店主つぶやき日誌(毎日更新しています)

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701-10月24日(水)
信州は、山また山の連続です。Japonという国は国土の60%が山地に占められていることを実感するのです。この国は10ほどの地域に区分され認識されています。地理的な隔絶性もあって、それぞれの地域の風土・人情に特色があるのです。

ここから、出版人・知識人が多く輩出したというのも、沃野ではない土地柄で、いかにして生活していくかの知恵を働かせないと、風土に埋没しかねない危機意識が強かったからなのでしょう。

700-10月23日(火)
旅の二日目。

ようやく雨もあがり、旅行日和です。朝市と称する屋外土産もの売り場に行き、スタッフは、やまいもの"ひかご"を買っていました。筆者が買い求めたのは、"いなご"の佃煮。ここ信州は、山国で豊富な"山幸"を誇る土地柄です。(とはいっても、"いなご"にしろ干し柿にしろ、飢えを怖れた保存食が発想の原点だったに違い有りません。)

最初の下車場所は、木地師の商品売り場。この轆轤(ろくろ)師を生業としている非定着民は、嵯峨天皇の通行許可書という偽書を権威の源泉としていることは有名な話です。ここでも筆者は陳列物に興味がないなか、さまざまな樹種が展示されていたコーナーに目が留まりました。なかでも"朴"という木は、Japonにしか生育していない固有種だそうです。木地は、濃いめ。樹木自体はどのような形相をしているのでしょう。また、名前からして、朝鮮民族に多い姓にかかわらず、Japon固有種という"ねじれ"もまた興味がそそられます。
 

そして妻籠宿。近世の宿場町の原状をよく留めていることで有名です。旧中山道沿いにあり、本陣・脇本陣を中心に、宿屋や、厩舎など、当時の旅に必要な機能の建造物が整備されているのです。電柱を撤去しているために、臨場感が漂っています。昔の姿に留めておこうとしたのは、この地域の人たちの情熱が稔ったものです。

次は"寝覚めの床"。浦島伝説に関係しています。竜宮より帰り着いた浦島が、時代が300年経過していたことにショックを受け、流浪の旅に出ることになったそうです。落ち着いた場所がここで、竜宮時代が忘れられず、開けてはいけないと言われていた"玉手箱"をここで開封してしまいます。するとご存じ白い煙が出てきて、老人になってしまいます。そこであらためて、竜宮時代に過ごしたのは、夢であることを知り、弁財天像を遺し、いずこへとも知れず去っていったということです。

この浦島の面白いところは、常に流浪のマレビトであるということです。また、この木曽路の人たちは、浦島に仮託して、流浪の非定着民が紡ぎだしていったいくつかの物語をかぶせて物語を構築していったのでしょう。我々が絵本などで知る浦島は、自分の共同体に帰ってきたものの、時間に拒絶されるのですが、ここの伝説では、流浪の民として設定されているために、時間と共に、空間にも拒絶されるという仕組みになっています。これは浦島伝説を考える時に、多層的な物語の積み重ねを見ることができます。

次は、御嶽山へ。六合目近くまでロープウェイで行けます。予想されていたとおり、ロープウェイの駅を降りると、風が強く気温もかなり低めです。ここは、御岳講が集団登山した場所としてもよく知られ、近世となって近隣に御岳講が増殖しています。夏に集団登山することが多いようで、Japonの人たちが、山(あるいは登山)というものを、信仰の対象としていたことがよく分かります。この日は、登山客が一組会っただけでしたが、登山道はよく整備され、一度チャレンジしてみたい気持ちとなります。

考えてみますと、こういうツアーは、土産物屋には多くの時間を割くものの、寺院などの名刹は殆ど訪れることはありません。きっとこれは、ツアー参加客の要望がこういう形を作りだしていったのでしょう。
699-10月22日(月)
今日から二日間、カルメンの社員旅行のために、休みます。

二年ぶりの社員旅行です。
今年めざしたのはは木曽路。ここ近年、旅行会社のバスツアーに便乗しています。バスでの旅行は、車中居眠りしていても、目的地に連れて行ってもらえることもあり、気楽です。

最初、富士山麓を巡るコースを目指したのですが、コース自体成立しませんでした。牛しゃぶ食べ放題が、ネックになったようです。つまり狂牛病疑惑が影響を与えたのです。

午前8時40分出発のところが、バスが事故を起こしてしまい1時間到着が遅れてしまいました。高速に乗った後は、一路東へ。滋賀県の湖東地域は、すでに稲刈りが終わっています。名古屋を過ぎるあたりから、雨が降り出します。ここはまだ刈り取り前。次の日曜日あたり稲刈りでしょうか。

まず到着したのが、水引美術館。といってもこういうツアーは、土産物屋巡りツアーと同じですので、商品を買うための時間が設定されているのです。筆者は、ツアーでの展示即売に殆ど興味が湧かないので傍観するのみです。

次はリンゴ園。食べ放題といっても、大きなリンゴを2個食べればいい方です。あごが疲れて食欲が湧きません。ここへ到着した時は、雨がきつくなっていました。途中、たわわに稔った柿を多く見ることができます。

昼神温泉に到着後は、ひたすら温泉三昧。山深い温泉郷で、歓楽街とてなく、閑かなところです。(かつては歓楽街はあったかもしれませんが、今は旅館を一歩でても夜の闇が拡がるばかりです)。温泉めぐりチケットで、他の温泉を巡る以外に、時間をつぶせません。筆者は早々に眠ってしまいました。
698-10月21日(日)
曇り空です。時々、空からポツポツと雨が降ってきます。

昨日、筆者の小学校時代の恩師が、カルメンに食べに来てくれました。筆者の小学校は、私立。カソリックです。2クラスしかなく、その恩師は、5年6年の持ち上がりでした。そしてたまたま、筆者の姉も、この先生に5年6年をもってもらったので、4年間続けて姉弟でお世話になったということになります。

その学校は、筆者でまだ7回生という新しい学校でした。イタリア・アッシジに本部があるフランシスコ修道会が運営する学校でした。この会派はとりわけ戒律が厳しく、学校に併設されていた修道院では、神父、シスターが、毎日ストイックな修道者生活を送っていました。

私立学校の特徴として、卒業しても、同窓同士の絆の強さが挙げられます。筆者は、私立にも公立にも通学したので、私学の持っている独得の雰囲気を知っているつもりです。阪神間で少しでも住んだ経験を持つ人は、私学で学ぶことの文化的意味が分かっています。

この地域は、多くの多様な私学があることでも知られているのです。また、ある階級の人たちは、自分たちの子弟は、当然私学に行かせるものだという"常識"を持っているのです。
697-10月20日(土)
そういえば"父"にも似たような記憶があります。

筆者の中学生時代は、ちょうど大学闘争が全国的に吹き荒れている時でした。空前のフォーク・ブームで、ギターケースを持っているだけで、格好いい、と思われたのです。中学生も多いに影響があり、筆者もギターを独習して弾いていました。

筆者も西宮市の公立中学校に通っていたのですが、学年別クラス対抗合唱大会がありました。最初、ギターの伴奏が許可されたので、クラスでギターを弾いていた筆者ともう一人の友人が、指名されたのか、申し出たのか忘れましたが、練習で得々としてギターを弾いていたのです。その時の筆者は、鼻高々だったことでしょう。なにせ、ギターを弾けるというだれけで、注目度が抜群だったわけですから。

ところがどういう理由か分かりませんが、本番ではギターは使われませんでした。筆者ともう一人のギタリストは、結局クラスの合唱隊の中に交じって口をぱくぱくしていました。まあ、自分で言うのもなんですが、筆者のクラスの前評判はよかったのですが、英語の歌(エーデルワイス)を選択したのが、遡及力に影響したのか、上位入賞は果たせませんでした。中学3年生のことです。

今は、本番でギターを弾かなくなったことの落胆ぶりは、すっかり忘れてしまいましたが、当時はかなりショックだったに違いありません。

696-10月19日(金)
みなさん、"バトエン"ってご存じでしょうか。

絶対に優勝候補の一角と言われていた長男のクラスが、よもやの3位に終わってしまいました。その時のショックったら、担任の先生はうなだれて、顔をあげなしい、クラスのみんなは言葉を失ったようです。

学年別クラス対抗合唱大会で、一クラス2曲(課題曲・選択曲)唄ううち、長男は課題曲の指揮を任されたのです。先生の熱の入れようは、昨日報告したとおり。長男は、"父"に対してめんどくさそうに応えていたものの、クラスメート(と先生)とともに内心想うところがあったようです。

この合唱大会の一部始終を聞いていた同居人の女性(妻)は、発表があった直後、絶句して頭が朦朧としたようです。第三者の親ですら、そうなのですから、優勝を争っていたもう一つのクラスが、一等を獲得しただけに、長男クラスのショックは深いようです。

そして帰宅した長男は、自室に引きこもってしまい、"バトエン"を独りで延々と始めたのです。これは、エンピツを転がして遊ぶというもので、「バトル(闘う)エンピツ」の略でしょう。流行ったのは震災前ですから、そうとう前のゲームです。長男のショックの大きさが伺いしれます。

一方の次男。自分たちのクラスが上手くないことを自覚していて、あっけらかんとしています。合唱コンクールのことは、その日のうちに消費してしまい、涼しい顔をしています。

長男の"負け"の苦い体験。次男のアパシーな一日。今日の秋空は抜けるような青でした。
695-10月18日(木)
帰宅すると、普段聞き慣れない音楽が流れています。

合唱曲。それをバックに、指揮の練習をする長男。神戸の公立中学校では、音楽会のシーズンです。長男は、クラスの指揮者になるよう、先生から任命されて練習に励んでいます。このところ"朝練(あされん)"と称して、いつもより早く中学校に向かいます。長男に聞きました「あした本番だろ?」「ああ」「早く指揮したい?  それとも早く終わってほしい?」「あとのほう」----となんとも味気ない会話を交わしたのです。(本音は分かりませんが)

一方の次男。同じ公立中学校に通いながら、合唱曲の練習のために、"クラス一丸"といった雰囲気ではまるでなく、音楽会もあるのかどうかも定かならず、まるで切迫感が伝わってきません。かたや"朝練"をして、しかも練習風景をビデオにも収録するという熱のいれようです。"父"は、そんな兄弟光景を、夕刊を読みながら、観察しているのです。

694-10月17日(水)
新聞などマスコミの報道を見ていますと、アフガニスタン情勢の合間をぬって、日一日と深まる秋の様子が紹介されています。

Japonの中央部は、もう紅葉が本格的に始まって、見頃になっているようです。秋の情緒は、この季節を愛してきた本土の人たちの深い思いが込められています。稔りの秋は、光景もまた、われわれを楽しませてくれます。厳しい夏が終わって、やってきた情緒豊かな季節。やがてやってくる長い冬の前に、この季節を十二分に楽しんでおこうと思っています。
693-10月16日(火)
〈カルメン 01年 秋の俳句徘徊 no.23〉

・風遊ぶ一つ殘りし實石榴に  佐々木扶美

こうした伝統俳句の作品は、ある規定されたJaponの原風景が措定されていて、作り手も読み手も、現実の光景とは別に、こうした仮想の原風景に企投して作句・鑑賞をなしているように思えます。筆者には、それはのどかな田園風景の中で、展開されている牧歌的な光景が該当すると思っています。

「風遊ぶ」とはいい表現です。稔りの秋を迎えたものの、風が稔った果実を揺さぶっている。そしてあと一つになってしまった。どうも晩秋の気配です。石榴という重量を感じさせる果実を揺すぶるのですから、存在感のある風なのでしょう。

石榴は、皮を剥くと、表皮とは違う赤々とした中味がでてきます。昔からセクシャルなレトリックにも登場するなど記号性に富んだ果実です。それが風に遊ばれているというのは、別の比喩として読むことも可能と言えるでしょう。俳句という文学ジャンルは、"縮小と断念の詩型"であるため、他者によるさまざまな"読み"が可能となるのです。
692-10月15日(月)
カルメンの定休日。

午前から、放送準備。今月は、4回分を担当するのです。
本日の特集は、徳之島の島唄を中心に紹介しました。"ばしゃ山会"という徳之島出身者が中心の島唄教室かが今年3月開催した創立20周年記念コンサートの模様を放送するのです。

FMわぃわぃに行くと、今日のミキサーは、キム・チョサ氏。曲の合間に世間話、よもやま話をするのも楽しみです。筆者の担当する番組も6年目という"長寿番組"となりました。こうして番組を続けてこれたのも、スタッフの温かい姿勢と、リスナーの人たちの応援があってこそです。

番組終了後、カルメンのスタッフが、神戸の西舞子の浜でバーベキュー大会をするというので、筆者も参加。以前働いていたアルバイトの人たちも含めて合計9人で、楽しくひとときを過ごしました。そしてやはり、スペイン料理のプロたちですから、野外料理の醍醐味であるパェリャも作ったのです。これも結構いい味でした。

会場とした海岸からは、明石海峡大橋が間近に見え、時々、イルミネーションを替えて、見る者を楽しませてくれます。

バーベキューを楽しんでいる最中、海から上がってきたばかりのダイバーの人が「これ、あげるわ」と、中ぶりのプルポを一匹、ぽんと網の上に置いてくれました。まさしく明石の蛸。それも今の今まで海を泳いでいたものです。海水に浸っていたので、味の調整はせずに、そのままで美味しく食べることができました。なんという幸運なのでしょう。それにしても、蛸をくれたおじさんとは、何者だったのでしょう。ひょっとして、海の神(海幸さん)かもしれません。不思議な体験でした。
691-10月14日(日)
昼、カルメンで新イスパニック・クラブの総会。スペイン大好き人間の"同好会"として、スペイン語を話す会などの活動を行っています。

総会は7名が出席。それぞれの近況を報告したあと、今後は、毎月のペーパー・メディア(月報紙)は出さず、年に三回程度発刊することとして、後はメールで情報をやりとりする、という方式に転換することが決められました。

これは最近、大阪発の『ラテン手帳』など、関西のスペイン・ラテンアメリカ情報を専門にあつかうメディアが出現したことで、情報を会員に知らせるという意味では、そうしたメディアの方が優れている点があることから、方向転換するものです。

やはり情報交換の主流はどんどんメールに移っています。メールだとその手易さから、手紙・ファックスなどで交わされた情報密度よりはるかに濃くやりとりすることが出来ます。さらに携帯電話からのメール発信を考えると、いつでもどこでも情報を送受信できるのです。

阪神大震災の時に初めて、携帯電話を持っている人の優位性が自覚できたと思ったら、いまではJapon国民の二人に一人は携帯を持っているという時代になっています。そして筆者のように、携帯は通話するための機械ではないメールを主に使っているという多様性も出現しています。全く時代は変わったものです。
690-10月13日(土)
〈カルメン 01年 秋の俳句徘徊 no.22〉

・入院の四角な窓を鳥渡る  高濱年尾

配所であったり、入院であったり、ある人が事情によって、特定の場所からの移動を禁じられている時の作句というのは、俳人にとって想像力をかきたてるものです。俳人の中には「もし自分が、配所や入院した場合はどんな句を作ろうか」とわくわく(?)している人もいることでしょう。

しかしいったん入院してみると、無謬をかこつ日々の連続であり、日常の見渡す光景もそう大きく変わりません。作句意欲もどこへやら、いま自分が置かれた病の身を案じるのが、精一杯のところでしょう。こうした現実を受け入れつつ生まれたのがこの作品でしょう。

自分は自縛されて動けないけれど、鳥たちは、長い距離を移動して、全く違う世界へ向かおうとしている。鳥は人間たちにとって羨望の的です。特に病者にとっては、四角に区切られた天空の中を移動するのを見るだけにせよ、自由に施設の外で飛翔している姿を見るのは、羨ましくもあり、また自分の不遇を知るキッカケともなります。

689-10月12日(金)
時代に閉塞感が漂っています。新たなテロが懸念されている炭疽菌による死亡者の発生、狂牛病の疑いなど、胸がつまる事件が多発しています。

こんな時にこそ、陽気さを失いたくないものです。何か、気分を晴らしてくれる趣味があれば最高です。この日誌の読者の皆さんはどのようにして、気分転換をはかっているのでしょう。筆者の友人は、スポーツジムに通って汗を流し、秋に行われる六甲山縦走登山に備えています。

もう何度もチャレンジして完全踏破に成功しているのですが、歩き終えたときの感動は、何度経験しても気分がいいらしく、今年も挑戦すると宣言していました。一日8時間以上、歩きっぱなしの"苦行"なのですが、目標をもって、その達成に向けて努力するというのは、素晴らしいことです。
688-10月11日(木)
不思議と、そのお客様がいらっしゃると、忙しくなるのです。いわば"福男・福女"コンビとでもいいましょうか。

カタツムリ料理を注文される方で、飲み物はいつもカルメン特選ロゼ・ワイン。そのスタイルをずっと守られています。今日は、最近あたらしくメニューに入ったサルスエラを食べられて、満足された様子です。

カルメンは来月、創業45周年を迎えます。10年ぶり、20年ぶり、30年ぶり、40年ぶり、とお客様それぞれに久しぶりに来られる方々がいらっしゃいます。勿論、40年間、30年間、20年間、ずっと通われている常連のお客様もいらっしゃいます。こうした老舗レストランで働いていますと、常連の皆さんの顔を見るだけで、幸福になっていくのです。
687-10月10日(水)
旧体育の日であるのに、朝から雨。珍しいこともあるものです。

それでも昼から晴れ上がっています。動くと、汗ばむことがあります。世界が戦争に向かい、世相が悪くなっています。なんとか、気持ちだけでも明るく、前向きにしておきたいのですが、なかなか心晴れる状態ではありません。

世の中、敵もいれば、憎しみあう相手もいます。哀しき人間の業です。こうした人間の深き業を相手にしている職業の人は、恨みを買う人も多いでしょう。そうした仕事を選んだとはいえ、難しいかぎりです。
686-10月9日(火)
カルメン、今日は休みです。

