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600-7月15日(日)
〈カルメン 01年 夏の俳句徘徊 no.3〉・蝙蝠(こうもり)や月のほとりを立ちさらず 暁台
夏の夕刻・たそがれ時は、人間の視力が昼間にくらべて落ちる時です。そんな時、上空を、ふぁらふぁらと飛んでいるのが都会に住む蝙蝠たちです。それは小さく、よほど気を付けてみていないと、不定形に飛ぶ鳥ぐらいにしか認識できません。阪神大震災までは、東灘あたりでも夕刻になると必ずといっていいほど見受けられたのですが、震災からこの方、新築家屋が増えて、わが友人達を見る機会も減ってしまいました。
この作品、月と蝙蝠と連記すれば、かのトランシルバニア地方のハンサム八重歯男の登場を連想してしまうのですが、筆者はJaponの日常のなかに群舞するわれらの友人たちのことを詠った作品であると思いなすのです。地上に近いまだ低い位置にとどまっている月の周囲を彼らが飛び回っている光景。われわれの間近に存在する飛ぶほ乳類。意外なことですが、この友人達は人間たちにとって、つねに"半可視状態"にあるため、俳句作品にしにくい存在であるのです。
599-7月14日(土)
〈カルメン 01年 夏の俳句徘徊 no.2〉・汝(な)が胸の谷間の汗や巴里祭 憲吉
とうとう関西も梅雨あけです。今年の夏は長く、そして猛暑となりそうです。
今日はパリ祭。フランスが国あげてドンチャン騒ぎをする記念日。1789年バスティーユ監獄を市民が襲撃した革命記念日なのです。今日の作品は、真夏の強い日差しのもと、若い女性なのでしょうか、恋人かもしれません。祝祭にふさわしい大きな胸を、誇らしげに、炎暑にさらしている。そこにうっすらと汗がにじんでいる。なんと健康的な光景なのでしょう。周囲の祝祭に参加している人たちの笑顔も広角的に、作品の中に読み込まれているかのようです。
普通、文学はこうしたおおらかな光景は作品になりにくいのです。作者がある印象的な光景を目撃したとしても、それを作品にすると第一義的な印象が前面に出過ぎてしまい、句としての奥深さに欠ける嫌いがあるからです。しかし、夏という季節は、否が応でも、暑く、総ての存在がありていにあぶり出される季節であると思えば、「胸の谷間の汗」という生を謳歌した光景もまた"うた"の題材になってもしかるべきなのでしょう。
598-7月13日(金)
参議院選挙と兵庫県知事選挙がスタートしました。先日も小泉首相が、大丸前に演説にやってきて、周囲は1万人を越す人だかり。15分間の演説でしたが、何機ものヘリコプターが三宮上空を飛び、まるで震災の時のようでした。
これが森喜郎前首相だったらこうはいかないでしょう。人によってこうまでも注目度に差が出るとは驚きです。選挙が終わり、自民党が勝って万歳をした途端、"守旧派"が息を吹き返す、との観測が流れています。自民党の"族議員"の勢いは、首相が替わったぐらいでは、そう簡単にへこたれるものではありません。このままではJaponはたちいかなくなっていくという危機感を共有したり、変革するべきとの総論は賛成しても、各論となって自分たちのところに火の粉がふりかかると、集団で、刃向かってきます。そうして抵抗している最中は、総論や危機意識などはまったく見えてこないものなのです。
また、小泉内閣のメンバーにも、本気になって改革を進めようとしているのかわからない官僚集団の代弁者のような大臣もいます。大切なことは、国民が痛みをともなっても、その後に生活の安定が訪れるという安心感を持てるかどうかです。いままでの自民党政治は、改革に伴う情報をほとんど国民の前に出さなかったので、経済・生活を建て直すために、どのような痛みを引き受ければ、よくなる方向に向かうのか、まったく国民側がわからず、グレーな雰囲気のなかで、不安だけが増幅されていく、といったことを繰り返したのが、この10年間でした。
さらに自民党政権が金科玉条のごとく進めてきた公共工事による景気の下支え、金融機関の経営安定による不良債権の一掃など、今の時点で総括すると、一般市民の生活にはプラスの実感を殆ど伴うことなく、巨額の税金が投入されただけという結果となっています。
まあ、自民党という政党の持つ歴史的寿命は、55年体制が崩壊した90年代前半に終わってしまっているわけですから、今は何をしてもトンチンカンな施策しか出来ないのです。経済が上手くいっている間は自民党という様々な業界利益代弁集団でもやっていけたのですが、時代は変わっています。その変化を彼ら自身、おそらく分かっていないのでしょう。
このままではJaponという国は、自分の力では何も変革できないという烙印が定着します。評価だけですむのなら、どんな形容でも受け入れざるを得ないのですが、怖いのは本当にこのままこの国がこれからもずっと元気がなく沈没するだけになってしまう、ということです。そうなると本当にこの国の将来に希望が持てなくなり、若者(つまり筆者の子どもたち世代)は、この国を見限っていくでしょう。
597-7月12日(木)
〈カルメン 01年 夏の俳句徘徊 no.1〉今夏も暑い暑い季節となりそうです。関東地方は今日、梅雨明け。関西は今晩、雨がしとしと降っています。今回からしばらく、季節を感じるために、古今東西の俳句を引用しながら、夏―晩夏の期間、季節と共振関係になろうと思います。
この企画の書き込みは随時です。・梅雨の月きびしくひかり去りがたし 加藤楸邨
「(山口)誓子氏訪問」という但し書きが、句の前についています。「梅雨」と「月」との意外な組み合わせが意表をつきます。梅雨の晴れ間でしょうか。天空には、存在感のある月が輝いています。妙にひっかかる存在(月)です。この輝き(ひかり)は、楸邨が、この日まみえた誓子という存在を外在化した表象と読めばいいのでしょうか。天象事象は、主観の変化によっていかようにも映るのです。二人の俳人には、時に鋭角的にぶつかり合う言葉のやりとりがあったのでしょうか。それとも、充実した俳人同士の凝縮された詩語の交換があり、対面後の軽い知的興奮が〈月〉を〈きびしくひか〉らせたのでしょうか。
596-7月11日(水)
筆者の母は、朝食は必ずパンを食べます。ご飯に味噌汁というJaponの典型的な朝食はいっさいしません。母にとって、朝にパンがないことは、あり得ないし、耐えられないことです。たとえ、パンがなくてご飯があったとしても手を付けようとはしません。母は神戸生まれの神戸育ち。戦前から、神戸の都心に住み、パン食を続けています。根っからの"神戸っ子"です。神戸生まれのプライドもあり、朝は必ずパン食なのです。神戸は昔から、おいしいパン屋が多く、パンが簡単に手に入ったのです。ドイツパン、イギリスパン、フランスパンとその内容も豊富でした。筆者はそういう母に育てられたので、京都の大学に進学して下宿生活をするまでパンによる朝食を続けていました。(今は和洋折衷派で、パンでもご飯でもどちらでも許容しています)。
読売新聞大阪本社版7月11日夕刊によりますと、全国で一番パンの年間購入量が多いのは神戸(食パン、菓子パンなど他のパンを含む)なのです。母の神戸っ子としてのプライドが数字によって裏付けられています。ちなみに、2位が京都、3位鳥取、4位大津、5位奈良と関西や西日本が続きます。この他、和歌山9位、大阪17位と続きます。東京を含む関東にパン文化が根づいていないのは、全国から人が集まっているということと、麺類の人気が高いために、「パンが欠かせない」という関西のような食文化は育たなかったためのようです。
595-7月10日(火)
最近の朝の日課は、パソコンのスイッチを入れ、インターネットにつなげ、兵庫県の知事候補のサイトを見ることです。今のところ、鷲田豊明氏(元神戸大学教授)と、小室豊允氏(姫路独協大学学長)の二人が、ホームページを開設しています(しかしこのサイトも、公職選挙法により、告示日からは閉じる必要があるようです)。前知事の井戸敏三氏のサイトはいまだ見あたりません。新聞情報によりますと、県下の関係各団体をあまねく回るという在来型(組織票をまず固める方法)の戦術をとっているようで、不特定多数の一般県民に語りかけるという電脳作戦は積極的ではないようです。(まあ、井戸氏もその気になれば、デジタル化が進んだ県職員の"力"を借りれば、専用サイトを作るのは、たやすいことなのですが)。
インターネットが県民の間に急激に普及して初めての、県知事選挙です。栃木、千葉や長野といったネット情報の交換による新しい傾向が果たして、兵庫県にも波及するでしょうか。それとも、もともと「国策県」としてスタートした兵庫県には、県民としての一体感が希薄であり、また東京において、県人会組織が全国で一番最後に出来た県なのです。県知事選挙というメディアに対して、県民は醒めた"他人事"とみているのでしょうか。
少し前、田中真紀子外相について、地元の新潟で、県民はどう思っているのかというテレビのインタビューに対して、中高年の女性が「同じ新潟県の女性として活躍を期待したい」云々の発言がありました。筆者はその「新潟県の女性」という言葉を聞き逃しませんでした。新潟は、越後の国がベースとなった、昔から一体感のある地域です。その中高年の女性が、"県連合婦人会"のおばちゃんっぽい雰囲気だったことを差し引いても、その地元意識には驚いたものです。筆者の周囲には、いくら"県連合婦人会"の役員であっても「わたしたち兵庫県の女は‥‥」といった表現を日常的に使う人は、果たしているのかな、と疑問に思いますし、いたとしてもごく少数の政治的人間であるのにちがいありません。
594-7月9日(月)
カルメンの定休日。少々、疲労がたまっていたので、睡眠をたっぷりとった後、午前11時からはFMわぃわぃ「南の風」の番組づくり。奄美篇は今回で120回目を迎えます。そして今月17日から始まる新しいクルーで、番組は6年目に突入します。長寿番組だといえるでしょう。この番組は毎週月曜日に放送しているのですが、筆者以外に、もうひとり番組担当者がいて、その人が局のチーフプロデューサーであるので、筆者が都合の悪い週は、番組づくりをお願い出来る利点があります。
今日の「南の風」は、いま奄美で何が起こっているのかを、ニュース番組風にお知らせする内容です。今日は、いつもの野村昭彦氏(チーフプロデューサー)は他の番組編集で忙しいために、金チョサ氏がミキシング。音楽が流れているマイク・オフの時間に、在日の話題や、韓国のハンセン病のこと、南北首脳会談後のJaponにおける民団と総連の活発化した交流などを話し合ったのです。
午後5時に番組が終了。JR鷹取駅近くの一杯飲み屋で、生ビールをググッと呑みたいところですが、今回はどこにもよらずにまっすぐ帰宅したのです。午後6時からは息子たちが塾へ行く前の、競争のような夕食。午後7時に息子二人が家を出ると、同居人の女性(妻)は初めて落ち着いて食卓の椅子に座ります。この時期、食事と共にたしなむビールの美味しいこと。
593-7月8日(日)
最近の選挙はネット選挙と言われています。しかし、兵庫県知事選挙については、低迷しているのでしようか。それとも候補者がいまひとつ魅力がないからなのか、検索サイトで探ってみても、今風の"勝手連"的な応援サイトが見あたらないのは、少し寂しいかぎりです。500万人も住んでいる兵庫県です。立候補の寸評が発信されてもよさそうです。筆者は誰を応援しているわけでもなく、誰が嫌いというわけでもありません。つまり応援する政党のない"無党派"の一人です。ただ、もうひとつよく分からないのは、今の県議会のオール与党的な支援をとりつけている井戸前副知事がどんな人か全くと言っていいほど、知らないということです。
おそらく官僚としては手堅い人なのでしょう。しかし知事は官僚ではありません。兵庫県の舵を取る政治家です。この今の時点で、ネット上でも、ホームページを立ち上げていないのは、どういうことでしょう。いまやわれわれは、ネットで自己定立しない政治家は信用しずらくなっています。
今朝、ある立候補予定者が立ち上げたHPを見ていますと、井戸前副知事は、朝日新聞や、サンTVが用意した公開討論会の出席要請を固辞しているようです。理由はわかりません。井戸陣営の"言い分"もあるかと思います。しかし有権者が候補者を知るという機会はなるべく大いにこしたことはないのです。候補者がどんな人がわからないままに投票に行けというのも、県民を愚弄した話です。
592-7月7日(土)
七夕。本日は、神戸のチームが揃って勝利しました。まず、サッカー。ヴィッセル神戸は、三浦カズも得点を決めて、セレッソ大阪に快勝しました。今年はカズの加入によって、ヴィッセル神戸は健闘しています。今季もどうやらJ2との入れ替え戦はないようです。今日の試合も10000人を越えているようです。今年秋に完成するワールドカップ向けに作った新しいホーム・グラウンドに本拠が移れば、観客動員数もさらにアップするでしょう。
サッカーという球技は、きわめてワールドワイドなスポーツです。最近では、スペイン・リーグの結果も新聞のスポーツ欄に掲載されるぐらいですから、注目度が高くなっています。このスポーツは、地域に密着しているのが特徴のようで、地元重視の姿勢が伺えます。
かたや、野球はその殆どの球団が企業の論理によって存非が決まっていく運命なので、ユダヤ的資本の論理によって、一つの場所に居続けるという保証は一切ありません。プロ野球は資本の都合で流浪するのです。オリックスが球団名に「神戸」の名を冠しないのも、オリックスという企業は、いつでも逃避(=球団を手放す、または企業の都合でフランチャイズを変える)できるようにするためでしょう。
さてそのオリックス・フルーウェーブ、徐々に調子をあげてきました。首位・大阪近鉄に1・5ゲーム差と詰め寄っています。今年は関西のチームが優勝してほしいものです。
591-7月6日(金)
今日は雨のせいか少し暑さが和らいでいます。それでも拙宅に帰ると、疲れが出て早々に布団の中に入ってしまいます。そして起きるのは、早朝。といっても午前7時前ですが。
蝉たちは、この時間、"朝のお勤め"として少々啼いてすぐ仕事納め。やはり蝉たちも暑い日中は苦手なのでしょう。震災前までは、一般住宅に昭和30年代に植えた樹木が蝉の住みかとなっていたのですが、多くのおおきな樹木が消えてしまいました。蝉たちは、それでも適樹を探して生きていくのでしょうねえ。
590-7月5日(木)
巨大古本屋が誕生しました。ジュンク堂書店が入っていたサンパル・ビル3Fに、古書店が開業したのです。いわゆる今流行の「新古本屋」でもありません。既存の古本屋のコンセプトと同じです。しかしまあ本当に広い古本屋です。
一回りするのが大変です。筆者の好きな人文系の文芸、評論、思想、民俗学の品揃えに関してですが、少しものたりないなあ、といった印象です。サンパルビルには2Fに、質のいい古書肆が数店はいっていて、そこのほうがむしろ筆者好みの本が多いのです。
賃料が高いのに、あれだけ大きな古書店を維持していくのは、さぞかし大変でしょょうねえ。同じ経営者として、激励したいものです。(とはいっても本当の稼ぎ頭は、漫画やCDかもしれません)。最近、古書もネットで売買することが多くなっているようで、ネットを始めていない中高年者にとってはライブの古書店の存在はまだまだありがたいメディアなのですが。
589-7月4日(水)
震災前に、カルメンでバイトをしていた女性が二人、食べにきてくれました。「こんにちわ」と親しげに挨拶をされても急には分からないものです。震災をはさんで約8年ぶりぐらいに会ったのです。それでなくても女性は髪型、服装、化粧によってがらりと変わってしまうものなのです。でも話し始めると、かつて一緒に働いた時の記憶が蘇ります。二人とも元気そうでした。それがなによりのプレゼントです。
588-7月3日(火)
今朝、初蝉を聞きました。例年より約一週間ほど早いようです。
7月に入ってから急に暑くなり、日中は30度を越える気温となっています。蝉たちも、「こりゃあ、たまらんわ」と土の中から出てきたのでしょう。これから二カ月、夏の環境音楽家の奏でる音楽と共に生活していくことになります。587-7月2日(月)
カルメンの定休日。夕方から、筆者が属しているOBK-ML(沖縄文化メーリング・リスト)の関西オフ会を、摂津本山で催しました。出席したのは、総勢15名。その多くが研究者や学生ですが、毎日新聞大阪本社学芸部記者や、詩人などといった筆者の知り合いも交じって終始楽しく宴が進行しました。
この日、ブレークしたのが、"ゴーヤマン"。NHKの朝ドラ"ちょらさん"に出てくるキャラクターです。NHKの番組の中から生まれたもので、野菜のニガウリ(ゴーヤ)にヘルメットとマントをまとったちょっとおどけた人気者です(マントには「ゴ」の字)。ところがこのキャラクター、民放で殆ど紹介されていないこともあって、流行に敏感な若者でさえ知らない人も多いのです。でも、この日は沖縄通ばかりだったので、そりゃ受けた受けた。
オフ会、午後7時前に始まって終了したのが午前零時を過ぎていました。筆者は店に頼み込んで、黒糖焼酎を特別に入れてもらいました。ちょうど幸いなことに、出入りの酒屋さんが筆者がいつも利用するF酒店でしたので、黒糖焼酎は難なく入手することができました。
586-7月1日(日)
筆者が属している詩誌『メランジュ』の5号合評会へ。作品評を交換した後、現・編集人が、交代を希望。筆者が編集人の役を引き受けることになりました。筆者は比較的多忙な人なのですが、不思議なことに、多忙な人ほど、忙しさが加速するものです(反対に、暇な人ほど暇が加速します)。現代人はそれでなくても忙しい日々を送っています。多忙を和らげるために、文明の利器が発明されたはずなのですが、利器に自己疎外され、結局忙しさを余計に引き寄せてしまう結果となるのです。
同人への連絡は最近、メールを使えば、楽にはなりましたが、それでもメディアを作り上げる以上、細かな心配りをしなくてはいけません。これがまた大変な労力と神経を使うものなのです。
585-6月30日(土)
本日、午後1時からカルメンで「スペイン語を話す会」がもたれました。これは新イスパニック・クラブが主催している会で、毎月行われていて。カルメンでは隔月ごとに会場になります。参加者は全員日本人ですが、みな達者にスペイン語をしゃべります。この会は、新イスパニック・クラブに所属していなくても参加できますので、興味のある人は、クラブ事務局へ連絡して下さい。
・新イスパニック・クラブ事務局
078-221-2564
E-mail koenigin@f5.dion.ne.jp
584-6月29日(金)
東京からスペインの食材を扱う輸入業者が、来店。アーティチョークやピミエントなどを試供品として、持ってきてくれました。その会社はスペイン人が社長をしているとのことです。スペインには、太くて美味しいホワイト・アスパラガスがあるのですが、その商社は「自慢できる商品を扱っています」というだけに、値段も少々高めです。
583-6月28日(木)
カルメンの掲示板を初めて、(本当に)少しずつではありますが、書き込んでくれる方がいて、感謝しています。筆者は掲示板の管理者ですので、一応、毎日最低二度はチェックするようにしています。この掲示板は、カルメンのホームページ本体と別サイトなので、メモリー数を気にしなくていいことが利点だと言えるでしょう。皆さん、掲示板にも書き込んで下さいね。
582-6月27日(水)
不思議な部屋があります。筆者が通勤する道すがら、東灘区のアパートの一室についてです。3階建ての賃貸集合住宅なのですが、1階のある部屋の住人が、半年から1年サイクルで変わるのです。
住人がどんな人か、ヴェランダを見ればある程度分かります。少し前は、英会話教室だったり、家族連れも住んでいましたが、たいていは独身男性が住んでいるのです。盆栽が置かれていた時もありました。たしか先週までいた住人も男性の一人暮らしだったようです。そして今朝みると再び空き家になっていました。
住人が変わるのは、単なる偶然かもしれません。そこは駅に近く、便利がいいために、仮住まいをする人や、関西に転勤してきている単身赴任のサラリーマンが住んでいるのかもしれません。わざわざ「今度のあんたはどんな人?」と尋ねるわけにもいきません。
筆者も仮住まいした経験があります。その時の家は、三軒棟続きの家でした。なぜか前の住人の家具がそのまま置かれていて、不思議な感じがしたものです。半年間すみましたが、その家の両隣の家は誰も住んでいず、奇妙な感じが増幅しました。そしてその家、阪神大震災でみごとに全壊しました。もし仮住まいの時にそこに住んでいたら、筆者は死んでいたでしょう。二軒先のおばあちゃんは即死でした。今は全く違う家が建って、震災前の面影はありません。
その不思議な部屋。おそらくまた誰か新しい住人がやってくるでしょう。
581-6月26日(火)
東急ハンズの道向かい、東門街の入り口に、工事用フェンスに囲まれた一角があります。阪神大震災で全壊したままのビルが長い間、無惨な姿をさらしていたのが、今年になって、ビルが取り壊されました。このビルは平壌冷麺屋といったテナントが入っていたビルで、震災の揺れで使えなくなったものの、しばらくの間、一階の酒屋さんだけが営業していました。この酒屋さんは、震災前まで神戸によくあった"舶来品屋"さんといった店構えで、独得の雰囲気が漂っていました。天井まで、外国からの商品が陳列されていて、もう店内の空気でさえも、舶来の匂いが漂っていたのです。
(そういえば、カルメンの南にあった、サンセット通りに面した輸入雑貨店は、カルメンより歴史が長く、舶来ものばかりを扱っていました。ところが、震災以後は店は消滅していました。古参の店がつぶれるのは、寂しくやりきれないものがあります)。
そて、このビル、いつまで更地のままでしょうか。場所としては一等地です。商業ビルになるのでしょうが、三宮の"顔"となるようなコンセプトのテナントが入ってくれれば思うのです。
580-6月25日(月)
