店主つぶやき日誌(毎日更新しています)

  (第201話〜第300話)2000年6月8日2000年9月16日


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300-9月16日(土)
イタリアはいい国です。イタリア人が"イタリア人"になるのは、サッカーのワールドカップの時だけだ、と言われています。イタリアに住む人たちは、"お国意識""郷土意識"が強く、普段は、ヴェネチア人だとか、シシリー人だという意識のもとで日常生活を送っています。イタリア人という国民意識は強固ではないようです。北部州の人たちは、イタリアから独立しようとしているし、また反対に南部のシシリーの人たちは、独自の文化・民俗を持っています。EU圏内の経済統合が進めば、イタリアという国家の枠組みも次第におぼろげになっていくので、国家の影に隠れていた"地域"意識が、政治・文化の分野で今後も明確になっていくことでしょう。

一方、Japonはいまだ「にっぽんチャチャチャ」の世界です。柔道の田村亮子選手が三度目の正直で金メダルをとれば、Japonの人たちが大好きな「辛苦、我慢の末に獲得した栄光」という筋書きとなり、英雄に祭り上げられます。二回連続金メダルという偉業を達成した同じ柔道の野村忠宏選手より各紙とも大きな扱いです。10月1日まであるオリンピックの期間中、日本人は日ごとにエスカレートしていって、ますます「日本人」になっていくことでしょう。筆者も「日本人」になっていくのでしょうか。

299-9月15日(金)
オリンピックの開会式です。シドニーとの時間差がほとんどない(1時間差だが、オーストラリアは"サマー・タイム"を採用しているので2時間差)ので、ほぼリアル・タイムで鑑賞することが出来ます。

仕事の関係で、テレビは見ることは出来ず、ダイジェスト版の放送時間にも帰宅していないので、ニュースでしか知らないのですが、Japonのユニフォームが変わったことと、韓国と北朝鮮の合同行進が注目されます。

Japonのユニフォームは判で押したように赤と白が配色されたスーパー・ワンパターンのものでした。どんな有名デザイナーが考案したものでも、このどうしようもないパターンから外れることはなかったのです。今回は、マントというかポンチョというか、いままでないコスチュームになっていて、ようやくワン・パターンから脱却したようです。

それに入場行進が、軍隊行進のように隊列を整えて、ザッザッザッという感じではなく、最初から閉会式のような歩き方なのはびっくりしました。かつてJaponは、閉会式まで隊列を整えて行進していました。バラバラに入ってきて、バラバラに歩くのは、欧米の選手たちか、極端に参加人員がすくない小国の専売特許と思っていたのです。Japonは変わったのでしょうか。それとも隊列方式もバラバラ方式も"上"からの指令にすぎないのでしょうか。

隊列を組むといえば、韓国・北朝鮮の南北合同行進が印象的でした。両国の選手たちが混じり合って手に手を取り合い、腕を振り上げて観客の歓呼に応えていました。この二つの国の人たちにとっては、隊列行進は大きな意味があります。今まで対立ばかり繰り返していた国が初めて合同で行進しているわけですから、隊列を組んで行進することの意義ははかりしれず、ひょっとして朝鮮半島の統一もそう遠い将来のことではないのではないかと予感させます。

スポーツは政治に翻弄されます。決して純粋なものではありません。オリンピックを利用してきた政治家・国家は数知れずいます。またこれからも国威発揚のために、オリンピックは必要であり続けるでしょう。しかし、プラス面の効果もあることはあるのです。筆者は、小さい頃から、旧ソ連の中に入っているのに、どうしてバルト三国はソ連とは別に出場枠を持っているのだろうと思い続けていました。これらの国々は、スターリンの策略によって、ソ連に併合されてしまった国々だったのです。こうした国々が、たとえオリンピックの間だけでも、"存在"し続けることによって、何10年後には、"独立"という果実を得ることが出来たのです。

オリンピックは国家だけの祭典に終わらせてはいけません。国・地域・民族が多様な形で出場する姿を模索してはどうでしょうか。今回"香港"が引き続いて代表を送ったように、Japonでも、「琉球弧」とか「アイヌ・ギリヤーク合同(北海道、千島、樺太等の地域からの選手を含む)」とかいった"地域・民族"代表を送るというのはいかがでしょう。
298-9月14日(木)
やはり見てしまいました。オリンピックが始まる一日前に行われたサッカーの予選リーグの試合です。Japonは、南アフリカと対戦。互角な戦いでした。ショートの数とゴール前の攻め具合は、南アフリカが勝っていたように思えます。結果はJaponが2-1と辛勝。決勝リーグに進むためには、次のスロバキア戦に勝って、2勝をあげなくてはいけません。Japonと同じ予選リーグにはブラジルが入っています。これはサッカーが国技の国なので、根性の入り方が違います。しかし、前のアトランタ・オリンピックの予選リーグではブラジルを破るとう大金星をあげました。

サッカーは、野球に較べて、相手選手とぶつかることが多く、転倒するのはしょっちゅうだし、怪我もおおい"格闘技"的要素もあります。しかし同時に、味方チームを上手に動かす司令塔という頭脳部分がしっかりしていると、知的スポーツの様相も呈してきます。テレビのアナウンサーは、「今回の代表チームは中田英のチームだ」と言っていました。Japonチームは、どこまで勝ち進むのでしょう。------それにしても、テレビは盛んに"白地の布に赤い丸が書かれた旗のようなもの"を降るJaponの人たちを映していました。でもこの"白地の布に赤い丸が書かれた旗のようなもの"って一体なんでしたっけね。

ついでに、スペインの情報も。スペインのプロ・サッカーリーグも、イタリアやドイツと同等に有名で、両国のプロサッカーチームには、諸外国の優れたプレーヤーが活躍しています。オリンピックに出場しているスペインは、韓国を3-0で下しました。韓国はいったいどうしてしまったのでしよう。この国のサッカー熱も並大抵のものではありません。筆者はかつて(1976年)、韓国を訪れた時、ソウルで行われていた日韓定期戦に出くわしました。もうみんなラジオに釘付けです。この日韓定期戦は、韓国が圧倒的に強く、いつもJaponは負けて、韓国の人は、当時の国是である「克日」を現実のものとして、喜んでいました。

そしていよいよスペインのリーグ戦もスタートしました。バルセロナなど強豪チームは順当に勝ち星を稼いでいます。さてさて、これからしばらくスポーツの話題がマスコミを席巻することでしょう。
297-9月13日(水)
今日はいくぶん雲が残っているものの、通勤途中から眺める六甲の濃い緑の山容は見事でした。

朝、兵庫県庁へいく用事があり、JR元町駅を下車。用事をすませて、南庁舎前にある古書肆に入りました。この店は小振りながら、文芸書がなかなかに充実しているのが魅力です。その品揃えの様子が少しだけ嬉しくなって、二冊買い求めました。

久坂葉子著  『久坂葉子の手紙』(六興出版)
中井久夫著  『記憶の肖像』(みすず書房)

この二人の著者の共通するところは、いずれも神戸に関係している人であるということです。久坂葉子は、いまや伝説となった小説家で、昭和27年の大晦日、阪急六甲駅から飛び降り自殺した人で、芥川賞の候補にもなり将来が有望視されていました。自殺する寸前に立ち寄った店が、カルメンの前身である"みなと"という店です。筆者の先代が久坂葉子の最後の立ち振る舞いをよく記憶しています。

中井久夫氏は、神戸大学医学部で永年精神医学に携わった人なのですが、この人にはフランス文学の翻訳者というもうひとつの顔があります。ヴァレリーなどを訳している仏文学者です。有名な人ですが、筆者は先月、知り合いの詩人の出版記念会で初めて知見を得ることが出来ました。その時、話してくれたのは、翻訳者というのは、昔から貧乏を暮らしを強いられている人が多く、「冬でも浴衣を着ている」と氏は表現します。咄嗟にどんな意味か分からなかった私は聞き返しました。冬でも夏物の浴衣しか着るものがないという意味です。

筆者がこのように神戸に関する作家の本を自然に買い集めるようになっているのは、神戸文化に対して、親しみを感じ、(生意気なようですが)筆者自身が、神戸文化に多少なりとも参画しているという自覚があるためと思われます。
296-9月12日(火)
沖縄・奄美に停滞している台風14号が、日本列島を東西に覆い被さっている秋雨前線を刺激して、東海地方に豪雨をもたらしました。この数日で年間降水雨量の三分の一が降ったそうです。

一級河川の"新川"の堤防が決壊して、大量の水が流れ出し、大きな被害となりました。"水害"は後始末が大変です。床下、床上浸水に限らず、水の引いた後が、大仕事なのです。そして、店舗を持っている自営業の人の苦労はこれから始まります。阪神大震災を経験した者にとって、災害の後の大変さを知っているだけに、身につまされます。筆者の祖母(母方)は、戦前の神戸大水害が原因で死去したので、水害の被害はひとごとではないのです。神戸という街は、背後に六甲の山々が控えていて、花崗岩で出来た地質は、土砂災害を引き起こしやすく、今でも大量の雨が降ると、思わず六甲の山並みをみつめてしまいます。

人はいつ天災にまみえるかわからないのです。
295-9月11日(月)
カルメンの定休日。

午前9時に一人の来客。筆者もかかわる雑誌メディアの打ち合わせ。午前中は、FMわぃわぃの番組の仕上げ。昼は同居人の女性(妻)と二人で昼食。冷えのゆるいエビスビールを二人で一缶。この少しぬるめというのがエビスの苦みがよく出ていて美味しいものでした。

午後1時から、地下鉄湊川公園にある"パルシネマしんこうえん"という名画館で「ナビィの恋」を鑑賞。最後は切ない終わりかたで、涙もろい筆者は、ポロポロと涙が出てしまいました。この映画の話は後日ゆっくりとしましょう。

午後3時30分すぎに、長田区のFMわぃわぃに入り、若干の打ち合わせ。外はどしゃぶり。ひさしぶりのまとまった雨です。局には、チーフ・プロデューサーの野村昭彦氏がひとり。番組準備のために、「南の風」の放送開始直前まで忙しく動いていました。

本日の「南の風」は、奄美大島住用村の唄者・茂木幸生さんの島唄を放送。三線を使う島唄以外にも、太鼓唄(八月おどりなど)、労働歌(仕事唄・イトゥ)なども詳しい人で、これからも伸びていく人です。番組中に、茂木氏に電話インタビューしました。

放送終了後、今日は何の予定もないので、拙宅へ直帰。家で、娘と遊んでもらい、先月愛媛で買い求めた"道後ビール"を飲んでいました。今日は、ビールに始まりビールに終わった一日でした。
294-9月10日(日)
朝、通勤途中、電車がJR住吉駅に着いた時、構内アナウンスがあり、只今淡路に向かう舞子駅の高速バスの乗り場は、2時間待ちの状態です、とのことです。

淡路の"花博"はいよいよ9月17日までとなりました。去り行くイベントを惜しむ多くの人が詰めかけているのです。筆者は、神戸日西協会の主催による「花博見学会」に便乗して、4月に行って来ました。

"花"をコンセプトにあれだけのイベントを仕立て上げるというのは、兵庫県としては、久しぶりのヒット企画であるといえるでしょう。この兵庫県という行政体、神戸市という強力なライバルがいるために、つねに比較され、切磋琢磨を要求されます。おおよそ一般予算規模が同じのこの県と市は、競い合う関係だったのですが、阪神大震災がおこって、そうもいっておられず、災害復興のために、今は協力関係にあります。なにしろ県都である神戸経済の元気がありません。失業率は依然と高く、震災で神戸を逃げてしまった企業(神戸支店など)も、この都市に帰ってきているとは言い難いでしょう。

その中で、兵庫県が仕掛けた"花博"は、神戸市の得意とするイベント行政を踏襲したような勢いでした(以前にも兵庫県は、過去何度か同種のイベントを県下で仕掛けましたが、数字的に上手くいったとは聞きません)。

"花博"が終わるとさすがの猛暑も一段落するでしょう。そして三宮に店舗を構えるカルメンとしての本音をひとつ。実は早く"花博"は終わってほしいのです。淡路に関心が向いていた大阪・阪神間の人たちが三宮にお客様として戻ってほしいからです。
293-9月9日(土)
15日にオーストラリアのシドニーで行われるオリンピック。筆者はとっくの昔にオリンピックに対する興味を失っています。まだやっているのか、と醒めた視線をなげかけつつも、いざ始まるとマスコミがオリンピック一色になるせいもあって、やはり気になってしまいます。

オリンピックといえば、まず思い出すのは、開催中、新聞に掲載されている各国のメダル獲得数の一覧表でしょう。東京オリンピックを覚えていて、オリンピックを自分の家のテレビで観戦するために早退させられていた世代にとって、国力(昔はGNPといった)の向上と、メダル獲得数は、比例しているかのように思いこんでいました。当時、アメリカとソ連はなんといっても抜群のメダル獲得数を誇っていたのです。続いてのグループに東ドイツ、西ドイツ、日本、フランス、イギリスといった国々が続き、日本は早くアメリカ・ソ連並みになってほしいと少年心に願っていたものです。しかし、超大国の壁は厚く、唯一超大国と互角あるいは"うち負かす"競技があれば"全国民が"熱狂したものです。

時代は変わりました。国力=スポーツ力と理解していたJaponも、経済力でついにアメリカと互角がそれを一時でも部分的に抜いた時あたりから、オリンピックのメダル獲得数も降下線をたどることとなります。そして中国・韓国など"スポーツ新興国"が登場したことも忘れてはなりません。特にソウル・オリンピックでは、かつての日本の過去の同じ姿を日本人がみることになったのです。

日本の選手たちもかつては"日の丸"を背負って、という気負いと責任の重圧がありました。しかし今や国のために、メダルを獲得するべきだという発想が少なくなった分、楽と言えば楽といえるし、自分の実力以上のものを背負う必要のない分、プラスアルファの力(国のため、民族のため、他の国・民族と対抗するため)も期待できません。

オリンピックというのは、4年に1回ひらかれるビックで著名なスポーツの国際大会に過ぎないのですが、東京オリンピック世代としては、入場行進で日本の選手が現れると、思わず握り拳をつくってしまうのです。
292-9月8日(金)
ロゼ・ワインの話の続きです。

カルメンの例をもって、全体的にロゼ・ワインの消費量が少なくなったとは、断言できません。しかし、先日のワイン試飲会で講師を務めた蛯沢登茂子さん(『ワインと食の情報誌・ヴィノテーク』)というワイン・ジャーナリスト(いただいた名刺にこう印刷されている)は、スペインでもロゼ・ワインの消費量が減っていることを話していました。

だいたい、スペイン人には悪いのですが、スペインとロゼ・ワインというのは、どうもイメージとして直結してこないのです。スペインを知れば知るほど、良くも悪くもワインでいえば"赤"のイメージが強いのです。たしかにスペインのロゼ・ワインは、白よりも安定していて、産地間のレベルの差がないように思われます。でもどうしてスペインでロゼ・ワインなのでしょう。

蛯沢さん曰くに、スペインにロゼ・ワインがかつて多く作られたのは、スペインの王家を継承したオーストリアのハブスブルグ家が、ロゼ・ワインを好んだために普及したからだそうです。オーストラリアから来た王族やそのスタッフにとって、スペインのワイン(つまり赤)は、荒々しく、洗練さに欠け、樽熟を長くしすぎてひつこく、また気候もオーストリアより暑いため、ブドウ果皮が厚くなりアルコール度数もあがるワイン(トロのように18度程度にあがるワインもある)に仕上がるため、同じヨーロッパ人とはいえ、とうてい飲めたものではなかったのでしょう。

スペインにもシガレスというロゼ・ワインの産地があり、13世紀から発展したこの産地でつくられた"クラーレット"と呼ばれるブランドは、カイティーリャ王国の王侯貴族や富裕階級に愛されていました。その消費量は多く「充分にロゼを飲めない平民がしばしば不平を申し立てたという記憶が残っている」(「ビネスカル」カスティーリャ・イ・レオン州内のワイン生産13社で作る輸出促進協会でつくったパンフレットからの引用)ほどだそうです。

つまりスペイン人にとって、ロゼ・ワインは憧れの飲み物だったと思われます。もともと支配階級が好んで飲んでいたところに、スペイン王として乗り込んできたハブスブルグ家の趣味が、スペイン人のロゼ趣味を加速させたのでしょう。スペイン人にとって、ロゼ・ワインは階級のシンボルであり、"ヨーロッパ"の香りがする上物(じょうもの)だったのでしょう
291-9月7日(木)
今日の話はロゼ・ワインについてです。

かつてカルメンでワインといえば、白(6):ロゼ(3):赤(1) といった割合で出ていました。いまから10年昔のことです。つまり白が2本出る間に、ロゼが1本出るという計算でした。しかし今は 赤(6):白(3):ロゼ(1) といった割合になってします。10年間で大きく変わったのです。この間、驚異的な赤ワインブームが起こったことが大きな原因として挙げられるでしょう。

昔、どうしてロゼ・ワインが今より多く飲まれたのでしょう。筆者なりに考えてみると、その人が赤・白・ロゼのいずれかのワインを選択する時(カルメンはかつて几帳面にもすべてのワインのクラスにこの三種を用意していた)、赤は渋いイメージと、赤玉ポートワインのように極端に甘いワインのどちらかのイメージがあるために、選択からまず外し、白(日本酒と同じ色だから親近感が湧く)かロゼの二者択一となると、ロゼの方が色がきれいだから(=飲みやすそうだから)選択するという人。またもっと日本的な選択方法として、赤か白かという"極端"の"真ん中"をとってロゼを選ぶという人が多かったようです。勿論その当時はワインの味、産地、収穫年の差異で、赤・白・ロゼのいずれかを選択するということではありませんでした。

今はロゼ・ワインを飲む人は本当に少なくなりました。日本人の洋食化が進み、本格的なワインを口にする機会も増え、安くて美味しい赤・白ワインを飲めるようになったからです。そして雑誌メディアなどがワインの本格指向は赤だということを書き続けたことも影響しているのでしょう。

スペインでも最近はロゼ・ワインの消費量がグッと減っているそうです。これについての話は、明日することにしましょう。
290-9月6日(水)
スペイン・ワインの試飲会に行って来ました。

大阪・心斎橋のホテル日航で行われた"カスティーリャ イ レオン"地方のボデガス(蔵元)が出品している試飲会です。同地方は、首都マドリーのすぐ北隣に位置しています。この地域は、"メセタ"と呼ばれる広大で乾いた台地の上にあり、「リベラ デル ドゥエロ」「ルエダ」「シガーレス」「トロ」「ビエルソ」といった五つのDO(原産地呼称ワイン)を持つ土地柄です。

特に「リベラ デル ドゥエロ」は、近年、リオハに続いて、スペインの赤の産地として名を高めていて、品質も向上し、リオハと較べても決して劣ることのないワインを産しているのです。ブドウ品種は、テンプラニーニョです。また「ルエダ」はスペインでは数少ない"白"の産地として、近年注目されています。

筆者は今回初めてこの「ルエダ」の"白"を飲みました。Flesh でFluetyなワインに仕上がっていて、これはいけます。カルメンに置いている"白"は、リアス・バイシャス(スペインの白の産地として群を抜いた評価を得ている)と、リオハのしっかりしたボデガの白を置いています。他地域も白を作っているのですが、どうも上手ではありません。例えば、「リベラ デル ドゥエロ」の白も今日いくつか飲んだのですが、スペイン人は、もともと白がどのような味であるべきなのか、分かっていないようなのです。この日、スペイン・ワインを講習した蛯沢登茂子さんは「スペイン人は、白をシェリー酒のように作る」と解説していました。まさにその通りでしょう。筆者が気に入って置いているリオハの"白"も樽に1年寝かして、樽香を(わざわざつけて)スペイン風にしているほどですから。

「ルエダ」が今日のように優れた白の産地になったのは、つい最近のようです。1972年、リオハの著名なボデガである"マルケス・デ・リスカル社"が、当時、赤ばかりを作っていた「ルエダ」を訪れ、気候や土質をみて白に適するところと判断して、白を作るボデガを作ったそうです。その試みは徐々に周辺農民たちに知れわたり、いまではスペインを代表する白の産地としてのステータスを確立しています。筆者の感想は「スペインでもこんな繊細な白が作れるなんて本当に驚き!!」といったところでしょうか。「ルエダ」の白のウワサはつねづね聞いていましたが、実際に飲んでみて、これならカルメンに置いて、お客様に飲んでいただいても、満足していただけるとレベルだと確信したのです。(すぐにも導入したいところですが、このところ不況が厳しく、資金的な余裕がないので、あと少し導入を待ちたいと思います)。

「ルエダ」の東隣りに「トロ」という赤の産地があります。トロ、つまり"雄牛"という意味です。荒々しい感じで、洗練度は低く、スペイン人でさえ、あまり見向きもしなかった産地だったようです。ところが、この「トロ」から出品された赤を飲んでいると、悪くはありません。最近、急激にレベルを上げているいるそうです。そして有名でない分、安いのです。これからまだまだ伸びる産地でしょう。

あと残りの「シガーレス」(ガリシア寄りの赤の産地)「ビエルソ」(ロゼの産地)については、品物が飛行機に乗せるのが間に合わなかったという理由で、出品されませんでした。なんとものんびりした"スペイン的な"事情でしょう。かの人たちはかの人たちなりに一生懸命しているのですが、こうした"チョンボ"が必ず社会のどこかで起きているという構造なのです。

カルメンに置いているロゼは現在、ペネデスというカタランのワインです。まあ美味しいのですが、"絶賛"するほどのレベルではないのです。スペインには、ナバラやこの「ビエルソ」といったロゼで売っている産地があります。こうしたロゼは残念ながらまだ口にしたことがありません。是非、スペインの美味しいロゼ・ワインも置いてみたいものです。----でもまず、そのためには、飛行機に商品を乗せなくてはいけませんよ、スペインの同志諸君!!
289-9月5日(火)
LA VUE(ラ・ビュー)というレビュー(評論)紙があります。

