表紙ページへ回帰 | お得なお任せコースを知りたい | カルメンのイベントを知る | ひみつです
400-12月25日(月)
月曜日ですが、カルメンは営業しています。今年はクリスマスが月曜日なので、お客さんの入りは多くありません。その中で、スペインの人たちの来店が目立ちました。4人のうち、日本語をしゃべることの出来る人がいて、その人が次期米大統領のブッシュ氏に似ているのも不思議な感じでした。あとの3人は、スペイン本国人のようです。
カルメンにはスペイン語と英語のメニューが置いています。スペイン人が好きな料理の一つに"Caramales Fritos"があります。イカのフリッターと訳せばいいのでしょうか。スペインの南アンダルシーアに行きますと、イカや小魚、白身魚の切り身を一緒くたに揚げたフリッター料理が有名です。今日来たスペイン人たちは、よほど気に入ったのでしょう。追加して二つも食べてくれました。あと、彼らが食べたのは、"イカの墨煮"、"サルサ・ヴェルデ"、"メルルーサのピルピル"といったところです。vinoは、カルメン自慢の赤ワイン"リオハの94年産レセルバ・ランシアーノ"です。これも2本あけてくれました。(考えてみれば自国を遠く離れて自国の酒に舌鼓を打つというのは、妙なことです。Japonの人がニューヨークへ行って、新潟の純米酒に出会うといった感覚なのでしようか)
こんなことを言うのは変なのですが(全く逆の話なのですが)美味しい料理は、国境・民族を越えてスペイン人にも美味しいのですね。美味しい感覚は共通しているようです。
399-12月24日(日)
街が沸き立つというのは、今晩のようなことをいうのでしょうね。うわーん、という熱気とも人々の喚声ともつかぬ響きが三宮の繁華街にこだましています。一年のうちで今日あたりしか聞けないクリスマス・ケーキの売り子たちの絶叫、サンタの格好をして店員たち。いつもは平板すぎて聞き流してしまうフォークの若者たちの歌声もなにか特別に聞こえてしまう不思議な夜です。
街は人が多く集まってこそ活気が出てくるのです。この神戸の賑わいは、ルミナリエとクリスマスという西洋文化からの贈り物です。筆者はまだルミナリエを見ていません。最終日の明日の消灯イベントに顔を出そうと思っています。
そういえば、かつてはすべてのカップルが、カルメンで食事の最中にプレゼント交換していたのですが、このごろは減ってしまいました。あの勢いはどこへいってしまったのでしょう。
398-12月23日(土)
ウィンター・スポーツの話題です。今日のスポーツ・ニュースは、ひさしぶりに楽しく見ていました。
まず、ラクピー。筆者の母校(同志社大学)が大学選手権のベスト4に残り、今年こそ16年ぶりの優秀を狙っています。かつて、平尾、大八木、大西といった選手がいた時代は大学選手権で三連覇を果たし、その中核選手がごっそり入社した神戸製鋼では、9年連続日本一になるという快挙をなしとげました。同志社はここしばらく、関西リーグでは上位の位置を確保するものの、日本一の王座奪還には遠ざかっていたのです。今年のチームは、重量級のFWが売り物。ダイナミックな試合展開で、圧倒的な勝利を飾ってほしいものです。
もうひとつはサッカー。ヴィッセル神戸がなんと勝ち抜き戦で、ベスト4に残っています。関西のチームではガンバ大阪も勝ち残っているのです。この年末年始に行われるサッカーの試合は、J1もJ2も実業団、大学チームも参加していたと思います。その玉石混交の戦いの中から、わが神戸のチームが勝ち残っているのは、いつもはJ2降格か否かが話題になるチームとは思えないほど、健闘しているといえましょう。今年、ヴィッセルの顔というべき永島選手が引退して、またこのチームの話題が少なくなり、プロ野球のオリックス同様地味な選手が多いだけに、情報・話題発信力が弱くなっているのです。
地味な球団でも、スターがいなくても勝ち進めば、お客さんはある程度スタジアムに足を運んできてきれます。神戸という街が持つ華やかさとは相反する地味球団の選手諸君、少しでも勝ち星を重ねて、お客さんを呼ぼうね。
397-12月22日(金)
二学期の終業式がありました。いつの間にか、通信簿を見る立場になっています。親にとっては当事者ではないので、どこか気楽なところがあります。しかし同居人の女性(妻)は、そうは言ってられず、子供と共に一喜一憂しています。
働きだすと、そして経営者になると、日々の売上げが"通知簿"代わりににるのでしょうか。こちらは一喜一憂どころか、せっぱ詰まった事項なのです。子供は2年生の次は3年生となるのですが、経営は年が変わるかといってステップアップするわけではありません。しかもこの不況時、前年の売上げを維持できるかどうかも確かではありません。
さて、来年のカルメンの"通知簿"はいかがでしょう。
396-12月21日(木)
Let's it be というビートルズの曲があります。筆者の中学生の息子が、ピアノで練習しています。バンドを組んで、好みでしているわけではなく、中学校の音楽でテストとして出されていたので、必死になって練習しているのです。最初、この曲が好きか嫌いかは別にして、音楽教師の個人的好みで(たとえビートルズであっても)このように課題曲を決めるなんて、と筆者と同居人の女性(妻)は眉をひそめたものです。
しかし、息子が練習を重ねて、曲らしくなってくると、夫婦ともどもこの曲が名曲であることを確認し、うっとりと聞いている自分たちを発見するのです。筆者が中学時代初めて買ったドーナッツ盤レコードは、ビートルズ晩年にヒットした"Hey Jude"でした。そしてテレビ・ニュースでビートルズ解散を知った世代なのです。当時筆者が住んでいた西宮の県営住宅には、年上の高校生バンドがビートルズの曲を演奏していました。筆者はビートルズ世代なのです。(ちなみに同居人の女性(妻)は、解散後の第一次リバイバルのビートルズ世代です)。
長男は無事テストが終わってからも、拙宅のピアノに向かって、Let's it be を暗譜で弾いています。やはりジョン・レノンは天才なのかもしれません。
395-12月20日(水)
通勤途中、中年というか、初老の男性が朝っぱらから、寝っ転がっています。24時間あいている立ち食いラーメン店のカウンターの下です。背広・ネクタイをしている普通の俸給者然とした人です。ドキッとしました。しかしその男性が身体の調子が悪くて倒れているのか、酔っぱらって寝てしまっているのか、判断できないのです。最近、ホームレスの人が増え、行き倒れの人も増えています。街の中では、本当に身体の調子が悪くて倒れ込んでいる人もいるはずです。季節は冬。春のようにうたた寝するような時間でも場所でもありません。
われわれはいつの間にか人が倒れていることに鈍感になってしまいました。そこで倒れているのは、病気であれ、酔っぱらってであれ、自己責任なのだから、他人がかかわることではないとも言うことが出来ますが、考えてみれば、随分薄情な考えです。
共同体機能が作動していたかつての社会なら、こうした行き倒れの人がいると誰かが心配して寄って行ったはずです。もっとも倒れている場所が三宮の繁華街という"さもありなん"場所であるために、その男性は無視されているのかもしれません。これが商店街の中とか、住宅街なら、誰かが手を差し伸べているでしょう。
昔から、行き倒れの人、乞食(こつじき)の人・家族を邪険にしてはいけないという伝承が各地に伝えられています。琉球弧の奄美大島では、村にたどり着いた放浪母子に食べ物を施さず、石を打って追い出したために、その村(シマ=集落)は、火事で焼けてしまった、という言い伝えがあります。奄美の人たちは、こうした放浪人を"ふくっぐわ(福人)"と呼び、マレビトと同格の神様のようにあがめ、対処すべきであるとの教訓話があります。
しかし、不況の国、不況の街には"ふくっぐわ(福人)"が数多くいます。数が多いからその人たちに鈍感になっているというのも、ひとつの言い訳なのですが、見慣れてしまうことの恐ろしさは、感性そのものの鈍化を意味してしまうことでもあるのです。
394-12月19日(火)
筆者は通勤にJRを利用しています。最近、筆者が車両の中に乗り込むと、車両の込み具合、構成人員を直感的につかむことにしています。若い人が多ければ、携帯を操作している若い人たちの近くに席を取り、携帯を出して、受信メールを点検したり、メールを打ち込んだりしています。また電車が混んでいたり、中年以上の乗降客が多い車両だと、携帯はしまったままで、読書するようにしています。
筆者は電車の中ではたいてい読書をしているのですが、たまに携帯を打ちたい時もあり、ちょうど読んでいて面白くない箇所にあたっている場合などでは、メールをしてしまうこともあるのです。筆者にとって、携帯はメール・ニュース発信装置なのです。だから、受信メール・ボックスより、発信メール・ボックスの方が常に満杯となる傾向です。
393-12月18日(月)
本日は月曜日ですが、カルメンは営業しています。夕方から雨が降ってきました。雨が降ると、ルミナリエの出だしは鈍るようです。また今年は去年より人の出が多くないような気がします。というのは、カルメンが終わってJRの電車に乗る午後10時半から11時のころは、三ノ宮駅のプラットホームから人がこぼれ落ちんばかりの盛況ぶりなのです。当然、電車は座れないので、立って帰ることになります。
ところが今年は、電車の座席に座れる日があるのです。まあ、まだこれからが本番ですから、今のうち、労働者は座っておけと言ってくれているのかもしれません。
392-12月17日(日)
筆者の友人たちが、昼間、カルメンで忘年会をしてくれました。山本繁樹氏という編集者が呼びかけ人で、13人ほど集まりました。山本氏は、メール・ニュースを発行しています。『カルチャー・レヴュー』という名前です。筆者も一度書かせてもらったことがあります。その題字と目次だけ転記しておきましょう。(また山本氏は、「哲学的はらぺこ塾」という毎月の哲学勉強会も主宰。また紙メディアとして『La Vue』という季刊紙を発行しています)
●○●---------------------------------------------------------●○●
(創刊1998/10/01) (発行部数約1250部)『カルチャー・レヴュー』13号(2000/10/01発行)
刊行二周年記念号<本の周辺>発行所:るな工房/Chat noir Cafe′発行人:山本繁樹
[14号は、2000/12/01頃発行予定です]
●○●---------------------------------------------------------●○●
本誌は●哲学/思想●文学●詩●映画●舞踏/ダンス●演劇●音楽●アート●
コミック●生活●医療福祉●教育●スポーツ●インターネット●フェミニズム
●セクシュアリティ●風俗●出版などをテーマに、文化情況の〈現在形〉を各
執筆者のトポス=視点から批判=論評を試みます。そして表現を通して「他
者」との交差、あるいは「視座」の交換=相互性を志向します。また、季刊紙
『La Vue』と相互リンクしています。■目 次■-----------------------------------------------------------
◆合評会のご案内 編集部
◆「本」の取り寄せ奮闘記 山田利行
◆弁証法的書店論〜「リアル書店」か「ヴァーチャル書店」か〜 福嶋 聡
◆オンライン書店で児童書・絵本を売るということ 馬場進矢
◆居酒屋「すかんぽ」と金時鐘さん 鵜飼雅則
◆表現すること 矢野テツタロウ
◆インフォメーション◆編集後記■申込・解除・変更は下記の
http://member.nifty.ne.jp/chatnoircafe/touroku.html
まで
391-12月16日(土)ペルーのフジモリ前大統領がJaponに滞在してはや1カ月近くとなります。
日本国は、フジモリ氏に日本国籍があることを確認。ペルー政府に対して、身柄引き渡しの要求がきても拒絶する様子です。いつもは外交面でヌエ的なのらりくらりとした対応しかできない外務省の対応にしては、素早い判断でかつ、毅然とした風です。まあ、この国籍問題は、アメリカの国益が直接関係していないので、ペルーという「二級国家」に対しては、高飛車に出てしまう外務官僚の"帝国意識"の発露と見た方が正しいのかもしれません。
ところで、フジモリさんの綴りは、Fujimori 。これをスペイン語で読むと"フヒモリ"となるのです。ja,ji,ju,je,joが、ハ、ヒ、フ、ヘ、ホ となるからです。
390-12月15日(金)
スペインと北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)との国交樹立が発表されました。実効は、2001年1月からとなるそうです。つい先日もイギリスと北朝鮮が国交樹立するというニュースが飛び込んできました。ヨーロッパ諸国は、北朝鮮との間に懸案事項はなく、国交樹立に対する障壁が低いのです。また、北朝鮮を国際社会の仲間入りをさせることで、この国を"テロ支援国"から"普通の国"にしようとする西側諸国共通のコモンセンスにのっとっての行動のひとつであると理解できます。
筆者の周辺には、在日の友人がいて、北朝鮮の事情を在日の人を通してかすかに漏れ聞くこともあります。また在日の友人が主宰するパーティでは、北朝鮮産のリキュール類を飲むこともあったりして、細い細い糸を経由して、"北朝鮮"を身近に感じることがあります。(ひょっとしてこのリキュールは、金成日総書記も飲んでいるかと思うと、感じ入るところもあるのです)。
かつてJaponから北に渡った人のなかには、出身地が韓国内にある地方であるにもかかわらず、社会主義国家が掲げる理想に共感して、単身または家族と共に北朝鮮に渡った人もいます。かの国での生活が豊かでないのは、もう当たり前のことで、まだ首都・平壌で暮らしている人は、なんとか生きていけるとのことのようです。また盛んに情報鎖国であることが、言われていますが、平壌に住む都市生活者は、世界情勢についてもそう欠落した感覚ではなく、どこかからか西側諸国の情報は入ってきているようです。勿論、その情報量は多くなく、情報を評するメディアもないために、個的にその情報を判断しているのでしょう。
なにしろ北朝鮮は、巨大なる建前=主体(チュチェ)思想によって表面は覆われている社会です。しかし間違ってはいけないのは、社会が建前に覆われているからといって、個人までもが、心底まで建前に浸っていると考えるのは間違いで、批評精神は、存在するはずです。ただ全体主義の国家は、生き方、思想の多様性を許容しないことでは徹底しています。こうした全体主義の国家形態というのは、100年200年と続くわけはなく、やがて体制の改変が訪れるのは、自明の理です。
かの国の良心と批評精神は、"その時"が訪れるのを待っているのに違いありません。
389-12月14日(木)
赤穂浪士の討ち入りの日です。討ち入りといっても今からすれば、刃傷テロリズムに違いありません。このテロ事件が起きた元禄という時代は、武士が本来的職分である軍人集団である必要性がなくなり、"お家"の維持や、領国経営と、士族階級維持に精力を費やしていた時代です。そんな戦争をしない軍人達には、今の官僚諸君と気質がそうたいして違うはずはなく、一番の関心事は保身や出世、一家安全といった平板なものでしょう。
戦国時代の争乱は、元禄時代の武士にとっては、100年以上前の内戦であり、今の時代であれば、日清戦争を回顧するようなものでしょう。そのような元禄に、一大テロ事件が起きたわけですから、武士にとっても、また一般大衆にとっても時代遅れなアナクロな表現活動だったわけです。
しかし面白いのは、当時の一般大衆は、アナクロ表現であることを知りつつ、舞台(文楽、歌舞伎)上で、手法としてはアフタヌーン・ショーの"再現ビデオ"的でありながら、見事に"刃傷"事件を"人情"ドラマに仕立て上げたことです。噂や庶民の願望も含めて、ひとつのドラマツルギーを確立したことは、さすがというべきです。
388-12月13日(水)
ルミナリエ二日目。今日は北海道からのお客様です。昼間、店に札幌から電話があり、「本日、そちらに向かうので、よろしく」との内容です。合計8名の方がいらっしゃいました。8名の中には、20年ぶりに来ましたといってくれる方もいて、感激です。勿論、阪神大震災が起こってからは初めて神戸を訪れたこととなります。北海道の人たちからは、震災後の神戸はどう映ったでしょう。
北海道はいま雪祭の最中でしょうか。筆者はまだ残念ながら一度も見たことがないのですが、雪像の規模や精妙さは目を見張るものがあります。いつか見てみたいものです。
387-12月12日(火)
神戸ルミナリエ初日です。街にそこはかとなく緊張感が漂います。点灯式には多くのマスコミ・クルーがやって来ていることでしょう。毎年、ルミナリエが継続して行われるかどうか話題になります。莫大な費用がかかり、それを誰が負担するかという問題に尽きると思います。
しかし継続して開催していると、新たな入れ込み客やリピーターも見物にやってきてくれます。今日カルメンに午後4時にこられた女性4人組は、岡山から。「あんた、前に、こう言っとたじゃろ」と、自分たちの日常言葉でおしゃべりが続きます。関西で関西弁と"標準語"以外の言葉を聞くのは、快感です。おそらく職場仲間なのでしょう。お互い気のあった同士らしく、岡山言葉がポンポンと飛び出すのです。
最近では、大阪や東京でルミナリエが開催されているようです。神戸より前にあったのは、和歌山県の"ボルト・ヨーロッパ"というテーマパークでした。小型ルミナリエでした。昼間だったので、電飾の輝きは見ることは出来ませんでした。
神戸のルミナリエは、ちょうど阪神大震災の年に起きた1995年が最初の年。震災犠牲者の鎮魂の意味が込められています。筆者もまた震災で打ちひしがれた心にキラキラきらめく多色電飾の輝きに、思わずホロリとなったものです。
386-12月11日(月)
カルメンの定休日。大阪の"すかんぽ"という谷町六丁目にある韓国家庭料理店で、筆者個人の忘年会を催しました。この店は、金時鐘氏という詩人の方がオーナーの店です。
参集したのは、沖縄からの研究者を初め、新聞記者、筆者の大学時代の友人、姪っ子とその友達、詩人など表現者など多彩なメンバーでした。この忘年会は、阪神大震災以後に、筆者が生き残った証として、続けているものです。去年も参加した朝日新聞大阪本社学芸部の音谷建郎記者は、「この一年でメンバーが変わっている。(筆者の)つき合う人たちが変化したことを伺うことが出来る」と挨拶していました。
筆者が主宰する会は必ず一人ずつ自己紹介をすることを慣わしとしています。これをすることで、遠くに座った人でも、共通のテーマがあれば、任意にコミュニケーションを求めて、往来することが出来るからです。
385-12月10日(日)
妙なのです。拙宅のすぐ道路北側に、公園があります。いつもの年なら落葉樹の葉はすべて落ちている時期なのですが、今年は事情が違います。樹の頂上部分はすでに葉はすべて落ちているのですが、真ん中あたりは、色づいたまま、まだ樹木にくっついているのです。そらに一番下、つまり地上に一番近い部分はなんと紅葉もせずに青葉のままなのです。
どうしたことなのでしょう。よくカナダなどの紅葉は、大樹の場合、こうした一本の樹木で段階的な落葉―紅葉―青葉という現象が見ることが出来ると聞きますが、神戸でこのような状態を見るのは、筆者にとって初めてのような気がします。
季節は本格的な冬に向かっているのは事実なのですが、今年はどうやら"緩慢な冬"であるようです。
384-12月9日(土)
筆者は朝日新聞と読売新聞の両紙を読んでいます。紙面内容は勿論のこと、現場記者の性癖も少しずつ違うのも面白いところです。今回は、この両紙の決定的に違うところについて書きます。家庭面で朝日になくて読売にあるもの。それは人生相談のコーナーです。(読売は「人生案内」というコラム名)。
このコラムに寄せられる相談は深刻なものが殆ど。性格、病気、将来への不安などなど。読売では必ず目を通すコラムです。その中で、男と女の恋愛についての相談が、筆者にとって一番興味深く読む内容であることを告白しておきます。
