店主のつぶやき日誌のバックナンバーです 001
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1000-8月26日(月)
朝、児童書専門の「ひつじ書房」へ。ここで夏休みの読書感想文のための本を選択。続いて1カ月ぶりでFMわぃわぃ。午後4時から「南の風」の生放送。本日は、元ちとせの「ハイヌミカゼ」。只今、絶好調の彼女の歌声を紹介しました。これで奄美篇だけで148回目の放送。今秋には150回を迎えることになります。ところが、同局チーフプロデューサーの野村昭彦氏、元ちとせの現在の音づくりに不満だそうで、番組中、ずっと小言を連発していました。放送終了後、西舞子の海岸で、カルメン・スタッフによるバーベキュー・パーティ。楽しいひとときでした。
999-8月25日(日)
縁(えにし)深き日でした。今日は筆者と先代にお客様がありました。
先代には、堺から久家(くげ)さん親子。筆者には、東京から奄美へ行く途中の静島君です。久家さんとの出会いは、この「店主のつぶやき日誌」です。息子の久家義之氏は神戸の小説家・久坂葉子の研究家です。筆者が2000年9月13日に書いた297話を読んで、久坂葉子が自殺寸前に過ごした店がカルメンの前身である"みなと"であることを知り、カルメンにメールでアクセスしにきたのです。ところが、先代「この久家さんという名前は、見覚えがある」と言い、「ひょっとしてこの人の父親はわたしの中学の同級生ではないか」。先代は、さっそく久家さんにこの件を含めてFAXで打診してみると、なんとその通り。中学時代でも最も仲が良かった友人の一人で、先代はよく久家さん宅に遊びに行ったそうです。なんという奇遇でしょう。ちなみに、先代が同級生なら、息子にあたる筆者と義之は同年齢(1955年生まれ)。これもまた奇遇でしょう。この日誌が縁をとりもったことになります。やはり毎日書いていると、こういうこともあるのですねえ。そして検索サイトの凄さにも感服しました。
この久家義之さんもユニークな略歴の持ち主です。親子とも医者ですが、義之さんは外務医官として、海外に赴任したことのある人で、その体験記をもとに2冊にまとめて刊行しています。それがちょうど外務省批判の時期にあたって、版を重ねているのです(出版社もさぞ喜んでいることでしょう)。義之さん、今は堺で勤務していますが、しばらく神戸で働いておられたとか。これから、筆者とお付き合いが始まると思います。
998-8月24日(土)
次男の夏休み工作の材料を買いに、東急ハンズへ。夏休みの後半にしては、地下売り場に親子ずれが少ないのは意外です。いつもこの時期は、殺気だった親子と、親が子どもに投げかける罵声が飛び交っているものなのですが。
それで、次男ですが、今年はスリッパ立てにするそうです。
997-8月23日(金)
あやしげな天気です。拙宅は一年に一度の大読書大会です。晩夏ほど本を読む時はないでしょう。子ども達は読書感想文のために読み、親もその後に読んで、子ども達の文章にアドバイスを与えます。親はその他にも多くの"仕事"があるために、速読を要求されるのです。
996-8月22日(木)
時は残酷に推移し、夏休みもあとわずか。親もしている筆者にとって、苛酷な宿題の手伝い業務がひたひたと締め切りが近づいてきて、プレッシャーになっています。9月末に原稿締切が近づいているのですが、資料もまだ手つかずの状態。息つく暇もなく、次から次へと新しい懸案をこなしていかなくてはなりません。ああしんど。
995-8月21日(水)
秋の虫たちが鳴いています。高知県の明徳義塾が優勝しました。高知出身の人は筆者の周辺にも何人かいるので、さぞ喜んでいることでしょう。それにしても今年の高校野球は四国勢が強かった。関西勢も智弁和歌山が準優勝まで頑張りましたが、兵庫・大阪の強豪勢であるはずの代表チームが初戦敗退という残念な結果に終わっただけに、西日本勢のなかでは四国4チームの活躍が目立ちました。
994-8月20日(火)
涼しい日です。さしもの猛暑もおしまいなのでしょうか。
こういう烈暑が続いた年は意外とすんなりと秋らしくなるものです。筆者の年齢になると、夏が過ぎさろうとしても、欠落感をかんじませんが、でも今年は母の死去などさまざまなことがあったので、夏の重さ感じざるを得ません。
993-8月19日(月)
おおくのことが一挙に終わったという感じがします。今日は何もする気が起こらず、"タブラ・ラサ"の心境です。FMわぃわぃにも無理をいって、「沖縄・宮古・八重山篇」の放送をしてもらうように頼みました。"連れ合い"は、夕食に焼肉をしてくれ、気を遣ってくれます。一度、外出したのですが、15分ほどで帰って来ました。何を考えない、何もしない一日とします。
992-8月18日(日)
本日、第五回ロルカ詩祭が開催されました。五回目となり、イベントとしても落ち着いてきたように思えます。今年は「声に出して読む日本語」なる本や、その周辺本が売れるなど、話し言葉や、朗読というものを見直そうという雰囲気がありました。
今年も朗読のバックは、琵琶の川村旭芳さん、サズーというギターの原型のような楽器の浦川洋昭さん。第一部のトップバッター・大橋紗奈さんは、冒頭「覚え書」を原稿なしで朗読。「サンチャーゴへ行こう」が何度か繰り返される「キューバ黒人のソン」も好評でした。
2部はゲストとして、京都から有馬敲氏を呼び、自作詩を朗読してもらいました。最近、Japonではあまり朗読することはなく、海外で朗読することがおおいことを披露してくれました。短い時間で自分の世界にひっぱってくる技術はさすがというべきでしょう。
この詩祭は、ロルカ詩の朗読の1部だけ聞いて帰る人もいれば、2部に参加するお客さまもいます。2部の今年のゲストは、姫路在住の川柳作家・情野(せいの)千里さん。舞踏と川柳をあわせたパフォーマンスを展開します。筆者は暗黒舞踏系が大好きなので、面白く鑑賞していました。情野さんは、五円玉をつけた短冊に自作川柳を書き付け、観客に向かって投げるのです。情野ファンの人は競ってその短冊を拾うのです。筆者が会場で拾った短冊には以下の作品が書かれていました。
・カルメンと出会う五円の穴の中
・ゆうれいとまた逢えそうな円い窓
・目を持たぬ魚より冥く言い交わす
・もつれ髪蟹ははさみを光らせる
・このかみから暮れるピストル持たざれば 千里一年ごとに充実していくように思えます。来年は、19日に開催します(今年は19日が定休日だったために、前日の18日に開催しました)。一年後を楽しみに待っていて下さい。
991-8月17日(土)
あすの詩祭準備に余念がありません。今回で5回目です。筆者も第一部(ロルカ作品の朗読)に出演するため、練習をします。会場準備はほぼ出来上がっているので、そこで声をはりあげて様子をみます。会場がカルメンならではの特典です。今年は"死"を意識した作品を三篇読みます。娘も三つの詩。最初の「覚え書」は、原稿なしで読むようにします。彼女も今年で三回目。少しずつ雰囲気にも慣れ、自分を表現できるようになっています。
990-8月16日(金)
大きな穴があいたような雰囲気。街を歩けば、老婆に自然と目がいきます。母を失って初めて、元気に街を歩いている同年輩の女性たちの姿が気になります。母が元気で生きていたら、この筆者の目の前の老婆たちのように、買い物の楽しみや、観劇の楽しみも味わうことが出来たのに、と思い、元気な老婆の存在が羨ましくもみえてしまうのです。
989-8月15日(木)
敗戦記念日。同時にお盆の送り火。東洋の習慣からすると、母の初盆は来年まわしなので、魂はまだ"この世"にとどまっていることになります。
筆者はいつもと変わりなくカルメンに出社します。母もきっと筆者がそのように働くことを望んだことでしょう。母は自分の置かれた位置をよく理解していた人でした。つまり経営者の"ゴッドママ"として、スタッフの人たちにどのように振る舞い、どのような言葉をかけてあげると、安心するのかという言葉の訓練が出来ている人でした。だから子どもや孫に対しても、甘やかすことはありませんでした。晩年は生活リズムが夜と昼とが逆転するような決して褒められた生活環境ではありませんでした。しかし、母はぼけることは一切ありませんでした。気がしっかりしていたのです。新聞や読書は身体の調子がいい限りは最期まで続けていました。
988-8月14日(水)
未明、葬儀会館の休憩室で目覚めた筆者は、本日午後1時からの葬儀に間に合わせるために、母に関する冊子を編集・印刷するため、パソコンをいじり始めました。姪もマックのiBookを使っているので、イーサネットでつないでファイルを共有します。母の昔からの写真は姪が集めてくれて、B5判8頁の冊子「偲ぶ--大橋光子」に載せる材料は揃っていました。後はこれを編集して、プリントアウトして、コピー機で複写する作業があります。この仕上げ作業が大変なのです。時間との勝負です。そして版下が出来上がっても、コピー機が故障して間に合わなかった、なんていうタイプのアクシデントもあるのです。通夜の会場から離れたくありませんでしたが、仕方なく電車が動き出したのを確認して、自宅に戻りました。帰宅後、すぐにシャワーをあびます。この数日、風呂に入っていませんでした。少しだけ休憩してすぐパソコンに向かいます。時間は限られています。素材は姪が頑張っていいものを用意してくれたので、助かりました。
母は入院中、大学ノートに日記を書き付けていることを筆者は知っていました。見舞いに行った時「川柳が面白いね」と言っていたので、その大学ノートに五七五の作品を表現し続けていることは推察できたのですが、その時はそれ以上つっこんだ会話をしませんでした。そのノートを姪と読んでいると、命をかけて作った作品(筆者は川柳と呼ばずに自由律俳句と呼んでいます)の出来のよさを知り、こんなことなら、数年前から母に定型短詩の手ほどきをすればよかったと後悔します(こうして生き残った者は、死者に対しては少しずつ後悔を積み重ねていくものなのですね)。
"連れ合い"の協力を得てなんとか100部の冊子をつくりあげ、再びJR兵庫駅の葬儀会館に向かいます。会場ではすでに多くの参列者が来てくれていて、父が忙しく立ち働いています。葬儀そのものは、少し美声の若坊主の読経が響き渡るなか、厳粛にかつシンプルに進行していったのです。そして最後に父の挨拶。昨晩と似た挨拶の内容でしたが、つつがなく終了。私が写真を持ち、野辺送り(火葬場行き)に向かいます。
最後のお別れする寸前の母の顔は、おだやかないい顔をしていました。優しい表情を向けている時の余裕のある顔です。笑顔が自然に出て、人を和ませる性格の人でした。これから、筆者は少しずつ、母の思い出話を、この日誌に書き付けることにしましょう。
本当に最期のお別れである火葬場の焼却炉の中に入れられてしまう時はさすがに、もうこれで母とは永遠に会えないことを覚悟する必要にかられました。土葬をする場所では、埋葬後、何年かたつと洗骨の儀式をして、骨を介してその人と再会も可能なのですが、火葬はなんとも非情な別離の方法です。強烈な火にまかれてしまえば、人間としての原型どころか、その人が生きていたこともすっかり焼却されてしまうようで、なんともいたたまれない方法です。火葬が導入された当時のJaponには相当強い抵抗があったのではないでしょうか。それとも火葬をする場所の文化には、その人が何かほかのものに輪廻転生するのだという確固たる信仰があるか、死者と生者は共生しているのだという文化的了解があってってこそ、現実の身体が焼かれても、抵抗はないのかもしれません。
午後3時からは、カルメンで、親戚、参列者による「精進落とし」です。筆者はまんべんなく席をまわって挨拶。父や姉が「お骨揚げ」のために席をたった後は、筆者と"連れ合い"の二人で担当して、相手をします。親戚によって、話題を替え、葬儀に参加していただいたことに感謝の気持ちを表さなくてはなりません。
カルメンはこの日も通常どおり営業。スタッフのおかげです。筆者は疲れました。休憩がほしいところですが、そんなことをすれば、母に叱られてしまいます。帰宅後、疲れがどっと出たのはいうまでもありません。
987-8月13日(火)
実家からカルメンに出勤。母の通夜の日です。昼過ぎまでいて、あとはスタッフに任せます(夜は忙しかったのですが、スタッフはよく頑張ってくれました)。午後3時、JR兵庫駅近くの葬儀会館に到着。ふと、JR兵庫駅を降りて過去を思い出しました。ずっとずっと昔の話です。筆者がまだ幼児のころの思い出です。筆者のひおばあちゃんが住んでいたのが、このあたりだったのです。父にそのことを尋ねると、確かにその葬儀会館に行く途中にその家(旅館)はあったというのです。ひおばあちゃんは既に、北向き三畳の板間で寝たきりでした。どうしてこんな細部まで覚えているのでしょう。かつて兵庫駅に山陽電車の終着駅がありました。母のことで、再びJR兵庫駅周辺と縁が出来ました。姉に聞くと、姉は水疱瘡にかかり、弟の筆者にうつるといけないので、しばらく「兵庫の旅館」に預けられていたそうです。そういえば、筆者の記憶は姉を迎えに行った時のことかもしれません。
午後7時から通夜。通夜では弔辞は読まないそうです。粛々と式は進行していきました。父が最後に挨拶。「今年の11月がくれば、金婚式を迎える予定でした。それがすめば二人で四国巡礼を行こうかと言い合っていたのでずが、このようなことになって残念です」。多弁ではないものの、誠実みあふれる内容でした。
親戚が集まっての会食が始まりました。こういう時は「乾杯」といわずに「献杯」というそうです。日頃あわない親戚たち、そして何10年ぶりに会った人たちなど、母が巡り合わせてくれた人たちと、杯を交わします。岡山から来た親戚には、簡単な家系図を書いてもらい、子ども達に見せました。筆者の長男と姉の次女が同学年ということもあり、なにやら話し込んでいます。こういう機会がなければ、いとこ同士であっても、話すキッカケはそう多くありません。
その人の結婚式以来の再会となったで親戚の女性は、タイの大学で日本語を教えていて、そこで知り合った人と結婚。筆者はタイ・インド旅行に行った時、彼女を頼って数日間バンコックに滞在しました。東京に帰ってからは、翻訳家として活躍しています。その人とは、早世したその人の弟について話し込みます。8歳ほど年上だったその男性は、北九州から京大に進学。最初、工学部に入学したのですが、途中から法学部に転部した人です。当時は学生運動の真っ最中で、京大はバリケードの中にあり、まともな授業はありません。