筆者は午前中に大阪。久しぶりに、天満橋から大川を眺めると、北岸にテント生活者が増えています。大阪造幣局に向かう途中にもテントが増えているようです。長引く不況。テントの数は減りそうにありません。

豊かな国のテント生活と、アフガン難民のテント生活と、一緒にするわけにはいきませんが、共に北半球にあることから、これからの冬を乗り切るのは大変なことです。しかもみう何年も、テント生活を続けている人は、決まって身体の調子を悪くします。

家があるのに、政治的理由で帰れない人、仕事をしたいのに、難民を強いられている人。しかもパキスタンは、同じパシュトゥン人が住んでいて、裕福な人は、パキスタンで普通の生活をしているのです。同じ民族で、差が開いていきます。

銀行へ行く用事があったので、三宮へ。用事が済んだ後、ひとり立ち飲み屋に入って、生ビール三昧。昼間から呑むビールのおいしいこと。午後5時まで割引があるので、さらに嬉しく、呑みながら、友人とメール交換。こんな時は読書も変なので、酔っぱらってもボタン操作は可能なので、二度三度メールを往復しているうちに、本当に酔っぱらってきて、電車に乗り込んだのです。
685-10月8日(月)
筆者には予兆能力なんてありません。

しかし、昨日この日誌サイトに書いた胸騒ぎが現実になってしまいました。

Japonの時間で、午前1時すぎ。巡行ミサイル・トマホークを中心としたアメリカとイギリスの攻撃がアフガニスタンに向けてありました。これから、しばらくは、ミサイルなどによる徹底的な「軍事関連施設」への空爆が続くでしょう。そしてタリバーンがその対応に追われている時に、米英の特殊部隊は、すでにアフガニスタン入りをしていて、オサマ・ヴィンラディンを追っていることでしょう。

筆者の願いとしては、自衛隊がより「日本軍」としての性格をむき出しにするよう国家が仕向けるまでに、今回の「報復」行動は終息してほしいものです。自衛隊は決してJaponの国民を守る軍事組織ではありません。あくまで戦争遂行を支える国家体制を守るための組織です。ですから、国民一人ひとりの生命や財産を守ってくれる組織ではないことは、はっきり認識しておく必要があると思います。

かつての「日本軍」は国民に対しても銃を向け、国民の生命を守ろうとはしませんでした。沖縄での地上戦や、ソ連参戦による関東軍の敵前逃亡がいい例です。今の自衛隊が、先の戦争を反省して、国民のための軍隊になっているという証拠も実績も信頼もありません。

アフガニスタンはもうすでに20年間にもわたって、戦争が続いています。
タリバーン政権が覆されても、本当に平和は巡ってくるのでしょうか。今の同国の若者は、戦争の時代しか知らない。国家が荒廃している姿しか知らないのです。新しい政権が出来たとしても、また底なしの内戦状態に逆戻りしないという保障はありません。

新政府を構成する人たちが、寄り合い所帯でも、もう戦争はこりごりという反省を共有して、再建に共に取り組んでいくのか、あるいはタリバーンを追い出した後に、国家内のより大きな権力を握るために、他派を排撃しようとするのか、それはアフガニスタン人の想像力にかかってくるのです。

阪神大震災もそうですが、"再建"は時間がかかり、人々の心の傷がいやされるのは、たやすい問題ではありません。この意味でタリバーン後も再び内戦状態になれば、世界中からこの国は見捨てられ、神に見放された憎悪だけが生える土地になってしまうでしょう。
684-10月7日(日)
今日も気持ちよく晴れ上がっています。

ただ、筆者は昨晩から風邪気味で、店が終わってから、ひたすら眠りこけていました。

日一日とアフガニスタンでの、戦争が近づいてきます。日本がこの戦争に自衛隊を派遣しようとしていて、これに心痛める友人が、筆者の周辺にも、少なからずいます。

たった一代前の世代が戦争に巻き込まれ、さんざん苦労したはずです。「もう戦争はまっぴら」という素朴な考えを持っている人は多いのです。この中で、やたら国家を鼓舞したりする人がいるのは、いつの時代でも声の大きい人です。

683-10月6日(土)
今日と明日、北野を中心に、コウベ・ジャズストリートが行われます。三宮地区でも、北野が"主役"となるイベントです。三宮北の"三角公園"では朝早くから、ブラスバンドの演奏がされています。

これは、Japonにおいて神戸が一番最初にジャズが演奏されたことを記念して(異論はある)、北野のジャズ・ハウスを中心に、二日間をジャズまみれにしようとする試みです。もう10月の神戸のイベントとして、定着している感があります。

このイベントに参加するのは、中高年の人が多いのです。といいますのは、ジャズという音楽自体、同時代的に聞いてきたのは、40代以上の人たちが殆どだからです。このために、三宮は珍しく中高年の人たちで満ちています。駅周辺は゛だいたい若い人たちが多いのですが、このイベント期間中は、少しだけ"大人の街"に変貌します。

カルメンに来られるお客様も、今日ばかりは、中高年の人が中心です。街という機能を考える時に、やはり、中高年世代が闊歩する日や雰囲気が、多くあっていいのではないでしょうか。徒党を組んで楽しくわいわいするのは、若い人たちの特権ではないのです。スペインでは、家族・仲間・夫婦同士で、食事をしたりする機会が、このJaponよりずっと多いのです。

682-10月5日(金)
子ども達が、中間テストを終えて、ビデオに録音していた米映画を観ています。「ディープ・インパクト」。隕石が、アメリカ・ニューヨーク沖に激突して、大津波に呑まれるというシーンが、繰り返しテレビのスポット広告に流された、いかにもアメリカらしい映画です。

筆者が帰宅している時、最初の隕石が衝突して、大津波が自由の女神像を吹っ飛ばし、世界貿易センタービルを押し流すというシーンでした。いまはなき双子ビルが映画のなかではくっきりと映っています。それだけでも、子ども達には、今回の同時テロを考えさせる教材となりそうです。

映画のラストシーンは、二つ目の巨大隕石に対して、ミサイルではなくて、大気圏の外で、宇宙船ごとぶつかって自爆し、爆発させるという結末です。自爆する宇宙船に乗っている乗務員は、英雄として描かれています。アメリカというところは、どこまで自家撞着が激しい国・国民なんでしょう。

同じ自爆行為でも、世界貿易センターに突っ込んだテロリストは英雄ではないのです。しかし、アラブ社会では、公けに出しにくいものの、アメリカの中枢部が攻撃されたことに、溜飲を下げる人も多かったものと思われます。

映画のラストシーンは、廃墟になったホワイト・ハウスを前にした黒人の米大統領が演説をします。4機目のテロ機が、ホワイト・ハウスに突っ込んでいたら、似たような現象となっていたでしょう。

同時に、このJaponでも同じことが言えるかもしれません。ゴジラやガメラによって破壊されるこの国の主要都市の無惨な姿を映画で見て、喝采を送っているアジアの人たちがきっといるでしょう。他人事ではないのです。

681-10月4日(木)
〈カルメン 01年 秋の俳句徘徊 no.21〉

・この邊で待つ約束や草の花  今井つる女

忙しさにかまけて、自然の風景と接することはありません。山は、歩いて30分もすれば、"山中他界"と呼びうる素晴らしい世界と出会うことが出来るのですが、ちょうど稲刈りをしているか、まだ黄金色の瑞穂を垂れている平地の田園風景など、神戸に住んでいると、接することはありません。

草の花とは、何の変哲もない光景です。さまざまな種類が雑居しているものの、特に個別化された名前は存在しない、これなら都市の中にもありそうです。そうした変わり映えのない草の花の場所を、会う起点にしている。これは、約束した当人同士の深い了解がなければ、成立しないことです。

というと、これは深い了解が成り立っている男女の待ち合わせなのかもしれません。会う約束をしているのは、若い人なのか、いや中年でも構いません。「ほらほら、あそこの、あの場所の」と言いながら、来てみると、花が咲いているか、もう散っているのか。でも会っている二人には、草の花は視界に入っていないのです。
680-10月3日(水)

〈カルメン 01年 秋の俳句徘徊 no.20〉

・淋しさに飯を喰ふなり秋の風   小林一茶

カルメンのテーブルに置いている小さなスペイン国旗が、開け放した窓の外から入ってくる風に反応して、はためいています。秋は風も人肌に優しくなります。そして秋の深まりと共に、近くに誰か他人の息づかいが欲しくなるものです。この寂寥感は、秋特有のものかも知れません。

一茶は、「はぁ」とひと呼吸置いて、食事を始めたのかもしれません。「今日も一人かあ」などと聞いている人間もいないくせに、誰かに聞かせるように話してみる。でも、返事がないのに決まっているから、箸を持つ。秋の風だけが、そよ、と吹いている。

独りで生きるということは、どんなに忙しくしている人でも、日常のちょっとした隙間から淋しさが侵入してくる。抗うにも、グチを言う人が側にいないという絶対的な物理的要件。やはり箸を持って食事を始めるしかないのです。「はぁ」とため息としたくない一茶の気息が、聞こえてきます。
679-10月2日(火)
ひとごとではありません。

Japonでも狂牛病が発見されて、大騒ぎになっています。肉骨粉の材料に、狂牛病に冒された牛が混入していたらしく、それが輸入されて、発病したようです。

例によって、農水省の不手際があり、フォローするどころか、風評被害を必要以上に拡げてしまいました。米国へのテロ事件がなければ、間違いなく毎日トップ・ニュースになっていたはずですが、米国がいよいよ戦争状態に突入する前のニュース空白期に、この問題が注目されるようになりまとした。

政治家たちは、牛肉の安全性をアピールするために、牛肉を食べるというパフォーマンスを展開しましたが、農水省に入ってる食堂の一つが、牛肉料理を自粛するようになったとテレビニュースで伝えています。また、筆者の子どもが通っている神戸市の学校でも、給食で「安全は分かっているけれど」当面は牛肉を使わず、豚肉を使うという通知がありました。

飲食業界で、深刻な影響をこうむると思われるのが、牛肉料理を主に出している店です。ステーキハウス、焼き肉屋、牛丼屋などが考えられます。この不況の際に、さらに追い打ちをかけるような事態に、同じ飲食業界に携わる者として、他人事として座視することは出来ません。一刻も早く、狂牛病の原因究明が進み、風評被害がこれ以上拡がらないことを祈っています。

678-10月1日(月)
中秋の名月。月見の夜です。

今日カルメンは定休日。

筆者は昼近くまで寝ていました。身体の疲れがとれません。同居人の女性(妻)もまた同じ症状です。だいたい夏の疲れというのは、9月末から10月にかけてまとめて出るのかもしれません。こういう時は、とにかく寝ていたいものです。

午後4時からFMわぃわぃ「南の風」の生放送。ゲストに、高嶋正晴氏。9月に奄美を訪れたばかりです。J-popに挑戦する元ちとせさんの新譜などをまず紹介。声質はもともとよく、しかもJ-popを唄っても、島唄風の"こぶし"を効かせているというところが面白いところです。これからどの道を進むにせよ、成功してほしいものです。

続いて高嶋氏には、新民謡の研究成果を聞きました。奄美はアメリカ統治時代には、"シマグチ"による新民謡が登場したものの、復帰後はヤマトグチの歌詞が支配的になったようです。氏の話は刺激的でした。

番組終了後、摂津本山駅の近くにある"ごんざ"という飲み屋で、会合を持ちました。それは、詩人の福田知子さんの、立命館大学の大学院合格祝いです。筆者を含めて7人ほどが出席。福田さんは、ライターの仕事が減ったことを区切りとして、大学院に学ぶことを決意。8月に論文を提出して、9月末に合格通知を受け取ったのです。

そこで、会を盛り上げる小道具として、筆者が揮毫し、それをプレゼントしたのです。言っておきますが、筆者は字が下手です。こうして皆さんと活字で対面できることに、心から感謝しているのです。中国文化圏においては、書が発達していて、「書は人なり」という悪筆家にとっては、これほどイヤな言葉はないほどの格言が流通しています。(筆者も逆説的ながらこの格言を肯定するのですが)。

字が上手な人は、それだけでも恵まれています。そしてやはり中国人は(筆者と同世代でも)さらさらと書く字が、とてもサマになっているのには驚いてしまいます。筆者の字はそれはもう、「個性がある」という表現でしか表せない代物です。同居人の女性(妻)は、「あんたの字と、子どもの字と区別がつかん」などと憎たらしいことを言ってます。

話は脱線しましたが、そんな下手な筆者ですが、永く生きていると図々しくなるもので、下手は下手でいいではないかと開き直るのです。下手に徹すると、不思議に"味"というものが出てくるものです。上手な人はより上手に書こうと思うので、むしろ個性がなくなってしまいがちです。筆者は、下手なりの開き直りを武器にして、B4判の紙に、揮毫した次第です(隣で見ていた娘が、漢字の書き順をいちいちチェックしてその無法ぶりに驚いていました)。書き終わって、自分で満足してしまい、またいずれか"この手"を使おうと思っているのです。

肝心の月見ですが、酒とおしゃべりばかりで、酩酊して帰る際になって、望月を眺めた程度です。今年の月は、雲ひとつかかっていない絶好の月見日和でした。なんだか月に申し訳ないことをしてしまいました。

677-9月30日(日)
4月を年度始めとする企業は、今日で前期が終了。今朝の新聞では、これから経済が悪化すると予測している企業の方が多いようです。

この日記サイトを初めてもうすぐ2年になりますが、2年前から来年の方が景気が悪くなりそうだと書き続けてきました。今の時点の予想は、小泉内閣が進めている構造改革を進める上での、一時的な景気の悪化としていますが、果たしてどうなのでしょう。

来年もさらに景気が悪くなりそうと言われれば、人々の元気がなくなってしまいます。完全失業率も全国では5%。近畿地区では6.3%。同地区内でも悪い神戸は7%近くになっているでしょうか。北海道、神戸、沖縄がとりわけ失業率が高く、どの地域も景気浮揚の決め手を欠いています(ただ、沖縄だけは若年人口が多く、文化に活気があるなど、未来に向けた可能性もあることは確かです)。

企業の中でも、前期となんとかしのげたものの、銀行の支援打ち切りで、これから年度末に向けて白旗を挙げるところも出てくるでしょう。だいたいここ数年、大企業の倒産は、秋から年末にかけてが多く、それで一挙に次の年の経済予測が厳しくなるのです(ちなみに言うと、春からいつもは少し回復基調となるものの、長続きしません)。

はてさて、明日から年度後半が始まりますが、戦争のことも気がかりです。一体、どうなってしまうのでしょう。

676-9月29日(土)

〈カルメン 01年 秋の俳句徘徊 no.19〉

・平凡な妻と言はれて秋刀魚焼く   上原鬼灯

分かりやすい句です。説明は不要でしょう。秋刀魚という魚に漂う生活臭と、妻という実務。そうした日常性が土台となって、「平凡な妻」と言われている自分を置く。肯定も否定もしていない。名付けた方の言い分は、なぜか自分でも納得しているような気配です。「どうせ、私は平凡ですよ」と口をとんがらがせて、秋刀魚に向かうという風でもない。すねてはなさそうです。しかし、ある時突然、「平凡」という言葉に反発することがある。今は、この言葉を自分の中で"熟成"させているのかもしれません。

女性は、昔から形容・観察の対象でした。今は、充分に語り返しています。「平凡な妻」というのは、どういう人なのでしょう。時代が作為を求めていない時に、粛然と毎日をこなしていた人のことを形容したのでしょうか。今は時代が変容・激動して、めまぐるしく社会は変化しています。この時代に「平凡」を貫くことは難しいのです。"粛然とした毎日"というものが存在していないからです。こんな時に、「平凡」を貫けるのは「偉大なる平凡」なのかもしれません。それになるために「秋刀魚焼き」の修業を始めてみますか‥‥
675-9月28日(金)
二日連続で、プロ野球の話を。

本日、二人監督が辞任会見を行いました。セ・リーグの監督については、筆者は興味がないので、世の中の加熱報道ぶりに任せるとして、われらがオリックス・ブルーウェーブの仰木彬監督について、書きましょう。

筆者は何度も書いていますが、プロ野球というのは、ファンに夢を与えるスポーツです。1995年阪神大震災が起きたまさにその年に、オリックスがリーグ優勝したことが、どれだけ神戸市民を勇気づけたことか分かりません。仰木監督も引退会見でこの年の優勝を強調していたようです。

復興と一口でいいますが、生半可なものではなく、何年もかかってようやく震災前の水準に戻るかどうかといったことです。神戸の不幸は、復興途中に大不況がやってきて、いままた足踏み状態が深刻だということです。これは神戸という街と、神戸に住む人たちに与えられた試練だと言えるでしょう。

あの年に優勝に導いてくれた仰木監督の仕事は、一生忘れることが出来ません。あの年以来、筆者は阪神ファンをやめ、オリックス・ファンになったのです。その監督が辞任するとなると、やはり寂しさがこみ上げてきます。今年もシーズン途中まで、優勝争いに加わっていただけに、もう少しの踏ん張りがほしかったところです。

報道によりますと、次期監督は石毛宏典(元・西武--ダイエー、現解説者)氏が決定したとのことです。昨日、次期監督について、スタッフと語り合っていたばかりだったので、全く予想もしなかった人選に、"目が点"になってしまいました。

どうして、阪急--オリックスに関係のない人が、こうも簡単に新監督に決まってしまうのでしょう。しかも関西に縁があるとは思えない石毛氏は、ちょっとしたエイリアンであり、オリックス・ファンとすれば、悪夢の土井監督を思い出します。この人は、神戸市内の野球名門高校の卒業ではあるのでずが、ずっと巨人で活躍していて、関西の球団や、ファンとは無縁だった人です。いやむしろ、ずっと"敵"の側に立っていた人です。阪急時代も、日本シリーズで、何度も選手として対戦しているのです。