ちなみに最近の紙面から相談内容を引用しましょう。
■「結婚前の不倫思い出され----元上司 がんで亡くなりショック
40代の主婦。優しい夫と娘に恵まれ、幸せに暮らしています。ただ一つ心が曇るのは、結婚前に勤めていた会社の上司のことです。彼とは4年間、不倫の関係を続けました。彼と別れた後に、私は会社を辞め、結婚しました。結婚してしばらくたったある日、彼ががんで亡くなったと連絡がありました。50代の若さでした。あまりのショックにお葬式では思いきり泣きました。それ以来、今でも彼と過ごした日々が忘れられません。彼の声、優しさ、ぬくもり……。彼のことを考えるたびに泣いてしまいます。もちろん夫には内緒です。最近、そんな日がますます多くなり、どうすればいいか分かりません。すべて忘れるべきでしょうか。 (東京・A子)
これに対して回答者は映画監督の大森一樹。さて、どのように回答したでしょう。引用も紹介もしません。読者のみなさんで考えてみて下さい。(すみません、今日のコラムは、のぞき見趣味的な内容でした)。383-12月8日(金)
ワイン業者の嘆き節です。ユーロという通貨を導入したヨーロッパのEU諸国。その中でも最貧国のポルトガル。フランスなどでメイドで働く労働者の人材輸出が、この国の重要な"輸出品目"のひとつとなっているほどで、国内の主な産業は農業です。
ポルトガルは、赤ならダン、白ならヴィニョ・ベルデという素晴らしいワインを産出しています。ところがユーロ通貨を導入したことで、「ボージョレーヌーボーなみに」値上げを宣告してきたようです。困ったのは、日本のポルトガル・ワイン輸入商社。カルメンに納品しているIさんは、それまでポルトガル・ワインの愛飲者を地道に育て上げたという自負があるだけに、便乗値上げは認めることは出来ません。なくなく輸入をストップし、取引先に謝罪を込めて説明しにまわりました。
加えてJaponの不況。好景気に沸くアメリカ、経済もまあ順調といわれているヨーロッパの域内で、ほぼ産出ワインを消化できてしまうだけに、ポルトガルの蔵元に対しては、またまだ市場の大きくないJaponの業者の訴えもそう大きな声とならないようです。
しかしユーロ導入もポルトガルに恩恵ばかり与えられていないようで、かの国の人たちが大好きな安くて美味しいマトン(羊肉)の購入価格が大幅に値上がりしたそうです。というのは、ユーロ通貨導入前は、安いニュージーランド産のマトンを買っていたそうですが、導入後は、スイスあたりのマトンを買わざるを得なくなり、約2倍の金額を払うはめにになっていると聞きます。
ワイン輸入商社のIさんは、「そろそろボルトガルも目覚めて(ワイン価格を)下げてくれればいいのだが」とため息まじりに訴えます。Japonにおけるポルトガルワインの大口輸入元はサントリーです。サントリーは、ワインなど値引きしないことで有名です。ところが最近、ポルトガル・ワインではきわめて名の知れたマテウスも安く売っているそうです。またサントリーは、引き続きダン・ワインを低価格で販売していますが、価格変動後の対応をどうしているのかが注目されます。
382-12月7日(木)
着々と、という表現はふさわしくないかもしれませんが、20世紀が終わろうとしています。この100年、世界中で様々な戦争、紛争などがあり、血塗られた世紀だということが出来るでしょう。Japonの近隣国をみてみても、中国、朝鮮半島、沖縄、ベトナム、カンボジアなどなど多くの場所が戦場となり、多くの一般市民が犠牲になりました。Japonにしていも、戦前の国家主義によるアジア侵略のエネルギーは一体どこから産まれたものなのでしょう。天皇主義なり社会主義なりこの世紀を席巻した全体主義の恐ろしさは、直接その体制の恐怖下に生きていなかった筆者のような世代でも、痛切に感じます。一つの目的、一つの主義のもとに"全国民"を一致団結させるという多様性や少数者を徹底排除した体制は、すさまじい暴力性を伴います。一般庶民社会の隅々まで蔓延する閉塞感は、現在の経済不況とはまた別種の息苦しさがあります。
戦時体制なり、経済不況なりの大変さは、その状態が終焉してからの回復時期が意外と長いということです。人も病から回復しつつある時に神経を使うように、なかなか回復しきらないのが本当のところでしょう。特に神戸は震災の後遺症があるために、回復のキッカケがなかなかつかめないのが現状です。筆者の見立てによると、来春回復するという政府のような楽観的な予想はどう考えても実現不可能で、来年の今頃「2002年こそは景気回復してほしいな」と言っているのではないでしょうか。
381-12月6日(水)
カルメンのクーポン付き i-Mode 情報をひとつ。カルメンもi-Modeで登場します。その中で、『ワンダフル神戸』という年に一回刊行している雑誌が持っているサイトでも見ることができます。ちなみに当店はまだi-Modeで見れるホームページを持っていません。
i Menu > メニューリスト> 関西メニュー > 神戸・デイラー・トラ > 神戸新聞 > ワンダフルコウベi
これが『ワンダフル神戸』が開設しているサイトで、カルメンが載っています。また
http://www2.kobe-np.co.jp/kpc/wk2001/index.html
からでも検索することが可能です。
このクーポン券は『ワンダフル神戸』と連携しているもので、 i-Modeの場合は、カルメンの掲載画面をプリントアウトすれば、クーポン券として使用できます。
クーポン券の内容は、8600円のコースが50%offになるというもので、かなりお得な料理企画です。是非一度携帯からアクセスしてみてください。
380-12月5日(火)
90年代初めの頃は、八月からクリスマスイヴの予約問い合わせの電話が入ったものです。最近ではようやく11月になってぼちぼち問い合わせが入ってくるといったところです。漏れ聞くところによりますと、どの都市でも今年の忘年会の予約状況は良くないとのこと。カルメンでも、去年より少なめです。だから、今年は予約される幹事の人にとっては、苦労は少ないようです。ただ、カルメンもそろそろ少しずつ予約で詰まってきました。予約は早めにされた方がいいと思います。特に12日から始まるルミナリエ期間中は、すぐに詰まってしまいます。
このルミナリエ期間中、三宮全体が忙しいかというとそうでもないようです。スナックとかいった地元民と密着しているところは無縁のようですし、三宮も坂を登った北野あたりは、大きな恩恵にあずからないようです。ルミナリエの終点である東遊園地から駅(北)に向かっていっても、だいたい生田新道あたりが"北限"ではないでしょうか。
カルメンは"神戸イメージ"が附帯した店ですので、ルミナリエに神戸に来たついでにカルメンに寄ってみたというお客様が少なからずいらっしゃいます。
もうすぐ夜の三宮はルミナリエで沸き立つように活気に溢れます。やはり都市という場所は人が沢山集まってこそ魅力が増してくるものなのです。そして神戸の人間にとって、ルミナリエの電飾の輝きは、阪神大震災で亡くなった人たちに対する鎮魂の輝きであるということは、片時も忘れることの出来ない事実であるのです。
379-12月4日(月)
午前中、心斎橋のそごう大阪本店の閉店セールへ行って来ました。この店は、約170年前から存在し続けているという超老舗です。なにしろ明治維新前の、チョンマゲを結っていた人ばかりが往来していた時代からあるのですから、驚きです。そんな歴史がある店がどうして潰れてしまったのでしょう。そごう中興の祖といわれた水島前会長の積極策が裏目に出てしまったようです。そごうはどこへ新たに出店しても"地域一番店"を目指す戦略でした。大卒を大量に採用して、筆者の周辺にもそごうへ入社した知人がいます。そういう人たちは、店がなくなれば、殆ど全員クビ。なんとも非情な処置です。
大阪の事情はよく知りませんが、どちらかというと心斎橋では、そごうに隣接する大丸の方が元気で、売上げもよかったようです。筆者は同居人の女性(妻)と、紳士服売り場へ行き、ジャケットを買い求めました。地下鉄を降りて地下入り口に向かったのですが、わざわざ一階まで迂回させられました。店内は、すさまじい人の入りで、日本の高度成長期の百貨店はかくあったのだろうという盛況ぶりでした。
紳士服売り場の担当者はみな男女いずれも50歳台の人たち。人件費が高くついていることが予想されます。若い人はいませんでした。筆者は、イタリア製のジャケットを同居人の女性(妻)に買ってもら
ったのです。感謝。とって返して神戸の拙宅へ。昼ご飯を二人で食べ、筆者はFMわぃわぃの放送準備。本日は、「南の風」奄美篇の今年1年ダイジェスト版を企画しました。今年も、沖永良部島、徳之島、奄美大島と各島の代表的な唄者と巡り会い、番組に反映することが出来ました。島別にいえば、今年筆者が注目したのは、<奄美大島=茂木幸生、貴島康男><徳之島=中島清彦><沖永良部島=前田綾子>といった唄者の人たちです。
「南の風」奄美篇のレギュラー番組は、本日でおしまい。あとは年末の特別番組を担当します。2時間の枠です。これから企画を詰めていきたいと思っています。
378-12月3日(日)
風邪をひきました。やるべき仕事はたくさんあるのですが、こういう時に限って風邪をひくものです。年をとってくると、治る時間が長くなっていまきます。
12月=師走はなにかと気ぜわしく、気持ちだけが先走って、身体がついていきません。睡眠時間をたくさん取るのですが、それでも疲れはとれません。疲れが喉にする筆者にとって、食欲がなくなるのも悩みの種です。
こんな時、風呂に入っていいのかどうか悩んでしまいます。風邪というのは、身体に「休め」と命令していることですから、そのサインが出る時はまだ身体が正常に向かおうとするベクトルが作動している時だと思います。
街もいちのまにか、コートを羽織っている人が多くなり、すっかり冬景色になっています。
377-12月2日(土)
ワインや発泡酒への増税はどうやら見送られるようです。突然降って湧いたような増税話に、左党の方々はびっくりされたと思います。特に今回の大蔵省の増税案で目立ったのは、発泡酒の税率を大幅に上げることです。これには国民各層から反発が起こったようです。Japonの人たちは、好きこのんで発泡酒を飲んでいるわけではないと思います。この大不況下、少しでも安い酒を選びたいというその理由で飲んでいるのです。もっともビール会社の、発泡酒をビールなみの味を創り出したという技術力も評価しなくてはなりません。
それを「悪代官のようなチマチマした増税案」(自民党・亀井静香議員の発言)を出してきた大蔵省役人の頭も悪いのですが、来夏の参院選挙を控えて、与党もこの新たな大衆課税は容認できるものではなかったのでしょう。
もともとビール自体、他国から較べて異様に税率が高く、筆者からすれば国家主義者なんて、朝から晩までビールばっかり飲んでいたらいいのにと思うぐらい国家への貢献度が高い飲み物です。すきあらば、増税しようとする大蔵省に対抗するためには、いっそのこと全国民的な"禁酒運動"を展開すればどうでしょう。まず税率の高いアルコール飲料から拒絶していく。そして拒絶の最終候補として、焼酎とスペイン・ワインだけ残しておく。その二つを禁酒するころには、国民の苦しみを理解しようとしない氷のような官吏たる大蔵省役人も白旗を揚げているでしょう。
ん? なぜ焼酎とスペイン・ワインかって? いやいや失礼しました。激しますと思わず筆者の嗜好と本音が前面に出てしまいます。そういえば、本日いらっしゃったお客様に、スペインの"Ranciano '94Reserva Tinto ¥3500"を一本飲んで気に入り、3本持ち帰ったという方がいらっしゃいます。やはりスペインのワインは美味しいのです。
376-12月1日(金)
いよいよ12月。20世紀もあと1カ月なのですが、どうも世紀末という感じがしません。やはり2000年というクリアーな数字が並んだ年を世紀末とするというのは、しっくりきません。9の数字が三つもならんだ1999年の方が、終末感が漂っていたし、今年はノストラダムスに代わる預言(者)も存在しないからです。筆者はずっと西暦を使っていますが、やはり欧米社会で共有されているミレナリオ(千年紀)騒ぎは、実感して分かりません。去年から今年にかけてほど、西暦というのは欧州人が作った私暦にすぎないと感じているのです。
たかが年代のことなので、背後にある文明を深読みすることもないのですが、西暦にかわるようなグローバルな意味での暦が存在しない限り、欧米人の価値観も一緒に附帯して考えるのは仕方ないようです。
もう読書の皆様は来年の年賀状作りにいそしんでおられることと思います。頭の中はすでに"2001年"にチェンジしているのではないでしょうか。筆者はいつも年賀状は年末ぎりぎりに宛名書きをしています。パソコンでも打ち出せるのですが、宛名と一言メッセージだけは、拙い自筆でするようにしています。
375-11月30日(木)
今日来店されたお客様から「牡蠣はまだですか」と聞かれました。カルメンでは12月1日から生牡蠣を出すようにしています。1日違いです。「残念やなあ」とそのお客様。毎年、"生カキのカクテルソース"を楽しみにしているお客様がいて、12月の声をきくとすぐに待ってましたとばかりに、何組か来られます。
この牡蠣とシャンパン(スペインではCAVA)との相性は抜群で、ヨーロッパの冬の食通には、こたえられない組み合わせです。また少し辛口の白ワインとも合います。カルメンでは例年3月まで生カキを出しますが、海が冷たくなるに従って、身が引き締まり、美味しさが増していくのです。
また、カキをクリームシチューに入れても美味しく、かつてカルメンで、特別料理として出していたことがあります。
牡蠣料理が出てくると、冬という季節を実感します。食べ物に季節感がなくなってきた今日この頃ですが、やはり牡蠣は冬ならではの食べ物。毎日限定で少しずつお出しします。是非、皆様のカルメンの牡蠣料理を楽しんで下さい。
※生かきのカクテルソース ¥1300.
374-11月29日(水)
カルメンの閉店間際、大学時代の友人Sがふらりと店にやってきました。その前に姪っ子が筆者と打ち合わせのために来店したので、閉店後、三人で夜の街へ出かけることにしました。行き着いたのは、ジャズが流れている「木馬」という店。ここは70年代の半ばからある老舗で、ジャズ喫茶としてスタートしました。当時、神戸にも筆者が学生時代を過ごした京都にも、沢山のジャズ喫茶があったのです。ところが、80年代になって、日本経済が絶好調となると、暗い雰囲気で押し黙って、ジャズを聴くというスタイルが若者に受け入れられなくなり、多くの店がつぶれてしまいました。
筆者の学生時代のジャズ喫茶は、一杯のコーヒーだけで、2時間も3時間もねばっていられる空間でした。店内はジャズを聞くための神聖空間といった感じで、同伴者と私語を交わそうものなら、店の人が飛んできて注意されたものです。
70年代の木馬もそんな雰囲気の店でした。筆者はマスターに何度注意されたか分かりません。80年代になると、景気が上向きになにるのと歩調を合わせて、フュージョンといった16ビートの明るい音楽が主流となり、生き残ったジャズ喫茶の照明も随分明るくなったのです。
かつては三宮センター街と生田筋が交差する南側の「ミュンヘン大使館」の向かいのビルにあったのですが、1995年の阪神大震災で、そのビルが倒壊。地下にあった「木馬」だけは営業出来たのですが、ビル解体のために、移転したのです。
現在の店舗は、生田新道を東からトーアロードを越えて一本目の南北の筋を南に入ったところにあります。やはり地下にあります。筆者は近年マスターと挨拶をする間柄になっています。ここは筆者の友人も利用する人が多く、そこへ行けば誰かに会えるかもしれないという期待を抱かせる場所です。いつまでも存続してほしい神戸らしい店の一つなのです。
373-11月28日(火)
今日の団体さんは、僧職(お坊さん)の方々でした。聞かずもがなに話を聞いていますと、やはり話すことを商売とされているだけに、人を引きつける会話術はさすがというべきです。仏教はキリスト教のように、日曜の朝に必ず教会で説教をするということはないので、法話を必ずする時間というのはあまりないようです(一部の寺院では熱心な僧職の人が、仏教の話を定期的にしているところもあります)。
われわれにとって、お坊さんの仏教話を聞けるのは、法事などで、読経のあとに、世間話から入ってきて徐々にその方面へ展開するときでしょうか。その人(お坊さん)の説教技術のレベルを知ることが出来ます。ベテランだからといって上手とは限りません。若い20歳台の僧職の人でも、あの独得な慇懃無礼さの交じった話し方で年輩者を引きつける人もいます。またお布施の大小で、説教の内容も実利的に区別しているのかもしれません。
かつて近世には、仏教哲学を寺子屋的に専門に教える"学問寺"というべき機能の寺もあったようです。それも近代になって、制度的な教育機関に仏教教育が収斂されていくに従い、"学問寺"の存在もあまり聞かなくなってしまいました。
つまり寺は学問をするところでした。寺には多くの漢籍蔵書があり、それは図書館であり、知的センターの役割を果たし、文化教室も兼ねていたのです。それがいつの間にか、"死"を専門に取り扱う葬儀施設となり、仏教美術の収納庫になってしまったのは、残念なことです。
寺が、もういちど地域と地域住民に開かれたメディアになるのには、仏教の専門知識を蓄えた僧職の人が、寺で仏教の魅力を語り、そして人々の"生"に直接語りかける仕掛けをする必要があるのでしょう。
372-11月27日(月)
カルメンの定休日。今週は、FMわぃわぃの放送がないので、拙宅周辺で過ごしました。
銀行、本屋、スーパーなどを巡って、昼は拙宅で食べ、子供達が帰ってくると、再び街へ。娘とアイスクリームのハーゲンダッツに向かいました。ちょうど夕方だったので、店は混んでいます。その店は、駅に近いために、さまざまな制服をきた女子高生を見かけます。娘が筆者に小さな声でささやきます。「だぶだぶのクツシタはいている人ってダメなんだって」。おやおやいつの間にか、母から洗脳されたようです。ちょうど隣の席の女の子たちがそろいも揃っての"ルーズソックス"を履いていました。
筆者の住む東灘は私立学校が多いために、本当に多様な制服を着た学生たちが行き来しています。私立学校の生徒たちは校則が厳しいようで、"ルーズソックス"をあまり見かけることはありません。いや、かつて阪急電車の中で履き替えている生徒を見ました。それを見たのは、もう3.4年前です。この"ルーズソックス"流行の息の長さは驚いてしまいます。
でも面白いことに、その駅は三つの大学の学生たちが乗り降りする所でもあるのですが、"ルーズソックス"を履いている女子大生を見かけたことはないということです。あれは高校時代という通過儀礼に必要な"祭具"なのでしょうか。学校という管理社会に対するアンチテーゼとして"ルーズ(=ゆるやか、だらしのなさ)"というタームは彼女たちにとっていまだ大切な表現道具なのかもしれません。
371-11月26日(日)
小春日というのは、ここ数日の天気のことをいうでしょう。冬に向かう少し手前、こんな天候の日に紅葉を見たら、さぞ気分がいいことでしょう。筆者は仕事で神戸を離れることが出来ませんが、ラジオニュースを聞いていると、京都に向かう車が多く、名神高速の上りが朝から混んでいるようです。若い時は、花見も紅葉も興味がなく、何が面白いのか、理解しようともしませんでした。
しかし30歳を越えたあたりからすこしずつ変化しはじめ、40歳を過ぎると、この国の四季の移ろいを楽しむまでになりました。決定的に変わったのは、1995年の阪神大震災を経験してからでしょうか。いままで見向きもしなかった伊勢神宮や正倉院などに興味を持ち始めたのです。
震災で死んだかもしれない生命です。自らの生きてきた短い年月を自覚した時、奈良・京都に現存する1000年以上も前から存在する文化遺物などと、筆者なりに対話できるようになったのです。
このヤポネシアに住み、この列島の文化体系を身に受ける覚悟が出来たからには、是非行ってみたいところがあります。それは富士山です。この山は、昔から信仰の対象となっていて、"富士講"という信仰組織もあります。どのような場所(トポス)なのか、自分の足で立ってみたい気がしています。