その人、無類の本好きで、遠い親戚である筆者の祖父を訪れてくれました。元町で古書肆を営んでいたのです。それが機縁で何十年ぶりかの親戚づきあいが始まりました。三人きょうだいのうち、長女の人が神戸出身の人と結婚することになり、筆者の実家から花嫁さんとして式場に向かうほどの親密な付き合いをするまでとなったのです。
その弟氏、京都在住時はべ平連の運動にかかわった富田正勝氏です。週に一回、京都から阪急電車に乗って、当時筆者が住んでいた西宮市甲東園まで来て、筆者の家庭教師をしていました。ところが出来の悪い筆者を教えることより、母の豪華な料理を食べに来るのが本当の目的だったようです。正勝氏、筆者の家庭教師としては、熱心でなかったのは本人である筆者が一番感じていました。
この人、山に登るのが大好きで、急に何の予告もなく長い間家庭教師にこなかったりで、筆者は自分の出来の悪さを棚にあげて憮然としていた記憶があります。母も成績の芳しくない息子の面倒をみてもらうというタテマエより、将来有望な親戚の若者の面倒をみている方が楽しかったのに違いありません。
母の上手な料理にひかれて、多くの若者たちが筆者の家に参集していました。まるで一時は梁山泊のような雰囲気を呈していたこともあります。この雰囲気はきっと祖母の岸本静枝が作っていた雰囲気だったのでしょう。自宅を解放し、食客を呼び寄せ、その人たちが勝手に盛り上がる様子をみている母は本当に幸せそうでした。
今から思うと、母がそうした雰囲気を産み出したのは、祖母・静枝が死ぬことによって潰えてしまった家庭的雰囲気への痛惜の情が基底にあったのではないでしょうか。祖母が死んだのは母がまだ15歳の時です。寂しかったのに違いありません。そんな自分に神戸の家を訪れた富田のおばさんは「光っちゃんはあのころ、姿が見えなくなったかと思うと、静枝さんのお墓に行っていたのよ」と回顧していました。31歳でこの世を去った姉・信子は7歳年上だったので、祖母の死を成人として受け止めたのでしょうが、15歳の母にしてみれば、一番多感な時に、同性であり、かつまだ諸事にわたって頼りたい母に先立たれた淋しさは、相当に深いものがあったのでしょう。母が過去をあまり振り返りたがらない性癖というのは、こうした少女時代の経験が大きく影響しているのに違いありません。
通夜に参加した人たちが一人また一人と帰っていき、この晩は筆者と姉の次女の二人で母に付き合うことにしました。せめて最期の夜は一緒にいてあげたかったのです。夜中、棺の横でなにやら人の話し声が聞こえます。姪がマックiBookに「千と千尋の神隠し」を入れて母にも見せてあげているのです。「ママ、見たいと言ってたから」。高校生の姪なので表現はぶっきらぼうですが、優しい娘です。ちょうど2年前にも実の父を見送っています。父についで祖母までも中学-高校生の多感な時期になくしてしまったのです。この姪は祖母と言い合いもたくさんしましたが、意外に晩年は「おばあちゃん子」になりきっていました。学校の帰りには必ず一度は大学病院に寄り、時には母のベッドの中で添い寝をするような優しさを持っているのです。姪としては、父の最期を見て取ることができなかったことを彼女なりに感受しているのでしょう。
こうして通夜は物言わぬ母と筆者、そして姪っ子の三人でしーんとした葬儀会館の中で過ごしたのです。
986-8月12日(月)
筆者の母・光子が76歳の生涯を閉じました。午前2時すぎ、神戸大学医学部付属病院の6階に着いた時は、すでに心拍停止の状態で、医師団が懸命の延命措置を行っている最中でした。手を握ると、すでに力はなく、温かさも感じられません。姉によると、日付を過ぎたころから、急に容態が悪化して意識がなくなったようです。前日、目の周囲が浮き出ているような今までにない表情になっていました。
前日、母はなにを思ったのか、姉に対して「はよ、こっちにきなさい、原爆が落ちるよ」とベッドの中に入るように言い、現実と夢と混同している様子だったようです。少し前まで、一時帰宅するまでに快復していたのでずが、この数日で衰弱が激しくなり、周囲の予測より早くあの世に旅立ってしまいました。ガンでした。もともと病弱だったので、76歳まで生きることが出来たのは長命だったかもしれません。死ぬまでぼけることはなく、意識ははっきりしていて、まともな会話を続けていました。
実家にいる父に何度も電話をしたのですが、耳が遠いにもかかわらず補聴器をつけようとしない父はついに、母の死に際に接することは出来ませんでした。何度も家に電話をかけても出ないのです。仕方がないので、隣家に頼んで、父を呼んできてもらったのです。
筆者の身に「母不在」がおぶさってきたのです。筆者にとって母をどこか頼っているところがありました。
死亡が確認されて、医師団は母を病理解剖したいと希望を伝えてきました。大学病院なので、医学生、研修生のためにということですが、筆者はひとり遺族の中で反対しました。このいまある母の現実の死以外、他のどのような死を受け入れろ、というのでしょう。筆者には、詳しい死因などもはや必要はなく、病理部分の医学的な分析結果も知りたいとは思いません。母の身体がいわゆる"腑分け"の対象になることで、母の死がわれわれ遺族の固有名詞的な状態から、因数分解された一般名詞的な死に変化してしまうことに抵抗を感じたのです(結局、筆者の意見は多数決の結果採用されませんでした)。筆者は病理解剖に医学の名を借りた屍体陵辱の臭いをかぎ取ったのかも知れません。それは存在陵辱にも通底するかと思ったのです。
母の遺体とともに、病院地下の遺体安置所に移動。早朝、一度みなで実家に行くことにしました。そして葬儀屋との打ち合わせ。生者には、深くいつくしみ悲しむ時間はそう多くありません。葬儀屋との交渉はなんとも現実的な世界なのです。
筆者は遺体を置く場所を作るために、力仕事をします。夕方に遺体が病院から搬送されて仮通夜の準備。真夏なので、多くのドライアイスを遺体の周囲に置きます。姉が関係者に電話連絡をしています。これからが大変です。午後7時すぎに西本願寺系の僧が到着。読経します。筆者も筆者の一族も仏教の僧たちによる葬祭参加にあまり熱心ではなく、最低限必要なことをすればいいと考えているのです。
母は接した人をひきこむ性格だっので、多くの人に慕われてきました。派手なことは避けていましたが、周囲の母を見る目が、母をそれなりに注目させる位置に押し上げていました。仮通夜にきた伊藤さんは、母と60年来の友達です。女学生のころの付き合いとなります。母は幼なじみや、昔の友達をどこか避けていたところがありました。過去に知り合った人たちと接することで、過去の自分とまみえることを嫌っていたようです。常に今という時制に生きていた人でした。ですからこの伊藤さんは本当に珍しい昔からの友人です。その伊藤さん、しみじみ言います。「今日の午前2時半前だったかしら、この人が夢に出てきてね。何も言わずに立ってるの。気になったから連絡しようと思ったのよ」と。母は死出の挨拶にまず唯一の友達である伊藤さんのところに行ったのです。死亡時刻は午前2時18分。それを聞いて、母の母らしさを知りました。人とは広く薄くかかわった母ですが、人生で一番深く親しくしていた伊藤さんには、ちゃんと律儀に挨拶をしたのですね。
仮通夜にはカルメンのスタッフ、去年までチーフを務めていた田中さんも来てくれ、しめやかに営まれました。夜半、来客者が帰ると、応接間で父と筆者は、母の横にしとねを並べて寝ました。母は死が近づいていると自覚するようになると、やたら自宅に帰りたいと周囲に言うようになりました。こうして自分の家に帰ってきて安心していることでしょう。----われわれ遺族にとって、永い永い8月12日が終わうとしています。
985-8月11日(日)
もうすぐ9.11から一年です。あの日は、ひょっとして、逆説的でずが、アメリカが最終的に世界の覇者となった記念すべきメモリアル・デーではなかったでしょうか。あの日以降、アメリカは自国と対決する勢力を「テロ支援国」と名指して批判し、軍事侵攻をかけ、または脅迫することで、非アメリカ勢力を根絶やしにしようとしています。そして、今アメリカが敵とみなしている国家は、イラク、イラン、リビア、北朝鮮などです。しかし、アメリカにとって本当の敵は、こうしたミドルクラスの国家ではなく、地球上にアメリカ以外で唯一存在する帝国である"中華人民共和国帝国"ではないでしょうか。
984-8月10日(土)
サンパルビルは空き部屋が多いですね。遠藤周作の小説『最後の殉教者』を購入するために、サンパルビルに向かいました。津和野で殉教した人たちのことも書いているからです。MANYOという巨大古書店で探しましたがありませんでした。同ビル3Fに向かう途中、エスカレーターに乗っていると、テナントが少なくなっていて、スペースが空いているのが痛々しく映ります。
神戸の経済はまだ下り坂から脱し切れていないようです。この街、元気ないんだよねえ。
983-8月9日(金)
『ユリイカ』8月号には、筆者の拙文が掲載されています。題は「ディアスポラの島唄--神戸から」。元ちとせという一人のミュージシャンによって、突然注目された奄美の島唄。これはブームといってよく、FMわぃわぃで「南の風」という奄美島唄の紹介番組を6年やったきたので原稿依頼があったと思いますが、このブームによって多くの人が、奄美島唄に接するチャンスを持つことになります。なぜ、奄美の島唄は裏声があって、沖縄にはないのか、といった知識を得るだけでも、筆者はプラスだと思っています。1000人に一人、いや10000人に一人でも、その中で奄美の島唄の魅力に本格にひかれる人が多く現れることを願っているのです。
982-8月8日(木)
この日からお盆の期間中に鬼籍に入った人の"初盆"は、来年まわしとなるそうです。筆者の義理の兄の三回忌。53歳という働き盛りの死でした。どうして有能な人が早世してしまうのでしょう。
981-8月7日(水)
津和野散策をしました。まず、乙女峠へ。小さなお堂があって、そこがキリスト者が弾圧された場所に建っています。かつて、"四番崩れ"といわれる長崎の"隠れキリシタン"の弾圧がありました。幕末の長崎に完成した教会である浦上天主堂に名乗り出た信者たちに待ち受けていたのは、明治新政府の神道国教化とキリスト教禁教の継続でした。捕らえられた何千人という村民は、西日本の10万石以上の大名に分散して送致され、そこで棄教を強制されたのです。津和野藩は3万石の小藩でしたが、藩主以下、新政府の神道国教化を進めた「神道(国学)原理主義者」が多かったこともあって、信者の中でも特に篤信家を中心とした150名を越す村民が送りこまれました。
津和野教学の中心人物だった福羽美静は、「思想は思想で対峙しよう」と神道の大意さえ理解させれば、棄教は困難ではないと踏んだのです。最初は宗教談義なども交わしていたようですが、信者たちの信仰の篤さを覆すことができず、一転して弾圧政策に転じます。身動きできない一人牢や冬の池での氷責め、衣服・食事もろくに与えないといった苛烈さでした。何人かの"転び者"を出したものの、殉教者を出すことで、結束を固め、5年間にわたる幽閉を大多数の信者は乗り切ったのです。
不思議なことに、福羽美静は、「神道原理主義者」の元祖のような人物であったのですが、故郷の津和野に帰って時、弾圧途中の信者たちに対して、強圧的に接せずむしろ同じ原理(宗教・思想)に忠実に生きようとする同志的対応をとるのです。
この津和野教学グループは、明治日本を徹底した神聖国家たらしめるべく、あらたに自分たちの意のままに神道を構想してしまった(作り替えてしまった)面もあるのです。ところが歴史は必ずしも彼らの思うようにはいかず、明治新政権が成立するよう援助した両本願寺教団など既存仏教勢力の巻き返しや、神道そのものが持っている汎宗教性などによって、西欧のキリスト教と対峙するような神道国教化は成功しませんでした。
筆者の不思議はこの西国の小藩からどうして明治国家、ひいては後にファナティックに進化してしまう国家神道の礎を作った津和野国学がどうして生まれたのかということです。ここは、近くに国学を鼓舞するような神宮、神社があるわけでもなく、有名な神話の故地でもありません。この津和野は、街から出て北へ行くのにも南に行くのにも、すり鉢状の街からいったん高い場所に上がって出て行かねばならず、軍事的、地政学的にはきわめて不利な地勢なのです。毛利藩、浜田藩という大藩に囲まれた津和野藩は、"武"ではなく"文"で成り立たなければならなかったので理(国学)を大切にしたのでしょう。
街は「開発」から取り残されている分、江戸時代末期の建物や街並みがよく保存されていて、町役場は元・家老宅の敷地内であり、藩校の建物がいまだ現存していて、博物館と町立図書館として現役として使われているのです。この街を出自とした者には、森鴎外、西周など著名な人物が少なくありません。森鴎外の文学研究は続けられているものの、大国隆正、福羽美静など国学者を輩出した街の記憶は継承されていません。
筆者の不思議はまだ解決していません。この端正で小気味よく、観光客が真夏にもかかわらずバスを連ねてくるこの街から、のちに国家神道(天皇教)の名のもとに、この国の何百万人という神道「殉教者」を出すことになるその大きな因を作りだした人たちが出たことを知る人は多くないようです。
歴史は皮肉です。戦前までなら、国家神道の功労者として津和野の土地そのものも顕彰の対象となっていただろうと思われます。しかし、今、この小振りな街で目立つ宗教施設は、カソリック教会です。宗教というのは、殉教というものを大切にします。他のなにごとでもなく、自分たちと同じ信仰ゆえに異教徒から生命を奪われたのですから。津和野は既にキリスト者にとっての"聖地"となっています。近代神道理念の発祥の地が、異教の聖地になっている。しかもその在地の信者たちの先祖たちの中には、棄教を迫り、拷問に加担した藩士、村民の子孫も含まれているでしょう。津和野は歴史と人間の情念が複雑に絡みあっています。
津和野の美点は、キリスト者を排他的に扱うのではなく、それを街の光景のひとつとして受け入れ、住民もまた教会・信者が持つ篤信という感情の深きに対して、シンパシーを正直に表現することができたことではないでしょうか。
980-8月6日(火)
