きなクリスマスツリーといえば、大阪のUSJにあるもの。ところが、この話には神戸バージョンがあり、ルミナリエが爆破されるというテロ情報もあるのです。
1839……12月23日(木)
とあるお客様から、筆者の顔について「誰か歴史上の人物に似ている、と言われたことがありますか」と聞かれ「う〜ん、なんだかそう言われたような」とくぐもった返事をしていたら、「ロシアのロマノフ王朝のピョートル大帝にそっくりですよ」と言われてしまいました。いままで、ラテン系の人物や、華僑系の人物に似ていると言われましたが、ロシア人は初めて。まあ、ロシア人といっても、モンゴル系の人たちと永年にわたって混血が進んでいるので、ヨーロッパ系にしたら、顔が幅広くアジア風です。帰宅して、Googleのイメージ検索で"ピョートル大帝"を検索してみると、確かに似ているような、本人にしてみると、なんだか変な感じ。ちなみにピョートル大帝は、モンゴル勢力をたくみに利用しながら、ロシアの領土を拡張していった人です。たしか"イヴァン雷帝"という異名もあったはずです。まてよ、昔たしかこの人の歴史小説を買ったことがあるな。大学時代でしょうか、因果は巡り巡るものですねぇ。
1838……12月22日(水)
本日の夜はたった四組。でもそれぞれ大人数さんだったので、予約だけで満席です。忘年会まっさかり、といった感です。早々にこの団体さんの予約が入ったので、他の予約のお客様を断るのがたいへんでした。中には、今晩、事情をしらずに来店された常連さんもおられて、心苦しいかぎりです。
1837……12月21日(火)
昨晩、帰宅してすぐ寝てしまい、午前3時に起きて、入浴。今年はやはり暖かい。寒がりの筆者がまだズボン下をはいていないのですから。おしぼり氏「やはり、いま忘年会シーズンですから、忙しいみたいです。よく(おしぼりが)出ます」。
1836……12月20日(月)
月曜日ですが、カルメンは営業しています。常連のお客さん。ずっと、フラメンカ・エッグ(ウェボス・ア・ラ・フラメンカ)のAコースを食べていただいています。こうして、カルメンに来ると、注文の料理を決めている人も多いのですね。
近くの老夫婦のカップル。「40年ぶりです」。
「新撰組」、本日より営業再開。
1835……12月19日(日)
カルメンビルの一階テナント「新撰組」、本日は休業。一年で一番の稼ぎ時なので、同業者として、心が痛みます。一日も早い復旧を望んでいます。これから、さまざまに処理すべきことがあって大変です。1834……12月18日(土)
昼、大阪で、若者たちが集まる場所で、2時間ほど滞在。今年さいごの集まりです。午後7時すぎ、カルメンビルの一階テナント「新撰組」から失火。消防車は来るわ、警察は来るわ、野次馬は来るわで大騒ぎ。ビルの上水道の塩ビパイプが消失してしまったために、水が"だだ漏れ"。一階は煙りと水、地階テナントは水漏れ。カルメンには実害はなかったものの。水道がとまったために、洗い物ができず、隣りの店舗からホースをひっぱってきて導水。
消防隊員をかぞえてみたら、20人超。水道が復旧したのが午前零時前。復旧を見届けて、カルメンを出たのは、日が変わっていました。なんとも大変な一日でした。
ここで思い出すのは、カルメンも昭和39年に火事にあっているということです。火元だったのですが、放火でした。火事はイヤです。すべて燃えてしまいます。
1833……12月17日(金)
神戸親和女子大学で講義。といっても、FMわぃわぃの日比野純一氏がもっている「多文化共生」講座のゲストとして、しゃっべってきました。テーマは「関西における奄美出身者のエスニシティ研究」。定員200人入る大教室。生徒たちは当然、女性ばかり。授業はうるさかったり、静かだったり。予定していた内容の半分程度しかしゃべれず。黒板になにか書くことで、生徒たちは手を動かすので、講師に注目させるのにはいいのかもしれません。これから、大学で教える機会が増えるかもしれません。大学・授業の雰囲気をつかむことが大切です。それにしても、何十年ぶりかにチョークを使いました。あれって、手が汚れますね。濡れたてぬぐいを用意しておいた方がいいみたいです。筆者が書いた概念語はすべてルビを振りました。