370-11月25日(土)
夜遅く、筆者は大阪へ。
ある彫刻家の展覧会開催を祝う会へ終わる前にギリギリ到着したのです。栄利秋さんは抽象彫刻の制作者です。奄美大島の南にある加計呂麻島のさらに南にある請島(うけじま)という周囲24キロメートルの島の出身です。その島は、一番高い山に登ると、周囲360度すべてが海という"宇宙"を感じさせるところだそうです。
筆者は芸術に関しては、すべからくコンテンポラリーなものに興味があります。いま自分が生きている時制のなかで共時的に制作されている芸術作品こそ、呼吸しあえるものだという考えがあるためです。
彫刻に関しては、ブランクーシが好きなのです。道祖神的なオブジェを初め、きわめて原初的な造型を創造し続けた作家です。栄さんは、ブランクーシが造型した原初的なものへの遡及に加えて、エロースを感じると言う人がいます。エロースとは、通俗的なエロティックという意味ではなく、アガペー(神の愛)に対置する言葉として、ものごとの本質に到達するための、力であり、その力の元は"愛"だというのです。
筆者は1992年の須磨離宮公園で開かれた野外彫刻展ではじめた栄さんの大型彫刻を見て以来、ずっと気になっていたアーティストなのです。おおらかな笑顔、人を包み込む力があり、こういう人が素晴らしい作品を作るのだと感心したのです。
369-11月24日(金)
気付いてみれば、この「店主のつぶやき日誌」も毎日更新して、もう1年になります。熱心に毎日読んでいただいている読者の皆様、ありがとうございます。また時々読んでくれている方も、これからもひつこく書いていくつもりですので、よろしくお願いいたします。時に数日分、まとめて書くこともありますが、一応、日付は毎日積み重ねていきます。最初、2000年が20世紀最後の年だということが分かって、"世紀末日誌"のようなトーンになるかと思ったのですが、"世紀末"気分というのは、1999年でおしまい。今年はなんとも中途半端な気分が漂っています。
企業の業績は、リストラのおかげで、今年度上半期は増収増益だそうです。雇用を犠牲にしているので、利益を生み出す働き手に元気がないために、一般消費にはなかなか還元されません。それでも低価格商品を展開しているメーカーやアウトレットのショッピング街は、盛況をきわめています。
一方、カルメンのような飲食関係業界は相変わらず苦戦しています。JR住吉駅に隣接しているコープ神戸の"シーア"に入っていた飲食店のテナントがいっせいに撤退して、ユニクロの店舗になることが決定されています。いまや飛ぶ鳥をも落とす勢いの服飾企業のユニクロのことです。繁盛は間違いないでしょう。その代わり、撤退する飲食業界の従業員の人たちは、いったいどうするのでしょう。同業者として気になるところです。
今や、職業安定所は、連日人でごったがえしているそうです。特に神戸地区はいまだ求人雇用倍率が低く、失業者が減少していません。神戸の場合、阪神大震災の復興が本格化するかどうかの時に、大不況に見舞われたので、もともと地元経済の足腰が強くない地域でしたので、影響はモロに受けました。暗い話で申し訳ないのですが、大手企業の業績回復が、神戸経済の回復にどこにどのように結びついていくのか、現場から察するところ、まったく見当が付かないのが現状です。
368-11月23日(木)
筆者の友人である詩人の福田知子さんの出版記念会が、トーアロードの"トーアホテル"で行われました。第三詩集『単体の空』(風来舎刊)が今秋出版されたものを祝う会です。会には50人以上が参加。福田さんが発行人を務める詩誌『メランジュ』同人を初めとして、詩人の安水稔和氏、青木はるみさん、多田智満子さん、大西隆志さんなどの顔が見えます。
福田さんによる自作詩の朗読もされました。筆者は主に青木はるみさんと歓談。この人は神戸出身で、H氏賞という"詩の芥川賞"といわれている賞を受賞した人です。
午後3時に終了後、2次会はカルメンへ。総勢37人もの人が福田さんの出版を祝いました。出席者は、福田さんの人脈の広さを反映して様々な文化にかかわる人たちが集まり、盛会でした。
367-11月22日(水)
いよいよ、関西の各地から紅葉の便りが聞こえてきました。阪急三宮駅にある沿線各地"紅葉の進行表"グラフも注目度が高くなってきました。これから長い冬が始まる前の、鮮やかな色彩の祝祭を楽しもうと思っています。筆者にとって楽しみは、通勤途中に見える六甲山の紅葉です。まるでパノラマ写真のように、楽しむことが出来ます。最初、山あいの所々に紅葉の固まりが見え、やがて全山に拡がっていくのです。六甲は、国営林が多く、松・檜など資材価値の高い植林が少ないこともあって、落葉樹を含む照葉樹林の植相が多く見ることが出来ます。
この六甲連山ですが、明治維新のあたりは、ほぼ禿げ山が多かったそうです。雨が降れば、たびたび山崩れや鉄砲水を発生させ、神戸の都市経営にとって、六甲治山は重要なインフラ整備だったのです。六甲の場合、治山は植林を意味しました。
六甲が一瞬にして禿げ山となったのは、歴史上、何度かあり、東大寺の大仏建立の時、豊臣秀吉の大坂城建設の際、そして先の第二次世界大戦の時に、多く木が伐採され、その度ごとに山容が貧相むになったと聞きます。
今六甲の山々は、木々が茂り、150万都市であるのにもかかわらず、豊かな自然をわれわれ市民に提供してくれます。21世紀の夜明けは、六甲に登ってみようかと思っています。
366-11月21日(火)
12月から2001年1月にかけての特別メニューが決まりました。ホームページにも知らせていますが、このサイトでもお知らせします。次の料理は「新世紀メニュー」。なんだか大袈裟ですが、1000年に一回の世紀の変わり目を経験することになります。西洋中心の世界観ですが、まあ、1000年に一回というとに巡りあえたことを僥倖としましょう。
以下、メニューをご覧になってください。
////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////
12月から1月にかけてのメニュー
■21世紀を迎えるのにふさわしい料理企画です。ずらりと新作料理を用意しました。お客様の選択肢を増やしました。若い方から熟年の方まで幅広く満足していただける内容です。忘年会や新年会と幅広く利用していただけます。このコース利用の方にはワイン割引サービスがあります。
1.Vino tinto(スペイン産赤ワイン'95クリアンサ)
2.ムール貝の船員風
3.カラコレス アル アヒーリョ
4.ピミエントのエスカベッチェ
5.鶏肉のブイヨン・スープ(Caldo de gallina)
6.野菜のミックスサラダ
7.a.サルスエラ
b.フラメンカ・エッグ
a b いずれかを選択。
8.a.ラムのハーブ焼き
b.牛フィレ肉のステーキ(ソース・エスパニョール)
c.ポリョ・アル・チリンドロン(若鶏のトマトソース)
9.a.パエリア
b.オージャ(アンコウ、エビ入りリゾット風ゴハン)
c.パン
10.(デザート)ティラミス・カルメン風
11.a.cafe
b.紅茶 a b いずれかを選択。通常価格 9700円
優待料金 4880円
期間 12月1日〜2000年1月31日
(但し12月4日、11日、18日から24日までと、30日から1月2日までは除外)
時間 正午〜午後2時(オーダーストップ) 午後4時〜午後10時(ラストオーダー午後9時)365-11月20日(月)
カルメンの定休日。みなさんは奄美の島唄は聞いたことがなくても「島のブルース(三沢あけみ・唄)」「島育ち(田端義男・唄)」はご存じだと思います。
本日のFMわぃわぃ「南の風」は、奄美"新民謡"の特集。ゲストに立命館大学産業社会学部講師の高嶋正晴さんをお迎えしました。番組では、奄美の新民謡が、日本への復帰運動と大きく連動していたことが明らかになっていきます。雑誌『自由』などで、新民謡の歌詞が募集されたこともあって、盛んに作られたようです。
また新民謡という表現については、奄美独自のものではなく、昭和初期に、日本各地で"ご当地ソング"が量産された模様です。これは日本ばかりではなく、当時日帝支配下にあった朝鮮でも新民謡が作られたと聞きます。奄美の新民謡についての研究は始まったばかり。これから高嶋さんの研究の進捗に期待したいところです。
また奄美の新民謡は、殆どが"ヤマトグチ"で作られています。"ヤマトグチ"とは、標準語という意味です。奄美の唄は、シマグチの島唄と新民謡の"ヤマトグチ"が極端に対置し、その度ごとにスイッチが入れ替わります。いわば二重言語制です。お隣の沖縄では、堂々と古い唄も、新しく出来た唄もごちゃ混ぜに並べ(=チャンプルーにして)、あの琉球旋法に乗せて唄ってしまいます。この図々しさが沖縄文化の特徴であり、律儀にも二つの言語を使い分けているのが奄美文化の特質だといえるでしょう。
番組終了後、筆者と高嶋氏は、JR鷹取駅近くの奄美郷土料理を食べさせてくれる"うたげ"という店へ行き、黒糖焼酎を飲み歓談。しかし飲み過ぎて店を出て電車に乗っている時の記憶が欠如。年齢をわきまえぬ醜態。まったく恥ずかしい限りです。
364-11月19日(日)
もう一日、ひつこいようですが、若冲の話をします。若冲の代表作と言われている「動植綵絵」。宮内庁に保存されています。200年以上前のものであるのに、色彩の鮮やかさは、衰えていません。展覧会のガラス面には絵の一つずつに丁寧な解説文が添付されていました。国立博物館の美術室長・狩野博幸氏が書いたのでしょう。
「動植綵絵」シリーズの中で、画面にびっしり牡丹を描き込んでいる絵があります。日本画というのは、だいたい画面に余白があります。その定石を全く無視したかのような、細かいディテールによって、埋め尽くされているのです。筆者は、この息のつまるような濃密な画面に強い興味を覚えたのです。まるで好き同士の男女が息ができないほど激しく接吻しているのに似た切迫感が伝わってきます。登場するツールが牡丹というのも、濃密さを表現するのにぴったりです。
しかし狩野氏は、こうした絵に「空間恐怖症的」という表現を使って否定的です。絵の上下が分からない「無重力」さも好ましく思っていないようです。もともと東洋の絵画における空白は、東洋人が到達した美意識の極致です。また描かれたものが画面の中心に位置せず、微妙にずれていることもまた、至高の芸術感覚です。
しかしそれがすべてでは、ありません。若冲の「空間充填主義」は、むしろ近代的な発想かもしれません。またなぜ東洋画に空白があるを筆者なりに考えてみますと、空白を成立させているのは、その背後に東洋の美の共同体が暗黙のうちに存在しているからであり、その共同体が空白を創出させているのではないでしょうか。
363-11月18日(土)
もう少し、若冲の話につきあって下さい。若冲といえば、色鮮やかな"鶏"を描いては天下一品の作家です。
人間ぎらいな若冲でしたが、鶏に関しては、好きだったようです。珍しい外国産の鶏も庭に飼い、飽かずに眺め描写したに違いありません。晩年の"売画業"の時も大量の鶏図を書いたことでしょう。筆者が初めて若冲の本物を見たのは、大阪・豊中にある西明寺の襖絵に描かれた群鶏図です。この時も若冲は、何カ月か寺に滞在し、さまざまな鶏を放し飼いにして、描写したというエピソードが伝わっています。
鶏というのは、凛とした風情が漂っていて、一羽が屹立しているだけで、画面に緊張感が走ります。軍鶏を描いた作品を見ていると、筆者が間近に見たシャモを思い出すのです。奄美・徳之島に住むMさんは三羽のシャモを飼っています。島で月に何回か闘わせる場所があるのです。この島は闘牛(牛同士が闘い会う)が有名ですが、闘鶏もなかなか盛んなようです。
Mさんが、三つのゲージから、一羽のシャモを取り出します。鶏といっても直立すれば1メートルぐらいある立派なものです。Mさんは「抱いてみなさい」と筆者に言います。そんな「抱け」といわれても、そのシャモは、全島でもチャンピオン級らしく、機嫌を損ねて、筆者の目に向かって襲ってこないかと、びくびくしていたのです。
「いや、これはね、強いのだけれど、おとなしい。どんな人間に抱かれても暴れない」と。そこでその場の雰囲気で(半分仕方なく)、だきかかえるようにシャモを持ち上げます。するとMさんがいうように、すっと抵抗なく抱け、暴れたりすることはありません。「鶏というのは面白いね、気が強くても試合になるとダメな奴がいる」。
それともう一つ軍鶏といえば、目取真俊の川端康成賞を受賞した『魂(まぶい)込め』の中に収められている「軍鶏(タウチー)」という作品があり、沖縄における闘鶏のリアルな描写が注目されます。面白い作品です。目取真作品については、いずれゆっくりお話することもあると思います。
362-11月17日(金)
いやでいやで仕方なかったのかもしれません。今日も画家の伊藤若冲(じゃくちゅう)の話をしましょう。
京・錦の青物屋(今の八百屋)の長男として生まれた若冲ですが、人付き合いが苦手で商い向きの人性ではなかったようです。23歳の時、父の死去で、家督を継ぎます。店は錦市場の真ん中に位置して、実際の商いは手代や丁稚がするので、若冲の仕事といえば、旦那業だったはずです。旦那衆の仕事というのは、夕方から島原や祇園へ繰り出し"会合・親睦"と称して遊興の時を過ごすということなのです。
商いも向かず、こうした人付き合いも苦手。苦痛の日々が続いたのに違い有りません。40歳になると早々に弟へ家督を譲って画業に専念してしまいます。画家・伊藤若冲の本格始動です。
ちなみにこの年齢で引退するのは、決して例外的に早いわけではなく、近世には"隠居"というステータスが許容されていたので、若冲はこの社会システムを活用したのでしょう。そしていまでもヨーロッパに行くと、社会保険制度が充実していることもあって40歳台後半か、50歳になって仕事をやめ、あとは公的年金で暮らしていくという人もままいるのです。
60になっても70になっても、働こうとしている今のJaponの人たちからすると、"隠居"なんて経済的にも、精神的にも考えにくいことです。年をとっても社会と結びつきを持ちたいと願うのは、都市生活者にとって、職場ぐらいしかアイデンティティを確認できる"共同体"がないからかもしれません。
40歳から画業に専念した若冲は、"畸"の作品群を、奇貨として尊ぶ当時の上方文化の懐の深さに助けられ、卓抜した多くの作品を世に発表していきます。当時の京・大坂で活躍したわれら読書人の先輩たちは「ちょっとけったいな絵をかきよる」若冲を愛したのでしょう。アーティストとしての若冲の位置は揺るぎないものとなりました。
しかし、若冲は晩年大きな転機を迎えます。京都に大火が起き、実家の"桝源"も焼けてしまいます。75歳にして総てを失った若冲は、以後80歳で死去するまで、生活のために絵を描くという"商業絵師"をせざるをえなくなったのです。この時、"売れ筋"の愛らしい伏見人形の絵や、"売茶翁像"を何枚となく描いたのでしょう。
筆者はこの若冲の生き様を知って、もし若冲と同時代人なら、この75歳以降の"商業絵師"になったときの若冲に会ってみたいと思ったのです。この時の老絵師は、飄然とした風体で、ちょんまげも結わず、ザンバラ髪の「売茶翁像」に似た"ヘンコツ爺さん"だったに違いありません。その人は間違いなく200年前のモダニストであるのです。
361-11月16日(木)
京都国立博物館で開かれている"伊藤若冲展"をのぞいてきました。若冲(じゃくちゅう)は筆者が学生時代から好きだった画家で、今年がちょうど没後200年にあたります。いまからたった200年の画家として考えれば、そんなに遠い時代の人ではないことがわかります。
若冲が活躍した時代の京・大坂は、文化が爛熟していた時期でした。同時代人に、与謝蕪村、上田秋成、円山応挙といった上方文化の黄金時代をつくった人たちがいます。若冲の絵画は、当時主流だった"狩野派"の画風ではなく、"畸"を全面に打ち出した芸術傾向でした。若冲が受け入れられたのは、こうした奇貨を尊ぶ文化風土に支えられていたことは間違いがありません。当時の上方文化を支えていた人たちの心意気が伝わってきます。
筆者が飽かずに眺めていた一幅の掛け軸があります。「売茶翁像」です。売茶翁は、当時のインテリでありながら、晩年は茶道具を持って京都の街に出向き、赴くままに、茶を呈したという"風狂"の人です。若冲という画家は、鶏や動物を描くのには抜群の才を発揮しましたが、どうも人間嫌いだったらしく、人物描写はそう得意ではありません。しかし、この売茶翁に関しては例外。何枚も同じモチーフで書いているのですが、完成度の高い作品を残しています。
若冲にとって売茶翁は憧れの人だったようです。実は筆者にとってもこの売茶翁の生き方は、理想といえるもので、若い頃から気になっていた生き方=老い方をしているのです。売茶翁は死ぬとき、生前使っていた茶道具を一切焼却したと聞きます。生にこだわらず、死を怖れない生き方は、羨望の限りです。
筆者が30分近く、4枚ほどある売茶翁図を凝視していると、筆者の前を通り過ぎていく多くの人が少しずつコメントを発するのを面白く聞いていました。若い女の子は、「なんだか格好いいね」と正直に感想をいいます。若いというのは、先入観念が少ない分、感性が自由です。続いて、初老の女性たち。「ああ、売茶翁ね。うちの娘が"売茶流"をやっていたのよ」と連れの女性に声を掛けます。筆者も「え、売茶流ってあるんですか」とその女性に聞いてしまいました。「ええ、煎茶ですけどね。青かなんかの前掛けをするのが特徴なんですよ」。
売茶翁は死ぬときに、茶道具も権威も名誉も実績も総てを捨て去ったはずですが、なんとこの国お得意芸の家元として残っていたなんてショックです。もともと当時流行っていた"煎茶"そのものが、その時すでに権威化、形式化していた茶道のアンチ・テーゼとして、先覚的な知識人層にブレークしていた形式なき自由なメディアであり、ネットワーク(座)のツールであったのです(特に上田秋成が執心していた)。しかしその煎茶も時代が下ればいくつもの家元が出来て、それぞれが"××流"と名乗って形式と伝統を重んじるようになったのです。今風に表現すれば"げろげろ"といった印象です(ちょっと言い方が古かったなあ)。
まだ少しこの若冲について、お話したいと思っています。
360-11月15日(水)
もうすぐ20世紀もおしまい。とはいってもJaponに"世紀"の感覚が根づいたのは、ここ100年ぐらいではないでしょうか。Japonには"元号"という暦が存在します。暦は歴代の王権にとって大切な意味を持ちます。時を統べるという意味で、暦の設定・改変権は王権の代名詞でもあったのです。しかし、中国の周辺国がすべて暦を持ったかというと違うようです。中国文化の大きな影響下にあった朝鮮、琉球は基本的に、中国暦を活用していたようです。
だから近世の「日本」には、天皇暦と中国暦が二つ存在していたことになるのです。こうした公的な暦に対して"私暦"というのがあり、清朝末期の太平天国などに"私暦"があったと記憶しています。この国では関東で叛乱を起こし、"王"を名乗ったとされる平将門が"私暦"をどうして持たなかったのかが、歴史学のテーマの一つとなっています。
筆者はスペイン料理にかかわっていることもあって、ずっと西暦を使用し、元号と言われてもピンときません。ただ西暦を世界のスタンダードとするのは妥当かどうかは別途考える必要があるでしょう。また、元号があるということは、暦の設定・改変権を行使する王権が、この国に存在するということなのです。そうJaponは王制の国なのです。(王の権力は少なく象徴的な存在ではありますが、王制であることは確かです)。
王制が廃止した(いや廃止された)隣国の韓国では、民族・国家のアイデンティティを探るために"檀君暦"を戦略的に使用する場合があります。これは北朝鮮でも同じ。独自に檀君の権威を持ち上げ、"檀君廟"という大がかりな国家・民族原理の施設をつくっています。神話時代の存在と言われてきた檀君は歴史上の人物で、骨も発掘したのだということを公表しています。
また琉球=沖縄では、すでに中国暦を使おうとする動きは、旧王党派(尚家を権威とする士族階級)にもありません。こちらは徹底的に日本化されてしまったのでしょうか。もうすぐ21世紀。西暦以外の暦の運命はどうなるのでしょう。