大阪に住む友人の山本繁樹氏という人が主宰しています。だいたい年に四回発行を目指しているメディアで、ジェンター論を中心に、哲学、思想系の少し硬い内容の文章が載った評論紙です。このような系統のジャンルは筆者の好むところです。筆者がいままで読んできた本というのは、思想・哲学・民俗学・文学評論といった本が多いからです。

山本氏は、優れた思想系編集者です。仕事は、東京の出版社の、関西での書店営業代行業ですが、みずからも発信するメディアを持つために、紙メディアとして『LA VUE』、そしてネット上でも充実したホームページを運営しています。またメール・ニュースを発行していて、これがなかなか面白いのです。

筆者はメール・ニュースに一回、そして『LA VUE』最新号(3号、9月1日発行)に執筆の機会を与えられました。筆者が書いた文章は「風土と身体に刻まれた歴史感覚----琉球弧の思想的〈現在〉」。サミット後に、沖縄と奄美で展開している思想的現在の分析と、2009年に向けた沖縄・奄美の思想的動を紹介しています。2009年とは、薩摩が琉球王国に軍事侵略した1609年のちょうど400年後にあたり、その「薩摩侵略400年後」にむけて、沖縄、奄美それぞれのイデオローグたちが、みずからの歴史総括と、ヤマトとの関係を再構築していこうとすることに対して、筆者なりに意見を述べています。
288-9月4日(月)
カルメンの定休日。

この日は、FMわぃわぃの放送を担当していない週ので、一日拙宅の周辺にいました。
正午、近くに住むK夫婦と、筆者夫婦の四人で会食をしました。Lというレストランで、9月のランチはスペイン料理特集ということになっていて、なんだか奇妙な感じだったのですが、美味しくいただきました。

K夫婦は、別居しています。仲が悪いからではありません。夫は沖縄県立芸術大学、妻は神戸大学で教えている関係上、神戸と那覇をお互いが往復する関係なのです。専門は妻が日本音楽史、夫は沖縄・奄美の歌謡研究。東京芸術大学の楽理科という音楽の理論を勉強する科の同級生です。(二人の共通の恩師が小泉文夫さんという人。世界の民族音楽研究の先駆者的存在で、筆者は高校時代、小泉氏が放送していたNHK-FMの「世界の民族音楽」を愛聴していました)。

K氏は、沖縄・奄美を研究する人たちが集う「沖縄文化研究メーリング・リスト(OBK-ML)」というのを立ち上げていて、その参加者は200人を越えています。筆者もFMわぃわぃで奄美の島唄と文化を紹介する番組のDJをしている関係上、このメーリング・リストに参加しています。

2時間の会食中、ほとんどしゃべり通しだったのは、筆者とK氏の男二人でした。休むことなく次から次へと話が弾み、いくつかのメディアの立ち上げの提案をしあったのです。K氏は、「沖縄で奄美を研究する会」を結成していて、二カ月に一度研究会を催しているのです。まだ39歳。沖縄・奄美関係でいまもっとも元気な研究者です。筆者はK氏と今後もいろいろメディアやイベントを共同で立ち上げていくつもりです。
287-9月3日(日)
用事があって三宮のセンター街に出た時です。センタープラザの階段の踊り場を舞台にして、アカペラのグループが唄っていました。観客は、階下と、吹き抜けなっている2階、3階からも演奏を聴くことができます。アカペラというのは、楽器ぬきの合唱隊といったら分かりやすいでしょうか。人の声だけなので、時に楽器のパーツも人の声で代替することがあるのです。

男性ばかり7.8人で構成するチキンガーリックステーキ(という名だったかな?)というグループは、神戸で10年前に生まれました。今でも神戸を中心に活躍、CDも2枚出しているそうです。キャリアを積んだグループだけに、聞かせるものがあります。

センタープラザは、3階に入っていた大型書店の駸々堂が倒産のために撤去して以来、元気がありません。もともとこのセンタープラザの2階以上は、女性のアパレル関係が多く、筆者には縁遠い商業スペースでした。やはり書店というのは、老若の関係なく集客を可能にする偉大なメディアなのです。

アカペラ・グループの演奏は、9月の毎週日曜日に開かれます。午後1時が最初のステージです。時間の余裕のあるひとは、どうぞ。無料というのが、なんといっても嬉しいですね。
286-9月2日(土)
しばらくパソコンの前に落ち着いて座ることはありませんでした。筆者は毎日だいたい3回メールチェックをするのですが、たまたま忙しくて、一日に一回とか、二日ぶりに開けると、もう大変。何10通というメールがサーバーにたまっています。筆者が入っているメーリングリストはただいま二件で、一日に10通あれば多い方のレベルなのですが、それでもたまります。たまっているのが"たまりません"(すみませんオヤジギャグでした)。

夏休みの宿題攻勢の嵐をなんとか切り抜けて、やっと落ち着いてパソコンの前に座ったものの、たまったメールを読むだけで大変な作業です。返事を早々に出す必要のある人にメールを書いていると、またまたメールを読む時間がなくなってしまう。(まあこうした作業は楽しい作業ではあるのですが)時間がすぐに過ぎてしまうことは確かです。

メールを書いたり、読んだりしていると、これからわれわれが、加齢していってもこの便利なメールというツールは手放せないのではないかとぼんやりと思うのです。あとすこしたてば、老人同士による「毎日のお達者メーリングリスト」というのがいくつもいくつも立ち上がって、今とは違った高齢化社会が到来するような気がします。その時代は、老人達がメールを使いこなすのは当たり前の時代なのでしょう(ひょっとしてわれわれの老後の姿かもしれませんが)

今、電気店で売られている最新の電話器というのは、子機つきで、FAXは普通紙を使用、しかもメールとインターネットが出来る大きな液晶つき、といったところでしょうか。時代は変わっていきます。
285-9月1日(金)
無事、9月1日を迎え、筆者は"頼りになる父"から解放されました。ホッとしています。来年は中学生が二人となり、宿題の密度も倍加するので、いまからウンザリしています。理科の自由研究など今から考えておこうかと同居人の女性(妻)は言うのですが、人間というのは、忘れる動物です。来年の今頃もまた同じことを言っているのに違いありません。

それにしても暑い日が続きます。9月の声を聞いてすこし安心したものの、暑さは9月になったからといって、急に涼しくなることはありません。

街を歩いていると、若い女性達の変化がわかります。数年前だと、若い女性なら殆どが日焼けしていました。まるで若い女性の"兵役"であるかのように海へプールへ向かっていました。夏に小麦色をした肌でない女性は、肩身の狭い思いをしたものです。きれいに日焼けするクリームなどが、よく売れていたのも思い出します(もっと前はコカ・コーラを塗って肌を焼くとむらなく焼けると信じられてたのです)。ところが今は"有害な紫外線"を多量に浴びるのはよくないという価値観が優先されて、この記録的な猛暑でも白い肌の女性を多く見受けます。

時代は変わるものです。一番流行に敏感なのは若い女性たちでしょう。時代の流行・情報の変わりようを身をもって体現していると言えるし、流行・情報にただ振り回されているだけ、とも言えるでしょう。肌白の女性たちが多い中で、唯一、"ガンクロ""ヤマンバ"と呼ばれる女の子たちが見事に(季節に関係なく)「人工的に」日焼けしています。かつてのボディコンは、身体パーツ化の表象だったのですが、いまでは自分の身体そのものをパーツ化・変容させようとしているのかもしれません。
284-8月31日(木)
ようやく今日で夏休みもおしまい。筆者は子供達から「あとすこし、がんばって」と励まされました。宿題の仕上げを"担当"することになったために、子供達から励まされているのです。「おいおい、立場が逆だろうが」と言いいたいのをグッと我慢して、タイムリミットの迫った宿題の仕上げに、同居人の女性(妻)とともに、夜遅くまで、奮闘しているのです。早く夏休みなんて終わってしまえ!!

283-8月30日(水)
今月は暑い暑い1カ月でした。
こうも暑いと、外出する気力が萎えてしまうのでしょうか、三宮の人手もまばらな日が多かったようです。また土曜日、日曜日に三宮センター街を沢山の人が歩いていても、買い物をする人はそう多くなく、物売りの店の人たちは一様に渋い顔をしています。

筆者がセンター街を歩けば立ち寄ることの多い"星電社"も南館はしまったまま。どうやら、自店営業をとりやめ、一棟まるごとテナントに貸すようです。街全体が沸き立つような活気を呈していた時を知っている者にとっては、今はなんとも寂しい限りです。三宮の基幹店である"そごう"が倒産して、その行方が分からなくなっていることもあり、何もしなくても人が集まった神戸一の繁華街・三宮がいま大きな曲がり角にたっているようです。

でもいつになったらこの国の景気は回復するのでしょう。それともJaponはこのまま没落していくだけなのでしょうか。経済の素人である筆者ですが、今秋には、魔訶不思議にも、まだ一社の倒産もないゼネコンなど大手建設会社が、いくつか破綻するような気がします。不況で業界再編が続く日本経済にあって、建設業界だけは、2社が合併して1社になっても、受注件数は1+1=2にならず、1にしかならないから、という一見説得力のある"理屈"で、業界再編をやり過ごしてきたかに見えるのですが、ここへきて、そうした"甘え"も通じなくなってきています。
282-8月29日(火)
例年のことですが、8月の末になりますと、子供達の夏休みの宿題が総仕上げの段階となります。それが不思議にいつもぎりぎりにならないと宿題が仕上がらないのです。当然、親の負担が重くなります。筆者の子供時代(昭和30年代から40年代前半)の親たちは、今ほど子供達の宿題の仕上げに介入していなかったように思います。親たちは忙しく、子供達の面倒を見ている暇はなかったのでしょう。現代の親たちも別様の忙しさがあると思うのですが、時代が要求するりレベルが上がってきている関係上、介入の度合いが深くなっています。

筆者もこの日遅くまで、宿題の手伝いにかり出されました。理科の自由研究が「地球温暖化」をテーマにしていることから、インターネットで検索して、"ソーラー発電"、"風力発電"、"溶けていく北極の氷"などをテーマにした写真をダウンロードして、プリントアウトするというものです。本来なら著作権の問題があるので、相手先に連絡するのが本当なのですが、中学生の非営利目的で使う発表ということで、連絡を容赦願っています。

少し前なら、本などから白黒コピーで済ませていたであろうこうした自由研究が次第にカラーでないと見栄えがしなくなり、パソコンを使わないと、要求の水準のものを出せないということになるのです。筆者はそうパソコンに習熟しているわけではないので、使い慣れているアプリケーションを駆使して、なんとか要求を満たしていきました。まだ夏休みは2日あります。9月1日に子供達が学校に行くまで、親たちは拘束されるのです。
281-8月28日(月)
カルメンの定休日。

午前中、息子が"蛇"に関する本の読書感想文を書くというので、想像力を補強するために、実物の蛇を見に行こうということとなり、神戸市立王子動物園へ行きました。ここは最近、パンダが来たことで有名で、まずはともかくパンダ舎へ。一日の16時間は寝ているというパンダは案の定、睡眠時間でした。うち一頭は"たれパンダ"そっくりの寝相です。

パンダ舎を後にして、筆者と二人の子供は、「は虫類館」へ。巨大なワニの次にいました、とびきりでかい蛇が。ビルマニシキヘビという白地に黄色の斑点が配置されている3メートルほどの巨大な個体です。その横には、これまた巨大なニシキヘビが、水から頭をもたげてこちらをにらんでいます。ビルマニシキヘビは、鹿や山羊を食べるそうです。鹿?  山羊? そんな大きな動物を彼らはどうやって食べるのでしょう。水辺を好むこの巨大ヘビは、水を飲みにやってくる動物たちを狙うのでしょう。それにしても鹿、山羊を食べるなんて。

少し前のニュースに、このビルマニシキヘビをアパートで飼っていたアメリカ人の青年が、餌と間違われて、窒息死したというというのです。ビルマニシキヘビは、青年をぐるぐると巻き込んで息を出来なくしてしまったのでしょう(アメリカらしいニュースです)。このヘビはジャングルでもよく目立つ色ではないでしょうか。ガラス越しでも、白いヘビは異様で、世界各地の伝説で出てくる"白蛇"というのは、こういうものかもしれないと想像したのです。

午後からはFMわぃわぃへ。今日は「南の風」の生放送日です。ゲストは、株本真里さん(神戸大学院生)と、宮西桐子さん(大阪音大民族音楽研究室)の二人です。株本さんは、沖縄の宮古に伝わる民間芸能を調査するために一年間現地に住みついて研究したという強者。重労働として島の人が嫌がる黍刈りなども、苦痛ではないなしく、職場さえあれば宮古に住み着いてもいいと思っている人なのです。

宮西さんが、沖縄の音楽を本格的に研究しようと決意したのは、震災で西宮の家が半壊した時以後なのです。それまで好きなことと、研究対象を別に考えていたのを、震災体験が、好きなことを研究することに軌道修正させたというのです。それまではフィンランドの作曲家・シベリウスを研究していたそうです。彼女の研究対象は、沖縄の新民謡(=作詞・作曲者が分かっている曲という定義)について。沖縄は、古くから伝承された唄と、盛んに作られる新民謡があり、沖縄の唄者は新旧おりまぜて(チャンプルーして)演奏するのです。奄美の新民謡が、とたんに演歌調になって、八八八六の琉歌ではなく、ヤマト風の五七調になってしまうのと大きく違っています。

二人の若き研究者との番組は楽しいものであっという間に終わってしまいました。番組終了後、JR鷹取駅近くの「うたげ」という奄美の郷土料理を出す店になだれ込み、黒糖焼酎とともに三人で痛飲したのです。
280-8月27日(日)
例年なら、この時期は、ツクツクボウシが盛んに鳴いているのですが、今年は少し事情が違うようです。まだツクツクボウシの数はそう多くなく、盛夏のままの状態が続いているのです。

台風も南方海上で多く発生していて、沖縄・奄美地方はそのたびに被害にあっています。台風の威力というのは、すさまじく、本当に家が吹き飛ばされてしまうのではないかとの恐怖にかられるほどです。農作物の被害も深刻ですが、停電も無視できない大きな障害です。いくらIT革命が進んでも、電気がなければ、インターネットは出来ず、携帯電話も通じません(地上アンテナが停電によって作動しないため)。

今年は台風がやってくる時期が早いようです。しかし、関西は最近まとまった雨が降らず、琵琶湖の水位も下がっています。台風は多くの雨をもたらすので、水位回復には、カンフル剤になります。もともと冬は雨が少ない関西なので、秋に雨がまとまって降ってくれることを期待しましょう(降りすぎても困るのですが)。
279-8月26日(土)
聖母マリアについて----6

《《出現するマリア》》

しばらくお休みしていました聖母マリアについてのお話を復活します(といっても今回が最終回ですが)。

その前に、キリスト世界にとって、8月15日は大切な日なのです。これはマリアの被昇天日、つまりイエスによって天に召された日、死去した日なのです。しかし、聖書を初めとして、本当にマリアがこの日死んだかどうかを伝える確かな文献はないようです。ではマリアがなぜ死んだことになるのかは、この日あたりが麦の刈り入れ時期。農耕民にとっては大きな意味のある時節なのです。また、もともとこの日は、ローマの女神ディアナ(ダイアナ)の誕生日として決められていました。それがマリアに援用されたと言えるでしようか。そして薬草の清め日としても定着しています。

イエスの誕生日は、かつて明治時代のJaponでは「洋冬至」と言われていたことは、この日誌でも紹介したことがあります。12月25日にイエスが産まれたかどうかについても、聖書を初めとして文献からは証明することは出来ません。しかし冬至という陽が一年で一番短い日が過ぎると、春という再生の季節に向かうという意味で、イエスの死は、冬至の日の近くであるべきだったのでしょう(冬至=24日=を過ぎた翌日に設定したというのは、ミトラ教の不敗太陽神の生誕日であり、冬至を過ぎて太陽の復活を現したその日にイエスの誕生をあてたという説もあります)。こうした意味でヨーロッパ半島民にとって大切な食物であった麦の農耕祭事日にマリアの被昇天を当てたことは、ごく自然のなりゆきだったのでしょう。

さて、マリアについての奇蹟についてのお話です。キリスト教世界でマリアの奇蹟に関する話は、数え切れないほどあります。実はJaponにもマリアに関する奇蹟が起こっているのです。

時は1973年、秋田市郊外の修道院「聖体奉仕会」にある木像のマリア像の右腕に、十字架のような傷が現われ、血が流れているかのように見えたのです。75年にはマリアの目から涙としかいいようのない液体が流れるようになりました。これを脱脂綿でふき取り調査したところ、「ヒト体液が付着しているものと考えられる。血液型はO型」「じつに不思議なことでコメントのしようもないが、科学的に解明するより、宗教は宗教として尊重すればよいのではないか」とその医師はコメントしています。

こうしたマリアに関する奇蹟はヨーロッパ半島に留まらず、新大陸の各地でのマリアが出現したり、幻視されたりしています。マリア人気は衰えることを知らず、20世紀に入っても400件以上のマリア目撃者が現れているのです。マリアは、極東のJaponにもそしてイスラム世界のエジプトにも出現しています。カイロ郊外のキリスト教徒のコプト教教会に、修道女の格好をしたマリアが出現しているのです。

人々の心に生き続け、時と場所を越えて奇蹟を現すマリアとは一体どんな存在なのでしょう。この「聖母マリアについて」の6回のシリーズではとても分かるものではありませんが、マリア学入門として、お話をしました。またいずれかの機会にマリアさまのお話をすることにしましょう。
(今回の参考文献は『聖母マリア伝承』中丸明著、文春新書 です)

278-8月25日(金)
今日書くことは、決してウソでも誇張でもないのです。

東灘区の拙宅前の公園でイノシシが歩いていました。

筆者が帰宅した午後10時半ごろです。公園から出ていこうとする"何か"に出くわしたのです。大型犬のような大きさです。まず驚いたのは、大型犬に似た"それ"が綱なしで歩いていること自体、珍しいことであり、少々危険を感じました。しかし、よくよく見るとイノシシなのです。まだ大人になりきっていない青年といった感じでしょうか。堂々と歩いています。公園で花火をしている若者たちがびっくりしています。

夜の道ばたで生のイノシシを見る衝撃は果てしないものです。イノシシはゆっくりと公園から南に向かっていきました。筆者は後追いをしませんでした。かつてウリボウを連れた母イノシシに、保久良山中で二度襲われたことがあるためです。大型犬サイズのイノシシと闘う勇気はありません。彼らはまだ限りなく野生動物であるからです。

拙宅の周辺では、東西に伸びたJRの土手から北では、イノシシが毎日のように出没するのです。本山市場の入り口には、「ゴミは前日に出すな、イノシシが荒らす」といった警告の貼り紙があり、目をひきます。もっと山際のマンション・住宅地では、イノシシ被害が深刻で、早朝や夕刻に幼い子供達を出さないようにしている家庭もあるようです。

こうした環境のなかにあっても拙宅はJRの土手の南にあるので、イノシシはやってきませんでした。震災ではこの土手を境に天国と地獄に別れましたが、イノシシに関しては、この土手が防波堤の役目を果たしてくれていたのです。ところが、イノシシは、ガード下をくぐるか、踏切を渡るかして、土手の南に行き着く智慧を獲得したようです。

震災の数カ月後、拙宅横のやぶ(全壊した家屋が撤去されて急遽できた草むら)に2頭のウリボウが何日か住み着いたことがあります。この時、筆者は義侠心(=おせっかい)を発揮して警察や兵庫県、神戸市などに連絡して、山に帰すように関係機関を探したことがあります(その時の経緯についてはまた詳しくいずれの時か書きましょう)。その時はいつのまにかウリボウはいなくなってしまいました。同居人の女性(妻)とは、牡丹鍋にされたのか、などと言い合っていました。そういえばスペイン料理に子豚の丸焼きがあります(筆者はセビリアで食べたことがあります)。ウリボウは肉が軟らかそうなので、美味しいかもしれないと思ってみたものです。

東灘区は六甲という豊かな自然を背後に控えているために、その恩恵に浴していますが、同時に自然は人間世界にとって"毒"を持っていることも忘れてはいけません。イノシシはわれわれに何も被害を与えないかもしれません。しかし、油断は出来ません。彼らは野生の牙を持っています。イノシシと共生していくという滅多にない環境に置かれている人たちにとって、イノシシとどうつき合っていいのかまだその方法を確立出来ていないのが現状なのです。
277-8月24日(木)
筆者の通っていた小学校は、カトリックの私立学校でした。フランシスコ会という修道会が運営しています。本部は、イタリアのアッシジ。中世城郭都市の雰囲気が濃厚に残っています。清貧と厳格さをうりものにしている修道会です。Japonに限らず、世界のカソリック系私学は、圧倒的にイエズス会系が多いと聞きます。上智大学などがその代表的な存在でしょう。

筆者が通っていたフランシスコ会系小学校には、ポーランドやスペインから赴任した神父たちが、学校敷地内にある修道会で生活していて、自分たちで菜園も作っていました。畑でクワをふるっている姿を一度ならず見かけたことがあります。これとは別にシスターたちの修道会も敷地内にあり、筆者の小学生1年生の時の担任が、日本人シスターでした。その小学校はまだ草創期だったので、シスターも教壇に立つこともあったのでしょう。恋心さえ抱いたそのシスターは、数年後、奄美に赴任していきました。

このフランシスコ会のJaponにおける拠点の一つが奄美なのです。考えてみると、幼い頃から奄美という名を見聞していたことになります。担任のシスターは、奄美の和光園の中にあるカトリック教会に何年間か赴任していました。奄美大島の中心都市の名瀬市には、大きなカトリック教会が二つもあって、その信者数は、Japonの国内でもキリスト者人口比率の高さで知られています。