1832……12月16日(木)
自由律作家の藤田踏青氏が夫婦で来店。踏青氏は来年から、西宮で超ジャンルの句会をするとのこと。自由律は一行詩であるともいえ、俳句的な季語、切れ字などから解放されています。同じ定型詩でもさまざまなジャンルがあるものです。自由律は規律が少ないが故に、反対に作品の稟とした自律性が要求されているようで、こわい。
1831……12月15日(水)
姪っ子が主演する劇を見に行きました。"i_garden(インフィニット・ガーデンと呼ぶ)"劇団の「スペースキャロル」。
なかなかに充実した内容でした。劇団員は神戸大学の学生が中心となって組織されたもので、一作ごとに磨きがかかっています。殆どない舞台装置のもとで、脚本力と演技力でみせてくれました。筆者、もともとこういう小劇場が大好きな人です。学生時代は"紅テント"、"黒テント"の京都公演は必ず見ていました。
劇は、大学のさえないUFO研究会が、「フライパン山」で宇宙人と出会うというもの。少年(姪っ子が演じている)がどうも宇宙人に見えない研究会メンバーが、家出少年として警察に引き渡そうとすると、あるカードを持ち出し、東北のある場所にワープ。本物の"宇宙人"だと知って、大喜びするものの、やがてその少年は未来からやってきたことが分かる。しかも大学サークルに属するカップルが将来結婚してその子どもとして生を得るのである。しかし10歳の時に交通事故に遭って死んでしまう。
そのカップル、派手な喧嘩をしてしまった。なんとか、仲直りをさせようとするのだが、なかなかうまくいかない。そしてどうにか、将来の父親が、将来の母親に対して一番大切なことをすることで解決の方向に向かうのだが、その将来の父親がしたことが、自衛隊第七駐屯地に進入して、ヘリコプターを奪い、北日本の雪を積んで、決して雪が降らない「フライパン山」に雪を降らせようとすることだった(進入した時のマスコミのアナウンスが、三島由紀夫・楯の会の市ヶ谷駐屯地に進入したアナウンスにそっくりで、その近似も楽しめた)……
この劇団、一作ごとに上達していきます。これからも楽しみです。
この日、川柳人の樋口由紀子さん母娘も観劇してくれました。1830……12月14日(火)
寝不足きみですが、そろそろ金曜日の準備をしなくてはなりません。大学で講義するためです。資料づくりをしているのですが、これが面倒です。しかし、一度つくるとあとあとさまざまに活用できるのです。今回のテーマは、奄美出身者のエスニシティ研究です。講義なので、エクリチュールにまとめなくていいので、気が楽といえばそうなのですが、先生業というのは、わかりやすい言葉で語る必要があります。いろいろ準備することがあって、緊張感が高まってきます。1829……12月13日(月)
カルメンの定休日。昼は、金曜日の授業の準備。夜は、筆者が主宰する大阪での忘年会。谷町6丁目の"すかんぽ"で10人ほどが集まりました。楽しい会でした。午後6時から飲み始めて、最後は、少々酩酊気味。ろれつが回らなくなって、困ってしまいました。初参加の人、毎年来てくれている人、"すかんぽ鍋"をつつきながら、語り合います。
今年は、このあと、祝いごとのために、二次会へ。大阪の夜は深く、薔薇の香気に満ちていました。
1828……12月12日(日)
藤井貞和氏と、関根賢司氏(静岡大学)と朝、打ち合わせ。藤井氏、メモがないので、原稿用紙を筆者が手渡すと、メモがたちまち、一枚のイラストになり、作品になっていました。取り出したのは鉛筆。左手で持ちしゃかしゃかと書きすすめます。さすが、詩人のすることは、メモも作品にしてしまうのですね。
1827……12月11日(土)