359-11月14日(火)
ヒィヨが朝、けたたましい声を発しながら、拙宅の"猫の額庭"にやってきました。どうやら冬の食糧である南天の実がなっているかどうか確認しにきたようです。しかし、まだ食べようとしません。冬場は食糧が少なくなることほ経験的に知っているために、もう少し実がなるまでほっておくのでしょう。秋に新芽が出たリラ(ライラック)ですが、またしても葉に勢いがありません。どうやら蛾の幼虫である"青虫"がついているようです。この葉は"青虫"にとって美味しいらしく、いつもこのリラを目指してやってきます。筆者は蛾の美しさを賛美する人なので、放っておいてもいいのですが、このままだと21世紀になってもリラに花が咲かないので、来年は"青虫"を除去しようと思っています。
蛾といえば、蝶と蛾と区別がない地方・言語も多く、たしかドイツ語も両者の区別はなかったと思います。そういった場所では、蛾に対する過剰な嫌悪感は成立しないでしょう。またハベラまたはハブラという琉球弧の言葉にも蝶と蛾の両方の意味があります。"綾蝶(あやはぶら)"というきれいな蛾が奄美にいて、これをそっくり歌にしたのが、奄美大島在住の唄者・坪山豊さんです。いわゆる新しい島唄なのですが、哀切極まる名歌です。
さて、暖冬とはいえ、冬に向かうと、生き物たちの食糧が少なくなっていきます。そういえば、拙宅に飼っていた亀が今年の夏、忽然といなくなってしまいました。犯人は猫でしょうか、それとも烏でしょうか。亀たちは、冬眠します。一匹は何年か生き延びたのです。ところが、今年新しい亀を同居させると、古い亀が死んでしまいました。そして新参君も突然出奔してしまったのです。この謎はまだ解決していません。
358-11月13日(月)
カルメンの定休日。同居人の女性(妻)と、スターバックスというコーヒー屋に行ってきました。今、こうした"カフェ"が流行っています。・女性が安心して独りで入れる・軽いサンドイッチ程度の食べ物を置いている・コーヒーの味にこだわっている・何時間いても大丈夫……といった特徴でしょうか。
たしかに女性客が多く、読書も出来る閑かさです。陶器製のコーヒーカップはなく、すべて使い捨ての容器。カウンター席、一般テーブル、ソファと、客席が差別化されているのも面白い傾向です。これは東京の喫茶文化です。
喫茶店といえば、大阪の人間ほどよく利用する人はいないでしょう。大阪の喫茶文化も独自のものがあります。喫茶店の店舗内レイアウトは、効率が優先され、均質化された空間(同じ椅子・テーブルの羅列)で構成。しつらえの豪華さを競っています。大阪の喫茶店は"アジト"といった方が正しいのかもしれません。ウェットな感じが漂います。
筆者は時々東京に行って、大阪にはないような"談話室"とか"モーツァルト"といったチェーン店を利用します。ソファが並べてある"語りの場"といった感じです。東京は、大阪のように見知らぬ人同士の距離が短くない分、知り合い同士の親密さを確かめる空間が創出される必要が高いのでしょう。
夕方からFMわぃわぃ「南の風」の放送です。今日の放送は沖永良部の島唄特集です。これは去年12月に行われた「第一回沖永良部の島唄と踊(うどぅい)の世界」の様子を放送しました。沖永良部島だけで、島のオリジナル島唄が30ほどあると言われ、このコンサートは、島のオリジナルばかり演奏することを条件としています。
奄美ではなく、そして沖縄ではない独自の島唄を持つ島です。神戸にも多くの島出身者が住んでいます。
357-11月12日(日)
早朝、拙宅近くの保久良山に登ってきました。筆者の喘息持ちの次男に少しでも"地力"を付けさせようと始めた山登りですが、夏はさぼってしまいました。久しぶりに登った山は既に紅葉が始まり、少し上に登るだけで、色づき具合が濃くなるという変化を楽しむことが出来たのです。
次男は急な坂道に達すると、ぜぇぜぇと苦しそうです。何度か休憩を入れながら、ようやく頂上の保久良神社に到達したのです。
山頂で、イノシシの親子に遭遇。4匹の子供を連れた集団と出くわし、一緒に行った娘は怖がります。するともう1頭、さらにもう1頭が出てきて合計7頭も見てしまいました。大量出演です。筆者もあまり心地よく思っていません。子供イノシシはブヒブヒけたたましくなきながら、われわれの前を通り過ぎます。次男が「映画に出てくる怪獣の声みたいやな」と感心しています。
山登りする入り口近くには、「六甲にクマが出没します。注意!」と書かれた立て札が立っています。イノシシ、クマ……これが人口150万人都市の出来事でしょうか。神戸は市街地から少し歩けば"山中他界"と呼びうる別世界が展開しています。神々と交換できる場であると同時に、猛禽類の生活場なのです。
ちなみに山頂付近で携帯電話を使ってみました。アンテナの数は3本。しかしメールを発信しようとしても「送信できませんでした」のメッセージ。山を下っていく途中、何度かチャレンジして、ようやく人家が近づいた付近で送信できたのです。
356-11月11日(土)
昼休みを利用して、神戸外国語大学へ行って来ました。島尾敏雄という作家を偲ぶ神戸の会が開かれたのです。
69歳で逝去した島尾が生きていたら83歳。神戸尋常小学校、旧制神戸商業中学校の時に同窓だったクラスメートが参加。思い出話に花を咲かせます。また島尾が戦争から帰還して、神戸で職を得てからは神戸山手女子大学、神戸外大の教え子たちが、島尾を先生となりを紹介します。はにかみ屋だった島尾は、雄弁ではなく、また大学の教員もそう積極的にやっている風でもないのにも拘わらず、死後14年たっても、こうして人柄をしたって会がもたれるのです。
もうひとつの参加グループは、島尾敏雄を研究している人たちです。神戸の甲南大学に「島尾敏雄文学研究会」というのがあります。高坂薫教授が中心になって活動しています。高坂氏を初めとして、研究者、大学院生などが参加しました。この人たちの傾向として、文学研究に傾いているようで、奄美・沖縄の琉球・ヤポネシアについての言説はそう突っ込んでいないようです。
しかし、ともかく島尾があしかけ28年間かかわった神戸の街に、「島尾敏雄文学研究会」という研究機関があることは頼もしい限りです。この街から島尾に関する言説を発信することが可能です。今後が楽しみとなってきました。
355-11月10日(金)
昨日の話の続きを。大阪では「デビット・クレジットなにわ方式(デクレ)」と呼ばれるシステムが提唱・実現化しようとしているそうです。
これは大阪府下の小売り店舗を対象としたもので、府の関連団体「大阪商業振興センター」が管轄しています。このシステムの特徴は、利用者に利用額の1%が還元されるというものです。(還元は年に2回まとめて)
同センターを利用するための〈クレジット・デビット〉両用式の端末機が用意され、二つの端末を持たなくていいという便利さも売り物です(ただし両用端末機は有料)。
しかしこのシステムを導入する小売店舗の数が予定 より下回っているそうです。デビット・カードは小売り店舗への素早い入金が"売り"なのですが、「大阪商業振興センター」を一度経由するぶん入金が遅くなるというデメリットがあり、それが加入店の伸び悩みに反映しているようです。
また1%を利用者に還元するといっても、その1%は小売店舗負担だと思われます。今の不況下、たとえ1%でも売上げを減らしたくないという小売店舗の悲鳴に似た叫びも聞こえてきます。
354-11月9日(木)
カルメンと取引きがあるM銀行の営業・Y氏がやってきて、手持ちの通帳でカードを作ってくれと頼まれました。たまたまこの日、拙宅に眠っていた休眠通帳を新しい通帳にしたばかりのものがあったので、それにカードをつけることにしたのです。(その更新した通帳はHY銀行のもので、この銀行は後にMI銀行と名を替えたのですが、経営がうまくいかず、HA銀行に吸収合併されてしまいます。筆者が持っていたのは、HY銀行のもので1994年から使っていなかった通帳です)
作ったカードというもの、普通のカードとは違うのです。クレジット会社と連動しているもので、VISAとJCBカードを選択できます。VISAカードを選びました。ここまでは特別かわったことではありません。これから先が、新カードの面白いところです。このカードはクレジットカードとともに"デビット・カード"も兼ねているのです。
"デビット・カード"とは、銀行口座と直結するもので、信販会社を通さず、ダイレクトに銀行口座から引き落とされ、使用店舗の口座に振り込むものです。その時間がクレジットより早く、店舗側にも魅力があるのです。使用者にとってはクレジットであれ、デビットであれ、支払い金額には差はありませんが、店舗側にとっては、差し引かれる手数料に違いが生じます。デビット・カードの方が安いのです。
現在、カルメンはクレジット・カードを取り扱っていません。来客されるお客様のほとんどがもともと現金支払いでしたし、不況でクレジット・カード使用者が減少したために、やめてしまったのです。もうすこしデビット・カードが普及すれば、採用するつもりでいますが、今はなかなか使用している人が少ないために、採用を手控えているのです。
新カードは通す方向を変えることで、一枚で両機能つかえます。これはますますICカードに近づいています。北欧では携帯電話を自動販売機に接続させて、携帯使用料から商品代金を引き落とすというシステムが普及していると聞きます。
クレジットカードが誕生・普及した時は、もう現金を持ち歩かなくてよくなると喧伝されましたが、現金はなくなりませんでした。今回も新システムが普及しても、現金と新カードとの棲み分けがいつの間にか出来るような気がします。それは、今でも、駅のキオスクでカード支払いが普及しているかどうかを考えてみれば分かると思います。
353-11月8日(水)
今日のニュースを独占したのは、53歳と55歳の中年女性です。まずは53歳。ヒラリー・クリントン。米ニョーヨーク州上院議員選挙に当選しました。いまやレイム・ダックとなっている夫・クリントン大統領を"添え物"にする勢いで、華々しく政界デビューです。やがて4年後の大統領選挙に米国初の女性大統領に挑戦するのではないかとの噂で持ちきりです。力強い女性、そしてキャリア・ウーマンの象徴的存在として、今後も注目されていくでしょう。
そして55歳。高槻市で逮捕された日本赤軍のリーダー・重信房子。中東和平の流れに抗しきれず、レバノンで活動しずらくなり、この10年は目立った活動らしきものはしていなかったといいます。報道によるとすでに何度も日本にやってきているらしいのです。彼女を革命幻想を抱いた"過去の人"と片づけるのはたやすいことです。しかし今でも関西を中心に100人程度のシンパがいて、赤軍派メンバーの裁判闘争や、帰国に関する活動を続けていることを考えると、なまじ赤軍派は"過去"ではないのです。
しかし、時の流れは残酷です。今、大阪のターミナルで重信房子にあっても本人とは分からなかったでしょう。彼女の若かりし時の、長い髪を垂らした鋭角的な闘士の面影は、逮捕された現在の姿からは、とても結びつかないからです。姿格好だけなら、普通の50歳台のオバサンでしかありません。(実際に話すと外見とは全く違うのでしょうが)
ちょうど戦後の55年間と彼女の年齢が重なることもあって、彼女の存在自体、Japonの戦後社会の象徴です。そして彼女が抱いた革命幻想。筆者の世代には、10歳ほど上の彼女の存在がまぶしく輝いていました。革命という美しき使命に生きた彼女の軌跡を、今後何10年間、国家(警察・検察・裁判所)に情報を独占されてしまうのは、なんとももったいないことです。重信房子という戦後日本の"記憶"は、ひろく我々に共有されるべきではないでしょうか。
352-11月7日(火)
スペイン本国人がお客様として来られました。6人連れのうち、スペイン人は4人、あとJaponの2人です。同じスペイン語を母語とする人たちでも、スペインの人と、中南米の人たちは、少し雰囲気が違うのが面白いところです。スペイン本国人の方が、堂々しているというのでしょうか、一方の中南米の人たちは、ちょっと遠慮しているといった風情に見えます。
これは、きわめて大雑把な印象です。今日来たスペイン人は、ヨーロッパ人に近い面立ちの人たちです。食べたのは、ムール貝のアリオリ・ソース、オーブン焼き、盛り合わせのオードブル、そして魚介類のパエリア(3人前を二つ)です。皿数としては多くないのですが、ご存じのようにスペインではレストランで単品を頼む場合、二皿のみのことが多いのです。(英語でいえば、first plate .second plate といった言い方になります)。そしてその一皿の量がとてつもなく多いのです。Japonの人のように、多くの種類を少しずつ頼むという食べ方ではありません。
カルメンには、日本語のメニューの他に、スペイン語、英語のメニューを揃えています。魚介類のパエリアは、現在日本語メニューには載っていません。震災で中断してしまった料理の一つです。でも今日スペイン人にも好評だったことから、そろそろ復活しようかと思っています。
351-11月6日(月)
カルメンの定休日。少し遅めに起床。ひとりで昼食をとり、FMわぃわぃ「南の風」奄美篇の番組下準備をすすめます。101回目は、奄美から貴島康男氏がゲスト出演してくれました。
貴島氏はかつて"天童"といわれた唄者です。8歳ぐらいから、坪山豊さんについて島唄を勉強します。幼い頃の島唄もセントラル楽器からテープとして出されています。
その貴島氏は現在22歳。9月に「あやはぶら」というタイトルの初CDを、セントラル楽器から発売されたばかり。幼い頃に、"天童"とか"神童"とか称せられた人は"20歳を過ぎればただの人"となる場合があります。貴島氏もその危険性はありました。それは声の変声期です。
18歳で高校を卒業して4年間、鹿児島で建設業に従事するための修業をしました。この時、島唄は一切唄わなかったとのことです。声の調子が悪かったので、島唄のことを考えるのもイヤだったようです。
4年後、奄美に帰ってきた貴島氏は鹿児島時代の苦悩の時期を肥やしとできたのでしょう、昔通りに歌い始めました。筆者が横でディスクジョッキーをしていて、感じたことは22歳という若さにもかかわらず、奄美の島唄にとって大切な要素である"懐かしさ"があるということです。
番組では若さゆえのグイグイひきつける歌唱力で、唄い込んでいきます。彼の強みは苦悩しながら自分の力で蘇生したことでしょう。ハヤシは勝島伊都子さんが担当。やはり新人・若手を引き立たせるには、ベテランのハヤシが合っているようです。
番組終了後は、尼崎の「八起」という店で、奄美出身者が集い「唄遊(うたあし)び」を行いました。これは古代日本で行われていた「歌垣」と同じもので、三線を伴奏楽器にして、誰でもが、一節ずつ(琉歌の八八八六の30字)歌っていくのです。奄美の島唄の名歌を次々と歌っていったのです。この場には高嶋正晴氏という立命館大学講師をしている奄美歌謡研究者も出席していました。
350-11月5日(日)
電車の中で、事務連絡の必要があり、携帯からメールを打っていました。打ち終わりメールを発信し終わった時はすでに三宮駅に近づいていたので、残り時間は読書をせずに車外の光景を眺めていました。すると何の拍子かふと阪神大震災のあと、このあたりを何度も自転車で往復していたことを思い出したのです。筆者が乗っていた自転車は格好のいいものではなく、世間で言う"ママチャリ"。当時はまだ子供が幼かったので、サドルと後ろの荷台に子供を乗せる補助具をつけていました。サドルに子供席を付けているので、股を大きく開けてこがなければならず、スピードも出ません。
東灘区と三宮のカルメンまで、慣れると1時間で到着できるようになりました。周りの風景を楽しむ余裕などまったくなく、ただひたすら効率の悪い自転車を前へ前へ進めていました。ところが自転車で地道を走っていると、いかに道路というのが、人・自転車のために造られていないかが分かるのです。
震災直後の路面事情の悪さを差し引いても、道路と歩道の落差は多く、何度もガタンガタンと大きな衝撃を受けます。さらに大きな交差点だと、横断歩道が交差点中心から、遠くにあるため、車はまっすぐ"I(アイ)"の字に進めるのに、人・自転車は"U(ユー)"の字のように大きく迂回して渡らなければいけないのです。まるで人・自転車は車至上主義(モータリゼーション)の邪魔者扱いです。
とはいっても震災直後の神戸でも職場に1時間かけて自転車で通勤するという人がそう多くなかったというのも不思議な話です。みんなバイクを利用したのでしょうか。筆者は運転技術に自信がないので、自転車にこだわっていました。
震災後に大活躍した"ママチャリ"は、東灘区の拙宅を基点に、東は西宮北口、西は神戸市垂水区とよく往復しました。おかげで随分と脚が丈夫になったような気がします。そして今、自転車では1時間をかけて通った距離をJRはものの11分で何事もなかったように通り過ぎます。5年前のことがまるで"幻"のようにさえ思えてくるのです。
(11月8日付の読売新聞大阪本社版・夕刊によりますと、最近自転車通勤している人が増えている人のことが紹介されています。やはりこの記事でも歩道の走行の不便利さが指摘されています。アメリカでは車道を自転車で集団走行する「クリィティカル・マス」という運動があるのだと紹介しています。直訳すれば、抗議する集団となるでしょうか。この運動には、ヘルメット着用を薦めているそうです。)
349-11月4日(土)
冬瓜(とうがん)を食べました。カルメンの建物は、二階建て。屋上(三階部分)はチーフが"カルメン菜園"と名付けて、ハーブ類、パセリなどを植えています。店で出されるイタリアン・パセリやローズマリーなどはすべて自家菜園で獲れたものです。
今日、チーフはラクピー・ボール大の冬瓜を収穫しました。以前食べた冬瓜の種を"カルメン菜園"に放っておいたところ、大きな実がなったというのです。さっそく昼の従業員向け"まかない"で、挽肉とあわせ、生姜味で味付けして食べたのです。
冬瓜そのものは味がないので、今回の"まかない"は生姜と組み合わせの妙が効いていました。そしてこの冬瓜といえば、先日筆者が沖縄で会ってきた目取真俊氏の芥川賞受賞作品である「水滴」に登場。大きな役割を果たしているのです。
ある朝、主人公の徳正が起きてみると、片方の足が冬瓜(沖縄ではズブイ)のように腫れています。日が暮れてもひきません。夜になると壁の中から、沖縄戦で死んだ兵達たちの幽霊が出てきて、冬瓜のように腫れた部分からしたたり落ちる水を吸いにきたのです。
徳正も沖縄戦では、師範学校の生徒として、戦争に駆り出されていたのです。ズブイの水を吸いに来る幽霊たちは皆、一緒に戦った仲間たちで、中には同じ師範学校の同期生の顔見知りもいます。兵達は、水を吸うばかりで何も徳正に危害を加えません。しかしそれが徳正にとっては重荷なのです。
徳正は戦争末期の混乱期、ひとり部隊を離れて行動し、米軍の捕虜になることで生き延びます。そして部隊に残った戦友達は全員死亡。戦後、逃亡の事実は誰にも言わず、"悲惨な沖縄戦の体験者"として、語り部になり、その謝礼の額にほくそ笑む、といった生活をしているのです。そんな徳正を責めるかのようにかつての戦友たちが、水を吸いに来て、そして去っていきます。
この物語は極めて象徴性に富んだ物語です。続いて目取真氏が書いた『魂(まぶい)込め』(川幡康成賞受賞)もすぐれた短編小説集です。興味のあるかたは、是非読んでください。
筆者が食べた冬瓜。目取真氏の「水滴」のイメージが強く残っているので、食べている間、妙な感覚に襲われました。徳正の体液のような、といった、ちょっと他人には言えないイメージをふくらませてしまったので、急いで口の中に入れてしまいました。今でも妙な感じです。
348-11月3日(金)
面白くない結果です。筆者が沖縄に行っている間に、プロ野球の日本シリーズは巨人の4勝2敗で決着がつきました。ダイエーも不甲斐ないのです。最初に2勝してあと続けて4連敗するようでは、巨人の"劇的逆転優勝劇"を演出するための、"刺身のつま"のような存在でしかありません。
筆者がげっそりくるのは、来年のことを思ってです。巨人がシーズン最初から独り勝ちして独走態勢に入ってしまえば、喜ぶのは巨人ファンだけで、パ・リーグを含めて、プロ野球そのものの魅力が無くなってしまうのではないかと危惧しています。