厳格さで通っているフランシスコ会ですが、奄美に関しては、少し緩やかであるようです。お盆のためのミサをしたりすることもあるそうです。こうした動きはひとつ奄美だけの特殊形態ではなく、カトリックが中南米のインディヘナ(先住民)に浸透していった背景に、現地の神々・精霊たちを貪欲に吸収していった例があることを挙げることができます。つまりある宗教が"世界宗教"に敷衍するときに附帯する宿命のような機能が、奄美のフランシスコ会の動きにも見ることができるのです。

奄美にはプロテスタントの布教活動も積極的に展開されています。しかし、福音主義(=聖書に書かれた言葉・精神を大切にするという姿勢)を貫くプロテスタントは、(聖書に記述されていない、といった理由で)他者的なものを排除する純粋性を貫く会派もあります。奄美には、仏教などの既成宗教の影響はないものの、ノロ、ユタといったシャーマンたちが、島の人たちの宗教世界に大きく影響を与えていて、呪術的要素が濃厚な土地柄です。こうした環境では、他者(土地の神々・精霊)を許容するカトリックのほうが、合致したのかもしれません。
276-8月23日(水)
スペイン・バスク地方で、またテロが吹き荒れています。ETA(バスク祖国と自由)が、1年間以上続けていた「自主停戦」を廃棄して、政府要人、警察・司法関係者によるテロを復活させているのです。これには、スペインの現与党である国民党の政策が大きく関係しているようです。アスナール首相率いる国民党は、独裁者フランコのファランヘ党の流れをくむ保守党です。ETAが硬化している背景には、かつて徹底的にバスクの自治権運動を弾圧したフランコ時代の暗い歴史に対する憎悪がもたげているようです。

本日の読売新聞(大阪本社版)には、バスクに関する詳しい記事が載っています。スペインでは、テロが行われるごとに、反テロの大規模なデモが繰り広げられ、スペイン市民社会の成熟度が理解できます。しかし一方でETAに近いカメロ・ランダメンディベ氏(「われらバスク市民」幹部)は、アスナール政権がおかしたいくつかの「裏切り」行為に対して激しく抗議し、中央政府との対立の溝は深いものがあるのです。

カメロ氏は、読売新聞記者のインタビューに答えてこういうふうにも発言します。「いま欧州統合によって国民国家が衰退し、埋もれた地域、郷土の枠組みが復活している。バスクは歴史的な好機を迎えた。バスク人に民族自決権を認め、住民投票で独立の可否を判断させるべきだ」。今、UC圏内では国境が急速に意味を失っていこうとしています。あと数年後には、統一通貨である"ユーロ"が本格導入されることになり、スペイン、フランス、ドイツという旧来の国家より、ヨーロッパという大きな地域が誕生・機能しようとしているのです。かつて国民国家をつくったヨーロッパから、国民国家が消滅しようとしているのです。

このグローバルな動きと同時に発生しているのが、いままで国家の強権の前に埋もれていた地域の復権です。スペインでは、バスク、カタラン、ガリシアといったスペイン語(カスティーリャ語)とは違う言語・文化を持つ地域が、現状より広範な自治権を中央政府に対して要求しているのです。こうした動きは、イギリスでは加速しています。ウェールズやスコットランドで、何百年ぶりかの議会設置や自治政府の権利拡大が認められているのです。また、フランスでは、フレンチ・バスク、コルシカ(ナポレオンの生地)、ノルマンディー、アルザス(『最後の授業』という物語で知られている独仏国境地域)の地域でも自治権拡大の動きが出ています。しかし心配されるのは、こうした自治権拡大の動きが、バスク風に「自治権拡大の手段としてのテロ」を行使しないか、ということです。

こうしたヨーロッパの動きに較べて、東アジア地域は、いまだ国家が国民国家たらんと国家権力を国民に対して振りかざしているのが現状です。"国家解体"といった人類が獲得した智慧の実現まで至っていないのです。Japonという国も、沖縄や北海道を近代になって併合したのですが、いまだ強固に"国民化"を押しつけているのが現状で、各民族の自治を認めるといった段階ではとうていないのです。

275-8月22日(火)
ロルカ詩祭が終わると筆者は、晩夏モードに入るのですが、連日暑い日が続きます。神戸はこの晩夏こそが蒸す季節ではないかと思っているのです。これはあくまでも私見にすぎないのですが、夏に"そよ"と南から吹いてきた風は、海水面と陸の温度差があってこその自然現象で、夏の終わりには、両者の温度差がほとんどなくなり、"凪"の状態となる。このために、神戸の暑さは、晩夏にあり、と思うのですが、いかがでしょうか。
274-8月21日(月)
カルメンの定休日。

今日は、FMわぃわぃの放送日。ゲストは関西学院大学神学部の木之脇悦郎教授。奄美大島・名瀬市の出身で、専攻はユマニストのエラスムス。仏教にも造詣が深く、道元の『正法眼蔵』などを精読したという人です。

番組では、奄美のキリスト教受容の歴史を、語ってもらいました。特に力が入っていたのは、戦前に名瀬市にあった私立大島女学校についてです。この学校は、4年制の女学校で人気があったのですが、軍国主義の圧力で廃校処分の憂き目にあったのです。奄美現代史の汚点でしょう。筆者は、廃校に向けて積極的に加担した名瀬市議会(当時は名瀬町議会)は、大島高女側(現在は鹿児島純心女子短大)に謝罪をすべきではないかと思っているのです。
273-8月20日(日)
早くも8月は下旬になりました。街路樹には"ツクツクボーシ"が鳴いています。筆者の子供たちは、夏休みの工作を、同居人の女性(妻)の実家へ行って、手伝ってもらいに行きました。ところが、出来上がった作品は、子供たちの作品とは思えぬレベルです。最近は、制作過程を写真に収めるようにという条件つきです。先生たちも、見抜いているのでしょう。
272-8月19日(土)
日8月19日(土)
午後6時から第三回ロルカ詩祭を行いました。

1936年のこの日、スペインのアンダルシーア・コルドバの街で、自分で墓穴を掘らされた後、フェデリコ・ガルシア・ロルカは、ファイスト軍によって、銃殺されてしまうのです。そしてカルメンでの詩祭は、ロルカ生誕100周年の1998年を第一回として、毎年8月19日にとり行っているのです。

ロルカ作品の朗読である第1部は、大西智子、大橋愛由等・真生・紗奈、金里博、冨
哲世、福田知子の各氏。 第2部は詩人による自作詩朗読。磯田ふじ子、上野都、大西隆志、金 里博、今野和代と「生活サーカス」、西谷民五郎、布村真理、福田知子といった総勢9名というメンバーです。そしてバックには、「俄(にわか)」という楽団が朗読のバックを演奏してくれたのです。今回は3回目であることもあり、出演者も場慣れしてきて、内容の高い詩祭になったのではないかと、(筆者は当事者の一人ですが)思っているのです。

来年も同じ8月19日にロルカ詩祭を行います。是非みなさん、覚えてください。
ちなみに今年の詩祭呼びかけ文を転載しておきましょう。詩人の冨哲世氏が書いたいい文章です。
 

 
 ■ガルシア・ロルカはどこにいるか
     ――ロルカ詩祭へのお誘い
                                  冨 哲世

 「レーニンはレーニン全集のなかにいる」と言ったのは埴谷雄高だったとか。ブルトン亡きあと、「シュールレアリスムはもはやどこそこにあるというのではない、シュールレアリスムは遍在する」というような意味のことを語ったのはたしか、モーリス・ブランショではなかったでしょうか。1898年スペインはグラナダで生まれ,1936年スペイン内戦の発端であるフランコ派の反革命クーデターのさなか、同地で市民派の同伴者とみなされて銃殺された、詩人ロルカの生涯は、レーニンからスターリンへ、そして内部ゲバルトへ 一国社会主義へと到る血塗られたヨーロッパの覇権主義の歴史と、ランボウ的、マニエリスム的な必敗主義的野望の道とに、あらかじめ引き裂かれるようにしてあったということもできるでしょう。
 人はすべて歴史ともうひとつの通時的時間との不義の子供であるけれども、おそらくロルカにはその個的な負い目を、歴史へとかざして同置する、いわばタナトスとしての生命力がよく備わっていたといえましょうか。その死への強迫的な傾倒、その死への神話のようなものは、たとえば先に公開された「ロルカ、暗殺の丘」という映画にも、断面として見てとれましょう(もちろんそこに「ロルカ」はいない、としても)。ロルカの詩力は、ゴンゴラ以来のスペインの綺想体の詩法の伝統と、故郷のアンダルシーアの歌舞音曲に秀でた民衆的風土性に因るところ大であるといわれていますが、おそらくロルカという詩人は、自ら耳傾ける内部の「声」をそのまま「歌」 のように感取する稀有の才能(自然)をもちあわせていた人だったろうと思います。
 そうしてロルカが虐殺された日を記念して集まる、詩人とか音楽家とか朗読者とかいう、わたくしたち不穏の輩どもも、月のない夜に月の証人を呼び出すように「ロルカはどこにいるか」という問いを裡に秘めながら、この「自分の声に耳傾ける」という行為から、まずこの会を呼び起たせ、ロルカの詩のなかにある「血」と「エロス( 大地)」と「死」という命の瞬間と、オリーブ畑でロルカの迎えた最期の瞬間のトキメキを、わたしたちの生の発語に接合しようとするでしょう。そのようなことをどこか心の片隅に留め置きながら、日本で最初のスペイン料理専門店という老舗「カルメン」の酒と食事を堪能しつつ、朗読祭をご覧になるのも一興かと思われます。今回は小学生詩人をはじめ、韓国(からくに)伝統の詩法での詩作に取り組んでいる詩人の初参加なども予定していて、多彩な顔ぶれ がそろおうかと思います。ご来場お待ちいたしております。

271-8月18日(金)
中学校の夏休みの宿題に、俳句・短歌・詩・エッセーからふたつのジャンルを選んで書くという課題があり、筆者は"俳句"を手伝いました。息子がつくったものに少しだけ手を加えて出来た作品は、「晩夏なりとまりしままの扇風機」といったものです。手伝って感じたことは、俳句というのは、切れ字などを使うと、途端に"らしく"なる文芸です。その便利さに頼っていては、今まで積み重ねられた秀作のエピゴーネンでしかありません。つねに"俳句らしさ"を捨てる努力が必要だと思ったのです。
270-8月17日(木)
お盆は店を開けたので、今日は代休として休みの日です。

今年のお盆は三宮地区は人通りが少なかったようです。そのかわり元気があるのは、元町周辺ではないでしょうか。元町に店舗を構えるひとたちは、そごう百貨店が倒産して以来、お客さんの流れが、元町方面に傾いているのではないかという話しているそうです。元町は、街づくりのコンセプトがしっかりしていて(勿論、三宮という強力なライバルを意識してのことなのでしょうが)、三宮より、落ち着いた街並みを作ろうとしています。

最近では、南北に走る"トーアロード"のJR高架より北の地域を"トーア・ウェスト""トーア・イースト"などと呼んで、若者たちの新しい名所になっているようです。筆者も時々、その周辺を歩きます。目的は、ジャズが流れている"木馬"という店です。学生の頃から通っている店なので、かれこれ20年以上の付き合いがあります。神戸のジャズ喫茶が70代後半からばたばたと姿を消していく中で、しぶとく生き残った店です。面白いことに80年代は、ジャズはあまりかからず、フュージョンや、非ジャズ系が多かったと思われます。しかし90年代に入ると再び"50年代"が復活したのです。マスターの髪の毛もだいぶん白いものが目立つようになりました。(そういう筆者も鬢あたりに白髪が交じるようになっているのです)
269-8月16日(水)
関西のラテン情報を満載している『ラテン手帖』の第5号を紹介しましょう。第一面は、ブラジルで盛んに行われている"カポエイラ"という武術の紹介です。大阪にシルヴィオ・アマンシオ・デニースというブラジル人男性が、この"カポエイラ"教室を開いているのです。ブラジルでは、サッカーと同じくらい人気のあるスポーツだそうです。

5号も総10ページと健闘しています。今号からFMわぃわぃのスペイン語・ポルトガル語放送番組が紹介されるなど、ますます関西のラテン情報については、このメディア抜きには語れなくなってきました。19日にカルメンで行う"ロルカ詩祭"も紹介されています。この他、関西で上演されるスペイン・ポルトガルそしてラテンをネタにした映画、音楽、イベントなどが、すっきりしたレイアウトに収まって紹介されています。興味のある方は、「『ラテン手帖』文字文字社 電話06-6357-0999 FAX06-6357-0902」まで連絡してください。フリーペーパー(無料紙)ですが、送料は負担して下さい。そしてカンパなどは歓迎です。女性が中心になって、発行している"なにわ女の心意気"がビンビン伝わってくる元気メディアです。
268-8月15日(火)
日本人にとっては、敗戦の日。朝鮮民族にとっては、"光復"の日。

戦争が終結してから55年がたちます。戦争の当事者が次々と現役を退き、戦後生まれが多くなっています。Japonの人たちにとっては、戦争の愚かしさを深く考える日です。隣の韓国・朝鮮の人たちにとっては、民族の尊厳が恢復した日であると同時に、数年後に勃発する朝鮮戦争という未曾有の民族悲劇の前の熱狂であったのです。

今日、ソウルと平壌で、朝鮮戦争によって引き裂かれた離散家族の面会がもたれました。幾多の"アイゴー"が会場を埋め尽くしたことでしょう。Japonの人たちにとって8月15日は、追憶の日であるのですが、韓国・朝鮮の人たちにとっては、まだまだ深く重い意味をもつ歴史の現実の一日なのです。

267-8月14日(月)
若者・子供ことばが少しずつ変化しています。
夏休みで子供達が拙宅にいることが多いので、彼らが話す日常言語を耳にする機会が増えています。

ガリ キッショイ オワットーワ

神戸市東部の小中学生(主に男子)のしゃべる俗語です。訳してみると「むちゃくちゃ 気色悪い、終わってるな」といった意味でしょうか。子供達の言語には、他人を罵倒する言葉が多いのは一つの特徴です。そうやって他者と自己を区別する訓練をしているのでしょうか。

筆者が小さな変化に気づいたのは、「ガリ」という強調語です。5年前ほどの神戸在住の若者なら、この場合「バリ」を使っていたでしょう。「ガリ」も一部聞いたことがありますが、その時は今ほど頻度高く語られていませんでした。「バリ」の語源は英語の"very"だといわれます。また"バリバリすごい"という表現の「バリ」もその語源候補として挙げられそうです。でも「ガリ」の語源は何でしょうね。もっとも「ガリ」を使っている少年達は、そんなこと気にしていないでしょうが。この言葉の応用としては、「ガリクソ ヤバイ」といった使い方も聞いたことがあります。

筆者のように中年になると言葉の変化はなく、ただただ硬直化していくだけです。そして挙げ句の果てに「今の若者言葉は乱れている」といった道学者めいた発言をしだすのです。このような発言をし出したら、その人の言葉・思惟は、萎縮の方向へ向かうばかりでしょう。言葉は変化するいきものです。「バリ」を使って、周囲の大人から顰蹙を買っていた若者達も、20歳代の後半にさしかかり、次世代の若者言葉に、当惑しつつも無理をして合わせているのでしょう。
266-8月13日(日)
帰宅後、午後11時からテレビを見ていたら、デンマーク王室で女王の料理長を永年務める日本人シェフが紹介されていました。女王が、デンマーク産の食材にこだわっていることを考慮にいれて、なるべくデンマーク領でとれる魚介類を中心に食事を作っていきます。たとえば、北海に浮かぶデンマーク領グリーンランドの近海で獲れた蟹をデンマーク海軍から調達するとか、自ら海岸で釣った魚を料理するとか、といった具合です。びっくりしたのは、女王のための食材を用意する広い菜園があり、温帯・熱帯でしか産しないハーブ類を育てるために、温室まで作られているということです。もちろん、野菜・ハーブ類はすべて有機農法です。

その日本人料理長は、季節感を女王の食卓に知らせるために、野に咲く花をサラダに混ぜたり、デザートに仕立てたりと、自在に料理を創造していくのです。しかも、その日の女王の健康状態や、来客の様子などを見定めて、レシピなしに、料理を仕立てていくのです。

料理というのは、まさしく創造です。さらに言えば、料理人(コシネーロ)とは、筆者に言わせれば、クリエーターなのです。コシネーロはいつも白衣を着ています。どんなベテランでも新人でもこの白衣は共通のユニホームといえるでしょう。"白"をまとうことで、料理に対して"タブラ=ラサ"となる。つまり、無心(白)になることで、真心を込めて料理づくりをしていく。このクリエーターは、結果がすぐでるという素晴らしいアーティストでもあるのです。

265-8月12日(土)
そろそろ帰省ラッシュが始まります。都会から出身地へ。お盆の休みには、都心はがら空きとなります。

しかし、お盆の期間中も働いている人は少なからずいます。筆者も勿論その一人です。友人たちの中には、お盆期間も休刊がない週間メディアに関わっている人、常駐スタッフの多くない放送局のディレクター、サービス産業に携わっている人たち。公共交通機関の関係者などなど数え始めたらキリがありません。

筆者のように、奈良が出身地であっても、遠い先祖がすでに出郷してしまっている者にとっては、帰省すべき故郷はありません。幼い頃は、"田舎"があることが羨ましく、特権階級のように感じていました。今となっては、故郷に帰らなくては行けない磁力が働かない分、気楽といえます。故郷といっても、そこには現実が支配しているわけですから、すべてを受け入れてくれる場所というのは存在しないのです。都会=神戸で育った人間にはこの街が古里になります。
264-8月11日(金)
拙宅の東に位置する空き地に、一面コンクリートが敷き詰められ、駐車場になるのかと思っていましたが、いつまでたっても、白い線が引かれることはありません。土のままにしておくと、周辺住民から苦情が出て、夏になると除草しなくてはならないので、コンクリートにしたのかと思ったのです。ところが、今朝見ていると、コンテナが三つほど並べられています。一体なにが入っているのでしょう。最近、ウラン反応が検出されたコンテナが発見されました。不気味な存在です。
263-8月10日(木)
旅行から帰ってきて、疲れています。
海で急に身体を焼いたので、全身がヒリヒリします。
今日も相変わらずの夏日。
太陽が容赦なくふりそそぎます。
都会のほうがやはり暑いようです。スペインもこの季節、日中の気温は30度を越し40度まで達する日もあるのですが、そのかわり内陸部では夜になると20度まで気温が下がるのです。Japonは、夜になって30度を切らない日だってあります。やはり緯度的には、アフリカと同じ位置するのですから、当たり前なのですが。
262-8月9日(水
旅の最終日。

■午前中は、海水浴。去年旅した鳥取の白兎海岸は、遠浅で透明度の高いそれはそれはきれいな海でした。東予海岸は瀬戸内海だからでしょうか、透明度はいまひとつ。須磨よりきれいですが、去年とどうしても比較してしまいます。まだお盆の前なので人は少なく、ゆったりと泳ぎました。

■去年開通したばかりの"しまなみ海道"を通って、大三島へ。通行料の高さにうんざりしながら、大山祇神社へ。ここは昔から武人たちが武具を奉納する神社として有名です。国宝、重要文化財級の刀剣、甲冑類などを、多く見ることが出来ます。手入れがいいせいでしょうか、源義経や弁慶が奉納したと伝えられている800年前の逸品がずらりと展示されています。日本刀といえば、昔からこのJaponの重要な輸出品でした。かつてのJaponは輸入超過国だったのです。絹製品を初めとして、国際的水準である、すぐれた中国製商品が東アジア圏を席巻していて、粗悪なMade in Japan は歯が立たなかったのです。その中で国際的評価が高かったのが、日本刀だったのです。アジアに流通したのは、実用ではなく、観賞用だったのでしょうか。筆者は1976年に初めて韓国を訪れた時、東亜日報の広告欄に「日本刀」売買の広告が掲載されていたのを記憶しています。当時の韓国はいまほど頻繁に日韓交流は行われていない時代でした。

■大山祇神社を出発したのが、午後5時。神戸にこれから帰るのは、5時間以上かかると覚悟していたのですが、道路事情がよく、休憩時間をのぞけば、なんと3時間半で拙宅に帰ることが出来たのです。

■今回の旅は、瀬戸の多島海を堪能した旅程でした。一遍の出自である河野一族は、かつて東瀬戸を制圧していた水軍を率いた海の覇者でした。普段は豊かな海の幸を採ったり海運を担いながら、時に瀬戸を行き来する船舶を収奪(=海賊行為)したこともあったでしょう。昭和の初期あたりまでは、舟で暮らす海上生活者もこの瀬戸には、多かったと聞きます。西日本には"農"="土地"に執着しない「一所懸命」でない人たちが多かったのです。その風土を実感した旅でもあったのです。
261-8月8日(火)
旅の二日目。

■昨日休館だった松山市立正岡子規文学館を見学。ここがなかなかに充実したミュージアムで、2時間半をかけて見学しました。子規が生まれたのは、幕末から維新の激動期。親藩の松山藩は、幕府側についたため、維新では逆賊として、土佐藩兵に軍事占領されてしまいます。それから明治になっても"維新負け組"の悲哀を味わされます。不思議に日本各地の"維新負け組"地域から、文芸や政治活動に秀でた者が輩出されているのです。

■松山周辺はもともと豊かな土地柄でした。肥沃な平野に恵まれ、瀬戸の幸も豊富です。大名として君臨した松平家は、藩祖が徳川家康の甥という幕藩体制の本流に位置し、歴代の当主に文芸に秀でた者が現れ、穏やかな藩風を保っていたようです。しかし、この穏やかさに慣れた藩風が、幕末の激動期には反対に"あだ"となって時代の動きに即応できず、時代に取り残されてしまったのです。