カルメンの定休日。FMわぃわぃ「南の風」の放送は、沖永良部島の"踊り唄"を特集。これまで、どちらかというと、「南の風」では、サンシル(三線)を使った、唄の掛け合いをする"遊び唄"を中心に紹介してきましたが、本日は、祝いの席に歌われる"グシャクヒンヨー"、"竿打ち踊り"、"ヤッコ"の三曲を放送しました。
演者は、和泊町国頭集落の宮内利明さんを初めとした三人。曲の調子をみていくと、琉球旋律の影響はそう多くなくないのが、意外です。"グシャクヒンヨー"、"竿打ち踊り"は三線の伴奏なしのアカペラ。"ヤッコ"は三線がならされ、勇壮な踊りが展開されます。これらは国頭集落に伝わる伝統芸能で、今でも集落の人たちに継承されているのです。
放送は時間が余ったので、宮内利明さんと、東ヒロ子さんの島唄を何曲か流しました。
番組終了後、トーアロードと生田新道の交差点近くの"ジャズ・ハウス 木馬"へ。ここで筆者は、8月19日に行われる"ロルカ詩祭"の打ち合わせをしました。参加したのは、詩人の冨哲世さん、福田知子さん。"ロルカ詩祭"は毎年8月19日にカルメンで行っているもので、今年で4回目となります。内容の骨格が決まりましたので、別稿でお知らせすることにします。
この晩、三人は遅くまでウィスキーを飲み続け、笑ったり、悩んだり、相談に乗ったりで、楽しく過ごしたのです。
579-6月24日(日)
早朝は雨。出勤する時はやみ、三宮についてみるとカラッと晴れた夏空。コロコロと短時間に天気が変わります。ここ数日、就寝するのが早い分、早朝に目覚めます。するとたいてい雨が降っています。不思議なもので、毎日といっていいぐらいヒーヨが、南天の樹を目指してやってきます。冬は実がなっていて、訪れるのは分かるのですが、この時期にやってくるのは、どういうことでしょう。
ヒーヨは、やってくると、樹木の枝間を上下に移動し、何かを確認しているようです。虫でも捕っているのでしょうか。それとも、冬に実がなるようメンテナンスをしている(=木を耕している)のでしょうか。素人には分かりません。
毎日、雨にたたられている六甲の山々が、水もしたたるような艶やかな緑色をして、惚れ惚れしてしまいます。
578-6月23日(土)
今日、「沖縄戦 慰霊の日」。旧日本軍が、連合国軍に対して、組織的な戦闘を停止した日とされています。戦闘は散発的にそれ以後も続いたし、それ以前に終結した地域も多くあります。筆者は、芥川賞作家・目取真俊が書いた小説『群蝶の木』(朝日新聞社刊)を先日、読み終えたばかりです。去年10月に本人に出会ってから、身近に感じるようになった目取真作品ですが、この小説集にも、沖縄戦のことが描かれています。
本のタイトル名にもなった「群蝶の木」がそれで、沖縄本島の北部と思われる集落が舞台。ゴゼイという老女が、いきなり豊年祭で賑わう部落で騒ぎ出すことから、この作品は始まるのです。
面白い小説集なので、読むことを薦めますが、目取真は1960年生まれなので、戦争をしらない世代です。しかし、ひとつ前の世代(親)が沖縄戦を経験していることから、小さい頃から、親や周囲の人たちから、戦争にまつわる話をたっぷりと聞いているはずだし、それが物語を作っていく骨格になっていったものと思われます。
戦争は決して過去ではありません。筆者の場合でも、たった一世代前の人たちが、戦争に関わっているのです。本人たちがどのように戦争を回顧し、語り続けるも大切ですが、幼い頃から、そうした戦争経験を聞いているわれわれの世代が、親の記憶を"再生産"して、心に留め、表現していくことも大切ではないかと思うのです。
577-6月22日(金)
雨は降らないものの、ぐづついた天気が続きます。拙宅近くのガクアジサイはそろそろ盛りが過ぎて、散り始めています。JP の駅にはアヤメの名所をPRするポスターが貼られています。アヤメの次はいったい何の花でしょう。今年も梅から始まって、桜、桃、藤、牡丹、紫陽花と、花の季節が過ぎていきます。拙宅では、室内に洗濯物の花が咲いています。この天気ではなかなか乾きにくいからです。食卓の定位置の椅子に座ると、天井から洗濯物が干されていて、左右どちらに首を回しても、洗濯物が視界にはいります。"金で首が回らない"とは聞いたことがありますが、拙宅では"洗濯物で首が回らない"のです。同居人の女性(妻)は「そこが一番、洗濯物が乾いていいのよ」と言い張ります。トホホの家庭です。
576-6月21日(木)井上青龍という写真家がいました。
釜ケ崎や、朝鮮民主主義人民共和国に渡る在日朝鮮人を新潟で写したシリーズ、奄美をテーマにした写真群もあります。大阪芸大の教授だった1988年、奄美・徳之島で溺死したのです。8月18日、折からの台風接近で海が荒れていたのを、気にとめず伊仙町の海に入り、そのまま帰らぬ人に。土佐の海で鍛えた自信が裏目に出たのかもしれません。
青龍さん、と呼び慣わしていました。人なつっこい笑顔は、多くの人を引き寄せ、酒が好きで、学生達の面倒見がよく、人気がある先生でした。筆者の結婚式にも駆けつけてくれ、多くの写真を撮ってくれたのです。
その青龍さんの"13回忌"を記念して、写真集『釜ケ崎』が、遺族の治子夫人の手で刊行されました。筆者は改めて、青龍さんのカメラ・ワークの凄まじさを知ったのです。以下は、治子夫人にあてた手紙の一部です。
「8月18日がくるたびに、南海(奄美)に散った青龍さんのことを思い出してしまいます。夏という季節は、あらゆる"生"が立ち上がる季節であると共に、他の季節には見えなかった"死"もあらわに惹起する季節なのだということを、青龍さんの死で学ばせていただきました」「惜しまれて死ぬというのは、青龍さんのような"死"の在り方なのでしょう。いわば"死"が生きている、"死に続けている"とでもいいましようか。生きるという違う形でのありようが見えてきます」。
(写真は『釜ケ崎』から。男達が仕事を求めて、手配師が用意したトラックに乗っていく様子)575-6月20日(水)
梅雨らしい一日です。朝からずっと雨。でも不思議なことに、こういう朝から雨が降っている日には、お客様が多いのです。途中から雨が降り出されるより、いいのです。
カルメンのような飲食業が流行る目安は、「天気、人気、景気」という三つの"気"が絡んでいると業界では言います。筆者もこの表現には深く首肯するところがあります。荒天でも足を運んできてくれるお客様も多いのですが、やはりその日が天気だった場合と較べると、どうかと思ってしまうのです。
そして人気。これはいうまでもありません。最近、カルメンの隣にタイ料理屋がオープンしました。けっこう流行っているようです。若い人でいつも店内はいっぱいです。タイ料理も、Japonで定着した感があります。隣りの店はタイから調理人を雇って調理しているそうです。ここはかつて新誠堂という"おかき屋"さんがあったところで、今は廃業して、自動販売機の営業のみ続けています。
景気。これは国全体のことですので、いくら筆者が頑張ってもどうすることも出来ません。カルメンに今よりも多くのお客様が来てくれるようになるためには、経済が安定し、将来、年齢を重ねた時でも、安心して暮らせる社会になっておく必要があります。そして地域経済の観点からすると、関西がつねに注目されるような仕掛けをし続ける必要があるでしょう。
大阪市はハード中心の"万博"の夢を棄てきれず、オリンピック誘致に乗りだし、神戸市もリベンジをかけた"空港建設"の夢を追い続けています。こうした一過性、ハード中心の都市づくりより、永続的な産業構造の変換や、新産業の誘致に心がけるべきだしょう。大阪の地盤沈下が叫ばれて長いのですが、それを憂う関西経済界の軸足が、もう殆ど東京にシフトしてしまっているわけですから、彼らの言う"関西復権"もどれだけ実効性があるのか疑問です。
むしろ、J1リーグに所属する関西4球団がトーナメントで争って、関西杯争奪戦をするとか(収益金はすべて福祉団体に寄付する、とか、救貧のための資金にするとか)、韓国のKリーグとタイトル戦をする、といった試みがあっていいのではないでしょうか。(筆者はプロ野球でこういう提案はしません。なにせセ・リーグの某Y球団にぶらさがっているだけで、独自にこうした国家の枠を越えた提案がなかなかしずらい成熟したスポーツだからです)。
574-6月19日(火)
掲示板を新設しました。ここ をクリックして下さい。掲示板にジャンプします。
このインターネットというのは、従来のマスメディアと違って双方向性が特徴です。筆者も友人が主宰しているHPの掲示板に書き込むことがあります。リアルタイムに意見が反映されるのが魅力だといえるでしょう。
掲示板は、かなり専門的な分野であるほうが、投稿者の密度が濃いようです。でもまあ、カルメンの掲示板は、スペイン旅行の思い出や、スペインの料理、フラメンコ、音楽、サッカー、文化についてなどを書き込んでいただければ面白いと思います。
皆様、気楽に書き込んでくださいね。しばらくは投稿者が少ないと思いますので、カルメンのスタッフが、皆様へのメッセージを発信かることになると思います。
573-6月18日(月)
カルメンの定休日。筆者はひとり京都へ。
同居人の女性(妻)に、弁当を余分に作ってもらい、阪急電車に飛び乗ったのです。目的は、JR京都駅の伊勢丹内で催されている「ジャン・コクトー展」。神戸からJRで行くと、高くつくので、阪急で終点・四条河原町へ。賀茂川の河川敷に降りて、弁当を広げ、持参した缶ビールをぐびり。賀茂川は筆者が学生をしていた25年前よりきれいになっているような気がしました。バスで、京都駅前へ。25年前は、市電がまだ通っていました。
原広司設計の「えき」=JR京都駅へ。ここは劇場性豊かな印象深い建物ですが、一部の噂によると、本来なら、コンペディションで、安藤忠男案が有力だったということ。ところが、原=大手ゼネコン案が、土壇場になって、巻き返したということです。このため、コンペディションの選考委員だったレンゾ・ピアーノ氏(関空の空港ターミナルを設計)は不満を表明し、決定後のレセプションに参加しなかったとか。
筆者がジャン・コクトーにひかれるのは、彼が描く線画のようなイラストが昔から好きだったためです。会場には、コクトーが描いた男達が多く並べられていて、詩人であり、評論家、劇作家、画家でもあるコクトーの多面的な魅力に触れることが出来ます。
ただ、この会場が狭いためか、コクトーが制作した映画の上演や、ビデオ等視覚に訴える装置がないことに、物足りなさを感じたのです。また、もうひとつ、「美しい男」というテーマだけでは、展覧会をなりたたせるコンセプトが弱いように思えます。
展覧会を出た後は、八条口のアバンティ・ビル内の大型書店へ。京都というところは面白いところで、人文書関係では、哲学書が充実しているが特徴です。これは関西の大阪、神戸の大型書店に較べても、哲学書の充実ぶりが目を曳きます。また民俗学、文化人類学に関しても、棚に特徴があるのです。具体的な場所(例えば、沖縄・奄美など)を対象とした研究書はほとんど並んでいず、原理・概説を説いた本が圧倒的に多く、さすが"概念"の街であることが証明されます。いわば具体性の欠如した都市といえましょうし、この都市の人たちにとっては、実態(具体性)とは、すなわち京都の街のことで、それ以外は"鄙"なのでしょう。
572-6月17日(日)
兵庫県の知事選挙に新しい動きが加わりました。小室豊允(とよちか)氏が出馬の動きを見せています。姫路独協大学学長。筆者も昔からよく知っている人です。専門は福祉行政。県の複数の審議会委員を務め、県政の細部まで見通している人です。
この人、一度会えば忘れられないのは、話術の巧みさです。行政主導のシンポジウムなどで、司会やパネラーを務めることが多いのですが、絶妙な間の取り方、妙を得た発言のしかたなど、芸術品的なレベルです。特に女性関係が多いシンポジウムなどでは、この人の発言が終わると、会場の女性がため息をつくのがわかります。または、会場全体がざわめくのです。これは小室氏の言葉が女性の心に響き、感動しているがゆえでしょう。
今回、どのような理由から、出馬の意思を固めたのかは分かりませんが、何代も続く、旧自治省出身の官僚知事が治める県政の流れを変えたかったのかもしれません。出馬が取りざたされている副知事について、筆者は語る資格はありません。行政手腕を判定できないためです。
まあ、貝原さんが後任をにおわせている人なので、彼好みで"能吏"なのでしょう。しかし、たとえ、"能吏"であっても、県民のために「尻(ケツ)をまくるような」覇気があるのかどうかが、問題です。貝原さんはそんな"やんちゃ"のタイプではありませんが、正統的な自治官僚的手法で、震災以後の県政を乗り切ろうとしたのです。その副知事が、優秀であっても貝原亜流であれば、今より縮小再生産されただけの県政が続くことになります。
今回の兵庫県知事選挙は、ひょっとして、この県が誕生して以来のレーゾンデートル(存在理由)が問われる選挙なのかもしれません。
571-6月16日(土)
先日、ふらりと姫路出身の小説家・田靡新さんが、知人の画家と一緒に来店してくれました。「"デッサン"に行ったけど開いていなくて」と。軽くワインとつまみを食べつつ、しばし筆者とも情報交換したのです。田靡さんは、姫路出身の作家・椎名麟三に深くかかわっています。筆者もこの作家が好きで、高校時代は作品の何冊かを愛読していました。高校生のころ、筆者が読む本といえば、文庫か新書、あるいは総合雑誌でした。
"戦後派"の作家である椎名の作品は、30年前なら、簡単に文庫で手に入ったのですが、今は文庫で一冊程度しか市販されていないようです(『私の聖書物語』中公文庫)。これでは新しく読書人の仲間に入る若者が椎名を知るキッカケがせばまり、残念なことです。また、三宮の古本屋に、たしか椎名の幸福論の本が置いていましたが、小説ではないので買いませんでした。
さて、椎名は今年が生誕90周年にあたるようです。東京では"邂逅忌"、出身の姫路では"自由忌"が、命日(3月28日)にあわせて行われています。姫路には、市立の文学館があります。市内だけではなく、広く播州全体を出自とする作家・文士を顕彰する文学メモリアルです。
田靡さんは、椎名の晩年に、文通をして知己を得、62歳の若さで死去したあとも、椎名の業績を追い、『小説椎名麟三』(武蔵野書房)、『椎名麟三管見』(神文書院)を執筆されています。椎名は"私生児"であることを、一生の負荷として背負い続けて、表現活動をした表現者です。この"私生児"という感覚が、"戦後派"といわれた一群の文学者の雰囲気と共通しています。つまり、自分たちの文学は、敗戦という事態に出現した"私生児"という意味が込められているのでしょう。
山陽電鉄の車掌もしていたという椎名です。戦後すぐの車両は、車掌のいるところは吹きっ晒しで、須磨浦公園あたりを過ぎる頃は特に寒かったと、小説の中に記述しています。筆者も当時、垂水区に住んでいたので、自分の生活圏を舞台にして小説を書いている椎名に親近感を持ったものです。いずれ作品をまとまって読み直してみたい作家です。(そういえば、姫路文学館から、震災前に、椎名の代表作である『邂逅』が復刻されています。興味のある方は、同文学館に問い合わせて見てください。また全集は、冬樹社から出版されています)。
570-6月15日(金)
新聞の一面を使ったNTT Docomo の広告に、i-mode で25000文字まで見られるようになる、と書いてあったので、さっそく登録してみました。これはAOLというプロバイダーを使うことで可能になったもので、サービスを受けるために、登録さえすれば無料で長文を読めるようになるのです。さっそく筆者がPCに書いていた長めの文章を、登録されたアドレスに送ってみました。すると、携帯に転送されてきたものの、「全文を読むには次をクリック」と表示されのす。そこをクリックすると、いくつかボタンの選択があり、「次」を押さないと、読むことができません。
これは、便利かどうか分かりません。筆者のイメージでは、一括して25000字が送られてくる、と思っていたのです。それがブチブチと細切れで読まなくてはならないとなると、文章の前後が分からなくなり、なにがなんだが、意味不明になってしまうのです。特に、思想や、評論などの文章を読むのには、全く向いていません。
日頃、i-modeは使用料金が高く、もったいないために、殆ど使用しない筆者ですので、i-mode 経由でしか閲覧できないのは、料金的に抵抗があります。なんだか、i-modeを使うために仕組まれだ"罠"のようです。おそらく緊急の場合をのぞいて、AOLのアドレスを使うのは滅多にないでしょう。
569-6月14日(木)
一日中雨です。やはりこの時期、雨が降るほうが、緑がみずみずしくなり、艶っぽさも感じます。水田に植えられた水稲も着実に成長していることでしょう。今のJaponにとって、月々に発表される鉱工業生産指数が、景気を判断する際の材料となりますが、かつて"瑞穂の国"であったこの国では、米の作況指数が、国家の盛衰を決める大きな指標でした。勿論、かつては、「米の作況指数」という表現はなく、全国レベルの作況比較もなかったでしょうが、水稲の成育を気にしていたのが、為政者であり、天皇でした。
ヒロヒト天皇は、生物学者ということもあり、米の作況指数に敏感だったようです。なにせ、天皇という職業は、「万物をしろしめす」こと、つまりなんでもかでもすべてを知っていることが、権力の大きな基盤であり、根拠となっていたからです。またヒロヒト天皇もこうした天皇という本分を熟知していたのです。国民・臣民と同じ風土・気候・自然・生産を共有するという自覚に立ちながら、コメの王として自らの位置を確認するために、数量化して顕れる作況指数に大きな関心が払われたのです。
かくいう筆者も先日、奈良市の霊山寺を訪れる最中、バスの車中から眺めた、田植えが終わったばかりの水田を見て、安堵の感覚が沸き上がったことを告白しなくてはいけません。筆者の自宅、職場の周辺には、水田、畑はありません。晩秋、稲穂が稔り、たんぼが一面どこまでも黄金色に輝いている姿を無性に見たくなる時があります。神戸からは、やはりバスや電車に乗って1時間程度、郊外に出なくては、見ることが叶わないのです。何代も前から、農業とは縁のない先祖たちを持ちながら、筆者のどこかに、農耕民族としての記憶が、惹起するのです。
568-6月13日(水)
野球の話です。どうも今年のプロ野球は評判がよくありません。「どうせ巨人が優勝するんだろ」といった出来レースっぽい"ノリ"のセ・リーグに批判が集中していています。それに、今年から始まった勝ち数による順位表示も、どうしてこのような表示になったのか、日頃スポーツ・ニュースを見ない筆者には、理解できず、こうなった必然性も理解していません。
今までのように"率順"ではとっくの昔の首位を陥落している巨人が、勝ち数で勝っているために、首位に居座っているのも、永年つちかった順位表をみての経験知が活かされず、「なんだ、これだったら巨人のためにあるような仕掛けではないか」と、筋違いの反発が起きてきています。
巨人ファンこそいい迷惑でしょう。「強くて、強すぎて何が悪い」と開き直られると、他球団ファンは沈黙せざるを得ません。大金にものをいわせて、有力選手を次々に傘下に収めている批判に対しても「冗談じゃない、これは企業努力の結果だ。文句あるのだったら、同じことをすればいいのではないか」との説は、筋の通った建前論なだけに、反論できません。
さらに巨人ファンから言わせると、セ・リーグがつまらいとたとえ認めるとしても、それは巨人に対抗する強力なライバルがいないのが原因なんだというもっともらしい理由が登場します。それも、ごもっとも。そんな時にいつも引き合いにだされるのが阪神の低迷です。ここが弱いから、セ・リーグが面白くなくなったのだと、振ってこられると、グの音も出ない。
ただ、この球団、今は何をやっても可愛そうなぐらい上手くいかず、野村という名監督をひっぱってきても、今年もどうやら最下位の気配が濃厚だという始末。いや、むしろ、巨人の優勝をお膳立てする"ある程度強い阪神"を演じることを拒絶している賢明さを選択しているのかもしれませんが(そんなことないか)。
来年のサッカー・ワールドカップに向けて、この国のサッカー熱はますますヒートアップしていくでしょう。確かにJaponのナショナルチームは、世界の強豪を相手に善戦しています。それに較べ、プロ野球は、スポーツ・ニュースで、まず大リーグ情報、イチローの活躍、新庄の試合終了後のノー天気なコメント収録、そしてその後に「では、つぎに、日本のプロ野球ですが、」とアナウンサーが発音する時、思い切り"が"を強調され、まるで付属品のような扱い。首位争いが熾烈なパ・リーグの後に、セ・リーグの試合結果が放送されることも多くなっています。
すべて巨人の責任でしょうか。そういえば、読売新聞に、ある試合を消化した時点で、巨人の安打数などをあてるクイズをすると掲載していました。賞金はたしか1000万円。金で釣ろうとしているわけですね、読売さん。
567-6月12日(火)
カルメンの携帯電話からアクセスできるホームページを作りました。アドレスは、http://www.warp.or.jp/~maroad/carmen/i.html
コンテンツは、6チャンネルで構成されています。表紙ページのレイアウトは以下の通りです。これから、関連サイトにリンクさせていく必要がありますが、皆さん、宜しく願います。チャンネルをクリックするとその内容がご覧になれます。
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スペイン料理
カルメン
携帯メール版
……………………
1956年神戸三宮で
創業。日本で一番
早く出来たスペイ
ン料理店です。
……………………
神戸っ子に愛され
て44年。伝統の味
をリーズナブルな
価格でお楽しみ下
さい。
……………………
1.カルメンの場所
2.営業時間
3.季節の料理企画
4.イベント情報
5.News News!!