少々、感情的に言わせてもらえば、土井元監督は、阪急時代の豪快な野球を無視した"せこい"試合運びをして、散々チームをわやくちゃにした挙げ句、成績をあげられないまま、また選手やファンに愛想をつかされて、石もて追われた身です。第一、どうして巨人で育った人間が、リーグが違うとはいえ、関西の球団の指揮をするのか、それ自体、納得がいかないことです。

さて、石毛新監督は、どうでしょうか。いまの時点での係わり方は、明らかに「第二の土井型」ではあります。彼がどのような心理で、関西/神戸の球団の監督を引き受けたのか、おおいに気になるところです。単に自分の履歴のスキルアップだけ(つまりは最終的には、西武の監督になる)の途中下車と考えているのなら、ファンにすぐ見破られるでしょう。グリーンスタジアム神戸は、来シーズン早々に、一塁側・ライトスタンドから「石毛、帰れ、石毛、帰れ」のコールが響くでしょう。

それとも、こうした人選は、東京に本社を置くオリックスのリクルーティングの一貫でしょうか。つまり、神戸の地場性よりも、東京に本拠を置く球団の人脈を優先させた結果なのかもしれません。球団は、あくまで企業戦略の「部品」であるために、神戸/関西の地場性を優先させるというパトリオシズムは、監督選考の判断材料にはしなかったのでしょう。

オリックスが、球団を「部品」化しているのは、チーム名に「神戸」を冠しないことでも現れています。近鉄は唯一の大阪在住の球団としての差別化を図るために、球団名に「大阪近鉄バッファローズ」と名前を替えました。この点、オリックスは今は、神戸にフランチャイズがあるものの、企業の論理で、いつどこへ"転進"するかもしれないという可能性を残しておくために、チーム名に「神戸」を付けないのかも知れません。

今日は少し頭に血がのぼってしまいました。まあ、野球というのは、「勝てば官軍」の世界です。パレスチナのインティファーダでもないのですから、しばらく石には触らないでおきましょう。
674-9月27日(木)
オリックスが、逆転負けして決まった近鉄バッファローズの優勝。まあ、関西のチームだから許しましょう。確率的に言えば、関西に三球団あるわけですから、4年に1度は優勝してもおかしくないのです。12年前(1989年)の近鉄。1994、95年のオリックスと、今回を併せて4回あるので、この確率の中にすっぽりと収まるわけです。(えっ?  もう一球団あるじゃないかって。そうなんですが、あの球団は20年周期という"宇宙リズム"で優勝を考えていらっしゃるようですから、ちょっと度外視しなくてはなりません)

まあ、セ・リーグの方も、ヤクルトが優勝するでしょう。となると、近鉄vsヤクルトとなりますね。この対戦、筆者は、大阪ネイティブvs 東京ネイティブのファン対決としているのです。巨人も阪神も、お互い、"東京"、"大阪"を代表するチームといわれていますが、ファンの構成は、"東京"あるいは"大阪"を幻想共同体とみなす人たちですから、お互いその球場周辺地域に根が生えたネイティブではないのです。ところが、広範な地域からのファン参加が多くない近鉄・ヤクルト両チームは、大都会のチームでありながら、ファンの素顔が近くに見えます。

パ・リーグの優勝が決まって、あと神戸スポーツ界のニュースといえば、仰木監督の跡を継ぐのは、誰なのか(阪急・オリックスOBでは何人か候補が挙がっていますが、"地味"な人たちが殆どです)ということ。そしてサッカーのヴィッセル神戸のホーム・グラウンドが完成。いよいよ11月24日に「神戸ウィングスタジアム」でキックオフされるということです。このスタジアムは、来年のワールドカップ用に神戸市が作ったサッカー専用球場です。

ヴィッセル神戸は、三浦に加えて、野人・岡野の加入で、攻撃陣に厚みが加わりました。二人とも名前先行のヴェテラン選手ですが、どちらも試合に"華"を添えてくれるプレーヤーであることは間違いありません。筆者も一度、「神戸ウィングスタジアム」に行ってみたいものです。
673-9月26日(水)
〈カルメン 01年 秋の俳句徘徊 no.18〉

・だしぬけに咲かねばならぬ曼珠沙華   後藤夜半

秋を彩る花の代表格に、「曼珠沙華」があります。俳人ご用達の人気ツールといっていいでしょう。ところが、この花、タナトスの匂いがします。それは、墓場近くによく咲いているため、と何かの本で読んだことがあります。故人を偲ぶ作品にも、よく登場します。

しかし、どうして「だしぬけに咲かねばならぬ」のでしょう。これがこの作品のポイントと言えそうです。この花を日時を決めて見に行くために、花の方が「咲く」ことを合わせているのではないかと、作者は思いなしたのでしょうか。

俳句作家にとって、この花は、思いこみが注入しやすく、後の五・七が決まっている場合、「曼珠沙華」を入れるとすっきり収まる場合が多いのです。ところで、かつて山口百恵もこの花を唄っていました。彼女の切ない歌声もどこか、タナトスの香りがしていましたねぇ。
672-9月25日(火)
カルメンは休みです。

中学生の息子たちが体育祭の代休だったために、男三人でラーメンを食べに行きました。「山海山人」という名前のチェーン店です。"山人"とはまさに、柳田國夫が、初期の頃、研究テーマとした人たちそのもので、いわゆる農耕民とは違う非定着民のことです。この店は、この意味の"山人"を店名に活用しています。

チェーン店らしくコンセプトがしっかりした店で、店内装飾にわざと、サビがついたトタン板を使うなど、お洒落な内装です。ラーメンのスープはさすがに、美味しい。なにせ、ラーメンのスープをどう開発するかで、テレビ番組が製作されるぐらいです。西洋系レストランでいえば、ソースにあたるでしょう。しかもラーメン屋は、多くのスープはありませんので、一種類のスープに総ての勝負がかかっているのです。

ただ、餃子は美味しいものの、少しこぶり。ビールも"生"しかなく、オジサンとしては、ぐびぐび飲むには、瓶ビールも置いて欲しいところです。カウンター10席、テーブル4席のこじんまりとした店です。

帰宅後、息子(次男)を連れだって、三宮へ。中学入学記念をまだ買っていなかったので、CDラジMDを、ジョーシン電機で買いました。こうした音楽系アイテムは、中学生にとって"自分"を確立していくための大切なツールです。まずハードがあって、自分の好きな音楽が、友達の影響などもあり、徐々に決まっていく。レンタルで借りたり、友達から借りたりする。それらを繰り返し、聞くことによって、時代が創り出す"音"と共振関係になっていく、といった経路を辿りながら、音楽を対外的な尺度にして自分をつくっていくのです。

音楽という表現、あるいは聴覚というのは、若い間には、"五感"の中で、一番鋭敏に作用する感覚です。何か新しい傾向・流れなどは、まず音楽で表現されます。若い人たちで、一番最初に才能を開花していくのは、音楽で表現している人たちです。10代で"歌姫"と呼びうるような才人があまた輩出されるのは、このためなのです。

671-9月24日(月)
今日はカルメン、営業中です。

最近、ハッピーマンデーということで、月曜日を含めた三連休になることが多く、サラリーマンや学生などは、この三連休を楽しんでいるようです。筆者の息子二人は、中学生で、土曜日に運動会をしたため、火曜日までの三連休となります。

息子たちが通っている公立中学校は、すぐ近くにも、隣の校区の中学校があり、その運動会の様子も聞こえてきます。東灘区は、住宅が密集しているので、近くに隣接していても、一学年、6〜7クラスあるのですから、世帯構成は、若いといえるでしょう。

ところが、同じ公立中学校でも、隣りの中学校は荒れているという噂です。こうした情報は母親たちのネットワークですぐ伝わってくるもので、息子達の小学校が、二つの中学校に別れて進学するために、何かと比較しあうのです。

その中学校とは、公立でありながら、レベルの高い子どもたちが集まっていることで有名です。新築マンションのチラシには、必ずその中学校の校区内にあることが、誇らしげに明記されます。一方、息子たちの学校は、すぐ隣り校区であるのに、そうしたマンションのチラシに明記されたことはありません。

荒れている内容の詳細は、知りませんが、隣り合っている学校で、こうも事情が違うというのは、驚きです。息子たちの学校は、大きな問題は発生していないようです。中学校生活というのは、あっという間に過ぎていく3年間です。人間として人格が形成される大切な時期ではありますが、大人たちの人間関係のあつれきと同じ現象が現れるのも、この時期です。
670-9月23日(日)
〈カルメン 01年 秋の俳句徘徊 no.17〉

・秋遍路泊めて流轉の話など  森本久平

「遍路」は春の季語だそうですが、秋にも遍路姿を多く見かけるために、秋をつければ、この季語として成立するようです。万物が萌えさかる上昇の機運の中で行われる"歓喜"の春の遍路とは違い、秋の遍路はなにかもの哀しい気分が漂う修業となります。あまり秋が深すぎると、冬になり、苦難が歩く以外にも、身体に響いてきます。

旅に出ていると、入ってくる情報が限られ、しかも毎日、受容する風土・環境が違ってくるために、どんな新しい情報が待ち受けているか知れず、そうした土地ごとの情報を忖度する力は、旅人にはなく、ただその情報や作り話を受容せざるを得ないのです。

作者は四国の遍路路に住む人でしょうか。遍路で出会った人たちの、行く末を、物語っているのかもしれません。越える山、通過する峠は、他界との接点です。他界へ向かった人たちが、どのような姿になっているのかはqq、こちら側からは見えません。見えないことで想像力が沸き上がっていきます。人はしかし、いずれ山を越え、峠を通過しなくてはならないのです。そして、次の里にも、彼方に去った旅人の"流轉"話が待っているのです。
669-9月22日(土)
フラメンコも、ヒターノも、スペイン内戦の重たいテーマも、出てこない映画でした。

スペイン映画『ローサのぬくもり』(ベニト・サンブラノ監督、脚本)を、神戸朝日ホールで観ました。これは「市民映画劇場」の9月例会として上映されたもので、神戸映画サークル協議会が主催。代表の宮下宣子さんに、チケットを一枚いただいたものです。

場所はアンダルシーアのセピージャ。ごく普通に生きるスペイン人の、飾り気のないスペインの日常生活が登場します。筆者も映画を見始めた最初、あまりに"スペインらしさ"が出てこない展開に、いままでのスペイン映画と全く違っているので、当惑したほどです。

この映画に登場するのは、スペイン近現代史の苦悩を一身に背負うインテリも、今もって抑圧されているスペイン国内の少数民族の悲嘆も描かれていません。登場するのは、労働者階級であり、貧しい地方の人たちであり、年金生活の孤独な老人なのです。こうした"生(き)"のままの姿こそ、スペイン人は、親近感とシンパシーを感じたのでしょう。優秀なスペイン映画に贈られる「ゴヤ賞」を五部門にわたって2000年に受賞。また、東京国際映画賞(1999年)も二部門にわたって受賞しています。

話はある病院の中から始まります。父が手術のためにセピージャの病院に入院します。母(ローサ)は、田舎から、娘マリアの家に泊まりながら、病院に通い、父の面倒を見ます。ところが娘は、生活が荒れ、母親に当たり散らし、就職した掃除婦の仕事もうまくいきません。ローサは、母親らしい心遣いで、殺風景なアパートに、鉢植えの花などを買ってきます。

ところが、マリアは自分が妊娠していることを知ります。相手は、肉体関係だけで済まそうとしている無責任な男です。アリアは、男に責任を追及しますが、公的な保健所に行ってタダで堕ろしてこいと迫るのです。マリアは手術に男が同伴することを望みますが、仕事を休むことで、職を失うことを怖れ、母親に同伴してもらえ、と言い捨てるのです。

映像は、スペイン社会の厳しい雇用環境も映し出します。マリアの住んでいる地域は、観光客がイメージする太陽溢れる観光スポットでもなく、白壁が見事なアンダルシーアらしい場所でもありません。アパートの近くはホームレスが住んでいて、バルも男ばかりの女性が入りずらい場所でもあります。雇用不安と失業が労働者階級につきまとっている現状を我々に教えてくれるのです。

マリアは苛立ちます。母親のように、何度夫から殴られても、反抗することなく付き従う人生は歩みたくないと思い、田舎の家を出たものの、仕事や恋愛などうまくいかず、しかも望まぬ妊娠をしてしまいます。もういちど男のところに詰め寄ったマリアは、一緒に手術に立ち会ってくれと頼みますが、そこでも男はマリアの身体を求めるだけだったのです。

ローザは、マリアと同じアパートに住む老人とふとしたことで知り合います。賢い犬と一緒に暮らしています。孤独をかこつ老人は、ローサとの出会いや会話を大切にして、友人になろうと希望するのです。ローサも何度か、老人の部屋で語らったり、世話をしたりするのです。

しかし、この交遊を面白く思わないのが、入院中の夫でした。ローサに「男の臭いがする」と敏感に反応するのです。いままで夫は、何かというと妻を殴りました。そして子どもたちも殴ります。「殴るには理由なんていらないのよ」とマリアは独白します。マリアの兄たちは、家を去っていきました。ところがマリアは父と短気な性格が似て、お互い嫌悪しながら、最後まで田舎の家に居たのです。

夫は退院するときに、妻に向け「俺は男らしかったか」と何度も聞きます。妻や子ども達を殴ってきた自分の人生の正当性を、妻に認めさせようとするのです。ローサはこの時決して、夫の質問に正面から答えようとしないのです。

夫が退院する時がやってきました。娘マリアは、母ローサを看病疲れさせないために、父のベッドの横で介助をします。しかし仲の悪い父娘の間に一切の会話は存在しません。やがて田舎に帰っていく両親。物語が進展したのは、その後でした。独居老人とマリアが、たまたま食事を一緒にすることになり、頑固な二人は衝突します。マリアは、お腹の中の子をいよいよ堕胎する時が近づいていたのです。

老人は、マリアの堕胎に反対しますが、マリアは子育ての大変さを訴えるという現実論をぶつけます。老人はそれに同調する気配を見せると、反対にマリアは「どうして最後まで堕ろすなと言えないのよ! わたしもう35歳なのよ」と叫びます。「では私の養子になればいい」と老人は返します。かつて彼には息子がいたのですが、幼くして死亡し、妻も今はいません。天涯孤独です。「悪い冗談だわ」とマリア。「私はおじいちゃんになりたいのだ。公園に孫をつれて散歩するおじいちゃんになりたいと思って何が悪い!」。

マリアもその老人もまたローサの母としてのぬくもりに抱かれて、その後の人生を歩むようになるのです。この映画、スペイン語の原題は"Solas(孤独)"。現代スペイン社会のどうしようもない閉塞感があり、それを打開する"癒し"として、母ローサの存在が大きく寄与しているのです。

見終わって、しばらくしてから考え込んでしまう作品です。今月はたまたま集中的にスペイン映画を観ていますが、やはりひとつの国の映像文化です。多様な切り口から、多様なスペインを見せてくれて、筆者は充足した気分になっています。(あと今年は2.3本、スペイン映画を観る予定です)。

668-9月21日(金)
考えてみれば、われわれがイスラムの普通の人たちを、テレビで見るときは、たいていなにか大きな政治・軍事に関する事件後のリアクションで、大勢で怒りを声をあげている姿が多いことに気がつきます。(しかも男性ばかり)。

つまり、怒っている人たち--------これがわれわれが抱くイスラムの人たちの視覚イメージではないでしょうか。つまり筆者が言いたいのは、Japonの人たちが欧米やアジアのごく普通の人たちの、ごく普通に生きる生活の中での、泣いたり、笑ったり、悔しがったり、慰め合ったり、というような人間として共通の感情表現行動を、イスラムの人たちに関しては、あまり見る機会はないということです。

かつて中南米の人たちのイメージも似たようなものでした。軍事クーデターや、独裁政権からの迫害によって、近親者を失った者の怒りがテレビメディアに、写し出しているのをみて、かつてのJaponの人たちも、中南米の人たちに対しても"怒っている人たち"のイメージを持っていたと思うのです。

ところが、中南米の人たちへのイメージが変わったのは、ワールド・スポーツとしてのサッカーが、米国スポーツ文化の強い影響下にあったJaponにも普及したことで、同地域から優秀なサッカー選手が活躍するようになり、彼らの、喜んだり、残念がったり、がっかりする姿がメディアで写し出されたことで、一挙に親近感を感じるようになってからのことです。

われわれは、イスラムの人たちを知りません。そしてもうすぐ10月の末から、彼らにとって大切な"ラマダン(断食月)"が始まります。アメリカが、軍事行動を起こすことを急いでいるのは、このラマダンまでに一定の戦略的効果を得ようとしているためです。

かつて、カルメンにもイスラム教徒の日本人女性が、パートで働いていたことがありました。エジプト人男性と結婚する機会に改宗したのです。その彼女、頑として、ラマダンの期間中は、日没まで食事はおろか水さえも取りませんでした。徹底して世俗化した仏教に触れているJaponの人たちには、ラマダンに見られるイスラム教義の徹底は、やはり驚きの対象です。勿論、筆者は、仏教の世俗化を批判しているわけではありません。〈世俗化=土着化〉することで、初めてこのJaponの普通の人たちに、仏教が身近になったのですから。
667-9月20日(木)
いま、世界の目はアフガニスタンに集中しています。

山岳の民、アフガニスタンの民族音楽のLPレコードを、20年以上も昔に買った記憶があるので、実家にメールして、持ってきてもらいました。今夜、たっぷりと聞こうと思っています。

「アフガニスタンの民族音楽」と題するLPレコードのライナーノーツには、草野妙子さんという方が、アフガニスタンの歴史や民族、文化についてコンパクトにまとめて解説されています。

それによりますと、人口の大半を占めるのが、パストゥール(パシュトン)人で、ダジク人は北方に居住し、ウズベク、トルクメンの種族と共に、タリバンに対抗する「北部同盟」に参加しています。