■子規が死去したのは、35歳。それまでの俳諧ではなく明治の新文学である"俳句"を創出。近世までの和歌ではなく短歌の成立も子規ぬきでは考えられません。また夏目漱石らと研鑽を重ねた散文に関しても、近代文学史に足跡を残しました。しかし、病魔には勝てず、太く短く生きた人生でした。

■俳句の世界では、子規を初めとして、高浜虚子、河東碧梧桐など、松山人脈を無視して俳句を語れません。おそらく、愛媛出身あるいは愛媛在住の俳人たちは、本流意識を持っているのでしょう。

■俳都とはいい表現です。俳句をたしなむ風土は厚く深いものがあるらしく、放浪の俳人といわれる種田山頭火が終焉の地として選んだのも、この松山という場所でした。戦前に亡くなっているのですが、まだ終焉の家が残っているのです。「一草庵」と名付けられた小作りの家は、未公開なのですが、ガラス越しに、山頭火が愛用した編み傘が室内に展示されているのが見えます。俳句に生き、俳句とともに漂白の旅を続けたその生き方は、宝厳寺を超一、超二らをともなって、念仏行に出た一遍の生き方と通底するなにものかが、あるのではないでしょうか。

■続いて訪れたのが、砥部焼の地。白地に一色の色つけをしただけの"質朴"な感じのする焼き物です。司馬遼太郎も発言していますが、この産地は流行の"民芸"で売っている産地とは違い、てらいのない産地です。ここは大洲藩の領地で、北隣の松山藩と違い、豊かな沃土も少なく、砥部焼きもなんとか藩財政を豊かにするために近世になって始められた新産業だったのです。藩内が豊かすぎると、既存の収穫・産業にあぐらをかき、貧なる情況であるがゆえに新たな工夫、産業を興すキッカケとなるのは、近世も現代も同じであるようです。

■遅めの昼食として入ったのは、イタリアレストラン。地タコのマリネや、イワシとナスビのトマトソースのパスタ、キノコのリゾットなどを食べました。さすがに豊かな愛媛ならではの組み合わせです。イタリア料理の楽しみは、在地の食材を活かして料理をたしなむことにあります。

■この日の宿泊は、東予海岸の国民休暇村。眺望のきく丘の上にたっています。夕方にひと泳ぎ。泳いでいると不思議なものを見ました。水面に多くの顔。どうやら今年生まれたばかりの海亀の子供たちだったようです。十数匹がまとまって泳いでいました。

瀬戸は恵まれた多島海です。
260-8月7日(月)
今日から3日間、カルメンは定休日です。

■筆者は、夏休みを利用して四国へ旅行しました。ワゴン車のレンタカーで、神戸から、明石海峡大橋を渡り、淡路島へ。徳島に着くと、徳島自動車道に入り西進。この道は一年ほど前に開通したばかりで、車線はすくなく、対向車線が大部分です。食事を済ませた後、愛媛自動車道に入り、松山インターで一般道へ。松山市内を通って、道後温泉の宿に落ち着きました。道後温泉を散策しがてら、宝厳(ほうごん)寺に。今回の旅行の目的は、この寺を見物することにありました。鎌倉仏教の祖師の一人である一遍がこの寺で生まれたのです。

■筆者は、一遍のすさまじいばかりの求道の生き方に、感動するのです。全国あますところなく、歩き歩き歩いて、名号(南無阿弥陀仏)を唱え唱え唱えて、(念仏踊りを)踊り踊り踊り続け、そして捨て捨て捨てていくことで、どんどんピュアになっていく。そしてついに、「南無阿弥陀仏」という言葉(ロゴス)に帰一していくのです。一遍は現在の神戸市兵庫区にある"真光寺"という寺で終焉しています。つまり神戸と大きくかかわっている仏教者なのです。

■宝厳寺に至る前の道路は、「ネオン街」という歓楽街があります。どうやら"青線"のような雰囲気をもった色街です。今も営業しているようですが、うらさびれた様子が、カメラの被写体にぴったりでした。

・色里や十歩はなれて秋の風  正岡子規

■寺は、本堂だけの簡素な作りで、とても宗祖が誕生した場所とは思えない寒寺です。ただ俳都・松山らしく句碑は多く建っています。本堂の前でたたずんでいると、たまたま住職が外出途中だったので、無理をいって堂内の一遍上人立像をみせてもらいました。室町時代の傑作とれ、痩身の一遍が、前屈みで合掌しながら、一心に南無阿弥陀仏を唱えながら、歩を進めようとしている姿が刻まれています。一遍の気迫がそのまま伝わってきそうです。リアルな描写は、とても600年以上前の作品だとは思えません。

■この日は、道後温泉でくつろぎました。宿で"地ビール"である「道後ビール」を飲み俳都の夜を楽しみました。
259-8月6日(日)
広島に原爆が投下された日。

21世紀には、地球から核兵器が無くなるのでしょうか。

でもたとえ、国家が核兵器を使って、世界的核戦争を行い、人類がすべて死滅としても地球上のすべての生命が途絶えることはないでしょう。太陽の寿命はまだ10億年とも30億年とも言われています。陽がこの星にふりそそぐ限り、生命の再生・蘇生は可能でしょう。人類がいなくても、地球は、太陽系の惑星として活動を続けるのです。

その時、人類以外のなにかの生物が、「昔、この星に、"ひと"と呼ばれた二本足で歩く雑食動物がいた」と"ひと"の記憶を継承してくれるでしょう。それは"ひと"をよく知る動物。たとえば、ゴキブリ、カラス、ネズミ、ツバメ、ドバト、アリ……といったところでしょうか。今から"ひと"の「語り部」候補者に、とくとくとわれわれのことを話して聞かせてやる必要があるでしょう。
258-8月5日(土)
拙宅のパソコンの調子が悪いのです。

インターネットを見るときの、ブラウザを見ていると、数分後には「交信が状態がない状態が続いたので停止します」とのサインが出てPPP機能が停止してしまうのです。(筆者が使っているのは、Internet Explorer 4.5というソフトです。)

このために、ブラウザの安定性を得るために、Real Player というソフトを起動させて、NHKラジオの海外放送を聴いています。"Radio Japan"というもので、24時間放送です。ニュースを中心に放送していて、日本語、中国語、英語、フランス語などでニュースが読まれます。日本語ニュースには、プロ野球の結果なども報じられます。
257-8月4日(金)
http://www.bluewave.co.jp/i/

やっと思いが通じたと言うべきでしようか。
久しぶりに、筆者が応援するオリックス・ブルーウェーブのホームページを開けてみたら、全面改訂されていました。第164話で、この球団のHP のだめさを指摘しました。オリックスの社員ですら、12球団中、最低の出来であるとの評価を下していたのです。

オリックスといえば、日本経済が負け続けた90年代=「失われた10年間」にあって、数少ない"勝ち組企業"のひとつです。その会社が持っている球団のHPにしてはお粗末すぎました。まず、サイトに即時性がなかったこと、野球中継が極端に少ない球団はなんとか自前で、試合経過をリアルタイムに配信する必要があります。それを怠っていたことが大きいのです。

でも、久しぶりに見るHPには、本日の冒頭にあるように、i-mode用に、試合経過を知らせるサイトを新設しています。小さいながらも大きな前進です(将来は動画による試合経過の配信ですね。勿論、無料で)。これで、阪神戦の放送中に、いつ知らせてくれるか分からない「他球場の結果」に耳をすまさなくてもよくなりました。筆者は以前、オリックスのホームページにせめてi-mode用の速報サイトを設置すればどうかとの提案メールを送ったことがあります。勿論、筆者の実名入りです。しかし、オリックスからは、何もアクションもありません(こういう企業のマイナス面、改正面の指摘メールなどは、あまり返信はしないのでしょうか)

そして、このi-modeに関して、アクセスするだけではなくて、やがてカルメンもi-mode用にサイトを新設したいと思っているのです。
256-8月3日(木)
おやっと思ったのです。

結婚15年目の同居人の女性(妻)がいつのまにか、家族の中で、子供たちを主体にした人称の使い方をしているのです。つまり筆者は、"あなた"ではなく、「おとうさん」と呼ばれます。先日、足の爪を切っているとき、ある部分がどうしても届かないので、手伝ってもらった時、「わたしも妊婦の時、"おばあちゃん"によく足の爪を切ってもらった」というのです。彼女の"おばあちゃん"という人は、長命だったひとですが、ずっと寝たきりで、足の爪を切るということは出来なかったはずです。よく話を聞いていると、この"おばあちゃん"というのは、自分の母(筆者にとっての義母)であるらしく、その場に子供がいない夫婦の会話の中にも、子供を中心とした人称使用が徹底しているのです。

筆者も家庭内で、同居人の女性(妻)に対して、「おかあさん」と呼ぶことはあります。しかしそれはあくまで、子供が目の前に居る限りにおいての言い換え表現です。日頃、筆者は同居人の女性(妻)を「あなた」あるいは「きみ」と呼んでいます。家族は夫婦が機軸にあるべきです。夫婦二人きりの場においても、"おとうさん"と呼ばれるのは異常です。筆者は子供にとって"父"も演じていますが、同居人の女性(妻)にとっては、まずは"夫"であるはずです。

いつのまにか"日本人"になってしまった同居人の女性(妻)に対して驚きを隠し得ませんでした。
255-8月2日(水)
面白くない展開です。

まあ4年に一回ぐらい優勝させてやってもいいのでしょうか。
プロ野球のセ・リーグの話です。巨人が独走態勢に入りました。追う2位の中日は去年の覇者なのですが、巨額な金でかき集めた選手層の"ぶ厚い"新聞社所有球団の元気には、及びません。なにしろかの球団は、代打で出てくる打者でさえ、他球団であれば4番クラスなのですから、勝って当たり前の世界でしょう。

カルメンでは昔から、読売新聞をとっています。最近のスポーツ欄のはしゃぎようは、全くのAgry。巨人が勝っても負けても、この欄は飛ばして読むようにしています。またテレビをつければ、特にスポーツ・ニュースがひどい。客観性はどこえやら、口を開ければ、巨人のことしか言わない"解説者"が跋扈して、これも鑑賞レベル以下。

そんなにイヤだったら、新聞もテレビも見なけりゃいいじゃないか、といわれそうですが、そのとおりです。見ていません。ひいきのオリックスは、地元マスメディアでさえも中継が殆どないという可愛そうな球団なので、見たくとも見れない。オリックスが勝った日、たまにスポーツ・ニュースを見たくなる時がありますが、いつも「その他の試合」扱いが多いパ・リーグの試合が放映されるまで、巨人礼賛のバカ報道を見せられるのも、ウンザリするので、結局筆者はここ数年、スポーツ・ニュースを見ていないのです。

巨人が前回優勝した時のパ・リーグの覇者は、オリックスでした。巨人を完璧にうち負かしての勝利でした。ファンとすれば、今年の"日本シリーズ"は、前回の組み合わせを"了"としましょう。
254-8月1日(火)
本日から始まった特別料理を紹介します。今年も暑くなりそうな8月9月にぴったりあうコースです。予約は、表紙ページに立ち返って、カルメンへメールで申し込んでください。では、新しいコースのラインナップです。

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                               夏だピリ辛料理コース
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 お待たせいちしました。  遂にスペイン産生ハム(ハモン・セラーノ)が、カルメンの食卓に登場します。なかなか輸入が許可されなかったハモン・セラーノがようやく、われわれのもとにやってきてくれたのです。口の中に入れた途端、トロッと溶けるあの食感。スペインで食べられた方は、絶対忘れることのない味です。
        今回のコースは、スパイスをきかせた夏らしい料理で、汗をかいてもらい、素晴らしいスペインの夏  の味覚を楽しんでもらいます。情熱の国の情熱の料理をどうぞ召し上がって下さい。

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                                    1.自家製サングリア・ワイン
                        2.ハモン・セラーノ(スペイン産生ハム)
                          3.白身魚のエイスベッチェ(タパス風)
                                4.ピリ辛・タコのガリシア風
                                5.冷製スープ・ガスパッチョ
                         6.メルルーサ・コン・ロメスコ    
                        7.モーロ人風豚肩ロースのスパイス焼き
                                  8.えびの南蛮焼きとサラダ
                          9.a.シーフードのパエリア(今回初登場)
                          b.チキン・ハム・ソーセージのパエリア
                                            c.パン    
                                      a b c いずれかを選択
                  10.(デザート)オレンジのシャーベット・カルメン風
                                          11.a.コーヒー
                                                 b.紅茶
                                               c.ラム酒  
                                     a b c いずれかを選択 

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                                      平常料金/  9800 円相当
                                     優待料金/4880円
                                         (お一人様)(税別・サ無)
                                      期間/8/1(火)〜10/9(月)
                         (月曜定休日、8月8、9日は休み。お盆期間中は営業、)
                           時間/12:00〜21:00(ラストオーダー)〜22:00
253-7月31日(月)
カルメンの定休日です。

筆者は、FMわぃわぃの放送があるために、番組制作の仕上げを午前中に行います。

昼前に岡本を少し歩きました。この地域は、店舗の変遷が激しく、主だった外資系ファーストフード店はおおよそすべて揃っています。こうした業界がターゲットにする学生たちが、岡本・本山周辺に多いためでしょう。

FMわぃわぃに行って、午後4時から「南の風」の本番。4年前の放送スタート時には、全くの素人だった筆者も、100回近くディスクジョッキーをしていますと、さすがに慣れてきますし、根性も座ってくるものです。当初は、どんな細かいコメントでも原稿に書いて練習していたのですが、最近は準備する原稿枚数がぐっと減りました。筆者の声質は、少し鼻がつまった感じなので、これが反対に"マイク通り"がいいということになるのです。それでも時々、FMわぃわぃのチーフ・ディレクターであり、ミキシングも担当する野村昭彦氏に番組の進行方法とか、内容についてなどいろいろと注意を受けます。このラジオの世界は奥が深く、筆者などまだまだ経験が浅い方です。

番組終了後、鷹取協会敷地内で、神田神父(株式会社FMわぃわぃの社長も兼ねる)と、わぃわぃGMの全ミオクさんと会いました。ミオクさんからは、筆者が運営している「南の風」奄美篇のサイトを見た神奈川県の高校の教諭が、修学旅行で、FMわぃわぃを訪れたいと希望していることを伝えてくれました。この放送局は、決して大きくないのですが、徹底して地域住民の側にたった放送姿勢が、長田・神戸という枠を越えて共感が拡がっているのです。

長田から元町・トーアイーストのジャズ・ハウスの"木馬"へ。8月19日に行う"ロルカ詩祭"の最終打ち合わせです。出席したのは、福田知子さん、冨哲世氏、西谷民五郎氏。筆者を含めてすべて詩誌『メランジュ』の同人です。ここで午後6時30分から午後11時30分まで、打ち合わせと称して飲み会。4人でバーボン一本なので、たいした量ではないのですが、今の若い世代が酒をあまり飲まないことを考えると、われわれ中年のほうが、酒にたしなむ度合いは深いようです。
252-7月30日(日)
神戸まつりのハイライトである"パレード"が行われました。沖縄サミットの警護のために兵庫県警の警察官が大挙して、南へ向かったため、例年より一週間おくれの開催です。つまり国家行事が市民の祭りより大切だということと、市民・主催側の都合ではなく、警察の都合で遅らされたわけです。別に警察が祭りを盛り上げるわけではなく、参加しているわけではありません。なんとなく面白くない事態です。交通事情を整理するという仕事があるにせよ、京都の祇園祭り、大阪の天神祭りなどは、"神々"が祭りの日取りを決めたのためか、サミットがあろうとなかろうと日程変更はありません。"神"不在の神戸祭りなどは、ポリスの都合でいくらでも変更が可能なのでしょう。また神戸の祭りといっても、あくまでも行政主導のイベントでしかなく、神戸のシビリアンが自主的に祭りを作り上げていくという"ノリ"でもないところが、警察の都合で日程変更を許すという事態を安易に受け入れてしまう素地を用意しているのではないでしょうか。
251-7月29日(土)
今日は、犬がテーマです。

といっても愛玩の対象としての犬ではなく、食用としての犬についてです。
これは最近、殆ど毎日のぞいている韓国の日刊新聞の日本語サイトの中に、韓国の"犬食"についての記事が掲載されていたので、思わずチェックしてしまいました。ご存じのように韓国(朝鮮民族)、さらには、中国でも犬は食用にします。中国ではチャウチャウという舌が紫色をした食用犬が有名です。日本でも昔から"赤犬"が美味しいといわれていました。そして公ではないにしろ、犬を絶対食べない国ではないことは確かですが、一般的には、強いアレルギーがあることは確かでしょう。

犬を食べると聞いてもっともビックリ仰天するのは、英国人でしょう。愛玩派の代表格のような英国と、椅子以外の四つ足なら何でも食べてしまう中国人とは、水と油のような違いです。この両国民の差を示す有名なエピソードがあります。清の使節として、エリザベス1世に謁見した庚有為は、立派な犬をもらったそうです。中国側もその犬を見て大喜びしました。エリザベス女王は、中国人も気に入ってくれたことに気をよくして、数日後、使節達に、犬はどうしているのか聞いたそうです。すると庚有為は「ありがとうございます。いい犬でした。美味しくいただきました」と答えたそうです。

さて、韓国の犬食についてです。朝鮮民族の犬食の歴史も筋金入りです。かつて、朝鮮半島に進入してきた(スキタイ系ともいわれる)騎馬民族には、「犬部」のような職種があり、これは食用犬を扱うセクションだったようです。朝鮮日報(00年7月25日)によると、『韓国人と犬肉』という書物を著したチュンチョン大学アン・ヨングン教授は、「4世紀頃の高句麗アナク古墳の壁画から倉庫で屠殺された犬が鉤にかけられている姿」を発見したと報告しており、その歴史の古さを実感することができます。

またアン教授は、犬肉食用反対論の非論理性を主張します。米国の人類学者マービン・ハリスの「西洋人は犬を愛しているから捕食しないのではなく、犬より効率の高い肉食動物があるから捕食しないのだ」(『飲食文化の謎』1994年)という主張を引用するのです。さらには「愛犬文化自体が西欧文明の否定的影響の一つで、家族制度の崩壊によるもの。自分が好きだからといって他人にも犬をかわいがるよう強要するのは問題だ」と強い調子で自説を展開します。

さらに韓国の犬肉反対論のは背景に、日本の植民地支配の影を読みとります。つまり犬肉を滅多に食べない日本人の価値観が、韓国人にも影響を与えているというのです。アン教授はこうもいいます。「キムチとともに世界的な食べ物にすべきものが犬肉」。

う〜ん、強烈な自己主張です。しかし、こうした犬肉食用賛美の本が出るということは、韓国内でも、犬肉を食べない人が増えているだろうと推測されます。筆者の知り合いの在日韓国人に聞くと、「北朝鮮で盛んに食べていると聞くよ」と他人事のように言います。韓国ではあえて犬肉を食べなくてもいいような食糧事情になったこともあるのでしょう。

筆者はかつて大阪の猪飼野で、犬肉料理を食べたことがあります。この周辺は、韓国の人が多く住んでいる地域です。この店も公には、犬料理を出すという雰囲気はなく、スナック風のつくりです。よほどそこの地理に詳しくないと、その店の所在はわかりません。味は?  ですか。そりゃあ「いい犬でした。美味しくいただきました」でしたよ。
250-7月28日(金)
225話(7月2日)の後日談を。

拙宅の東に位置する300坪大の土地にあった工務店が6月末で退去した後、きれいに整地されたところまでお知らせしました。住宅が建つというウワサだったのですが、今朝窓越しに見ていると、コンクリートが地面を覆っていました。

どうやら駐車場にするつもりです。しかし、拙宅周辺は、震災後、多くの駐車場が出現。言ってみれば、駐車場だらけの街になってしまいました。当然、すべてのスペースが埋まっているわけではないのです。駐車場にするというのは、税金対策でしょうか。

これでしばらく、家が建つことはなく、子供達も「何も建たない方がいい。景色が悪くなるから」と言っています。でもそうでしょうか。眺望がいいということは、反対にこちらも眺められているということなのです。筆者が強くこう思うのは、震災が起きた年のお盆のことを思い出すからです。死んだばかりの人たちが、この街に帰ってきて、更地と化したわが街をみつめ、残った家(すなわち拙宅も含む)を凝視する------そうしたことを連想をしてしまったのです。

神戸にも、もうすぐお盆の季節が巡ってきます。
249-7月27日(木)
猛暑も一休み。涼しい日が続きます。

蝉は早朝から鳴きだし、昼近くになると鳴きやみます。拙宅の前の公園はアブラゼミが多いのですが、いつも夏の終わり頃、一匹だけヒグラシが鳴きます。「カナカナカナ」と悲しげになくその鳴き声は、哀れを誘います。かつて奈良と三重の県境の山を車で越えている時、大量のヒグラシが鳴いているのを聞きました。冷涼な場所を好むため、集住しているのでしょうね。

蝉といっても沖縄・奄美にいる琉球蝉は「ジイージイー」と鳴きます。かの地の亜熱帯の杜にいると、ヤマト的感覚では一体何の動物・昆虫が鳴いているのか判別できないものもいて緊張が走ります。(南米・アマゾンにはホエザルという、森林によく響き渡る恐ろしげな声を出す猿がいて、なんだか不気味です。その不気味感覚に似ているのです)。

毎朝、蝉たちがうるさく鳴くためでもないでしょうが、拙宅周辺の制空権を握っていて、人間と犬以外の動物ヒエラルキーの頂点に立つカラスでさえも、高いビルの上のテレビアンテナに昇って(=避難して?)「かあがあがあ」と鳴いています。きっと「いやあ、毎年のことやけど、この時期、朝はようから蝉たちがうるそうてかなわんわ」と言っているのかもしれません。
248-7月26日(水)
先日、ある女性と飲んでいた時のことです。筆者に対して「あなたは酔うと関東弁になるわね」と言われてしまいました。筆者は純粋な関西ネイティブです。神戸生まれの西宮育ち、そして途中から再び神戸で生活していました。このうち、言語形成した幼児期から少年期は西宮の甲東園という場所にいました。関西人のくせに関西弁のイントネーションではない"けったいな関西弁"を使うのは、この西宮(北部)の土地柄のせいではないかと思っているのです。