6.最新人気料理
……………………
566-6月11日(月)
カルメンの定休日。■FMわぃわぃ「南の風」は、今日二度の生放送をしました。一回目は午後4時からのいつもの時間帯です。沖永良部島の島唄を特集しました。唄者は林茂さん、東ヒロ子さん、鍋田武則さんの三人。「いちきゃ節」から始まって「サンゴウ節」「石ん頂(ちぢ)」「犬田布嶺」「西目ちゅっきゃり節」「アンチャメー小」「ヨーテー節」「サイサイ節」の8曲を演奏しました。
これは筆者が今年1月に沖永良部島に行った時、録音をしたものです。三人とも和泊町"国頭"集落の出身者です。ここはもともと島唄がさかんな場所で、ここだけの島唄もあり、素晴らしい唄者も多いところです。その中でも、林茂さんは長老格。野太い声で歌い上げる島唄さすがです。
■続いて午後7時からは、徳之島の島唄の特集。ゲストは米川宗夫さんと、向江登美江さん。このコンビによる徳之島の民謡は、おそらくヤマトで聞ける徳之島島唄の最高のコンビでしょう。二人には、何度も出演していただきましたが、今回は、米川さんが、先月名瀬で行われた「奄美民謡大会」に出場。見事、初出演で壮年の部で"入賞"を果たしたのを記念して、"凱旋"演奏をしてもらったのです。
米川さんは、コンクールに出場した感想を「軽い気持ちでいったが、レベルの高さにはびっくりした。私は、生まれジマの"三京ぬ後"を選んだ。これはハヤシのない唄で、やはりコンクールでは、ハヤシがついた唄の方が、ステージ映えがする。出演者は毎年でている人が殆どなので、私もこれから、毎年出演してみようかと思っている」と語っていました。
番組中でも、コンクール向けの歌い方を試みた"亀津あさばな節"を歌うなど、次に向けた意欲をすでに燃やしているようです。
そしてこの時間帯は本来なら、午後4時からの放送分の再放送帯なので、来週(6月18日)にまとめて、二つの番組の再放送があります。
■夜、筆者の大学時代の友人Sが、長崎・五島列島からやってきました。建設業のSは町会議員もやっていて、全国的な町村合併の動きに呼応して、五つの町が合併するための協議会の一員として、兵庫県の篠山市を視察しに行ったのです。
時間があるというので、番組終了後、もうひとりを加えて三人で痛飲しました。町村合併をするのは、国策としてあらがうことが出来ないにせよ、新しい自治体のヴィジョンを確立していかなくてはなりません。その時こそ、地域住民の智慧と想像力が発揮するときです。
五島列島は魚のおいしいところ。Sも興に乗れば、一人で船を出し、鯛などを釣ってくるそうです。素晴らしい環境です。この五島列島といえば、かつて倭寇の基地だったところ。さらに、"隠れクリスチャン"の里が点在している地域でもあります。
ただし、五島列島すべてが、"隠れクリスチャン"ではなく、集落ごとに違う宗旨は、集落間の対立にもつながっていきます。Sの育った集落は浄土真宗。小さい頃、仲間数人で船を漕ぎ出し、対岸のクリスチャンへ行き、果物を盗ったりしたこともあるようです。最近はさすがにこうした子供じみた敵対行為はないようですが、対立する集落出身同士の者が結婚しようとすると、反対する人・感情は存在するようです。
"隠れクリスチャン"に対しては、"ひらき"という差別用語が存在するのです。これは、新たに開拓した人たち(新たに土地を拓く)を意味します。こうした、新開地の人たちに対する地域感情は、多くの地域でみられるものの、五島列島はいまだ、脈々と継承されています。このために、地域として"隠れキリシタンの地"であるという観光目的の旗揚げなどはなかなかしづらいようです。こうした地域感情も新しい自治体が出来ることで、当該住民が智慧を出し合って克服し、新しい自治体の姿を確立していってほしいものです。
565-6月10日(日)
友人の出版記念会が、カルメンで催されました。『弥勒"(みろく ツーダッシュ)』という詩集を出した磯田ふじ子さんです。参加したのは、10人と小規模なのですが、この程度の規模のほうが、しみじみとした会となって、好感がもてます。(筆者はまあ、大勢の華やかな会も好きですが)。
この本の装幀が「フランス装」という体裁です。カバーを折りこんでいる形で、本好きな人間にとっては、垂涎の造型なのです。つまりいつか自著を持つことがあれば、この造本でつくってみたいと思う憧れの形態なのです。
この造本は、洋書に見られる方法で、この上にハトロン紙などをかぶせてあるともう頬ずりしたくなるような"愛らしさ"なのです。
カルメン閉店後、拙宅近くで、沖縄から来ている久万田晋氏と飲みました。高知出身の久万田氏は、いま北海道で展開されている"よさこい祭"の調査にいくために、神戸に立ち寄ったものです。
564-6月9日(土)
歯痛です。睡眠不足が続くと、途端に歯が痛くなります。ものが食べられないことをいいことに、この際、ダイエットしようかと思っています。それに最近、運動不足が続いています。特に運動などしてこなかったのですが、忙しさにかまけて、歩く行為も手を抜いてしまっています。
神戸は目の前に、深い山が横たわっていて、小登山するのには、絶好のロケーションなのです。しかし現状は山歩きを渇望しつつ、指を加えて六甲の山並みを見ているばかりなのです。(最近、六甲の緑が濃くなってきました)。
563-6月8日(金)
痛ましい事件です。大阪府池田市にある大阪教育大学付属小学校で起きた惨劇は、女の子を中心に8人の犠牲者がでました。犯人はすぐ現場で取り押さえられたのが、せめてもの救い。亡くなった子ども達は、小学校1年生、2年生のかわいい盛り。同じ子を持つ親として、不幸にあった親御さんたちに伝える言葉はありません。この小学校は、高校まである一貫校で、著名大学への進学率が高く、小学校へ入学するのにも、幼稚園の時代から"お受験"をしなければ、合格が困難なところです。つまり亡くなった子ども達は、周囲から祝福されて、小学校に入学したのです。いわば、将来を嘱望されていた子どもたちと言えるかもしれません。
それにしても、最近女の子が犠牲になる事件が多発しています。神戸市北区に住む小学3年生の女の子も、ひき逃げされた後に、川に投げ込まれるというむごい亡くなり方をしています。まだ、世間に対して怖れも、警戒心もない年齢の女の子が、かくも犠牲になるのは、なんともいたたまれない事態です。こういう悲劇を受け入れざるを得ない家族の哀しみは、深く、その傷は、いつまでいやされることはないでしょう。やりきれない気持ちです。
不況が、世の中を必要以上に悪くしているのでしょうか。なにか、おかしいぞ、この国は。
562-6月7日(木)
霊山寺の役小角(役行者)堂で、弁当を食べている時、横にあった三重塔をしみじみ眺めていました。創建から数えて、何百年も存在し続けるこの塔は、境内のはずれに位置するために、ひっそりと建っているという感じです。例えば、こういう木造建造物が、京洛や江戸の街中に建っていると、間違いなく、火災にあって、建立当時の姿は望めないでしょう。
しかし、この寺坊の三重塔は、歴史を乗り越えて、筆者の前に屹立しているのです。しかし、この寺では、この塔が格別大切にされている風には思えません。まあ、奈良(大和)の寺というのは、1000年以上ありつづける事物がごちゃまんとあるので、いちいち"スゴイ"なん思っていないのでしょう。それが大和の凄さであり、自己認識のいい加減さでもあるのです。
考えてみますと。この塔=ストゥーパというのは、発祥のインドでは、饅頭の半切り型の小山のような形をしていて、仏教以前から信仰の対象になっていたようです。これが中国・朝鮮経由でJaponに入ってくると、いつの間にか、木造建築に姿を変えています。インドのストゥーパと同じといえば、Japonの塔も居住のための構造物ではなく、有ること自体に意義があり、実利的に何かの目的で、使用されこともないということです。
そしてJaponでは、この塔に向かって頭を下げたり、Japonの人たちが好きな賽銭を投げる、あるいは絵馬を付ける、祈りを捧げる、花をたむける、といった参加型の信仰対象にもなっていないのです。これはどうしてかずっと不思議に思っていたのです。"祈り"の対象にならないのに、どうして寺坊は塔を造りたがるのか。
Japonの人たちは、信仰対象としての"仏像フェチ"はあるけれど、仏像美と比肩としうるほどの美貌をもった建築美に対する"建築フェチ"はないようです。筆者などは、梁(はり)という露出したラーメンの組み合わせの集合体である多重塔は本当に素晴らしいオブジェと思うのですが。われらが愛するおばさまたちは、仏像の"美顔"較べこそすれ、"ラーメン美貌較べ"はなさらないようです。
それが、霊山寺の、マイナーな位置にある(いや、遠くからよく見えるため、つまり遠望のために、立地場所を高台に選んだために、境内の"はずれ"になったかもしれないが)三重塔を見ていると、ひょっとして、Japonの人にとって、塔とはインド的なストゥーパではなく、"依り代"の代替物ではないかと思うようになったのです。"依り代"、つまり、乾田のたんぼの中に、突っ立てる裸木のことです。これは、神が降臨する際の目印であると同時に、大地(母性性)に、長棒(男根の象徴)を突っ立てることで、性行為を擬態し、豊穣を祈念する意味をも持っているです。永遠化した"依り代"、または三次元化=建造物化した"依り代=裸木=巨大なリンガ"であると考えられないでしょうか。
そう考えると、"依り代"=塔を拝むことのないJaponの人たちの心性が解明されるような気がするのですが。
561-6月6日(水)
「ありがとうございました〜」
「ありがとうございました〜」元気な声がJR三宮駅にこだまします。
おや、時期が違うぞ。
筆者がすぐ思った反応はこうでした。
といいますのも、ここ近年、4月あたりはJRの新入社員が改札口で、お客様に向かって、挨拶している姿を見ることができます。そりゃ、彼らだって、この不況下、JRという大企業に就職できたわけですから、挨拶にも力が入るでしょう。しかし、今朝の挨拶の声は、若い男性ながら新入社員ではありません。「トライアルウィーク」。その男の子二人の胸には、こう書かれた名札が付けられています。思い出しました。この時期、兵庫県下の公立中学2年生は、"働く"現場を知るために、一週間、職場に通わなくてはならないのです(筆者の長男も去年、浴槽剤の工場で"働い"ていました)。筆者が駅で見た中学生は、必死で「ありがとうございました〜」を繰り返しています。背の高い子と少し低めの子、その取り合わせも愛らしく、思わず微笑んでしまいました。
この話を、帰宅して同居人の女性(妻)にしたところ、話題は急転回して、二人でJR-国鉄の過去を思い出してしまいました。「いやあ、そんなん、昔のあの人たち(JR-国鉄)って、頭なんて下げなかったわよ」と彼女。「そうそう、無愛想だった。サービス業なんていう自覚はひとかけらも無かったよ」と夫である筆者。「そうよ、そうよ。そういう人たちが、中学生に頭下げさいなんて、ちょっとおかしいわ」。なるほど、言われてみれば、その通り。彼らだってお客様に頭を下げるなんていう、商売のイロハの"イ"を実行しだしてから、何年もたっていないはず。今日みた中学生の二人が痛々しい限りに大声をはりあげて挨拶している姿をみていると、だからこそ、あんたたち(JR-国鉄)の過去の無愛想はなんだったんだと蒸し返したくなるのです。
560-6月5日(火)
雨男というのでしょうか。その人が旅行に出たり、何か人生の大きなイベントに関わる時、たいてい雨になるという人のことです。筆者の父がそれにあたります。今日から大学(満州・建国大学)の同窓会旅行で淡路島へ行っています。今日から関西地方は梅雨入り。もうまったく、梅雨という以外形容の言葉が考えられない天気模様です。考えてみれば、筆者が小さい頃の家族旅行はよく雨にたたられましたし、カルメンの社員旅行も父が同行すると、雨でした。関西の俚諺に「雨男は金が貯まる」と言うとか言わないとか。いや、これは雨男と言われた人間の自己弁明でしょう。父は周囲からさんざん"雨男"といわれているせいか、傘を持つのを嫌がります。意地なのでしょう。
さあ、梅雨です。筆者はこのrainey season が嫌いではありません。自分がこの時期に生まれたからという単純な理由からですが。
559-6月4日(月)
カルメンの定休日。
筆者は奈良をひとり遊びました。
カメラを二台(一眼レフとデジタル)をかついで、弁当を中学生の息子二人分以外に、筆者の分も同居人の女性(妻)に作ってもらい、昼前、阪急に乗り込んだのです。少し前から近鉄も「スルっと関西」を使えるようになったので、筆者の趣味である"大和漫遊"が便利になりました。岡本駅で"ラガール・カード"3000円券を買い、梅田経由、地下鉄御堂筋線「本町」乗り換え、中央線で生駒へ。そこで近鉄に乗り、「富雄」という駅で降りました。そこからバスで、霊山(りょうさん)寺へ。ここは、そうび(薔薇)の名所として知られています。本当は、紫陽花を見に行きたかったのですが、まだ少し早く矢田寺は二年前に撮影に出かけているので、今回はそうびにしました。
そこは、昭和30年代から、新しく作られた薔薇園です。入った途端、薔薇の匂いで蒸せかえるようです。ただ、"満開"の盛りは少し過ぎてしまっているようで、やはり春の薔薇を鑑賞するのには、五月中の方がいいようです。でも筆者は気を取り戻して、萎れていく花をあえて撮影したのです。萎れ、枯れ、衰亡していく過程の薔薇。振り向かなくなり、誰も撮影の対象としない薔薇。やがてすべての薔薇に、こうした衰微の時がやってくるのですが、"美"の対象にはならないようです。
この霊山寺は、"けったいな"寺です。境内にゴルフの打ちっ放し練習場がしつらえてあったり、"弁財天"を祀る新興宗教の施設があったりして、少しマカマガしい雰囲気が漂っています。宗旨としては、真言密教の古刹なのですが、どうして"弁財天教"の教祖像(女性)があるのか分かりません。しかもその宗派が建てたと思われる社が二棟建っています。それがなんと全面金箔を張り巡らせたものと、全面銀箔を張り巡らせたもの。この世の悪趣味を一堂に介したような俗物趣味なのです。さらに笑いを誘うのは、金箔社、銀箔社を覆っているアルミサッシ製のサンルーフです。ここの寺とはいったい何を狙っているのでしょう。
筆者は、役小角を祀った"行者堂"で、弁当をほおばっていました。ここは行基が開基し、役小角を祀り、空海が立ち寄ったという、Japonにおける山岳系仏教者のスーパースターを一堂に会した場所なのです。しかも本尊が薬師如来なので、薬湯もあります。かつてはしばらく逗留して薬湯三昧を楽しんだのでしょう。また、ここを起点として山深く分け入るハイキング道(かつての修業道)があり、一日をかけて大和の山歩きも楽しめそうです。大和=奈良という場所は、本当に奥深い場所です。機会があればまた
"大和漫遊"をしてみたいと思っています。
558-6月3日(日)
殺されたネパール国王は、かつてJaponの東大に留学したことがあるそうです。明治維新を研究対象にしたと報道されています。同国王は1972年即位、90年立憲君主制にしました。筆者がネパールを訪れたのは、1978年。まだ前国王が親政を敷いていた時でした。当時ネパールには、毛沢東主義の共産党の存在は知られており、デモやテロが起こり、政治情勢は決して安定していませんでした。
と同時に、一週間ほど滞在したカトマンズでは、たまたま王子の誕生日にあたり、市内のメインストリートを象に乗った王子がゆたりゆたりと行進するという、まるで童話の世界に紛れ込んだかのような世界にも接することが出来たのです。
ネパールは素晴らしい国です。筆者は1カ月以上、インドを旅した後に、ネパールに入国しました。ここは、ビザなしでは一週間しか滞在できませんでしたが、あきらかにインド人特有の刺すような目つきから解放されて、深く安堵したような記憶があります。今回のテレビ画面では、目立ちませんが、ネパールの人たちの顔つきは明らかに、ベンガル地方のインド人の顔つきと違います。細面の日本人に少し似ています。つまり少しだけ、われわれに近い顔つきをしていて、日本人がサリーを着たら、こうなるだろうなという東洋的な美形の女性を多く見かけることが出来ました。
そして何と言っても違うのは、ネパール国民のきめ細かさです。インド人は良くも悪くも、一日中同じことを何度もしゃべり続けて、仕事も少し大雑把。(まあそれが、極東のがんじからめの管理社会で育った若者たちにとっては、最大の"癒し系"になるのですが)。これに対して、ネパール人は、仕事はきっちりするし、服装もどこかタイトで、鋭さが漂っています。
カトマンズという都市の面白いところは、1970年代の世界情勢にとって、"地の果て"だったということです。つまりネパールの先は、西側陣営の人たちが入国できない、"Red Chaina"のチベットだからです。当時のチベットは外国人の入域が厳しく制限されていました。筆者がカトマンズ滞在中、もうすぐしたらネパールからチベットに渡航許可が降りるかもしれないとの噂で持ちきりでした。しかし現実はネパールが最果ての地であることには変わりなく、ヨーロッパから、フォルクスワーゲンのワゴン車ではるばるやってきたヨーロッパ人たちは、もうこれ以上東進することが不可能なため、旅費を稼ぐためか、ちゃんと動くのかどうか妖しいそのワゴン車を売っている光景を何度か目にしました。(ちなみに、現在ネパールからチベットへは渡航が可能だそうです。雑貨店"ナイーフ"の主人の情報によると、バスは途中までしか行ってくれず、あとは"歩き"だそうです! そしてまたチベット圏内でバスに乗るとのことです)
557-6月2日(土)
ネパールで悲劇が起きました。ビレンドラ・ビル・ビクラム・シャー・デブ国王(55歳)を含む王族が、ディペンドラ皇太子の銃乱射とみられる凶行で、多数死去したのです。なんでも、皇太子が結婚したいと望んでいた女性を、母である王妃に拒絶されたから、という分かりやすい理由が、すぐに世界中をかけめぐりました。まるで、事態を予測していたかのような、素早い"原因"解明です。その女性というのは、歴代にわたってネパール王家には、"目の上のたんこぶ"的な存在の家柄を出自としていて、その一統は、王制に対して絶対的な権力をもっているそうです。
その女性の母はインド中部の王族の出身。インドにつながっていることが、ネパール国民に複雑な思いを抱かせているようです(ネパールは南に隣接する超大国インドに対する圧迫感からくる反インド感情が根強いのです)。"犯人"の皇太子も自殺を図り、脳死状態だということが報じられています。新国王はその皇太子に一度継がせて、次に殺された国王の弟に王冠が渡る、との記事も書かれています。国王と弟、この微妙な関係は、古今東西にかかわらず、多くの政争の火種となってきました。Japonでもヒロヒト天皇と、三笠宮の間には、ある緊張感が漂っていましたし、その二代後の浩宮、秋篠宮兄弟にも、同様な何かがあるようです。
王位をめぐる争いなど、前世紀ならぬ19世紀までの出来事と思っていたのですが、さにあらず。地球上に残った数少ない王家では、まだまだ同様の争いが絶えないようです。王制という政治・文化システムは、ひとつ特定個人に大きく還元される比率が高いのです。つまり、王統は継承されなければならず、王制というシステムの中味は、直裁的に、生身の人間の存否そのものなのです。まずは王統(=血統)を絶やさないことが大切なことです。筆者のうがった考えでは、このネパールの悲劇が原因で、Japonの女性天皇を認めるかどうかといった"皇室典範"の改変に少なからぬ影響を与えると思われます。ネパールの悲劇は、この地球上のどの王家に起きても不思議ではありません。今のままでは、30年前から、新しい男子が生まれていない皇室(=天皇制)は、最年少の秋篠宮の平均寿命がつきる50年後には、滅亡してしまうからです。
556-6月1日(金)
カルメンに到着したばかりのスペイン・ワインの情報を。それは、Marques de Riscal 1997 Reserva Tinto (マルケス・デ・リスカル、赤ワイン、1997年産、レセルバ ¥3500)です。
筆者は、コセチャが96年から97年に変わるのを待ちかまえていたのです。ワインはご存じのように、コセチャが違うだけで、同じ畑で出来たものとは思えないくらい味が異なってくるのです。筆者が待っていたのは、評判のいい97年ものです。輸入元のサッポロに、97年ものがJaponに到着次第、納品してほしいと頼んでいたのです。
さっそく、飲んでみました。びっくりしました。若く、到着したてのこのワインは、何事にも代え難い力強さがあります。勿論、ワインは、力強さだけが決め手ではないのですが、この若さは力でもあり、飲む者を圧倒する魅力があるのです。
世の中には、こうしたワインのタイプの若者がいるものです。目がランランと輝いていて、仕事の実績はないものの、面と向かった上の世代を射抜くような力強さを持っている若者が。
同じMarques de Riscal Reserva Tintoの1995年コセチャは、もっと強烈に、若さの力強さがありました。しかし、あまりに力強さが勝ちすぎていために、筆者はしばらくカルメンで瓶熟することを選びました。1年たって、飲んでみると、まだ飲む者を圧倒しています。ワインというのは、飲むこちら側と対話するようにならなくては、食事もおいしくならないものです。2年たちました。ようやく、若さの角がとれて、"大人"になったようです。
Rioja のワインは、1994年、1995年とも、五段階評価の最高点"Excelent"を獲得しています。しかし、風味は違います。94年は、早熟の天才少女型。出来た途端に(=デビューした途端に)、カーネギー・ホールで独奏会をしてしまいそうな完成度の高いワインです。対する95年は、やんちゃ坊主(あるいは、おてんば娘)型。元気すぎて、デビューしたてのころは、大人を困らせていたのですが、天賦の才は衆人一致。20歳に近づいて、少し大人っぽくなった--------という表現をしてみました。
さて、97年コセチャはどう表現しましょう。
555-5月31日(木)
お客様が帰り、閉店準備をしています。筆者を交えたカルメンのスタッフの世間話は、プロ野球の話題でした。A:今日、タイガースが勝ちました。
B:珍しいですね。
C:パ・リーグは?