この他、バーミヤン周辺には、中世モンゴル語(!)を話すハザラ族がいます。バーミヤンには、先日タリバンが破壊した仏教遺跡があるので有名です。(ちなみにフランスのシラク大統領が、今回の米国の報復軍事行動に積極姿勢を示しているのは、仏教遺跡を爆破するなどという野蛮きわまりない行為をするタリバンに対して、仏教やアジア文化に対してなも並々ならぬ関心を持つ彼が徹底した憎悪を向けていたことが、前段階としてあったと思います)。

宗教は99%がイスラム教徒、1%がヒンズー教徒だそうです。かつてこの国は、東西世界の文明交流の地であり、多くの情報・文物が、この地を通過していったのです。7世紀にはイスラムの王国が支配していたものの、13世紀からは、モンゴル系の王朝が支配していました。この間、モンゴル族もイスラム化していったのでしょう。

アフガニタンは、山がちな国です。この山国という軍事的有利さを活かして、イギリスもソ連も制圧することは出来ませんでした。この国の人たちも、帝国主義勢力を撤退させたことに誇りを持っているようです。

むかしむかし、ゾロアスター教は、同国北部で生まれたと言われています。さまざまな文化が交流したと同時に、オリジナルな文化を創造した地域です。この国にあらたにアメリカという大きな他者が、圧倒的にかかわってくるのでしょうか。
666-9月19日(水)
〈カルメン 01年 秋の俳句徘徊 no.16〉

・蟲浄土ふたりの吾子はねまりけり   能美丹詠

「蟲浄土」という言葉があるのですね。いい言葉です。筆者は今、一階の和室で寝ているので、秋の虫がしずしずと鳴いているのが聞こえてきます。それがある程度かたまって聞こえてくると、一種"法悦"にも似た情感に達するのでしょう。

いま、筆者は、蓮如や一遍について考えているので、"浄土"という言葉について敏感になっています。浄土の世界を蟲の音が具現してくれるという意表をつく発想が面白く、刺激的です。浄土を自然界の中に見いだしていこうとする詩人としての精神に敬服したいと思います。

しかし「ねまりけり」という表現は、ねちっこくていけません。どうしてこう伝統俳句の作家は迂遠な表現に凝るのでしょう。せっかくの子ども二人が、無縫な格好をして、寝ている姿を描写していても、そのねちっこさが、純朴さを帳消しにしてしまっているようです。それともこの表現、どこかの俳句にある表現を援用したのでしょうか。
665-9月18日(火)
近頃、テレビニュースを頻繁に見ています。友人の中には、寝不足に悩んでいる人が何人かいます。

米国の報復の矛先は、アフガニスタンに収斂していっているようで、この国やパキスタンに関する情報が、メディアで流されています。その中で、アフガニスタンの30%を占めるパストゥール人についての情報が盛んに入ってきます。

パキスタンも、全人口の10%がパストゥール人が占めているそうです。身長が高く、西洋人のようにも見え、古武士のような風格を持っている人もいるとのことです。この国の大多数を占めるパンジャピー(パンジャブ人)は、背が高くなく、インド亜大陸の世界では、理論大好きのベンジャビー(ベンジャブ人)とよく対比されます。

余談ですが、仏教は当初、理論好きのベンジャビーが、"小乗仏教"を創始し、ヘレニズム文化に接し、実践(=衆生の救済)を重視するパンジャピーが"大乗仏教"を創始したと考えてもいいと思います。

このインドとパキスタンは建国以来、4度にわたる全面戦争を経験したのですが、ことごとくパキスタンが敗退しています。インドは大国です。インド版中華思想も強烈なものがあります。大国に隣接しているパキスタンが生き残るために、隣国アフガニスタンとの友好関係を構築していくのは、安全保障上、ぜひとも必要なことです。

この一連のアメリカらしい"正義のカウボーイ"の"悪の退治"で、アフガニスタンそのものが、悪者になっていしまうことは危険なことです。筆者がこのように日誌を書いてる最中にも、米軍の艦船とNATO軍が、アフガニスタン攻略のために、"駒"を進めています。
664-9月17日(月)
カルメンの定休日。

暑がりの同居人の女性(妻)は、今日も冷房をつけています。拙宅では筆者以外みんな冷房が大好きで、夏の電気代が高くても、黙認されています。

筆者は、FMわぃわぃ「南の風」の番組の仕上げ。今日は、7月に尼崎市・大物(だいもつ)のスナック"蘭"で録音した、石岡春代さんの島唄を放送します。

石岡さんは、名瀬市出身。すでにセントラル楽器から、ソロ・テープをだしておられます。現在は名古屋市在住なのですが、関西にしばしば来られているので、無理をいって、番組用に時間をとってもらったのです。

三線は瀬戸内町出身の勇(いさめ)富夫さん。この人の三線は一級品です。そして勿論、男性にしては、高い音域を出せる唄者で、石岡さんの相方としては、最高で、関西の島唄大会で聞ける最良の唄者コンビだと言っていいと思います。

石岡さんは、しみじみとした、じっくり聞かせる島唄が得意です。特に彼女の"カンティメ節"などは絶品だといっていいでしょう。番組の放送中、いつもは辛口のFMわぃわぃディレクターの野村昭彦氏が「うまいな、この人」と感嘆していました。

放送終了後、今秋もどこにも寄らず、拙宅に帰りました。少しずつ、放送終了の午後5時が暗くなっていきます。
663-9月16日(日)
神戸市兵庫区の真光寺で行われた"念仏踊り"を見学してきました。

この日、鎌倉仏教〈時宗〉の祖師である一遍の示寂した日、つまり命日にあたる日です。遊行の念仏行を徹底させた一遍は、この日、淡路島から上陸し、加古川に向かう予定だったのが、病が重くなり、ついにここ神戸で最期の時を迎えたのです。

少し早口の法話(語尾が聞き取れない、かつ面白くない)が終わったあと、午後2時から、法要の読経が始まりました。時宗の総本山は神奈川県藤沢市にあります。ここ真光寺は、一遍が死去した当時は、「観音堂」と言われていました。一遍は自分の最期を悟り、自分が所持していた法典、書き物をすべて燃やすよう支持します。

念仏札を配り初めて、ずっと捨聖として、各地を遊行してきた一遍です。身体にもう無理が効かなくなったのでしょう。亡くなる数日前には、感極まった信者が踊り念仏を踊り始めたといいます。

読経は「ナムアミダブ」が一番最初に唱和されます。ここのところはさすがに念仏宗たる時宗のことです。(しかし、筆者の親戚には浄土真宗の西本願寺派の人が多いのですが"ナムマムダブ"と言っていたような気がするのですが)。読経の後、一行は本堂を出て、廟所の場所へ。この五輪の塔は、鎌倉時代にすでにあったというのですから、時宗(当時は時衆といっていたという)の信者たちが、示寂の地を顕彰しようという意思が強かったのでしょう。

踊り念仏はいよいよ始まります。廟所を前に、一人の僧が読経し、これに対置する形で、もう一人の僧が踊りを伴って応えます。そして周囲に複数の僧。それらを囲むかたちで20数人の女性達が、揃いの白はっぴを着て、踊り始めます。

その踊りは、筆者の予測どおり、一遍の生存中の踊りにあっただろうダイナミズムと、エロティシズムの要素はそぎ落とされ、かなり定式化した踊りとなっていたのですが、派手ではないものの、様々な記号性に満ちた踊りの所作に、見入っていました。

なぜ、踊りの担い手が女性ばかりなのか、また踊りの輪に、信者の人たちが参加しないのか、疑問は残りますが、連綿と続けられ、現在に継承されている"念仏踊り"を初めて見て、一遍が現代に遺したものは、一体なんだったのかを、改めて考えようと思ったのです。

662-9月15日(土)
たしか、ヨーロッパに〈戦争が平和をもたらす〉といった内容の格言があったと思います。

時は中世。ジクソーパズルのように領地が入り組んでいるヨーロッパでは、領地争いが絶えず、戦闘はもっぱら傭兵が主力でした。いわば雇われ兵なので、戦争の時は、賃金をもらって戦場に赴くものの、平時には仕事がなく、中には"ごろつき"と同レベルか、盗賊になるものもいたそうです。徒党を組んで、略奪・強盗・レイプを行うなど、犯罪集団にもなっていたのです。

非戦闘員である一般市民にとっては、傭兵が戦場に行っている時、つまり〈戦争〉状態になっている時こそ、〈平和〉なのです。だから、上記のような格言が生まれたのです。

これは、米軍にも言えているでしょう。海兵隊などの組織は、戦場へ真っ先にかけつける切り込み要員ですから、死亡の確率が高いのです。彼らは、他の軍人たちより何時どんなときに現地に赴くか分からないために、常にテンションをあげていなければならず、殺気だっているのです。

そんな彼らが本来の戦争屋に従事していると、街なかは〈平和〉になるのです。沖縄における米兵犯罪はこれでしばらく減少傾向になるのかもしれません。
661-9月14日(金)
身近な企業が"倒産"しました。年輩の方には、ニチイと言った方がいいのかもしれません。大手スーパーのマイカルが、自力再建を断念し、東京地裁に、民事再生法の適用を申請しました。つまりは"倒産"です。

倒産すると、マイカルの物件は、裁判所の所管するところとなり、財産はそこで凍結されます。納品業者は、売り掛け状態が解除され、民事再生法の管轄下におかれて、いつ代金が支払われるか、会社再建の目途がたつまで、待たなくてはならないのです。このために、納品業者の中には、マイカルの店舗から、強制的に商品を引きあげるところもでてきます。

いちどこうなると、新規の商品が入ってこなくなり、マイカルの各店舗の現場は現金決済を迫られる場合もあります。言ってみれば、それまでの立場が180度逆転するのです。それまで、マイカルのバイヤーによって納品業者と価格が決定されていたのに、これからは、納品業者の理解なしには、店舗経営が成り立っていかなくなるということです。

面白いのは、テレビ・ニュースで、マイカル倒産が報道され、テレビ・クルーが、"サティ"店舗前で、大阪のおばちゃんにインタビューしていた時のことです。「マイカル、倒産したの知ってますか」とテレビ局。マイクをふられたそのおばちゃん。「えっ! 倒産。(店を振り向いて)やっているやん?!」と不審そうな表情をテレビ・クルーに投げかけて去っていきました。

拙宅からもサティの甲南山手店が遠望できます。たしかそこも不採算店で、閉店候補のひとつだったと思います。不況がじわじわと迫ってきます。しかし神戸がこれ以上、不況になるということはどうなってしまうのでしょう。まるでかつてのフランスやスペインのように失業率が10%台になってしまうのかもしれません。

660-9月13日(木)
帰宅してから、インターネットのウェブ上で公開されているニューヨーク・トレードセンターへの旅客機激突シーンを何度も見ていると、空恐ろしさだけが残ってしまいました。

今回衝撃的だったのは、双子ビルの両方ともが、破壊されたということです。象徴的な意味を狙うのでしたら、一棟だけでもいいのですが、二棟とも破壊したことに、テロリストたちの確固たる意思と、米国に対する憎悪の深さを読むことができます。

インターネットを探っていると、マスコミではない、ネットによる情報が入ってきます。たとえばて二週間前に、世界トレードセンターに行ったという人の話ですが、どちらかの棟の上部にある展望台に登る際、エスカレーターの入り口で、すべての入場者の写真を撮っている人がいるというのです。写真を欲しい人は見学した後で、購入するもので、強制している風ではないということ。これは明白なテロ対策ではないかと、その人は推論しているのです。

テロリストはかつて同じビルの地下で車を爆発させ、破壊しようとして失敗した経緯があります。写真撮影はその予防策かもしれません。しかし、一度失敗しても徹底してもう一度狙う、しかもどちらかが失敗してもいいように、二機で狙う。この執拗さはいったいなんでしょう。

かつてのテロリストは、思想に裏付けられた革命論者でした。しかし、イデオロギー対立の時代が終焉した今、世界を変革する意思を持つ団体は、宗教と民族といういままで、マルクス・レーニン主義から封印されてきた勢力とパトスです。

ブッシュ大統領は「21世紀最初の戦争を見た」と言っています。アメリカ市民にとって、今回のテロは、パールハーバーよりも、アンフェアで(ずるく)、卑劣な行為であるはずです。アメリカを怒らせてしまったようです。

しかし今度の敵は、国家ではありません。20世紀型戦争であれば、国家を敗北させることで、指導者を換え、戦争を起こした国家の意思を剥奪させることができます。しかし今度の敵は、"イスラム・ネットワーク"という今までなかったタイプの敵であり、たとえ、テロリストの首謀者を逮捕・抹殺できたとしても、リゾームのように拡がるイスラム・ネットの反グローバリズムを根絶させることは出来るのでしょうか。
659-9月12日(水)
今日も引き続いて、ニューヨーク・ワシントンへのテロ事件の続報で、電波・新聞ともマスメディアは埋められています。

最近、大事件となると、コメンテイターとしてマスコミに引っ張りだこなのは、中東やイスラム社会を専門に研究している人たちです。Japonの人たちにとっても、馴染みの少ないイスラム世界については、こうした専門知識を持っている人でないと、正確な分析が出来ない状態がずっと続いているということです。Japonがイスラム世界と接触が少ないことの証拠でしょう。

しかし本当に、多くのマスコミが取り上げているようにウサマ・ビンラーディーン氏が主犯なのでしょうか。アメリカを中心とした西側のマスコミは、すでに既定事実として、動き出しているような感さえあります。

またマスコミが繰り返しパレスチナ住民がテロ成功に喜ぶ姿を流すことで、すっかり彼らが"犯人側"にいるという印象を持ってしまっています。イスラエルがこの時を利用して、パレスチナ住民を"鎮圧"し、今日何人かの新しい犠牲者も出ているようです。

今回のテロで多くの犠牲者が出たのは、痛ましいことですが、これを正義の戦いとするアメリカ側の意見も、そのまま正直に受け止めがたいものがあります。なによりアメリカは軍事大国です。今回のように、多くの人の前でテロが行われた明白さとは、裏腹に、アメリカはこれまで見えない形で多くの"国家テロ"を行ってきた国です。

経済人がなによりも心配するのは、世界貿易センターに集まっている金融センター的な機能が不全状態になってしまったことです。Japonの株価は10000円を切り、下げ止まっていません。そしてアメリカの株価が、マーケットが再開すると、どのような値動きになるのか、全く見えてきません。

また、アメリカが報復を宣言することで、EU各国と同盟国Japonを含めて、世界全体が、戦争に向かうという暗い時代に突入したことを意味します。しかし今度のアメリカの相手は、明確に所在が分かる国家ではなく、いわばイスラム・ネットワークが"敵"となるのです。アメリカはこのサイバー戦争をどのように闘うというというのでしょう。

658-9月11日(火)
たいへんな事件が起きました。

アメリカのニューヨークとワシントンで、ハイジャックされた旅客機が、世界貿易センターピルとペンタゴン(国防総省)に突っ込み、さらにもう一台ハイジャックされた旅客機がペンシルバニア州で墜落しています。この墜落した旅客機はどこを目指していたのでしょう。ひょっとして、ホワイトハウスか、連邦議会議事堂かもしれません。

この大規模テロを起こした犯人はいまだ誰か分かっていません。強大国アメリカに敵対している陣営の仕業であると、マスメディアは伝えています。世界貿易センタービルは、ツインビルで、マンハッタン島の南端に位置し、繁栄するアメリカの象徴的存在でした。Japon企業も多く入っていて、犠牲になった人もいるようです。

テレビでは何度も何度も、角度を変えて、二機目の旅客機が、ツインビルに突っ込んでいく瞬間が写され、さらにツインビルが倒壊していく瞬間も写されています。これは映画の特殊撮影でも、CGでもなく、実際にアメリカで起こっいてる実写なのです。

高層ビルは、棒が倒れるようにバタンと倒れるのではなく、ぐしゃんと垂直に潰れてしまうのです。ゴジラ映画を見慣れている身にとっては、もうそれだけで驚きです。また高層ビルが旅客機一機だけで、あんなに簡単に潰れてしまうなんて信じられないことです。しかもあっと言う間に潰れてしまいました。

命からがら同ビルから逃げおせた人の発言によりますと、30階から1階に非常階段で降りてくるのに、1時間以上かかったそうです。またハイジャックされた飛行機の乗客は全員死亡の可能性が語られています。

これは超大国アメリカに対する宣戦布告です。かつてアメリカに戦争を挑んだスペインもJaponもこれほど強力に、アメリカ本土の中心部分に打撃を加えることはなかったのです。米西戦争では、新大陸勢力が初めて旧大陸のヨーロッパ国家をうち負かしたことで、有名なのですが、スペインは殆ど戦果をあげることなく敗退。戦後、最後の植民地であったフィリピンを奪われ、これによって海外のほとんどすべての植民地を失ういうスペイン帝国史上、最大の屈辱を味わうのです。

Japonもアメリカ本土を攻撃したことがあります。"イ号潜水艦"が、西海岸を砲撃し、また偏西風に乗せた風船爆弾で、一時西海岸の住民をパニックに陥れたことはありますが、今回ほど大胆に打撃を加えたことはありませんでした。

人によっては、第三次世界大戦の始まりを危惧する人がいます。戦争が行われることで、悦ぶ人たちもいることは事実です。世界貿易センタービルというアメリカそのものが、世界中の住民が見守る中、破壊されたことは、ひょっとして、この破壊を機に"パクス・アメリカーナ"が終焉する象徴的な出来事になるかもしれませんし、力強くアメリカ経済・国力が再生するバネとなるかもしれません。

しかしアメリカは、国家としてはマチスモの傾向が強く、国家の中枢を"コケ"にされて黙っていることはないでしょう。この国は、勝ち続けていなければならない国家なのです。それが21世紀になって初めての年に、恥をかかされたのですから、武力による報復は必ずあるでしょう。