原爆投下の午前8時15分は、宿の食堂で朝食の真っ最中でした。テレビで小泉純一郎首相が広島入りをしているという情報を得て、午前中に広島市内に行くことを避けました。宮島見物をします。厳島神社は昨晩とうってかわって、干潮に近く、大鳥居近くまで歩いていけます。潮が引いていくと、無数のカニ、巻き貝が、残った水たまりにみを寄せます。カラスや水鳥たちに食べられてしまうからです。
近くの千畳閣が面白い存在でした。豊臣秀吉の命によって建立が始まったまですが、大屋根。柱・梁、床などは完成したものの、1597年の秀吉の死去によって、建設が中断していました。それ以降、壁が未完成なために吹っ晒しのこの建物は火災にあうこともなく、400年間、未完成のまま、現在にその姿を伝えているのです。近世は物売りや納涼などに使われたということでずが、現在は100円の入場券を払います(入り口には神官の衣裳を着た"100円男"が無愛想に応対しています)。
再び、フェリーに乗って対岸へ。広島市内に入った後、駐車場探しに苦労。広島駅前のパーキングでやっと空車をみつけて入り込みます。お好み焼きを食べて、原爆ドームに向かいます。
15分ほど歩くと、37年ぶりに見る原爆ドームが現れます。今は高い柵に囲まれていますが、昔は簡単に入ることが出来ました。かつて著者は父と一緒にドーム内に入って記念撮影しています。
慰霊モニュメントで黙礼していると、いろいろな団体がやってきて、拝していきます。筆者はここのまえでは深く頭を下げます。すると、見知った人がやってきます。「すべての武器を楽器に」と訴えている喜納昌吉です。沖縄からエイサーのグループをつれてきて、同モニュメントの前で、慰霊のエイサーを披露します。考えてみれば、エイサーはお盆(旧盆)の時に催された鎮魂の踊りです。時にかなった行為でしょう。
彼と会うのは15年ぶりでしょうか。(他人のことは言えませんが)昔に較べてでっぷり肥った体型を見ていると、時の推移を実感します。筆者に軽く会釈しましたが、果たして彼は筆者のことを覚えているのでしょうか。
原爆資料館へ。37年前に較べると、展示が客観的になったようなイメージがあります。昔は、まだ原爆が投下されて17.8年しかたっていなかったので、広島の街全体がまるごと原爆資料館(=生き証人)のようでした。また展示物も生々しく、風化の洗礼をうけずに、ともかく見て欲しい、こういうもの、ああいうものもあったのだという切迫感が感じられました。しかし、同行したメンバーにとっては、充分に迫力であったらしく、8月6日の日に広島の街に立つという筆者の思いは少しだけでも伝わったのかもしれません。
続いて、1日に出来たばかりの施設へ。そこを見終わると、午前4時を過ぎていました。急いで、広島駅へ。一人はそのまま新幹線に乗って、神戸に帰ります。筆者たとはワゴン車を転がして、さらに西へ。向かうは島根県津和野町です。
中国自動車道を降りて、地道を走り、くねくねと曲がった国道を走ること、一時間半。午後8時にようやく津和野に到着です。筆者の今年の旅はこの街を訪れることを楽しみにしていたのです。
979-8月5日(月)
今日から、カルメンは夏休み。旅に出ました。今年の旅は西に向かいます。
朝、ワゴン車に乗って高速へ。垂水ジャンクションからの乗り換えに失敗して、国道2号線のバイパスで姫路へ。そこから播但自動車、山陽自動車道へ。一路、西へ。岡山、広島を過ぎて高速を降り、地道を走ります。宮島口から小型フェリーに乗り換えて、宮島へ。夕方だったのですが、ひと泳ぎ。国民宿舎に落ち着いて、食事。その後、ライトアップされた厳島神社を見学。明日が大潮という時だったので、大鳥居も喫水線が高く、社殿はまさしく海中楼閣(=竜宮城)といった趣きでした。
978-8月4日(日)
先日、夜遅く、拙宅近くのゴミを置き場が異常に荒れています。猫にしては、散らかし方がダイナミック。深夜に公園にあつまる若者たちかとも思ったのですが、その散らかしようの大胆さからして、犯人はすぐに特定できませんでした。帰宅後、塾帰りの次男がイノシシで出会ったと証言。犯人はイノシシだったのです。どうも夏になると、JRの線路を南にくだり、拙宅周辺にもやってくるのです。さきほど、神戸市ではイノシシに餌をやると罰金を科すという条例が出来ましたが、なんとか効果をあげてほしいものです。
977-8月3日(土)
昼、大阪で「北の句会」をのぞきます。田中修造氏が川柳句集を刊行していて、これが滅法面白く、どうやら筆者と嗜好が合うようです。大阪の川柳人口は多く、東京とは違った作風があると言われています。夜、神戸港での花火大会。多くの人たちが見学したようですが、筆者はもちろん仕事中。ラストオーダーを一時間延長して午後10時までとして、お客様を待ちました。
976-8月2日(金)
山歩きしていると、挨拶してくれる人と全く挨拶をしない人もいます。中には、小学生の仲良し三人組がいて、いつも気持ちよく朝の挨拶をしてくれるのです。働き盛りの人のほうが、挨拶を返さない人が多いようです。また、筆者は保久良山どまりでずが、風穴岩や、お多福山まで足をのばす人がいて、そういう人は登山靴をはいて本格的です。筆者も一度、息子達と一緒に魚屋(ととや)道を通って有馬温泉まで行ってみたいものです。
975-8月1日(木)
山歩きしています。去年からなのですが、夏まっさかりに、保久良山に山登りしています。
といっても午前8時すぎなので、早朝ではありませんが、朝の気配が気持ちよく山中に漂っています。不思議なもので、里は朝から暑いのですが、山の中は、木立に入ると涼しい限りなのです。今年は子ども達は付き合ってくれません。すっかり休み期間中の朝寝坊が板に付いてしまっているからです。
974-7月31日(水)
高校野球の都道府県代表がそろそろ今日ぐらいに決定します。47都道府県の代表が出そろうのです(東京と北海道は各2チーム)。去年からは在日韓国・朝鮮人の若者が通う「民族学校」にも門戸が開かれるようになり、少しずつ勝ち進んでいるようです。何年かのちには、在日チームがその自治体の代表として出場することになるかもしれません。
今年はサッカー・ブームですが、Japonの人たちのそれぞれの出身地域への郷土愛は、この春夏の地元チームに対する応援で表現されてきました。今年も甲子園で熱戦が繰り広げられるようになると、やはりこのスポーツに対する思い入れの深さをJaponの人たちは自覚するでしょう。
973-7月30日(火)
早朝、暑くて冷房を入れました。同じ神戸でも六甲より北に住んでいる人たちが羨ましいですね。夏でも、夜になると冷房を消すそうです。全く、同じ市内とは思えません。
午前4時30分、拙宅の窓をあけていると、"ひぐらし"の声が聞こえてきました。拙宅は街の中、しかも家が建て込んだ街区にあるのですが、道ひとつ隔てた公園には多くの蝉が朝から鳴いています。一年に一度、"ひぐらし"の蝉の声をききます。一匹しかなかないので、まるで幻聴のように響くのです。ひょっとして、同じ一統のものが、その公園へどこからかやってきて、挨拶をしにくるのかもしれません。それとも少しだけこの公園で"ひぐらし"が育っているのかもしれません。
あのカナカナカナカナと鳴く声、哀愁が漂っていて、古代から聞こえてくる呪術がかった歌謡のような響きです。
972-7月29日(月)
カルメンの定休日。公営プールに行こうと思っていましたが、子ども達はそれぞれ予定があり、昼から次男と一緒に三宮に出て、夏休みの読書感想文のための本選びをしました。推薦図書が何冊か提示されているのですが、筆者は子どもの頃から他人と一緒のことをするのが嫌いだったために、学校からの推薦図書など一度も選んだことはありませんでした。
ダイエー三宮店7階の巨大なジュンク堂書店に到着。中学生なら、もう文庫や新書を読んでもおかしくない年頃なので、学生向けのコーナーは素通りしたのです。次男は岩波新書、中公新書、講談社新書あたりを物色。手塚治虫の自伝と、カエルについての本を選びました。
一日のうちの一番あつい時間、戸外を歩いていると、めまいがするほどの息苦しさを感じます。昨日まで神戸にいた奄美の友人は暑い、暑いを連発。関西の夏は奄美の夏より酷暑なのかもしれません。
971-7月28日(日)
カルメンの店をしめて、友人たちと、三宮の店を2軒ほど飲み歩きました。筆者は、レストランを営んでいますが、閉店後、どこかで飲み歩くということを殆どしないために、知っている飲み屋さんが極端に少ないのです。さいわい、この日は三宮で生まれ育った友人がナビゲートしてくれました。一軒目はなんと筆者の高校の先輩にあたる人が経営者でした。二軒目は、北野あたりだったと思いますが、詳しい場所は分かりません。どちらも、土曜日の夜であるのにもかかわらず客足は伸び悩んでいました。
二軒目を出たのが午前3時半。こんな時間でも、人通りがすこしあり、三宮の夜の深さを実感したのです。夜の深さといえば、沖永良部島の和泊、知名の街も昼の閑散とした表情とは全く違って、たくさんのスナックがこうこうと電気を灯して賑やかになります。おそらく人口比にしたら、三宮とも負けていないのかも知れません。これは娯楽が少ない土地柄ということもあるかもしれません。そうした店で働いているのは、大阪や東京、沖縄からやってくる若い女性たちです。
970-7月27日(土)
神戸市職員の給与が6%オフされるニュースや、国家公務員に関する人事院勧告が初めてマイナス(減額)を答申するなど、いままで不況にもかかわらず、給与が伸び続けた公務員の給与もさすがに今となって、「賃下げ」となりました。当然といえば、当然なのですが、現実はまだまだ厳しく、この程度の「賃下げ」に終わるならまだマシと言えるのではないでしょうか。この不況、どうやらあと数年はこういった状況が続きそうな気配です。
969-7月26日(金)
炎暑が続いてます。昨日から、沖永良部島から友人が神戸にやってきています。
本当は、今日からの予定だったのでずが、台風が近づくとの情報を得て、一日早めに神戸に到着したのです。筆者も体験したことがありますが、交通手段を飛行機に依存している地域では、まさに飛行機が飛ばなければお手上げの状態です。しかも、出発場所が晴れていても、目的地が天候不良ならダメ。反対に、目的地が天候状態が良好であっても、出発空港の地域が悪天候なら離陸しないのです。その沖永良部島出身の友人、迷走する台風9号、11号の進路を確認するために、筆者の知らないサイトを見ていました。すると、そのサイトには宇宙からの最新情報が刻々とサイトに更新されていて、台風がいまどこにいて、どこに向かおうとしているかがよく分かります。つい先日も台風通過で半日近く停電が続いた場所に住む人ならではの情報に対する敏感さではないでしょうか。
http://www.metocean.co.jp/weather/typhoon/typhoons.htm
国土環境株式会社 METOCEAN気象情報 台風情報今年は台風が多い当たり年のようです。お出かけ前は、このサイトでチェックしてみてください。
968-7月25日(木)
開店準備時間に、NHKラジオの「こども科学電話相談」を聞くとはなしに聞いています。これが大人が聞いても結構面白く、ナビゲートするNHKアナウンサーも機転のきく、堅物ではない人が選ばれているせいもあって、テンポよく番組が進んでいきます。また、回答をする数人の先生同士の会話も面白く、学際的な会話が交わされるのも刺激的です。専門家たちが子どもたち向けに、苦労しながら最新の学問業績をやさしい言葉を使って解説するのは、聞いていてわれわれも教えられるのです。
最新の学問実績も織り込まれます。例えば、蝉はオスしか鳴きませんが、これはメスを呼び集めるためではないそうです。オスが鳴くことでオスが集まってくる。オスが何匹か集まって鳴く。その音を聞いて、メスたちが寄り集まってきて、数いるオスの中から意中の一匹を「品定め」する、というのです。面白いですね。奄美・沖縄の"モーアシビ"の世界を想起させます。蝉たちは、掛け合いの合唱の輪の中に参加することで、相手を捜しているのです。
967-7月24日(水)
今日も素晴らしく晴れ上がった夏日が続きます。朝刊に筆者の知り合いのK・H記者のブラジル取材記事が載っていました。ブラジルでは最近大豆生産が盛んで、それはJaponの大豆輸入価格が、過去の天候不良によるアメリカの大豆生産が減少したことで、高騰したことの対策として、ブラジル政府と組んで生産しているとのことです。
大豆はもともと中国原産なのですが、最近の経済発展によって、中国が大豆輸入国に転じたため、大豆生産が世界的に注目されています。食糧という生きていく上でなくてはならないものが、世界的なメジャーの市場論理によって動かされているのです。10憶もの人口を抱える中国にとっても、食糧を輸入せざるを得ないのは、国家戦略上、大きな転換期となるものです。中国、Japonを含めて世界の大半の国が、自足した一国内での食糧自給体制とはますます縁遠くなっていくようです。
(追記‥‥神戸の気温が37.7度まで上昇したようです。これは7月にしては初めてということです)
966-7月23日(火)
とあるところから素麺をもらいました。「揖保の糸」。木箱に入った上物で、「ヒネ」と書かれています。すぐ食べても美味しいでしょう。われわれは素麺というと、すぐ冷やし素麺として食べますが、奄美では「油ゾーメン」または「揚げソーメン」といって、炒め物にします。豚肉などと一緒に食べるのです。おかずとしても食べますが、農作業のあいまに食べたりします。夏になると、「油ゾーメン」が食べたくなるのです。
965-7月22日(月)
FMわぃわぃ「南の風」は、今回放送分から7年目に突入します。よく続いています。8月には「奄美篇」だけで、150回を迎えます。今秋はひさしぶりに、「南の風」公開ライブ演奏会を催したいと思っているのです。今日の放送は、JABARAレーベルから出された新着CD「諸鈍」を紹介。中(あたり)孝介さんが、ギターやチューバを使って新しい感覚で島唄をつくっていきます。筆者は、オリジナルな歌い方をした島唄と比較してもらうつもりで、両方かけてみました。
番組終了後、大阪へ。とあるメーリングリストのオフ会を催しました。そこでも「元ちとせ」の話題が出ます。今や絶好調の彼女、「AERA」の今週号表紙にも登場しているのです。この元ちとせブームで、一人でも多くの人が奄美の島唄に接することを願っています。
964-7月21日(日)
まばゆいばかりのコバルト・ブルーの空。梅雨があけた翌日の日曜日は、夏そのもの。