A:今日は木曜なので試合はなしです。
B:横浜が負けたようなので、阪神は5位のままですね。
C:今年は阪神の低迷とつき合う球団がいるのが不思議。
A:横浜は監督がペケでしょう。なんかというとすぐバントでしょ。チマチマ森野球は、豪快マシンガン打線の"のり"と全く違うので、選手が萎縮しているのではないですか。
B:それにしても、阪神が"定位置"にいないことは意外ですね。
A:これで野村監督も首の皮一枚つながっているのではないでしょうか。
C:というと?
A:シーズン終了までの首の皮一枚でしょう。ずっと最下位のままだったら、シーズン途中で休養でしょうね。3年連続最下位だとね。野村さんは晩節を汚しました。
B:次の監督は誰やろ。
C:とりあえず岡田でつないどいて。
B:その前に田淵、江夏あたりですか。それとも和田がそのまま監督に就任するとか。
A:相も変わらぬメンバーやな。まあ、あの球団はお客さんがほっといても入るから、成績はどうでもいい球団でしょ。テキトーなOB監督を連れてくるのと違います?
C:OBで意外な人やったら、真弓とか、小林とか。
B:掛布監督は?
A:巨人・江川監督、阪神・掛布監督なんて、面白いやろね。彼らは二人とも私とちょうど同じ年齢やから、その意味でも嬉しいな。でも掛布は阪神のオーナーに嫌われているから、監督就任は難しいというのがスポーツ新聞の定見のようだけど。
B:どちらにしろ、阪神の今シーズンは終了しましたね。
C:そうそう、選手をみてたら、「ぼくら消化試合してんねん」という顔してるもんね。
A:そりゃ、あかんわ。
554-5月30日(水)
まるで梅雨のような空模様です。今日は、失敗談を書きます。その失敗から学んだ教訓はこうです。
《メールの返事は即座にだすこと》
筆者のところに来るメールは、カルメンの予約だったり、個人あてだったりします。予約の返答は勿論のことですが、個人あてのメールに返答を出さないでいると、抗議のメールを受けます。これは、筆者がしばらくメールを開けていなかったり、多忙だったりの理由にもよるものですが、どうも筆者自身、メールのスピード感がまだわかっていないようなのです。
メールは早く着く、どんな遠隔地(極端な話、世界の果て)でも、ほぼ瞬時についてしまう(携帯メールは混雑する場合があるので、これは例外)。すぐ着くということは、着信者はすぐ読む、すぐ読むということは、すぐ返事がくる、というメディア環境が出来上がってしまっているのです。だから、メールの返事はすぐに着くはずだ、という感覚があります。
筆者にとって手紙メディアとは、郵便メールを思い浮かべるために、かのメディアは電子メールから較べると、悠長な時間の流れでした。こうした環境に身を置いていた年月が長かったせいもあるのかもしれません。とはいいつつ、抗議メールを発信した人たちは、筆者と同世代。どうも抗議を受ける原因とは、スピード感に不慣れうんぬん、世代うんぬんというより筆者の個人的資質(メールを寝かしてしまう症候群)にあるかもしれません。
しかし、「習慣は第二の天性(パスカル)」。筆者は最近、深く反省し、今日の教訓を守っているのです。
553-5月29日(火)
このところの気温上昇と、雨ぐるみ模様で、拙宅近くのガクアジサイも咲き始めました。ここの家は殆ど剪定などしていないのではないかと思うほど、生成りな状態のままで、樹勢を誇っています。もうすこしたてば、綺麗に咲き誇ります。紫陽花は、神戸市の"市花"。花言葉は決してよくありません。「移り気」とか「変心」だったと思います。花の色が刻々と変化するためでしょう。しかし、この花の魅力を知っている神戸の人は、気にしていないのではないでしょうか。
二年前、奈良の矢田寺に紫陽花の写真を撮りにいったことがあります。少しだけ満開に早かったのですが、ちょうどいい具合に雨が降ってきて、抒情豊でした。今年もどこかの紫陽花を観にいきたいものです。
552-5月28日(月)
カルメンの定休日。今日一日、自宅からそう遠くは移動しませんでした。
昼過ぎ、岡本に用事があったので、筆者のお気に入りの雑貨店"ナイーフ"に顔をだしました。ちょうど主人がいたので、雑談に興じていたのです。
筆者は昔から雑貨大好き人間で、小物を買い集めては至福に浸るという性格なのです。だから少女たちが、ファンシー・ショップに通いつめる気持ちがよく分かるのです。反対にこうしたものに興味がないのは、同居人の女性(妻)で、いくら筆者がアジア雑貨の小物を買ってきて、「これいいだろう」と自慢しても、コップなら「これ、洗いにくいわ」とか、置物に対しては「自分の部屋に置くんでしょ」とかといった反応が殆どなのです。しかし、筆者はくじけずチマチマと買い集めています。
カルメンで使っているグラス、什器類はこの"ナイーフ"で仕入れたものが多いのです。特にワイン・グラスは、スペイン産です。業務用なので強く、耐久性にも富んでいます。このグラス、スペインの雑誌やボテガス(蔵元)のパンフレットなどでもよく見ることができます。また、コーヒーカップも現在、スペインの業務用のものを使っています。何段も重ねることが出来るすぐれものです。これも"ナイーフ"から仕入れたものです。
ここのご主人は、自らヴェトナムやタイに行って雑貨を買い付けに行くという行動派です。いま、ヴェトナム雑貨が流行していますが、彼はブームとなるずっと前から、この国に足繁く通っていたようです。(1980年代は、現地では通訳を同行しないと、ヴェトナムの公安が常に後を付けてきたそうです。まだ"ドイモイ〈=改革〉"が声高に叫ばれていた時代です)。筆者も素朴で肉厚な、どこか中国文化を感じつつも、独自の感度でしつらえられたヴェトナム陶器が気に入っています。彼が3月に買い付けに行った場所は、ハノイ近郊の窯元で、登り窯もあるとのことです。そうです、Japonの茶人が昔から憧憬していた"安南焼き"なのです。
やはり文化というのは、時代を超えて、まずモノの流通から起こってくるものでしょうか。陶器という触感でも味わうことの出来る"文化"に触れることで、思いは深まっていくののす。
551-5月27日(日)
ここ数日、雨だったり、曇り空だったりで、すっきりした天候ではありません。それでも、拙宅の近くのガクアジサイは、一斉に開花準備に入り、緑と白の絶妙の配色美をしばらく楽しませてくれます。ただ、拙宅のガクアジサイは、今年も開花しないようです。リラ(ライラック)は21世紀を待って、開花してくれましたが、ガクアジサイの方は、まだ成長期の途中なのか、大器晩成型なのか、それとも"すねて"いるのか………
話は飛んで、昆虫研究家の話ですが、最近Japonの山が荒廃していて、夜に"誘蛾灯"をつけて、虫を採取していてもなかなか虫たちが集まってくれないそうです。これは山(森)はもともと落ち葉の絨毯でいつも湿り気を帯び、それが生物たちを育てる基層になっているのですが、近頃は乾いている林床が多いそうです。Japonの約7割が山地なのですが、乱開発や道路整備などで、自然の生態系に大きな変化が起きている証拠です。
身近な"自然"に一喜一憂している間に、ほんものの自然がどんどんむしばまれているのです。
550-5月26日(土)
最近、週末はお客様に自家製パンをお出しすることが多くなっています。神戸のパン屋のパンもおいしいのですが、やはり自家製には独得の風味と、密度の濃さが魅力です。スペイン語では、パンのことは"pan"。つまり日本語と同じです。これはカルメンにくるヨーロッパ人のうち、スペイン、フランス、イタリアの人たちには、翻訳する必要がありません。しかし、英国人、米国人には"bread"と言ってやらなくてはならないのです。英語の"pan"は、フライパンを意味するので、"pan or rice?"と聞いてもキョトンとした顔をします。
スペインのパンは、Japonのものより少し固めと思っていただいて結構です。ちょうど自家製(ホームメイド)のパンのようです。そしてパンがJaponの白米の位置に該当する"主食"かというと、そうではなく、筆者の実感ではパンも使用頻度が高い食材のひとつと考えていいかと思います。
筆者が住む東灘区は本当にたくさんのパン屋がひしめいています。過当競争が激しく、腕のいいパン職人がしている店も、近くに大手のパン屋ができたために、潰れてしまったという可愛そうな話には事欠きません。カルメンは、夏になると、ガスパッチョに入れるパンの耳を大量に必要となります。そこで知り合いのパン屋さんに頼んで、分けてもらうことにするのです。しかし、チェーン展開している店は、商品化して売っていて、そう安くはありません。小さなパン屋さんほど、無料で分けてもらえます。
549-5月25日(金)
筆者の小学校は、キリスト教系でした。カソリックのフランシスコ会が経営しているところです。西宮にあります。世界中のカソリック系学校といえば、圧倒的にイエズス会系が多いのですが、筆者がかよった学校は数少ないフランシスコ会系です。この会派は、イタリアのアッシジに本拠があります。今もって"清貧"、"篤実"の修道生活を堅持していることで有名です。筆者が在校している間も、ポーランドやスペインからの修道士が赴任していました。周囲から"にこにこ神父"と呼ばれた修道士がいましたが、筆者は廊下を走るなどしてよくおこられたので"がみがみ神父"と呼んでいました。その神父は、腰かにぶら下げた大きなロザリオで「いい子になる注射」といっては、筆者たちを追いかけてきたのです。
その小学校の初めての卒業者名簿が出来上がってきました。長い間、同窓会にも出席してこなかった同級生の名前と住所を名簿で確認できて懐かしく思っていたのです。すると、面白いことに名簿発刊の機縁で、筆者が属しているメーリング・リストのある人から「びっくりしました。同じ学校だったのですね」とメールが来ました。びっくりしたのは筆者も同じ。さらにこのメーリング・リストにはもう一人、同窓生がいるとのことで、二度びっくりしました。
いやはや、世間というのは、どこでどうつながっているのか分からないものです。その小学校は、2クラスしかなく、クラスメート同士の結びつきは深い方です。頻繁に同窓会を催しているようで、筆者がこれから加齢していくと、さらに結びつきが強くなりそうです。みなさん、世間とは、棄てたものではありませんぞ。
548-5月24日(木)
ワイン・リストを更新しました。作り直してみて改めて感じたことは、カルメンで取り扱うスペイン・ワインは、筆者が心を込めてセレクトしているものの、全スペインのワインの中にあっては、量的には、ごくわずかにしかすぎないということです。例えば、DOの産地でいえば、赤、白、ロゼの産地とも2〜3カ所に集中しています。まあ、白・ロゼについていえば、スペインは白やロゼでDOを取得している産地が少ないこともあって、把握しやすいのです。ただ赤だけは、スペイン各地に素晴らしいDOが拡散しているので、充分カバーしきれていないのが現状です。
リオハ、リベラ・デル・ドゥエロ、ペネデス……といったよく知られた産地だけでなく、多くの優れた赤ワインを取り扱いたいのですが、いかんせん在庫スペースの問題とか、そう多く在庫を持っても、はける量を考えると、飲みごろを過ぎてしまうおそれもあります。
スペインは、フランス、イタリアに続いて世界第三位のワイン産出国です。若い人の中には、ワインをあまり飲まない傾向にあるようですが、やはり日常生活の中で、深く浸透しているアルコール飲料であることは確かです。そしてスペイン・ワインは、なんといっても食事をたしなみながら飲むのが一番美味しいのです。すなわち、カルメンに来て、飲んでいただくのが一番です――と今日は宣伝文句を謳ったところで、この日誌を閉じます。
547-5月23日(水)
貝原俊民・兵庫県知事が辞意を表明しました。彼をみていると、ひとつの箴言を思い出します。「カエサルのものはカエサルへ」。これは、イエス・キリストの言葉です。さまざまな解釈が可能ですが、筆者は「私は愛を説く者である。政治のことは、政治家に任せるのがいい、私は知らない」と理解しています。つまりイエスは、政治そのものに宗教家がコミットすることを避けた、距離を置いたと解釈できます。
貝原氏は、宗教家ではないので、政治を託された"カエサル"の側の人です。貝原知事は、"能吏"なのです。兵庫県の知事になる人は、能吏=カエサルの側の人でいいと筆者は思っています。
といいますのは、兵庫県という自治体は、明治政府が国策で造った人造県なのです。いまの県域にあたる五つの地域がひとつの行政体を構成する地政学的な必然性は見あたりません。国が無理に造ったというのは、初代県令(今の県知事)が伊藤博文であることでも明らかです。神戸という外国に開かれた自治体は、「雄県」でなければならないとする国家の意思が働いているのです。そのためか、明治時代の中頃まで、県知事は、薩長土肥の出身者が多かったようです。
うがった考えでは、坂井時忠前知事と貝原現知事は、共に佐賀県出身。つまり肥前=維新連合軍のかたわれの出身が今もって兵庫県を統治しているということになります。国が造った県です。そうした県は、国が面倒をみるのが"筋"というものです。まあ、"外様"が知事になることのプラス面は、県内の地域感情が「対立感情」として表面化しないということでしようか。もともとこの県の地域対立感情はない方なのですが。
兵庫県庁内では、"能吏"ではない県職員は出世できません。単なるイエスマンや、ごますりは、貝原知事にすぐ見破られてしまうからです。庁内には、ピリピリした雰囲気が漂っています。知事は、職員の誰よりも県政のことを知悉しているのです。無能であることは、生理的に許さないのでしょう。そして、彼がカエサルの側の人間だからといって、人間の世界、抒情の世界に疎いということではありません。貝原さんの文化行政は華やかさはないものの、細かな目配りがされています。この分野でも、着実なのです。
兵庫県政というのは、中央(政府)の施策をいち早く採り入れて、実施するという国施策のパイロット的な自治体として、優等生的位置にありました。中央省庁からの落下傘組は、(当の貝原知事を含めて)その人数は、常に全国自治体の中でもトップクラスです。震災まで、中央省庁からの出向組が皆無だった神戸市政と大きく違います。
しかし、こんな兵庫県政に大きなターニングポイントが訪れたのは、言うまでもなく、阪神大震災の経験です。それまでは、中央にとっての"優等生"で、中央の意向に叛旗をひるがえすということはしない"大人の"県政を展開していたのですが、震災の被害にあってそうとは言ってられなくなりました。つまり国家は徹底して個人補償はしないとの方針を変えません。しかし、震災に続く不況の風に晒されて呻吟している多くの県民を前に、「国はこない言うてますので」とではすまないのです。さすがの"優等生"も国に注文をつけるようになります(とはいっても"尻(けつ)をまくる"というほど強い調子ではありませんが)。
今度の辞意表明は突然のような印象があります。貝原氏なりの思いがあるのでしょう。震災は彼が知事だったからこそ、乗り切れたのかもしれません。約1万人いると言われる大組織の県庁は、だれ始めるとブレーキがきないものです。県職員という人たちは、放っておくと、間違いなく県民に対して威張り始めます。これは日頃接している業者に対する不遜な態度の延長を県民に向けるからです。それに若い職員でさえも、"生"の県民を知らなさすぎます。トップに仕事師の知事がいるからこそ、尊大な県職員も少しは自制していたのでしょう。
貝原県政の14年間は、ほぼ筆者の結婚生活の年月と符合します。なぜこの両者が結びつくかというと、貝原さんは、我々の結婚式に来賓として出席くれたのです。16年前です。彼はまだ副知事。当然、次期知事候補の筆頭格でした。そして知事選に出た時の肩書きは「神戸日西協会」理事。言うまでもなく、Japonとスペインとの交流を促進する団体です。この団体は今でも盛んに活動していて、事務局は21世紀ひようご創造協会にあります。
さて、ポスト貝原はいったいどうなるのでしょう。筆者は、50歳代前半の県職員(部長職)に有能な人がいることを知っています。現在は、またぞろ(県出身とはいえ)旧自治省出身の副知事の名前が知事候補としてあがっています。いやはや、筆者は「カエサルのものはカエサルへ」とは言っているものの、こうも構造的に、中央省庁出身者が、知事候補としてまつりあげられる兵庫県とは、いったいどのような存在なのでしょう。130年以上たっても「国策県」から脱却できないのでしょうか。
546-5月22日(火)
昔々、スペインのワインをはじめ外国の酒類を輸入することは大変なことでした。1ドルが360円の固定ルートの時代は、情報も少なかったこともあり、例えば舶来モノのウィスキーというだけで、質の如何にかかわらず、崇められたものです。(筆者の若いころは、ジュニー・ウォーカーの黒ラベルがやたら高く、舶来モノ信仰のご本尊のような位置づけでした。外国渡航のお土産にもらうと、それはそれは自慢したものです)。カルメンの創業当時(昭和30年代)は、このような理由から、スペインのワインは置いていませんでした。ところが、時代が変わり、Japonの経済や"YEN"が強くなると、大手の酒類会社が、世界各地の酒を買い付けるようになるのです。時代がすすみ、さらに"YEN"が強くなります。何度かのワイン・ブームを経過して、Japonの人たちのワインについての知識も、豊かになりました。いい意味で舶来モノ信仰がカラカラと音を立てて崩れはじめます。
そして今、スペインのワインを取り扱うインポーター(輸入業者)が増えてきました。これはレストランを経営する側にとっては、福音です。スペインというのは、DO(原産地呼称)ワインだけでも、本当に沢山の産地があります。おそらく、筆者でさえ、すべての産地のワインは一生かかっても飲みきれないでしょう。
今日たまたま、カルメンに二人のスペイン・ワインを扱うインポターの人が別々に来店しました。その一つはスペイン・ワインを専門に扱っている(!)という業者です。まあ、本当に時代は変わるものです。スペイン・ワインが高価すぎた時代から、40年後には、この関西にスペイン・ワインを専門に取り扱う商社が出現するなんて!