今回のテロを起こしたグループは、グローバリゼーションという名のアメリカ化に抗う地球最後の軍事勢力かもしれません。アメリカにしてみれば、これを機に、地球全体をグローバリゼーションによって支配するためには、徹底して攻撃してくるでしょう。スペインは19世紀末にアメリカに屈し、Japonもまた20世紀なかばにアメリカに全面屈服しました。今日、アメリカの中心部に突っ込んだ"21世紀のカミカゼたち"もまた、われわれのように、いずれアメリカに屈服するのでしょうか。

657-9月10日(月)
カルメンの定休日。

夏の疲れで、昼近くまで寝ていました。どうやら台風15号は関西直撃を免れたようです。

昼過ぎから、FMわぃわぃ「南の風」の番組準備。今日は、奄美島唄専門レーベル"JABARA"から出された新譜「うたの果実」の特集です。唄うは、奄美大島笠利町出身の中村瑞希さん。まだ22歳という若さです。この人はすでにJABARAからファースト・アルバムを出しています。"Island Girl"という名です。

拙宅を出ようとした時、風が強くなっています。長田の局に着いた頃には、プレハブ仕立ての局舎が、ごおんごおんと、風と共に揺れています。災害で生まれた放送局が災害(風害)で潰れたなどとは冗談にもなりません。

「南の風」はおかげさまで、放送6年目に突入。FMわぃわぃの編成においても長寿番組の末席を汚しています。長田区には奄美出身者が多く、徐々にリスナーが増えていっているようです。奄美篇を担当する者にとって、これほど嬉しいことはありません。

番組終了後、珍しく、鷹取ではなく、新長田まで歩いて帰りました。そう遠い距離ではありません。一杯、Bar de Japon(=立ち飲み屋)でひっかけたいなと思っていたのですが、拙宅を出る時、「今晩は"飲み会"したらあかんよ」と娘にたしなめられていたので、まっすぐJRに乗って帰ることにしました。このところ、ずっと月曜日の夜は友人たちと"飲み会"をしていたのです。

帰宅してみると、東灘区は見事な夕焼け空でした。茜色。こんなに綺麗な夕焼けをしみじみ見る機会は、めったにありません。携帯メールから何人かの友人に「みなさん、夕焼けがきれいです」と打ったのです。

656-9月9日(日)
昼の休憩時間を利用して、スペイン映画「GITANO(ヒターノ)」を観てきました。

主演はあのホアキン・コルテス。不世出のフラメンコ・ダンサーです。ところが、筆者の情報が不足していたのか、彼の素晴らしいダンス・ステップを充分見られると思っていたのが、演技に徹し、一度もフラメンコを踊らない映画だったのは、正直いって肩すかしでした。

サルサ監督の「フラメンコ」や「カルメン」のように、フラメンコを中心とした踊りの映画だとばかり思い込んでいたのです。

物語が進行していくと、ヒターノの"掟"に翻弄される元ミュージシャンの苦悩が描かれている内容の作品だということが分かりました。ホアキンは、2年の刑務所生活から出たばかり、出迎えたファミリアは、ホアキンの従兄弟の敵討ちを決意します。

映画の出来としては、ちょっとB級っぽいノリです。映画に出てくる"いい女"がすべてホアキン・コルテス演じるアンドレとベッドを共にするなんていう内容は、かつてみた「ハモンハモン("いい女"という俗語)」と似ていて、スペイン的です。(まあ、その女優たちの肉感的な身体つきは、すべてmuy buenaでしたが)

また"掟"なんていう時代遅れのタームを持ち出しても、外国人であるわれわれには、説得力にかけるところがあります。携帯電話が登場する作品です。ヒターノのファミリアに"掟"は実在するのか半信半疑になってしまいます。出てくる二つのファミリアのドンは、いずれもスペイン版ゴットファザーのようで、時代錯誤を感じます。「ほんまに今のヒターノはあんなん?」と思わず疑ってしまいます。

ヒターノとしてのマチスモを充分に演じようとしているアンドレ。ヒターノ社会が持っている独得の価値観があるにせよ、少し演出されすぎているといった印象が残ります。

ただ、この映画、バックに流れている音楽が素晴らしい。パンフレットには誰も書いていませんでしたが、筆者が確認したところによるだけで、"トマティート"、"パコ・デ・ルシア"、"メカノ"、"ロサーナ"などなど、とにかく凄いミュージシャンたちです。こういうところは、さすがホアキン・コルテスが出演する映画です。
655-9月8日(土)
〈カルメン 01年 秋の俳句徘徊 no.15〉

・神の寝しあとのこりおる花野かな   上野 泰

筆者は季語というのもを詳しく知りません。紹介句の"花野"が秋の季語にあるとは知りませんでした。イメージ的には春なのですが、コスモスなどが咲き乱れる光景を思い浮べばいいのでしょうか。

"神の寝しあと"とは大きな着想作品です。風かなにかで倒れて、花畑のとある広い面積が押されたようになっている。これを神の仕業にしたというのが、この句を面白い作品に仕立てているのです。

"花野"という風景は都会に住んでいては、滅多に見ることが出来ません。最近では人を呼び寄せる装置として、花園が設けられることがあります。かつて花園とは、有用植物の集積地であったはずですが、今は鑑賞のため、誘客のための人工的な装置であることが多いようです。それに魅せられて、虫と俳人たちが吸い寄せられてくるのです。

654-9月7日(金)
〈カルメン 01年 秋の俳句徘徊 no.14〉

・見て居りし鶏頭をるゝ野分かな    星野立子

今回から、〈カルメン 俳句徘徊〉も秋にシフトします。番号は季節と関係なく、通し番号で重ねていきます。また、この季節の変わり目は、筆者の独断で(=皮膚感覚によるもの)決めていきますので、『歳時記』と同一ではありません。

さて、ちょうどいまJaponに、二つの台風(野分)が接近しています。秋は台風のシーズンです。不思議なことに、野分を詠った作品に秀句が多いのです。やはり人智を越えた自然の猛威に、心感ずるところが大きいのでしょう。

紹介句は、野分の前まで見ていた鶏頭が、嵐が去った後、折られてしまっている風景を写生した作品です。鶏頭は妙に存在感のある植物で、野分で倒れたりするのか、との疑念が生じるほどの"確かさ"を感じる形状をしています。鶏頭も野分も共に存在感があります。それがぶつかって一方が以前の姿をなくしてしまう。いや、野分もまた姿を消すためにやってくるのですから、両者とも去っていく。万物がなににつけても、足早に去っていく。それが秋という季節かもしれません。
653-9月6日(木)
日経平均株価が10.000円を割り込むのは時間の問題のようです。

株価が下落すると、大手銀行の株式含み損は増加し、金融システム不安の再来にむすびつきかねない、との分析するメディアがあります。失業率が5%に達し、Japon経済は、危機に晒されています。

しかし、一方で、株価の動向は、経済に大きな影響力を行使する指標ではあるものの、全能の数値ではなく、投機という恣意性を考慮に入れなくてはなりません。筆者は経済の専門ではないので、突っ込んだ経済話は、できませんが、不況になった1990年代以降、この国はあまりにも株価に「一喜一憂」しすぎた感があります。

株価動向は"神の手"ではありません。大きな経済・国勢指標ではあるのですが、一国の経済・生活のすべてを決定してしまうほどのものでもありません。つまり筆者が言いたいのは、株式を決定しているのは、投機筋という専門集団であり、ひろく国民の意向が反映されているどうか疑問であるということです。

国内外の"株プロ"によって、株価の趨勢が決まっていくとすれば、広く薄い国民の投資者の意見がどれほど反映されているのか、ということです。つまり今のJaponの株式市場というのは、一般国民の感情が反映されていず、"市場"というヌエのような主体によって、決定されていることにならないでしょうか。

つまり、Japonの株式市場は、一般国民にいまだ充分にオープンになっていないのではないかとの疑問が起こるのです。もともと"投機"には賭博性、予測不可能性の要素があるにしろ、いまもって「訳知り人間の訳知りマネー」の域を出ていないような印象があるのです。これは筆者の数少ない経験から類推して発言していることです。

株式市場は"生き物"だと言われます。その国の経済健康度をチェックする指標ともなりうるのです。しかし、バブルを産み出し、巨利と虚利を産み出す場でもあるのです。国民の側からすると、金融システム不安の再来が騒がれることで、またぞろ公的資金という税金が、こともなげに大量に金融機関に投入されることに、「それでいいのか」という怒りにも近い感情が沸き起こるのです。

Japon経済は、今秋からまたさらに悪くなっていくのでしょうか。
652-9月5日(水)
新酒のシーズンとなりました。

カルメンにも少しずつボージョレー・ヌーボーの購入案内が届いています。少し前は、フランスが核実験を行ったために、フランス・ワインの不買運動が拡がったのですが、喉元過ぎれば何とやらで、またヌーボーものが人気を復活させているようです。

カルメンはスペイン料理店ですから、ボージョレー・ヌーボーを買うことは絶対ありません。スペインもまたフランス、イタリアについで世界で三番目のワイン王国。スペインのワインを揃えるだけで、充分すぎるほどに充足するのです。

有名ではありませんが、スペインにもヌーボーものがあります。"ホーベン=Joven"という階級で、まさに若飲みタイプのフレッシュさが売り物のワインです(赤も白もあります)。"ホーベン"は、フランスほどロットがさばけないのと、スペイン人自身、出来たワインを早く飲む嗜好性が強いとは思えず、じっくりとボデガス(蔵元)で熟成させるのが、伝統的なスタイルなので、いままで普及しなかったようです。

それでも、最近は、商品として"ホーベン"を開発するボデガスもスペインでぼつぼつ現れているようで、今後の展開に注目したいと思います。ただ、筆者もどちらかというと、日本人が"ヌーボー"ものに期待している"初鰹"的な初物喰い的興味とは一線を画したいとの思いがあるのです。やはりしっかりしたコセチャのワインを有る程度、店で熟成させ、飲み頃になるまで"育て"、お客様にお出しする。しかも出来る限り安い値段で提供して、スペインワインの魅力を十分に味わってもらう、というのがカルメンのワインのコンセプトなのです。

今日、スペインワインを専門に取り扱っている輸入業者"S"の人が営業にやってきました。同じ"スペイン"で飯を食っているので、なんとか商品を購入してあげたいのすが、もうひとつカルメンのワインコンセプトに合致したモノがなく、今回は見送ったのです。
651-9月4日(火)
午後9時、バイラオーラ二人とギターラ一人がカルメンへ。

11月15日(木)に、カルメンでフラメンコのディナー・ショーを行うことが決まりました。演ずるのは、"ラ・ペルラ"というグループです。これから少しずつ開催に向けて詰めていきます。具体的な内容がきまりましたら、カルメンのホームページでお知らせしていきます。

カルメン、ひさしぶりのフラメンコ公演です。皆さん、期待しておいて下さい。
650-9月3日(月)
カルメンの定休日。

アサヒシネマで上映されているスペイン映画「蝶の舌」を見てきました。時は1936年の冬から夏にかけて。場所はガリシア。主人公のモンチョは8歳。喘息がひどく小学校を1年遅れて入学したのです。

学校では先生から殴られると思い込んでいたモンチョは、入学初日、緊張のあまり失禁してしまうのです。学校から逃走したモンチョは、森の中に逃げ、捜索隊に発見されます。しかし学校で先生から殴られないことを知ったモンチョは、翌日から気を取り直して、学校へ通うこととなるのです。

年老いたグレゴリオ先生は、自由教育を施し、生徒達に豊かな想像力をもたせるような授業を展開します。モンチョはすっかりグレゴリオ先生の授業が気に入ったのです。

スペインは当時、激動の時代でした。1936年、人民戦線陣営が、総選挙で勝利し、共和国を樹立します。しかし、保守的な風土のガリシアでは、人民戦線=共和派を快く思わない人たちが、多く、グレゴリオ先生のような共和派は徐々に追い立てられるのです。

7月、フランコがアフリカのモロッコで叛乱を起こすと、またたく間に、アンダルシア、エクストラマドゥーラ、ガリシアといった地域は、フランコ陣営に制圧されます。すぐに共和派への徹底した弾圧。グレゴリオ先生や、共和派の拠点だったバルの主人や常連客、モンチョの兄が属している楽団のアコーディオン弾きといった人たちが次々と逮捕されてしまいます。モンチョの父は、共和派なのですが、フランコの叛乱を知るや、教会通いをする母がポスターや党員証を燃やしてしまいます。そして次の日曜日、保守陣営の拠点である教会へ家族そろって出かけるのです。

ラストシーンはなんとも切ない内容です。
広場に集まった人たちは、検挙された共和派の人たちに罵声を浴びせます。そうすることで自分がフランコ側についていることを証明しなければならないからです。モンチョの父ラモンは、生きていくために、母ローサに強制されて、グレゴリオ先生に向けても、罵声を浴びせます。"Roco!(アカ)"、裏切り者!  この時の父ラモンのなんとも哀しい顔。

そしてもっと切ないのは、モンチョは共和派を載せたトラックに向けて、石を投げつける子どもの群に加わったことです。この時のモンチョはひとりの少年ではありません。当時のスペイン人の心の弱さであり、スペイン人の心の痛みなのです。グレゴリオ先生は、石を投げる子どもたちにモンチョを見かけて、ただただ驚きの表情を浮かべるのです。

筆者は思わずラストシーンで涙ぐんでしまいました。いい作品です。

・・・・
この日夕方から、友人と中川成海氏のところに伺ったのです。

649-9月2日(日)
昼間、大阪へ行き、ある"句会"をのぞいてきました。

俳人の堀本吟さんが主宰している「北の句会」というもので、面白いことに、川柳の人と俳句の人が交じって句会をするのです。このおなじ五七五の定型詩は、共有するところが多く、両者の区別は難しいといえば難しいのです。

勿論、伝統俳句の人たちからすれば、俳句としてなりたたない作品がおおいのでしようが、俳句というジャンルにこだわらず作品を作り続けることこそ大切なことでしょう。

この句会は二カ月に一回開かれています。

648-9月1日(土)
今日は解放記念日です。

ようやく永かった夏休みも終了しました。

とはいっても現実には本日未明までかかって、子ども達の宿題の面倒をみていたのです。子ども達というのは、恩を感じない生き物です。依存させすぎなのでしょうか。最後まで面倒を見るよう要求してきます。ラストスパートをかけている時に、ふとバカらしく感じてしまいました。それとも親の方が子離れしていないのでしょうか。

始業式だけなので、帰宅した子どもに聞いてみると、宿題を出さない生徒や、もともとやる気のない生徒もいたりして、そうした家庭には、拙宅のような夏休み終了一週間前のような怒号が飛び交う雰囲気はないのでしょう(その方が平和に決まっているのですが)。

ともかく今日は父と母が解放された"光復節"です。今晩は、筆者のお好みである"X-file"のビデオでも見ようかと思っています。

647-8月31日(金)
あしたから9月です。

こういう暑い年は急にある日から涼しくなるものです。

あと一日。子ども達も親もいま必死に夏休みの宿題を仕上げていることでしょう。親の立場からすると、早く夏休みが終わって欲しいものです。まあ、神戸の公立中学校は弁当を作らなければならないので、親は早起きして台所に立つことになります。

ようやく長かった夏休みも終わります(筆者は今晩、宿題の仕上げにラストスパートをかけます)。

646-8月30日(木)

〈カルメン 01年 夏の俳句徘徊 no.13〉

・水桶にうなづきあふや瓜茄子   与謝蕪村

もっと頻繁にこの俳句シリーズを書こうと思いましたが、結局は13回で終了ということになります。来月からは〈カルメン 01年 秋の俳句徘徊〉シリーズを始めようかなと思っています。もしよければお付き合い下さい。

蕪村らしい視覚的で分かりやすく、諧謔性にとんだ秀句です。夏の清涼感がよく出ていて、思わず何も造作をしなくていいから、その水桶に入っている瓜茄子を"むしゃ"とかぶりつきたい衝動にかられます。私ごとですが、瓜の漬け物が大好物なのです。これは母が毎年つくっていたものが、いつのまに、好物になっていたのです。漬け物など滅多に食べない筆者ですが、これだけは例外です。

暑い夏が過ぎると、この暑さの中で頑張って成長した果物などが、秋に我々を待ってくれていると思うと、わくわくしてしまいます。
645-8月29日(水)
「つくつくほうし、鳴かないねえ」。

筆者の拙宅での朝の会話です。たしかに、今年は拙宅のすぐ隣の公園でつくつくほうしの鳴き声を聞きません。例年なら、うるさいぐらいに鳴いて、長かった夏の終焉を感じるのですが、おかしなものです。

それでも長女に言わせると、先日祖父らと行った奈良公園・東大寺では、つくつくほうしばかり鳴いていたようです。この蝉の鳴き声、人・地方によっては「つくづく惜しい」と聞く人もいるそうです。
644-8月28日(火)
携帯電話をリニューアルしたので、ストラップも変えました。「千と千尋の神隠し」に出てくる"おしらさま"にしたのです。これは素っ頓狂な神様で、東北地方にいる大根の神様のようです。赤い褌に、手ぬぐいを持って福々しい身体をのっしのっしと歩く姿はユニークそのもの。筆者はすっかりファンになってしまいました。宮崎駿の造形力はたいしたものです。

この映画、まだ開始前には並んでいる人気作品です。筆者は今日ストラップだけを買いにいったのですが、さすがに"湯婆婆"は売り切れていました。人気があるのでしょうね。

"おしらさま"を付けてから、友人・知人の区別なく「ねえねえ、これ知ってる?」と見せびらかしているのです。なんとも単純な性格です。

643-8月27日(月)
カルメンの定休日。

拙宅はこの週から戦場です。
子ども達が夏休みの宿題の追い込みに入っているために、家全体がピリピリしているのです。筆者も当然"分担"があって、登校日までしあげる科目を何度も確認して、夜遅くまで、子ども達にアドバイスなどをしています。