季節はめぐっていきます。
しばらくカルメンの夏物語が紡がれていきます。
さあ、読者のみなさん、今年はどのような夏の過ごし方を計画されているでしょう。さまざまなところに旅行することを予定している人も多いでしょう。カルメンの今年の夏もさまざまな料理を新作して、お客様のご来店をお待ちしています。どうぞ、ご期待ください。
963-7月20日(土)
一転、夏空が拡がります。最近の若い女性達は、日焼けすることを嫌います。UVカットなどという紫外線防止の機能に敏感になり、「美白ブーム」もあって、夏に突入するというのに、街中は、肌の白い娘たちでいっぱいです。この国の女性はこんなに肌が白かったのか、と驚くぐらいです。
筆者が20歳代だった頃の女性は、この時期、小麦色の日焼け肌が標準であり、夏にもなって白い肌をしているは恥ずかしい思いがして、早く海かプールに行って肌を焦ががしたいと思っていたはずです。日焼けを促進するクリームも盛んに売られていました。ところが、最近では、本来ならこの時期には学校のプールに入って真っ黒になっている小学生の女の子たちまでも、日焼け止めクリームを塗ってプールに入っているほどです。
この差はいったいどう考えたらいいのでしょう。"連れ合い"はこともなげに、「そりゃ、昔は今ほどオゾン層も破壊されていなかったでしょ」と言います。なんという"合理的な"納得の仕方でしょう。女性たちをめぐる「ブーム」というのは、一見科学的と思われる合理的な理由が附帯していることが多いのです。この今の若い娘達が母親になって、自分の娘達の世代がもし「日焼け肌」が標準になった時、自分たちが浴してきた「美白ブーム」にまつわる合理的な理由を前面におしだして、娘達と向き合うのでしょうか。それともその時代の合理的な理由に賛同しているのでしょうか。
962-7月19日(金)
梅雨末期の雨だそうです。本日、多くの学校の終業式。長男は、明日から臨海学校へ向かいます。続いて補習授業。さらにクラブの合宿と続きます。高校生とは忙しいものです。そして中学校。今年から通知簿が変わり、「相対評価」になるということ。つまり100点満点で、100点が100人中50人いれば50人とも「A」になるのです(ABCの三段階評価です)。以前は50人が100点とっても、「5」はそのうちの何%という枠が決まっていたのです。
しかし、神戸市の一部の中学校で高校入試の際の目安となるように「絶対評価」、つまり従来通りの5段階評価の通知簿も作成するとのことです。筆者の次男が通う中学校もこの2種類作成校のひとつです。教育課程が変化したその節目の年にあたるために、教育現場と、親たちに混乱が生じています。
961-7月18日(木)
マクドナルドが再び値下げするそうです。今年の3月に「いつまでもデフレは続かない」とマーケティングを予測して、平日価格を値上げしたのですが、売上げ減と来客者減を招き、結局再値下げに踏み切ったのです。
1990年代のJapon経済における数少ない「勝ち組」企業のひとつであるマクドでさえ、経済予測、景気予測を誤ることがあるのですね。原価は30円台と言われているハンバーカーは、どれだけ売価を下げて、お客様を呼び込むかが勝負の世界。まだまだデフレ状態が続いていることを、まざまざとこの再値下げは教えてくれます。
カルメンでも、こうしたデフレ傾向にあわせて、低価格のワインを用意しています。一方で、1982年、1989年、1991年、1994年、1995年といった素晴らしいコセチャ(収穫年)の高額ワインが最近あまりでなくなっています。まあ、それはそれなりに、さらに熟成が進んで、このデフレ以降に来店されるお客様のために残してくれているのだと考えています。
現在、カルメンでは、主に90年代の赤ワインを中心に、少しずつではありますが、あえてメニューに載せずに、瓶熟させているものが何種類かあります。いわばワインのアーカイブ化。またはあまり公表していないのですが、70年代のワインもやはりワイン・リストに載せず、じっくりと熟成の役割を演じてもらっています。
960-7月17日(水)
「マタニティーブルー」ならぬ「脱稿ブルー」の状態です。少し長めの原稿を書き上げた後は、その達成感で、心身ともに疲れるものです。次の原稿やするべきことはたくさんあるのですが、手がつかない。そんな経験は皆さん、お持ちではないでしょうか。
急な原稿執筆なために読書が出来なかったので、ここで数冊好きな本をまとめ読みをしようと思っています。こういう時のカンフル剤は小説です。日頃、筆者はそう多くの作品を読まないのですが、こういうときに読みたくなるものなのです。
959-7月16日(火)
台風が関西を直撃せず、東海関東地方へ。次男は、警戒情報が引き続いて出ていることを期待して早起きしたのですが、すでに警戒は解除されていて、がっかり。しぶしぶ学校へ行きました。台風が過ぎ去った後、夏空が拡がっています。そろそろ梅雨明けでしょうか。また気象庁のまるでお役人的発想の「梅雨が明けたと思われる」というばかげた文句を今年も嘲笑する日も近いようです。
958-7月15日(月)
カルメンの定休日。くやしい思いです。買った本がどうしても見つからず、読まなくてはならないので、古本屋で買い直しました。文庫だったので、すぐ見つかるといえば、見つかる本です。辻井喬著『伝統の想像力』(岩波新書)。定価は本体700円のところを復活書房で200円(税別)でした。
K大学病院へ。母を見舞いにいってきました。朝ごはんは食べられるものの、昼・夜はほとんど喉を通らないそうです。
三者面談で早く帰ってきた次男と、"連れ合い"の三人でラーメン屋へ。帰宅後、昼寝をして、夜は校正作業。30枚12頁分です。
957-7月14日(日)
パリー祭。フランスは祭一色となります。
午前中は、娘のピアノの発表会。モーツァルトのビアの・ソナタを弾きます。少し「走りすぎ」て面白みに欠けましたが、指だけはオスカー・ピーターソンなみによく動きます。昼からは、ナビール文学賞の授賞式に。友人が詩の部門で優秀賞をとったのです。会場では、知り合いの文学者に挨拶。式が終了してからは、カルメンに舞台を移して、気心のしれあった人たちで祝杯。筆者は興味深い人たちが集まると、一人ずつ自己紹介してもらうようにしています。連歌をしている人や、川柳パフォーマンスをしている人など、ユニークな表現者がたくさん参加していました。
956-7月13日(土)
用事があって、ジュンク堂書店へ。不思議なことに、原稿を書かなくてはならない時、その該当分野以外のジャンルの本に触手が伸びないものです。ついでに、すこしだけ星電社へ。5年前に買ったSONYの再生と録音が可能なMDウォークマンの調子が悪いので、使い慣れたSONYの新機種にしようと下見をしにいったのです。
MDウォークマンは5年間で、筆者が持っているものよりさらに軽量化しているのですが、ボタンが小さくなりすぎて不便です。新機種はネットでつないで、編集しやすいようになっていて、インターネットの普及がこの5年間で長足の変化をなしとげたことが分かります。つまりパソコンと連動することによって、編集がしやすくなっているのです。
筆者は、奄美の現地で島唄・八月踊りを録音することが多いために、この再録兼用のMDウォークマンが必須のツールなのです。現在使っているものは、実に役に立ってくれました。他社製品とは比較できないのですが、SONYは、編集することを前提につかられているために、小型であっても極めて高性能なのです。
955-7月12日(金)
なんとか、脱稿。昼過ぎ、2種類のアプリケーションに落としこんで、メール送信。締め切りまで20日と時間がなかったのですが、いままで6年間、関わってきた奄美の島唄のことなので、筆が乗ってくると、そう苦労はしませんでした。同じ媒体にたまたま執筆していた友人にメールを送って、二人とも終了したことを確認。しかし、筆者にとって締め切りを優先したために、もういちどプリント・アウトして確認。すると、何カ所か訂正箇所を発見。もういちど原稿を送り直したのです。
954-7月11日(木)
以前は、睡眠時間が2.3時間でも耐えることが出来たのに、ここ数年で徹夜は無理になりました。幸い、起きてすぐにパソコンに向かっても、難なく書き出すことが出来るので、朝方に移行。30枚程度の原稿となりそうです。書き出したら、意外と30枚でも短時間で書けるのですね。でも、原稿が没になるかもしれないので、慎重に書き進めていきます。一度、没になると次、お呼びがかからない厳しい世界なので、この一回の原稿で、編集部、読者が納得する内容にする必要があるので、必死になるのです。
953-7月10日(水)
今日が指定の締め切り日。編集担当者に、昨夜締め切りの引き延ばしをメールで嘆願。なんとか12日まで延ばしてくれることになりました。同じ雑誌メディアに島唄のことを書いている友人に、イマドキ高校生と同じく、携帯メールで、原稿の進み具合をリアルタイムで励まし合っています。今晩から、半徹夜の覚悟です。
952-7月9日(火)
そろそろ締め切りが近づき、必死モード。書いている原稿は奄美の島唄について。元ちとせがブレークしているので、島唄に関して関心を持つ人が増えています。いってみれば、彼女のおかげで、原稿執筆の恩恵にあずかったということになるのです。
951-7月8日(月)
カルメンの定休日。昼、暑い盛りを大阪へ。太融寺を越えて、扇町方面に向かいました。途中、一軒のタブラオを発見。会見をすませて、梅田まで歩いて帰る最中、雨が降り出しました。
この日は、梅田に長時間滞在せず、すぐ帰宅。カルメンから持ち帰ったiBookで原稿書き。自分の部屋にあるPCで打てばいいのですが、締め切りが迫っているので、誘惑が多い自室を避けて、食堂などでパソコンに向かいます。
それも、掃除で追放されて、次男の部屋へ。次男は、ベッドに寝っ転がって本を読むのが大好きで、その姿は祖父にそっくり。(いつもたいてい)机が開いているので、パソパソしていました。
夕食が終わった後、次男が勉強するというので、机をあけわたし、かといって、食卓では「邪魔!」と言われて、結局流浪の果てに、自室へ。書斎を持っていない世のお父様方の苦労が身にしみて分かりました。
950-7月7日(日)
七夕。ワールドカップが終わってから一週間。ビックウェーブでしたが、忘れるのも早いのでしょうか。スポーツ・バーと言われた店もサッカー色が少しずつ消えていきます。J1リーグでは、地元・ヴィッセル神戸に頑張ってほしいものです。しかし今シーズンは、ワールドカップの会場となったウィングス神戸が、改修工事のたに使用できないらしいのです。ピッチ(これも最近覚えた)が近い評判のいいスタジアムです。
949-7月6日(土)
スペイン料理にとって、川魚料理の代表のひとつである「ニジマスのナバーラ風」(¥1300)を特別料理として出しました。ニジマスはちょうど今が旬の魚です。ナバーラ風は、生ハムを詰め込み、その豚肉の旨みと白身魚の風味とミックスさせる妙味があります。あっというまにはけてしまいました。
カルメンでは、腹の中に生ハムをいれ込んだのですが、背を割ってそこに詰め込む方法もあります。余談ですが、鹿児島の方では、やはりニジマスの背を割り、そこに味噌(八丁味噌系の味のしっかりしたタイプ)をいれる料理があるそうです。面白いですね。ひとつの魚を巡って、同じような発想で、なんとかおしいく食べようと努力しているのですね。
948-7月5日(金)
神戸日西協会の理事会・総会に参加しました。会場は、今年4月オープンしたばかりの兵庫県立美術館。安藤忠雄氏の設計です。筆者は初めて訪れるので、理事会・総会前に行われた県庁職員の解説による常設展示室鑑賞会に参加しました。
でもどうして館名から「近代」が抜け落ちたのでしょう。筆者は王子公園内にある「県立近代美術館」が自主企画したさまざまな意欲的なコンテンポラリー芸術展に刺激されて育ったこともあり、その高い企画力にあついまなざしを向けていたのです。それがどこの県でもありそうな地元作家を優先した"そこそこのレベルのそこそこの美術館"になってしまうのかと、少々うんざりしていたのです。はっきり言って、地元美術界に主導権を渡してしまうと、筆者のような、〈具象嫌いの、後期印象派嫌いの、お絵かき嫌い〉の人間は、その美術館を見限ってしまうのです。
しかし、兵庫県には「具体」があります。この一連の芸術作品を鑑賞するだけでも、たいへんな価値があります。そこのところを学芸員は強く意識したのでしよう。「近代」の名は行政・議会から剥奪されても、具体の作家たちは常設展示場で大きなスペースを占めています。中でも、白髪一雄、嶋本昭三、元永定正、村上三郎、吉原治良といった作家たちの大作がずらりと贅沢な感じで展示されていて、それはそれは見事です。筆者と同じ〈具象嫌いの、後期印象派嫌いの、お絵かき嫌い〉の人には、たまらない内容です。
それらの展示作品は、1960年代前後のまだ「具体」の人たちが若く元気で、やんちゃだった時の横溢するばかりの革新性が美術館に跋扈しているのです。また、こうした作品は、安藤建築によく合うのです。この意味で新しい美術館の設計者は安藤さんとこの事務所でよかったのではないでしょうか。〈お絵かき派〉の作品が浮いてしまうのが救いです。
もともとこの美術館は、彫刻にも力を入れていて、筆者の好きなブランクーシを新たに購入するなど、さすがと思うところもあります。
そして2階では小磯良平の展示室が目をひきます。阪神間モダニズムの良質な世界が濃密に反映されていて、この作家を得ることで、洋画に表現された阪神間の都市文化の魅力をいつでも再発見できるのです。
947-7月4日(木)
筆者が毎日つかうJRの駅近くに、ツバメの巣があります。ひょっとしてこのツバメの一家はかつて駅構内に巣を作っていた一族かもしれません。震災を乗り越えて営巣していたのですが、数年前、駅舎にシャッターを設ける工事を行ったために、巣の場所がなくなってしまったのです。ツバメが一直線にスイッと飛んでいく姿が好きです。春から秋まで滞在するツバメはきっとJaponの鳥語と南方の鳥語のバイリンガルでしょう。小ツバメはまず、神戸弁のJapon鳥語を学んで南へ渡るのでしょう。「しっとおー、うっとこの街になあ、いけずなカラスがいてな、ごっつイラチやねん」とかなんとんいいながら。
946-7月3日(水)