筆者はこのことを思うと、気分はすでにプロ野球を離れ、好調なサッカーの方に関心が移ります。(ただ、このスポーツが国際交流試合をするとき、national flag を振り回すのは、ご免こうむりたいのですが)。
2002年に開催されるワールドカップ戦は、日韓両国で開催されます。今、韓国と北朝鮮の関係が改善に向かっているので、何試合かは北で試合がもたれるかもしれません。
そうなると、いま復旧工事をしている"京義線"に乗って、釜山から平壌へ列車で訪れ、サッカー観戦のあとに、本格平壌冷麺を食べるというツアーも実現するかもしれません。筆者は平壌冷麺・温麺にこだわっています。
ところが、つい先日、北朝鮮に行って来た人の話によると、かの国の鉄道は保線がまるでなっていないとのこと。枕木に使う木材さえ不足し、韓国や日本の鉄道のような高速で北を列車が走ると、間違いなく脱線するだろうとのことです。板問店から北の鉄道を国際基準にするためには、まだまだ時間がかかるとの報告です。
トンネルも土砂崩れしたままのところが多く、人海戦術で多くの人を動員しても機械がないために、働いている人はわずか。ところが、その作業場の後ろでは軍楽隊がブンチャカプンチャカと、国民の勤労意欲を鼓舞するための演奏をしているという奇妙な光景が展開しているのです。
またついでに言えば、その人の北朝鮮旅行に同行した農業技術者によりますと、北の農業試験場で出されたリンゴに絶句したそうです。「いまどきこんなリンゴがあったのか」と。北で普及しているリンゴです。小さく固めで、味もよくない、と言うのです。北朝鮮のインフラ・農業基盤整備の遅れは相当深刻なようです。
先日、北朝鮮を訪れたオルブライト米国務長官が、10万人を動員したマスゲームを平壌で見たことで米国内から非難を受けています。ところが北をよく知っている人によると、あのマス・ゲームこそ、北の人の救いとなっていると言います。10万人がいっせいに「万歳(マンセー)」と叫ぶと、地鳴りを伴うような大きな響きとなります。日頃鬱屈した生活の憂さをこの絶叫である程度解消できるのだという理由なのです。10万人の中には「マンセー」ではなく「腹減った 飯喰わせ!」と叫んでいる人もいるかもしれません。
今日は、巨人の悪口からとんだ方向へ飛躍してしまいました。
347-11月2日(木)
介護法が成立して半年が過ぎました。今日はひとつ、筆者が毎日見ている印象的な光景を紹介しましょう。
その老夫婦(?)は、いつも決まって午前10時にやってきます。女性は車椅子に乗り、真夏でも膝に毛布を掛けています。押しているのは、夫と思われる男性。公園を一周して、40分ぐらい過ごして、去っていきます。
雨が降る日には見かけることはありません。季節を選ばず毎日、決まった時間に公園にやってきて、しばしの時間を二人で過ごしているのです。おそらくその女性にとっては、一日の中で唯一の外出時間ではないでしょうか。
毎日同じことを同じ時間にするというのは、大変な労力が必要です。"老老介護"という言葉があります。男が女を介護する時は、コンビニ弁当で済ませることもあるのだと聞いたことがあります。しかし女がコンビニの弁当ですませたら、"手を抜いている"との評価が"世間"からされ、特にそれが嫁だった場合は攻撃の対象ともなります。
介護法が出来たものの、結局は人間の手によって、生きることを手助けすることには違いありません。この意味でも毎日決まって公園にやってくる老夫婦をみていると、毎日同じ事をすることの意味の重さと、介護に休日はないのだという現実を知らされるのです。
346-11月1日(水)
"台風崩れ"の熱低が、大量の雨を降らしています。明日にかけて関西にも多くの雨を降らすとのこと。最近、傘をいつも持ち歩いているような気がします。11月となりましたが、"台風崩れ"のおかげで何となく暖かいのも不思議な感じです。キンモクセイの季節が終わり、筆者の"花香症"は収まりました。二日前まで聞いていた蝉の声がまだ耳の奥に残っていて、夏と秋が奇妙に混在しています。
そういえば、沖縄で面白い話を聞きました。1月に琉球弧で咲く"ヒカンザクラ"は、ある程度、寒くならないと咲かないために、奄美・沖縄の"桜前線"は北から南におりてくるそうです。
ヤマト(本土)と全く逆なのです。そしてこの桜、ソメイヨシノのようにハラハラと散るのではなく、ボテッと花が落ちるのです。色も濃い色をしていて、桃の花に似ています。そして下を向いて咲くのも大きな特徴です。
琉球弧ではこの"ヒカンザクラ"を見て"真冬"を感じるのです。桜を見て春の到来を実感するヤマトの人たちと大きく違います。この差異はとても面白いものです。日本人がこの"ハラハラ"に切なさ(あはれ)の美意識を感じていても、琉球弧の人たちは、桜がハラハラと落ちている様を体験的に知らないので、実感として共感できないでしょうね。
345-10月31日(火)
寒い。沖縄から帰ってきたので、特にそう思うのです。沖縄ではまだ全員が半袖。しかも蝉がさかんに鳴いているのを聞いてびっくりしました。なんでも、11月まで蝉が鳴いているとのことです。昨日、訪れたヤンバルでは、蝉時雨も聞くことが出来て二度びっくりしました。
沖縄は11月ごろまで暑い日もあり、冬もコートなど不要で過ごしやすい所です。その替わり、秋という季節はなく紅葉の楽しみはありません。本土の晩秋のように、温泉につかって日本酒をちびりちびり飲むという楽しみは実現できないのです。暑い沖縄から帰ってきて、ふと周辺を見わたすと、木々の葉は少しずつ色づき始めています。"秋本番"の11月には、本土(ヤマト)の秋をたっぷり堪能しようと思っています。
344-10月30日(月)
座談会を終えて、ゆっくりと休憩したいところですが、午前9時から行動開始。川村氏、前利氏、南日本新聞・深野修司記者と私とで、レンタカーを借りて、本島北部のヤンバルに向かいました。高速道に乗って1時間半、名護終点で降り、東海岸に。自然が奄美大島に似てきます。深野記者は、「大和村に似てますね」。そうです。大島の北ではなく、南の大和村や宇検村の海に張はりついたつづら折りの道路と深い山並みを思い出させます。入り込んだ湾には、マングローブが自生しています。われわれが会いに行ったのは、辺野古集落近くに住みついて、海上ヘリポート基地建設反対運動を展開している浦島悦子さんです。浦島さんは、ここの風土に似た宇検村に永く住んでいた人。宇検に住み始めたキッカケは、枝手久島での石油備蓄基地建設反対運動に参加したことです。この人は、反対運動と共にある人生のようです。
浦島さんの先導で、海上ヘリポート基地建設予定地が見える場所へ行きます。典型的なポスト・コロニアルなリゾート・ホテルのテラスから、建設予定海域が眺められます。湾向こうの"キャンプ・シュワブ"の米軍施設も一望できました。海兵隊の宿舎が建ち、基地内にはスーパーや劇場もあるようです。いわばその基地から一歩も出ることなく生活(戦争)できる完璧さを持っているのです(米軍にとって、ここに唯一欠けているのは、飛行場だそうで、この意味でも滑走路がある代替基地が欲しいようです)。
その基地のありようは、ポスト・コロニアルではなく、コロニアルそのものなのです。続いて、われわれは、ジュゴン(沖縄では"ザン")が見えるという場所(海岸)につれていってもらいました。ジュゴンの主食は、海藻。浜辺には、その海藻が多く流れついていて、食環境の豊穣さを物語っています。ところが基地用地との間に、有刺鉄線が。海に向かってもその有刺鉄線が伸びています。川村氏は「電気が流れているじゃない?」と冗談を言います。前利氏は、人ひとり入れそうな場所を見つけだし、そこを無理にこじ開け、基地内に一歩入り込み、深野記者に「写真とってよ」と注文。「じゃ、もっと下がって」と応えて2枚ほどパシャリ。見張りの米兵はいません。
この境界を見ていると、単なる基地と一般地の違いではなく、国境のように思えたのです。Japonの中に、国境なんてと思われるかもしれませんが、この国の警察逮捕権が及ばないことや、米兵は日本国の税金徴収対象になっていないことを考えると、近代国家にとっては治外法権にあたるこの米軍基地というのは、日本とは違うアメリカであり、やはり米軍基地との境界は"国境"なのです。
ジュゴンがゆたゆたと泳ぐ沖縄本島の東海岸は、海藻が豊かな海域です、かつて沖縄ではこのジュゴンを捕って食べていました。美味しいそうです。かつて近世において、宮古諸島・黒島の住民は、この"ザン"の肉を税金として収めなければならず、島民は何日も海上で見張っていなければならかったようです。現在、本島東海岸沖に100頭以下のジュゴンが棲息していると推測されているのです。人間に捕食されることがなくなったかわりに、海上基地に"捕食"されてしまうのでしょうか。
343-10月29日(日)
いよいよ座談会の当日です。"宮古そば"を食べて腹ごしらえした後、琉球新報文化部の奥にある会議室で、目取真氏、川村氏、前利氏と、筆者の4人で、座談会が始まります。テーマは二つ。「記憶と記録」について。二番目は「奄美と少年A報道」について。2時間40分を越える内容の濃いものでした。この様子は、琉球新報にそのダイジェストが、そして『キョラ』(神戸奄美研究会報)に全文が掲載されます。
続いて、新報カルチャーセンターで「川村湊氏を囲む会」を開催。"沖縄/溶解する記憶と記録の境界"をテーマに、まず川村氏が近著『風を読む 水に書く』に書いた沖縄文学と、奄美の文学についての出会いを語り初め、会場にいる出席者からも意見を聞き、川村氏との質疑応答がされました。この「囲む会」の様子を、久万田晋氏が手際よくまとめているので、紹介しましょう。
川村湊氏の講演では、ご自身の奄美・沖縄との関わりからはじまり、沖縄の戦争記録のあり方などから現代沖縄文学・思想の状況まで話が及びました。川村氏は目取真俊氏や崎山多美氏などの新しい沖縄文学の登場を「沖縄文学」という枠組み解体の出発点、つまりポスト沖縄(=戦争)文学と捉えられるのではないかと投げかけ、逆にその地点に立つからこそ沖縄文学という概念を過去に遡行しつつ作り上げられるのではないかという刺激的な論を提示されました。質疑では、小説家の崎山多美氏や、詩人の高良勉氏も来られて、実作者としての立場から沖縄文学の概念をめぐって、また沖縄現代詩と小説の関係、さらに文学・文化・政治状況をめぐる沖縄と奄美の間の温度差、文学のクレオール性、「書く」行為が必然的に持つ権力性と倫理、など幅広い話題について討議が繰り広げられました。
そして今日も那覇市内で、懇親会です。夕方になってようやく抜けた二日酔いにまた新たな泡盛が、胃袋の中に注入されていきます。胃の方も覚悟が出来たのか、今日は抵抗無く、するするとこの酒を受け入れていました。
342-10月28日(土)
筆者は、機上の人となり、沖縄に向かいます。今年二回目の沖縄への旅です。那覇空港に到着後、川村湊氏(法政大学国際文化学部長・文芸評論家)、前利潔氏(奄美・沖永良部島)の三人と集結して、那覇市内に向かいます。まず琉球新報社へ。担当の文化部・新垣邦男記者に挨拶。しばらく歓談の後、新報近くのパレットという複合商業ビル内にある文教図書という書店へ。沖縄関係の書籍が驚くほど充実して並んでいます。さすが出版王国と言われるだけあって、この地の出版活動は目を見張るものがあります。
午後7時から、懇親会が開かれ、友人たちがしつらえてくれた沖縄料理の店に足を運びます。そこではもっぱら泡盛。少しずつ、胃の中に泡盛の強烈な香りとアルコールが沁みてきます。時間がたつに従って、参加メンバーも増え、豚肉と野菜をふんだんに使った沖縄料理も違和感なく食べ続けます。
午後10時すぎにやってきたのは、小説を書いている目取真俊氏。沖縄で4人目の芥川賞作家です。筆者は初めて会います。いつもマスコミに登場する目取真氏はサングラスを外さず、斜に構えたスタンスを取っています。しかし、生で話してみると意外と話しやすく、二人でしばし話し込んでいました。この目取真氏と明日、座談会をするのです。
会は、筆者が入っているメーリング・リスト(沖縄文化研究メーリング・リスト)の主宰者である久万田晋・沖縄県立芸大助教授が取り仕切ってくれました。20人以上が参加して、大いに盛り上がったのです。二次会は、10人程度。目取真氏は言葉を選びながらも、積極的に話しかけてくれました。
341-10月27日(水)
今朝は少し冷えました。拙宅の"猫の額庭"の出来事です。どうやら、ライラック(リラ)というのは、この時期に新芽を出すようです。去年の夏は、蛾の幼虫に葉を殆ど食べ尽くされてしまったので、生命の再生力が起動して、秋にもかかわらず新芽を吹き出したのだろうと勝手に推測していたのです。今年も青々とした葉がいくつか繁っている姿を発見して、この木には、一年に二度生命を産み出す力があるのだということを知ったのです。
しかし、今年も葉の付き方が悪く、勢いがありません。家屋に近いところに植わっているために、根付きが悪いのかもしれません。どうにかしてこの木の幹を太くしたいのですが、なにせ植物に関して素人のことですから、どうすればいいのか分からないのです。庭の片隅に植わっているナンテンは、今年も元気に葉が繁っているので、沢山の実がなり、ヒィヨ夫婦を喜ばせることでしょう。
340-10月26日(水)
人というのは、滅多に上を向いて歩かないものです。カルメンは二階にあります。店に入る踊り場から、ガラス戸越しに道路向こうを眺めていると、建物と建物の間にある隙間にしつらえられた高さ2メートルほどの塀に、一匹の猫が座っていて、じっと通行人を見下げています。人間はごく近くを通っているのですが、その猫は人間の視線より上に位置するところに座っているため、気づかれることはありません。
そのブチ猫、通行人の歩行に合わせて、首を動かし、人間を観察しています。よほど人間観察が気に入ったのか、最近夜になると、お気に入りの場所に座って飽くことなく、通行人を眺めているのです。
えっ、なんですって? 猫がどうして長時間にわたって人間観察をしているのか知っているかって? そりゃあ、猫もまた、滅多に上を向かないからですよ。
339-10月25日(水)
靄(もや)というのでしょうか、霧でしょうか。筆者が帰宅する午後10時すぎ、神戸市東部は視界が悪く、なにか独得の(ちょうど昔のスモックのような)匂いが立ちこめていました。かつてなら、こんな天候の日には、必ず南の方角から、ボオーボオーと瀬戸内航路のフェリー船が汽笛を鳴らす音が聞こえてきたものです。拙宅のすぐ南に青木(おおぎ)のフェリー・センターがあります。これらの船が出入港する際に鳴らすのでしょう。青木は、主に四国・淡路方面への航路発着場として、多くのトラックなどが利用してきました。またお盆や正月の時などは、駐車場に入りきらないぐらいの車が並んでいたものです。
しかし、今は汽笛はもうたまにしか聞こえてきません(汽笛がよく聞こえる日は不思議と潮の香りがします)。明石海峡大橋が完成してから、青木を発着するフェリーの数が激減し、港としては役割をほぼ終えたのでしょう。神戸は、中突堤やポートアイランドを中心とした港湾機能だけでなく、フェリーの発着場としての青木、須磨、そして沖縄・奄美行きが発着する六甲アイランドの港湾施設がありますが、橋が出来てから、神戸が少しずつ"港"から遠ざかっていくような寂しい気分となっています。(青木のフェリー・センターは交通の便がいいためにショッピング・センターに変わるそうです)
神戸の汽笛のボオーボオーという音が悲しげに、筆者の胸の中で響きます。
338-10月24日(火)
頭痛がします。といっても昨日の話しのように筆者が"神ダーリ"や"ユタぶれ"になったわけではありません。
原因は分かっているのです。キンモクセイの香りです。拙宅の周辺には、キンモクセイが沢山植わっていて、街全体がキンモクセイの香りで、満たされています。朝、窓をあけるだけで、フォワーンと臭ってくるあの香り。拙宅から、駅に向かう道すがらは特にキンモクセイが多く、阪神大震災で、家が倒壊するなどして、何本がなくなってしまったものの、この時期になると、キンモクセイの香りの街となります。
いつの頃からか、筆者はこの香りを嗅ぐと頭痛がするようになったのです。震災以後でしょうか。筆者は、この時期以外、頭痛とは無縁の人格なのです。この時期だけは、頭がズキンズキンと痛くなり、動悸が激しく、呼吸困難に近い心身状態となり、鬱然となってしまいます。
1970年代でしょうか、今のように"花粉症"という言葉が知られていない時代に、花粉症にかかった若い女性を描いた漫画家がいました。今はなき上村一夫という人です。東京の神田川周辺を舞台に、若い男女の同棲生活を題材にした漫画で有名になった人です。"花粉症"になった女性は、顔が半分以上隠れるぐらいのマスクをして、花粉に反応するという当時では珍しい"奇病"にかかっていることに、特権意識を持っているような描き方だったと思います。花粉や花の香りといった見えないものに敏感に反応し、"病い"とまで至る人は、ア・プリオリな感性を具現している"特権者"であったのです。いわばユタ神さんと同じ"神ダーリ"の状態だったのかもしれません。
勿論、筆者がキンモクセイの"花香症"にかかっているからといって、特権者であると自称するつまりはありません。この時期は、どこへも逃げて行きようがない圧迫感に悩まされ、早くこの時期が過ぎてくれるように願うばかりなのです。
337-10月23日(月)
カルメンの定休日。ゆっくりめに起床。明け方、ようやく懸案だった依頼原稿を書き上げ、夜中にFAXとメールで送稿したので、今朝は気分爽快。次の仕事に取りかかる前に、休憩したいところですが、夕方から、FMわぃわぃの放送があるので、番組の下準備にかかります。
本日の放送は、筆者がFMわぃわぃ「南の風」奄美篇を担当して、ちょうど100回目に当たります。内容は、今年1月奄美大島・名瀬市で収録したユタ神さんである阿世知照信氏へのインタビューを中心に構成しました。
ユタ、あるいはユタ神さんとは、民間のシャーマンにあたります。東北に"イタコ"という口寄せをする巫女がいますが、それに似ていなくもありません。琉球弧の中で特に沖縄において社会的存在感があり、沖縄の人の中には、病いにかかると、医者よりまず先にユタへ行くという人もいるぐらいです。人々の生活に対する影響力が強い一方、ユタを嫌う人が多いのも事実です(ユタの中には悪辣な金儲け一辺倒な人がいるのも事実です)。
奄美のユタ神さまは、原因不明の病い、結婚、商売、運気、家の増改築などの相談に乗ることが多いようです。番組に登場した阿世知照信さんは、奄美でも有名なユタ神さんで、親神の位置にあり、20人ほどのユタ神さんが、"子"として従っていると聞きます。阿世知さんのユタ祭祀の様子は、NHK総合テレビでも放映されていて、筆者も見る機会に恵まれました。
阿世知さんのところには、多くの原因不明の病いや痛みに苦しんでいる人が相談しにくるそうです。そのうち、「テンカン」で苦しんでいる人のうち"神ダーリ"であった場合は、"祓い"(=祈祷)をすると不思議に治ってしまう人が多いようです。そのウワサを聞きつけて、本土からも"祓い"をしてもらいに来るそうですが、阿世知さんは「治るかどうか自信ありませんよ」と言うのだそうそうです。"神ダーリ"とは、何か得体のしれない力が、その人に覆い被さって、身動きがとれなくなり、医学では治療できない状態を言い、時には心身が著しく衰弱してしまうのです。
問題なのは、"神ダーリ"を越えて"ユタぶれ"になってしまった人の場合です。原因不明の頭痛や吐き気が続き、現代医学では治療が不可能な心身状態になった人は、ユタ神さんになるしかないのです。それに本人が気づくのは、時間がかかるし、周囲の人から指摘されてようやく、自分の心身の不調が"ユタぶれ"であることを気付くひとがいます。
そうした"ユタぶれ"になった人が、阿世知さんのところによく相談しに来るそうです。しかし阿世知さんは10人いたら、1人か2人しかユタになるための祭祀を行わないそうです。本人が希望しても家族が反対することが多いせいもあります。