午後からはFMわぃわぃ「南の風」の番組準備。本日は夏のいやし系島唄と題して、聞きやすい島唄を特集して届けます。トリを飾るのは、坪山豊さんがパイプオルガンと競演した「綾蝶(あやはぶら)」。これは絶品です。この他、最近、奄美出身の若い唄者が新感覚で、ヨイスラ節などをアレンジしています。奄美ポップスも結構面白い動きがあるのです。

番組終了後、東灘区に帰り、"ごんざ"という居酒屋で飲み会。元正章氏、高嶋正晴氏と痛飲。この店に無理を言って黒糖焼酎を置いてもらっています。ここはいつもお客さんに、魚を持ってきて、どう調理するかも含めてアドバイスをします。われわれが選んだのは、トビウオ。塩焼きにしてもらいました。

帰宅後、再び、宿題へのアドバイス。しかし途中で眠ってしまい、気付いたのは明け方の午前5時でした。
642-8月26日(日)
珍しく雨の一日です。

筆者の子ども達は、祖父の家に。夏休みの工作のアドバイスをしてもらうためです。今日など、三宮でも江坂でも東急ハンズの夏休み工作コーナーに行けば、親子ずれで殺気だっていることでしょう。夏休みはあとわずか。神戸市の公立中学校は、登校日に宿題の約半分を提出しなくてはならず、子ども達は(親も含めて)必死なはずです。

641-8月25日(土)
昼間、関西大で開かれた「国民国家と民族文化」研究会をのぞいてきました。ベネディクト・アンダーソンの「国民国家論」に刺激されて、さまざまな言説が展開されています。この研究会は、岸政彦氏が主宰している勉強会です。いずれ筆者もテーマを絞って発表したいと思っています。

スペインもいわば近代国家のひとつですので、スペインという国の実態とスペイン人という表象が実在します。国民というすり込みは、戦争を経験することによって、内化・深化する傾向があることを考えると、スペインの場合は、1936年から1939年にかけての内戦がそれに該当するのでしょうか。

しかしこの契機はあまりにも不幸です。「ロルカ--暗殺の丘」という映画を観ていると、スペインでは内戦が終わった後が、大変だったようです。徹底した"左狩り"が行われて、それは凄惨なものだったようです。スペインという風土が持っている"闇"の部分でしょうか。なにせ、「魔女裁判」がヨーロッパの最後まで残っていたという歴史を持っているのです。

スペインでは長期にわたるフランコの独裁政権の中央集権化のせいでしょうか、現在は各地方の自治意識が強い傾向にあり、バスクには分離独立傾向が顕著で、テロリズムもやんでいません。スペインにおける「国民国家」の現状と行く末は、明るくないようです。

640-8月24日(金)
午前9時、拙宅において、キリスト教の「説教会」が行われました。

「説教」をしてくれたのは、関西学院大学神学部の大学院で学んでいる元(はじめ)正章さんです。元さんは、53歳で牧師になるべく大学院に入学した人です。まだ牧師の資格を得ていないので、括弧つきの説教です。

説教の練習につきあったのは、筆者と次男と長女です。和室で座卓を説教台にしたてて、30分間。本日のテーマは、"放蕩息子の帰宅"です。牧師という職業の人は、毎週日曜日の朝、なにがあろうとも信者の人に、説教をするというのが仕事なのです。

話の内容には必ず聖書の一節が引用されます。説教はあくまで、聖書や神の愛を信者の人に伝え、共有するものなので、自分の体験談や人生訓は控えめに言わなくてはなりません。

以前にも、元さんの説教を聴いたことがありますが、少しずつ"語り"が上手になっていくのが分かります。筆者はキリスト教信者ではないのですが、定期的に彼の説教を聴く機会を持ちたいものです。

639-8月23日(木)
読書といえば、同居人の女性(妻)が読む本の変遷がとても興味深いのです。

つまり子ども達の成長にあわせて、本の内容が変わっているということです。幼稚園や小学校低学年の時は、もっぱら絵本。高学年になると、児童文学とよばれる書物、そして一番上が中学に入ると、新書や文庫の部類、または一般書にステップアップします。つまり読書内容が年々高度化・専門情報化していくのです。まあ、これは自発的な読書傾向ではなく、子ども達の加齢とともに対応しているという現実対応なのですが、今年は"ゲノム"についての解説書を読んでいます。

1年前なら"ゲノム"といったって、何のことやらさっぱり分からなかったでしょうが、今年はなんと解説書を2冊も読んで、子ども達に説明できるほどになっているのです。スゴイ。この"ゲノム"のテーマは、筆者がもともと中村桂子さんが唱える"生命誌"の本を読んできたからに選んだのですが、キッカケはどうあれ、年々高度な最先端の情報に触れることは、素晴らしいことです。

*  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *

本日、午前7時25分ころ、朝日放送の「おはよう朝日です」に、カルメンが紹介されました。筆者もひとことだけの出演です。パエリア、ガスパッチョ、アサリの白ぶとう酒いための三品が紹介されました。筆者はこの番組を20年前に見ていたのですが、番組の"のり"が、20年前と似たようなところがあって、驚きました。相変わらず、若い女性が電子オルガンを弾いて時刻を知らせるのですね。今、オルガンとは本当に珍しく、てっきりシンセサイザーかと目を凝らして見ていたのですが、やはりオルガンでした。

ただ、20年前と違っているのは、この番組が生放送なので、生の緊張感が、筆者にもイヤというほど伝わってくるということです。といいますのは、筆者もFMラジオ局で、55分間の生番組を担当しているために、何が起きても次に進むしかないという生ならではの切迫感があり、番組を見ているだけの立場ながら、胸の高まりを抑えることが出来ませんでした。因果なものです。
638-8月22日(水)
ドキリとしました。

筆者の家で、家族全員が読書をする光景を集中的に見ることが出来るのは、夏に決まっています。筆者はもともと読書が好きで、一年中読んでいて、本を読むというのは、空気を吸うと同じくらいの行為なのですが、他の家族は筆者ほど熱心に読書しません。

筆者がドキリとしたのは、次男が読書する姿勢が、筆者とそっくりであることを発見したからです。つまり本を片手で持つときの指の位置が、父である筆者そっくりなのです。これは本当にビックリしました。この指の格好は、実は母方の祖父譲りなのです。この祖父は古書肆を経営していました。

遺伝とは恐ろしいものです。

637-8月21日(火)
携帯電話を"機種変(きしゅへん)"しました。

筆者はNTTドコモの携帯電話を使っています。買って1年。メール機能をよく使うので、ボタンがそろそろシャープさを失っていきます。まだ使えるのですが、ドコモショップに並んでいる新機種が0円になったことで、思い切って、機種を変更しました(これを通俗的には、"きしゅへん"と言い習わします。ちなみに事務手数料は2000円必要です)。

新しい携帯は、"i アプリ"という機能が付いているのですが、もうひとつ興味が湧きません。着信音も格段の進化があるようですが、なぜ若者達がかくも着信音に凝るのかこれも分からず興味がないのです。さらに動くメールや、ゲームをダウンロード出来るというのですが、これらについても全くの関心外です。

筆者にとっての"進化"は、メール機能について集中します。例えば、単語登録が100字まで出来るようになったこと、メールを複数に送る際に、少しだけ操作が楽になったこと、電話帳機能が充実したこと、などなどが切実なこととして、新機種の"進化"を楽しんでいます。

636-8月20日(月)
カルメンの定休日。

長女と映画「千と千尋の神隠し」を見てきました。
面白い作品でした。さすが宮崎駿です。始まってから一度も緊張が途切れることなく、最後まで楽しく鑑賞できたのです。

宮崎作品は、「もののけ姫」の場合もそうですが、民俗学や文化論などの側面から様々な読みが出来る魅力があります。今回も、双子の魔女が、一方では西洋スタイルのオーソドックスな生活スタイル(銭婆)と、こてこての和洋折衷生活の中に生きている湯婆婆といったあざやかな対象を描きだしています。

出てくる神様はJaponに関係が深く、銭婆が使う魔術でさえ、阿倍晴明が出てくるなど、"ごった煮"的な楽しさがあります。

この映画は10歳の女の子のためにつくった、と宮崎は言っています。ちょうど長女の年頃なのです。彼女はどのような感想を持つのでしょう。

635-8月19日(日)

本日は、第四回「ロルカ詩祭」が行われた日です。

今回は清水昶氏をゲストに迎え、マチネ形式で午後1時からスタートしました。第一部は、筆者の司会によってまず皆様にご挨拶。次に詩人の福田知子さんが「ロルカ詩祭」をする意味などを手際よく説明。"お盆"に近いこともあって、神戸の人間たちへの鎮魂の意味合いが深いイベントであることも言及されました。

第一部は、ロルカ詩の朗読です。トップは、小学3年生の紗奈ちゃん。朗読のバックには、ギターと琵琶が尽きます。琵琶は、川村旭芳さん。8歳のころから始めているそうで、今では若くしてお弟子さんのいる身。本日は薩摩琵琶を中心に演奏します。この琵琶の音が評判を呼びました。もともと琵琶は"語り"を伴う場面が多く、Japonの人にも耳慣れていることもあり、抑制の利いた奏法の効果もあり、好評でした。

少しの休憩をはさんで、第二部。これは詩人たちが自作詩を朗読する時間です。詩祭も回を重ねていくと、朗読者も上手になっていきます。今回は、常連の大西隆志氏が欠席なのは残念なのですが、東京から清水昶氏が来神。「赤ちゃん達の夜」を朗読。低く良く通る声での朗読は、かの吉増剛造も耳をぞばだてたというぐらいですから、その魅力のほどは理解していただけると思います。

今回の詩祭は、神戸日西協会と、スペイン大使館の後援をいただきました。あらためて両機関に感謝いたしたいと思います。スペインは、ロルカが生誕100周年を迎えた時、国をあげて、ロルカを顕彰し、生地であり終焉の地であるグラナダにて行われた祝典には、国王も列席するという力の入れようでした。フランコ時代は、ロルカの名を口にしただけで、秘密警察が飛んできたことを考えると、隔世の感です。

ともかく今年も無事にロルカ詩祭は終わりました。昶さんは起きている間、ずっとお酒を飲んでいました。愛すべき人です。昶さん、あんまり無理しちゃダメだよ。

(上写真は、詩祭が終了した時の出演者の集合写真です)

634-8月18日(土)
ロルカ詩祭のために、東京から詩人の清水昶氏が神戸にやってきました。これは、この詩祭出席のためだけに招聘したもので、昶さんは指定した新幹線に乗って、午後6時20分に新神戸駅に現れました。

何年ぶりの再会でしょうか。60歳を少し越えたばかりなのに、老人の気配が漂っています。「ぼくね、背中の手術をしてから、ちょっと猫背になっちゃって、時々シャンと背中伸ばすようにしてるんだあ」。

三宮周辺のホテルに荷物を置き、カルメンに向かいます。詩誌『メランジュ』の同人の人たちが、迎えてくれて、歓迎の宴です。筆者も参加です。昶さんと筆者とは大学が一緒だということもあり、共通の話題もあります。

633-8月17日(金)
明日、神戸にやってくる清水昶氏のために、インターネットを使って、ビジネスホテルを予約しました。手続きは簡単です。相手が要求する書式に書き込んでいくだけで、アッという間に終わってしまいます。手続きが終了すると、IDコードが示され、それを覚えておけばいいのです。

しかし、本日、少し不安になったので、ホテルに直接電話をしてみました。するとちゃんと予約は通っていました。時代は変わるものです。しかも、インターネット予約すると、10%から20%の割引があり、さらにお得です。インターネットには人件費がかからず、24時間可能だし、諸手続きはお客さんがやるのですから、ホテル側にとっても、プラスなはずです。

最近、航空チケットや旅行をインターネット予約する人が増え、旅行業界に異変が起きていると言われています。カルメンは年に一回、社員旅行をします。今年はインターネットを使って、予約してみようかと思っているのです。

632-8月16日(木)
カルメン、休みの日です。

関西は暑い暑い日々が続きます。どうやら東京は早くも秋の気配が漂っているようで、同じJaponでも、東西で気候が違うものです。

今日は一日、あまり移動せず拙宅周辺で行動しました。昼間はジリジリと暑く、昼食の時、ビール(発泡酒)がたまらなくうまく、2缶もあけてしまいました。そして少し昼寝。一番、家の中で涼しいところを選んで扇風機をかけっぱなしで眠たはずなのですが、ぐっしょりと汗をかいてしまいました。

そしてそろそろ夏休みもおしまい。魔の宿題手伝いの季節到来です。これから半月、9月1日がやってくるの待望しながら、必死の思いで耐えていくのです。今晩は、長男の番。社会科に提出する材料と書く内容をアドバイスするのです。これが結構、面倒でややこしい。いい加減自分で判断してやってくれと思うのですが、なかなか離してくれないのです。あ〜あ、地獄の責め苦です。
631-8月15日(水)
敗戦記念日。

午前11時から、朝日放送のテレビ取材が入りました。

「おはよう朝日です」の番組用で、ディレクター、タレント、カメラとその助手、AD(アシスタント・ディレクター)など含めて総勢6名。テレビ・クルーというのは、いつも思うのですが、所帯が多いのでびっくりしてしまいます。筆者のようにラジオですと、何をするのも一人でしてしまうので、身軽なものです(ただ、NHKラジオは、東京からディレクターとアナウンサーが出張してきました)。

番組で紹介されたのは、5品。パエリア、ガスパッチョ、あさりの白ぶとう酒いため、うなぎ稚魚のオリーブ油いため、オムレツ(トルティージャ)といった品々です。

撮影はたっぷり2時間。スタッフの皆さん、お疲れさまでした------マスコミの電波媒体はおおよそロケハンを一回必ずいれます。外部スタッフが来る時もありますし、番組スタッフが来る場合もあるのです。テレビもラジオも同じですが、収録より編集の方が大変です。収録はむしろ材料を揃える段階ですが、それを媒体に載せる時の編集に時間がかかるのです。

さて、収録です。料理を一品ずつ出して、カメラに収めていきます。そしてタレントの女性が食べて、コメント。そして筆者の台詞はひとこと。「スペイン料理といえばやはりパエリアですね」。

番組放送は、8月22日(水)午前6時45分から午前8時までの時間帯に放送されます。ご期待下さい。
630-8月14日(火)
きのう、小泉首相が靖国神社に参拝。内外に賛否両論の意見が満ちいています。

死者に対する鎮魂は必要です。阪神大震災で一瞬のうちに即死した何千人の人たちの"いのち"を思うとき、あの人達の鎮魂をしていくことが、震災で生き残ったわれわれの神戸の人間の責務です。同様に、「太平洋戦争」で亡くなった人たちの鎮魂をするのは、戦後社会に生きるわれわれの仕事です。

靖国神社は、戦前は国家神道の一大聖域でした。ここに祀られているのは、軍人が中心であり、空襲や沖縄で死んだ一般人の"魂"は祀られていません。先の戦争で"犠牲"になったのは、軍人ばかりではないことも確かです。軍人は「お国」のために死んだのですから、国家が永続的に祀ることが当然でしょう(たとえそれが侵略戦争であっても)。しかし靖国神社には、軍人を含めたすべての犠牲者を祀る資格はありません。そこは一宗教法人にすぎない存在であり、戦前の国家神道の姿をそのまま留めている"超国家主義"の亡霊だからです。

しかし靖国神社でないと、近親者の死者を弔うことが出来ないという人には、靖国神社を使ってもらうしかありません。戦後56年も経過して、Japonの国民全体の犠牲者を弔う施設を、持てなかったのは、われわれ国民の想像力の欠如かもしれないのです。自民党の閣僚の大半が、敗戦記念日を前後して靖国神社を参拝します。それは、靖国で死者を弔うという一つの"真実"だけを選んだ人たちです。先の戦争で、Japonがアジアに対して徹底した加害国であること、今でもアジア諸国はJaponに対して、警戒心をゆるめていない現状を考えること、国際社会に生きるために参拝を自制すること、などといういくつかの"真実"が見えない人たちです。

629-8月13日(月)
月曜日ですが、"お盆"期間中なので、カルメンは営業しています。

筆者の子ども達は、親戚の家やら合宿でいっせいに神戸を離れています。
次男は関東の親戚のところへ。新幹線に乗っての一人旅です。東京駅で迎えにきてくれるはずが、首都高速がお盆にもかかわらず混んでいて、東京駅のプラットフォームに着くのが遅れたそうです。次男はすぐ神戸の自宅に電話を掛けてきました。さぞ不安だったにちがいありません。

その親戚宅は、埼玉にあり、ザリガニ捕りや、クワガタ捕りも、少し足を運べば可能な自然豊かな場所です。こうした環境で育つ子ども達は幸せです。しかし裏をかえせば、こうした自然に恵まれた場所に住むということは、都心の勤務地まで通勤に時間が相当長くかかるということです。その家の"お父さん"は毎日片道2時間をかけて通勤しているそうです。

筆者も大学時代、浦和市(現・さいたま市)に住んでいた親戚のところへ、よく行きました。かの地は神戸と違って、関東平野のど真ん中なので、山を指標にしてどこかを目指すと言うことは不可能です。こういう風土に住むと、自分と"場"を測る尺度というのは、何をもってするのでしょう。神戸の人たちは、海と山という便利すぎる自然の尺度に寄りかかりすぎているので、土地=場を見極める勘を養う努力をしないのです。
628-8月12日(日)

〈カルメン 01年 夏の俳句徘徊 no.12〉

・天界に散華(さんげ)きらきら蝉の昼    山口誓子

蝉の声のかしましさは、夏にその身を置いてみないと実感できないものです。よくもまあ、このJapon列島の木という木に蝉がいるものだと関心してしまいます。夏という季節は、人間の立場から叙情的に宣告するものではなく、強い他者性によって決まるものなのですね。