7月に入って日中は30度をこえる日々が続いています。梅雨明けはまだ。今年は水不足はないでしょうか。都会に住んでいると、青々とした成長ざかりの梅雨の水田をみることはありません。政府は「減反」政策をやめるそうです。ということは転作奨励金も出ないということでしょうか。水田は一年でも使わないと、新たな養分が流れ込まないために、再び水田にすることは苦労する、といわれています。
かつてはお米を食べるときは「お百姓さんに感謝しなさい」という言説が家庭内で発せられていました。今はどうなのでしょうか。少なくとも、筆者の家庭では言わなくなりました。子ども達は身長は伸びるのですが、筆者の少年・青年時代と較べてお米を食べなくなっています。
945-7月2日(火)
業界情報です。スペイン料理店の話題です。
神戸には、カルメン以外にもスペイン料理店が何軒かあります。日常的な交流はないのですが、たまにスペイン・ワインの試飲会などで会えば、やあやあと挨拶を交わします。カルメンとそんな関係の"ラス・ランブラス"さんがこのたび、旧居留地から、北野坂を登りきったところに移転することになりました。生活雑貨を扱う店も併設するとのこと。きっとお洒落な感じでまとめているのだと思います。新しい場所でのご繁栄を願っています。もうひとつはまだ非公開の話です。スペインからヒターノを呼んできて関西のフラメンコ界に刺激を与え続けた大阪・梅田の"E"が、今年の夏で店じまいするとのことです。これは残念な話です。ファン倶楽部に入っている某氏による情報なのですが、タブラオの持っている独得の雰囲気を味わえる関西でも数少ないメディアだったので、惜しまれます。
なお、神戸には"ロス・ヒターノス"というタブラオがあります。鯉川筋と生田新道の角を東に歩いた北側にあります。神戸周辺の人は、この店を一度のぞいてみて下さい。
944-7月1日(月)
カルメンの定休日。FMわぃわぃ「南の風」は、ダブルヘッダー。午後4時からは、石原佐記男さんをゲストに。波乱に富む人生を語ってもらいました。
続いて、午後7時からは、唄者の勝島伊都子さんをゲストに。牧志徳さんが三線とハヤシを担当します。得意とする"ヒギャ唄"を8曲披露してもらいました。
放送終了後、ゲストの皆さんと近くの居酒屋で慰労会。黒糖焼酎こそなかったものの、奄美のこと、島唄のことでおおいに盛り上がったのです。
943-6月30日(日)
ワールドカップが終了しました。ブラジルがドイツを2-0で下し、優勝トロフィーを獲得したのです。1カ月余にわたるサッカーの饗宴は終わりです。サポーターに関するさまざまな言説が飛び交う中、何十万人と集合してのサッカー観戦は、ナショナリズムという文脈ではなく、民衆のパワーの発露として見た方がいいのではないかという記事に巡りあいました。
韓国で出来てJaponで出来なかったのは、不特定多数の国民がその都市の象徴的な広場(空間)に集まって観戦するということでした。Japonでは集団によるサッカー観戦が許可されたのは、サッカー球技場というスタジアムでした。つまりサポーターを囲い込んだということになります。Japonの官警は不特定多数の何十万という人数が集まるのを嫌悪します。
不特定多数の人たちが集まることのリスクを考えれば、韓国も同じ。あるいはJapon以上です。赤いTシャツの集団の中に自爆テロリストが一人でも交じっていたら、大変な惨劇となったでしょう。しかし、韓国の当局は民衆を信じていたのか、それとも民族心性である激情のなせるわざか、首都の中心部に集まって応援する仕掛けを作ったのです。
942-6月29日(土)
ようやく梅雨らしい毎日。依頼された原稿を書くために、朝型にしようと12時前に床につくのですが、起きるのが午前9時前となり、あわてています。よく眠れるのですが、学生時代と寝るありかたが違います。あの当時は、一日の半分寝ていても平気だったのです。今から考えると、寝ることも力がいるのですね。若いときは、いったん寝ると、途中で起きることはなかったのですが、最近は数時間に一度目が覚めてしまいます。
拙宅の紫陽花、今年も結花することはありませんでした。いったいどうしたことなのでしょう。21世紀を待って結花したライラックと違い、葉勢も勢いなく、そうこうしているうちに季節はすぎてしまいました。筆者の紫陽花好きの思いを理解して、せめて"夢"の中ででも、結花してくれないでしょうか。
941-6月28日(金)
近鉄が、近鉄劇場、同小劇場を廃止するという発表に続いて、OSK(松竹歌劇団)も廃止すると決定したようです。電鉄会社が文化を興すという20世紀型のありかたが終焉したと言っていいのか、それとも関西の都市芸能の衰退とみるべきなのか、筆者には即断しかねません。OSKに関しては、観劇することは今までもなく、存続したとしてもおそらく一生のうちにこれからもないだろうと思われますが、近鉄劇場・同小劇場というメディアがなくなるのは惜しまれます。一方で、"パルケ・エスパーニャ"の存続は決まったようです。あらたに近鉄本社から資金援助が出るということです。筆者としてはホッとしました。USJに押されて入場者減が続き、経営が苦しくなっているとは聞いています。しかし、なんとかスペインのテーマ・パークですので、踏ん張ってほしいものです。園内のスペイン料理店(2店)も本格的な味を出していることもあり、一般の人が少しでもスペイン料理に触れるキッカケが増えることはいいことです。
940-6月27日(木)
ここのところ、カルメンの南向かいのパチンコ屋"ウィーン"のシャッターが閉まったままです。震災にも影響を受けず、けなげに残ったピルです。1980年代までは喫茶店でしたが、90年前後からパチンコ屋となり、三宮の中心地という好立地で営業していたのですが、ある日突然「改装のためしばらく休業します」という一片の貼り紙が貼られて以降、シャッターは降りたままです。
新開地あたりでもパチンコ屋が店じまいしたと噂を聞きます。政府は先月で景気の底を打ったと言明していますが、本当でしょうか。好立地の店舗でも、いちど閉店すると、なかなか次のテナントが決まりません。デフレ状態はあと3年は続くと予測する経営者もいます。ここで手綱を緩めてはいけません。まだまだ不況は続き、本格回復は当分望めないということを肝に銘じるべきでしょう。
939-6月26日(水)
昨晩、ひとつの美しい物語が終わりました。われらが隣国・大韓民国を赤く赤く染めた熱狂の日々は、ついに終章を迎えたのです。サッカーという競技は、野球と較べて試合数が少なく、点(ゴール)もなかなか入らないことから、一つの試合の勝ち負けの重みが野球と違うようです。また一試合ずつの結果は、永く記憶されることとなり、このサッカーという競技は「反芻される民族の物語」とも言えそうです。
さてさて、ワールドカップも残すところあと2試合。世界の人々が熱狂してきた理由が分かってきたと思うと、もうすぐ終わりです。一カ月間、ひとつの競技だけでこれほど盛り上がる競技はそうないのかもしれません。
読者の皆さんは、「感動」しましたか、あるいはアパシーなままですか。それともナショナリズムを安易に鼓舞するサッカーはやはりお嫌いですか。筆者が属している雄弁なML(メーリング・リスト)もワールドカップ開催中は、なんとも静かでした。やはりなんやかやといっても、この一カ月間、テレビ・ラジオに釘付けだったのでしょうね。
938-6月25日(火)
トルコはアジアでしょうか。ヨーロッパ選手権を戦い抜いて出場しているからには、ヨーロッパ代表のひとつなのですが、トルコはアジアの国です。もともとアジアという名称も、ギリシアの東の対岸一帯を「アジア」と呼んだことから、その後背地であるトルコもペルシャもインドも中国も朝鮮・日本、ジャワもみんな一緒くたにしてまとめて呼ぶようになったのが「アジア」という呼称です。いわば「あっち」「海向こう」といったたぐいの世界認識が表現されたのが「アジア」でした。
とはいってもトルコは「アジア発祥の地」なのです。トルコの人たちは、ヨーロッパのEUに加盟することを望みながら、アジアの一員であるという意識も持っているのではないでしょうか。この意味でアジアの一番西の端であるトルコの人たちは、一番東のはずれに位置するJaponに対して親近感を抱いているのかも知れません。トルコは親日家が多いと聞きます。明治維新の経緯もトルコは参考にしたということもどこかの本で読んだことがあります。
ワールドカップ4強に残ったのは、トルコ、韓国、ブラジル、ドイツの四カ国です。アジア勢がそのうちの半分なのか、四分の一なのか、どう考えればいいのでしょう。
937-6月24日(月)
カルメンの定休日。梅雨らしく朝から雨。期末テスト一週間前となったので、拙宅は勉強モードに入り、遅く帰宅した筆者は、食卓に座るスペースがなく、テレビがある隣室に炬燵台をもちこんで、そこで食事をしました。拙宅の食堂にはあえてテレビを置いていません。置けば食事時の"主人公"は、テレビになることははっきりしているからです。
FMわぃわぃ「南の風」は、今年一月に喜界島で録音した上嘉鉄集落の"八月踊り"の14曲を放送しました。この番組で"八月踊り"を放送するのは、二度目ぐらいです。これからもこの奄美のシマ(集落)の人々にとって大切なこの踊りと唄を少しでも多く収録することによって、リスナーの皆さんに、奄美の根っこのところを紹介していきたいと思っています。
番組終了後、大学病院へ。担当医師との面談では、フィジカルな側面から臨床医学のすべてを語るべきところを、現在の医療制度の現状である「治療が終わったと見なされるクランケに関しては、(患者の容態に関係なく)ある一定の入院期間が過ぎれば、でていってもらう」ことを説明するために、ある意味で禁じ手であるメンタルな部分(=病院施設で行わない部分)を持ち出すということをせざるを得ないことに、矛盾を感じてしまったのです。
936-6月23日(日)
昼、京都まで足を運びました。新快速に乗れば、三宮から50分で京都駅につきます。早いものです。
到着したのは、京都パークホテル。三十三間堂の横にあります。在日の詩人で、時調作家である金里博氏の還暦を祝う会です。同年齢の人に、北朝鮮の金正日氏がいます。3歳で慶尚道の郷関をでで以降、北緯38度線以北には何度か行っていますが、韓国へはまだ帰れていない状態です。サッカーの躍進で沸き立つ韓国にも里博氏のような政治的理由で、帰郷できていないエグザイル(亡命者)がいることを忘れてはいけません。
会場では、飛田雄一・神戸学生青年センター館長、池田知隆・毎日新聞論説委員と同席していました。テーブルには里博氏特選のドブロクが置かれ、心おきなく呑んだのです。
当日は、里博氏が主宰している「在日韓国人文学協会」の設立10周年の式典もありました。同会は、「姜舜(カン・スン)賞」「尹東柱(イ・トンジュ)賞」を設けています。
935-6月22日(土)
友人の抽象画家・領家裕隆氏の個展を見に行ってきました。場所は"Gallery 北野坂"。あの安藤忠雄氏が設計したコンクリート打ちっ放しの商業ビルの中にあります。2階と4階に別れた会場には、黄色をベースにした油絵が「山水画」というシリーズのもとに並んでいます。それらの絵画が、安藤氏の建築と合うのです。建築は絵画を選び、絵画は環境を求めるのでしょう。
4階に立つと、ふわっと空中楼閣に立っているような浮遊感覚におちいります。北に向いたところに張り出しテラスがあり、そこでビールを呑むと美味しいだろうな、と思いつつ、ギャラリーを出て坂を下っていきました。
行く途中、気付いたのですが、山手幹線までの北野坂がラーメン屋坂のようになっているのが、面白く、この当たりの店舗の変遷も激しいことに気付いたのです。
934-6月21日(金)
国威を発揚する、といった言葉があります。一昔前まではさんざん使われてきた言葉ですが、最近では滅多に聞かなくなりました。今、サッカーで国威発揚を促す、といったって、無邪気に日の丸を振り、君が代を臆面もなく歌っている若者達に言っても、理解されないでしょう。
Japonはもうそんな時代ではないのです。国民国家が根底から問い直されようとしている時、「にっぽん、チャチャチャ」もないはずです。しかし、為政者というのは、知らず知らずのうちに「国家」を意識するよう仕向けてくるのです。そのほうが、何か施策を講じるときに運用しやすいからです。国民の要求や指向性がバラバラだと、コストがかかるし、対応も多岐にわたって仕事が煩瑣になります。
民族のため、ということでもありません。では一体なんのために、スタジアムで日の丸を振ったり、君が代を歌ったりしたのでしょう。応援しているのが、代表チームだからでしょうか。
若きサポーターたちよ。Japonのワールドカップは終わった。地域に帰りなさい。あなた方の地域にあるサッカー・クラブを応援しよう。そのチームがJ1でもJ2であってもいいではないですか。チーム・フラッグをおもっいきりピッチに向かって振ろうよ。
933-6月20日(木)
Japonという国は、筆者が数日前に指摘したように、MF(ミッド・フェルダー)の国なのでしょうか。動物的な勘の持ち主であるすぐれたストライカー不在が、筆者にこの思いを強くしています。これはJaponの「横並び」体質がそのまま反映しています。Japonの社会や産業界が求めてきた人物像でもあるのです。最近では企業も社員に「独創性」を求めますが、トップに上り詰めて「独創性」を要求している管理職の殆どの人が、MF的な心配り、気配りで出世した人なので、社員に対して本当に真の「独創性」を求めているかどうかは疑問です。あくまでも組織人としての常識を踏まえつつ、「独創性」を発揮しろというのですから、矛盾します。
Japonの人たちには、サッカーは向かないのでしょうか。まあ、世界のベスト16まで頑張って戦い進んできたのに、こういう評価は残酷かもしれませんが、優秀なストライカーが持っている先験的なファイティング・スピリッツを持つFWは果たして生まれるのでしょうか。
932-6月19日(水)
すでに、ワールドカップ総括バージョンです。スポーツ・バーという名称はいままで聞いたことがありませんでした。要は、ファン(サポーター)が集まって気炎を上げるテレビモニター付き飲み屋さんということです。野球にもスポーツ・バーならぬファンの集まる居酒屋がいつもマスコミによって注目されますが、もっとコテコテのノリです。
でも、あちらのスポーツ・バーは、男達の集まるワイルドな感じがして、やはりあちらの人間にとってもコテコテなのでしょう。