筆者としては、スペイン・ワインを扱うインポーターの人たちを、なるべく支援していきたいと思っています。筆者は気に入ったワインがあれば、30ケース、50ケースまとめ買いするタイプです。ただ、問題は価格。カルメンは、他のスペイン料理専門店より、ワイン価格を安くしている店です(約30%安いと思ってください)。これは美味しいワインをより多くのお客様に味わっていただきたいとの、老舗レストランの"意地"とでもいいましょうか。その分、インポーターの人たちには、「美味しくて、値段がはらないもの」を要求することになります。
ワインは西洋文化と共に、歩んできた素敵な飲み物です。料理と一緒に飲むと、素晴らしさが倍加されます。そしてなんといっても食事をするその場が楽しくなり、人生もまた楽しくなるのです。
545-5月21日(月)
カルメンの定休日。起きてすぐ、FMわぃわぃ「南の風」の番組の仕上げ。今日の放送は、名瀬市在住の間(はざま)弘志氏へのインタビューを中心に構成しました。(今年一月、奄美で録音したものです)。
テーマは、「奄美ルネッサンス」について。人は、飢えて、食べるものにも困っている時にこそ、心の飢えをいやす創造性を発揮するのかもしれません。米軍統治下の奄美(1949-1953)がちょうどそんな感じでした。特に演劇、文芸のジャンルにおいてめざましい活動が展開されたのです。
間氏は、伊集田実氏の研究を媒介に、奄美ルネッサンスの実態をあきらかにしていきます。今、彼が興味を持っているのは、「熱風座」(主宰・伊集田実)の動向です。この劇団は奄美でたいへん評判をうむのですが、沖縄へ行っても他の奄美生まれの劇団とともに、「大島劇団」と呼ばれ、評判だったようです。しかし、残念ながら、「熱風座」は、沖縄公演の最中に流れ解散のような形で、歴史上から姿を消します。このところの経緯をつまびらかにすることによって、間氏はもういちど「ルネッサンス」の実態を明らかにしようと考えています。
間氏は緻密な研究態度が評価されていて、今後も研究成果が注目されます。
番組終了後は、JR鷹取駅から、一挙に大阪ミナミへ。角座近くの"トリイホール"というミニホールで行われたダンス(舞踏)の公演を見に行きました。"Dance Box"と名付けられた同ホールの自主企画で、もう63回目だそうです。出演したのは、「若木佳子」「今貂子+倚羅座」「クルスタシア」の三組。筆者はもともと学生時代から暗黒舞踏が好きで、よく見てきたほうですが、今回の三組はそれぞれタイプがまったく違い、その差異も楽しめました。
まず「若木佳子」。モダン・ダンスの基礎がちゃんと出来ている人で、ホールの使い方や、身体の表現の仕方に安定性がみられます。一人で25分踊るのですから、そうとうの表現力がなければ無理でしょう。"舞踏"ばかり見てきた筆者にとっては、新鮮であり衝撃的でした。顔の表情も豊かで、一人芝居(無言の)の気配もして、見応えも充分です。
「今貂子+倚羅座」。筆者が目的としていたのが、この舞踏集団です。座長の今貂子さんは、かつて京都にあった舞踏集団「白虎社」の出身。まさに筆者が愛した"暗黒舞踏"の流れそのものです。座員は20代の女性が三人。服装や、踊りの運びなど、涙が出てくるほど、嬉しく懐かしい構成です。バックに使っている曲が、ブリジット・フォンテーヌの「ラヂオのように」。筆者が学生時代に流行したアルバムです。(かつて京都の百万遍に"彷徨館"という喫茶店があって、筆者はそこへ行くと必ずこのアルバムをリクエストしていました)。いつか、この「今貂子+倚羅座」にカルメンで踊ってもらおうと思っているのです。
「クルスタシア」は、20代の女性二人。ダンス・パフォーマンスという形容がぴったりします。舞台いっぱいに、激しく動き回ります。若さの限りといいましょうか。長い髪、きれいな長い脚の二人が、ここぞとばかり踊り、舞うのです。彼女たちのスピードとパワー。これに較べると「倚羅座」には"ぎこちなさ"があります。身体動作の"不具"を通して根元に到達しようとする試みが随所に見られます。「クルスタシア」が身体動作の可能性を探るものだとすると、「倚羅座」は、身体を通して見えてくるもの=精神=根を表現しようとしているのかもしれません。
三者三様のダンスを見ることができて、筆者には随分刺激的でした。それにしても今晩の出演者は全員女性。若い男性のダンサーたちは、どこにいるのでしょう。ヒップポップなどの、"流行"に収斂されてしまい、より形にとらわれない想像性豊かなダンスをしている人は少ないのでしょうか。
544-5月20日(日)
気持ちよく晴れ上がった一日です。
ところによっては、30度まで気温があがるところもあるようです。筆者はある新聞に今年1年間、隔月でコラムを書いています。1回分が原稿用紙5枚程度。今日の未明、ようやく第三回の原稿を書き上げて、メールとFAXで新聞社へ原稿を送ったばかりです。ホッとしています。原稿が書き上がるまで、本当にちゃんとまとまるのだろうか、ビクビクし通しなのですが、いざ脱稿してみると、途端に気が大きくなり、天下を取ったような気分になるのも不思議なものです。
コラムに使う写真を新聞社に向けて速達で送った後、ダイエー三宮店7Fのジュンク堂書店をのぞいてきました。購入したのは、スペインの料理書『エル・ブジ―究極のレシピ集』(監修/フェラン・フドリア、日本文芸社)。フェラン・フドリアは、スペインでは、ヌエバ・コシーナ(新傾向のスペイン料理)の旗手として、著名な人です。日本料理の手法(てんぷら、焼き鳥)も採用した一風かわった料理手法です。
ジュンク堂ダイエー店は、広いけれどワンフロアーなので、違うジャンルを行き来するのに、便利です。そして時に、筆者の興味のないジャンルの本の棚を眺めるという楽しさもあります。でも、この店があまりにも広いために、ある女の子が幼児書コーナーから「♪お父さんは、どこにいるの〜♪」と歌いながら、探していました。微笑ましい光景です。お父さんというのは、子ども達が幼児書コーナーにしばらく張りつくなと確認すると、ついつい自分の興味のある棚に向かうものなのです。それから、もっと小さな子ども(寝ている!)をおんぶしながら、書棚を眺めるお父さんの姿も数人、認めました。やはり、日曜日ですねぇ。
543-5月19日(土)
新しいi-Bookを星電社に見に行きました。全体が小振りに出来上がっていて、キーボードの大きさは、いま筆者が使っているi-Bookとそう変わりません。形は四角といういわゆるノートブック型となり、重さも2.4キロと軽めです。
性能がどのように向上したのか、少し分かりずらいのですが、白の一色だけで、カラーバリエーションはありません。マッキントッシュという会社は、アメリカの企業ゆえに、製品のつくり、発想もアメリカ仕様です。まあ、パソコンそのものも、アメリカ文化そのもので、失敗を怖れず、新しいものを採り入れる間口は広いのですが、突然、何の前触れもなく、フリーズしたり、故障してしまう。
つまり、パソコンを上手に使いこなすには、自分でルールを作っていく必要があります。そうでないと、失敗を重ねるばかりとなる、ということです。一方で、Japonの電気機器の場合、入り口のところで、こと細かく、こうるさいほどに、説明が機械を触る前に、附帯してきます。これもまたJapon文化の一端なのでしょう。
542-5月18日(金)
開店前の午前11時半に、7人づれのお客様が来店されました。ガスパッチョを全員所望され、ゆったりと食事。お年をめした婦人ばかりですが、「やっぱりワープロと違うわね」と、パソコン操作について話題が盛り上がっていました。どうやら文芸サークルのようです。高齢者こそ、パソコンを楽しむべきとマスコミはよく書いています。筆者もその意見に賛成です。孫とメールで交換したり、仲間同士、文芸結社内、または家族・親族でメーリング・リストを運営するのが当たり前の時代になっていくでしょう。メールは、携帯なら電話線は不要ですし、またどんなに遠隔地でも、電話さえつながっていたら、メール交換は出来ます。
手紙や葉書を書き、切手を貼り、郵便ポストに投函するという行為もまた楽しいものですが、メールの手軽さには及びません。最近、NHKのラジオを聞いていると、リクエスト・意見などはメールでの受け付けが始まったようです。NHKラジオといえば、どちらかというと、その聴衆者はメールを使っている人たちと無縁のような人たちが多いのではないかと思ってみたりもするのですが(失礼!)、時代の波は着実に変化しています。
541-5月17日(木)
今日、携帯電話を拙宅に忘れてきてしまいました。最近、携帯電話の出会い系サイトで知り合った男女交際のトラブルが続いています。京都では女子大生が、25歳の男性に殺されるなど、出会い系サイトで気軽に知り合い、交際することの怖さ、危険性が指摘されているのです。
出会い系サイトは、一度も使ったことがないので、筆者には語る資格はないのですが、昨日のテレビ・ニュースでインタビューに答えていた10代の少女は、多いときには一日で200回もメール交換することを聞いて、ただただビックリしてしまいました。(昨日も帰宅してみると、机の上に、息子が通っている公立中学校のPTAから配られた、子どもの携帯電話の使用についてのアンケート用紙が置いてありました)。
こうした"携帯世代"の少年・少女たちは、携帯を家に忘れて外出するだけでパニックになるそうです。携帯こそが外の世界とつながっている重要なメディアだと位置づけているからでしょう。携帯を持ち慣れていると、ちょっとした外出でも、持参しないと不安になるものです。筆者でさえ、駅に向かう途中で忘れたことに気付くと、とって返すことがあり、おかげで一本電車が遅れてしまうということがたまにあります。
しかし"携帯世代"でもない筆者の携帯は、電話、メールとも鳴らないときが、何日も続くことがあります。寂しい限りです。しかしこの"寂しさ"が曲者で、いつもメールが来るように、メル友を捜したり、友人に一行メールを多発する羽目となります。筆者はまだメールが来なければ、来ないで一日が過ぎる人生の方がはるかに永かったために、メールが来ない日も耐えられます。筆者の使用頻度は、まだまだ「持つことに異議あり」タイプのものなのでしょう。
筆者はそれでも、i-Modeで発信できるギリギリの250文字による"携帯ミニ通信"をこまめに友人各位に発信しているほうです。いつかこの話をしたいと思っています。
540-5月16日(水)
では、昨日に引き続いてスペインワインの評判記を書きましょう。Castilla y Leon地方のDOで、Toro(トロ=雄牛の意味)ほど注目されている産地はありません。去年も少し触れましたが、評価が上昇していることで知られています。ここの気候は、全くの内陸性気候で、夏には一日の寒暖差が20度近くになります。このためブドウの成育には適しているようですが、果皮が厚くなり、かつてはアルコール度数17度にも達するワインが造られていました。ほとんどシェリー酒に近いきついワインです。よく言えば野趣ゆたかな風味、普通に言えば、野暮ったい田舎ワインが造られていたというわけです。
それが近年になって、Revera del Duero のBodegasが、Toroに注目するようになり、ここの畑を購入。グレード感の高い赤ワインを造るようになったのです。もともとこのDOは標高600メートルほどの"スペインの黄金郷"とも言われワイン造りには、またとない適地なのです。そしてワインも年々品質が向上していて、いまスペイン国内で最も注目されているDOの一つといっていいでしょう。
次は、Bierzo(ビエルゾ)について。ここは、Castilla y Leon地方の西北部にあたるDO。山一つ越えると、ガリシア地方になるという、山脈に囲まれた盆地状の土地柄です。赤ワインが主です。ここのワインを特徴づけているのは、メンシアという品種(黒ブドウ種)です。スペインの赤ワインは、テンプラニーリョという品種を使っている産地が多く、今日書いたToroもまたテンプラニーリョが主流になっています。ところが、ここだけは、メンシアという独立系の品種をメインに据えているのです。
アロマからすると、カルネラ・ブランに似ているという説がありますが、DNA鑑定をした結果、どうも類似点は見つからなかったようです。固有種とみていいでしょう。ここのCrianzaを試飲しましたが、確かにテンプラニーリョから醸し出されるアロマとは違うソフトな感じが特徴です。またCrianzaで18カ月以上樽熟をするというのですから、Rioja よりも永く樽熟をし、Reservaに近い時間をかけていることが分かります。
ここはまだインポーター(=Japonの輸入業者)が決まっていないようです。この試飲会にはカルメンがいつもお世話になっているインポーターのコートーコーポレーションの大橋さんを誘っていたので、二人で一緒に各ブースを回り、プロがどういう判断を下すのかを勉強させてもらいました。
最後は、Cigales(シガーレス)。本当のことを言うと、筆者はここのRosadoを飲みたいがために、今回の試飲会に参加したようなものなのです。と言いますのは、去年の試飲会では、シガーレスのBodegaが、見本商品を飛行機に乗せられなかったのです。要は間に合わなかったのでチョンボなのですが、スペインでは数少ないRosado でDOを取得している産地です。少々高くても仕入れようと思っていたのです。
ところがところが、今年は商品の積み忘れはなかったものの、なんとRosadoは持ってこなかったというのです。「なんやそれ!」と関西弁が思わず出てしまいました。ところが、最近、もともと赤ワインの国・スペインでも世界的な赤ワインブームに影響されて、Rosadoは飲まなくなったというのです。「ああ、もったいな」とまた関西弁。最近では、このDOでも赤ワインを造るようになったのです。面白いことにここは、ここには樹齢が何百年とあるワインの樹があるそうです。老樹というのは、収量は落ちるものの、濃いティストのブドウ酒が出来るとのこと。偶然か、ここのRosadoは、赤ワイン品種を使用していたので、それが功を奏しているのだそうです。
「私はCigales のRosadoが飲みたかった」とスペインからやって来ていた(御曹司と思われる)若きダニエル・ハーネス・ヴィラール君に直訴したところ(スペイン語の通訳を介してですが)、サンプルを送ると約束してくれました。ただ、このBodega(Frutos Villar)もまだインポーターが決まっていないということです。楽しみに待つことにしましょう。
インポーターの大橋さんと並んで試飲して感じたことは、最近のスペインのワイン造りの傾向が、ソフトな飲み易さを追求するあまり、ワインの力強さに少し不安が残るという現象が起きているということです。といいますのは、最近スペインでは、樽熟の際に、よりソフトな味となるフレンチ・オーク樽を使うことが徐々に浸透しているようです。かつてスペインの一般的な傾向としては、アメリカン・オーク樽にねかせ充分アロマをつける、しかも樽内側をスモークさせるという念の入れようでした。ところがこうしたスペインらしさが、"田舎臭い"と大消費地のアメリカなどで嫌われたために、「都会向け=アメリカ向け」にソフト化を進めているようです。
ところがこうした傾向は、Japonでいえば、80年代の焼酎ブームと一緒で、売るために、都会向けの商品をつくり一時的には、売上げを伸ばしても、ブームが去ってしまうと、その土地・風土に培われ、育てられた酒でないものは、簡単に「消費」され、忘れ去られてしまうのです。いまスペインは、EUの経済統合に向けて、"外"に目が向きすぎているのかもしれません。ワインが美味しくなるのは、大いに賛成ですが、大資本がからむことによって、味が変質し、本来の味がなくなってしまうことは残念なことです。スペイン・ワインはいま正念場なのかもしれません。
539-5月15日(火)
沖縄「返還」の日。
でも今日は、スペイン・ワインの話をします。筆者は、大阪・心斎橋にあるホテル「日航」で行われたスペイン・ワインの試飲会に参加しました。これは去年も同じ場所で開かれたもので、Casttilla y Leon 地方のワイン・ボデガスが主催しているものです。
Casttilla y Leon 地方というところは、スペイン語(=Casttilla 語 )が話されている地域であり、現在のスペイン国の原型となったのが、このCasttilla 国と Leon国の合併でした。ですから、もっともスペインらしい地域といえるところで、中国でいえば中原、Japonでいえば、畿内といったところでしょうか。
ここには五つのDO(原産地呼称産地)があります。Rivera del Duero、Rueda、Toro、Cigales、Bierzoといった地域です。Rivera del Duero(リベラ・デル・デュエロ)は、スペインで一番高価な値段がついている赤ワインの産地といっていいと思います。著名度ではRiojaにはかなわないのですが、Rivera del Dueroこそ、衆目の一致する高級ワイン産地として、評価されています。たしかに、ここは、Riojaを凌ぐほどの、高品質と、製造過程の近代化によって、素晴らしいワインを製造しています。そしてJaponにくるRioja産は、vino de mesa(テーブル・ワイン)レベルのものも交っているために、Rivera del Dueroのものは、厳選された感があり、"安物"というイメージはありません。
続いてRueda(ルエダ)についてですが、ここはスペインでも珍しい白ワインだけで、DOを取得している産地です。スペインに固有なヴェルデホ種が主で、あとヴィウラ種、ソーヴィニオン・ブランといったフランスからの移植品種も植えられています。ここは、ソレラ方式で白ワインを造っていました(=つまりシェリー酒的手法で造られる方法で、Riojaでは今でも、この手法で白を造っているBodegasは多い)。ところがRiojaの大手蔵元のMarques de Riscal が1970年代に、このRuedaで近代的な温度管理による白ワインづくりに着手して、みるみるうちに成果をあげ、新しい白ワインの産地に変貌していったのです。新しいルエダの白は、フレッシュ アンド フルーティ。とても爽やかな飲み口です。カルメンはもうすぐ、このルエダの2000年Cosechaを仕入れる予定です。
さてさて、楽しいワイン談義。まだまだ続きますが、今日はここまでにしましょう。続きは明日。それぞれのDOの評判を書いていきましょう。
538-5月14日(月)
カルメンの定休日。久しぶりに映画を観ました。「ハンニバル」。
筆者としては、珍しくハリウッド映画です。といいますのは、一緒に映画を観た同居人の女性(妻)に、こむつかしい芸術系映画をみせて(筆者はそっちの方が好みですが)、映画館に足を運ぶこと自体嫌になるのを防ぐためです。このため、二人で観に行くときは、・ストーリーが分かりやすい・登場人物が有名・テレビ、新聞で盛んに宣伝している……といった基準で選ぶようにしています。
さて、「羊たちの沈黙」の続編である「ハンニバル」。前回主演女優だったジュディ・フォスターが今回出演しなかったのが、大きな謎とされています。前作では、ジュディ・フォスターのキャラクターが強烈だっただけに、今回のジュリアン・ムーアの世界に入り込むまで、時間がかかります。
また、同居人の女性(妻)には、「Xファイルのようなもの」と説得して連れてきたものの、アンソニー・ホプキンス演じるレスター・ハンニバルの衝撃的な犯罪シーンの多発に、もともと免疫力がない人だけに、かなりショックだったようです。
映画はまだ上映中なので、ストーリーは観てのお楽しみとしますが、まず今回の舞台となったフィレンツェという都市について話しましょう。筆者も学生時代、この都市を訪れたことがあるのですが、「花の都」と言われているわりには、街全体が薄汚く、ゴミもいっぱい散らかっていたのには、がっかりしました。まだヴェネッツィアの方がずっとましでした。
レスター教授は、この古都の図書館(?)で正規研究員となるべく「縊死」が歴史的にどう描かれたを講義するのです。紀元前から絵画や陶器に描かれた「縊死」の変遷を見事に解説していきます。「縊死」の図像といえば、キリスト教美術において、ユダの最期を描いたシーンがまず思い浮かびます。レスター教授は、時代が下るにつれて、ユダの縊死図に血が描かれるようになったり、内蔵が露出したりするシーンが見られることを、解き明かしていきます。その講義は見事なものです。そして、これが後の映画の進行において大きな意味を持ってくるのです。
この映画をみていて、感じたのは、アメリカのイタリア観についてです。アメリカ映画を通してみえてくるアメリカ社会のイタリア観というのは、ひとつの固定観念に支配されているように思われます。筆者なりに表現すれば「イタリア文化の歴史的重層性については、敬意を払い、羨望もするが、現実のイタリア人に対しては、どこか侮蔑の態度を示している」といったものです。