この句、しゃんしゃんと蝉が集団で鳴いている樹ごしに"天界"=空を眺めあげていると、夏の強い日差しが、散華したように、乱反射しながら、蝉の鳴き声とともに、降りそそいでくる----といった光景を詠ったのでしょうか。蝉という即物的な存在を、天界という大きなスケールにぶつけて、眩暈している様子が見えてきて、さらに自己を包みこむ蝉の生命力の強さに驚いている様子もこの句から感じることができます。

蝉の王国はしかし、盛時に"タナトス"を垣間見せています。ここ数日、路上にて蝉の死骸を多く見かけるようになりました。

627-8月11日(土)
いま、日本海、特に鳥取県東部の海水浴場が大騒ぎになっています。筆者も石川県塩屋海岸で海水浴をしている時、沖合を常に監視していました。

鳥取県白兎海岸で"わに"が出たのです。出現した場所があまりにも象徴的な場所だったために、一挙に全国ニュースとなってしまいました。

かつてこの日誌で、因幡の白兎にだまされなかった"わに"は、果たして鮫だったのか疑問を呈したことがあります。新聞報道ではいとも簡単に、古事記の表記の"わに"は、因幡・出雲地方では"さめ"の意味であると、何の疑問を挟まず断定しています(やはりマスメディアは紋切り型の"常識"で成り立っているという好例でした)。

しかし、司馬遼太郎をはじめ、何人かの識者が〈わに=さめ〉説に疑義を呈しています。その論拠となるのは、豊玉姫の産屋における出産シーンでの"わに"は、決して"さめ"だと転じられていないこと、古代においては"わに"も黒潮の支流にのって実際、日本海側に達していたのではないかという推測を紹介。筆者は、18世紀に奄美大島住用村のマングローブの海岸にイリエワニが漂着した例を挙げ、その肉を奄美の人たちが食べた記録が残っていることを示すことで、"わに"の北上事例を示したのです。

でもまあ、人食い鮫でもあるシュモクザメが泳いでいるとなると、おちおち海水浴も出来るものではありません。鮫というのは、必ずしも尾鰭を立てて泳いでくれるとは限らず、「ジョーズ」の映画のように、突然海の底からせり上がるように、襲いかかってくるかもしれず、やはり恐怖を感じます。

海水浴はそんな事情で、渚あたりをピチャピチャ泳いでいるだけでしたが、同行者の中には、"鮫"ならぬ"くらげ"におそわれた人がいて、きれいな海であるのにもかかわらず、とんだ災難でした。
626-8月10日(金)
今日も旅の話を。

旅の二日目の午後は、石川県の塩屋海岸で海水浴をしました。地図上でみていると、福井県の越前海岸は、岩場が多く、砂浜がせまそうだったので、石川県まで足を伸ばそうとしたのです。ここは内灘海岸があるぐらいで、能登に至るまで長くのびた海岸線があり、海水浴をするなら、加賀のほうが良かろうと思ったのです。

塩屋海岸に着いてビックリしたのは、そこがおよそ10キロも続こうこうかとしている見事な長浜だったということです。砂浜の果てがかすんで見えなくなるほど、遠くまで海岸線が続いているのです。

海の家もあるのはあるのですが、二軒あるだけで、あとは自然の海浜がずっとずっと続いているのです。夢の中にいるような気分になっていました。しかも海水浴客はそう多くなく、ほとんどプライベート・ビーチのような趣きがありました。

やはり越前から加賀に国を越えるだけで、自然風土が一変するのですね。
625-8月9日(木)
旅の話の続きです。

吉崎御坊を出た後、県境を越え、石川県へ。すると福井県では絶対見ることが出来なかったものが、道のあちこちに貼っています。森喜朗前首相と小泉純一郎首相とが握手している絵柄のポスターです。"Baton Touch"と書いてあります。苦笑してしまいました。

このポスター、異常なほど国道沿いにあります。さすが県境をこえると政治地図は一変するものです。かつて森前首相は、大阪のことを「痰壺のような街」と酷評したことがあります。昔から舌禍癖のある人でした。筆者は神戸生まれですが、隣の街のことをあしざまに言われるのは、気分のいいものではありません。この森さん、今から考えても一国のトップになるような器ではありませんでした。

加賀には、真宗百年王国という輝かしい民が創り出した歴史の実績があるのです。そのような、卓越した歴史を持つ場所に依拠する人間としては、言葉が軽すぎました。民が築いた自治と実績を持つ人たちの血を受け継いでいるはずです。この人に自らの言葉と行為に責任を持つ加賀門徒宗のパトス的伝統が見られないのが残念です。
624-8月8日(水)
旅は、昨日で終わっていますが、話は続きます。

吉崎御坊は、突如北陸の地に出現した仏法王国でした。後に確立される「百姓が持ちたる国」真宗百年王国の前触れともいうべき祝福された宗教都市でした。この都市は山科や石山(大坂)本願寺にも発展的に受け継がれ、塀に囲まれた中は"寺内(じない)町"と呼ばれ、全くの自治都市であったのです。いわば解放区です。この時代は、戦乱の時代なので、自分の身は自分で守らなくてはならず、堺や博多のような自治都市が出現するのです。

筆者は昔から、武士や貴族に依らない商人や百姓たちが運営する自治都市・自治国というものに高い関心を抱いていました。それは、中央集権政府にまつろわぬ"民の国"として存在していたというところに救いのようなものを感じていたからだと思います。現在の日本国の中の都市は、東京以外は無惨にも「地方都市」であることを強要されます。神戸もその例外ではありません。

震災で、神戸がどうあがこうと、一介の「地方都市」でしかないことに、イヤと言うほど思い知らされました。神戸という都市とその住民だけでは、殆ど何の新しい施策や決定も出来ないのです。すべて中央政府のお墨付きがなければ実践できず、神戸は日本国の機械の部品のひとつでしかないことを知ったのです。

今は、自治しなければならない戦国時代でもなく、法治状態が浸透しています。しかし、人々が住むその都市のすべての決定権が、ないというのが大きな欠点です。この意味で、吉崎御坊にいた門徒たちは、自決権を持っていたという意味においては、神戸より恵まれた環境にあったのではないでしょうか。
623-8月7日(火)
昨日から泊っているのは、福井市内にある大安寺温泉という公立でありながら、新築のきれいな宿泊地です。九頭竜川のほとりにあります。昨夜は、川向こうで花火大会をしていました。どこだったのでしょう。"遠花火"の風情がありました。

東尋坊を見た後、一路、石川県境へ。到着したのは、吉崎御坊です。ここは本願寺教団を発展させた蓮如が一時依拠した、北陸真宗門徒の心の拠り所です。蓮如という宗教者は、毀誉褒貶がある人です。親鸞の教えを本願寺という教団に収束することに成功し、宗教のみならず、軍事勢力としても、教団の勢力拡大に寄与した人であるという一面と、宗教家というより世俗の権力者としての顔を持った人でもあることで、知識人に毛嫌いされている面もあるのです。

筆者もどちらかというと、蓮如をマイナスのイメージで捉えていました。世俗的な成功者として、あまり触れたくない人であるとの印象を持っていたと思います。ところが、本を読んだりしていると、確かに蓮如は、事業家としての評価が高く、経済界からの評価もあるなど、宗教・思想以外からの評判がある多面的な人です。

しかし、蓮如の85年間の人生を一瞥してみると、彼の持っている人間的魅力が、多くの伝説を生み、今もって真宗門徒や北陸の人たちに親しげに語られている人物であることも忘れてはなりません。この意味で、今回旅して接した道元と対極にある人で、つねに"民"の側に立ち、"平地の宗教"たらんとした生き抜いた宗教者であると言えます。

吉崎御坊は、蓮如という人物を得たことで、北陸の人たちが持っていたパワーが結集し、マグマのごとく吹き出した感があります。15世紀という時代が持っていたJaponの人たちのパワーが、北陸という地では吉崎御坊に集結することで、かの地での一大宗教・軍事勢力を形成するに至ったのです。

夏の青々とした水田を見ていると、この豊かな穀倉地帯こそ、蓮如という表象を借りて、100年にわたる真宗王国を築いた力の根源であるのだという感慨が沸き起こってくるのです。
622-8月6日(月)
この日から、カルメンは三日間、夏休みに入ります。

筆者は、一泊二日の北陸小旅行に出かけました。今日は昨日までの晴天とうって変わって曇天です。猛暑も少しだけひとやすみです。

目指すは、福井県。レンタカーカーを飛ばして、阪神高速-名神-北陸自動車道を乗り継いで、福井北インターで降り、最初の目的地は、永平寺です。今回の旅は、二人の仏教者を巡る旅だといえるでしょう。道元と蓮如です。

まずついた永平寺は、曹洞宗の大本山。今でも"雲水"220人が生活している修業の場です。ここは筆者にとって、驚いたことがいくつかあります。筆者はどちらかというと、浄土真宗的な環境で育ったために、禅宗、法華宗、密教系宗派の行事・法事などに接する機会は殆どないために、真宗的なものがスタンダードであったのです。(筆者の親戚には、大阪、奈良などに住む熱心な真宗門徒が多いのです)。

それは"雲水"と在家信者との"距離"です。座禅を中心にした禅の修業道場を行っている僧職たちは、何事もよせつけない雰囲気を漂わせています。勿論、宗教には修業は必要ですし、身体を極限状態にすることで、観えてくる極地があることは確かです。しかし、在家と"雲水"との距離がありすぎると、厳しい修行をなしたものだけが"悟り"に至れるという"縁覚"の発想になってしまいます。つまり、在家であることに、思想の根拠を置いている大乗仏教の根幹からづれてしまうことになりはしないでしょうか。

次は、宗派の大本山であるにもかかわらず宗祖の顕彰が目立たないことです。つまり道元は、人格的にもともとイメージ化されにくい宗教者なのでしょう。そして永平寺にとって、道元は顕彰の対象ではなく、永平寺の存在そのものが、道元の身体が延長しているような機能を今日も果たしていることに驚きました。それは日々営まれる"雲水"の修業の仔細に、道元の思想が行きわたり、脈々と受け継がれていることを意味します。

あくまでも修業の場である永平寺は、われわれ一般の者を招き入れつつ拒絶しているという印象を持ちました。ここは"山の宗教"です。越前・加賀という強大な真宗王国に囲まれながら、禅宗の法灯を守り続けたのは、山深く寺を構えたことが幸いしたのかもしれません。

621-8月5日(日)

〈カルメン 01年 夏の俳句徘徊 no.11〉

・手捕(てど)つたるハブを阿云(あうん)の一(ひと)しごき  篠原鳳作

蛇は夏の季語なんですね。筆者はどうも季語・季題至上主義は好きではありません。俳句は作品そのものの鑑賞がすべてであるのに、鑑賞に入る前の条件として、季語・季題がその俳句作品に書かれているのかどうかがまず"検閲"されるのです。

では、篠原鳳作のように、沖縄を多く詠んだ俳人の作品はどうなるのでしょう。本土(ヤマト)よりずっと夏が長く、冬は雪が降らない。また春・秋という本土的な季節も明確にありません。それが季語・季題至上主義に則って判断すると、どうも杓子定規な作品評価になってしまいます。

こうした判断には、先例があるのです。戦前の日本帝国が南方に増殖していくに従って、「熱帯」で詠まれる俳句も投稿されるようになります。その地で詠まれた俳句はすべて一括して「夏」に総括するべきだ、季題は本土中心であるべき、と言ったのは高浜虚子です(『近代日本人の美意識』山折哲雄著、岩波書店)。

ハブは、攻撃態勢に入っていなければ、難なく(素手でも)捕まえることが出来るそうです。ハブがいる琉球弧の島々のタクシーには、必ずハブ捕り棒と麻袋が積まれいます。生きハブも死にハブも、保健所に持っていけば買い取ってくれるからです。それよりなにより、この句のように琉球弧の住民は、ハブを見つけたら、一も二にもなく捕まえて殺すことをごく自然な反応として身体を動かすのです。鳳作は、手でハブを捕獲するやいなや打擲したその素早さに驚嘆したのでしょう。
620-8月4日(土)
今日も早朝、保久良山へ。今日は、埼玉から遊びに来ている小学6年生の、いとこの男の子と一緒です。

やはり夏休みなのか、登山仲間には小学生の"同志"も交じっています。この山には意外と遠くからやってきている人も多く、急な坂道ながら、すぐに視界がよくなるために、登山の爽快感を味わうことが出来ます。

今日は残念ながら、大阪湾は"もや"のようなものがかかっていて、和歌山まで見えません。視界のいい時は、紀伊・熊野の山々までもはっきりと見ることができて、絶景なのです。

昨日は、中学3年生の長男と、そして今日はいとこと、娘の三人と山に登りました。やはり子ども達は、元気です。筆者は3日連続で山登りしているからこそ、子ども達と同じペースで登れるのです。

619-8月3日(金)
朝起きしていることを活用しようと、拙宅から片道30分で登れる保久良山に行って来ました。昨日から始めているもので、朝からすでに30度を越えているものと思われます。

朝に登山している人は多く、筆者の前後には老人男性たちが、一人で歩いています。保久良神社まで到達すると、"登山"の仲間たちが固まっていて、何人かで談笑しています。この保久良山への早朝登山は、戦後すぐから始まったようで、登山道も広く登りやすいのが魅力です。

山を往復して拙宅に帰ってくると、汗が滂沱と流れます。しかし、汗をたくさん出した後は、なぜか身体が軽くなっているのです。やはり猛暑を乗り切るには、1.睡眠をなるべく多くとる 2.水分を多くとるも、冷たい飲みものは極力さける 3.汗を流す=身体を動かす とのことをすべきでしょう。やはり暑に生きるには、暑の中に入るしかないようです。

618-8月2日(木)
今日は、Pulpo(蛸)の話題です。

7月31日付読売新聞大阪本社版夕刊によりますと、関西の蛸の消費量はかなりのものとなると報道されていました。驚くのは、Japonで一世帯数あたり一番蛸を消費する都市は、神戸だそうです。一年間に2キロ。これは関西人の蛸好きプラス"明石焼き=卵焼き"で、蛸を消費するからでしょう。(ちなみに2位は大阪(1.8キロ)、3位奈良。関東の方は、東京26位、横浜25位となっています)。となると、神戸に住む人たちが世界で一番蛸を食べる人たちだと言うことができます。

どうして、関西で蛸が好まれるかは、瀬戸内という好漁場が近くにあり、イイダコ、マダコなど種類・量が豊富であることや、縄文時代の遺跡からも"たこつぼ"が発見されるなど、昔から食べ親しんでいたことが挙げられます。なにしろJaponの人たちは、世界の三分の二の約16万トンの蛸を食べているとのことで、国内産では足りずに、スペインからも輸入しているのです。Japonで消費される23%はスペイン(漁場はアフリカ沖)からの輸入なのです。

蛸も北に行きますと、東北や北海道に棲息するミズダコのように形状が大きくなり、食味が落ちます(いや、だからといって食べないと言うことではなく、筆者も何度かミズダコを使った料理を食べたことがあります)。ミズダコは、大きいものになると、体長3-4メートルにもなります。筆者はかつて須磨水族館(現在は須磨水族園)で、ミズダコを見たことがあります。迫力がありました。少し移動するだけで、体色を変え、まさに"Davil Fish(悪魔の魚)"と北海に囲まれた英国人が呼んだ気持ちがよくわかります。
617-8月1日(水)

〈カルメン 01年 夏の俳句徘徊 no.10〉

・炎天の犬捕り低く唄い出す  西東三鬼

今年の7月は、1994年以来の記録的猛暑だったようです。この猛暑が北半球全体のものなら、今年のスペイン・ワインはは仕上がりが期待できます。葡萄は、気温が上がると果皮が厚くなるために、糖度を増し、濃縮した味が出来るからです。だからこの猛暑がスペインにも及んで欲しいと希むのです。

この句「犬捕り」とは、どういう職業でしょう。野犬狩りでしょうか。猫なら三味線の皮になるとの効用がありますが、犬は何に使うのでしょう。思い当たりません。このJaponで食用はないでしょう。朝鮮民族は犬食を好み、特に北朝鮮では、食糧難ということもあって、犬食が行われています(最近はうさぎを飼うことが奨励されているそうですが)。大阪・猪飼野にも、犬を食べさせる店があり、筆者は二度ほど知人に連れられて、行ったことがあります。暑い最中に食べる犬料理は、夏バテに効くと言われています。

その「犬捕り」が低い声で唄っている姿は、凄みを感じさせる風景です。じっと遠くから罠を見ているのでしょうか。そして周辺はジリジリと焼け付くような暑気。今年ほど「炎天」を実感する年はありません。

(後日談ですが、8月2日付朝日新聞夕刊によりますと、ヨーロッパでも今夏は暑く、南仏プロバンスで摂氏40度を越えているようです。とするとプロバンスより南にあたるスペインはもっと暑いでしょう。これは楽しみです)
616-7月31日(火)
7月つごもり。暑い暑いひと月でした。

ランチに、琵琶奏者の川村旭芳さんが、食べに来てくれました。川村さんは、8月19日(日)のロルカ詩祭に、朗読のバックで演奏してくれる人です。今日は、お弟子さんと二人で来店。そのお弟子さんが買い求めた琵琶に弦を張ったり調弦したりしていたのです。そこに、筆者の中学3年生の姪っ子が、用事でやってきました。この年頃というのは、何を見ても珍しく、食い入るように琵琶を眺めます。姪っ子は友達と一緒だったので、その子も、本当に熱心に眺めていました。彼女たちの好奇心の旺盛さには、頭が下がります。

川村さんは、琵琶の家元の生まれでもなんでもないのですが、8歳の頃から、お母さんの薦めで、琵琶を習い始めたそうです。琵琶といえば、宝塚女優として名をなした上原まりさんが有名です。川村さんは、まりさんのお母さんからも教示をうけたとのことです。