少なくても、言えることは、今後Japonにおいても、この"スポーツ・バー"なるコンセプトによる居酒屋が増えそうだと言うことです。商売の目利きのある人たちが、普及・定着したこの手の業態を逃すはずはありません。
Japon代表が気炎をあげた"スポーツ・バー"は、三宮のカルメン周辺でいえば、バドワイザーの店と、東門筋にも一軒るようで、いずれの店の周辺には、機動隊がウンカの如く集まっていました。
931-6月18日(火)
スポーツ・ニュースから解放されました。Japonは破れ、韓国はベスト8に進出。
街には多くの機動隊。花火がたかれ、ロシアに勝った歓喜の集団と様相が変化しています。ここで負けた方が、サポーターが暴徒にならずに済んだかもしれません。明日から街は普段の顔を取り戻すでしょう。でも親日的と言われるトルコに破れてよかったと思います。
930-6月17日(月)
カルメンの定休日。娘も日曜参観で代休となったので、二人で出かけました。ところが月曜日は美術館・博物館が軒並み休館日となっています。筆者のように月曜日しか休めない人もいるので、ここのところは何とかしてほしいものです。会期中、一回だけは月曜日を開館日にしてくれたら助かるのですが。
どこへ行こうかといろいろインターネットで検索してみましたが、文楽は今月休演。歌舞伎は入場料が高いのと、演目がもう少しポピュラーな方がよかったのとで、伝統芸能はあきらめ花を見に行くことにしました。
いわば"花巡礼"です。筆者の好きな紫陽花を見に、宇治市の三室戸寺に向かいました。最近、神戸からJR東西線で乗れば、乗り換えなしに京橋まで一直線で行け、そこから京阪電車は連絡しているので、京阪沿線がぐっと身近に感じています。中書島で宇治線に乗り換え、一駅手前の"黄檗"でトイレ休憩。"三室戸"で下車後は、15分ほど歩きます。
今年は紫陽花も開花が早いようです。ガクアジサイはほぼおしまい。この寺の夏のもうひとつの"売り"である蓮がそろそろ咲き始めています。これは見事でした。しかし"花の寺"である三室戸寺は、仏教寺院としての魅力はいまひとつ伝わってきません。1300年前に開基したというのですが、現在も続いているのは評価できるものの、この寺がどのような仏教情報を発信しようとしているのか、もうひとつ見えてきません。京都・聖護院系の密教と修験道が合体したような宗派なのだそうですが。
「迷路みたい」。娘は一面紫陽花だらけの花園に満足して、自分の背丈より高い紫陽花迷路を楽しんでいます。やはり紫陽花は今日のように曇り空で、触れば湿っているような感触がピッタリです。いくつか花びらを失敬して、押し花にしました。今年は桜花を押し花にしなかったので、初体験の紫陽花押し花に期待したいところです。退色しなければいいのですが。
三室戸寺の仏像を特別に見ることができたので、見てきました。阿弥陀如来像の脇侍仏に、観音・勢至両菩薩が、"跪座"(げざ、ひざまずいてすわること、造形的には正座に近い)しているのが注目されました。これは阿弥陀如来の到来を待つ積極的姿勢が、お尻を少し浮かせてひざまづくような造形を選んだのだと解釈されています(もう少し後の時代になると阿弥陀如来が立ち、つられて観音、勢至両菩薩も立ち上がります)。時代の要請が仏たちを換えていったのがよくわかります。
素人見ですが、藤原時代伝といわれている釈迦像も、当時の釈迦イメージらしく鼻高の"異人=外国人"のような面立ちが面白いのですが、いずれも模造クラスで、オリジナリティが薄いようです。でもまあ、1000年以上の年を越えて、廃仏毀釈にも耐えて、われわれが生きる時代に伝わっているのですから、価値は深いものがあります。また、両界曼陀羅も掲げられていましたが、上下のスペースの加減で下三分の一が見えずこれは残念です。
929-6月16日(日)
「父の日」。三人きょうだいの末っ子の「父親参観日」に行って来ました。かつては二人が同じ小学校に通っていたために、教室をハシゴしたものです。真ん中が中学に進学してからは、とうとう一人だけになりました。
参観したのは、国語の授業。漢和辞典の引き方の練習です。「謙虚」「温厚」「慎重」などを、漢和辞典でひく訓練をします。続いて川端康成著「伊豆の踊子」冒頭部分を読んでいきます。麓(ふもと)、雨脚(あまあし)など、ちゃんと調べられる「班」もあります。
教室は4.5人ずつの「班」と呼ばれるグループが、一緒に発表する機会もあります。いわば工場や大企業のTQCのようなもの。日本企業のステロタイプな準備態が学校現場に用意されています。
929-6月15日(土)
昼間、俳人、川柳人の集まる会合に顔を出しました。弥生会館。筆者はじめてJR大阪駅北側に出来たヨドバイカメラのビルを見ました。大きな商業ビルが出来ると、人の流れが変わるものです。そしてそのヨドバシカメラビルを通り過ぎる一群の人たち。ああ、場外馬券売り場へ急ぐ人たちです。たくさんの人たち。筆者は、ギャンブルをしないので、その面白さを語る資格は全くないのですが、馬券売り場に向かう人たちのその数の多さを見ていると、いかにこのジャンルにひかれる人が多いことが分かります。でも、キタはサポーターたちはどこで歓喜の声をあげるのでしょう。キタは都市空間の無駄のない構造をしているので、「余白」の遊びの部分がないのです。
929-6月14日(金)
どうもサッカーの話ばかりになります。Japon代表チームが勝ちました。H組を首位で通過。無事、トーナメント戦に進出です。大阪長居のスタジアムは青一色で埋まったようです。しばらく忘れていた「国民」を意識するゲームです。しかし、若者達が、思量なしに「君が代」を唄うのはいかがなものでしょう。スタジアムには巨大な日の丸がサポーターたちによって持ち込まれています。由々しきことです。
帰宅している時、通称"三角公園・でこぼこ公園とも"のサポーターたちの数は前回にくらべて多くなく、機動隊の皆さんの数の方が多い程でした。
試合終了後、中田英が言っていた言葉が心に残ります。「この勝利でいままであまり知られていなかったアジアのサッカーが世界に知られることになってよかったと思う」。まだ25歳。自分の言葉の重み、影響力を充分に理解しての内容です。
929-6月13日(木)
まあ、今はサッカーの話題が一番拾いやすいので、今日の話題もサッカーです。イタリア代表チームが苦労の上にようやくリーグ戦を突破しました。ワールドカップではサッカーを「国技」としている有力国でも予選敗退するのですから、非情なものです。また、現在のJapon代表チームを見ていると、素人見解にすぎないのですが、得点にからんでいるのは多くの場合、MFである中田英、小野、稲本です。となると本来ストライカーであるFWの選手たちは一体何をしているのでしょう。単なるゴール前の"賑やかし"でしょうか。それとも、MFがシューティングするようにお膳立てをする「守備的・アシスト的・MF的」FWでしょうか。―――頭が混乱してきました。筆者のこの素人発想のもやもやを解決してくれるようFW諸君の活躍を祈るのみです。
928-6月12日(水)
ニュースです!!先ほど送られてきたスペイン大使館経済商務部からのワインに関するニュース・レターによりますと、DOCリオハ地区と、DOリベラ・デル・ドゥエロ地区の2001年ワインにおける格付け情報が発表されています。そのいずれもが"Excelent"。「偉大な年」。1994年、1995年に続いて五段階評価のうち、最上級の評価を得たということになります。
まあ、すごいことです。2001年はJaponでもスペインでも暑い暑い夏だったのがブドウの成育にはよかったようです。では以下にメール・ニュースに記載されている両地区のコセチャ評価を転載してみましょう。
〈DOCリオハ地区〉 「平均アルコール度数は13.26度に達し、これは過去8年間で最も高いもので、長期熟成に向いた素晴らしいワインである。その他の数値もこれまでの結果では最高にすばらしいもので、輝かしい94年のワインより上回っている」とベタ褒めです。またアンヘル・ハイメ氏(リオハ原産地呼称委員長)は「伝統的な64年や94年のビンテージに匹敵する」とコメント。「審査でわかったようにアルコール度数といい、酸度、色調の濃度、またポリフェノールの数値といい、これまでのすべての年のものを上回っていて、しかも産地のばらつきが少ない。2001年ワインは長期熟成に最適である」とも。
〈DOリベラ・デル・ドゥエロ地区〉 同地区の気候と葡萄の質については「2001年の収穫は大きな霜の被害にあったが、その後の天候に恵まれ、量的にはかなり少ないが、非常に質の高いブドウに恵まれたといえる」。そしてワインの品質については「非常に深みのある輝かしいルビー色。グリセリンの豊富な含有量を思わせる滑らかさ、若いワインに特徴的な紫色を帯びている。においをかぐだけでポリフェノールの含有量の多さを感じる。野生の果実(フランボアーズ、ブラックベリー系)の香りとこの10年間の中で最も強い濃縮感を感じる」。
どうです、みなさん。2001年のスペイン・ワイン。筆者も去年の夏、これだけ(スペインも)暑ければ、今年のワインの出来は期待できるとこの"日誌"でも予言しましたが、その予言が期待以上の結果となって、評価に結びつきました。しかもリオハでは1994年をも越えるかもしれないとの評価も出ています。これは楽しみです。21世紀はじめての年が、このような最上級の評価点をもらったことに、筆者も興奮してしまいます。(早く呑みたいなあ〜)
927-6月11日(火)
ラストオーダーを過ぎた午後9時すぎ。「あら、もう終わりぃ?」と、詩人の福田知子さんと、抽象画家の領家裕隆氏が来店。「食べてきたから」とスペインワインを飲みながら、筆者もその輪の中に参加。福田さんとは誕生日も近いので、互いのバースデーを祝って乾杯。この人、仕事はフリーのライターなのですが、今春から京都の立命館大学文学部大学院に社会人入学。アカデミズムの世界に入って、いきなりアカデミックな言説に毎日取り囲まれ、「もう毎日が大変なんだから」。神戸っ子なので明るく対応しているものの、片道3時間かけての通学をあきらめ、京都に下宿するようになったことを初めとして、苦労も並大抵ではなさそうです。筆者も周囲には、大学院に社会人入学する人が数人います。子ども人口の減少による私学経営の圧迫と、大学院の入学定員枠の増大などによって、10年前より大学院入学が広い門になっているようです。しかし、入学する側は、仕事とのからみや、数年接してこなかった学問研究の最前線に放り込まれるわけですから、若い人のように同時代性として、自然に最新の言説を受容するのと、事情が異なるのです。
立命館大学は、関西の私学の中でも積極的な知の活動を展開している学校です。かくいう筆者も同大学が主催したとある連続講座で、"講師"を務めたことがあるのです。またこの講座出演を機に、とある出版社から原稿依頼が来て、4月末に50枚ほど書き上げたばかりです。これからの大学は有効な知をどれほど発信できるかが、生き残るためのキーワードとなるようです。
926-6月10日(月)
筆者、47回目の誕生日です。
近年、祝ってくれる人も少なくなって寂しい限りです。今日はカルメンの定休日。日付が変わった時、昨日のワールドカップのJapon代表チームの勝利に湧くスポーツ・ニュースをチャンネル・サーフィンして、テレビ・モニターからパソコン・モニターに移動して、いろいろとネット・サーフィン。午前4時を過ぎて、夜が白々と明けはじめ、あわてて就寝。午前10時すぎに置きだし、新聞チェック。簡単な食事を"連れ合い"に作ってもらい、岡本周辺の銀行回り。今日は、脇目もふらず帰宅。
昼のNHKテレビニュースを見て、パソコンとオーディオ機器を相手に本日のFMわぃわぃ「南の風」の番組づくり。本日は、山内由紀子さんが送ってくれたトカラ列島・宝島の島唄が録音されたテープを「奄美一口情報コーナー」に使用するため、MDに落とす作業と、番組冒頭の「朝花節」を、本日の「喜界島特集」に合わせて、同島出身・牧岡奈美さんのセントラル楽器制作テープからMDに落とす作業があるのです(最近はデジタル化が進んでいるために、放送局の現場はテープ、LPなどアナログ装置を嫌うのです)。
番組制作準備がほぼ終わり、"QUE SHEET"を書き終わり、冒頭トークの原稿書きをしている時に食事が出来上がり食卓に。目の前にある白米の話から、米穀手帳の話となり、かつてこれがなければ米を売ってくれなかった時代があったのを知ってるかと"連れ合い"に聞きます。筆者の家はしばしば引っ越しをしたので、母は新しい土地に移ってきたばかりの時、米穀手帳が更新されていないと、米屋が米を売ってくれないとぼやいていたことを覚えています。昭和30年代前半のことでしょうか。一方の"連れ合い"は、何代も前から大阪市の同じ場所に住んでいるために、米穀手帳の有る無しとは関係ない地縁関係が強固な土地柄の出身なので、実感が湧かない様子。
この米も実は、日本列島の人がなべて食べるようになるのは、戦前の食糧管理法の施行によってであり、食糧の国家管理から「配給」が始まり、そのことによって、一年に数度しか白米を食べなかった漁村、山村地帯でも、それ以前より白米に接する機会が増えたのです。つまり広く薄く「配給」されることで、この列島民は白米の味を覚えたのでしょう。筆者の話は台湾にかつて戦前「蓬莱米」があったことに移り、「外米」の中では本土住民の人気が高かったと説明。
二人で缶ビールを二本あけ、昼食完了。筆者は番組づくりのフィニッシュ。"連れ合い"は娘が帰ってくるまで昼寝。午後3時、拙宅を出てFMわぃわぃへ。局に到着するとチーフプロデューサーの野村昭彦氏がスタンバイ。番組準備をして、音源を渡し、筆者もDJ席に座る。午前4時00分00秒「南の風」奄美篇142回目の放送ON AIR。冒頭は牧岡奈美ちゃんが高校時代に吹き込んだ「朝花節」。大島の専門学校に進学した奈美ちゃんは、今年5月に行われた「奄美民謡大賞」の大賞を見事ゲット。
「奄美 うたの風景シリーズ」の中の喜界島特集第二回目は、"グループYON"が制作した島唄のCDを中心に放送。三線の田中働助さんと、六調のテコ(太鼓)が優れている。田中さんの三線は打つようなまるで打楽器のような筆者好みの弾き方をする人。「奄美ひと口情報コーナー」では、トカラとの交流を盛んにしようとの企画で行われたトカラ「はまおれツアー」の中で、浜辺で唄われた宝島の島唄を紹介。