甲東園あたりの西宮(北部)は不思議なところで、関西でありながら、標準語のようなイントネーションでしゃべる子供たちが多かったのです。その中に、完璧な大阪弁を使う子供が転校してくると、まるで異郷の地からのエイリアンのようにみえたのです。今考えてみてもあのあたりの言語環境は不思議です。まず地元住民の"地"の言葉が少ない。他地域にはない言葉使いも存在します(例えば、人を呼ぶ時の「ちょっと、ちょっと」という場合は「ちょ、ちょ、ちょ」という表現になる)。しかし、こうした表現は、言語全体を支配する"方言"という位相にまではいたらないのです。

西宮(北部)の近隣地区と表現の比較をしてみましょう。ある人が、友人を見つける。その友人はどこかへ行って来た様子。それを聞きただす時の表現です。

《標準語風》「どこへ行ってたの」

となるところを、筆者の同居人の女性(妻)は、全くの大阪ネイティブなので以下のような言い方になります。
《大阪弁・淀川区出身・若干北河内語も交じる》
      「どこ行ってやったん」

神戸ではどうでしょう。筆者の知るかぎりでは、筆者の周囲で一番きれいな神戸弁を使うのは、タレント・アナウンサーの西条遊児さんです。
《神戸弁》 「どこ行っとお」
最後の「お」が表記しにくい。「お」と「おぉ」の中間あたりの発音でしょうか。

また西隣の播州地域は、言語環境の一体感があるところで、神戸弁のベースと指摘されている場所です。
《播州弁・いささか東播か北播風》
      「どこ行っとっての」
「と」と「て」の間の「っ」が短く、「と」を短く発音するための記号と思ってください。

ところがこうした"地の言葉(=方言)"を持たぬ西宮育ちの人間は、どのような表現になるかというと
《関西弁の標準語》
       「どこ行ってたん」
といった最大公約数的な平板な言い方になります。これはまさしく地域によって多様にある関西内"地の言葉(=方言)"とは連関性のない《関西弁の標準語》と言い得るものなのでしょう。筆者が使っているのは、東京弁の成り立ちをそのまま関西に移植したようなこの《関西弁の標準語》なのです。

筆者の子供達も、筆者の育った西宮と言語環境が似ているせいか、(若干神戸弁を筆者よりも多く使用するものの)《関西弁の標準語》的な言葉使いをしているようです。こうした地域はまずボキャブラリーが少ない。筆者は《大阪弁・淀川区出身・若干北河内語も交じる》をしゃべる同居人の女性(妻)の使う言葉が時々分からず聞き返します。最近の例では、「きっちょ」という言葉です。こういう会話で使います------そりゃ、"きっちょ"やから、そろそろやっていいんと違う------。皆さん、分かりますか? "きっちょ"とは「吉祥」のこと。やるべきタイムリーな時機とでもいうのでしょうか。彼女の時々出る"地の言葉"を聞いていると、筆者の言語環境の貧しさを痛感してしまうのです。
247-7月25日(火)
聖母マリアについて----5

《《拒絶されたマリア》》

マリア信仰が、バチカンにおいて容認されたのは、意外に早く431年のエフェソスの宗教会議においてのことでした。以来、マリア信仰は深く広く浸透することとなるのです。フランスのルイ11世(在位1461〜83)は、1471年に王国の平安のために日に三度は跪拝して「アヴェ・マリア」と唱えるよう布告を出しています。またルイ13世は1635年、フランスがドイツの国内戦争である「30年戦争」に介入する時、フランス王国を聖母マリアに捧げます。ちなみにこの「30年戦争」とは、聖母マリアを認めないルター派とカルヴァン派を弾圧するために、領主であるハプスブルグ家が起こした戦争でした。

そうなのです。マリア信仰を拒絶したのは、プロテスタントの諸派だったのです。中丸明氏は『聖母マリア伝承』(文春新書)のなかで「プロテスタントは、初期においてはマリア信仰に寛容であったが、時代とともにギリシア正教やカトリックが、文献的な根拠もないままにさまざまな屁理屈をつけて、マリア信仰を強要していくこに、厳しい態度で臨むようになった」と表現しています。

プロテスタントは、カソリックが大切にしていたマリア信仰に込められた"大地母神"的な要素や、宗教が本来的に持っている呪術的な要素を排除していく傾向にありました。饗庭孝男氏はこう説明します。〈「宗教改革」は、宗教を民俗的儀礼から切り離すだけでなく、かつての原始キリスト教が初期において、社会下層の農村における「治癒神」的な役割を果たしていたことも遠く離れて、キリストの「言語(ロゴス)」の内面化を都市住民の「テクスト主義」に封じ込めた〉(『知の歴史学』)。「テクスト主義」とは、聖書への絶対回帰です。いわばこの福音主義が、聖書にほとんど登場せず、後世になって教会や世俗の権威によって潤色されていったマリア信仰を拒絶するようになるのです。今世紀に活躍したプロテスタントの神学者であるカール・バルト(1886〜1968)は、〈マリア信仰は異端で「神学の貪欲な枝の悪性異常増殖」〉とまで言い切っているのです(中丸)。

しかし、"マリアさま"は、プロテスタントに全的に否定されてしまったのでしょうか。プロテスタントといっても、多くのグループがあり、マリア信仰についても対応は多様です。それに、マリア信仰を拒絶した地においても"マリアさま"は出現するのです。この不思議な"マリア体験"については次回、お話ししましょう。そして、この極東の島国にも"マリアさま"はお出ましになっているのです。
246-7月24日(月)
カルメンの定休日。

沖縄サミットが終わりました。筆者のところへ届く沖縄発のメールを読んでいると、みんな、終わってホッとしているようです。なにせ、期間中、警官の数がやたらに多く、検問ばかり。交通規制もしょっちゅうで、市民には各国のVIPは触れさせないぞ、見せないぞ、という権力側の隔離の意思が徹底されたために、沖縄の人にとっては、サミットというのは、決して沖縄の人たちのために開催されたものではないということを悟ったようです。

沖縄にサミットを誘致しようと言い出したのは、前沖縄県知事の大田昌秀氏なのですが、先の知事選で稲嶺恵一現知事が当選したので、在野の立場から、今度のサミットを眺めています。忸怩たる思いに満たされているでしょう。本土や沖縄のマスメディア報道を見ていると、稲嶺知事は、突然降って湧いた沖縄でのサミット開催のレールに乗るのが精一杯で、彼なりに沖縄をアプローチできたかどうかは、評価が分かれるようです。

沖縄は、外国からの客人を迎える術(すべ)は心得ています。かつて琉球王国は外交上、中国と冊封関係にあり、どちらかの王が死去し、新しい王が赴任すると、互いに使節を交換する習わしがありました。中国側からは「冊封使」と呼ばれる使者が琉球を訪れ、六カ月にわたって歓待をしたというのですから、その期間中、用意する酒食、芸能など、一定以上の評価のものを提供する必要があります。芸能では「組踊」という古典芸能が発展したり、それなりの文化的蓄積もありました。(そういえば、沖縄にもうすぐ「国立組踊劇場」が建設されます。関西には「国立文楽劇場」があり、東京にはやはり二つの国立劇場があるのです)。

沖縄は失業率が神戸並みに高いのにもかかわらず、地域としては元気なのです。その元気の素は若者たちが生み出す"文化"。神戸が再生していくには、若者たちの"元気"が大切です。でも、神戸の若者たちは、"いっちょなんかやったる"という気概があるのでしょうか。手を伸ばせば何でも手に入る恵まれた環境を、享受するばかりで、拒絶することをしなくなった若者たち。"携帯電話を拒否する文化活動"とか、"無駄メールを無駄に送りつける運動"とか、いまここにあるメディア状況を、まず拒絶することも大切でしょう。
245-7月23日(日)
聖母マリアについて----4

《《マリアはなぜ人気者》》
これまではイスラム教の聖典『コーラン』に書かれたマリアを見てきましたが、本家のキリスト教の聖典『聖書』には、皮肉なことに、マリアに関する記述はほとんど存在しないのです。それでもかように西洋社会ではマリア信仰が浸透し、マリア人気が依然強いというのは、マリア信仰に仮託された"大地母神"信仰の強さというべきなのでしょうか。この〈マリア=大地母神〉については別項で書くとして、今回はキリスト教の聖職者にとって、このマリアは実に都合のいい存在であったことをお話しましよう。

それは「聖母マリアは、真の結婚によって結ばれ、息子を生みながら、なおかつ罪を免れた女性のイメージを示している。すなわちよき母の模範である」(ジョルジュ・デュビー著『中世の結婚・女性・司祭』)という理由であるからなのです。ヨーロッパ社会では肉体と精神と二元論的桎梏は深く、精神は気高いが、肉体は汚れ、精神の入れ器(もの)としてようやく許容されるという認識があります。神の子・イエスを産んだマリアが汚れた肉体を持つことは許されず、全的な聖母の位置に祭り上げられます。

特に中世においては「聖母マリアとは中世の封建制における家系や階級身分制度と、その構造と深くむすびつく宗教的規範のモデルとしての意味を示していた」(饗庭孝夫著『知の歴史学』)。幼子イエスを抱いて母親としての悦楽の表情を浮かべるマリアと、夫ヨゼフの三人の家族の姿こそ、聖家族の原型であり、社会安定の礎(いしずえ)的な原像であるのです。「言うまでもなく、彼女の「生殖」は浄められており、その「快楽」は存在せず、交じわりなき結婚という、教会が夢想したモデルを過不足なく示している」(前掲書)。イエスの誕生は、男女の生々しい性行為の結果であることは、どうしても認めたくないのです。マリアとヨゼフとの間で性行為があったとしても、そこに"快楽"は存在せず、肉(身体性)に還元してしまう恍惚のマリアは許されないのです。聖書にも「男は女に触れないにこしたことはない」(「コリント人への第一の手紙」)と書かれていますし、「妻を過度に愛するのは姦淫である」(聖ヒエロニムス)という表現もあるぐらいです。

ではどうしてキリスト教はこのように、性行為や性の快楽を拒んだのでしょう。饗庭氏はこう説明します。「本来、キリスト教には悪=肉体=女性という、別様に言えば精神と肉体のたたかいというグノーシス教やマニ教的な思考がある」。キリスト教が持つ精神重視の指向とウーマン・ヘイティング(女性嫌悪)の考えがあいまって、"母"ではあるが"女"ではないマリアが出来上がっていくのです。

こうして聖職者によって作り上げられ、そして民衆に受け入れていったマリア像。しかしこの聖母マリアを西洋世界が拒絶する時がくるのです。その拒絶の理由とは、"聖書にはマリアのことが書かれていない"からということなのです。マリアは本当に全面的に拒絶されてしまうのでしょうか。気になるところです。
さてさて、そのお話しは次回にすることにしましょう。

244-7月22日(土)
昼の休憩時間を利用して、大急ぎで、大阪の弁天町を往復しました。筆者の知人が写真展をしているのです。西村仁美さんという女性で、奄美からわざわざ大阪へやってきたのです。この人は、写真家であると同時に文章を書く人で、筆者がかかわる雑誌メディアに投稿してもらったことを機縁に、知り合いとなったのです。

でも実際に会うのは今回が初めて。西村さんは、今奄美に住み着いて、奄美を紹介する本を執筆しているとか。昼は奄美大島のさまざまなところでシャッターを切り、夕方からは、名瀬市の弁当屋で働くという毎日です。今回の合同写真展は、奄美の人を映したものが数点、展示されていました。

西村さんは奄美にかかわるまで、釜ケ崎や、チベットと関わってきました。それらの写真展も開いたことがあるそうです。チベットは、インド領の難民キャンプにまで単身乗り込んでいった経験を持ちます。釜やチベット、そして奄美にしろ、いずれもそうした場所・人に関わることは、一体自分とは何者なのかという根本的な疑問に直面します。重たいテーマです。初めて会った西村さんはひょうひょうとしながらも、向き合った対象に対して、時に傷つきながらも真摯に対峙しようとしている人なんだということが分かりました。

243-7月21日(金)
本日、夜の部は満席。来店していただきながら、お断りしたお客様が何組かいらっしゃいました。申し訳なく思っています。またの機会をご利用ください。

連日、猛暑が続いています。梅雨あけ直後ということもあり、好天が続き、気温もウナギのぼりに上昇。当然、夜も熱帯夜です。神戸でも六甲から北は、比較的涼しく、夜も冷房なしで過ごせる場所がおおいようです。しかし、筆者が住む東灘区の平地部分は、ベタッとした暑さで、家が建て込んでいる地域に住んでいることもあって、風も殆ど通らず、夜は冷房なしではすごせません。

筆者の家では夏になると、夜の冷房代を節約するために、家族がひとつの部屋で寝ることとします。しかし家族が五人もいると好みの温度がマチマチです。筆者は、冷房がかかっていなくても汗をかきながらも寝ることができるのですが、筆者以外の四人は冷房が大好き。特に次男、長女が冷房なしでは一睡もできないので、少しきつめにかけようとします。それを母である筆者の妻が室内設定温度を制御するという措置を繰り返しています。

こうした毎日起きる"設定温度闘争"に一番最初に白旗を揚げたのは、筆者です。毎夜、冷房が切れると起きる。冷房がきつすぎても起きる。といったことを繰り返していると、体力が落ち、昼もぐったりと疲れてしまうので、一階にひとりで寝ることにしました。一階は若干涼しく、扇風機だけで寝ることが出来ます。しかしこの部屋、阪神大震災の時、二段重ねの洋服ダンスの上の部分が落下。畳に大きな穴をあけました。その下で寝ていたら、間違いなく死んでいたであろうことを考えると、安眠できないこともあります。
242-7月20日(木)
  筆者が毎日乗り降りするJR摂津本山駅南口の駅舎内に、燕が巣を作っていて、4羽が元気よく育っています。そろそろVirgin Flight の前らしく、盛んに羽根を広げたり、ばたつかせて飛行のシミュレーションを行っています。その姿は愛らしく、人間を怖れていない様(さま)にも感心してしまいます。

この燕の巣は、震災前からあり、何代か代が変わっているようです。人間という巨獣は、自分たちを襲わないことを知っていて、燕たちは人目のつくところに巣をつくります。これがカラスだったり、鳩だったら、巨獣たちはすぐさま巣を撤去しようとするでしょう。この差はいったい何なのでしょう。燕たちが益鳥であり、季節が変われば、やがて南の方へ去っていくからでしょうか。燕たちがはるか大洋を越えていく様子を巨獣たちは畏敬しているからでしょうか。

すっかり成長した燕にとって、巣は狭いのでしよう。巣の中は朝の通勤ラッシュなみの混みようです。もうすぐたつと、幼燕たちの一直線に翔ぶさわやかな姿を見ることができます。

241-7月19日(水)
神戸日西協会という組織があります。兵庫県の外郭団体「21世紀ひようご創造協会」が事務局を務める兵庫県民とスペインとの親睦を深める文化団体です。

筆者はこの協会の理事の一人に名を連ねているのです。この日、理事会と総会が開かれ、出席してきました。会場は、神戸市垂水区の埋め立て地に造られた"マリンピア神戸"にあるレストラン。オープンしてまだ一年と経過していません。最近、大型のアウトレット店がオープンして、話題となりました。会場となったレストランは、西に向いています。巨大な明石海峡大橋を見ることができるのです。午後5時30分から理事会、午後6時30分から総会と懇親会が開かれました。午後7時を過ぎると、"レインボー・ブリッジ"と言われるこの橋がライトアップされるのです。

この日、総会・懇親会に出席したのは、約100名。スペインらしく画家や、大学でスペイン語を教える先生などが顔を見せています。筆者が最初に名刺交換したのは、山口忠志氏。英知大学文学部教授。スペイン語文法を専攻されています。懇親会でも、筆者の隣となり、興味深い話しを多くしてくれましたので、いずれこのサイトでもお知らせするつもりです。二番目に名刺交換したのは、田尻陽一氏。関西外国語大学教授。田尻氏の活動範囲は広く、ロルカの劇を翻訳することを初めとして、独自の解釈を施し、ロルカ劇を企画・プロデュースされておられます。アカデミズムの枠にとらわれない活動が氏の魅力です。

会場となったレストランは、気をつかってくれてカマロン(フラメンコ、カンテの不世出の天才)のCDをかけてくれたのですが、スペイン料理は出ませんでした。注目に値する料理を一つだけあげれば、"トビウオ"のフリートスです。この魚はJaponの南、トカラ・奄美・沖縄の海でよくとれ、刺身にしても美味しいそうです。筆者は初めて食べました。淡泊な味です。さすがに海面を飛ぶだけあって、肉はそう厚くありませんでした。
241-7月18日(火)
とうとう関西も梅雨明けです。

これからしばらく暑い日が続きます。蝉も元気に鳴いています。子供達は、学校に置いてあった教材などを両手にいっぱい持ち帰るっているので、小学生低学年は、まるで荷物が動いているようです。

最近、東灘区や長田区の公園で筆者がよく見かけるのは、小学校の3年生か4年生といった年頃の男の子たちが、4〜5人、多いときは7〜8人が車座になって、カード遊びをしている光景です。彼らに大流行している"遊戯王"というゲームをしているのです。筆者の子供達も何十枚か持っています。5枚150円で売っているらしく、セット売りなので、カードの中身は分からず、重複してカードを所持した場合は、友達同士で譲り合っているようです。カードには、自分の持っている武器や強さが書かれていて、そのパワーで対戦するのです。

ではどうして公園でカード遊びをしているのでしょう。答えは簡単です。筆者の次男曰く「遊戯王の遊びが嫌いなお母さんが多いから、遊べる家が少ないので、じゃあ公園でするかってことになるの」だそうです。
240-7月17日(月)
四国では梅雨明けしたというのに、神戸はまだ厚い雲に覆われています。午前中は岡本へ銀行、コープこうべなどへ。

本日はFMわぃわぃの放送がある日なので、昼から放送準備の仕上げ。本日の放送から、筆者が担当している「南の風」は5年目に突入します。この番組は奄美・沖縄・宮古・八重山の島唄と文化を紹介する内容で、筆者は奄美篇を担当しています。奄美篇は隔週放送です。この日は93回目の放送です。今秋には奄美篇だけで100回を数えることとなります。

放送は5年目突入を記念して、これまで4年間放送してきた島唄の中で、筆者が現地奄美で録音したものや、FMわぃわぃのスタジオで録音したものなどを含めて、奄美を代表する唄者に登場してもらいました。そのメンバーを下に列挙しておきましょう。

〈奄美大島/カサン唄〉上村藤枝 松山美枝子 福山幸司
〈奄美大島/ヒギャ唄〉石原久子 西和美
〈徳之島〉 米川宗夫
〈沖永良部島〉 川畑先民

これからも、多くの唄者に出演してもらうようにしていくつもりです。
239-7月16日(日)
筆者の友人が、兵庫県立近代美術館の"Art Now"展で、踊るので、店の休憩時間を利用して、行って来ました。

いわゆる"舞踏"というダンスのジャンルで、筆者が学生時代だった20年前は、身体表現芸術の特権的位置にありました。当時は"身体の復権"が状況論の中でさかんに主張されていたこともあり、舞踏は若い世代に熱い思いで迎え入れられたのです。

この日、踊ったのは、今貂子さんという人。かつて京都にあった暗黒舞踏集団「白虎社」のメンバーで、今は彼女自身が「倚羅座」というグループを作って活動していらっしゃいます。この人との出会いは、ある画家の個展でのパーティで踊っているのを見たのが初めてです。それから、筆者が個人的に催している大阪城での夜桜会で、満開のしだれ桜の下で踊ってもらったことがあります。

踊りは、"瓢箪ユニット"という楽器演奏集団がバックに演奏します。1階から歩き始めて、美術館内を練り歩き、2階でひと踊り。また1階へ行っておどるという観客も同時に移動するという構成になっています。今貂子さんは20年以上踊ってきただけに、さすがに突出した舞踏表現者として評価できます。そして若い人たちは、舞踏が最盛期だったひことを知らない分、こだわりがなく、イキイキと踊っていて見ていた筆者も新鮮に感じたのです。今さんの顔は細面(ほそおもて)の顔。舞踏によく似合う顔形なのです。

筆者は舞踏が大好きなので、いずれカルメンで、今貂子さんと倚羅座の皆さんに踊ってもらおうと思っています。
238-7月15日(土)
聖母マリアについて----3

3.《《イスラム社会のマリア》》C
さて、話しを続きをしましょう。『コーラン』では、マリアがヨゼフと共に、迫害を怖れて逃避行をし、馬小屋でイエスを産んだとか、羊飼いがまず拝礼し、東方の三賢人が続いて、イエスの拝顔を浴したとかいう聖的な舞台装置は一切なし。マリアが"産んでしまった"イエスをかかえて地域共同体(おそらく実家)に戻るところから話しはつづくのです。

----「これ、マルヤム(マリアのこと)、そなたなんということ大変なことをしでかしたのじゃ。………お前の父さんは悪い人ではなかったし、母さんだって淫らな女ではなかったに」と。
(さあ、大変です。生まれたばかりの赤ん坊を連れて帰ったマルヤム=マリアを見て、家族・親族、近所のおじさん・おばさんがよってたかって、目を白黒させています。異教徒のわれわれにとって、強面(こわもて)のイメージがあるイスラム教とその聖典にこのような人間くさい記述があるのは驚きです。わくわくしてしまいます。で、マルヤム=マリアも負けてはいません。なにしろ強引に妊娠・出産をアッラーの神から押しつけられた子なのですから)