どうして、琉球弧の人たちが、"神ダーリ"になったり"ユタぶれ"になるかは、宗教学の大きなテーマとなっていて、多くの研究者が解明しようと論文を執筆しています。少なくとも言い得ることは、琉球弧社会では、ヲナリ神信仰が強く宗教的・霊的な意味で霊性の高い女性が多いのです。つまり琉球弧の女性達は、霊的なセンサーが、本土の女性達より敏感に出来ていて、一度反応してしまえば、自分でもどうすることも出来ずに"ユタ"の世界に導かれていくのでしょう。本土の人たちがとっくの昔に忘却してしまった霊的世界が、まだ琉球弧では有効であるのです。
336-10月22日(日)
筆者は、携帯から返事を期待しないメールを時々送ります。メール・ニュースのようなものです。パソコンに向けては、こちらが送れるぎりぎり250文字、J-phoneに向けては128文字にまとめた文章を送るのです。しかし携帯のメール機能はまだまだ未発展で、パソコンのOutlookといったメール・ソフトに慣れていると、作業の手間がかかります。
例えば、複数の人に同じメール・ニュースを出したい時。一回出したあとにもう一度「編集」機能を使って送り直す必要があります。文字を作成する時の不便は、単語登録機能がないことです。また難しい漢字を使いたいときは、わざわざその漢字の区点コードを調べて入力する必要があるのもやっかいなことです。
それと最近電車の中では、「混雑した車内では携帯・メールの使用はご遠慮願います」(JR西日本)とのアナウンスがあります。筆者は電車の中で電源を切ることはありません。心臓ペースメーカーなどを使用している人には申し訳ないのですが、電車の中では読書をしているか、携帯のメールをチェックあるいはメール文を作成しています。(酔って帰る時は、読書は出来ないので、メール文を作成しています。)
携帯はどんどん進化しています。ハンディー・パソコンに似たメディアとして、多くの機能が加わっています。近い将来、文字作成機能はパソコン並みになり、筆者の悩みも遠い昔ごとになっていくのに違いありません。筆者としては、料金がかさむ"電話機能"や"iMode機能"より、安い料金ですむメール機能を少しでも早く進化・充実させていってほしいものです。
335-10月21日(土)
昼間、少し時間が出来たので、三宮センター街へ行ってきました。筆者が立ち寄る店というのは、本屋(新刊書店・古書肆含む)、CDショップ(昔はレコード屋)、家電製品店とパターンが決まっています。なかでも本屋は何時間でもいることが出来るメディアです。筆者の母方の祖父は、古書肆を経営していて、父もそこそこに蔵書があったので、本に囲まれた生活をしてきました。だから本を読むという行為は、筆者にとって空気を吸うことと同じくらいごく自然な光景であるのです。
三宮には、ジュンク堂が二つの大規模書店を経営していて、助かっています。本当は倒産してしまった駸々堂書店もあってくれた方が、本屋の選択肢が増え、それぞれのクセの違いを利用して本屋の"ハシゴ"が出来たのですが、こうも不況が深く長引いたら、贅沢は言っておられません。
筆者がよく行く店に、星電社本店があります。かつてはレコードを見に、今ではパソコン関係をのぞきに行くのです。今日のぞいたところでは、マッキントッシュのコーナーが1階に降りてきていました。筆者はマッキントッシュ製のパソコンを使っていのす。
同じ一階には、携帯電話が並べられています。かつてこの花形コーナーには、テレビやビデオが置かれていたと記憶しています。売れ筋商品というのは、時代によって変化していくものです。筆者の携帯は、NTT Docomoです。今流行の携帯はカラー表示できるもので、どんどん新商品が開発されています。折りたたみ式は便利でお洒落なのですが、値が張るので、手が出ません。
今日は土曜日ということもあり、センター街に沢山の人がでています。しかし給料日前だからか、店の中に入って買い物をしている人の数は多くないようです。センター街という場所は、神戸で一番の祝祭空間です。ここをぶらぶら歩くだけで、カーニバルに参加したような不思議な気持ちになります。都市には、こうした空間が必要なのでしょう。センター街は、自転車を締めだしています。他都市にいくと、その街の中心商店街には、自転車・バイクが置かれている光景を見かけます。三宮・元町の光景に慣れていると、駐輪を許している光景が異様に思えてくるのです。
334-10月20日(金)
ファドのディナー・ショーの後日談をもうひとつ。お客様の中に、東京から来た二人がいました。NHKラジオセンターの西村大介チーフ・ディレクターと青木裕子アナウンサーです。筆者はカルメンで毎日午前11時から正午の開店までの1時間、NHKラジオを聞いています。青木アナウンサーは、ちょうどこの時間帯を担当していて、声と名前は知っていました。この時間帯は、一週間ごとに、担当アナウンサーが変わるというシステムをとっているようです。
二人が神戸を訪れたのは、月田秀子さんが、青木さんの番組に25日(水)生出演するのでその打ち合わせが目的です。でもさすが天下のNHKです。打ち合わせのためにわざわざ東京から神戸出張できるなんてスゴイ。そういえば、私が大阪のABCラジオに出演した時も、番組スタッフが事前にわたしと会い予備取材をしました。ところが、わがFMわぃわぃの私の番組では、ゲストの人と、番組開始の1時間前に集中して打ち合わせをするのです(えらい違いやな。ほんまに)。
日頃、ラジオで耳馴染みのあるアナウンサーに出会えたのは、"僥倖"ともいうべき喜びでした。西村ディレクターも情熱あふれる放送人と見受けました。私は電波メディアでは、テレビよりラジオに愛着を感じています。勿論、わたしがFM放送のディスクジョッキーをしているためもあります。NHK と較べれば、規模など較べものにはなりまんが、同じ(言葉・音・間・音楽)だけで、メッセージをリスナーに伝える同行の志として、二人にシンパシーを感じてしまったのです。
333-10月19日(木)
昨日、ファドのディナー・ショーに紛れて、筆者の古くからの友人である小山さんがカルメンを訪れてくれました。10年以上も前、毎月18日に「一八(いっぱち)会」という飲み会をしていて、筆者が幹事役でした。大阪の飲み屋を会場とし、多種多様な人たちが参加しました。そこに集まった人が一人ずつ宣伝を兼ねて自己紹介するということだけをルールとしていたのです。小山さんは「一八会」の常連メンバーで、保険関係の仕事をしているとか聞いています。小山さんの人生が面白い。若い時、新婚間もない小山さん夫婦は、赴任地のインドから何を思ったのか、国の役人をやめてJaponに向けて二人で歩き出したそうです。途中で子供が産まれながらも、中国経由で歩きに歩き、Japonにたどり着くのに3年を要したとのことです。なんとも大したことをしでかした人なのでしょう。まるで、玄奘か、逆コースの高丘親王のようです(よく虎に喰われなかったものです)。
その小山さん、カルメンに来た時は、少々酩酊気味。孫の年齢に該当する女子高生を4人引き連れ、華やかに来店です。「いやあ、カルメン、どこにあるか分からんから、この娘(こ)らに聞いたんや。そしたら探してくれてな」とまんざらでもなさそうな表情。娘たちは、神戸松蔭女子高校の制服を着た"いまどき"風ですが、極端に"いけてる"感じでもありません。せっかくファドが聞けるのに、小山さんと4人の女子高生たちは軽く食事をして、「いやあ、また来るわ」と言い残して、夜の街に消えてしまいました。こちらも、店がたて込んでいたので、小山さんとは帰り際に握手をしただけです。
なんとも"けったいな"再会でしたが、これも"会社縁"や"地域縁"ならぬ"知縁(知的なつながりという意味ではなく、もっとくだけた知り合い同士という意味での)"による人と人のつながりの面白さです。でも小山さん、ちゃんと家に帰れたかな。
332-10月18日(水)
イベントというのは、幕が開いてみないと分からないものです。お客様は何人いらっしゃるのか、ショーは盛り上がりをみせるのか、そしてその内容にお客様は満足して帰られるのか、などなど。始まるまでの緊張感が大変です。カルメンはもう何度もイベントを仕掛けてきました。しかし、今回のファドのディナー・ショーは、ショー当日までそうとう神経をすり減らしました。いままでカルメンのイベントといえば、フラメンコのショーが中心。フラメンコという抜群の知名度に助けられ、スペイン料理店でスペインものをすることで、お客様集めにそう苦労はしませんでした。
しかしファドという音楽は知る人ぞしる、月田秀子さんという歌手も同じ知る人ぞ知る、というどちらかというと玄人受けするジャンル・人です。まずファドそのものを説明する必要があります。筆者は「フランスにシャンソン、イタリアにカンツォーネがあるように、ポルトガルにファドがあるのです」といった初歩知識の伝達から始めなくてはいけません。
月田さんは、ファド一本で生きている素晴らしい歌手です。一度聞いたら、その魅力にひかれる人も多いのです。しかし、いままで聞いたことがない人にその感動を言葉で伝えるのは簡単ではありません。今日のコンサートは、夏には決まっていたのですが、お客様を集める術というのが、なかなか難しい。マスコミに広告をだす予算的余裕もありません。幸い、「新イスパニック・クラブ通信」「ラテン手帳」に紹介されました。また今日の朝日新聞朝刊に紹介記事が載ったおかげで、予約なしでこられる方もいらっしゃいました。
始まってみれば、まあまあ満足のいくお客様の入りでホッとしています。筆者はこの二、三日のうちに、「店主のつぶやき日誌」を読んでいただいてる読者の方にメールで声を掛けさせていただきました。これに応えてくれた方々に対して、ネット上からではありますが、深く感謝いたします。
さて、ディナー・ショーの方ですが、店内の照明を極力落として、ほとんどロウソクの火だけで行われました。今回は、ファドの女王といわれたアマリア・ロドリゲスの一周忌に合わせて、行われたもので、アマリアの唄が中です。月田さんは、「ファドには明るい曲もあります。でも今日は歌いません。じっくりと聞かせる曲ばかりを選びました」とさらりと言ってのけ、スローテンポの曲を熱唱しました。
悲しい時は、悲しい音楽を聴く方が"癒し"になるといいます。月田さんの歌声は、世紀末の元気のないJaponの人たちの心の奥底にきっと響いたことでしょう。
331-10月17日(火)
朝夕が少しずつ冷えていきます。
皆様、いかがおすごしでしょうか。明日はファドのコンサート。まだ空席があり、皆様のご来店を心よりお待ちしています。昨日、北海道から帰ってきたばかりの月田秀子さんから電話が入りました。今月25日(水)には、NHK第一ラジオで午前に放送される"いきいきティータイム"に出演されるそうです。
明日のコンサートが楽しみです。季節もファドに似合う季節となりました。
330-10月16日(月)
カルメンの定休日。今日は、FMわぃわぃの番組を担当するので、朝からキューシートを書いたり、選曲をしたり最後の仕上げをします。ラジオ放送の現場では既にデジタル化が進んでいて、筆者がリスナーとして接していたレコードを回しての放送といったスタジオ光景はいまや見ることができません。CDなりMDは、時間が表示されるので編集に便利です。われわれはデジタル技術の恩恵を受け、そして今やデジタル技術なしでは生きていけないようになっているのです。
最近、音楽を録音・保存するメディアは多様となり、デジタル技術をベースとして、MPSなどが登場。インターネット経由でも、送受信できるよう圧縮率を高くするなどした新技術が次々と実用化されています。業界の人に聞きますと、やがてMDは廃れても、CDまたはCD-RWは残るだろうとのことです。レコードやオープンリールで演奏・保存していた時代と本当に大違いです。
この日の「南の風」奄美篇は99回目の放送。特集テーマを"恋唄"としました。その"恋唄"はデジタルかって? うーん、難しい質問ですね。未来にわたって"恋唄"はデジタルになっていくのでしょうか。
329-10月15日(日)
数日前、カルメンの近所で、ちょっとした"猫騒動"がありました。いや、たいしたことはないのです。子猫がジュースの自動販売機の隙間から出てこられずに、ミャーミャー鳴いているのを、近所の大人たちが"救出"するというものです。ところが驚いたことに、たかが子猫一匹に、どこから集まったのか、多くのご近所さんが集まり、携帯電話でどこへやらに連絡して、大騒動して、やっと救出したようです。筆者は子猫が鳴いているのを知っていたのですが、無視していました。言っておきますが、筆者は大の猫好きです。少年時代から13年つれそった猫がいて、それはそれは可愛がったのです。しかし、今回はなぜか、たかが子猫のことと興味をもたなかったのです。
カルメンの近所には、猫が多く、子猫もしょっちゅう生まれています。ところが野良猫の悲しさで、平均寿命は1年たらずだそうです。食い物屋が多い土地柄なので、残飯などを猫に与えている人がいます。だから全くの野良猫でもないのですが、人には寄りつきません。人間の膝の上にのって安らかに眠っているというような性分ではなさそうです。
カルメンの屋上には、かつてイタチも住んでいて、猫との力関係が気になります(さすがにタヌキはこのあたりでは見かけず、山手幹線より北に行かないと見ることができないようです)。
328-10月14日(土)
最近、携帯電話を使っています。
番号をあまり人に知らせていないので、今はメール交換機のようなものです。筆者が選んだのは、NTT DOCOMO のiMode機種です。メールは250文字まで送受信できます。パソコンのキーボードに慣れていると、携帯で文字を打ち込むのは大変です。最近は少しずつ機械のクセを覚えたので、省時間化できましたが、それでも250文字を打つのに、30分以上かかります。
若者は文字の打ち込みが早く、筆者が苦労して15分ぐらいかけて出したメールの返事が5分ほどで同じ文字数のものが帰ってくるのには驚いてしまいます。携帯メールは世代によって、内容に差があり、若者は実に気楽にメールを利用して楽しんでいます。筆者は、貧乏性というのか、なるべく多くの情報を掲載したいために、漢語は多く、文章も連体詞どめにして工夫しています。
携帯メールの面白さは、いつでもどこからでも発信でき、そして受信も出来るということです。メールを発信するのに、ノート型パソコンを持ち歩く必要もなく、100グラム以下の携帯電話さえあればいいのです。また、パソコンのようにサーバーに溜まっているものにアクセスする必要はなく、発信されたものがすぐに届くというリアル感が魅力的です。ただし、金曜日や土曜日などの夜に、会社が違う携帯にメールを送ると、普通なら、数秒後に届くのが、1時間以上かかったりするのです。
携帯メールを使って、いま筆者は、ある女性詩人と「詩華交換メール」を交わしています。相手はJ-phoneなので、文字数は128文字しか送れません。そしてもう一人の女性編集者にむけて情報を発信しています。いずれこの日誌でも内容を公開しようと思っています。それから「立ち飲み」のホームページを立ち上げている友人が開設している「掲示板」にも酒・ワインについての情報を、携帯から発信しているのです。
327-10月13日(金)
イエメンのアデン港に停泊していた米第五艦隊所属のミサイル駆逐艦"コール"に、爆薬を積んだゴムボートが体当たりして爆発。米兵4人が死亡、12人が行方不明になっています。犯人は、オサマ・ビン・ラーデン氏率いるイスラム原理主義者ではないかとの報道もあります。ラーデン氏の根拠地はアフガニスタンにあり、イスラム世界における原理主義者の一大拠点となっているのです。"コール"に突っ込んだゴムボートは、二人の男が立ったまま運転していたそうです。自爆テロです。死は覚悟の上でしょう。駆逐艦の横っ腹に大きな穴があいている写真が新聞に掲載されていました。
アメリカの軍艦に向けて爆弾を積んだBoatで突っ込んでいく――みなさん、どこかで聞いた話ではありませんか。そう、Japonの国で55年前に、日本軍がとった特攻戦術とそっくりです。
筆者の父(カルメンの初代オーナー)は、学徒出陣で海軍の特殊潜行艇"蛟竜(こうりゅう)"に乗船するべく、1945年3月から8月の敗戦まで広島県大竹市の訓練所にいました。しかし戦局は逼迫していて、実物の"蛟竜"は見たことはないそうです。海軍はこの他にも"回天""震洋(小説家の島尾敏雄が乗り込んでいた)"などを開発して、乗員・爆薬とともに敵艦に突っ込むという作戦を遂行していました。
かたや宗教のために、かたや国家のために、死を覚悟しての行為です。そのどちらの敵もアメリカ軍だという"偶然"にふと何か別なことを考えたくなります。ちなみに、先の戦争中、米軍は、Suiside Boat(自殺艇=米軍が命名した日本軍の特攻艦艇)が近づいてくると、艦船の上から、丸太ん棒を海に向かって投げ入れたそうです。すると、Suiside Boatは軍艦に体当たりする前に、爆発、粉砕されてしまう――前途ある若者が国家のために死ぬという実態は、丸太ん棒にぶつかって死んでしまうという事実であったのです。
※"蛟竜(こうりゅう)"は、真珠湾攻撃の際には2人乗りだったそうですが、その後改造されて、6人乗りに。魚雷を二発搭載。戦局が悪化してからは、一発は発射し、残り一発は発射せずに艦艇ごと敵艦にぶちあたるという戦法だったようです。
326-10月12日(木)
オリックス・ブルーウェーブのイチロー選手が、来季からアメリカ大リーグでプレーすることになりました。この件について号外が配られたらしく、お客様がカルメンに毎日新聞の号外を持ち込んでいました。号外を出すほどのものかといぶかったのですが、この国を代表する選手が"海外流出"するわけですからやはり大きなニュースバリューなのでしょう。オリックス・ファンにとっては、イチロー退団は折り込み済みで、気はすでに"ポスト・イチロー"に傾いていました。でも来季からグリーンスタジアム神戸は、客が入らないでしょうね。イチローがいても3万人入る日は数えるほどだったので、入場者数でいえば、かつての阪急時代に逆戻りしてしまうのではないでしょうか。スター不在といえば、阪神も似ているのですが(筆者は新庄をスターだとは認めていないのです)、人気の"基礎体力"が違います。三宮から地下鉄に乗ってわざわざ30分もかけて球場へ足を運ぶ情熱を駆り立てるのには、強さと人気とスター選手でしょう。筆者はファンであるのですが、オリックスは"強さ"をのぞけば、地味な選手が多いのは百も承知なのです。
オリックス球団はイチローがFA権を行使する前に、球団主導でイチローを大リーグに"売り飛ばした"と言われても返す言葉がないでしょう。球団史上初の屈辱のBクラスになってしまった悔しさを、イチローに支払っていた高額の給料で、補給していくしかないでしょう。来年は、頑張ってね、オリックス。神戸市民は、まだ見捨てていないからね。
325-10月11日(水)
白川英樹氏にノーベル化学賞が授与されることになりました。Japonの人たちにとって9人目だそうです。新聞・マスコミ等は一面大見出しで報道しています。大きなニュースです。白川氏の研究業績は、プラスチックに電気を通すということだそうです。いまやその汎用技術は携帯電話にも使われ、われわれもおおいにその恩恵に与っているわけです。
それにしても今年四月に筑波大学を定年退官をして、本格的に悠々自適な生活を楽しもうと実践し始めた矢先だったそうですから、これから生活は一変してしまうでしょう。Japonの人たちにとって、ノーベル賞受賞者というのは、"生き神"さまのような存在です。ちょっとした行動も注目されてしまいます。家人はゴミの出し方、買い物の中身にも気を遣うことになるでしょう。また白川さんが住んでいる地域は"神さま"が居住している場所としてあがめられるかもしれません。これからは多くの講演会依頼、科学者や文化関係者との対談・座談会、執筆依頼など、あまたの仕事が飛び込んでくるでしょう。とうてい、毎日好きなサボテンいじりをしているどころではなくなってきます。
国はあわてて文化勲章を授けると言っているようです。国内で位階の対象となるのは国内規準で地位を確立した人、ある年齢に達した人というイメージがあり、時々こうした海外の評価が先んじて、後で帳尻合わせ的に勲章を授けるというパターンがあります。そういえば、一人前のノーベル賞受賞者である大江健三郎氏は、受賞後に国から申し出があった文化勲章受賞を拒絶しています。戦後民主主義を体現した表現を続けている大江氏にとって、位階というのは、〈天皇が授ける―国民(臣民)が授かる〉という戦前からの構造を踏襲している非-民主主義的な権力関係以外のなにものでもないからでしょう。