一方、「ハンニバル」にはJaponが何度か出てきます。一つは、レスター教授がFBI捜査官に送りつけた手紙に込められた香水の匂いに、鯨から抽出された香りが認められ、それを使った香水が売られている世界中の店を列挙するとき、まずJaponの名が上がった時。Japonが鯨を摂取して、様々な分野に利用していることが西洋社会で認知されていることが分かります。
二つ目のJaponは、フィレンツェの観光客に多くの日本人観光客が交じっていたこと、そしてレスター教授がアメリカに渡ってきた時、店の店員が使っていたのが日本語でした。そして三つ目。直接はJaponそのものではないのですが、フィレンツェ警察の吏員が、箸を上手に使ってヌードルを食べていたこと。そして最期は、ラストシーンでレスター教授が、東洋(Japon?)に向かうと思われる飛行機に乗っていたこと。(レスター教授の周囲はほとんど東洋人だった)。
アメリカ人は、Japonに対しても、イタリアと同じように、自分の国と異なる文化があることを認知している姿勢がうかがえます。ただ、こうした映画では、イギリスやフランスといった国や文化は登場せず、アメリカ文化にとってより他者であるJaponやイタリアが登場するというのも、アメリカが両者を等距離的な異者として認知している証拠なのかもしれません。(イギリスやフランスはアメリカ文化にとって、かつての"異者"だったのでしょう。しかし、映像文化の中では、"異者"としてのイギリス、フランスは消費しつくしてしまったのかもしれません。)
537-5月13日(日)
先日の読売新聞「顔」欄に、韓国を代表する詩人、高銀(コ・ウン)が登場しています。この人は、永く民主化闘争の象徴的な人物として位置づけられていました。インタビューでは「日韓知識人会議」の創設を提唱しています。全羅道生まれのこの詩人は、過去何年にもわたって韓国当局によって投獄されるなど厳しい人生を歩んできました。Japonでは、金芝河とならんで、韓国の良心を代表する表現者として、著名でした。1993年になって、韓国政府は、高銀に対して、海外渡航を許可する旅券を発行します。以後、羽根がついたように世界中を放浪したそうです。「日韓知識人会議」の構想もこの放浪の時に考えられたとのことです。
ここで考えられるのは、高銀は、世界放浪の旅を求道として捉えたのではないかということです。といいますのは、筆者の愛読書のひとつに、高銀著『華厳経』があります。この教典は、真の理法を求めて、ある若者が旅を続けるということがベースとなっています。高銀は、『華厳経』を初めて小説にしたのです。おそらく、自分も『華厳経』の思想になぞって世界中を流浪することを理想にしたのでしょう。
536-5月12日(土)
今週から、ガスパッチョを始めました。![]()
Gazpacho Anderluz
夏の冷製スープです。最近、様々な料理書にも登場するようになり、フランス料理店でも出すという"越権行為"が見られるほどです。このスープは、アラビア人が作りだしたとされ、一度も火を使わずに作るという極めて"錬金術"的なスープです。
もともとGazpachoという言葉は、「びしょ濡れのパン」という意味で、とろみを付けるために、パンを入れます。スペインでは少し固くなってしまったパンをいれています。カルメンでは、パンの耳を使います。Gazpachoだけでは、弁当という意味も含まれているため(かつて、東京の神田神保町に"ガスパッチョ"というサンドウィッチ屋さんがありました。これは弁当という意味でしょう)。スープの場合は、下にAnderluz がつきます。
このスープはアンダルシーアで生まれました。夏になると摂氏40度を越える日もある同地方では、こうした冷たいスープが重宝されるのです。
毎年、カルメンの"ガスパッチョ開始"を待っていただているお客様が大勢いらっしゃいます。お待たせいたしました。いよいよ、カルメンも夏に向かってスタートです。
535-5月11日(金)
昨日、京都・嵐山で熊(ツキノワグマ)が射殺されました。射殺されたのは、体長1.1メートル、体重約60キロのオス。嵐山の観光地を四時間ほどうろつき、危険と判断した京都府森林保全課は射殺を決意したとのことです。
これに対して、反発の声が上がっていて、この熊は最近、付近をうろついていたことが目撃されているものの、人間に危害を加えたわけではなく、人里に出てくるだけで、射殺していいのかという意見です。
熊は"テディ・ベア"といった形にデフォルメされ愛玩の対象となるなど、子ども達に人気があります。童話・絵本のなかでは、愛らしく描かれ、熊さん一家が主人公になった話はいくつでもあります。森の住民の中では、一番大きいものの、どこかとぼけたイメージがあって、憎めないというキャラクターが付与されているのです。その熊さんを現実社会では射殺するなんて……というところでしようか。
こうした反発は、なぜ麻酔銃を使わなかったのかという疑問や、そしてしばしばこういう時に射殺を担当する役割の猟友会の人たちへの嫌悪にもつながることがあります。
筆者も簡単に熊を殺してしまうことに素朴な疑問がわきます。といって、射殺すべきではないとも考えません。神戸・六甲にはイノシシが多く棲息していて、実際に2度ほどイノシシに襲われた経験を持つ身からすると、動物愛護よりも、その場の襲われている自分や仲間を守ろうとするのが、当然のことです。それが射殺につながっても仕方ないことです。(もちろん、なぜ動物たちが山や森の中で人間と遭遇することになったのかということは考えなくてはならないのですが)。
そんな経験を持っている筆者でも、今回の射殺は「またか」といった印象です。そして次に思ったのが、射殺した熊を前に得々とした表情をみせる人たちへのある一種の反発です。これは嫌悪といっていいかもしれません。
考えてみると、こうした嫌悪感の背景には、狩猟そのもの、狩猟民に対する感情が働いているのかもしれません。これは筆者の身体に流れる農耕民族の血なのでしょう。生きしものを殺して、自分たちの生が成り立っていることは自覚せず、現に生命あるものを殺す者とその事態に対して反発する――そんな自分の思考回路に気付き、考え込んでしまいました。
昔のJaponの住民にとって、熊肉の刺身は最上の馳走だということを聞いたことがあります。現在の山奥の旅館にて、海幸である魚の刺身が出されるのは、旅館側のパターン化した食事観だけに帰因するのではなく、こうした熊の刺身という山幸馳走の記憶が残っているからではないかということを書いた本を読んだことがあります。
535-5月10日(木)
"自分"という言葉があります。関西では、一人称のほかに「あなた」「君」を意味する二人称として使う人もいます。筆者はこの用法で"自分"は使わないのですが、周囲に使う人がいます。「この前、自分、梅田歩いとったやろ」といった使い方です。
先日、テレビを見ていると、この使い方をしているタレントがいました。藤原紀香。この人は西宮出身、学校は大学まで、神戸の学校でした。見ていた番組は、紀香が司会役をつとめて、東京のタレントがゲストでした(いや、歌手だったかな)。そうした東京ことばを使う人たちに交じって、「自分」を会話の中で連発するのですから、筆者とともにその番組を見ていた同居人の女性(妻)と、思わず顔を見合わせてしまいました。ちなみに同居人の女性(妻)は"大阪ネイティブ"なのですが、二人称としての「自分」は使いません。
関西でどのような人がこの"自分"を使い、どのような人が使わないのか、把握していませんが、紀香のように、堂々としゃっべっている姿を見ると、果たしてどれだけ視聴者に「自分」という表現が伝わっているのか、疑問に思ってしまったのです。といいますのは、同じ関西人でもこの「自分」に異和感を持つ人が少なくないからです。
まあ、紀香のようにあれだけ堂々と関西弁(というより、神戸弁と西宮弁の交じった言葉使い)をテレビ電波に乗せているのを見ていると、同じ"神戸美人系"で売り出している浅野ゆう子と較べる時、時代の少しの違い(=東京に出たら、出自の言葉は電波に乗せない)とする姿勢に変化がみられるのかな、と思ってみたりもします。
534-5月9日(水)
プロ野球ニュースに異変が起きています。どのテレビ局もトップは、イチローと新庄の動向をキャッチ。連続ヒットが続いているか、新庄がどんなユニークな発言をするのかに注目しています。この二人、どちらも関西の球団出身。イチローは優等生なのか、肉声はあまり伝わってきません。むしろ新庄の脳天気な発言に人気が集まっているようです。
筆者は、タイガース時代の新庄は好きではありませんでした。阪神病にかかった選手らしく、なにがなんでも勝つんだというやる気が見えず、打つには打つけど、ちょっとピントがづれているところで打つ。この人、考えて野球をしているのかしら、といぶかしく思っていました。
ところが、アメリカに行った途端、水を得た魚のように、 大リーグの選手生活を楽しんでいるようです。面白いものです。今のJaponの野球は"スポコン"そのもので、少し肩の力が入りすぎなのかもしれません。新庄のようにな〜んにも考えないタイプの選手には、しんどい雰囲気だったのでしょう。
それにしても、かの西宮にフランチャイズがある球団、すでに定位置に鎮座ましましています。不動の最下位。脱出は可能なのでしょうか。去年は四月末にたまさかでも首位に躍り出たことがあったはずです。今年は一度も浮上することなく、深海に沈んだままです。この球団を引き揚げるプロジェクトは技術的に困難なのでしょうか。米国海軍に依頼するというのはどうでしょう。
533-5月8日(火)
六甲の山々を眺めていると、ちょうど今が緑あざやかな季節であることが分かります。"緑の競演"とも言うべきでしょうか。昨日も、山手幹線から阪急岡本駅に向かって歩いていると、駅舎の背後の山並みの緑が燃えているように自己主張しています。このあたりは、東灘でも阪急、JRが一番山裾を通っている場所なのです。時間をつくって六甲の山に分け入り、"山中他界"気分を味わいところですが、なかなか心の余裕がないのと、深夜までパソコンに向かっているので、朝早く起きられず、実現しないのです。神戸は、街からすぐ近くのところに山があるので、登山という実践的に山と接する行為をしていなくても、毎日山を眺めているだけとか、あるいは日常風景の中に山があることをなんとなく認識するだけでも、山を身近に感じ、山(六甲)を第二人称的親しさで語るのです。
こういう神戸の地理的条件が、この街に住む人たちの一体感を産み出しているのかもしれません。広くどこに住んでもよさそうな土地より、山と海という厳しく限られた土地で生活を営むほうが、ひとつの表象(文化)を産み出しやすいのかもしれません。(でもこれだけ情報革命が進むと、地域の独自性が一度すべて消去してしまいそうな環境になっています。むしろ一度すべて消去してしまった方が、"個"の復権が主張しやすいのかもしれませんが………)。
532-5月7日(月)
カルメンの定休日。朝は晴れていたのに、昼過ぎから厚雲がおおい、ポツリポツリと雨が落ちてきました。筆者は午前中、岡本へ銀行まわり。什器類もついでに買ってきました。岡本は、1カ月もたつと新しい店舗が生まれていて、目が離せません。かつて普通の寿司屋だったのが、回転寿司になったかと思うと潰れてしまい、流行のカフェが登場。ちょうど甲南女子大学と神戸薬科大学の通学路にあたるために、さっそく女子大生で満杯になっていました。
カフェといえば、山手幹線沿いの二楽園ビルに、スターバックスが入店して以来、岡本・本山の"カフェ戦争"は激越なものになっています。二楽園ビルのちょうど道路斜め向かいに、スターバックスより前に開店した小振りのカフェがあったのですが、どうもスターバックスにお客を奪われたらしく、現在改装中。エクスプレッソ・コーヒー専門の店になるようです。
筆者としては、カフェばかり出来ても仕方ないので、一軒ぐらいお洒落な立ち飲み屋があってもいいのに、思っているのですが、これは筆者の世代からの要求でしかないのかもしれません。最近の大学生(特に男子)は、本当に酒を飲まなくなっています。飲酒することが入り口となった本音同士の"会話バトル"の世界に身を浸していた筆者の世代にとって、今の若い人たちは淡泊すぎます。
人と人との関係が深まれば、信頼を深くすることもあれば、傷つくこともあります。大学生としては、それまでの18年間、まったく違う地域・家庭環境に身を置いてきた同士なので、傷つきあうことの方が多いのではないでしょうか。そうした経験を乗り越えて、はじめて人間関係の"妙"を体得していくものですが、今の若者のように、最初から傷つくのを怖れていては、人という種族の深さが分からないような気がします。
まあいずれこうした若い世代が産み出す文学や芸術が出てくるでしょうから、楽しみにしています。明らかに、傷つきあいながら人間関係を作ってきた筆者の世代と違った文学・芸術が創出されると思っています。
話を岡本に戻しましょう。この街は、ある意味で流行を写し出す鏡のような場所で、全国展開している外食系のチェーン店なら、たいていは揃っているというところなのです。また伸び盛りの業態店も早々に出店するという場所でもあるのです。
その典型的な例としては、去年、CDとビデオレンタルのTUTAYAが撤退して空きテナントになっていた場所に"復活書房"という新古書店がオープンしたことです。国道2号線沿いの新古書店に続いてのオープンです。こういうメディアは店舗の半分以上は漫画本で占められています。一般書も文庫が大半、タレント本や、ベストセラーになった本が幅を利かせて置いてあり、"読書人"の端くれだと思っている筆者にとっては、面白くありません。
この"復活書房"に一般書の100円コーナーがあり、こういうところにこそ、あっと驚く本があるものなのです。いやいやあるのです。筆者にとっては、なんでこういう本が売れないのかと思うほどです。買ったのは三冊。『西川徹郎句集』、松本健二の『天正少年使節団』、そして森崎和江のエッセー集です。一冊ごとコメントしたいのですが、今日は森崎和江について。筆者はこの人のエッセー集をこまめに買っては愛読していて、もし筆者が女性なら、こうした文体を書きたいと思うのです。文体イコール生き方であり、この女性が生きた軌跡、時代を追体験するという楽しさがあるのです。
ただ、こうした新古書店に"めっけもの"があるのは、開店当初だけで、後は"どうでもいい本"が棚に自民党のように居座っています。再び"めっけもん"が棚に並ぶかどうかは、半年以上たってみないと分かりません。また、なんでも買ってくれるのがこの業態の魅力ですが、明らかに定価以上の価値がある本についてはどうするのでしょう。100円コーナーに置いていてはもったいない本があるはずです。むしろ普通の古本屋に売った方が儲けになるのではないでしょうか。それともこういう新古書店には、買い取った本を識別する"目利き"がいて、自分のところの棚に並べるか、古書店に転売するのか、決めているのかもしれません。
午後4時からはFMわぃわぃ「南の風」の生放送。今日はチーフ・ディレクター兼ミキサーの野村昭彦氏が、演奏旅行へ行っているために、ミキシングは金チュサ氏。チョサ氏とは、音楽がかかっている間中、韓国、在日についての話をしていました。話題になったのは「金正日の長男と思われる男」について。誰がどう考えようとと「金正日の長男である金正男」氏であることに違いないのに、「……と思われる」と通そうとしているJapon政府の茶番について語り合ったのです。
今日の番組は、最近奄美で起こっているニュースをもとに、南海日日新聞のネットから拾ったものを中心に、報道番組風に、おしゃべりしました。とりあげたテーマは、「ついに人口13万人台を切った奄美人口」「困窮する奄美の自治体(財政が悪化している自治体ほど人口減が続いている)」「実績を上げている名瀬市のIターン、Uターン希望者への優遇措置」「龍郷のエコツアーがブレーク中」といった現在の奄美の勢いに関するもの。それと「キビ生産量が4年連続減」「伊仙町阿三で3年連続キビ生産1000トン達成した生産者について」といった話題です。
531-5月6日(日)
ゴールデンウィーク最終日。長い休暇も今日でおしまい。明日から仕事・学校だということを考えると、生きた心地がしない人も沢山いるでしょう。皆様のGWはいかがでしたか。なにか楽しい思い出は出来ましたか。カルメンのGW期間中は家族連れが多くみかけました。"一族"といった感じの集団が来店されたのです。家族のなかには、おおよそ一家でどこかへ出かけて行くというような雰囲気にならないところもあるかと思うと、子どもが何歳になっても、一緒に行動する一家もあります。
子どもも大きくなると、自分たちで行動することが多くなって、なかなかまとまって行動するようなことはないようです。また最近では、自動車で乗り付けることが可能な、一家を"収納"するファミリーレストランというメディアの存在も無視できません。しかしここが間違いなく混んでいるのです。この業態への来店動機は、美味しいところだからという理由よりも、一家・一族で行けるところだからという動機から選ばれているのかもしれません。
筆者は一家で行動することが好きなタイプです。家族という社会の一単位でまとまって行動することで、いろいろなことが見えてくるからです。例えば、子どもの食事をする際のマナー向上だったり、一家で子どもの成長期に共通の思い出をたくさん作っておこうという親なりの"戦略"もあります。"家族という物語"を創出していく上でも、一家揃っての行動というのは、有理なのです。
さて、長期休暇はおしまいです。季節は立夏。沖縄・奄美地方は本日"梅雨入り"です。
530-5月5日(土)
何日か前、パソコンがクラッシュしてしまい、OSを再インストールしました。筆者が使っているのは、MACのOS8.1です。事の起こりは、深夜に大きな仕事をかたづけてやれやれと安心して、ついでにシステム・フォルダーの中を掃除してやれと、よこしまな考えを起こしたのが失敗のもとでした。自分勝手に、理解できない機能のものをシステム・フォルダから外してしまうと、次の朝、MACがプッツンしてしまったのです。ねむけまなこで、操作してしたので、なにをどう掃除したのか覚えていず回復が出来ません。ええい、ままよと、OSを再インストールすることにしました。すると不思議なことに、空きメモリー数が増えているのです。重複するフォルダーが消えたのか、それともせっかくインストールしたアプリケーションが消えてしまったのか、分からないのです。
MACを使い出してよく分かったことですが、パソコンというのは、机の上と同じで、作業するための台に特化しておいた方がいいと言うことです。つまり、本・書類・原稿類は徹底して置かない。置くものは、現在進んでいる仕事のものだけ。PC内になんでも収納してしまうと、システム・クラッシュした時に大泣きしなくてはなりません。"今"使わないドキュメントは引き出し(MOフロッピー)にしまっておくようにするのです。
パソコンは万能ではありません。いつどんな形でプッツンしてしまうかもしれないのです。できるだけPC内は軽装にしておく。でも、それでもOSを再インストールしなくてはならない事態が起こるのですから、くわばらくわばら、なのです。
529-5月4日(金)
祭囃子というのは、不思議なもので、耳鳴りのようにいつまでも鳴り響いているような感覚になるものです。
筆者が住む神戸市東灘区は、4日5日両日、朝早くから、午後10時までだんじりが巡行し、祭囃子が響きわたります。拙宅の周辺はだんじりがいくつも通っているので、いくつものだんじりから聞こえてくる祭囃子が、耳の奥にじっと居座ってしまうのです。幻聴に似た感覚です。筆者もJRに乗り込む前に聴いて、電車に乗った後もしばらく祭囃子が鳴っているような幻聴状態が続いていました。
これはひとつには太鼓の音がそうさせているのかもしれません。太鼓という原初的な音は、人の原始の記憶を呼び起こし、情動の基本部分を刺激するのかもしれません。
今年のだんじり巡行は天候にも恵まれました。不思議なことに、これだけ大がかりなイベントであるにもかかわらず、観光客がそう多くないことです。神戸市が本腰をいれて紹介していないこともあるのでしょう(まあ、あくまでも神社に関係した祭礼ですので、行政が全面バックアップしずらいということもあるのでしょう)。
しかし、このだんじりが巡行している東灘は、1995年の年に阪神大震災で被害の大きかった地域とそっくりそのまま重なることも忘れてはいけません。左写真のように、震災から6年たった今も、家が建たず更地のままでいる住宅街をだんじりが進むという光景からみえてくるものも直視する必要があります。