番組終了後、家電量販店・コジマへ。子ども部屋用にエアコンを購入。自分の誕生日に家族のモノを買うことに、すこしばかりの抵抗。テレビ売り場では韓国VSアメリカ戦が中継されていて、引き分け。韓国、もうちょっと頑張ってほしかったなあ。それと韓国や在日サポーターが「大韓民国」とコールしているのが気になります。正式な国名なのだから、当然と言えば当然なのですが、「大韓民国」も「朝鮮民主主義人民共和国」も「民族統一国家」を恢復するまでの仮の「国家(名称)」であるとの認識が、筆者周辺の在日の人たちに共有されているはずなので、韓国・在日の若手サポーターが現国名を連呼するのには「ちょっと待って」と言いたくなります。それとも筆者の勘違いかしら。全州のスタジアムには「天下統一」の漢字による垂れ幕もありました。
帰宅後、引き続いてサッカー観戦。ポーランドとポルトガルの一戦。優勝候補のポルトガルが圧倒的な強さを発揮。食事は一家そろって。高校生の長男が半分眠りながら食事。食べ終わった後、倒れるように眠りこける。なんじゃこの人は。食後の誕生日ケーキなし。岡本のケーキ屋のケーキはすべて一巡して食べてしまったからというのが"連れ合い"の言い分。なあんだ、無しか。代わりに買ってきたのがシュークリーム。キャンドル・パフォーマンスも無し。筆者と娘のバースデェーが近いので毎年二人は楽しみにしているのに。娘は文句をいわずシュークリームをほおばっていましたが‥‥。
就寝は午後11時。早めです。
925-6月9日(日)
よく晴れ上がった一日です。ワールドカップのJapon対ロシア戦のため、街は「開店休業」状態となるため、臨時休業にしてしまった居酒屋もあります。今日は日曜日なので、家でテレビ観戦している人が多いと思われます。昼間、子ども達と、K大学病院へ。帰りに湊川神社に立ち寄りました。本殿内では結婚式が行われています。明治以降に出来た神前結婚式の歴史は長くありません。近世のJaponの人たちは仏前結婚式が多かったようです。(勿論、それ以上に民衆前結婚式の方が多かったのでしょうが)。いつの間にか仏前結婚式は姿を消し、神道が結婚祭事と切っても切り離せない宗教となりました。
本殿の前に置いてある賽銭箱は、筆者の祖父も制作者の一人として名を連ねています。父は孫たちに、その名が刻されていることを確認させたいのでしょう。祖父は戦前は堺や台湾の台南市でアルミ工場を経営するなど、実業家としてアグレッシブな人でした。"侠気"も感じられる人で、典型的な"明治男"といっていいでしょう。若いときは、実家(祖父は婿養子)にある尼崎に、公民館の建物をポンと一棟建築して寄贈するなどしているのです。
924-6月8日(土)
去年は7月1日から急に最高温度が30度を越える日々が続き、その日から"夏"になりました。ところが今年は1カ月早い6月1日から、蒸し蒸しとする夏日が続いています。関西はもうすぐ梅雨に入ろうとしています。阪神タイガースがこの時期、負けが込むと「阪神 梅雨入り」などというタイトルがスポーツ新聞の一面に踊ったのですが、今年はまだ一位をキープしています。世間がワールードカップ一色になって、野球が注目されていないのがいいのでしょうか。筆者が優勝候補に挙げていたアルゼンチンが昨日、イングランドに負けてしまいました。とはいってもまだ予選リーグ敗退ではないのですが、この敗北はいたい。その一方でスペインは安定した戦いぶりで、決勝トーナメント一番のりを果たしました。今回のナショナル・チームは、安心して見ていられます。これまで、クラブチームの栄誉ある成績にくらべてナショナルチームのふがいない結果が、いつもつきまとっていたのですが、今回のチームは強い。ベスト4以上は必ずいくでしょう。
923-6月7日(金)
予選リーグ戦、いよいよ煮詰まってきました。世間の耳目が日ごとにワールドカップに集中していくのが分かります。今日は神戸ウィングスタジアムで、スウェーデン VS ナイジェリア の試合。昼間から三宮周辺では、黄色の応援服に身を包んだスウェーデン・サポーターたちが見受けられます。
昨日、石原慎太郎東京都知事が「今度の日本対ロシア戦で、日本は圧勝しなければならない。そうでもとないと北方領土は返ってこない。それが国際政治というものだ」といった趣旨の発言。この人の国粋的な発言は、マスコミや官僚、政治家ではなかなか口に出すことはないので、「赤信号みんなで渡ればこわくない」式のドッキリ(本音)内容で、意外と人の心を引き寄せるのかもしれません。雑誌でいえば"SAPIO"や"諸君"的内容といったところでしょうか。
サッカーを国と国との代理戦争と見立てる向きも、盛んです。今日はフォークランド紛争という名の戦争をしたイングランドとアルゼンチンとの遺恨試合。とすれば、Japonとロシアは、日露戦争、シベリア出兵、満州国設立で、優位にたったJaponだったが、1945年8月のソ連参戦、「北方領土占領」で現在はロシアに「負け続けている」Japonのリベンジといったところでしょうか。
考えてみれば、もうすぐ1904年の日露戦争開始からあとすこしで100年。その時の対戦相手はロシア。ほぼ100年後のサッカーの試合の相手も同じロシアの国号。あの「ソ連」は一体どこへいってしまったのでしょう。この百年の間に現れ、消えていった、ということになるのです。
922-6月6日(木)
寄ると触るとサッカーの話。アイルランドの緑のユニフォームも印象に残ります。かの国は、例えば対イングランド戦では、民族のプライドをかけて戦うのです。歴史的にイングランド(英国)に負け続けてきたからです。一時は国そのものも消滅し、「北アイルランド紛争」はまだ解決していません。比較は間違っているかもしれませんが、韓国(朝鮮民族)がJaponに対してサッカーの試合を戦う時のすさまじいばかりの闘争心に似たものがあります。なにしろ韓国・北朝鮮は36年間、Japonに占領され、国家が消滅。民族も消滅しかかったのですから。
それともうひとつ、アイルランドの選手たちは髪の色が濃い人が多いですね。同じ「ヨーロッパの周縁部」であるスペインの選手も殆ど黒髪であるのに対して、ロシアの選手にブロンドが多いのには意外でした。かつてのソ連代表ならもっと多種多様な髪色がそろっていたでしょう。
意外といえば、ポルトガルがアメリカに初戦敗退したこと。優勝候補だったはずです。同じイベリア半島の国です。筆者はスペインについで応援しています。頑張れフィーゴ。
921-6月5日(水)
神戸ウィングスタジアムでロシア対チュニジアの試合。朝のJRの中でいきなり英語のアナウンスが入り、びっくり。警官がやたら目立ちます。駅のゴミ箱は封印されたまま。まるでワルドカップイコールフーリガンのような報道のされ方でしたが、ふたを開けてみると、世界各地から多種多様な人が集まる"お祭り"です。フーリガン=鬼の襲来とばかりに警察主導の報道に重点を置いてきたJaponマスコミのワンバターンにあきれます。
920-6月4日(火)
今日は、ワールドカップ一色。そういえばプロ野球も休んでいます。
Japonにおいて、久しぶりに多くの国民が高い関心を抱いたスポーツ・イベントです。結果は引き分け。ひょっとしたら勝っていたかもしれない試合内容でした。筆者は仕事中だったので、ライブでは見なかったのですが、韓国チームの応援のほうが面白そうでした。一方のJaponサポーターの応援は閑かです。この差は、おそらくこうした国際試合で唄われるサポーターに共有されている歌の数なのかもしれません。この意味で唄(応援歌)が試合中絶えない最も"美しい"応援は、阪神タイガースのサポーターたちとなるでしょうか。
919-6月3日(月)
カルメンの定休日。午前中、大学病院へ。"連れ合い"も一緒。
三宮に戻ってきて、カルメンへ寄り、午後4時から高校時代の友人M氏に会いに、春日野道へ。大日商店街でお茶屋さんをしている人です。 神戸で唯一の茶畑を持っている人でもあるのです。高校卒業以来の再会なので約30年ぶり。奄美・沖永良部島二世の人で、40歳代なかばになると、シマの顔になっています。M氏と話していてびっくりしたのは、筆者の長男(県立高校1年生)の担任教諭が、ちょうど一年前に持っていたクラスにM氏の長男がいたそうです。なんという偶然でしょう。その担任教諭は文章を書くのが好きで、月に一度ぐらい生徒全員にエッセィを配るのです。それがまた上手なのです。魂を揺さぶるような内容なのです。
918-6月2日(日)
やはり気になるのは、この国の戦いぷりです。なにしろ1950年からワールドカップ初戦に勝利したことがないというのですから、「初戦に弱いスペイン」という下馬評は定着していました。
スペインは選手層が厚く、スター選手が多いのにもかかわらず、なぜかナショナルチームはいまひとつ強いというイメージがありません。ところが今日は見せてくれました。スロベニアに対して2-0と、安定した戦いぶりを披露してくれました。これで安心して予選突破までいきそうです。
917-6月1日(土)
大丸百貨店神戸店で開かれている「太陽の賛歌―ミロ展」を見てきました。筆者は1993年にスペインを訪れた際、バルセロナにあるミロ博物館に行って来ました。この画家は"Joan Miro"と綴ります。カタルーニャ語(=スペイン語)では、"ホアン"と発音しますが、カタラン語では"ジョアン"となるのです。ミロはある時期から、対外的に"ジョアン・ミロ"と発音するよう求めています。こういうところにも、カタラン人の強い郷土意識が働いています。
ミロの作品は、明るい色彩と、かろがろ(軽々)としたフォルムの自在さが、魅力的です。赤や緑、青、黄色などの明色系の色使いの巧みさはさすがというべきでしょう。しかし、よく目を凝らしてみていると、意外とキャンパスに黒色を配色していることに気付きます。明色系を際だたせるために、黒という暗色を配置させるにくいまでの演出。
すらすらと出てくる軽快な抽象的なフォルムを見ていると、まるでパソコンの描画ソフトで描いたイラストのように現代的であり、今日どこかで接した商業メディアにふらっと登場してもおかしくはない普遍性を感じることができます。
ミロの創り出す不思議なフォルムと色彩は、モノの境界を曖昧にする東洋の美意識ともリンクしていて、大きなキャンパスに書き出された色とフォルムの楽しげな饗宴は、ずっと見つづけても見飽きることはありません。
この意味で筆者が長い時間をかけて見つづけていた作品は「田舎への旅」というシリーズ名で書き出された五枚つづりの連作。1967年、ミロ74歳の作品です。東洋的に言えば、老境にさしかかった「軽み」や「枯れ」の芸域の名作です。若い時の太く黒々と描かれたアウトラインに見られる"自意識"から解放されたと言っていいのか、こだわりを捨てた躍動感と、色・形の力強さと自在さを感じることができます。
太陽や星、大地、鳥といったものを極度に抽象化してみせたミロは、スペイン美術だけでなく人類が到達しえた大きな芸術的財産でしょう。スペインはミロのようなアーティストを産み出す力というのを持っているのですね。
916-5月31日(金)
サッカー・ワールドカップが始まりました。韓国ではお祭り騒ぎのようです。金泳三元大統領が、韓国がワールドカップ規格のサッカー場を、Japonと同数作ったのは、国土・国力の違いを考えると、後の膨大な管理費が負担となり、無理をしすぎたのではないかと新聞インタビューで語っていました。韓国にとって、サッカーこそ1970年代から「克日」を現実のものとする夢の球技でした。筆者が初めて韓国を訪れた1976年に、たまたまソウルで韓日定期戦をしていて、ラジオ越しに聞いていた韓国の人たちの表情は真剣そのものでした。またラジオ中継アナウンサーもほぼ絶叫調。試合結果は、もちろん国威をかけた韓国チームの勝ち。翌日だったか、酒場で隣りに居合わせた韓国人のおじさんに、筆者がイルポンサラム(日本人)だと分かるや、急に大声を出して「80年代を見ていろ、韓国は日本を追い抜いてみせる」と啖呵を切られました。その言葉は日本語です。
そういえば、当時の在日韓国人が韓国の大学に留学すると必ずサッカー・チームに参加するんだと言っていました。ところが在日チームは本当に弱かったそうです。そりゃあそうです。在日の子ども達にとって身近なスポーツは野球なのです。筆者の少年時代も野球しか見えていませんでした。しかし、母国ではサッカーが"国技"の位置づけです。
時代は変わって、現代の韓国。文芸評論家の川村湊氏に聞いたところによりますと、いま韓国の若い女性にとって、男の子から聞きたくない話題が三つあるそうです。一つはサッカーのこと、二つ目は軍隊生活の自慢話、三つ目は軍隊でのサッカーの話。
まあなんて正直な感想なんでしょう。男達がとうとうとサッカーやサッカーチームの話をするのを聞いていてもつまらないのでしょう。デートで阪神タイガースの話ばかりするようなJaponの若い男性を想像してください。女の子は相づちを打つだけとなります。
そして軍隊時代のこと、男たちは軍隊時代を経験してたくましくなっていくのです。自分たちも軍隊生活の以前と以後の違いを自慢したくなるものです。女性にとっては、それも「耳にタコ」の領域。そして極めつけは軍隊でのサッカーの話題。同じ大学生といっても、男は大学時代の2年間入隊するために、除隊後のキャンパスには年下の世代感覚が異なる女性達と同期になるということなのです。また反対に女性にとっては、そうした男の子たちはすでに"オッサン"なのです。
さて、ワールドカップの日韓共催で、日韓両国の人たちの理解は深まるのでしょうか。
915-5月30日(木)
ネットでニュースをサーフィンしていると、京都市の交通局がエスカレーターの右側をあけるアナウンスや表示をやめたと報道されています。関西は左側通行、東京は右側通行と相場が決まっているエスカレーター内の通行事情ですが、京都は交通機関によって、関西風と東京風が混在していたのです。それが東京風の通行様式を提示することをやめてしまった、ということになります。
京都の人は、これまで交通機関によって歩き分けていたようですが、これからはどうするのでしょう。京都は関西ですが、大阪・神戸と較べると、若干「東国」の気配がします。新幹線の京都駅は、JR西日本ではなくJR東海の所管。街を歩いていても、賀茂川という結界を渡って東に分け入ると、「東国」の始まりという気配が今でも感じることが出来ます。
914-5月29日(水)