----彼女は子供を指さした(この子に直接きいてくれという身振り)。「まだ揺籃の中ににいる赤ん坊とどうして話などできるものか」と一同は言う。
(緊張する場面です。久しぶりに家に戻ったマルヤム=マリアは、赤ちゃん連れ。しかし『コーラン』の中ではまだ未婚の身なのです。身内、近所のだれもが結婚したという情報を得ていない。疑うなという方が無理なようです。マルヤム=マリアの少々ふてくされた仕草に、周辺の人間達も「なにいうてんねん、この娘は」と色めきだちます。しかし、母なるマルヤム=マリアを救ったのは、意外や意外、この人だったのです)

----すると彼(その子、すなわちキリスト)が口をきいて、「私はアッラーの僕(しもべ)です。(アッラー)は私に啓典を授け、私を預言者にして下さいました。」
(うーん、これだけじゃっべっただけでも、「天上天下唯我独尊」と出産後すぐに語ったゴータマ・シッダルータよりも多弁です。赤子はまだ雄弁にしゃべり続けるのです)

----「それから母さんにはよく孝行をつくすように、と。私を生意気な、情ない人間にはなさいませんでした。ああ、祝福されたわが身よ、私の生まれた日に、やがて死に逝く日に、そしてまた生きかえって召される日に」と言った。
 これがマルヤムの子イェーサー(マリアの子イエス)。みながいろいろ言っている事の真相はこうである。
(これもまた問題発言です。キリスト教徒が時間をかけ、文化装置を動員して創造していったマリア―イエスの聖母子物語が、こうも簡単に片づけられては、たまったものではないでしょう。次の文句も火に油をそそぐような表現です)

----もともとアッラーにお子ができたりするわけがない。ああ、恐れ多い。何事でも、こうちお決めになったら、「在(あ)れ」と仰しゃるだけで、そうなるほどのお方ではないか。………
 だが、いろいろな宗派(ユダヤ教やキリスト教)は互いに(キリストについて)意見を異にしている。信仰なきものども、いずれ恐ろしい日(最後の審判の日)が目の前に現れる時、どんなひどい目に遭われることか。
(これは、はっきり言って、喧嘩を売っています。宗教のドグマというのは、もともと既存の宗教や、他宗に対して攻撃的であり、ファナティックなところがあります。イスラム教は、ユダヤ教、キリスト教と基礎基盤を共有をするだけに、近親憎悪的な表現となるのでしょう。)

いかがでしょうか。マリアの『コーラン』の登場の仕方は決して"聖母"というものではありません。むしろ"淫らな"行為によって"私生児"を産んでしまった疑いがかけられているのです。キリスト教の聖書もまた、こうした人間的な記述も随所にあり、読み物として面白いのですが、こと聖母としてキリスト教徒があがめているマリアのことを、こうも赤裸々に書かれては、怒るのも当然でしょう。しかし、不思議なのは、イスラム世界でもマルヤム=マリアは人気が高いということなのです。次回のお話しは、マリア人気について書いてみましょう。
237-7月14日(金)
聖母マリアについて----2

2.《《イスラム社会のマリア》》B

それではイスラムの聖典である『コーラン』にマリアがどのように書かれているかを追っていきましょう。(今回使用する『コーラン』岩波文庫は訳はかの井筒俊彦氏です。)
第19章は「マルヤム(聖母マリア)」について当てられています。まずマリアの登場の場面を紹介しましょう。

----マルヤムが、面紗をつけてみなに顔をみられないようにしたとき[月経を意味する]、精霊[天使ガブリエル]がたくましい男の姿となって彼女の前に現れた。
(キリスト教における受胎告知の場面ですが、面白いことに大天使ガブリエルが男になっていること、そしてマルヤム=マリアが月経であったことを明確にしていることです)

----「おお、お情け深い神様、私をお助け下さりませ。もし、貴方(とガブリエルに言いかける)、貴方にも敬虔な気持ちがおありなら……」
 「わしはただ汝の主のお使いとして参ったもの。汝に無垢な息子を授けるために」
(精霊を見た途端、マルヤム=マリアは仰天します。ガブリエルは、聖書の場合もそうですが、マルヤム=マリアにうむを言わせぬ強引さで懐妊を告げ、承諾を迫るのです)

----「なんで妾(わたし)に息子なぞ出来ましょう。妾は男に触れられたことのないからだ。淫らごころもないものを」と言えば、「いや、汝の主(しゅ)の仰せには『わしにとってはいとたやすきこと。それにその子(マリアの生む子)をぜひ人間への神兆とも、また我ら(アッラー)の慈悲の(あらわれ)ともしたいと思う。とにかくもうこれは決まってしまったこと事』と」
(マリアの懐妊については神官による"レイプ説"もあり多様な解釈が存在します。マリアとヨゼフが属したユダヤ教の一派は数年にわたる婚約期間があり、その期間中に懐妊すれば"処女懐胎"とおなじ位置づけをしたのだという解釈もあるのです。ただキリスト教徒にとって、マリアの"無原罪の御宿(おんやど)り"を認めるということが、宗教的ドグマの重要な踏み絵となったことは強調しておきましょう。)

----「ああこんなことになる前に死んでいればよかったのに。無に帰して、忘れ去られた方がよかったのに」と叫ぶ。
(これはマルヤム=マリアの台詞。この言葉はどう解釈しても、妊娠を後悔していると読めます。えらいことになってしまった。神のお告げであれなんであれ妊娠してしまった事実にマリアは驚愕しているのです。『コーラン』ではマリアの動揺をなだめるかのように「椰子の木を貴方の方に揺さぶってごらんなさい。みずみずしい採りごろの実がぱらぱらと落ちてきます。さ、食べて飲んで、御機嫌を直して下さい」ととりなしています)

しかしマルヤム=マリアの悩みはこれで解消したわけではありません。これからひと波乱が起きるのです。さてそれは一体どんなことなのでしょう。
それは、明日の楽しみといたしましょう。
236-7月13日(木)
聖母マリアの話の二回目を予定していたのですが、そごう百貨店の"倒産"についての話題に切り替えます。

Japonの経済が好調だった1980年代に積極的な店舗展開をしていたそごうが実質的に倒産してしまいました。この数年の不況で大手企業が次々と倒産していくことに慣れてはいても、身近な百貨店が倒産するとは思いもよらないことでした。三宮駅の南にあるそごうは、地域の基幹店として存在。三宮をどう歩いてもこのデパートメントにたどり着くという好立地をいかして、繁盛しています。資産家の多い阪神間が外商の営業対象地区であることにも助けられ、そごうグループの中でもトップの売上げ高(全体の50%台)を誇っているのです。こうした背景があるために、阪神・淡路大震災後もいち早く三宮店が再建されました(大阪本店を売却するのなら、いっそのこと成績のいい神戸を本店にすればいいとの声もあがっています)。

しかし筆者がそごうを利用したかというと、否定せざるを得ません。カルメンの食料品は、ダイエーかコープこうべ、電化製品は、星電社かジョーシン、什器類は、専門店か東急ハンズといった大型小売り店舗に足が向かっていました。

一体、百貨店とはどんな存在意義があるのでしょう。目指すべき裕福な生活モデルを示してくれている見本市会場であったし、信用のブランドであることも確かです。しかし筆者のように日常的に百貨店を使わない者にとっては、もはや百貨店が提示し続けた近代化(モダニズム)モデルの"常設展示場(テーマパーク)"としての役割は終わっていて、格別の魅力は感じません。いわば古きハレのメディアであり、ケの消費の場ではありません。10年以上前に言われた「大衆から分衆へ」との消費動向に、果たして対応しているのかどうか疑問に感じるのです。
235-7月12日(水)
聖母マリアについて----1

ロルカの故郷・アンダルシアに行きますと、教会や街々の角に、多くのマリア像を認めることが出来ます。かの地は、キリスト教ではなくマリア教の聖地ではないかと誤解してしまいそうです。そこで今回から数回にわたって、聖母マリアについて紹介していきたいと思っています。

1.《《イスラム社会のマリア》》A
マリアと言えば、キリスト教の専売特許のようですが、実はイスラム世界でもよく知れわたった女性なのです。民間信仰のレベルでは、マホメットの愛娘ファティマと人気を二分するほどと言われています。イスラム教の聖典『コーラン』にもマリアが登場するのです(その中身については明日お話ししましょう)。どうしてキリスト教の聖母であるマリアが『コーラン』に登場するかについては、イスラム教という存在が、ユダヤ教、キリスト教をベースにした後発の宗教であるということに起因するようです。

ついでにいうと、イエスの存在もイスラム教にとって、数多くいる預言者の一人だと位置づけられています。こうした関係は、インドのヒンズー教におけるブッタの位置に似ています。インド人の多くはブッタを知っています。ただ、彼らにとってのブッタは、あまた存在する神々のうちの一人なのです。仏教徒からすれば、ブッタは最高位の存在に位置づけられているのですが、ヒンズー教では"One of gots"でしかないのです。またイスラム教にとってイエスは"神"ではなく、預言者でしかすぎないことも大きな違いでしょう。そして勿論"キリスト(=救世主)"でもありません。

キリスト教徒にとって、『コーラン』にイエスやマリアが登場することほど嫌悪したことはなかったでしょう。1096年の第一回十字軍が結成された時、打倒イスラムの大義は「コーランにマリアを讃えているイスラム教徒の皆殺し戦争」であったのです。(今回の参考文献は、『聖母マリア伝承』中丸明著、文春新書)

234-7月11日(火)
レンタルしていたビデオ『ロルカ----暗殺の丘』を観ました。

この作品はロルカそのものが主人公ではなく、幼い時にロルカに出会い、長じて新聞記者になった若き主人公が「誰がロルカを殺したのか」をテーマにグラナダに戻るというストーリーです。

スペイン内戦では100万人が犠牲になっと映画で伝えています。スペインの人口は5000万人ぐらいでしょうか。そのうちの100万人というと大変な数字となります。共和国陣営と、ファシスト軍との憎悪に満ちた殺戮の応酬。そして『大地と自由』の映画の中で明らかにされた共和国陣営内の内紛。同じ国民同士が殺し合うのです。Japonでの最後の国内戦争は明治10年の"西南戦争"でした。これも主に軍人同士の対決であり、一般市民を巻き込んだ近代戦はいまだ経験していないのです。スペインは、いまもまだ内戦の傷が癒えたとは言えないでしょう。

主人公の一家は、36年の内戦勃発してまもなくアメリカ領プエルトルコに"亡命"します。その時主人公は16歳、ロルカの戯曲「イェルマ」を聞いて充分鑑賞できるほど成長していました。成人し、新聞記者となって、ロルカの本を書きたいと思うようになり、単身故郷のスペイン・グラナダに乗り込んでいくのです。1950年代のスペインです。フランコが独裁体制を敷いて、秘密警察が暗躍する恐怖政治がまかり通っていた時代でした。

筆者もそうした時代の片鱗を少しだけ経験しています。学生時代、初めて訪れたスペインは、ちょうどフランコの死後1年しかたっていず、街々にはやたらに警官の数が多く、陽気なスペイン人もどこかしら陰鬱な表情をしていました。3月、バレンシアで行われた"ファージャ祭り"では、群衆が一時暴徒化して、それを警官隊が追いかけ回し、棍棒で外国人であろうとおかまいなく、なぐりつけるといったことがごく普通の風景として存在していました。1977年のことです。

映画の主人公が舞い戻ったスペインはまだまだ厳しい時代状況だったことが予想されます。ことに南部のアンダルシアは、もともと保守的な土地柄。フランコがモロッコで蜂起して、スペイン本土に向かうや、すぐアンダルシアで軍部が決起します。またたくまにこの地はフランコ側に制圧されるのです。ロルカは内戦が勃発する気配を充分感じながら、故郷のグラナダに向かいます。まるで死に場所を求めるかのような無謀な行為でした。軍部が蜂起して身の危険を周囲から指摘されても、また直接的な危険が迫っていず、いつでも逃亡できたにもかかわらず、ロルカは故郷を動こうとしません。ロルカは保守派の実力者の家にかくまわれながら、ゆっくりと"死"を待っているかのようでした。ロルカはその数年前から、自らの死を深く洞察した作品を発表したり、思索するなど、死を準備していたかのような姿勢を示していたのです。

この映画に一貫して流れるテーマ「誰がロルカを殺したのか」は、「アマデウス」で展開されたサルエリの犯罪性と共通してます。つまり、モーツァルトを死に至らしめたのは、天才ではない凡才のサルエリだったのですが、サルエリの不幸はモーツァルトが真の天才であったことを分かってしまったことでしょう。この映画はひとつサルエリが"犯人"であることを明らかにしていくことに留まらず、われわれ映画の鑑賞者である殆どの凡才をも"犯人"に仕立てていく、深い心理洞察がもう一つのテーマとして存在していました。

『ロルカ----暗殺の丘』は、主人公が聞いて回るすべての関係者が、ロルカを死に至らしめた犯人であることが分かり、とうとう自分の父親も銃殺の実行犯であることを突き止め、主人公は号泣してしまうのです。主人公の父は、内乱が勃発した後のある晩、血まみれになって帰宅しました。主人公はてっきり父がその晩フランコ側に拷問されたゆえの出血と思いこんでいたのです。しかしその血は、ロルカを至近距離で撃った際の返り血でした。主人公の一家がプエルトリコに亡命したのは次の日でした。

この映画であぶり出されるのは、スペイン現代史の深い悲しさです。主人公がフランコ統治下のグラナダに帰ってきた時、旧知の知人はこう忠告するのです。「スペインでは聞いてはいけないことがあるのだ」。内戦終結からまだ20年ほどしかたっていず、ロルカの死を語ることは、恐怖政治のもとでは、強いタブーだったのです。かつての友人の妹も言います「内戦が終わってからが、大変だったわ。そこから普通の人が大量に殺されたの」。そういう彼女の父は、ナチスにも表彰された指折りのファシストだったのです。そしてその父の経歴ゆえに彼女も悩むのです。また、主人公は彼女の兄を、自分のミスで死なせてしまったと思い込み、トラウマとして悩み続けていたのです。

多くのスペイン人は内戦で傷つきました。『ロルカ----暗殺の丘』は、ロルカの死という鏡を通して、ようやくスペイン人とスペイン社会が内戦の事実を直視するようになったことを現しているようです。主人公がグラナダに滞在している時、何かと世話をしたタクシー運転手も共和国派として6年間ほど投獄されていたことを告白しますが、主人公の居場所を警察に密告した疑いが主人公からかけられるのです。
深いテーマを内包した映画でした。

"Where is my moon?  Where is my moon? "
銃殺直前につぶやくロルカ。銃殺者は背を向けるロルカに「こちらを向け」と命令します。ロルカに扮する俳優アンディ・ガルシアが、振り向いて見せたその時の悲しげな表情は絶品でした。やはりロルカは魅力あふれる文学者です。この映画ではロルカは詩人としてのロルカであるよりスペインの悲しさを映す鏡として、有効に登場していました。今年の8月19日の"ロルカ詩祭"もまた楽しみになってきました。

233-7月10日(月)
カルメンの定休日。

珍しくスケジュールが一切入っていない日だったので、拙宅周辺からでることなく過ごしました。午前中は、岡本周辺へ行き、Coopこうべで買い物。小学生の子供たちが帰ってきてからは、ビデオ屋へ行きました。本当は、西灘劇場という映画館でスペイン映画(「ロルカ---暗殺の丘」)を観る予定だったのですが、ビデオのレンタルが開始されたことを知ったために、ビデオ鑑賞にしました。筆者はレンタル・ビデオが出ていても、映画館で上映されているなら、高くついても映画館に足を運ぶタイプの人です。でも今回なぜか、ビデオにしました。深い理由はありません。新作なので二泊三日。まだ見ていません。

娘は、ディズニー・アニメの「ターザン」をレンタル。途中まで見ていましたが、なかなか面白く出来ています。それにしても、ディズニー・アニメに出てくるヒロインの女性は、どうして、ああも共通しているのでしょう。決して典型的な西洋白人女性には見えません。東洋人のようでもあり、そうでもなく見えもします。ディズニーが永年かかって築きあげてきたヒロイン・キャラクターと単純に割り切って理解すればいいのでしょうか。それとも(アニメを制作する立場である)白人男性に内包する"オリエンタレズム"が図象的に体現しているのでしょうか。(これに対して日本の"正統的"なヒロイン・キャラクターといえば、手塚治虫の書いたショート・ヘアの女性=典型的な役はリボンの騎士=と、宮崎駿の"風の谷のナウシカ"とを結ぶ"超少女"といったところでしょうか)
232-7月9日(日)
筆者にとって、探し犬の告知メディアと勝手に決め込んでいた"電柱貼り紙"に、めったに見られない人探しの貼り紙がありました。

カルメンのごく近くの電柱に、カラオケのマイクを持った24歳の女性がカラーで写し出されていて、その夫が発信人です。実物は写真より細めとのただし書きも付されています。二児の母親であるその女性はある日突然"姿を消した"とのことで、二人の子は、夫と夫の実家が面倒をみているとも書かれています。消息を知らせた人には、謝礼も出すということです。

インターネットがこれだけ発達した時代にあって、こうした"電柱貼り紙"というレトロなメディアは妙にリアルで、説得力があるものです。しばし眺めいっていました。

231-7月8日(土)
カルメンの常連さんには、芸術関係の方も少なからずいらっしゃいます。

今日紹介するのは、兵庫県三田市に住むソプラノ歌手の山本典子さんです。いつも家族4人で来てくれます。

その山本さんが出演するコンサートが7月29日(土)に三田市民大ホールで行われます。"サマーコンサート 世界の名歌曲&魅惑のオペラU"というもので、午後7時開演されます。パンフレットには、「親しみのある世界の名歌曲、有名なオペラのアリアや重唱を集めてオペラの楽しさ・魅力をお伝えします」と書かれています。7人の歌手が登場、「蝶々夫人」「椿姫」「ラ・ポエーム」などから代表的な歌曲が歌われます。入場料は2500円。問い合わせは、三田市文化課まで。
230-7月7日(金)
先日、ある華僑の人としゃべっていた時のことです。「今年の秋には景気がよくなりますよ」。

筆者は、思わず身を乗り出して聞いてしまいました。

昔から神戸では、景気の先行は、華僑の動きを見るとよく分かると言われていたのです。といいますのは、情報交流が今ほど盛んに交わされていない時代に、海外同胞とさまざまな情報を交換しあっている華僑が、景気の動向をいち早くキャッチしているとの評価だったのです。具体的には、神戸の造船業界では、華僑が動きを見せると、船舶受注が飛び込んでくるといわれていました。

果たして本当に本格的な景気回復がなるのかどうかは別として、華僑情報に頼りたい気持ちがあります。現在は、インターネットによって世界の情報が瞬時に入手できる環境にあります。しかしインターネットからの情報をいくら重ねあわせてみても、あくまでそれは部分の集合でしかありません。情報を総合判断して、一つの指針を示すこととは別の次元なのです。情報を総括的に判断するのは、やはり人です。その意味で華僑の景気予測判断にもう一度耳を傾けてもいいかもしれません。
229-7月6日(木)
いい夢でした。

登場したのは、ビルになる前のカルメン。現在の店舗より狭く細長い造りでした。窓がないために、昼でも電気をつけていたのです。カルメンの歴史は、二代目である筆者の年齢とほぼ同じです。ごく小さい頃は、店舗の三階に住んでいたこともあり、まだビルがそう多くない生田神社周辺が、筆者の遊び場だったのです。

不思議なもので、ここ数年、昔の木造時代のカルメンがよく夢に出るようになったのです。加齢するほどに、昔のシーンがよく出てくるというのは本当のようです。夢の中で、筆者と初代(父)が、接客に追われています。どうやら忙しい様子です。面白いことに、夢に出てきた父子は、昭和40年代当時の姿・格好ではなく、現在の年齢で登場しているのです。

夢は古い店舗の細かいところまでよく再現しています。そして、忙しい様子は、現在の不況の裏返し的欲望が反映しているのでしょうか。いつかまた震災前のような多忙な毎日が帰ってくる"予祝"のような夢でした。

そしてこのおめでたい夢に送られるように、初代(父)は今日から、たまにしかカルメンに顔を見せなくなりました。カルメンの前身である"みなと"時代から数えて51年間、働きづめでした。半世紀以上ずっと働き通しだったといえるでしょう。さすがにここ数年は、朝から夜まで一日通して働くことがしんどく、垂水の家から通うのもやっとという感じです。ただ、全く引退したわけでありません。用事があるとき、忙しい時には、店に出ています。44年間、カルメンの顔としてお客様に親しまれた人なので、初代をカルメンで見ないと寂しいという"ファン"の方も多いのです。
228-7月5日(水)
今日は10人以上の団体さんが二組。ほどよくワイン、ビールが入って、活況を呈しました。カルメンに来られる団体さんは、在神戸の企業(あるいは役所など)は勿論のこと、大阪の企業の方々もまま見受けられます。神戸経済が元気になるのは、地場の長田にある中小企業がいかに復興するかが関係していますし、大阪経済の元気とも深く連動しているのです。

40年以上、店を開けていますと、土日祝日にいらっしゃるお客様は、大阪方面からが多いのに気づかされます。カルメンが震災前と同水準の元気に戻るには、まだまだ大阪(関西)経済が元気が必要です。

最近、Japonの方も徐々にワインに慣れてきたな、という実感を持ちます。食事の最中にワインを飲むこと習慣が少しずつ定着しているようです。また近頃は、安くて美味しいワインが多く出回っていることも、嬉しいことです。

227-7月4日(火)
帰宅途中、三宮の夜の街を歩いていて気が付いたことがあります。阪神大震災の前と後で変わったことのひとつに、ある職業のひとが、この街から消えてしまったということです。

その職業の人たちとは、"占い師"の人たちです。震災前では毎晩2〜3人の占い師が、小さな机とロウソクをともして、客待ちをしていました。自転車で商売道具を持ち運びする老人もいれば30歳代の男そして女の占い師もいました。三宮駅近くに陣取っている初老占い師は、いつも大きな声を発して、通行人の気をひこうとしていたのです。