春に行われる祭りとは、秋の収穫に対する予祝行事であるという意味と、地域が今年も安全であるよう祈念する露払いという意味と、かつてその地域で生じた災害、人災、戦災などで犠牲になった人々に対する鎮魂の意味も含まれているはずです。この意味からも、東灘のだんじり祭りは、鎮魂鎮撫のイベントとして、重く位置づけられるのです。
528-5月3日(木)
大阪のユニバーサル・スタジオ・ジャパンで、とうとう入場制限がしかれたようです。ゴールデンウィークの後半、少々寒いものの、天候に恵まれ、行楽各地は大勢の人手で賑わっています。筆者が通勤のために乗り込むJRも今朝は混んでいました。このゴールデン・ウィークに沸き立っているJaponに、東京ディズニーランドに行きたいとわざわざ偽造旅券を使ってやってきた一家がいます。金正男(キム・ジョンナム)氏。かの金正日(キム・ジョンイル)総書記の長男だとされています。成田空港で捕まってしまった正男氏一行は、夫人とみられる人とその息子、そしてもう一人の女性です。正男氏は、来年2月に正日総書記が還暦を迎える機に、父の後継者として、デビューする予定だと伝えられています。いわば金王朝の第三代を継ぐ王子といえる人です。
そんな大物が、お忍びであれ、Japonへ明らかに偽造と分かる旅券で入国しようとたのです。過去も同旅券でJaponに入国したことが判明しています。北朝鮮の要人がJaponへ"不法入国"しているとの情報は噂としてはよく耳にすることです。かつて正日総書記も訪日したことがあるとの噂があるほどです。
考えてみれば、Japonにとって、近隣する北朝鮮と台湾の2カ国と正式な国交がないわけですから、これは異常なことです。地球の反対側の国々とは(一般市民の毎日の生活とそう大きな関わりのない国・地域と)国交があるのに、飛行機で飛べば数時間で行くことが出来るこれらの国と"普通の関係"が成り立っていないのですから、おかしなことです。
それにしても正男氏と一緒に来た男の子は、東京ディズニーランドに行けなくて、さぞがっかりしているでしょう。今度、この子が成田を降りるときは金王朝四代目の後継者として、来るのでしょうか。
528-5月2日(水)
春がめぐるたびに変わっていくものがあります。それは若い女性達の脚です。最近の女性達の脚を見ていると、ふくろはぎがそげ落ち、まっすぐひょろっと伸びています。筆者の同世代の女性達の脚は、まだふくろはぎに存在感があり、脚という肉体を実感するのに充分な太さであったと思うのです。
ところが、女性達が春になり、スカートを履き替えるたびに、ふくろはぎの肉が少なくなっていきました。まあ、今の若い女性達の親の世代というのも、戦後洋風生活の第一世代なので、親の世代からの生活習慣が、ふくろはぎなしの脚を育てる環境にあったことは確かです。
しかし、ものの20年そこいらで、肉体の形状にこうも変化が現れるものなのでしょうか。そして、いま、おしげもなく"ふくろはぎ無し脚"を春の風に晒している女性は、自分の美脚に自信があるがゆえのことなのですけれど。
527-5月1日(火)
カルメンは休みです。火曜日なので、FMわぃわぃの放送はなく、午前中は、ゆったりと新聞などを読んで過ごしました。昼はNHKの連続テレビ小説"ちゅらさん"を初めて見たのです。筆者の周囲で話題になっていたのですが、まだ一度も見たことがなかったのです。"ちゅら"とは、奄美の"きゅら"、美しい、綺麗という意味です。(奄美の中でも同じ島のなかで"きゅら"と"ちゅら"が同居しているところがありまが)。"ちゅら"とヤマトグチの"さん"がくっついているので、直訳は難しいのですが、語感としては、"べっぴんさん"と"かわいい娘"の中間あたりではないでしょうか。
番組の中では、話題の"ゴーヤマン"が出演しています。野菜の"ゴーヤ"をキャラクターに仕立てたもので、ある情報によりますと、市販されているらしく、ブレークしているとのこと。評判になれば、NHK出身のキャラクター商品ということになります。
夕方からは家族で、三宮に出向き、中華料理を食べに行きました。Eという店で、震災までは、生田新道沿いにあったのですが、ビルが倒壊。北野に移転した老舗組のひとつです。こうしてかつては三宮にあった老舗クラスが震災後は北野へ移ってしまった店舗が多くみられ、カルメンもまた、震災から3年ぐらいは、多くのお客様からてっきり北野に移ったのだろうと、思い込まれていたのです。
移転後の店舗は、すぐ道向かいに、イスラム教のモスクがあります。北野周辺で育った筆者の母などは、回々(ふいふい)教の教会だと言っていたようです。Eで食事をしていると、コーランを読む声が聞こえてきます。ムスリムは一日に五回メッカに向かってお祈りをします。その度に、コーランがモスクから節つきで朗読されるのです。
神戸はこのモスクの近くに、シナゴーグ(ユダヤ教の教会)もあります。両者は歩いて数分のところです。神戸という都市は異者が同居しているとトポスだという好例でしょう。(勿論、キリスト教の教会、華僑の寺もあります)。
帰宅後は、午後9時から、久万田晋氏と近所の飲み屋で一献傾けたのです。氏は沖縄県立芸術大学助教授ですが、夫人が、神戸大学国際文化学部の助教授をしている関係から、神戸にも生活拠点があるのです。この日、故郷の高知から、神戸にレンタカーでやってきたことから、高知の話、四国のこと、瀬戸内の文化などについて話が盛り上がったのです。
面白かったのは、氏の母は網元出身という"海の民"、父は湿地地帯で百姓を営み、米作ではなく畑作と狩猟をする"山の民"だということ。「わたしの家は古事記の世界なんです。家庭内は"海幸"と"山幸"の文化戦争の戦場でした」と分析します。
母は魚に関しては目がないらしく、値段に関係なく気に入った魚は買い求めたとか。"山幸"である父に向かっては、"海幸"であることの矜持(=魚の味を知り尽くしているといった意味)を常に振り向けたようです。
久万田氏本人も、魚についてはうるさく、知り尽くしているといった風です。また酒に関しては、なんといっても高知は日本酒のおいしいところ。酒豪家が多いことでも有名です。酒と魚(高知は主にカツオなど青物中心)に関しては譲れない自説があるようです。
526-4月30日(月)
本日は月曜日ですが、振替休日のために、カルメンは営業しています。寒いゴールデン・ウィークです。
年によっては、初夏のような気候もあるのですが、今年のような、冷え冷えとする年もあります。それでも六甲の山々は、確実に新緑の"緑のグラデーション"を際だたせています。拙宅近くの保久良山に登山したいのですが、なにかと忙しく、登れないのです。その気になれば、一時間で往復できる距離なのです。今なら、去年、娘が見つけた山に自生する"藤の花"と再会することが出来ます。藤は、可憐な花を咲かせますが、その生命力は強く、絡んだ大木をも枯らせてしまうほどだといいます。かつて遊女のことを"傾城"と呼ぶこともありましたが、藤の花はこの比喩に似た"毒"を持っているのかもしれません。
昼の休憩時間を利用して、湊川神社で行われた"金婚式の集い"に行って来ました。50年。その夫婦は披露宴をしていなかったそうなので、"新郎"と"新婦"の位置づけです。湊川神社で金婚式のお祝いを催したことはかつてなかったそうです。
525-4月29日(日)
雨が降っています。今ちょうど弘前の桜(ソメイヨシノ)が満開だそうです。弘前城は桜の名所。さぞ沢山の花見客がやってきていることでしょう。こちら関西では、牡丹、藤の季節に移っています。
筆者は牡丹が好きなのです。ところが"花王"と呼ばれるこの花の見所は、ちょうどゴールデンウィークの最中なので、店が忙しくて、だいたい見逃してしまいます。去年は長谷寺にわざわざ足を伸ばしてたほどです。当麻寺の牡丹も筆者のお気に入りの場所なのです。当麻寺は、奥の浄土院に行きますと、藤もあり、みどころが多いのてです。
40歳を過ぎてから、八重桜、牡丹といった"ぼってり"、"もっちゃり"した花弁の花が好きになったことになります。連休明けに、少し盛りを過ぎた牡丹を見に行こうかと思っています。
524-4月28日(土)
さて、ゴールデンウィークの始まりです。今年は、9連休になる企業もあり、海外に出かける人も多いようです。皆様はいかがおすごしの予定でしょうか。去年は、淡路花博と完全にバッティングしてしまい、三宮地区ならびにカルメンへのお客様の入りはさっぱりでした。さて、今年はどうでしょう。今日のお客様を見ていると、神戸の観光ガイドブックを持った人が、多かったので、去年のような落ち込みはないのかもしれません。
今年の関西観光の目玉は、ユニバーサル・ジャパン・スタジオ(USJ)です。ゴールデン・ウィーク中の前売りキップは完売したとのことで、当日券では入れないと思っていました。ところがこの情報が災いして、ゴールデン・ウィーク中は入場できないと勘違いしてた人が多かったようです。
一方、"スペイン"を売り物にしている志摩のバルケ・エスパーニャから、カルメンにあるチラシが到着しました。"Fiesta de Flamenco 2001"というものです。これはJaponのフラメンコ・ダンサーが、パルケ・エスパーニャで踊るという企画です。総勢1000人のアマチュアのバイラオーラが、9月から10月にかけて、ステージい゛踊ります。
これはコンテストでもあり、最優秀賞に選ばれたグループは、スペイン旅行がついています。出場資格は、"セビジャーナス"が踊れること。この"セビジャーナス"とは、フラメンコの基本で、二人が向き合って踊るもので、群舞に仕立てることも出来ます。ヒターノなら誰でも踊れるといったもので、Japonでいえば、沖縄のカチャーシ、奄美の六調、徳島の阿波踊り、といったところでしょうか。
出場希望の方は、電話0559-57-3315(志摩スペイン村「パルケエスパーニャ フィエスタ・デ・フラメンコ」係)へ連絡して下さい。募集期間は5月7日から7月10日までです。
523-4月27日(金)
筆者が住んでいる東灘には、都会の中では珍しくだんじりが曳かれます。各地域を練り歩くことは勿論、毎年5月4日5日の2日間、各地域のだんじりが集まって、山手幹線を練り歩くイベントもあるのです。震災前には、だんじり祭が近づくと、若衆が鍛錬のために、早朝掛け声をかけながらランニングをしていたものですが、震災後は聞かなくなりました。それでも、祭囃子の練習はしていて、この時期、各地域の公民館、集会所などから、威勢のいい囃子が外に漏れ聞こえてきます。
このだんじり祭の前に、各地域の世話役を務めている人が、寄付金を求めてやってきます。筆者も毎年1000円寄付するようにしています。神道の祭礼ではあるのですが、地域の神々が登場するのであって、天皇とは直接的に結びつかないので、容認しているのです。
面白いのは、各だんじりを支える地域が明治以前の村の地割りをそのまま採用しているために、南北に細長く拡がっていて、途中JRや阪急の踏切で遮られている地区もあるということです。拙宅が属している"K"という地域もJRの踏切を境に南北に細長く拡がっています。このため、だんじりは踏切を渡らなくてはなりません。なにせ何トンもあるかのような巨体です。そしてだんじりの上には、囃子をする人、屋根に登って、邪気を払う役の人などが乗っているのです。踏切を渡るときは、細心の注意が必要のようで、いつもJRの職員が立ち会っているようです。
4日と5日、午前8時から午後10時まで、拙宅周辺は、いくつものだんじりが、一台ずつ違う祭囃子を元気よく鳴らして練り歩きます。まるで夢の中にいるかのような雰囲気になるのです。今日掲載した写真は、駅の南にしつらえられただんじりを出す各地域の提灯です。夜になると電気が灯り、秋の豊穣に向けての予祝祭のムードを高めてくれます。
522-4月26日(木)
筆者はたいてい新聞は最後から読みます。つまりラジオ・テレビ版からめくるのです。これには、いくつか理由があります。まず最初は読みやすい社会面から入っていって、少しずつ頭の訓練をし、文化、海外、経済、政治といった硬めの記事に読み進んでいくためです。ただし、政治、経済ネタが中心の第2面から第1面にかけては、あまり面白くないので、時間がなければ飛ばしてしまうことが多いのです。(1面の囲み特集記事や署名記事は読んでいます)。
そうです。新聞の国内政治ネタが面白くないのです。いつ読んでもいいような内容ですし、いつ読んでも変わり映えのしない内容なので、飛ばし読みしてしまいます。ところが、ここ数日、珍しく第一面から"逆に"読んでいるのです。そうです。小泉純一郎氏が第87代総理大臣に指名されるまでの経緯が、連日マスコミをにぎわせているのを受けて、久しぶりに、国内政治ネタが面白いのです。
組閣の途中経過が深夜にかかわった日などは、テレビのニュース番組が終了後、インターネットの新聞サイトの速報をチェックするほどの熱のいれようです。これほど政治ネタに注目したのは、何年ぶりでしようか。今度の小泉内閣はテレビが作った政権だと言われています。Japonの首相もアメリカのようにテレビ受けしなければ当選がおぼつかないということになっていくのでしょうか。また、今回の自民党総裁を選ぶ予備選挙が事実上の首相公選制度の実施だという声もあります。政治が少しだけ面白くなってきました。
521-4月25日(水)
肌寒い日です。上旬の暖かさがウソだったように、朝夕は冷え込みます。拙宅にリラの花が咲いているので、これに関連づけるとすれば、"リラ冷え"といったところでしょうか。
"リラ冷え"といえば、われらがオリックス・ブルーウェーブの観客動員数も、ちょっとした"リラ冷え"状態なのです。神戸グリーンスタジアムで開催されるホーム試合に来るお客さんの数が、どうしても1万人を越えないのです。これでは、阪急ブレーブス時代の西宮球場とよく似ています。
去年までは、常時1万人は入場していて、2万人近く入っていることも例外ではありませんでした。やはり去年と今年の差は、イチローがいるかいないかなのです。三宮交通センタービル内にあるオリックスの球団ショップには、まだイチローのプロモーション・ビデオが繰り返し流されています(ど、どういうこっちゃ?!)。
もともと地味なチーム・カラーなのです。イチローをのぞけば、スターは不在で、コツコツと勝ち進んでいったチームです。派手さはないけど、巨人のようにダーティなイメージがないのが魅力なのです。同じく選手が地味揃いの阪神は、チームが抜群の人気であるために、なんとかカバーしているのです。
今日オリックスはグリーンスタジアムでロッテと戦っています。ところが甲子園球場では阪神・巨人戦(観客43000人)という人気カードが組まれているので、気の毒な感じもするのですが、観客は9000人。甲子園も50000人を切っているので、阪神人気の凋落傾向を現していますが、グリーンスタジアムは満員になっても35000人程度ですから、やはり観客動員数の基礎体力は圧倒的な差があります(オリックスの最大の"敵"は満員のお客さんという説がある。日頃、見慣れていない満員のスタジアムに緊張してしまうからという理由らしい)。
ちなみに、カルメンでも永年、甲子園で阪神・巨人戦が行われている時は、観客動員数、つまりお客様が伸び悩む傾向にあります。
さてさて、このまま低温が続いて、寒いゴールデンウィークになるのでしょうか。
520-4月24日(火)
案の定、二日酔いで、朝食が食べられません。酒も見たくないのですが、カルメンに出勤するとそうもいきません。さらに皮肉か、沖永良部から黒糖焼酎の蔵元「新納酒造」の新納忠人氏が、店に寄ってくれたので、酒談義に花を咲かせました。
「新納酒造」は去年、創業80周年を迎え、記念ボトル"寿"を発売しました。そのおいしいこと。お湯でわるのも、氷を入れるのも、もったいないと思うぐらいです。筆者は黒糖焼酎を愛飲しています。いずれまとめてこの美酒については、書き込みたいと思っています。商品としては、そう歴史は古くなく、奄美の日本復帰(1953年)特例として、奄美だけに製造が許可されたものです。
スペインのシェリー酒には"ソレラ"システムという貯蔵の方法があります。樽を何段か重ねていて、一番下の樽が古い年式のものが入っています。上の段になるのに従って、新しい年式のものが入っているのです。ボトリングするシェリーはその一番下の樽から、出します。出した分だけ、すぐ上に積んである樽から補充する。そしてその二段目の樽には、三段目の樽から補充するというやり方なのです。
この方式だとコセチャの違うシェリー酒が混じり合って、独得の風味を形成するという利点があります。新納さんに聞くと、沖縄の泡盛にも似たような方式があり、仕継(しつぎ)と言うそうです。ただし沖縄の場合は、樽ではなくて、陶器製の瓶(かめ)なのです。ボトリングするために、取った瓶(かめ)に、新しい年式の泡盛を入れていく、というものです。
沖縄の泡盛は、古酒(くーす)という区別があり、たしか7年以上の熟成だったと思います。これがまたおいしい。同じ泡盛かとおもうほど、激変してしまうです。一度、古酒(クース)の魅力に惹かれたら、もう病みつきです。酒はそれぞれの民族が長い間をかけて作り上げた文化です。おいしい酒は、ジャンル(泡盛、黒糖、シェリー酒など)を越えて、ひとくち含むだけで、法悦の気分に浸れるのです。
519-4月23日(月)
カルメンの定休日。FMわぃわぃ「南の風」の放送を一日に二度しました。
この番組は午後4時からの生放送と、同日午後7時からの再放送で構成されています。担当者が自ら言うのもなんですが、"人気番組"なのです。今日二度放送したのは、午後7時からの枠にも生番組を入れたためです。局に特別に頼み込んだのです。といいますのは、ゲストとして迎えた高阪薫・甲南大学教授がどうしてもこの時間しか、あかないためです。
午後4時からの放送は、沖永良部島・国頭集落の唄者である林正吉(故人)、林茂両氏の島唄を特集しました。シーサーズという女性の島唄グループが制作したCDです。国頭集落は、唄者が多く、沖永良部の"歌袋"というべき島唄の盛んな土地柄です。その中にあって、二人の林氏は、この島を代表する唄者だといっていいと思います。
録音状態はよくないのですが、ウタアシビをしているライブな感じがよくでているアルバムです。
続いて午後7時からの番組ではゲストの高阪氏の話を聞く内容です。氏は、さきほど一週間の奄美旅行から帰ってきたばかり。宇検村平田の節句行事である"浜下り"に参加。ここは奄美では珍しく男だけしか参加が許されていない"浜下り"です。また加計呂麻島にも渡り、そこで食べたハリセンボン料理の印象などを語ってくれたのです。
さらに島尾ミホさんとも会見し、ミホさんが主演した映画のことなども話が及んだようです。そして話は、島尾文学のことに。高阪氏は「島尾文学研究会」の代表を務める人でもあるのです。
番組終了後は、大阪日日新聞の大山勝男記者と、JR鷹取駅近くの奄美郷土料理店"うたげ"で酒盛り。徳之島の黒糖焼酎"奄美"をたしなみました。ところが、筆者はたしなみすぎて、泥酔状態に。店で会計を済ませた直前から記憶が連続せず、JRに乗ったものの、六甲道や灘、三ノ宮と、何度か途中下車して、ようやくたどり着いたのです。夜中に気付いてみれば、自分の布団に入っていたことは入っていたのですが、服をきたまま、靴下も脱がずに、潜り込んでいました。ああ、おぞましい限りです。最近、飲酒のあと、記憶が途切れることが当たり前のようになってしまいました。
518-4月22日(日)
今日も台湾の話をします。筆者の父は、戦前の3年半ほど、台湾の台南市に住んだことがあるのです。そこで祖父はアルミ工場を経営していました。父は日本人学校に通っていたとのことで、戦後大学の同窓会旅行で台湾を訪れた際、立ち寄ったことがあるそうです。
台湾の庶民が話している言葉は、福建語です。普通語(北京語)とは、全く違う響きあります。この言葉は、漢民族の方言というよりも、閔南(ミンナン)族が使っていた言語の影響を受けています。父は今でも福建語の30ぐらい単語を覚えているようです。その殆どがトウモロコシとかといった食べ物の単語だということですが。
台湾のごくごく普通に生きた人たちは、戦前の日帝支配から、敗戦のうたたかの解放の時期を経て、国共内戦で敗北した国民党が大挙して台湾になだれ込み、徹底した弾圧政策をとったために、苦労の時期が長かったのです。
台湾語もまた、学校教育の中で禁じられました。かつての話ですが、学校で台湾語をしゃべった子ども達は「方言札」の罰則が待っていたのです。これは、自分たち日常しゃっべっている言葉を禁じられるのです。学校内で、台湾語をしゃっべった子どもが先生から「方言札」を付けられます。そしてその子が、台湾語をしゃべる別の子を見つけると、その子に渡すというものです。中には、わざと台湾語をしゃべるよう仕向ける知能犯もいたということです。