カルメンの第二土曜日は、9月から「ランプの家フラメンコ教室」のみなさんによるフラメンコショーをしています。今回はその最後のショー。その前に、詩の朗読会をひとついれました。ゲストは、東京に住む藤井貞和氏。現代詩の世界ではこの人を知らない人はいない。国文学者でもあり、その巨(おおき)な知の体系は、目がくらむばかりです。藤井氏の前に、関西在住の今野和代さん、『Melange』同人の高谷和幸さん、富哲世さん、安西佐有理さん、寺岡良信さんも朗読しました。
なんといっても、藤井さんの存在はおおきい。フラメンコが終わってからは、詩人の倉橋健一氏、俳人の堀本吟氏らも参加して、おおいに気炎をあげました。今晩は詩人たちの饗宴でした。カルメンは、詩人と定型詩人(俳句、短歌、川柳、連句、自由律)が蝟集する店です。
1826……12月10日(金)
ほしいシステムがあります。それはパソコンで、MDカセットに録音した内容を編集するアプリケーションです。筆者は、MDで、奄美の島唄を現地録音しているのですが、いままで、少しずつ貴重な音源が集まっています。しかし、どうも編集が面倒なために、充分に放送(FMわぃわぃ「南の風」)に活用されていないというのが、現状です。MDとパソコンは連動しているとは言い難く、編集が煩瑣なので、ついついCD音源を使い勝ちです。音楽関係業界のみなさん、どうにかなりませんかね。
1825……12月9日(木)
今年できなかったこと/3本が書くための資料・文献化してしまって、読書のための読書が出来ていません。小説では、津島祐子著『ナラ・レポート』など読みたいのですが、一回本屋が買いそびれると、最近新刊書の回転が早いので、捜すのが大変です。
来年は、評論集をそろそろ上梓する予定なので、評論系をまとめて読まなくてはなりません。
1824……12月8日(水)
今年できなかったこと/2暖かい秋だっからでしようか。京・奈良の錦秋を楽しむことが出来ませんでした。今年の秋は、休日でも、なにかと多忙で、原稿を書いていたりで、ひとりふらりと古寺を訪(おとな)うことが出来ませんでした。
このところ、用事が多く、休日も気ぜわしく動いています。「仕事は忙しい人に頼め」ということを言います。不思議なことに多忙な人ほど、さらに仕事が舞い込むものです。
1823……12月7日(火)
今年できなかったこと/1映画を何本か見逃しました。
例えば、目取間俊の原作・脚本の『風音』もそう。筆者は、ある雑誌で座談会を一緒にしたことがありきすが、彼は芥川賞を受賞しようがしまいが、生活・表現スタイルを殆ど変えていない希有な表現者ですね。
1822……12月6日(月)
カルメンの定休日。FMわぃわぃ「南の風」、今年最後のレギュラー番組です。
04年総集編をお届けしました。
先日、ふと、CDショップをのぞいたのですが、奄美の島唄が極端に減っています。やはり島唄ブーム/復帰50年という大きな波を越してしまった後は、その反動が来ているようです。一緒の沖縄はあいかわらず元気。その違いも目に付きます。番組終了後、若干の寄り道をして、帰宅。17日のとある大学での講義の準備をしなくてはならないのですが、関係資料をパソコン横に積み上げるという"初期設定"に満足してしまって、ほとんど前進せず、「んわあ、やはり、こうも季節が進むと、黒糖のお湯割りが美味しいなあ」と言いながら、夕方からちびりちびり。
1821……12月5日(日)
ある進学校のことです。そこは大阪でもトップクラスに位置する私立学校です。中間期末テストはなく、毎日小テストをします。筆者の友人は、そこで日本史の教諭をしていて、毎日、テスト問題と、授業のためのレポートを作成します。端から見ていると、これがまた大変。「高校の先生というのは、"職人"やね」とこともなげに言うのですが、その毎日の教材づくりには頭が下がります。最近は、パソコンがあるので、問題作成が少しは楽になりましたが、やはり先生という仕事は、手間暇がかかる仕事です。
1820……12月4日(土)