324-10月10日(火)
カルメンの休みの日。ダイエー甲南店に買い物へ行きました。普段なら、3カ所ぐらいしか開いていない一階のキャッシャーですが、ほとんど総てのキャッシャーが稼働しています。やはり優勝セールというのは、たいしたものです。筆者はズボンや、下着類、靴、MDなどを買い求めました。日本シリーズが21日から始まるので、勝てば再び優勝セール、負けても声援感謝セールをするでしょう。
プロ野球の球団を持つ企業というのは、優勝による売上げ増が見込めるので、頼もしい限りです。われわれ一般消費者にとっては、小売りに関係する企業が所有する球団に勝ってほしいというのが本音です。しかし、巨人が優勝したって、サティや三越なんかに行くもんかという気持ちです。勝手にセールをしやがれ、ともいいたくもなります。
というのは、わがオリックス・ブルーウェーブは、屈辱のBクラスが確定しているのに、いまだ不毛の消化試合を4試合残して戦っていて、1試合の観客動員数も10000人を割っています(そういえば今年一回もグリーンスタジアム神戸に行けませんでした)。セリーグでは応援している阪神タイガースは3年連続最下位(これは球団史上初だそうですが、まだ3年なのかというのが正直な感想です)といった惨憺たる現状なので、"負け犬の遠吠え"をはきたくなるのです。それにしても阪神は、名将といわれた野村監督が就任しても(立派に)最下位なのですから、筋金入りの"虚弱"球団なのですね。負けることが自分たちの仕事だと思っているのでしょうか。
323-10月9日(月)
月曜日ですが、祝日なのでカルメンは営業しています。昼の休憩時間、ポートアイランドにある神戸市立青少年科学館に行って来ました。長男の中学2年生の夏休みの工作の宿題が展示されているのです。特設会場の4階に行ってみると、長男が造った"でんでん太鼓"がありました。市立中学校単位で展示していたのですが、該当中学のところに、作品がない。探したところ、今年の課題である幼児の玩具特集コーナーにありました。最近の中学校は、制作過程を写真に収めて学校に提示する必要があるのです。長男の作品にはその説明パネルも付けてありました。残念ながらその作品は、賞は取っていません。
筆者は長男を提示作品の前に立たせて、記念(証拠)写真をパチリ。初期の目標を達した後は、ゆっくりと会場を見て回ることが出来ました。中にはレベルの高い工芸作品や被服作品などがあって、中学生の(いや実態は両親そして祖父・祖母の)工夫のほどが知られるのです。
会場をあとにしようかという時、大雨と雷がなり、しばし足止めをくいました。天が裂けるほどの大雨というのは、あのような雨をいうのでしょう。
322-10月8日(日)
ダイエーが優勝すれば、大きな影響が出ます。全国に多くあるダイエーの全店舗でセールが行われるからです。ダイエーの経営陣もまさか2年連続でリーグ優勝を果たすとは思っていなかったのでしょう。ちょうど日本シリーズの開催予定中に福岡ドームにイベントを入れたりして、世間から常識を疑われていました。またダイエー本体も社長をはじめ経営者がインサイダー取り引きまがいの株売買をして、マスコミから袋叩きにあうなど、優勝どころではないのかもしれません。本日午前9時から優勝セールが始まっています。筆者の次男は、午前10時ごろに先着500名に配られるマグ・カップをもらうために甲南店へ飛んでいったのですが、寸前でアウト。半泣き状態で帰ってきました。筆者の家族にとってもダイエー優勝は、小さな小さな物語をつくっています。
321-10月7日(土)
ダイエー・ホークスが、オリックスに勝ち、パ・リーグの2年連続優勝を果たしました。福岡の人たちは喜んでいることでしょう。カルメンに福岡出身の大学生がアルバイトをしています。その彼いわくには、福岡で若い人は、ダイエー・ファンが多く、中年以上は、西武ライオンズ・ファンが多いそうです。世代によって応援するチームが異なっているのです。
福岡は、筆者の身内もかつて住んだことがあるので、少しだけ知っているのですが、物価が安く、魚が美味しい街です。それに福岡周辺にいい焼酎の産地があって、それを思い出すだけで喉がなってしまいます。米焼酎は有名で、麦焼酎は、壱岐島産のものが優れています。また多くの焼き物の産地があることでも知られ、筆者は母譲りの"陶器好き"なので、九州に行くたびに楽しみにしています。
福岡は住み良い場所です。最近では、アジアに開かれた都市創造を推進していると聞きます。韓国・釜山へは高速艇にのればすぐ着くし、飛行機であればあっという間に到着してしまいます。こうした好立地にあるダイエー・ホークスなら、冬期だけ韓国のプロ野球チームと"玄界灘シリーズ"をするとか、台湾・韓国のプロ野球チームと台湾・沖縄・奄美・済州島で、"環東シナ海シリーズ"などを企画したらどうでしょう。
320-10月6日(金)
大きな横揺れでした。午後1時30分ごろ、鳥取県西部を震源とする地震があり、カルメンも震度4程度の揺れでした。最初、筆者は店内を歩いていて気づかず、「あっ、地震!」というスタッフの声で知らされ、あとユッサユッサと長い横揺れが続きました。阪神大震災の時は、横揺れだったのか、縦揺れだったのかわからないぐらい一瞬にて大きな揺れに襲われたので、地震を観察するいとまもありませんでした。今回の地震で不幸中の幸いだったのは、死者がひとりも出ていないということです。倒壊・半壊家屋があった家は大変でしたが、生命を落とした人がいなかったというのは、なによりのことです。
Japonの列島は、5年前の阪神大震災を機に、地震の活動期に入ったといいます。今回揺れが厳しかった場所は、地盤が固いところのため、それほど大きな被害は生まれなかったようです。考えてみれば、神戸という場所は、地盤が安定している場所とはいえず、自然災害に弱い地域なのです。都市の利便さを享受できる場所ではあるのですが、反対に災害には弱いところなのです。
そして今日はもうひとつ大きなニュースが。ユーゴスラビアで、先日に行われた大統領選挙に対して政府がもういちど決選投票を行うと発表。これに対して野党を支持する群衆が、大規模なデモを展開。ついには"革命"をおこし、独裁者のミロシェビッチ大統領を辞任に追い込んだのです。"革命"----しばらく忘れていた言葉です。筆者の世代にとって革命とは、労働者・学生による既成勢力="右"陣営の政治的転覆を意味しました。しかし、われわれが目にした本物の"革命"とは、民主勢力によって"左"陣営=社会主義国を打倒した政治劇でした。歴史とは皮肉なものです。われわれが若い時に抱いていた"革命"への希求は、永遠に実現されることなく、潰えてしまったのでしょうか。それにしても群衆の力とは偉大です。
319-10月5日(木)
先月の話ですが、Japonにおける聖書研究の碩学である関根正雄さんが、9月9日に死去されました。筆者は朝日新聞の訃報欄(00年10月3日付)で知ったのです。関根氏の仕事は、旧約聖書の翻訳で知られています。旧約聖書の個人全訳を40年以上かけて完成させるなど、聖書研究にかける情熱はなみなみならぬものがありました。筆者は大学時代(1975年)、関根氏の訳による岩波文庫版『詩篇』等を購入して、読みやすいその翻訳文で、旧約聖書の世界に触れることが出来ました(今手にしているその文庫には1975年12月23日読了の書き込みがあります)。
朝日の訃報記事を読んでいると、関根氏は18歳の時、内村鑑三が主宰する「聖書研究会」に入り、無教会主義のキリスト教に接触したそうです。本格的な聖書研究を目指して、戦前のドイツに留学。「終戦直前まで」(Japonの"終戦"なのか、ドイツの敗戦なのか不明)ドイツに留まって聖書研究をしたと書かれています。戦後(1949年)は、"千代田無教会集会(後の無教会新宿集会)"を主宰。毎日曜日に聖書講義を続けたのです。
筆者が注目するのは、関根氏が、ヘブライ語の旧約聖書を本格的にこの国に分かりやすく紹介したことと、無教会運動に携わっていたことです。内村鑑三は、一時この国における無教会運動の指導的立場にあったキリスト者です(のちにこの運動と距離を置くようになる)。その影響を受けた関根氏がどのように無教会運動を理解していたのか関心があります。筆者にとってもこの無教会運動というありかたは、(いくぶん自らもそういう指向があるという意味で)深い関心を持っているのです。この運動が訴える内容が、今でもJaponの人たちにとって有効なのかどうかを考えていきたいというテーマを持っているために、関根氏が無教会運動に携わっていることを知り、興味を持ったのです。
死去というのは、悼むべき営為ではありますが、その人の偉業(著作)が、書店で特集されるとか、全集としてまとめられるスタート時点であるとも言え、その人が書き残したものを集中して読めるという楽しさを与えてくれるキッカケであるともいえます。これから関根氏の著作・言説に注目し、Japonを代表する聖書学の碩学が展開した無教会運動について知り、筆者なりに考えていこうと思っています。その内容を、いずれの日にか、このサイトでまとめて書いてみたいものです。
318-10月4日(水)
嫉妬―――という言葉を使ってみようと思います。本日、三宮の"東急ハンズ"裏にあるホテル・モントルーで名古屋のワイン輸入業者によるワイン試飲会がありました。スペイン、フランス、イタリア、ドイツといったヨーロッパの主だった国のワインが並べられていました。
筆者が"嫉妬"したのは、ドイツの"白"です。どうしてこうもこの民族が造る"白"は美味しいのでしょう。一口含んだだけで、甘い香りがするフルーティさは万人向けのテイストです。マスカット系のワインもまた美味しい。一口だけ飲むだけで幸せな気分になるのです。甘口ばかりではありません。辛口の"白"もちゃんと造られていて、そのレパートリーの広さはさすがです。ドイツの白ワインの爽やかさと、ラベルに印刷された硬質な感じのするドイツ語とのミスマッチが、筆者の中で最後まで溶解しないままに、この民族の創造物を絶賛するのです。スペインでは、"白"ワインでDO(原産地呼称)をとっていない産地でないと、ある一定以上のレベルに達していないのです。
今回のスペイン関係では、ルエダ地方の"白"が並んでいます(ルエダは"白"でDOをとっている産地)。ヴェルデホ種というスペインに伝わる在来種を中心にワインを造っています。一つは、辛口。もう一つはフルーティさが特徴です。同じヴェルデホ種を中心に造っていながらボデガス(蔵元)が違うとこうも味が異なってくるのか驚いた次第です。ルエダでは最近、従来のスペイン産白ワインと差別化するために、フランスのソーヴィニヨン・プラン種といった外来種を移植することが流行っているようです。しかし、育つのは、間違いなくスペインの風土です。同じブドウ品種でも出来上りは、フランスの土で出来るものとは違うものだというのも面白いところです。
もうひとつ、このワイン試飲会で仕入れた情報があります。最近、ヨーロッパの蔵元で新しい傾向が普及しているとのことです。それは、スペインでいえばDO=原産地呼称=を外して、"ノー・産地ブランド"で商品を開発しているということです。このDOという装置は、産地としての信用を確立し、産地内の各ボデガ(蔵元)間のレベルを均質化、味を一定化させる効果を発揮させるのです。これは消費者にとっても安心の材料です。産地に対する信頼が培われ、例えばリオハのレセルバやクリアンサなら、ボデガスが違っても、同じクラスなら味や価格はだいだい一定していてるという効用をもたらすのです。
しかし、新傾向のボデガは、もっと付加価値の高いワインを造るために、あえて産地ブランドを外し、ブドウ品種もその産地以外からも取り寄せます。蔵元の商品開発力を全面に押し出し、そのワイン単体で勝負していこうというものです。DOは産地への信頼感と価格の安定をもたらしますが、反対に言えば、世間で評価されているその産地のクラス価格に縛られるという現実も附帯しています。どんなにいいワインが出来上がっても、クリアンサなら、5000円以上つけることは無理です。こうしたDOの縛りから解放して、少々高くなっても満足のいく商品をつくろうという蔵元の意気込みを感じます。(でも消費者やレストランにとっては、こういう"ノー・産地ブランド"ワインというのは、値段が間違いなく高くなってしまうので、ありがたい話ではないのですが……)
317-10月3日(火)
休み明けの火曜日。今週はどのようなお客様との出会いがあるのか楽しみです。レストランという仕事は、毎日まったく同じということはあり得ないのです。たとえ、連続して来られるお客様がおられても、毎日すこしずつ変化があります。スペイン料理を食べてみよう、何十年ぶりにカルメンに来てみようと、来店動機はさまざま。30年ぶり、40年ぶりに来ましたとおしゃっしゃるお客様に対しては、ただただ感謝するばかり。「学生時代から知っているんだよ」とおっしゃるお客様は少し誇らしげ。本日来店いただいた女性の方は、フラメンカ・エッグを見て「そうそう、これこれ」と感慨深さそうに頷いていらっしゃいます。
伝統というのは、こういうことなのでしょう。人の過ぎしこの方を忘れさせ、この前カルメンに立ち寄った昔の自分が鮮やかに蘇るのです。そこで思い出すのは、受験時代にたたき込まれた名言「継続は力なり」なのです。みなさん、そう思いません?
316-10月2日(月)
カルメンの定休日。午前11時、沖縄からのお客様を拙宅に迎えいれ、書斎で打ち合わせをしました。拙宅の書斎は狭く3畳ほどしかないのですが、パソコンという便利な"書類ケース"があり、書籍・資料が手の届くところにあるために、筆者にとって便利な場所なのです。またこの部屋にいるときが一番心落ち着く時・場所であるのです。
朝鮮民族の士大夫階級(両班)のインテリたちは、心を許す友しか、自分の書斎に通さないと聞きます。大切なお客様は、客間ではなく、書斎に通すとも聞きます。在日韓国・朝鮮の人の家に招かれて、書斎に通されれば、信頼されている、または大切にされていると思っていいでしょう。かれらはこうした文化伝統があるために、書斎というトポスを大切にし、室内装飾のしつらえなど、凝る人が多いのです。立派な書斎を持つことが、朝鮮民族の伝統と歴史の中に参画しているという意識を確かなものにするのでしょう。
ひるがえって考えますと、Japonの人たちは、客人はマレビトであり、客間で応対します。上座に座ってもらい、まるで来訪神のような扱いで、歓待するのです。これがJaponの文化伝統でしょう。書斎という空間は、客人を迎えるためのメディアとして機能しているとは言い難く、その家の当主のプライベート空間の位置づけです。だから、書斎(あるいは"書斎コーナー")のあるなしが、Japonの男性たちにとって、ひとつのステータスになります。書斎を造るぐらい延べ床面積に余裕があるという意味です。
現在のJaponの家造りにおいて、当主の"書斎"(最近はホビーの空間とも)なぞ、真っ先にプランニングの時点で削られる運命にあります。「お父さんの"書斎"? そんなんいらんわ」との配偶者の力強い一言で、男達のはかない夢は潰えてしまうまです。配偶者の家事ユーティリティは優先されても"書斎"なぞ造る余裕がないのが現状です。それでも主張しようものなら「子供達が大きくなって家を巣立っていくまでまちなさいよ」と言われるのが"おち"です。でも最近、パラサイト・シングルが増えて、なかなか息子・娘たちは巣立っていきません。かくして男達の夢の実現はどんどん遠くなっていくのです。
沖縄からの客人との打ち合わせが済んだ後、トマト・ソースのパスタを食べ、イタリア・キャンティ産の赤ワインを二人で一本あけました。食後に、ジャズ・ピアニストでもあるその客人は、拙宅のピアノで、ジャズのスタンダート曲を弾いてくれたのです。優雅な月曜日でした。
315-10月1日(日)
神戸市内の小学校では、各地で運動会が行われています。筆者も通勤前に、小学校を少しだけのぞいてきました。昨日の雨で開催が危ぶまれましたが、抜けるような秋空となりました。わが子の姿を撮ろうと、多くのビデオカメラが見受けられます。それも殆どがデジタルカメラに変わっています。
この小学校は、阪神大震災の時、筆者の家族も三日間でしたが、震災当日から避難していたことがあり、万感の思いを寄せる場所であるのです。その時の話はいずれすることとして、子供達の元気に跳ね回っている姿を見ていると、震災の被害とその後遺症を払拭してくれるのは、こうした子供達の元気しかないだろうと思えてくるのです。
ちょうど今の6年生は、震災の年の春に入学式を迎えた学年です。4月になっても、体育館には、避難している人が"生活"していて使えず、校庭にしつらえられた巨大テントで入学式を行いました。これもまた忘れ得ぬ出来事です。そうして入学してきた子供達もいまや最高学年になって、来春には、小学校を去ろうとしているのです。時は移ろいゆくものです。新しい世代があたらしい神戸の姿をつくっていのです。
314-9月30日(土)
9月もおしまいです。今日は、どしゃぶりの雨が降りました。
お客さまは、傘を用意していない方が多く、駆け込むようにして店にはいってきます。一日降ったりやんだり。ひと雨ごとに涼しくなっていくのでしょうか。本格的な秋はもうすぐです。ブドウの刈り入れなどワイン業者(ワイナリー・蔵元)はこれからの季節が正念場です。秋はやはりワインがよく似合う季節。カルメンでも少しずつワインの消費量が増えています。スペインは"赤"と断定したいところですが、最近"ルエダ"の"白"も気になるところです。10月に入ると、いくつか"ルエダ"の"白"が出品されるワイン試飲会が神戸であります。魚介類には、さっぱりした少し辛口の"ルエダ"が合いそうです。"リアスバイシャス"の"白"も美味しいのですが、辛口のテイストとなると、"ルエダ"に譲るのかもしれません。スペインは大きな国です。まだまだ筆者の知らないワイン・蔵元(ボデガス)・産地があるかと思うと、ワクワクゾクゾクしてきます。
313-9月29日(金)
《ナビィの恋》について--2沖縄の言葉についての話です。
この映画には、字幕がつく時があります。いわゆる〈ウチナー口(ぐち)=沖縄語〉が話されている時には、字幕がつくのです。映画の中では、日本語と沖縄語がチャンプルーになって、違和感なくストーリーが進んでいきます。現在の沖縄では、まったく沖縄語しかしゃべらない人は、老人のごく一部となり、大半のウチナンチュは、沖縄訛りはあるものの本土(ヤマト)言葉と殆ど変わらない言葉をしゃべります。これは、沖縄が日本国へ復帰して四半世紀経過して、社会が急速にヤマト化したためと、テレビ番組の影響があるでしょう。ウチナンチュが日本語を日常のなかで、ごく普通にしゃべれるようになったかわりに、若い人がウチナー口がしゃべれなくなったという平行現象が起きています。この《ナビィの恋》の映画でも沖縄における言語使用状況の現状がそのまま反映されています。筆者のようなヤマトンチュは、字幕がたくさん出てきた方が、沖縄映画を観ている実感が湧くのです。
沖縄で語られている日常言語の中に、語尾に「サァー」とつけるという特徴があります。「今日は久しぶりに学校へ行ったサァ」とか「きのう、勤務時間中にパチンコ屋で、あんたを見かけたサァー」という風に使います。沖縄の音楽は、琉球音階といってレ音とラ音がない特徴的な五音階で、とてノリのいい音楽を作ることができます。この琉球音階をピアノの鍵盤上で奏でるだけで、沖縄っぽくなるのも面白い現象です(この琉球音階についてはいずれ詳しくお話しましょう)。沖縄の日常文化は、音楽も言葉もノリがいいのです。沖縄で「サァー」言葉に囲まれていると、こっちまでそのノリがうつってしまうのです。筆者が沖縄から帰ると、しばらく「サアー」語尾が残ってしまい、「あんた、それ、どこの言葉やの」と周囲の関西人に聞かれます(関西もまた言語同一性が高い地域ですね)。
312-9月28日(木)
ピキャ、ピキャ とも キチャ、キチャ とも聞こえます。大きな音です。何の音だかわかりますか?