本日の読売新聞夕刊「関西おもしろ文化考」の特集「お品書き」を読んでいると、面白い情報が載っていました。関西の若手芸術家でつくる「LOCO・ACOパーティーズ」というグループ(プロデューサー・薄井宏子さん)が、月に一回「移動する喫茶展」をしていて、長さ1メートルのストローを使った「なかなか飲めないジュース」とか、カップの縁に付けた10数個の突起が邪魔をする「飲めそうで飲めないコーヒー」などが、「お品書き」の中にあるそうです。
これは面白いですね。まるで「平成の売茶翁」のようです。また「飲めそうで飲めないコーヒー」の発想は、岡本太郎の「座ることを拒絶する椅子」を思い起こさせます。これは座席部にイボイボ突起をつけて、椅子でありながら椅子自ら椅子の機能を拒絶しているオブジェです。アーティストというのは、面白い発想をするものです。
913-5月28日(火)
この20日で、消滅したS信用金庫に要件があって出向きました。中国華僑系の金融機関なのですが、明石に本店があるN信用金庫に、営業権が譲渡されました。筆者が行ったのは、かつてS信用金庫の本店だったところ。対応した係員は旧・S信用金庫系の人でした。
そっと雇用状態を聞いてみますと、S信用金庫の30%の行員が再雇用されたとのこと。素人には「30%」というのは厳しい数字だという感じなのですが「いやいや、普通なら救済合併された方の銀行の再雇用率は20%なんですよ。私みたいな50歳台の人間が再雇用されただけでもありがたいと思っています」と係員氏。
おしぼりレンタル屋の配達氏に聞いても「まだまだ厳しいですよお」と、不況の深さは相変わらずのようです。
912-5月27日(月)
カルメンの定休日。FMわぃわぃ「南の風」は、最近「奄美―うたの風景シリーズ」を放送しています。今回はその6回目。今回から喜界島の特集を始めます。
5月に名瀬市で行われた「奄美民謡大賞」の最優秀賞に選ばれたのが牧岡奈美さん。この人のおばあちゃんが喜界島上嘉鉄集落に住んでおられます。そのおぱあちやんもシマでは名の知れた唄者なのです。
今回の放送は、喜界島出身の若手女性の唄者を中心に特集しました。次回もまた喜界島の島唄・八月踊り特集です。
放送を終えると、局の応接セットに7月に開局する沖縄のコミュニティー放送局「FMなは」の企画マネージャーの喜友名(きゆな)智子さんが開局にあたっての相談に来ていました。沖縄本島には、沖縄市と糸満市にコミュニティがあるのですが、那覇に初めてコミュニティが出来ることになり、しかも24時間放送ということです。
音楽番組がまだ正式に決まっていないということを聞いて、筆者の友人で"才人"である久万田晋・沖縄県立芸術大学助教授を紹介。携帯で久万田氏とその場で話し合い、喜友名さんが那覇に帰ってから、会うというダンドリになったようです。
鷹取を去って、JR神戸駅で降り、神戸新聞文化部へ。Y副部長と面談。組織にいる人が出世していくのを見るのは楽しいものです。お互いおしゃべり好きなので、1時間はあっという間に過ぎました。
その時、かつて筆者がこの「日誌」で話題とした「神戸っ子は"死語"か」とのテーマをY副部長にして「是非、震災後の神戸(人)のアイデンティティとも絡み合わせて、記事にしてくださいよ」と逆に注文したのです。
ハーバーランドから大学病院までてくてくと歩いていき、しばらく過ごして帰宅しました。
911-5月26日(日)
ワールドカップのイングランド対カメルーンの親善試合と、湊川神社の"武者行列"とで、神戸は警官でいっぱい。ちょっとした戒厳令下のようで面白くありません。筆者は昼間、ポリスだらけの三宮を抜け出すように宝塚に。戦前から活躍する杉山平一氏と会っていました。インタビュー形式をとって、いろいろと聞きただしたのです。80を過ぎているのに、元気な姿に驚いたのです。
営業終了後、従業員のみんなと"asisn kittchin"へ。まあ、こういうタイプの店で料理の味がどうということはありません。しかし、時代のトレンドは"無国籍風"であることは確かです。メニューには、中国・韓国といったすでに確立している"asia"はメインとして掲載されていず、ベトナム、タイ、インドネシアといった"asia"の国々が若いJaponの人たちに、エスニックという範疇の中の理解であれ「身近」に理解されていることが分かります。
考えてみると、こうした「外国理解」は、まず人間の「五感」のなかで、聴覚(ワールドミュージック)から入っていったような気がします。味覚(無国籍料理)としての大衆的な出会いは、最後の方かもしれません。ただ、Japonの人たちが接している味覚としての"asia"は、asiaそのものではない、Japonの人たちに理解された表象としての"asia"であることは忘れてはならないでしょう。
でも味覚の段階にいたって"asia"を接してしまえば、あとは消費されてしまうだけとなってしまうのではないでしょうか。
910-5月25日(土)
Vino Blanco を!涼しい5月とはいえ、確実に夏に向かっていることは事実です。こうした夏に向かっている季節や、夏そのものには、vino blanco(白ワイン)がよく似合います。料理は魚介料理。もちろん、パスタや米料理も相性があいます。
スペインの白ワインは、赤ワインほど"選手層"は厚くないものの、この季節にぴったりのものもあります。今月になって導入したのは、"El Coto"。アサヒビールが扱っているリオハ・ワインです。シャキッとした辛さで、特に男性に喜ばれるティストです。750mlで3000円。これもスペイン料理他店とくらべて安く値段設定しています。
さてさて、もうすぐワールドカップ。よ〜く冷えたスペイン産白ワインを飲みながら、優勝チームを予想したり、Japonや韓国が予選突破なるかを話題にして下さい。
909-5月24日(金)
2006年に兵庫県で国体が開かれるんだそうですね。筆者は知りませんでした。神戸で国体といえば、戦後すぐぐらいの時期に行われ、灘の王子競技場がメイン会場だったようです。市内に「国体道路」が出来て、天皇がいつ「ご用たし」になるかもしれないというので、「国体道路」の等間隔に公衆トイレを作ったというエピソードが語り継がれています。筆者は、開催県が殆ど優勝するような仕組みになっているスーパー・ワンパターンなこのイベントを無理に続けさせているこの国のありようを「国体護持」と揶揄っていましたが、またぞろ筆者の足許で開かれるとは驚きです。
二巡目の開催に入った国体ですが、何が面白くて開催されているのか分かりません。どのうな第二回兵庫国体になるのでしょう。Japon内でチマチマ一位や二位を競っていたって仕方ないので、この際思い切って全競技で国籍条項を外す、近隣諸国のチームを予選から参加させる、障害者大会も同時開催する、但馬-淡路リレー駅伝を開催する、兵庫県出身の歌手によるステージを展開する、県内の学校で各地に伝わる歴史・伝承を劇にする兵庫劇大会を催す、メイン会場横でストリートミュージックを演奏しつづける、といった企画もあっていいでしょう。こういう新鮮味がなければ、開会式から欠伸が止まらない「国体護持」でしかないでしょう。
908-5月23日(木)
サッカーの試合運びは民族性がよく現れている、といった趣旨の解説が最近の日刊紙に掲載されています。JaponはMFに中田英や小野といった優秀な選手が多いのに較べて、ストライカーに優秀な選手が少ないのは、Japon文化の横並び思考が背後にあるという解説は、説得力のあるものでした。MFはチーム全体の動きを読んで、的確にボールを動かすといった調整型の能力が要求されるのです。いわばジェネラリストとしての能力が高く、出世するタイプの組織サラリーマンです。だからJapon社会では、無愛想だけど"数字"はちゃんと実績で示す中田英が高く評価されるのです。
またイタリアの守って守って守り抜くという戦法は、都市国家の集まりだったかの国にとって、城壁を破られて敵軍の侵入を許してしまうと、徹底した破壊が待ち受けているという歴史の教訓からくるア・プリオリな反応であるというのも、面白い解説です。だからイタリアのセリエAからスペインのレアル・マドリードに移籍したフランス代表のストライカー・ジタンが「サッカーの面白みといえば、イタリアよりスペインの方が勝る」と発言し、イタリア全土からブーイングされたというのも真実味があります。
サッカーが、国民性の写し鏡だったり、戦争・戦場の縮図だとすれば、Japonだって国内で多くの戦争をしてきたわけですから、戦争技術の蓄積はかなりのものとなるはずです。Japonという国民性は、よく言えば"尚武的"、普通に言えば"好戦的な"側面があります。隣りの韓国と較べてもはるかに多くの「内戦」を経験しているはずです。この「内戦」をしすぎたJaponの人たちの「民族の記憶」というものは、サッカーの試合運びに反映されないのでしょうか。
907-5月22日(水)
今日も曇り空。朝は寒いし、もともと寒がりの筆者は布団を二枚重ねて寝ている始末。今年はどうなってしまったのでしょう。おかげで少々体調が思わしくありません。もう田植えは終わった稲の生育はどうでしょう。スメラミコトと言われた時代から、天皇は稲の生育を気にしていた"稲の王"という側面が強いのです。ヒロヒト天皇も、生物学者であることも手伝って、天象・気象を気に掛け、稲の生育を見守っていたといわれています。まあ代々"稲霊"を統覚する家系の王として、君臨していたわけですからね。とすると、スペイン王は何の王なのでしょう。それとも筆者の発想はアニメニズム的発想なのでしょうか。なにしろキリスト教世界ですから、王の依って立つ根拠は"王権神授説"で、神からたまわったものなの。神の一番の忠実な僕(しもべ)ということになるのでしょうか。
906-5月21日(火)
今日のお客様に、Y乳業の方々。つい先日、大規模なリストラ策がマスコミに載ったばかりなので、各方面から注目されています。でも終始、楽しそうに歓談されていました。やはり企業の活力というのは、そこで働く人たちの"元気"が資本です。筆者は勿論、見守るだけですが、Y乳業が現今の困難を、どのように克服していくのか、気になるところです。
905-5月20日(月)
カルメンの定休日。朝早く歯医者へ。ここは筆者の祖母が、先代の先生からお世話になっている永年のお付き合いです。つまり筆者で患者として三代目、先生も二代がかりでお世話になっているのです。古本屋に立ち寄り、田中長野県知事の『ペログロ日誌』を立ち読み。ちょうど阪神大震災にボランティアとして滞在していた時のことが書かれてあって、思わず読み耽っていました。
現在連載しているK新聞の連載記事を仕上げて、ホッとしています。今回で2回目の連載です。700字ほどなのですが、短い文章だけに、一字一句の表現に神経を使います。また、筆者は校正の際、一度プリントアウトしないと、落ち着かない性格ですので、ペーパーによる校正を二三度行います。
昼からは、神戸大学医学部付属病院へ。帰りはJR神戸駅まで歩いて帰りました。帰宅後、文化部へFAXとメールで送稿。一本、原稿を書き上げると、やはり疲れがどっときます。
904-5月19日(日)
神戸まつりの日。やはり今年から5月開催に戻るそうです。
昼のひととき、パレードや東遊園地での舞台を見てきました。徳島からやってきた"阿波おどり"の人たち「新ばし連」は、舞台芸術を意識した演出で、さすがに練り上げられた技を見せてくれます。他にも中国の獅子舞、沖縄のエイサー踊りなどパラエティーに富みます。
そして筆者の知り合いも一組登場していました。「ふりむん達」という女性三人のグループで、沖縄・奄美の島唄を歌います。奄美は「行きゅんなかな」。わざわざステージ上に、「琉球」の地図を掲示して、衣裳は芭蕉衣(ぎん)。三線は二本。沖縄と奄美の唄によって使い分けるという気の使いようです。また喜納昌吉の「花」は手話付きです。
ヤマトンチュが沖縄・奄美の島唄をアレンジして唄うグループには、東京に"シーサーズ"があります。今日の「ふりむん達」も、沖縄・奄美の島唄をベースに自分たちの"うた"を確立していってほしいものです。
903-5月18日(土)
今、カルメンで無料のデザートサービスを行っています。詳しくは、『ワンダフル 神戸』のホームページをご覧になって下さい。
何人様でも一枚の券でOKです。ホームページに張りついているイラストをダウンロードしてプリントして持ってきていただければ、それで結構です。最近は、頻繁に自家製デザートを更新しています。是非、カルメンのデザートを無料で楽しんで下さい。
902-5月17日(金)
一日雨です。
まるで梅雨のようです。
今年はどのような夏になるのでしょうか。夏といえば、スペイン料理でまず思い浮かぶのが、ガスパッチョ。冷たいヴェシタブル・スープです。今週から始めています。皆様、お待たせいたしました。これからだいたい9月中ごろまで、このガスパッチョを楽しんでいただけます。
カルメンにとって、ガスパッチョが出る数に比例して夏が近づき、ガスパッチョと共に夏を生き、そしてガスパッチョと共に夏が去っていくのです。
901-5月16日(木)
阪急が、西宮球場を解体すると発表しました。なんでも収入源だった西宮競輪が去年3月に廃止され、それ以降、赤字続きだったから解体に踏み切ることにしたというのが理由です。かつて阪急ブレーブスの本拠地として、数々の好成績を残し、プロ野球史上の名勝負の舞台となってきいました。ブレーブスを手放してから、オリックスは数年間、西宮球場でも公式試合をしていましたが、ここ数年は神戸グリーンスタジアムに本拠を移して以来、プロ野球の公式試合が行われることはありませんでした。
阪急という企業は効率をまず第一に大切にします。不要なものは切る。この姿勢は徹底していて、企業運営のポリシーとして統覚された意思を感じることができます。数年前、ブレーブスを切るのか、宝塚歌劇を切るのか、企業として選択を迫られたそうです。いずれも赤字事業だからです。しかし歌劇の方は、残存が決定して、「強いけれど人気がいまひとつ」と言われた野球チームを身売りすることにしたのです。
歌劇、プロ野球、西宮球場などは、阪急の初代社長の遺産です。現在の経営陣は初代の築いた企業文化遺産をすこしずつ目減りさせることを優先させ、宝塚ファミリーランドなども廃園を決定、次なる戦略を見せないまま、"守り"の姿勢に入ったようです。ほかにもグループ企業による文化事業はいくつか展開しているものの(「東宝」、「梅田・新宿コマ」など)、鉄道屋さんに特化していくのでしょうか。