それが震災を機にぱったりと街に出没しなくなりました。震災直後の神戸の人たちは、その日その日を生き延びるのに精一杯だったため、恋愛・結婚・開運などの未来を聞くといった余裕を持てなかったことは事実です。さらに、占い師が、震災を予見できなかったのか、という素朴な疑問が沸き起こります。震災直後に、"占いの家"の店の前に「全員無事です」という貼り紙が貼ってありました。「そりゃ、そうだろ、あんたら、未来を予見するのが商売なんだから」とツッコミを入れたくなったものです。

あの占い師たちは今、どこで何をしているのでしょうか。

226-7月3日(月)
カルメンの定休日。

朝から猛暑です。拙宅の前の公園では蝉が元気に啼いています。

この日、FMわぃわぃの生放送を担当する週なので、午前中は番組の準備。何度かCD全曲を聴いて、放送する順番を決め、Que Sheetを書いたり、原稿を準備します。今回の放送で奄美篇は93回目となります(10月中旬に100回を迎えることとなります)。

今日の番組は、中(あたり)孝介さんのデビュー・アルバムを紹介する内容です。1980年生まれの中さんは今年20歳。ここ数年、奄美では女性唄者のデビューが多いなかで、珍しい男性の唄者の登場です。お師匠さんは坪山豊さん。三線奏法の確かさ、裏声の出し方などは、坪山さん譲りの美点を持っています。

番組終了後、三宮と元町の間にある台湾料理の"丸玉食堂"へ行き、焼きビーフンと餃子、ビールで腹ごしらえ。トーア・ウェストにあるジャズ喫茶"木馬"に到着したのは、午後6時。マスターに軽く挨拶。若干の世間話。今日は8月19日にカルメンで行う"ロルカ詩祭"の打ち合わせをしにきたのです。この詩祭は、毎年8月19日(ロルカの命日)に催しているもので、今年は第三回目。第一部はロルカ作品の朗読、第二部はロルカ的世界に身を委ねた自作詩の朗読を詩人たちが行います。打ち合わせに参加したのは、詩人の冨哲世、福田知子、西谷民五郎の各氏。全員『詩誌Melange』の同人です。
225-7月2日(日)
子供たちがギョッとしたそうです。「かあさん、木がはえている」。

拙宅の東向きの窓から隣地を見ていると、一夜にして二階部分までの高さがある木が出現しているのです。子供ならずともその突然の出現に驚いてしまいました。まさか"トトロ"の仕業でもありますまい。理由はいたって簡単、隣地を7月から借りるようになった大型園芸小売店が、物置として使っているので、本当の木も植えてその土地に保管しているのです。

そしてさらに東隣の土地は、工務店の撤収作業がおわり、きれいに整地されています。拙宅の東側に300坪大の更地が出現したことになります。阪神大震災があった1995年の夏のような"あっけらかん"とした風景に逆戻りしてしまいました(震災があった夏には大方の全壊・半壊建物の解体が終了して、拙宅周辺では更地が大量に出現したのです)。整地された場所には、住宅が建つというウワサです。工務店の壁で見えなかった遠くの角が再び視界に入るようになりました(同時に反対の言い方をすれば、その角から拙宅が見られるようになったということです)。
224-7月1日(土)
初蝉を聞きました。筆者の住む神戸市東灘区の"里"地域では、例年なら7月10日前後なのですが、今年は約10日早いようです。次男がいいます―――「蝉が早く鳴き出すと、急に涼しくなると死んでしまって、蝉の数が減るんじゃない?」。

カルメンを出て三宮駅に向かう時です。ジャズの音が聞こえてきたので、通称"三角公園"をのぞいたところ、甲南大学の学生たちが、スタンダード曲を演奏していました。1950年代の曲が中心と思われますので、ほぼ半世紀前の曲を演奏しているということになります。あの時代のジャズは、コード進行をしっかり頭にいれて、コードから大きく逸脱することなく演奏することが要求されます。初学のプレーヤーにとって大切な鍛錬の場といえるでしょう。ジャズはこの後、モード・スケールの時代(1970年代)に突入して、演奏の自由度が増します(この演奏スタイルは、よほどしっかりコード奏法を身につけていないと、無茶苦茶な演奏になってしまいかねません)。さらにフュージョンの1980年代となり、90年代になると逆にスタンダード曲に回帰していったかのような印象を持ちます。

70年代中頃までジャズは、常に音とリズムと技術の革新がありました。つまりあの時代が渇望してやまなかった永久革命待望論を、音楽という表現ジャンルで先行しているような輝きがあたのです。フォービートは常に変革していったのです。同時に、すべての存在・価値観を"カッコにいれる"、"プラグを抜く"前衛ジャズも健在でした。アルバート・アイラー、アート・アンサンブル・オブ・シカゴ、サン・ラ、山下洋輔、Circle、オーネット・コールマンなどなど、筆者がアバンギャルド芸術が好きだということもあって、懐かしく思い出します。

しかし90年代以降のスタンダード回帰現象は、どうした意味をもつのでしょう。もうジャズは、変革をやめてしまい"Classic Music"の一員になってしまったのでしょうか。クラシックのように行き着くところまでいってしまい、また相変わらずの曲を演奏するという音楽ジャンルに収まってしまうのでしょうか。

いま筆者の耳元で、期末テストが終わった長男が聞く"宇多田ヒカル"がうるさくなっています。ブラコン系をそのまま日本語に移植したようなPOPSを聞く息子には、ジャズはどのように聞こえるのでしょう。筆者がジャズを聴きだしたのは、長男とちょうど同じ中学二年生の時でした。
223-6月30日(金)
2000年も今日が前半の最終日。去年までのように世紀末という感じはしませんが、着々と21世紀に向かっています。

昼間、突然カルメンに電話がかかってきて「実は今三宮にいるんです」。沖永良部島に住む新納(にいろ)忠人さんからです。「新納酒造」の三代目当主。黒糖焼酎の蔵元で"天下一(一升瓶)"、"水蓮洞(三合化粧瓶)"などの商品があります。筆者が奄美・沖永良部島にいくと必ず会う人で、今年1月に友人2人を引き連れて島へ伺った際、氏の家で飲み会をして、その時"水蓮洞"の年代ものを何本か提供してくれました。また島の文化人としても活躍されています。

新納酒造は、今年で創業80周年になるというのです。1920年(大正8)といいますと、その時は黒糖焼酎ではなくて、泡盛を造っていたことになります(黒糖焼酎は、奄美が戦後から各島々で本格的に製造されたので、戦前の奄美の酒造会社といえば、泡盛を造っていたことになります)。今年、80周年を記念して記念ボトルを造るということをおっしゃっていました。

新納氏は、東京と関西に営業にいった帰りに、神戸に寄ってくれました。神戸は、沖永良部島出身者が多く、大日通周辺に数多く居住しています。筆者は、新納酒造の"天下一"を愛飲しています。冬はお湯割り、夏場はロックにして、楽しんでいます。残念ながらカルメンには"天下一"は置いていないので、筆者の遠い親戚がしている河内のワイナリー(カタシモワインフード)の赤ワインを飲み、会話を楽しんだのです。途中から、奄美旅行に一緒に行った詩人の福田知子さんが参加してくれました。
222-6月29日(木)
 筆者が帰宅しようとしてJR三ノ宮駅のプラットホームのベンチに腰をかけ、電車を待っている時です。スカートをはいた初老の人が、キャリア付き買い物バックをひきづるようにしてこちらの方に歩いてきます。スカートの下のストッキングは、何筋か大きなひっかき傷がついています。そしてブツブツひとりごとをいいながら、わたしの横に座りました。この人、スカートをはいていても、女性ではないことは一目瞭然。ひとりごちている声は、男そのもの。さかんにしゃべっているのですが、世の中には話し相手なしにしゅべるオジサンも、時々いらっしゃるから、ほっておいたのです。するとどうやら筆者に語りかけているようなのです。わたしは北陸出身で、どうとかこうとか。筆者はそのスカート男性の問いかけに"東洋的微笑"で返していました。つまり拒否でもなく、かといって受容でもない表情です(この日は疲れていたので、話し返しませんでしたが、元気のいい時はこういうオジサンを相手にするときが多いのです)。どうやらその人は、筆者のことを「音楽関係者」と思っていたようなのです。筆者が口髭をはやしているためでしょう。しかし、その人の言葉はほとんど聞き取れません。筆者とコミュニケーションを取りたがっているのは分かるのですが、こちらは無視しています。やがて乗るべき電車がきたので、そのスカート男性に"東洋的微笑"を投げ返して、車中の人となりました。いったい何者だったのでしょうか。
221-6月28日(水)
すべての新築家屋に太陽光発電施設の設置が義務づけられる――――こんな法律がJaponで通るのは遠い未来でしょうか、  いや意外と近い未来のことかもしれません。

現在のエネルギー供給の多くを占めている石油、石炭、天然ガスといった化石燃料は、地球上から摂取してしまえば、おしまい。あと約20年後には、取り尽くしてしまうと試算する学者もいるようです。かといって、原子力発電に頼れといわれても(現在、政府は、今後10年間に新規原発を20基つくりたいとの方針を捨てていません)、周辺設備費コストを考えれば、決してコスト的に安くなく、そしてなんといっても安全性に大きな疑問符が付きます。

さきほど、ドイツは、今後新たな原発は作らない方針を固め、何年後かには、国内すべての原発を廃止していくという思い切った方策を打ち立てました。これに対して、エネルギー事情が似ているJaponの原発擁護派は、「たしかに日本とドイツは、国内にエネルギー源を持たないことで似ているが、ドイツは大陸の中の一国であり、ロシアなどからの天然ガスのパイプなどによって、持続的なエネルギー供給を得ることが可能な環境にいる」ので、ドイツと一緒にするのは誤り、という論調です。Japonは、どうしても"危険なプロメテウスの火"を手放そうとしません。

では、太陽光発電はどうでしょう。筆者がこの発電方式に興味を持ち始めた20年前、太陽光パネルの熱交換率は、10%以下でした。当時の新聞ではたしか、10%以上のパネルを製造できるかが技術的課題と書いていました。その後、アモルファス(非結晶)パネルの開発などが続き、いまでは16%まで熱交換率が上昇したようです。そして、家庭で太陽光発電システムを導入すると、国・地方自治体から、三分の一を限度として補助が出るというのも嬉しい話です。そして昼間や夏場を中心に、(原発依存を強めている)電力会社に電気を"売電"できるというのも爽快な話です。

太陽光発電、風力発電、地熱発電など、さまざまな自然力を利用した発電システムが実際に稼働しています。水素に酸素を化合させて発電させる"燃料電池"は、排出するのは、水だけというクリーンさです。こうした発電システムを全部あわせても、とうてい現在のエネルギー事情をまかなう量には達していません。ではいきおい既存の発電システムに依存するしかないんだ、原発こそがエネルギー供給の安定システムだという結論には組みしたくありません。

コスト的には多くの困難が伴いますが、いずれなくなる化石燃料の代替エネルギーとして、今から"非・原発"のエネルギー発電量を少しずつでも増やしていく努力が必要ではないでしょうか。この意味で、すべての新築家屋に太陽光発電施設を付設する法律が出来ても不思議ではないと思っています(まずは"すべての公立施設に太陽光発電施設を付設すること"という法律が先行するかもしれませんけどね)。
220-6月27日(火)
 梅雨の真っ盛りと言えるでしょう。連日雨が降り続いています。

 筆者が住む東灘区は、震災による"更地"が多く残っています。震災の被害がひどかった地域なので、5年たっても、家(あるいはアパート)が再建される様子もなく、夏が近づくに従って更地に雑草が生い茂っています。拙宅の東に位置する一帯は、かつて震災まで平屋の木賃アパートがありました。震災後は、ある建設業者が、資材置き場と、飯場のような施設も付設していました。今朝、気が付いてみれば、その施設が解体しているのです。倒産したのか、移動するのか、それとも賃貸契約が切れたのかは不明です。6月末をもって撤収するのでしょう。また、震災直後の夏のように、大きな空き地が拡がることとなります。拙宅の東隣りに住むNさんの土地は、更地のままなのですが、近くの大型園芸小売店が用具売り場として使わせてほしいとの申し出があるそうです。

 拙宅からはまだ日の出を拝むことが出来ます。東の方角は、高い建物がないからです。いつまでこうした環境が享受できるのでしょうか。

219-6月26日(月)
 カルメンの定休日。

 選挙報道をテレビニュースでチェック。大きな勝者はどこもなく、Japonという国と国民は、韓国・朝鮮や台湾といったアジアで起きている時代の変革を自ら選択しようとはしませんでした。

 学校を休みたがっている次男を説得して午前9時30分に送り出し、本日のFMわぃわぃ「南の風」の放送準備にとりかかりました。今日は、奄美篇の92回目の放送。盲目の唄者・里国隆を特集しました。

 本番は、午後4時から55分間。里国隆は、幼い時に視力をうしない、身内から三線を習い、樟脳(後にナフタリン)を売ることを生業としていました。沖縄の那覇やゴザ、奄美の名瀬の街頭で、暑い昼のさかりから、夜になるまで歌い出し、今でもこの人の島唄を聞いた人は多く、決して美声ではないのですが、魂を揺さぶるその歌い方は、故人となった今も多くのファンを引きつけるのです。

 国隆は、三線ではなく、竪琴を弾きます。また八竹というカスタネットのようなものを同時に打ちならして、独得の歌世界を形成しているのです。民謡というより、ブルースといったほうが当たっているのかもしれません。奄美にはユニークな唄者がいるものです。

218-6月25日(日)
 月に一回行っている早朝登山をしました。筆者の次男が喘息のために、少しでも体力をつけさせるためです。ところが、次男はいやいやついてきます。喘息が少し出ていることもあるのでしょうが、いかにも気が乗らないといった風情で、筆者に遅れること10メートル下がって、歩いていました。保久良山へ登る坂道ではホトトギスが上手に啼いています。そして標高183メートルの頂上には、"ガクアジサイ"が咲き誇っています。次男いわく、塾の宿題が終わっていないので、往復1時間の時間も惜しいというのですが、山へ行く前と帰ってきてからは、ずっとテレビのアニメを見続けていました。

 カルメンの出勤前に、同居人の女性(妻)と、衆議院選挙の投票に行ってきました。投票場における"監視員"の抑圧的な雰囲気が気になります。まるでこちらが監視されているようで、いつ見ても不快になります。また投票通知書を見せるときに、名簿をめくってこれ見よがしにハンコを押すのも不快で、自然とその名簿に目がいき、だれが投票したのかしていないのか分かってしまうのも問題です。先の戦争では隣組行事への参加率が低かった住民から先に赤紙を発行した役所もあったようです。

 筆者はいつも同じような時刻に投票にいきます。今回は少しだけ人数が多かったので、投票率が上がるのか、と思っていましたが、前回とあまり変わらぬ数字でした。どうやら選挙に行かなかった人は、選挙に関心がないということとは、全く別の次元で、今日が投票日であるという自覚もない人たちなのでしょう。

 選挙の結果は、与党が大幅に議席を減らしながらも、絶対安定多数を獲得したから、森政権は承認されたのだという、なんだか超論理(=ヌエ的)な結末となりました。筆者の選挙区である"兵庫1区"は、激しい選挙を展開して、民主党の人が議席を獲得しました。でもこの人、体質は自民党なのですけどね。破れた自民党の前議員も"惜敗率"という漢字で表記しなければ、一体なんのことなのか分からないルールによって、比例区で当選しました。前回と同じく1区から二人代議士を出したわけです。負けた人が復活するという(神戸弁でいえば)"ずっこい"やり方で当選したわけです。日本の学歴社会では"敗者復活"のチャンネルは殆ど閉ざされているのですが、政治の世界は、心優しい人たちの理想社会のようです。

217-6月24日(土)
昨晩、午後11時半すぎ、三宮周辺は、アジア・モンスーン地帯に降るスコールのような厳しい雨でした(少し前なら"男性的な"雨と形容したのでしょうが、今はこの形容を使う人は減りました。時代は"男性的な"という形容を死語にしてしまったようです)。今年の梅雨は、雨量もそこそこにあります。

カルメンの閉店後にやってきた筆者の友人(詩人と画家)と一緒に店を出て、北野坂を少し北に歩いた"くまたか"という店へ向かいました。そこで話題になったのが、神戸のモダニズムについて。何年か前、阪神間のいくつかのミュージアムが合同で「阪神間モダニズム展」を開き、注目されました。神戸のモダニズムについて語る時、この阪神間モダニズムとの差別化を図る必要があるでしょう。神戸の都市文化と阪神間の中産階級文化(郊外居住者文化)とは、少し色合いが違うのも面白い事実です。

神戸モダニズムというと、すぐに思い浮かぶのは、稲垣足穂でしょうか。そして神戸の洋菓子などの商品文化やカルメンなどの洋食系レストラン群も、神戸モダニズムの一つとして理解していいでしょう。同行した詩人の福田知子さんは、この神戸モダニズムを顕彰する目的の"神戸文学館"設立を唱えています。兵庫県には、姫路市に"姫路文学館"という優れたミュージアムがあり、播州一円の文学者を顕彰しているのです。
216-6月23日(金)
カルメンは、開店以来44年間、ずっとアサヒビールを置いています。最近、生ビールを"スーパーモルト"という商品に替えました。麦芽とホップというビール本来の材料でつくり、米などの副原料は一切使わないという"流行"のビールです。このアサヒという会社、営業に力が入っていて、カルメンに来る若い営業マンは、サントリーの諸君同様、元気で活力があります。ビール業界というところは、いい人材を集めているものです。昨日、来店したアサヒビールの支社長の吉岡信一氏は、神戸に赴任後、顧客開発セミナーを開催するなど、いままでの支社長とは違う戦略の持ち主のようです。

ビール会社というのは、ビールというモノを売るだけではダメで、ビールを飲むという背後にある文化を育てないと、いくらビールを売れと、若手営業マンの尻をたたいても、商品は支持されません。ビールを飲む動機は多くあります。サラリーマン諸氏は、「とりあえず」というビールの代替語で気楽に飲んでくれます。しかしこの気楽さが曲者なのです。ひとつの商品をじっくりと、数字が悪くなっても育てつづける、たとえそれがその当時の主流の製法でなくても、我慢して育てあげる企業哲学が必要です。そしてその商品には、米など副原料を使うというウソを入れないこと。アサヒビールさん、企業・商品というのは、絶頂期にこそ没落が始まっているのですぞ。スーパードライの売上げ数字ばかりみていると、かつて日が沈むところがないと言われた大スペイン帝国が、新興国イギリスとの闘いに破れ、あっという間に世界の覇権を奪われたという例を思い出してしまうのです。

215-6月22日(木)
 昨夜、筆者の友人Sが二人連れで午後8時を過ぎて来店。リオハの94年もの赤レゼルバを飲み二種類のタパスを食べた後、午後10時半に店を閉め、わたしも一緒に夜の街へ繰り出しました。三人で入ったのが"デッサン"という店です。

 この店、昭和21年から開業しているそうで、カルメンより古い歴史を持っています(カルメンは昭和31年オープン。前身の"みなと"は昭和24年オープンです)。マスターは大正11年生まれでいまだ現役。日曜・祝日以外は、ずっと店に出てきています。店内は重厚なつくり。画家・鴨居玲の作品(油絵・素描)が何点か贅沢に配されています。マスターに聞きますと、かつては筆者の父と飲んだことがあるとか。カルメンにしろ、このデッサンにしろ、戦後神戸文化を作ってきた人たちが依拠した店です。

 2000年現在で、戦後の焼き跡混乱期を知る店のオーナーはすっかり減りました。筆者は、カルメンの二代目ということで、マスターと親しく会話。デッサンの歩んできた道が、カルメンの歩んできた道と重なるところがあり、初めて会った人であるにもかかわらず、懐かしみを感じていたのです。今は筆者の世代が神戸の文化を担っている現役なのでしょうね。
214-6月21日(水)
 今日は夏至です。

 筆者は、庭いじりを殆どしません。これは筆者だけではなく、父、祖父(父方)ともども、土に向かって身をかがめるといった格好は殆どしたことはないのです。そのかわり、せっせと母や妻といった女性たちが、庭いじりを熱心にしています(こんなことを書いたら、単なる男たちの怠慢にすぎないと一喝されそうです。土いじりに興味がないのと、庭の世話をしないのとは別の次元なので、反省するところが多いのですが。)

 そんな"家系"の筆者が、先日庭いじりをしました。庭といっても、本当に猫の額のような広さしかありません。草花のことなどほとんど分からない人が、鋏を持ち出し、剪定作業を施したのは、"リラ(ライラック)"と"紫陽花"です。この二つを選んだのは、何年たっても花を咲かせないからなのです。リラは筆者の書斎のちょうど前に位置していて、四季の移ろいはこのリラを見ていれば、分かります。書斎の別名を"リラ庵"と名付けているぐらいですので、思いこみは格別です。若木であるから仕方ないことかもしれません。同居人の女性(妻)の言葉によりますと、リラを植える時、大きな石がゴロゴロ出てきて、植えるのが大変だったと言います。根が深く張り付かないのかもしれません。筆者は、土に近い場所の枝葉をバッサリと切りました。果たしてこういう剪定でいいのか分からないのですが、いつまでたっても細いひ弱な幹を見ていると、なんとかしなくてはいけないと思うようになったのです。数年前は、蛾の幼虫によってほとんど葉を食べられてしまいました。草木を育てるというのは難しいものです。
 