この日、持参したのは筑前琵琶。Japonには他に薩摩琵琶の系統があり、楽器そのものも作りが違うようです。川村さんは両方の琵琶を習得しているそうです。(ちなみに「琵琶法師」に登場する琵琶は今ではごく少数の人しか演奏できないそうです)。

この川村旭芳さん。名前は古風ですが、本人はいたって若くチャーミングな女性です。
615-7月30日(月)
カルメンの定休日。

用件があって、正午に阪急梅田駅に。Hさんと打ち合わせをして、1時間後には、再び、神戸へ。昼食もそこそこに、FMわぃわぃ「南の風」の番組準備。猛暑のなか、午後3時にJR鷹取駅で、鳥居真智子さんと待ち合わせ。そのまま鷹取教会内のFMわぃわぃに向かいました。

打ち合わせは、いきなりスタジオ内で。あらかじめ出しておいた質問事項にあわせて、細かい打ち合わせ。鳥居さんは、島尾ミホ文学を研究されている方です。甲南大学や神戸山手女子短大などで、教えてます。

本番は午後4時から、鳥居さんは、丁寧な回答を用意してくれていて、番組は順調に進みます。最初、福永武彦を研究していたそうですが、自ら持っている生と死の桎梏についての問題意識を、島尾ミホ作品を研究することで、解決できるのではないかと思ったそうです。

ところで、鳥居さんは、子育てが一段落して、再び母校の甲南大学の大学院に入学しなおしたという人です。博士課程まで進み、今では、二つの大学で講師を務めるまでにいたっているのです。大学を卒業してしまえば、学部で勉学した内容を継承することのない人が多い中で、鳥居さんは、学ぶことを忘れず、研究者としての道を歩み続けた強い意志を持つ人です。その勇気をたたえると共に、諦めないことの大切さを鳥居さんから学ぶのです。
614-7月29日(日)
参議院議員選挙の投票日。兵庫県知事選挙の投票日でもあります。筆者は、仕事の関係上、選挙に行く場合は、朝早くに投票をすませることにしています。午前8時半、同居人の女性(妻)と、自転車に乗り、投票所のある小学校へ。この時間しか、投票に行ったことがないので、全体的な感想は言えませんが、出だしは悪くないようです。

いずれの選挙も今日の遅くに判明します。選挙で情勢が変わったからと行って、この不景気がすぐよくなるとは思えません。むしろ政治とは関係なく、経済は不景気に向かって独歩しているような気配さえあります。今より景気が悪くなると言うことはどういうことでしょう。

神戸の経済は、恢復の兆しが見えず、政治の変革によって、改善されないとなると、われわれは何を指標として、進んでいっていいのか分かりません。どうも今年の秋にまた経済危機がおとずれるという説が流布されています。去年は、企業業績だけの恢復におわり、一般消費が元気になることはありませんでした。それが今では企業(特にIC関連)の業績が悪化することで、社会全体に重い空気がたちこめています。

いったんこうした重い空気に支配されると、よほど大きな起爆剤がないと、改善に向かって走り出さないものです。カルメンの若いスタッフは投票に行かなかったようです。「なにも変わらないから」という理由です。若い人の政治不信は、これだけ小泉人気で盛り上がっていても、相当根深いものがあります。
613-7月28日(土)
炎暑のなか、筆者は昼間、尼崎の大物(だいもつ)に向かっていました。奄美の島唄を録音するためです。「蘭」というスナックに、集まったのは、そこの経営者で、三線が上手な勇(いさめ)富夫さん、わざわざ名古屋から収録のために一日早く関西に来てくれていた石岡春代さんの二人です。石岡さんは、セントラル楽器から、ソロテープを出している人で、ゆったりとしたリズムで、しみじみと歌い込む島唄が得意な唄者です。

店は大きくないのですが、黒糖焼酎をキープできるようで、奄美色が豊です。尼崎にはあと何軒か、奄美出身の唄者が経営するスナックがあり、昼間は島唄教室にも早変わりします。

筆者のしているFMわぃわぃ「南の風」奄美篇の番組のために、収録したもので、9月に放送する予定です。関西には、レベルの高い唄者が多く、奄美の現地に行って収録する音源もあり、また、関西で収録する場合もありということで、なかなかに充実した内容を放送出来ていると思っています。
612-7月27日(金)
神戸日西協会の総会が、フロインドリーフ本店で行われました。ここはかつてユニオン教会だった場所で、天井が高く、ゆとりのある造りをしています。ドイツ・パン屋として有名で、朝にパンが焼き上がるのを毎日買いに来る人がいて、人気のライ麦パンなどは午前中に売り切れてしまうことが多いようです。

今年の総会は、今月で退任する貝原俊民知事を慰撫する目的で、例年より開催時期を早くして行われたものです。筆者は、30数名いる同協会の理事を務めていることもあり、貝原知事にカルメンから、記念のプレゼントを贈ることになりました。1987年産のリオハ・ワインです。本当は、知事に就任した1986年のワインがあればよかったのですが、この年のヴィンテージ評価としては、3番目の"buena"で、翌年の87年の方が"muy buena"で評価がいいために、白ワインを一本贈りました。

筆者は貝原知事に直接手渡しました。退任直前の知事は、なにか吹っ切れたように穏やかな顔をしていました。いい顔でした。しかし、彼のかたわらには、節子夫人が車椅子で寄り添っていました。なんでも病院から初めて出てきたとのことです。貝原さんが、知事を辞任する理由はさまざまに語られましたが、その一つに夫人の介護のためという説があります。永年、知事という激職を支えてきた夫人です。苦労も多かったのでしょう。震災の時など、多くの批判にもさらされたと思います。しかし、知事辞職のあとは、私人として夫婦の時間を多く持ってもらいたいものです。

筆者と知事は1985年に結婚式に出席してもらって以来の再会ではないでしょうか。当時はまだ副知事でした。翌年、知事選挙に出馬。その時の肩書きは神戸日西協会会長だったと思います。そして、退任する今年、名誉会長に就任することになりました。時代の変化を感じます。

でも、貝原さん、知事をやめると同時に、仕事関係や人間関係も疎遠になっていく行政団体と違って、日西協会というような団体は、もともと利害関係がからまない文化団体なので、退任後も、個人的に温かく迎えてくれるのはこうした会であることを忘れてほしくないものです。

筆者は、今日の貝原さんの表情と、交わした握手の握力を忘れることはないでしょう。

611-7月26日(木)

〈カルメン 01年 夏の俳句徘徊 no.9〉

・おもかげやその夏痩の髪ゆたか  秋桜子

艶っぽい作品です。その人(女性)は物思いにふけっているのでしょうか、それとも作者の面影の人なのでしょうか、夏やせをして、少し顔が青白いかもしれません。佳人には、病後のためにやつれて表情に翳が出ることで、さらに美しく見える人がいます。物憂げな表情と顔が、男の心をかき乱すのです。

「髪ゆたか」も女性のセクシュアリティーを表象するタームです。ゆたかな髪を誇っているけども、夏やせしているので、髪も丁寧に梳かしていないのかもしれません。美はやや乱調にかたぶいている時にこそ感受されるものなのです。
610-7月25日(水)
フラメンコのバイラオーラ小松原庸子さんが出演する「カルメン」のチラシを持ってきたプロモーターの人と雑談していました。

この人はもともとジャズ・コンサートのプロデュースをしている人で、今秋にも、ソニー・ロリンズの公演を大阪で予定しています。ソニー・ロリンズといえば、ジャズファンなら誰でも知っている著名プレーヤーです。モダン・ジャズの黄金期だった1950年代、60年代から活躍している人で、マイルス・デビスなどジャズの巨人が次々と鬼籍に入るなか、最後の有名人として気を吐いているのです。

しかし、このソニー・ロリンズの次に続く人が見あたりません。そのプロモーターの人が言うには、最近の若い人はジャズに興味がないようです。やがてジャズも、タンゴやシャンソン、ラテンのように、ごく少数の人に愛好されるマイナーな音楽ジャンルに落ち着くのかもしれないと嘆いていました。

この嘆きは筆者の嘆きでもあります。筆者も中学、高校、大学時代にジャズを愛し、よく聞きいていましたから、現在の若者達がジャズにあまり興味を持たないのは、寂しいかぎりです。1970年代のジャズは、時代の空気と共にありました。ジャズは社会の"進化"とともに、"進化"していったのです。それは4ビートから8ビートへ、そして16ビートへ移行する軽音楽の最前線にジャズも共にあったからです。また、前衛ジャズも健在で、当時の「革命的」前衛気分と共鳴。すべての音、演奏法を括弧にいれ、破壊する前衛ジャズが、熱く時代に受け入れられたのです。

609-7月24日(火)

〈カルメン 01年 夏の俳句徘徊 no.8〉

・貧乏な青物屋や夏大根  河東碧梧桐

「貧乏な」とは、品数が少ないという意味でしょうか。それとも間口の狭い古びた店構えという意味でしょうか。いずれにしても直裁的な表現です。そうした中、碧梧桐は、夏大根に注目しました。白々と野太い大根の存在が視覚に訴えたのかも知れません。

最近の大根は、購買者である女性の好みに合わせて、種苗会社が開発した甘口の白首大根が主流になっています。ただ、夏場の大根は少し辛口になるそうです。ということは、酒の肴にはぴったりということです。辛口大根は、おろしてしょうゆか、ポン酢をたらすだけで、立派なアテとなります。この辛さと相性があうのは、日本酒でしょうか。

608-7月23日(月)
カルメンの定休日。

早朝に起きて番組の準備。昼過ぎにカルメンに出て、ひと仕事。午後3時、いつもより早くFMわぃわぃのスタジオ入り。スタッフの人たちと、情報交換をするなどで時間をすごしました。

放送は、昨日、尼崎市立労働福祉会館で行われた第18回「奄美民謡芸能保存会」の様子を放送しました。関西には奄美出身者による島唄・踊りの教室が19もあるのです。同保存会は、教室単位の発表があり、午前10時半から夕方の午後5時まで、延々と演目が続くのです。

番組では、師匠の部の演奏を中心に、紹介。中でも、上村藤枝さんと、石岡春代 &勇富夫氏の島唄が、光っていました。

607-7月22日(日)

〈カルメン 01年 夏の俳句徘徊 no.7〉

・走馬燈青女房の燃やしぬる  山口誓子

世の中には、モノそのものより、モノが意味する記号性の方がよく知られている言葉・事物も多いのです。「走馬燈」もその一つででしょう。筆者も縁日の屋台で、何度かみているはずですが、いま現物を仔細に述べてみよ、と言われると、グッと詰まってしまいます。

走馬燈の持っているイメージと"青"という色彩の組み合わせが、意表をつきます。藍染めの浴衣でしょうか。しばしば人生の短縮形として語られる走馬燈の"超時間性"が、生々しさをまとった"青女房"という具体性によって、灯されることに、作者は感興を催したのでしょう。走馬燈、これも誘蛾灯と同じ夏の夜の半永久運動器械としての機能を具有しているのです。
606-7月21日(土)
神戸は、花火大会です。

ドーンという音だけが店内に伝わってきます。
午後8時から始まった花火大会は、ちょうど一時間かけて終了。そこから多くの人たちが、三宮の街に繰り出してきます。

カルメンはラストオーダーは午後9時(閉店は午後10時)なのですが、この日だけはラストオーダーを1時間遅らせて、午後11時まで営業しました。
これからも、こうしてなにかイベントがある時は、ラストオーダーの時間をずらそうと思っています。

(同じ花火大会でも、明石の大蔵海岸では、歩道橋で将棋倒しとなり、10名もの死者を出しました。犠牲者は、10歳以下の子どもがほとんどで、痛ましい限りです。)

605-7月20日(金)
三宮一帯は、神戸まつりのメイン会場になっているために、多くの人で溢れています。パレードやサンバなどが演じられ、多くの屋台が並びます。数カ所の仮設舞台で、太鼓や舞踏・ダンスのグループが、日頃の実力のほどを発揮します。

この神戸まつりは過去何度か実施する日が変わりました。少し前までは、ゴールデンウィークあけの五月下旬でした。最近は「海の記念日(7月20日)」に合わせて行うことに定着したようです。といいますのは、この祭りは宗教的背景がないために、何時やってもいい祭りであるので、実施日が簡単に変更されてしまうのです。

まあ、それはともかく、筆者は仕事の関係上、ハイライトというべきパレードやサンバを見ることが出来ません。今日も、昼過ぎに少しだけ会場を見学してきました。暑い暑い日中にもかかわらず、パレード見学のために、すでに陣取っている人もいて、そして何よりも"カメラおじさん"が多いのが印象的です。

不況の最中の神戸まつりです。震災があった1995年は中止されました。復興の途中に、不況が重なり、三宮の"顔"ともいえる"そごう"でさえ、いつ"西武"に看板が替わるかわからない時代です。1990年代の「失われた10年間」の重い雰囲気がいままさに神戸の街を覆っています。こんな時に"救い"といえるのは、われわれの想像力と、子どもたちや若者たちの屈託のない笑顔でしょうか。
604-7月19日(木)
〈カルメン 01年 夏の俳句徘徊 no.6〉

・河鹿鳴いて石ころ多き小川かな  正岡子規

世の中、知っていることと、知らないことを較べると圧倒的に知らないことが多いに決まっているのですが、筆者は「河鹿(かじか)」が、「山や湖にすむ小さい痩せた蛙」(山本憲吉著『最新俳句歳時記 夏』文藝春秋)だと知ったのは、この〈夏の俳句徘徊〉の連載を始めてからです。「ヒョロヒョロヒヒヒヒヒ」(同著)と鳴くそうです。河に降りてくる鹿とばかり思っていました。まあ、知らなかったことは少し恥ずかしいことですが‥‥

きっと清冽な環境に棲息しているのでしょう。そういえば今週の月曜日に訪れた奥津温泉には「河鹿園」という純和式旅館がありました。趣味のいいホームページを立ち上げています。かの温泉地は、かつて多くの文人達に愛された景勝の地で、規模は大きくないものの、ただただ静謐な環境が、余計な邪念を想起させることがないために、人気を呼んだのでしょう。さて、子規はこの河鹿をどこで聴いたのでしょうか。
603-7月18日(水)
〈カルメン 01年 夏の俳句徘徊 no.5〉

・翼あるもの先んじて誘蛾灯   西東三鬼

夏の夜の水田に、ポツリと照明がつています。灯りに向かう習性を利用して、多くの虫たちを集めるのです。蛾を初めとして、イネに害をもたらす浮塵子(うんか)などを、誘引し、水をためた逆三角錐の容器に入れるのです。かつて山間学校などに行った時、窓ガラスにびっしり張りついた虫の数の多さに驚いたものです。最近、昆虫学者が山中で、研究のために「誘虫」装置を仕掛けても、集まってくる虫たちの数はぐっと減っているとのことです。

「翼あるもの」とは刺激的な表現です。誘蛾灯に誘われるのは、虫たちだけでしょうか。ニンフ(妖精)や、天使たちも「翼あるもの」です。彼らは誘蛾灯に捕まったりしないのでしょうか。気になるところです。誘蛾灯という装置は、夜に永久運動をしているような不思議な道具です。まるで自動機械のようです。どこかで夜っぴいて、異種の「翼あるもの」が飛び込んでくるのかどうか、待っていたいものです。
602-7月17日(火)
〈カルメン 01年 夏の俳句徘徊 no.4〉

・はたた神下りてきて屋根の草さわぐ  青邨

上空の大気が不安定なために、今日雷と、大粒の雨が降りました。"はたた神"とは雷の異名。鳴神(なるかみ)、いかづちとの表現も。いかづちは、古事記に登場する神で、天上界(神の世界)から"火"を盗み出し人間に与えたことで、罰せられます。ちょうどギリシア神話の"プロメテウス"の役割と似ていて、比較神話学でよく取り上げられます。

大音響の雷はやはり神様なのでしょうね。昨日行った奥津温泉では、神戸から移り住んだ人が「ここの雷はすさまじいよ。音、響きとともに神戸の比やないよ」と驚いていました。「屋根の草」というのですから、日本家屋の上にはえている草(ペンペン草?)でしょう。その草が「さわぐ」というのですから、天空全体が轟いたのに違いありません。蝉の声にしろ、"はたたがみ"にしろ、夏という季節は何かと"音"に満たされているものです。
601-7月16日(月)
カルメンの定休日。

筆者はある用件で、岡山県北部の奥津温泉に日帰りで往復しました。ここは美作(みまさか)三湯のひとつとして有名です。"美人湯"とも言われ、豊富に湧く温泉と、さらに川湯もある魅力あふれる場所です。

しかし、残念ながら、今日は入浴もなし、しかも夕方に帰らなければならず、数時間の滞在で引き揚げてきました。ここは神戸・姫路から毎日一往復直通バスが通っています。大阪からは1時間に何本か津山に向かって高速バスが発着していて、距離感より近く感じます。つまり岡山市経由ですと、新幹線で岡山へ行き、そこからあまり便数が多いとは思われないローカル列車に乗って津山に到着することを思えば、関西からは直通バスがはるかに便利です。

この奥津温泉には、人形峠や倉吉に抜ける国道沿いに"道の駅"があり、また日帰り温泉施設があるなど、公的機関が建てた施設は充実しています。しかし、民業の旅館業は、数が少なく、廃業しているところもあるなど、もうひとつ元気がありません。

そして唯一の大手ホテルは経営者が変わり、現在改装中で、8月上旬には再オープンとのことです。この大手ホテルのオープンによって、この温泉地が活気を呈することを願っています。昼間に、じっと耳を澄ませば、聞こえてくる音といえば、先日の雨で水かさが増した川の音と蝉の声だけです。バイパスがあるので、通過する車の数さえ多くありません。奥津の山を越えれば、そこは鳥取。静謐な環境です。冬には降雪で、半分閉ざされたようになってしまうのです。