拙宅のすぐ北は公園で、落葉しないうちに枝切りしてしまったので、景色は一挙に冬になってしまいました。つまり夏は葉陰に隠れていた六甲がよく見えるのです。保久良山の保久良神社の鳥居が、山腹の緑の中で、その白色はよく目立ちます。面白いことをききました。あるボランティア・グループがあって、神戸市内の公園を巡回しているとのことです。つまり公園で寝泊まりしているホームレスの人たちに対しての支援活動です。拙宅隣りの公園にも、真冬の時期でも、時々ホームレスの人がベンチで寝ています。よく凍死しないものと感心します。だいたいは自転車で移動しているようです。そのグループの人たちは、拙宅隣りの公園も巡回の対象だとのこと。聞くところによると、そうした公園で寝泊まりしている人たちは、近畿一円をぐるりと何カ月かかけてめぐっている人もいるとか。そんん人な声をかけると「そうさなあ、今度あんたらに会うのは何カ月あとかなあ」と話すそうです。スキゾ(定住)型とノマド(移動)型があるのでしょうか。
1819……12月3日(金)
続いて、野球のぼやき話です。もう、知らんし、勝手に大阪に行ったらややえん、神戸のチームやから、応援しててん、それやのに、3年後に大阪へ本拠地うつすやて、チーム名のブルーウェーブ、あんたらどこに捨てたん、簡単にシュッレッターかけよって、震災とその翌年、応援したし、希望やったのに、泣いた人もよ〜さんおったのに、市民球団!? 冗談言わんといて、だれのための球団のつもりやったん、いっそ言(ゆ)〜たりいなあ「ファン、神戸の人間ごときがモノ言うな。これは企業活動だ」、そやろMオーナー。もう、いっさい球場に行かへん。
1818……12月2日(木)
もう、ほんとうは語ることがないのです。野球の話です。
いったいどれだけ企業の都合で、ファンを振り回したら気が済むのでしょう。しかも、3年後には、神戸を捨てるというのですから、いよいよ、野球の世界でも"Kobe Passing"(神戸無視)が極まっていくようです。
オリックスのことです。震災の年と翌年二年連続してリーグ優勝を果たし、96年には日本一に輝いた旧ブルーウェーブのことです。
なんとでもしてくれ、といったのが筆者の本音です。たとえ、合併球団が仰木監督であってもです。
1817……12月1日(水)
朝はちょっぴり冷えます。11日に、東京から詩人で国文学者の藤井貞和氏が来神されるので、その機会にと、カルメンで詩の朗読をしてもらうことにしました。この日は、「ランプの家フラメンコ教室」のみなさんによるフラメンコ・ショーがあるのですが、その前に、詩の朗読をしようということになっています。みなさん、あの藤井貞和さんですよ。どうぞ、期待してください。
1816……11月30日(火)
帰宅後、新聞整理をしていました。筆者は拙宅では朝日新聞を購読しています。
たまるものですね。でも、新聞はすぐ捨てない。ちょっとした物置スペースがすぐいっぱいになるのでいやがられますが、年に二回、なにか仕事の区切り目がついた時で、その夜はパソコンを触りたくない時に、3〜4日をかけて集中します。
悉皆的にすべてのページをめくっていったら、とっても短時間では出来ないので、夕刊の文芸欄(筆者も何度か執筆したのでなじみ深い)、日曜の読書欄、そして水曜日か木曜日朝刊の「文化欄」だけを見て、切り取るかどうか決めます。そして切り取った記事を、ジャンルごとに分けて、A4ファイルにまとめます。だいたい一年に一冊まとまります。このファイルを読み返しているかどうかは、ちょっと自信がないのでずが、そのまま捨ててしまうより、まだましだろうということで、労力をかけているのです。店で購入している読売新聞の分も含めてですから、相当の分量になります。
1815……11月29日(月)
カルメンの定休日。FMわぃわぃ「南の風」の放送日です。
今年の総括的な話題と、若干の新譜紹介をしました。
番組終了後、初めて「琉球ワールド」を訪れました。
なにせ沖縄県外では、全国一大きいといわれている沖縄物産展です。広い広い。