 また紫陽花は、今がちようど見頃なのに、今年も花を咲かせる気配をみせません。筆者は紫陽花の花咲く頃に生まれたこともあって、この花に対しても思いこみは人一倍強いのです。品種は、筆者の大好きな"ガクアジサイ"。思い切って半分以上の幹を剪定してしまいました。この紫陽花は、拙宅にとって二代目なのです。初代は、拙宅のまっすぐ北にある保久良山に植わっていた紫陽花をちょっと失敬してきました。この紫陽花は今、拙宅にありません。阪神大震災の後、拙宅の南側のコンクリート製土手が崩れ、それを補修するために、筆者の実家(神戸市西部)に移植したのです。移植した場所がよかったのか、今は勢いよく伸び、多くの花を咲かせています。やはり草木も(人も)環境なのでしょうか。二代目の紫陽花は、奈良県にある当麻寺のある寺坊から(秘密なのですが)ちょいと拝借してきたものなのです。これも若い芽だったからでしょうか、まだ花を咲かせません。

 ひょっとして、リラも紫陽花も21世紀を待って花を咲かせようとしているのでしょうか。
213-6月20日(火)
 本日、"KobeWalker"という雑誌が創刊されました。"KansaiWalker"の神戸独立版で、版元は角川書店です。創刊号は、本文だけで388ページという厚さです。殆どが広告なのですが、創刊号だからお祝儀広告の出稿が多いという事情を勘案したとしてもよく集めたものです。読者は、若者。テレビ欄が充実しているので、比較的テレビをよく見る20台の若者をターゲットにしているようです。グルメ、エステ、イベント情報が満載で、読者層と同じ世代の若者が登場しています。まさに"KansaiWalker" のノリなのです。ライトな感覚で統一されています。

 しかし神戸に絞った隔週刊のメディアという観点からすると、いままで神戸発のメディアでこうして大部数を刷り、書店で売られているメディアは、なかったと思うのです。版元は角川という東京資本なのですが、神戸に絞ったメディアであることに注目したいと思っています。このメディアによって発掘される"神戸"が沢山あるだろうからです。(それに神戸資本によって神戸メディアを作ったとしてもこれほど広告は集まらないでしょうし、そして現在神戸メディアを出そうとする神戸資本は見あたらないのが現実なのです。)

 新聞紙系メディアとしては、何紙か神戸版を出しているところがあります。サンケイ・リビング、アサヒ・ファミリーニュース、リクルートの360などなど。しかしこちらも広告ないしはパプ記事(取材記事のような体裁だが、有料で記事を掲載する内容)が多く、神戸の新しい文化を細く長くであっても作っていくという編集部の気迫は伝わってきません。"KobeWalker"はせっかくの神戸発の隔週メディアです。文化性の高い企画を期待しています。
212-6月19日(月)
 カルメンの定休日。

 今日は全くのオフの日。FMわぃわぃの放送日でもないために、最初、奈良へ紫陽花でも見に行こうかと思っていたのです。6月は全く毛色の違う(琉球弧についての大学での講座と、スペイン料理についての講座・料理実習)講師を務めて、やっとふたつとも終わった後だけに、安堵してしまい、今日なにか積極的に動くという気力が萎え、本山・岡本界隈から一歩も出ないことにしました。

 前夜は疲れて、日付が変わる前に就寝してしまったものの、午前4時30分に目覚め、この季節ではすでに明るくなっている東の空を眺めつつ、インターネットでさまざまなホームページを閲覧していました。やがて午前7時に子供達が起きてきて、一緒に朝ご飯を食べ、午後8時30分に再び蒲団の中へ。午前10時半(時間の貧乏性のために)起きだし、洗面をして、銀行とコープ神戸の店内をぶらぶら。

 正午前に帰宅して、同居人の女性(妻)と、ランチを食べにいくことにしました。目的のイタリア・レストランがたまたま休日。ここはかつてイカリ・スーパー系のコンビニ"ハロー"があったところで、近くに巨大なダイエー甲南店が出来てからは、閉店してしまったのです。この新イタリア・レストランの二軒隣に、数年前からイタリア・レストランが開店しています。この店はどちらかというと、パスタとピザ中心のライト感覚な商品構成となっています。関西人はフランス料理よりイタリア料理が好きだとどこかの新聞に書いていました。フランス料理は、西洋料理の本家意識からか、しかるべき格式をお客さんに要求するような雰囲気があり、値段も安くありません。イタリア料理の持つ手軽さと気安さが関西人に受けるのです。神戸三宮のジュンク堂書店の料理書コーナーに行くと、フランス料理の本よりイタリア料理の本の方が圧倒的に多く書棚に並んでいることに気づきます。

 イタリア料理店の数が多くなっていて、さまざまな味を楽しめます。そのレストランもライト感覚な店と本格指向の店と、機能分化しているようです。筆者はスペイン料理に近く勉強になるという理由でよくイタリア料理店を訪れます。ライト店か本格店かの違いは、次の三つを尺度にしているのです。

 まず一つは、トマト・ソースの味。最近は業務用のトマト・ソースも味が格段によくなり、自家製のトマト・ソースと区別しにくくなっています。しかし、カルメンの自家製ソース群を身近に接っしていると、やはり自家製はシェフの個性が出るもです。イタリア料理にとってもスペイン料理にとってもトマト・ソースは基本中の基本。この基本をいかに大切にしているかが、そのレストラン本格度の尺度となるのです。

 二つ目は、リゾットのあるなし。ご存じリゾットは、ヨーロッパ人が生み出した優れた米料理の一つです。スペインにパエリアがあるのと同じようにイタリアにはリゾットがあります。スペインの米の品種はもともとイタリア系のものなので、この同じ南欧二国の米文化に共通したものがあります。このイタリアを代表する米料理を、米を主食とする極東の島国の住民たちにどのように供するかが、それぞれの店の腕のみせどころです。筆者は、リゾットをメニューに入れているか、またはメニューになくても求めれば出してくれるのかを本格店の尺度としています。

 三つ目は、グラッパのあるなしです。グラッパ、つまり粕取り焼酎です。スピリット類なのでアルコール分が高い。レストランで食事が終わり、ワインを飲みほした後も、まだアルコールの酔いに漂いたい時、ヨーロッパの人たちは、コーヒーではなくスピリット類を飲もうとします。スペインではアグアルグェンテといって、ブランデーやオルーホといった飲み物です(ブランデーについてはいずれゆっくり書きましょう。オルーホは、スペインのグラッパ、つまり粕取り焼酎です)。最後にストレートグラスでキュッと飲むグラッパを飲むのは気持ちがいい。イタリア料理店を看板にあげている店で「グラッパ ?  ですか?」などとギャルソンに対応されるのは(こちらはもう既にワインを飲んで出来上がっているので)興ざめです。

 本山・岡本をさまよい歩いた果てに、同居人の女性(妻)とランチを食べたのは、岡本の元「王将」があった場所に出来た和洋折衷レストラン(さすがにここはさらにライトなノリの店なので、イタリア"風"料理という看板さえ出していません)です。店内は、学生風の女性が殆ど。オシャレな感じのする店です。筆者はオフのランチでもワインのフルボトルを飲むようにしているのですが、ワインはなく、1000ccぐらい入ったビール・ピッチャーを二杯飲み干しました。ソース類は殆ど市販されているものと思われます。まあ、今回の会食は、久しぶりに妻と子供抜きの時間を持てたことに意義を求めましょう。でも、岡本界隈は店舗の回転が早く、いい味を出していても、大手資本がどーんとある日突然進出することもあるため、苛酷な競争にさらされる場所なのです。この店も何年もつだろうかと妻とひそひそ話をしながら、会計をすませたのです。

211-6月18日(日)
 午前6時に起床。7時30分に神戸の拙宅を出て、奈良県生駒市に向かいました。

 以前から約束していた生駒市中央公民館での、スペイン料理講習会に、筆者が"講師"として赴いたのです。スペイン料理に永く携わっていますが、スペイン料理を教えるというのは初めての体験です。

 なにしろ全くの経験がないのですから、今回は、随分前から準備と訓練を重ねてきました。まず教えるパエリアを作りながら、調理のポイントを自分で分かるのは勿論のこと、生徒さんたちに、言葉として伝えていかなくてはいけません。注意すべきこと、失敗しそうなこと、調理のコツなど、その時々にチェックしながら、料理を何度も作ったのです。

 午前9時から同公民館の調理室で、料理の下準備を開始。筆者なりにダンドリを細かくあらかじめ決めていたので、公民館のスタッフの女性に助けてもらいながら、進めていきます。料理というのは、自分で作るのと、教えるのとは次元をかえて取り組まなければなりません。"講師"がすべて準備してしまうと、作る楽しさは半減します。そしてすべて何もかも生徒さんたちの仕事にしてもいいのですが、時間がかかり、本題の調理にいきつくまでに、講師と生徒さんたちが疲れてしまうことも考えられます。何を準備して、何を生徒さんたちに任せるのか、勘の勝負どころです。

 例えば、鶏のもも肉の扱いについて。皮をとるかどうか、今回は、生徒さん達の食卓ごとの判断に任せることにしました。すべてを講師が指図するよりそのグループごとに判断してもらう方が、いいのではないかと思っています。

 この"パエリア講座"、おかげさまで好評で、参加希望者が多く、半分に絞ったと事務局の人に聞きました。20人のところ、当日欠席者が出て18人。男性が2人入っていました。抽選にもれた人のために、今秋、もう一度講師として来てくれないかとの依頼も受けたのです。

 筆者は、食材のほかにシェリー酒を持参しました。試食会の時に飲んでもらったのです。オロロソというタイプです。スペイン料理は、みんなでおしゃべりしながら食べるのが一番美味しい食べ方です。

 この講座は、料理実習の前に、30分ほど、カルメンのこと、そしてスペイン料理のこと、そしてスペインという国の歴史について、筆者なりにまとめてしゃっべったのです。筆者はつねづね《スペイン料理は、スペインの歴史そのものなのです》というテーマを持っているので、その文脈に沿って話しました。どのような内容をしゃっべったかは、またこの日誌に後日書くことにしましょう。 

210-6月17日(土)
 明日のスペイン料理の講習を前に、準備の余念がありません。

 スペイン料理の醍醐味は家庭料理です。家族がワイワイガヤガヤと楽しむように作られているのです。それに、スペインの国中からどこでもあるバルという店が魅力的なのです。ここは、老若男女が出入りする家庭的な場所で、小さな町だと、一日のうちに数軒はしごすれば、村のほとんどの人と会ってしまう計算になります。バルは総菜家兼喫茶店兼ファーストフード屋兼居酒屋兼街の社交場という、なんでもありのスーパーメディアなのです。スペイン人は、生まれたばかりの赤ちゃんでも、平気でタバコの煙りがもうもうとたちこめるバルに連れてきます。一日に5回食事をするというスペイン人。この国からバルがなくなるなんて考えられないことなのです。 
209-6月16日(金)
 いよいよ明日から梅雨入りです。

 といってもJaponの話ではありません。お隣りの韓国の話です。筆者は最近、韓国で発行されている新聞の日本語サイトを Web上で毎日読んでいるのです。「中央日報」「朝鮮日報」という二つの日刊紙が日本語サイトを持っていて、なかなか充実しています。まるで国内の情報を得るような手軽さで隣国のことが分かるというのも、驚きです。筆者が本を読み始めた時、韓国の実状は、雑誌『世界』(岩波書店)に掲載されていたT・K生という匿名投稿者によるリポートに頼っていたのですから。

 それに、天気の情報は戦前は軍事機密に属したようで、マスメディアでも天気予報は発表されませんでした。たかが天気予報なのですが、戦争というのは、"たかが"の世界も軍事機密にしてしまうのです。

 さて、韓国の気象庁によりますと、"梅雨"(あちらでも"梅雨"というか知らないのですが)は、まず済州島と韓国南部地方が17日に、あと23日には、韓国全土が梅雨入りするというのです。金大中大統領が、平壌を訪れたのは、梅雨入り前の晴れ間だったのですね。
208-6月15日(木)
 スペイン関係の商品を扱う貿易商社がいくつかあります。
 
 最近、届いたDMによりますと、「アンダルシア・スタイル」のタイルのカラー見本が送られてきました。「アンダルシア・スタイル」というのは、形象からすれば、イスラム風です。白地を基本に、幾何学的な模様が配置されています。なかなかの雰囲気を持っています。

 こうしたタイルを使ったバスに入っていると、ちよっとしたスルタン気分にひたれるような気がします。(扱っているのは、東京にある"株式会社イベリア"03-3449-8454 FAX03-3449-8454。この会社はフラメンコ・ショーを企画したり、オリーブ・オイルなどを扱っています)

 イスラムの人たちは、風呂好きです。そこは社交場であり、癒しの空間でもあったのでしょう。しかし、イベリア半島から、イスラム人が追い出されてからというもの、キリスト教徒はスペイン各地にあったイスラム文化の遺産を崩壊し始めたのです。イスラム風の風呂もまたキリスト教徒の嫌悪するところでした。徹底的に破壊されたそうです。

 しかし、巡り巡って、スペイン的なるものとは、アンダルシア的なるものとイメージが直結している現実があります。アンダルシア的とは、イスラム的であるということですから、はたしてイスラム風抜きに、スペイン的なるものという、はっきり差別化した形象は、存在するのかという、素朴な疑問が出てきます。
207-6月14日(水)
 『ラテン手帖』3号が発行されています。

 第190話(5月28日付)で筆者がこの月刊誌メディアと出会ったことを紹介しました。3号はさらにパワーアップしています。表紙は、エル・ポカ岡崎さん。関西では押しも押されもせぬ男性バイレの位置を獲得している人です。関西には、このほか東仲一矩さんというすぐれたバイレもいらっしゃいます。3号では、岡崎さんが京都でプロデュースした「パティオマジョール」という店について取材しています。

 この岡崎さん、フラメンコ・ダンサーという枠にとどまらない舞踏家として有能な方です。"踊る"という人間の原初的な行為を根元的に考え、踊り続けている人です。

この記事のうち、フラメンコについて岡崎さんの考えがよくまとめている一文がありますので、引用してみることにしましよう。

 
 「フラメンコは人間の魂の叫びです。この世を生きる人間の喜びや悲しみを、全身で表現する熱い踊りです。そしてフラメンコというのは生き方そのものです。フラメンコという生き方があるのです。アンダルシアのあくまでも青い空、風にそよぐオリーブの木々の緑。荒涼とした赤い大地、そして夜をやさしく見守る黄色い月。そこに生きるジプシー(ヒターノ)の魂を全身で感じとってください」。


 これは岡崎さんの教室が持っているホームページの中に収められた一文だそうです。そのサイトは、以下の通りです。

             http://www.elpoka.co.jp/
206-6月13日(火)
 もうすぐ、ハモン・セラーノをメニューの一つに加えます。

 スペインの食卓を飾る有名な食材して有名なハモン・セラーノ。直訳すれば、"山のハム"となります。乾燥した山の洞窟の中で、熟成させるのが一番美味しいとされ、スペインのバルに行けば、どこでも天井からぶら下がっています。

 しかしいままでスペイン産のハモン・セラーノは、Japonに輸入が認められませんでした。同じラテン諸国のフランスやイタリアなどの生ハムは、すでに市場に出回っているのですが、スペインのものは、なかなか許可されなかったのです。それがようやく、Japonでも食べることが出来るようになったのです。待望ひさしいとはこのことを言うのでしょう。

 実はJaponでもハモン・セラーノを製造しています。かつてカルメンでも、一本まるごと買ったことがあるのですが、価格が高く、ヨーロッパに比べて多湿な環境の下では品質管理をするのが大変であったため、いつのまにかフランスあるいはイタリア産の生ハムを提供するようになったのです。

 Japonの各食品会社の"ハモン・セラーノ"商品についての情報が集まっっているので、それをもとに現在検討している最中です。もう少しお待ち下さい。
205-6月12日(月)
 カルメンの定休日。

 金曜日の講演の疲れがあったのでしょうか。午前10時半に起床。今日は、FMわぃわぃの放送担当日なので、番組準備をしました。本日は、奄美篇第91回目の放送です。去年、埼玉のJABARAレーベルから「しまきょらさ」というCDが発売され、そのアルバムをもとに、番組を構成しました。

  石原さんは、筆者の大好きな唄者で、ビート感のあるノリ、濃密な音空間を創り出すヒギャの三線、年齢を重ねるほどに深みがでる艶。この人が「朝別れ節」や「そばやど節」など男女の情をテーマにした恋愛歌を歌うと、もうそれはそれは涙がでてくるほど素晴らしいのです。何度も番組で流したい人なのです。

 放送終了後、出来たばかりのJR摂津本山駅前のパン屋さんをのぞきました。イタリア人がパン作りに参加しているようです。同駅南出口のパン屋はこれで三軒目。熾烈なパン競争が展開されています。帰宅してからは、料理の準備。今週もスペイン料理を作ります。18日の講習のために、もう一度練習です。なんとかできあがったパエリアは、おかげさまで、2週連続なのですが、家族のみんなは食べてくれました。

 そのイタリアのパン屋はタルトも作っているのです。食後に、同居人の女性(妻)が買い求めたタルトをみんなで食べました。フルーツ入りの、"大人の"味です。実は筆者の誕生日のバースデー・ケーキ(タルト)なのです。実際の誕生日は、6月10日です。45歳になりました。

204-6月11日(日)
 梅雨らしい曇り空。ぽちぽちと雨が降ってきます。

 スペインにはない梅雨という季節。筆者はこの時期に生まれたこともあって、梅雨を叙情豊かなレイニーシーズンと想うようにしています。

 筆者の好きな紫陽花は、好天のもとで見るよりも、湿り気の多い天候のもとで見る方が鮮やかに映えます。

 特に筆者は、ガクアジサイという、この国の在来種が気に入っています。西洋人が品種改良した"ぼてっ"としたよく見る品種ではなく、小花が放射線状に中心から伸びている品種です。その緑(葉の部分)と花の白のコントラストが見事なこと。20歳台までは、地味すぎてむしろ嫌悪していた品種なのですが、最近はガクアジサイの"凛"とした様が気に入っているのです。

 どういう理由なのか分からないのですが、筆者が住んでいる本山周辺は、このガクアジサイが多く植わっていて、筆者の目を楽しませてくれます。
203-6月10日(土)
 筆者は、立命館大学が用意してくれたホテルに宿泊。京都のホテルに泊まるのは、何年ぷりでしょう。午前8時すぎに起床。朝風呂に入り、服を着て、チェックアウト。阪急四条河原町へタクシーで向かいます。烏丸今出川を経由してくれるよう希望しました。筆者の母校・同志社大学を見るためです。筆者が大学生だったころは、この今出川校舎と新町校舎のみだったのですが、近年は田辺校舎(京田辺市)が出来上がり、今出川界隈が往年の賑わいがなくなってしまいました。寂しいかぎりです。田辺校舎は、キャンパス周辺には何もなく、ただひたすら学校に通い、授業が終われば、まっすぐに帰るという日々であるそうです。今出川界隈は、飲食関係の店が多く、授業を抜け出しては、昼から酒を飲むことも可能でした。こうした環境を知っている立場としては、今の同大生は、学生生活をエンジョイ出来ているのかと疑念を持ってしまいました。

それにしても京都という街は、容貌の変化がすくない街です。神戸では震災で失われてしまった小商店が"健在"なのです。間口一間(いっけん)ほどの大きさで、そんな規模で「よう商売してるな」と感嘆してしまいます。

 今回、京都の街を久しぶりに巡ったのですが、学生時代は輝いてみえた街並みが、筆者にとっては光彩を失ってしまった街に見えました。卒業してからしばらく、京都を再訪するだけで胸がドキドキしていたのです。今はそのトキメキを感じない。どうしてなのでしょう。
202-6月9日(金)
 昼からカルメンを出て、京都に向かいました。
 立命館大学で午後4時30分から、筆者が講演をしたのです。これは同大学国際言語文化研究所が主催している「複数の沖縄」という名で行われている連続講座の一環として、筆者に講演が依頼されたものです。

 筆者が講演した題は「複眼の琉球弧」。奄美からの視点を中心に、島尾敏雄が唱えた琉球弧のとらえなおしについて、今どのような動きがあるのか紹介したのです。この連続講演はいままで一元的に捉えてきた沖縄を、奄美、宮古、八重山、大東という沖縄のいわば"周縁"に位置する場所から相対化していこうとする狙いがあり、こうした文脈のなかで、筆者のように奄美にかかわってきた者が講師として呼ばれたものと想われます。

講演は1時間30分ほど筆者がしゃべり、二人のコメンテーターが、筆者の講演を受けてコメントを出すという形式をとりました。おかげさまで聴衆者が多く、補助椅子がでるほどです。講演が終わって、懇親会がもたれ、午前2時まで飲み続けていました。筆者の講演内容は、いずれ同大学国際言語文化研究所が発行するメディアに収録されるということのようです。
201-6月8日(木)
 今日昼間は抜けるような青空が拡がっています。

 気温も30度近くまで上昇して、カルメンは、昼間から冷房をしています。筆者は帰宅後、拙宅の一階でパソコンをいじっているのですが、サッシを締め切ると暑いのですが、かといって夜の空気はまだひんやりとします。

 どうやら明日あたりから関西地方は、梅雨入りとなりそうです。むかしなら明確に"梅雨入り宣言"が出されていました。それが冷夏が続いた年に、いつが梅雨入りなのか、いつに梅雨明けしたのかわからない年があって、気象庁は困惑していました。各方面から、なにやかやとつつかれたのでしょう。最近は「×月×日に梅雨入りしたと思われる」などという鵺(ぬえ)的な表現に変わってしまいました。お役人的な責任回避の発想です。

 役人の美学は、前例通りに施策が行われることに尽きます。この点、毎年ころころと変化する入梅日を決定するのは、お役所的な判断を越えるものがあるのでしょう。苦労は察しますが、なんともなさけない話です。

 関西ではこうした表現は聞いたことはありませんが、東京地方では、古そうな食べ物を口にしてしまった時、食中毒にならないよう「気象庁気象庁」と言うのだそうです。すると(当たらない)=(天気予報が当たらない、に掛けている)のだそうです。