階段を降りる時によく聞こえる音で、若い女性が多ければ多いほどたくさん聞こえてくるのです。西洋つっかけ(ミュールともいう)の音です。去年から目立ってきていました。今夏はその数がさらに多くなっているようです。女性の履き物は、もともとハイヒールなどのように"歩く"という機能性に適していないファッション性重視のものがありましたが、ミュールもまた歩きやすいために開発されたものとはいえそうにありません。どう見てもつっかけであるのに、女性達は、普通のつっかけのように、ヅルヅルと地面をこすらせ音をたてて歩かないのには関心します。
ただ、困るのは、若い女性たちが多い時間帯の電車から降りる時は、階段・通路がいつも混雑してしまうことです。なにせつっかけ、足早に歩くことが出来ず、階段も慎重に降りるため、どうしても通路が込み合うのです。
まあ、これもまた2000年夏から秋にかけてのJaponの風俗模様でしょうね。
311-9月27日(水)
皆さん、「ディジュリドゥ(デジャリドュとの表記も)」という楽器をご存じでしょうか。オーストラリアの先住民族・アボリジニの楽器です。25日(月)の番組でそのデジャリドゥの楽器演奏を放送したのです。わたしが担当する番組(FMわぃわぃ「南の風」)は奄美の島唄と文化を紹介する内容で、オーストラリアと関係ないのですが、ディジュリドゥを演奏する人が、奄美三世なので、番組登場ということになりました。
演奏者は、"はくさんまさたか"さんです。祖父母が名瀬出身ということだそうです。このはくさん氏は、神奈川県生まれですが、1995年の阪神大震災の時に、神戸にボランティアに来て、2年間ほど兵庫区でテント生活をして(これは長い!)、そのまま神戸に住み続けている人で、震災以後、友人を介して、「ディジュリドゥ」と出会ったそうです。
「ディジュリドゥ」は長さ1.5メートル、直径7センチほどの太さ。本来はユーカリの木で作るのだそうですが、はくさん氏やこの列島民の「ディジュリドゥ」演奏家が使うものは、竹製が多いようです。竹の中の節をすべて取り除いて空洞にし、吹き口には、蜜蝋を塗り固めてマウスピースのようなほどこしをしています。御殿場に、竹製「ディジュリドゥ」をつくる人がいると聞きます。Japonの人です。また現地でも、バリ島製の竹製「ディジュリドゥ」を持ち込むアボリジニ演奏家もいるそうです。
音は"ボォー"という表記で紹介するしかないのですが、とにかく低音です。チベットの仏教音楽にも、地獄から聞こえてくるような長筒の楽器がありますが、わたしはまずその音と比較・連想しました。はくさん氏は、日頃、「国際マンゴ会議」という人をくったような名前の音楽ユニットで活躍されています。これは、アジアの楽器と、インド舞踏など、器楽演奏と舞踏が合体した表現集団です。
はくさん氏の演奏を聴いていると、声帯の奥から発せられた音を直接楽器に活用しているのがわかります。少々古い比喩ですが、かつて元気だったアヴァンギャルド・ジャズのレコードにvoiceというパートがありましたが(アート・アンサンブル・オブ・シカゴなど)、これに近いものです(年齢がばれますね)。
演奏は二本の「ディジュリドゥ」で行われ、微妙にチューニングが違うために"うなり"が生じて、面白いこ効果を醸し出しています。こうした楽器をバックに舞踏をすると、さぞかし刺激的な展開になるでしょうねと、感想を伝えると、もう一人の演奏者である三宅絵里子さん(大阪外大学生)は、「私が専攻しているスワヒリ語に"ンゴマ"という言葉があって、・おどり・音・まつり・太鼓といった意味があわせてあるのです」と教えてくれました。「ディジュリドゥ」のプリミティブな響きは、刺激的であり、想像力をかきたてます。(本日の文書の初出は、わたしが00年9月25日に発信したOBK-MLに発信したもので、それに若干の手を加えています)。
310-9月26日(火)
ようやく店内の冷房をかけなくていい季節となりました。例年より少し遅めです。今年が猛暑だった所以でしょう。窓を開け放つと、涼しい風が吹いてきます。爽やかな季節である秋の快感を風が運んできます。これから、戸外に出ても気持ちのいいシーズンでしょう。ピクニックなどもしてみたいものです。筆者は、秋の休日に奈良の寺社を訪れて、花を写真にとったり、サンドゥィッチと赤ワインを持参して、一人で花に囲まれてランチをとったりします。赤ワインは、前日の夜から出発の朝まで冷蔵庫に入れて冷やしておきます。昼頃には、ちょうどいい温度になっていて、美味しく飲めるのです。
関西は、花を売り物にしている寺社が多く、1000年の歴史を持つところも少なくなくありません。筆者もまたJaponの文化コンテクストの一員として措定されていることに、気づかされます。
さて、今年はどこに花を見に行きましょう。11月の紅葉もまた楽しみです。関西は名所が多く、住みやすい場所です。
309-9月25日(月)
カルメンの定休日。秋晴れの一日。
ひさしぶりに午前11時に起床。少し"夏ばて"気味です。
本日はFMわぃわぃ「南の風」の放送日。昨日、カルメンで録音したデジャリドゥ(オーストラリアの原住民・アボリジニの楽器)演奏をコーナー扱いにして、番組を構成していきます。今回は各島々の話題を取り混ぜて話を進行させるつもりです。昼食は、中学生の息子を交えて三人で。息子は日曜日が運動会だったので、本日は休みです。息子の通っている公立中学校は、校則が厳しいところだそうですが、中学三年生の女子に"茶髪"にしている生徒もいるとか。
悪意をもって語っているわけではないのですが、息子が通っていた中学校も数年前まで荒れていました。授業がなりたたず"学級崩壊"状態のクラスもあったようです。それがちょうどマスコミで問題視されている17歳の世代でした。現在高校3年生にあたります。単なる偶然でしょうが、他の地域でもこの世代の学級崩壊を訴えている声をききます。なぜなのかはわかりません。この偶然の重なりを強調しすぎると、悪しきパターン認識に陥りそうで、これ以上言及することはやめておきます。現在その公立中学校は、淡々と授業が進行してます。学年単位の"性格"というものがあるようです。息子の学年(2年)は真面目な子が多いと、母親たちはみています。
午後4時から「南の風」の生放送。今日は、話すテーマが豊富だっために、なめらかに番組が進行します。局には、会うことの少ないディレクターの金周司(キム・チョサ)氏がいて、番組終了後、雑談。FMわぃわぃのホームページが大幅に更新されるそうで、番組のタイムテーブルを紹介するサイトに担当者の名前が入るとのこと。さらに筆者のように、専用のサイト(「FMわぃわぃ「南の風」紹介サイト」)を持っている人には、リンクが可能になるように変わるそうです。これは楽しみです。ちなみに、筆者がつくるFMわぃわぃ「南の風」のサイトのURLは、
http://www.warp.or.jp/~maroad/channel4.html です。一度アクセスしてみてください)。番組は、奄美大島、徳之島、沖永良部島の島々の話題と、島唄を重ねて放送しました。帰宅後、夜は一家で「なにわ金融道」のテレビドラマを観ていました。
308-9月24日(日)
陸上競技に金メダリストが誕生しました。高橋尚子選手がマラソンで優勝したのです。余力をもっての勝利でした。Japonの女性で陸上競技で金メダルを取るのは高橋さんが初めて。男女あわせても1936年のベルリン・オリンピック以来のことだそうです。64年前の最後の金メダリストは、当時日本国に併合されていた朝鮮国の孫選手でした(マラソン競技)。朝鮮国は消滅して存在せず、「日本人」として出場した孫選手以来のことだそうです。こうした記録が提示されて思うのは、今世紀という時代は、侵略と戦争の100年であったということです。スペインは1890年代、アメリカとの戦争(米西戦争)に敗北して、フィリピンを失い、これで殆どの主だった海外領地を失い、スペイン人とスペイン社会に大きくて深い喪失感がひろがります。これにより、オルデガなどの哲学者が出現して、大帝国の遺産をすべて吐き出したスペインの現状をどう再定義するのかという思想運動が始まったのです。
Japonもまた1945年の敗戦により、すべての"海外領土"を失い、焦土のなかから、戦後民主主義を手探りながら確立していきました。今この戦後の民主主義とその思考が、右サイトからの問い直しがされています。右サイトの人たちは、どの時代でも声が大きく、"本音"を武器に主張を展開しようとするため、その素朴な実在主義に首肯する人も少なくありません。しかし、右サイトのひとが、大声どころか、大きな権力も握ると、その国がどのような運命を辿るのかは、スペインをみればよくわかります。スペインは、今世紀を前後してに政情不安が続き、その果てにリベラ将軍による独裁暗黒政治が展開されるなど、暗い時代を生き抜いてきました。右サイトの声が大きい時代、大きくなる時代は、すぺて暗く社会が停滞していた時代です。これは今世紀の歴史が証明しています。日本国もまた同じ経緯を経てきたことをしっかりと思い出すべきでしょう。
307-9月23日(土)
今日も帰宅途中の話から。三宮駅北側の通称"三角公園"に、沖縄のエイサーを演じる人たちが三線(さんしん)をバックに踊っていました。「月桃の会」と名付けられたその団体は、沖縄にかかわっているヤマトンチュ(本土の人)を中心とした集団です。演奏をしながら、沖縄本島名護市・辺野古沖に棲息するジュゴンを保護する署名を集めていました。なぜか若者を中心に署名集めに熱心で、筆者のような年齢層の人には、話しかけてきません。署名のついでに、「月桃の会」参加者の勧誘も兼ねているのでしょう。筆者はまるで透明人間のような存在でした。
演奏内容も中程度(三線と唄が充分聞けなかったのが残念)だったので、友人が主宰しているホームページの中にある掲示板に書き込む原稿を、携帯電話を使って打ち込んでいました。携帯電話にメール機能がついて、この電子メディアが持つ意味合いがぐっと深くなりました。デスクトップ型パソコンからのメールだと、事務所あるいは自宅から送るという装置性の高い仕草となりますが、携帯だといつでもどこでも発信・受信出来るという手軽さです。筆者が加入しているDocomoは、250文字まで送信できます。送る先の機種がJ-phoneだと128文字しか送れません。字数の多寡に注意を払う必要があるとしても、やはり今までにないメディアの出現であり、やってみると面白い。"はまる"のです。携帯電話の面白さ・愉快さは、若者だけに独占させておく手はありません。
306-9月22日(金)
店をしまい、帰宅するためにJR三ノ宮駅のプラットフォームに上がった時でした。携帯電話がなり、「いまカルメンに来たのに」と友人の声。午後10時をまわっています。その友人の父上が誕生記念会をして、その流れでカルメンに寄ってくれたのです。筆者は、急ぎエスカレーターを降り、その友人集団へ向かいます。着いたのは、カルメンより西に位置する雑居ビルのなかにあるスナックでした。典型的なというか、まるで判で押したかのようなスナックらしい内装の店でした。"スナック""カラオケ""水割り"の80年代スタイルです。その店に入った途端、10年以上昔にタイムスリップしてしまったような錯覚に陥ります。
筆者がサラリーマンだった80年代は、まだまだスナックというメディアはいきいきと活躍していました。スナックで水割りを飲みながらカラオケを歌うというのが、当時のサラリーマンのスタンダードな飲食スタイルでした。しかし、筆者はこのスナックが苦手だったのです。一つは、必ずカラオケを歌うことを強制されたためです。筆者は人前で歌うのは苦手で、上手くありません。歌えと言われ続けるスナックの雰囲気から逃げたくて仕方なかったのです。「わたしは下手ですから」と正直に申告しても、スナックの"カラオケ人間学"では、「本当は上手だけど、もったいぶっている」とみなされ、唄ってくれともっと言ってほしいのだと思われるのです。
カラオケがなると、スナック全体がその音で満たされ、歌うのではなくて、その度ごとに、会話が途切れてしまいます。立て続けにカラオケが続くと、苛立ちもします。筆者は酒を飲むと歌うのではなく、会話を楽しみたいのです。一人の"自慢の"歌声で、他の人のコミュニケーションを邪魔するというのは、どうもなじめません。ある人は歌い、ある人は会話を楽しみ、ある人はひたすら酒を飲み続けるという空間が酒の場では望ましいと思っています。
ひょっとして、スナックが今の若者に支持されないのは、歌うためならカラオケボックスへ行くという目的別に行動している人たちにとって、スナックは歌を楽しむばかりではなくて、見知らぬ人間との間に確立される社会的規範を守る必要が生じ、これを煩わしく思っているかもしれません。
それに"水割り"もよくありません。筆者の20歳台は浴びるようにウィスキーを飲みました。"水割り"とは、Japonの人たちが生み出した飲み方です。ウィスキーというのは、もともとストレートかロックで飲んで美味しいものです。しかし、醸造酒的な(日本酒的な)飲み方をしてきたJaponの人たちにとって、酒を飲むということは"量"を飲むことを意味するのかもしれません。西洋人の蒸留酒の飲み方は、ストレートを少しずつ飲んでいるようです。そうした飲み方は、Japonの飲酒文化にないために、蒸留酒でも醸造酒的な飲み方にした(つまりアルコール度数を下げた)のだと思われます。
しかし、筆者が問題にしているのは、スナックという媒体はウィスキーまたはバーボンしか出さないということです。まるで進化がとまった生物のようです(半分グラスが空くとすぐ新しいのに替れられてしまう"親切"も参るのです)。カルメンで美味しいワインに多く接していると、どうしてこうもワン・パターンなのかいぶかってしまいます。しかもウィスキーは悪酔いしがちなので、飲み過ぎると翌朝がつらい。この点、筆者が現在愛飲している焼酎はウィスキーに較べ悪酔いは少ないようです。
筆者が個人的に主宰する飲み会は、〈語る・聞く〉ことを中心に行われます。酒は語りのよき伴侶です。また決して歌を強制することはありません。筆者が選ぶ酒の店は、語りを中心に宴を進めることを許容してくれるところです。〈スナック・カラオケ・水割り〉という三題噺は、筆者のような中高年に今後も支持されて存続していくでしょうが、出来る限り避けたい世界です。
305-9月21日(木)
今日は蒸し暑く、気温も30度を超えています。
もう少し涼しくなると、いよいよワインの季節が到来です。最近、筆者あてに1本のメールが届きました。今春に試飲会で知り合った名古屋のワイン輸入商の社長からのものです。
"ルエダ"の白がようやく手に入った、というものです。ソーヴィニヨン・ブランというフランスの品種をふんだんに使ったvinoだそうです。
10月は、ワインの試飲会がいくつか神戸であります。最近、情報のアンテナを掲げていることもあり、スペインの白ワインのことがすこしずつ分かってきました。今のカルメンに手薄な辛口の白について、ルエダあたりのものを仕入れようかと思っています。
304-9月20日(水)
《ナビィの恋》について--1先日観た沖縄映画《ナビィの恋》についての感想を、何回かにわけて連載しようと思います。この感想記は、全体のあらすじを追うものではありません。
映画の舞台になった粟国島は、沖縄本島の西海上に浮かぶ島です。島から本島や久高島も遠望出来ます。この映画に出てくる重要な役回りをしているのが"ユタ"です。ユタとは、シャーマンの一種と思っていただいて結構です。予言をしたり、東北の"イタコ"のような口寄せなどもしたりします。沖縄・奄美社会では、このユタの存在は無視されざる力があり、沖縄の新聞には「ユタは有害。ユタを撲滅しろ」と勇ましい投書がいまでも載ったりします。
映画の中でもユタは大きな位置を占めています。島の名家の娘であるナビィと恋仲になったサンルーとの中を、"東金城(あがりかねぐすく)"家は、ユタに伺いをたてます。ユタの宣択は「サンルーを島から追い出せ」というものでした。昭和の初期のころの話です。サンルーは、島の青年たちによって無理やり島から追放。その後、ナビィは、今のオジィと結婚して、子供そして孫まで設けるのですが、60年ぶりに帰ってきたサンルーは、ナビィとの約束(何年かかっても島に戻ってくる)を守ったのです。再会したのは、ナビィがひとり守ってきたサンルー家の墓所。そこは花で満たされていました。ナビィがひとり墓を守っていたのです。しかしサンルーの一族は死に絶え、サンルーもまた継子がいないため、一族が滅びいくのは目に見えてあきらかです。ひしと抱き合う二人。60年ぶりに再会した二人は時を超えて心と心が結ばれるのです。
こうした二人の中について、東金城家はまたユタに伺いをたてます。この時は島を離れていた親族なども里帰りして、一族が勢揃いします。そこに登場したユタは、60年前の白装束ではなく、派手な衣装に身を包み、"光り物"の装身具でいっぱい飾り立てた金満女として描かれています。この映画のもう一人の主人公である奈々子は「このいんちきユタが!!」と吐き捨てるように独白するシーンがあります。島の青年と結婚するのが定めだとユタに言われて「だからシマはきらいねぇ」と毒づきます。ユタはウチナンチュが何かと困ったときに"神頼み"することを利用して、高額な"相談料"や"宣択料"を請求して、金まみれになっているユタもいるのです。このユタは、足が不自由で、島の中でも、老人用の自動歩行器を使用しています。これは悪業がたたっての結果であるとの批判が込められているのです。
金満ユタはこう言います。「サンルーを島から追放せよ」。60年前と同じです。沖縄社会は戦争を前後して大きく変容しました。しかし島・シマ(集落)・一族単位で考えると、まだまだ排他的なところがあって、共同体の"意思"というものはそう大きく変化していないのかもしれません。しかし琉球弧のユタは人々の生活に影響力を持っています。金満ユタは、ナビィをじっとみつめるや「身体の調子が悪いだろ」とずばり言い当てるのです。ナビィは腰痛にずっと悩まされていたので、ギクリとした表情をみせます(この時の表情表現も見事でした)。
これはユタが島共同体に自分も生きているので、ナビィが腰痛で悩んでいることを知っていることは充分に考えられます(だからわたしの知っている奄美の人はわざわざ違う島に住むユタや、大阪にいるユタにうかがいを立てることもするようです)。ユタはこうした場合、墓所に水が貯まっているからだと言ったり、先祖への供養が足りないとか、先祖の中で供養されていずに恨みを持っている者がいる、などといいます。原因不明の身体の不調に悩んでいた人が、ユタの言うことを実行すると、不思議に治癒したりするのです。
ユタはまだまだ多くの人が頼りにするので、沖縄・奄美の島嶼世界では生き続けています。マイナス面ばかりではありません。奄美・沖永良部島のユタは、代々「島建てシンゴ」という創世神話を口伝継承してきているのです。口承文芸継承者としての役割も果たしているのです。
303-9月19日(火)
ようやく金メダルが三個になりました。これは前回のアトランタ・オリンピックの金メダルの数と一緒だそうです。かつて"お家芸"と言われた柔道、体操、バレー・ボールなどか不振をきわめ、反対にメダルがとれそうな競技として、野球、サッカーが注目されています。また水泳も、戦前"前畑"が活躍している時期は強かったのですが、しばらく(平泳ぎ以外は)不振だったのが、ここ数回のオリンピックでメダルを取れるまでに復権してきました。メダル候補の野球とサッカーに共通しているのは、ともにプロリーグがあるということです。最近のオリンピックは商業主義が蔓延しているとの批判がありますが、いまJaponで強い競技というのは、商業主義に裏打ちされたプロ・リーグの存在抜きには考えられません。もしバレー・ボールに"Vリーグ"がうまく機能していたら、今回のようにオリンピックにも参加できないというレベルではなかったかもしれないのです。
面白いのは、読売ジャイアンツがオリンピックに選手を派遣することに否定的だということです。おそらくオリンピックより、セ・リーグ優勝を優先させているのでしょう。これは面白いことです。筆者は、拙宅では朝日新聞を、カルメンでは読売新聞を購読しています。読売は一線で働く記者諸氏はともかく、編集委員クラスになると、さかんに日本が国家たらんことの必要性を強調します。特に朝日との対比において、国家という枠組みを読売は大切に考え、民益より国益を重視する傾向にあります。国家機能を確実にすることが、国民の福祉に直結するのだという19世紀的国民国家の思考の枠内で発想する言説が目立ちます。
そこが読売の面白いところです。オリンピックというのは、国民国家の地球的祭典であり、どこかしこも国家主義の匂いがふんぷんとするイベントなのですが、紙面の上では、国家、国家と書いているくせに、いざ私企業としての立場にたちかえると、所属野球球団については、国への奉仕より私的な(商業主義的な)成功を優先させているのです。勿論こうした自己矛盾については、一切言及していません。読売の上層部は、おそらく野球の結果を見て、優勝したらその成果を讃えつつも、商業主義の欠点を指摘するでしょうし、優勝しなければ(安堵した表情を浮かべて)それならもっとアマチュアをオリンピックに送るべきではなかったのかと書くのかもしれません。
302-9月18日(月)
カルメンの定休日。今日は予定がなく、拙宅周辺で過ごしました。
JR摂津本山駅の北側に大きなピルが建っています。"二楽荘"というガーデニング用品を売っている店が新しくビルを建て替えたのです。一階は、マクドナルドや、化粧品などの小間物屋、そしてコーヒーのチェーン店が入ります。駅前の一等地なので、多くの人が出入りするところです。オープンは10月1日です。本山・岡本という場所(商圏)は、同系列の店舗が共存しにくい場所です。アイスクリーム屋、イタリア料理店、フランス料理店などなど、いつのまにか姿を消した店舗は数多くあります。値段設定が、この場所の標準と合わなかったり、お客さんが一巡してしまうと、回転率が悪くなるのでしょう。それにある程度本格指向でないとあきられてしまうのかもしれません。本屋、レンタルビデオ屋もこの街から撤退してしまいました。お得意さんだった学生たちも最近は金回りが悪くなっているのでしょう。主婦たちは、自由に出来るお金が減り、パートに出る人が増えて、ランチどころではないのかもしれません。
駅前の好立地の賃貸・分譲マンションも空き部屋が見受けられます。
この不況、いったいいつまで続くのでしょう。マスコミ報道によりますと、まだ企業は収益を確保するために、リストラの手綱を緩めていないようです。個人消費はまだまだ回復していず、小規模企業の倒産が続いています。本の世界では、いい文芸書を多く世に輩出していた"小沢書店"が自己解散してしまいました。いわば廃業です。知の遺産が散逸してしまうのは残念です。今年に景気が急に回復するとは思えません。21世紀(来年)に夢を託すしかないようです。
301-9月17日(日)
よく晴れた秋空の日。淡路で行われている花博も今日が最終日。多くの人が駆けつけていることでしょう。入場者数も700万人に迫るとのことです。そしてオリンピック。神戸の中心地三宮の"公開テレビ"が設置されている場所はどこもひとだかりとなっています。スポーツは勝つか負けるか引き分けかといった三つしかないので、"白黒"がはっきりしていて見る方も分かりやすい世界です。しかし、スポーツというのは、考えてみれば、引退年齢が早い世界でもあります。小さい頃から、身体的訓練を重ねてきた者だけが参加資格を持つ"力"と"技"の競い合いです。引退が早い競技では20歳前(器械体操など)、また大学生の年齢あたりがピークであろうと思われるスポーツも多いでしょう(競泳など)、30歳前後までとなれば、陸上の世界。マラソンなどももう少し引退は遅いでしょう。これらをすべてひっくるめてみても、スポーツの世界は引退が早すぎなのではないでしょうか。
「より早く、高く、強く」を求めるオリンピック的価値観に照らし合わせてみれば、仕方がないのかもしれません。選ばれた者が繰り広げる身体祭典と位置づけるなら、筆者はどうしても、ヒットラーのナチスが行った身体改良によるスポーツ・エリートの創出を想起してしまいます。常に勝ち続けるため、生物学的なあらゆる手段をとったことはよく知られていて、この意味でナチズムの正統な後継者はソ連だったのかもしれません。これらはすべて国威発揚のために、スポーツと個々の身体が犠牲となりました。こうしたことへの反省なしに、オリンピックが繰り返されているとすれば、やがて見向きもされなくなることでしょう。