一階は主に食料品。レストランもあります。二階は三線屋とか、雑貨屋、焼酎ショップ、書店(ここがなかなかいい。二冊買ってしまいました。それにスゴイのは、琉球新報、沖縄タイムスと宮古し八重山の日刊紙が売られているということ)。二階には、舞台がしつらえてあります。琉舞が出来るように、琉球畳(へりがない畳)が敷かれています。この舞台から、ひょっとしたら、FMわぃわぃ「南の風」の放送が可能かもしれません。来年は、祝日の月曜日は、ここからどんどん生の放送をお届けしたいものです。
1814……11月28日(日)
定型詩作家の読書会で、研究発表(場所は大阪)。これはある定型詩に関する著作の読書会なのですが、筆者は「琉球歌謡形式」を担当しました。B4判にして10枚を用意しました。この「琉球歌謡形式」で大切なことは、(1)歌謡の発生を見るとき、神歌--叙事詩--抒情詩といった系譜か、叙事詩と抒情詩の並列的発展なのか(2)琉歌(八八八六の定型詩)がどのように定着していったのか、といった命題でしょう。
この命題を解説したり、自説を開陳するためには、筆者の力量不足なので、今まで展開された主な学説を比較することで、研究の全般を示したつもりです。
また、当日は、琉球歌謡を実際に感じてもらうために、YYさんに特別に歌ってもらうことにしました。やはり琉球弧の歌謡の魅力は、実際に歌に接することだと思っています。
1813……11月27日(土)
ふと、琉球新報で掲載されている「琉歌欄」を捜すことになり、拙宅の新聞を山積みしている小部屋に入っていきます。なんとか捜してありました。これは筆者が新報にコラム(「落ち穂」)を連載している時に購読していたものですが、未整理のまま、小部屋に眠っていたのです。眠っていたからこそ、捜しだすことが出来たのです。皮肉なものです。
1812……11月26日(金)
読書会の追い込みにかかっています。昼、中川マリのフラメンコ定期演奏会に来年の1.16フラメンコ・ショーのビラを持っていきました。場所が、堺筋本町ちかくの帝人ホール。帰りは、御堂筋線に乗って帰ろうと、歩いているうちに、メールを打っていると、YYさんが近くにいることが分かり、少しの間、会っていました。たまたまその日は、弁当を作らなかった日だそうで、二人でうどん屋に入ったのです。本当に偶然でした。
1811……11月25日(木)
初めて、ネット経由で書籍を注文しました。ぎりぎり日曜日の研究発表に間に合いました。初め、2週間ほどかかるというメールでしたが、意外に早く到着しました。便利ですね。これから使うことにしましょう。ところが、もうひとつ、『ユリイカ』のバックナンバーを北海道の古書肆に注文したのですが、これは品切れ。残念です。
ネットで注文しようと思うのは、いついつまでに必要という差し迫った時が多いのですが、到着まではらはらどきどきの連続です。
1810……11月24日(水)
カルメン、本日は休みです。一日、拙宅から出ずに、日曜日に研究発表する資料を作成していました。
こういう資料は作っている時は楽しいものです。作表は最近もっぱらQUARK XPRESSを使っています。思想や研究も、表にするとわかりやすくなるものですね。タブロー(言表)
とはよくいったものです。今日はまさに淡々と作業をこなしていました。見たい映画は多いのですが、ぐっと我慢して、自分に与えられた発表の濃度を濃くしようと努力した一日でした。
1809……11月23日(火)
本を探しに行ったのですが、見つかりません。無い時はほんとうにない。三宮は、ジュンク堂書店という巨大書店が二つもあって、素晴らしい環境にあるので助かっています(そごう別館の紀伊国屋は人文系がいまひとつ揃っていないので、残念。規模は大きいのですが、"売れ筋"のジャンル〈文庫・雑誌・実用書〉を大切にするあまり、読書人向きの濃いい内容の本が少ない)。
1808……11月22日(月)
月曜日ですが、祝日前なので、カルメンは営業しています。明日がカルメンの創業記念日。1956年創業なので、明日がくれば48年目ということになります。筆者の年齢とほぼ一緒です。
少し前は、創業日に簡単なデザートを作って、来店された方に配っていたのですが、最近は創業イベントをするようにしています。
1807……11月21日(日)
カルメンの創業記念イベントの日です。今年で創業48年になります。
特別料理の内容は(1) スペイン・リアスバイシャス産白ワイン 03年 グラス(2)スペイン産赤ピーマンの詰め物 サーモンのペシャメルソース(3)アンダルシーア風コシード 牛すね肉、ガルバンソー豆入り(4)サンセバスチャン風 魚介類のパエジャ(5)(デザート)栗のタルト(6)コーヒー
ショーは二部構成。
第一部は出演は、YUKI(山内由紀子)さんによる沖縄・奄美の島唄。由紀子さんは、琉球の伝統衣装(琉装)で登場。一瞬、おお、という客席からの声。店内にいるお客様にも参加してもらって、大いに盛り上がりました。第二部は、EL CARDAMOMO(エル・カルダモモ)のフラメンコ。〈ギターラ〉松井高嗣〈バイレ〉伊集院麻果、藤岡佳子、向山口真哉、安井久子の皆さん。このグルーポ、どうしたことでしょう、去年に較べて格段の進歩をとげました。舞台に迫力を感じます。勢いがあります。踊りにまるで魂が入ったような。芸事をする人たちというのは、舞台の数ほど上達するものですね。招聘した「小屋の主人」立場からすると、今回のEL CARDAMOMOの人たち、そしてYUKIさんともども、来ていただいてよかったと満足できる内容でした(YUKIさんは、最初何人かで出場することも考えられたのですが、やはり一人舞台でよかったと思っています。この人の舞台キャリアにとっても30分をまるごと任されるという経験を多く積んだ方がいいのでしょう)。
1806……11月20日(土)
明日の準備でてんやわんや。イベントをするのは、前準備が大変です。
特選料理を出してお客様に満足していただき、舞台を成功させるためには、万全の準備をしているつもりです。主催する側であるカルメン/筆者は、まるで蛸のように、同時に多くの事柄に神経を使い、当日が訪れるのを待ちます。この緊張感が好きなので、いままでカルメンで多くのイベントを手がけてきたのですが、やはり当日にならないとお客様がどれだけ入ってくるのか分からないので、不安となります。
1805……11月19日(金)
マックのiPodが評判です。筆者は、ずっとマックで、親族一統もマック党なのでずが、この国ではすでに3%しかシェアはありません。最近、大学でマックを置くところが増えて、その操作性の良さで人気が高くなっていると報道されていますが、WINの圧倒的なシェアの前では、なにほどの影響力は期待できません。
それどころか、WINは、家電製品にも進出しようとしています。ICで固められた最近の家電は、Japonメーカーが独自に開発したOSで動き、中にはリナックスを採用するメーカーもあるようです。そこに、パソコンで世界制覇をなしとげたWINが割って入ろうとしているわけです。
1804……11月18日(木)
なんでもボージョレーヌーボーの解禁日だということで、マスコミが騒いでいます。かつてフランスが核実験を再開したことに抗議して、フランスワインを呑まないことの風潮が短期間ありましたが、今はそんなこと忘れてしまったようです。今年の輸入量はいままでの中でも最高だったようです。スペイン・ワインで言えば、"JOVEN(ホーベン)"クラス。若飲みタイプです。まだしっかりと味がついていません。ゲラで早番朝刊を見ると同じような新鮮さがありますが、ワインとしては完成していない。
Japonでは、このヌーボーを飲むことが自己目的化していますが、新しいコセチャ(ヴィンテージ/収穫年)のものを"試飲"することで、樽熟、瓶熟したあとの風合いを予測するため、という本来のヌーボーの役割を逸脱しているようにも思えます。聞くところによりますと、ヌーボーが売れるので、ヌーボーだけ作って、それ以外は力を入れないボージョレーの蔵元もあるそうです。本末転倒です。Japonの人たちが、嬉しがって晩秋の「季節商品/季節イベント」にしてしまった感があります。
筆者はたんたんと、スペイン・ワインを愛飲するのみです。秋が深まっていく今日この頃、なんといってもTINTO(赤)が美味しい。
1803……11月17日(水)
筆者の祖父(母方)は、岸本邦巳という人。戦前、賀川豊彦の影響を受けて、社会運動にのめり込み、「サラリーマンユニオン」というこの国で初めてのホワイトカラー階級の労働組合結成に参画しました。職業は、戦前は新刊書店の店主。当時、党員ではなかったものの、日本共産党細胞の連絡場所でもあり、何度か特高のガサ入れを経験しています(日本共産党への入党は戦後)。亡くなった母もその思い出を語っていました。かつて共産党は、ソビエトからの伝達を受け取るために、船員をオルグすることが大きな使命でした。神戸はその絶好の場所にあります。また祖父・岸本は、野坂参三がソビエトに逃れる時に、神戸港で見送ったメンバーの一人だったようです。
本日、戦前の兵庫における社会運動史を研究している神戸大学大学院博士課程(総合人間科学研究科)に在学するKYさんが来店。祖父と「サラリーマンユニオン」について調査のため、祖父の遺品を持っている筆者への聞き取りをしにきました。
筆者の拙宅には段ボールひと箱ぶんの遺品資料があります。いずれ筆者自ら調べようとしたのですが、若き研究者に一時預けて、精査してもらおうと思っています。
筆者の血には、かつて社会運動に身を呈した祖父の血が流れているのです。
1802……11月16日(火)
とある国のPrincessの結婚話。
「お金の使い方、知っているんやろか」
・「自動販売機で電車の切符買ったことあるんかいな」
「一般人になったからには、スーパーに買い物いくわけやろ」
・「そりゃそうや」
「ダイエーのチラシ見るんかいな」
・「マンションに住む言うてるけど、芸能レポーターがいつも見張っていて『今晩のおかずは何ですか』なんて聞いたりして」
「最近、女性週刊誌はネタ不足やしね、敵もいないし、『二人の新婚生活をしずかに見守ってあげたい』なんて言いながら、ご近所の噂を聞きまくるだろうね」
・「旦那って、公務員やろ、かのような高貴な方が公務員の給料でやっていけるの」
「慣れるんとちゃう(体験を踏まえて)」
・「いままで税金でたべてきはったわけやろ」
「そうや、でも引き続いて旦那の給料っちゅうのは、税金や」
・「そやな、変わらんなあ。あくまでも血税で生きていきはるわけや」
「んでも、王族と結婚するには、なんか生物学研究、せなあかんのか」
・「粘菌、すすめよ。あれは動物でもあるし、植物でもある。その変幻自在さは、まさに〈君子豹変す〉。Princessのじっさまも昔、磯辺の"粘菌"ともいうべき"ヒドロゼヤ"を研究してはった人や」
「ところでPrincessは、結婚後、王室離脱するわけやろ」
・「そうや」
「男の子が産まれたらは」
・「そりゃあ、その王族にとって、何十年ぶりとなる慶賀や」
「継承権はないの」
・「ない」
「でもその王室典範によると男子しか継がれへんのやろ。いま王族のお子たちは全員女の子やで」
・「…………」
1801……11月15日(月)
カルメンの定休日。FMわぃわぃ「南の風」奄美篇は、「男と女のしまうた」特集。
民衆の歌である奄美の島唄には、男と女の恋愛をテーマした曲がたくさんあります。求愛、熱愛から、相思相愛、悲劇愛、そして心中……。ウタアシビで、思いこみたっぷりに歌い合うには、やはり「男と女の物語」がよく似合います。
とっても一回では紹介しきれない幅の広さでした。また、テーマを決めて特集をしたいと思っています。
放送終了後、三宮に出てきて、いくつか用事をすまし、ちょっと一杯ビールを飲んでいました。筆者こういう時は、携帯メールを打つようにしています。酒場には決してひとりで入りたくないタイプですが、独酌の時をメールタイムとしています。右手の親指が痛くなるほど打って、酔いがまわってきたので、ここで"打ち止め"。