この「方言札」、実は沖縄にもあったのです。今50歳前のウチナンチュは、ウチナーグチを学校でしゃべるとこの「方言札」が回ってきました。関西弁の先生が関西弁の子ども達を教えるという教育空間で育った人間には、この「方言札」の屈辱はとうてい理解できないのです。
517-4月21日(土)
台湾の李登輝・前総統が来日することになりました。中国政府はさぞ怒っていることでしょう。李登輝氏側も自民党が総裁選挙の真っ直中で混乱し、"親台派"と言われる森喜郎首相の残り少ない在任期間中がチャンスと思ったのでしょう。それにいま中国は、アメリカと、偵察機と戦闘機の接触事故の処理を巡って、非難の応酬をしている時期でもあり、自分に対する批判やJaponに対する批判が分散されると計算したのでしょう。
それにしてもJaponの外交筋(=外務官僚)は、ややこしいことは、高度な政治判断の道具とする前にすべて葬り去ってしまおうとする素朴さです。今回、李登輝氏の訪日を拒絶すれば北京の圧力に屈したと国際社会から評価されることと、ビザを出すことによるマイナス面とを、政治的に充分比較したのでしょうか。考えたとしても、思考の経緯が国民に伝わってきません。
筆者の知人情報によりますと、江沢民は、来年秋に全人民大会で退任するとのことです。江沢民(中国)、李登輝(台湾)、金大中(韓国)に共通するのは、70歳代後半の、先の戦争においての1・5世代ということです。戦争の時は、20歳代前後で、直接従軍はしたか、しなかったの微妙な世代だけれど、戦争の同時代性の空気は充分吸っているという人たちです。
毎日、Japonの新聞数紙を目を通すという李氏。凡百のJaponの自民党政治屋より、はるかにJaponのことが分かっているのかもしれません。
516-4月20日(金)
「2001 ソル・イ・ソンブラ展」に出品した筆者の作品の解説を試みたいと思います。会場に置いた「作品自序」の文章には、次のように書きました。
『200年後には、きっとね……』
それは"キリコの青"ならぬ"ガウディの青"とも呼ぶべき光景だった。――1993年、私はバルセロナを旅していた。ガウディの「サクラダ・ファミリア教会」の聖堂中心部に立った時である。空を見上げれば、何もない青い空があっけらかんと広がっていた。完成まであと200年はかかるというこの教会にまだ屋根はない。あるのは、限りなく透明な地中海の"青"ばかりだった。私はとうてい200年後の完成した聖堂を見ることは出来ない。しかしこの時"ガウディの青"の向こうに教会天井を幻視したのだった。
それにしてもヨーロッパ人の気の長さはいったいどういうことだろう。歴史的に有名なゴシック様式の大聖堂も完成まで200年を費やしたという話はよく聞く話だ。時代が長きにわたっているためにに、ひとつの教会に多くの建築様式が混在するという状態が発生する。勿論、こういった建築様式の混在は、このJaponでもあり、神社建築が改築される際に改築時の様式がかぶさっている姿を見ることが出来る。こうした息の長いありようは、現代人の苦手とする思考なのかもしれない。200年というスパンを許容する背後には、人々の間に、時を超えた、統覚された宗教観(神意識)があり、文化・民族の"記憶の物語"がしっかりと脈うっているからに違いない。
515-4月19日(木)『花タナトスきれい』
その日は仁和寺の入り口に「満開」と大書された看板が立てかけられていた。天気は曇り空。私の精神状態は最悪であった。持ち込んだ一升瓶はみるみるうちに空いていった。主に呑んだのは私だった。そしてわたしは感極まって八重桜の下で泣きだした。一度泣き始めると、泪がとまらない。それまで抑えていた感情が爆発したのである。滂沱と流れる泪をとめようとはしなかった。犯人はこの満開の桜である。いっそこの桜の下で情死しようかと思ったほどだった。もともと私は桜が嫌いだった。30歳を過ぎてようやく桜を許容できたものの、ソメイヨシノを桜と思い込む素朴さだった。40歳を過ぎてようやく、八重の美しさに目覚めたのである。
かつて私の実家に八重桜が植わっていた。世間の桜より開花が遅いことに恨みを抱いていた。なんと浅はかだったのだろう。私が17歳の時だった。
本日から始まった「2001 ソル・イ・ソンブラ展」(主催・神戸日西協会)に筆者は、写真2点を出品しています。同展は、4月24日(火)まで、神戸市中央区の"さんちかホール"で行われているもので、主催の神戸日西協会とは、兵庫県の外郭団体の21世紀ひようご創造協会の中に事務局を置く親睦団体です。文字通り、スペインとの文化的交流を図る団体で、筆者も同協会の理事に就いています。
「2001 ソル・イ・ソンブラ展」は今年で7回目を迎えるとのことですが、筆者が出品したのは、初めてです。(ビエンナーレ方式、つまり2年に一回の開催としているようです)。また次回は、バルセロナで開催予定だそうです。これは神戸市がバルセロナ市と姉妹提携をして何周年かにあたるために、開催するのだそうです。(知らなかったのですが、かつてこの展覧会はスペイン・マドリーでも開催したことがあるようです)。
もともとスペインというところは、画家のためにあるような国だと言えるでしょう。画材には事欠かないからです。画家の人が喜ぶ風景・風土があまたあるのです。このために、洋画、日本画に限らず、スペインに住みついてしまったJaponの画家は多く、描くために訪れる画家も沢山いるのです。
しかし、スペイン人は、自分たちの生活・文化を画材にしようと日頃から思って暮らしているのでしょうか。彼らの日常そのものが、画材に適した内容なのかもしれません。これも一つの民族の文化的資質ではないでしょうか。(Japonもまた、同じような位置にあることは確かです。Japonの人は、工匠のテクニークに長けていて、「日用の美」という言葉があるように、〈いま・ここ〉に使っているものを、アーティスティックに変容させる才能があるのです)
さて、筆者が出品した作品ですが、題名は「200年後には、きっとね……」「花タナトスきれい」。作品は実際にご覧戴くとして、自己解説は、明日書くことにします。
514-4月18日(水)このところ、拙宅の玄関を出ると、香ばしいかおりがします。
フリージアです。奄美の沖永良部島から、筆者が昔々買ってきたものを、実家の庭で長い間育て、球根の数も増えていきました。(たしか筆者が一番最初に、沖永良部島に行ったときに購入した記憶があるので、1970年のことだと思います。つまり30年も前のことですね)。
「あら、何いってるの、気付くのが遅いわよ。もうすぐ終わりよ」と同居人の女性(妻)が言います。そういえば、少し、花が下を向いています。
この沖永良部という島、花卉産業が昔から盛んで、戦前からアメリカに百合を輸出していました。今でも、百合農家といわれる熱心な生産者が多く、兄弟・親戚が協業体制を敷き、年収5000万円を儲けるところもあるようです。
百合を育てるのには、細心の注意と、毎日の世話がかかせません。かつては奄美大島でも百合が栽培されていましたが、いつのまにか奄美の百合といえば、沖永良部の特産になっています。
このフリージアの香りは、筆者の家の春のかおりなのです。
513-4月17日(火)
皇太子妃・雅子さんが妊娠したとの報道がありました。スペインもJaponも国家元首に"王"を戴いている国です。しかし、王室の開放度は、スペインの方がはるかに進んでいます。Japonにはまだまだ"菊のカーテン"と呼ばれる壁が国民との間に横たわっています。政府の情報公開制度も宮内庁だけは、例外のようです。王制というのは、つねにその存在理由が問われる人為的政治システムです。このシステムの特徴は、19世紀に存続した、あるいは20世紀前半の革命の時代に廃止されてしまった王統が、復活するというシナリオはあるものの、国民の選択肢として新たに王制の誕生はないということです。つまり王制は一度途切れると、なかなか復活は難しいし、復活する大義名分も見つかりにくいのが現実です。
この意味で、自民党・小泉純一郎の行っている首相公選制と天皇制は並立しうるのだという議論は、傾聴する価値のあるものだと筆者は考えています(首肯するかどうかは別として)。
512-4月16日(月)
カルメンの定休日。花粉症で鼻をよくかんだせいか、鼻血が出ます。今年の花粉症は、例年の三倍という当たり年と言われています。杉花粉の飛沫がそろそろ終わりかけ、次は檜花粉が飛散しているようです。
いつもなら、新聞の花粉情報欄が、そろそろ「非常に多い」から「多い」に移行しているものですが、今年はなかなか元気でいまもって「非常に多い」のままなのです。
午後4時から、FMわぃわぃ「南の風」の生番組。今日の特集は、中(あたり)孝介さんの特集です。まだ20歳になったばかりの青年ですが、三線を弾き、ピアノをバックにして演奏するなど、これからが楽しみな唄者です。
『くるだんど』というアルバム名で、発売しているのは、JABARAという奄美の島唄ばかりを出しているユニークなレーベルです。埼玉に住んでいる森田精一さんという人が社主です。筆者はラジオ放送で島唄を流していますが、それを商業ベースに乗せて、CD制作しているのですから、筆者よりもはるかに、のめり方の深さが違います。こうしたレーベルは、細く長く、経営的に無理をせず、いつまでも続いて欲しいものです。
511-4月15日(日)
関西経済の地盤沈下といえば、神戸経済の空洞化も徹底しています。三宮ビジネス街の入り口といわれる、三宮町にいま広大な更地が拡がっています。かつてダイエー三宮店があった土地を西端として、旧東京銀行ビル、「兵庫銀行=みどり銀行本店」ビルを東の果てとした一角が、ずっと何も建っていない状態が続いています。
この場所は言ってみれば、三宮ビジネス街の"顔"と呼びうる場所です。そこがずっと更地であるのは、なんともいたたまれない状態なのです。
神戸を社業の"聖都"にしてきたダイエーが、経営危機に見舞われ、常に神戸を小売りの出発点としてきた中内功氏が、経営の一線から退き、この会社にとって、神戸の特権的位置はなくなってしまったようです。
ダイエーを悪く言うつもりはないのですが、センター街の中心にかつてダイエーが所有していたビルが震災で潰れてしまった後、更地のままであるのも、心いたむ事態でなのです。
神戸経済はいったいどうなってしまうのでしょうか。一部では、先端医療ベンチャーを誘致する試みもあるようです。(一部ではすでに実績を上げているとか)。しかし、全体の底上げをどうすべきかという議論においては、筆者の理解の及ぶ範囲ではありません。
少なくても言い得ることは、民間の小さな経済・文化運動の積み重ねが必要であるような気がします。いきなり大枠を作りさえすれば、そこから勝手に民間の経済・文化活動が自生していくのだという、行政主導型(=前世紀的発想)はもう通用しない時代になっているのです。
510-4月14日(土)
友人でコピーライターをしているO君がこのほど、東京に移り住むことになりました。松下関係のテクニカル・ライターをするかたわら、大阪の立ち飲み屋のホームページを運営するなど、才能豊かな人物です。O君とは昔からの付き合いなのですが、ずっと大阪で仕事をしてきました。ところが、松下の広告・宣伝部分が東京に集中することになり、その影響が出ているのです。大阪の広告業界にとって、松下とサントリーが巨大クライアントとして君臨していましたが、東京にシフトすることにより、大阪の広告業界も随分寂しくなってしまいました。
松下ばかりではなく、住友銀行もさくら銀行と合併したことによって、本社が東京に移ってしまいました。まあ、住友銀行の場合は、以前から実質的に本社機能が東京に傾いていたことを考えると、名実ともに、大阪を離れることになる、といった表現の方があっているのかもしれません。
関西経済の停滞、地盤沈下が問題となって久しいのですが、経済の東京一極集中に歯止めがかかりません。これからますます通信手段が発達して、情報面での東京圏と非東京圏との地域格差がなくなっていくだろうとの予想に反して、東京集中の状態が加速しているようです
509-4月13日(金)やっと、というべきでしよう。
咲いてみると、あっけなく思うものです。
拙宅の庭に咲いているライラックの花がようやく咲きました。紫色をして、小さな花が固まって咲いています。このライラック(リラ)、あまりにも咲くのが遅いので、去年秋、素人なりに枝を剪定したのです。それがよかったのか、それともたまたま今年ぐらいに花を咲かせる予定だったのか、分かりませんが、ようやく待望の花を咲かせてくれました。
"リラ庵"と、拙宅の4畳ほどの書斎の名付け親となった樹木です。今年は蛾の幼虫に喰い尽くされないよう注意してあげたいものです。それにしても拙宅のリラは、葉つきが相変わらず弱く、樹勢が感じられません。幹は細く、ひょろひょろとして頼りなげです。
508-4月12日(木)
拙宅の北向かいにある保久良山に、ピンク色が消えてしまいました。そうです。ソメイヨシノが落下し果てたのです。六甲には、ところどころに桜で点々と植わっていて、電車の車中からも楽しめました。しかし、季節は先に先に進んでいきます。人は日常生活をしていると、ルーティン・ワークにかまけて、日々の変化に気付かないものです。あるいは、一日そこいらでは、世の中に大きな変化はないものだという思いこみがあるようです。近代という時代、または工業化された社会、さらには情報が先鋭化してすべてが均質なデジタルによって分節化している時代にあっては、オフィスの外が雨であろうが、雪であろうが、関係のない世界です。
つまり忙しい人にとっては、昨日より今日の六甲の山々の"色"が違うなんて、気付かないし、どうでもいいことなのです。気付いていても、感動まで心の底に届かない日もあるはずです。しかし、春の自然は、めまぐるしく変化(へんげ)していきます。まるで中学生のようです。
507-4月11日(水)
4月になって、入手したスペイン産ドリンクを紹介しておきます。シードラ、という飲み物です。「あっ、なんか聞いたことあるよ」とおっしゃる方もいらっしゃるでしょう。キリンからまさしく「シードラ」という名前で売り出しています。これは商品名として使用していますが、正確には間違っています。本場・スペインでは、リンゴで作ったアルコール飲料の普通名詞が「SIDRA」なのです。
カルメンが入手したのは、アストゥーリアス地方の本場もので、甘さも控えめで、なかなかにグットな味です。少し甘口なのですが、男の人が(酒というのは甘いものであるはずがないという"常識"ゆえに)顔をゆがめるような、また、女の人が(自分の好みの味のテリトリー内にあることが分かって)にっこり笑うような、甘さではなくて、ほんのりした甘口がにくいところです。
750mlで2500円。安くしています。一度賞味してください。これから夏にかけて、ピッタリくる飲料です。
506-4月10日(火)
バタン!体育館内に轟く大きな音でした。しかも二回。
筆者の次男が神戸市内の公立中学校に入学しました。その入学式でのこと、女の子、男の子が一人ずつ、起立している途中に、倒れてしまったのです。そしてさらにもう一人、男の子が養護教員に腕を抱えられて、式典会場を後にしました。
筆者の家族はこれで中学生が二人となりました。中学生というのは、一年たつと急激な変化があるものです。身長が伸び、声変わりし、幼さが身体・動作から消えていく時期です。中学1年生の間は、まだ小学生と殆どかわらず可愛いままですが、一年間に10センチ伸びるのは当たり前で、中には20センチ伸びる子もいます。そういえば筆者も小学生時代は"チビ"だったのですが、中学時代は一年に10センチずつ伸びた年もありました。
中学校というのは、いろいろな小学校から集まってきているので、面白い子がたくさんいます。クラブに入ると、クラスの子には話せない本音などもしゃべり合えて、交友関係も拡がり、学校生活に変化が生まれます。
最近は、中学生でも茶髪にしている生徒が見受けられます。長男・次男ともに、学年は荒れていないようで、学級崩壊もないようです。(数年前はこの中学校も荒れていました)。二人の子供が倒れたのは、式も終わりになりかけた頃、生まれて初めて着る窮屈な制服、式が始まる前に待機していた校庭は暑く、緊張もからみあって、のぼせてしまったのでしょう。子供が倒れた瞬間、10人近くの先生たちが、反射的にその子供に走り寄っていった姿を見る時、新しい生徒達との出会いの初日を大切にしたい先生達の意気込みを感じ取ったのです。
505-4月9日(月)
カルメンの定休日。午後4時から、FMわぃわぃで「南の風」の生放送。今回で奄美篇は111回の放送。JABARAレーベルから送ってもらった牧岡奈美さんの新しいCDを特集しました。
放送終了後、JR鷹取駅から一路大阪へ。筆者は毎年大阪城公園で、夜桜会を催しているのです。これは震災の翌年から始めたもので、今年で6回目。今年は10人が集まりました。
会場は、西の丸庭園入り口近くの芝生の中。ペットボトルで作った自家製のローソク燭台を灯しています。午後8時までは西の丸庭園が開放されているので、照明があるのですが、それ以後は真っ暗闇になります。そこで威力を発揮するのが、このローソク燭台。曜日も月曜とあって、われわれの周囲で花見をしている人はわずかです。
この筆者が考案した照明にひかれて、今年は飛び込みの参加がありました。最初、その二人はわれわれの集団を興味深く眺めているのです。ローソク燭台がよほど珍しかったらしく、「われわれのもとに参加しませんか」と声をかけると、参加してくれました。
聞くとその人たちは大阪造幣局に勤めている人だそうです。この夜桜会の出席者は、マスコミ、ライター、広告関係者が多いことから、矢継ぎ早に造幣局の仕事内容について質問が飛びます。かつて大坂には、大きな銀座がありました。近世、大坂経済は銀本位をとっていました。当時の世界経済にとって、銀こそがグローバル・スタンダードだったのです。しかもその銀は他の金属類を合金しなかったために、外国へ出ても、その重さで通用したそうです。
一方の江戸経済は金本位制。金のほうが高いように思えますが、もともとJaponは金の産出量が多く、しかも他の金属との合金によって、鋳造しているので、幕府経済が悪化していくと、金の含有率が減っていくという傾向にありました。大阪造幣局は、こうした上方経済の"心意気"というものを、わずかながらでも継承しているはずです。飛び込み参加してくれたそのオジサンにも、そうした矜持の一端を感じる事が出来たのです。
ところで、今回の花見、大いに盛り上がりすぎて、筆者は大阪城からどうやって神戸に帰り着いたのか、詳しい記憶がないのです。情けない限りです。
(翌日の話ですが、同居人の女性(妻)が怒っています。「夜中の12時を過ぎて電話をかけてこないでよ!」といわれて思わず「えっ!」と声を出してしまいました。記憶がないのです。ちゃんとかかってきたわよ、と再度言われたので、携帯電話の発信記録を探ってみると、確かに電話をかけています。あなおそろしや。この日は相当飲みました。帰宅する際の細切れの記憶はあるのですが、細部はすべてすっ飛んでいます。思わず悄然としてしまいました。)
504-4月8日(日)
けたたましい声が聞こえます。まるで、筆者に挨拶してくれているようです。そうです。今年もツバメが帰ってきたのです。
筆者が利用するJRの駅に、つがいで帰ってきました。まさに桜の満開にあわせるように、神戸の街に帰ってきたのです。これで"春の役者"が揃いました。今年は、JRがツバメの巣の周囲を覆いで囲んでいます。おそらく、ツバメたちが巣からお尻を突き出して落とす糞が人間を直撃するからでしょう。それにしても、ツバメたちは、人間は自分たちを滅多に襲わないことを、いつの時から認識したのでしょう。"種"としての智慧に違いありません。
これから、筆者の住む街を一直線に飛ぶ彼らの姿を見るという楽しみが増えました。
503-4月7日(土)
桜も桃も満開です。意外と早くやってきた満開の日。最近は、桜はソメイヨシノばかりではないことが分かったので、八重系を含めると桜を愛でる時期が短くないことを悟ったのです。この"短くない"ということを知る、というのは、ある意味で、筆者の願望なのかもしれません。〈花=春=美しく咲き誇る時期〉が永くあれ、と願う気持ちの現れなのかもしれません。筆者も年齢(とし)をとったのかなぁ。
502-4月6日(金)
今日も続いて、前利氏がカルメンへ。自治労の研修を終えて、USJ(ユニバーサルスタジオジャパン)へ。この日は平日なので、予約なしでも入場できたとか。入場料5500円もかかったとブツブツ。それでもまあ、関西にあえて行ってみようかという場所が、この不況下でも出来たことはいいことです。夜は、友人数人を交えて、前利氏を囲む会。詩人の福田知子さん、画家の領家さん、京都から立命館大学講師の高嶋正晴氏、大山勝男氏(大阪日日新聞記者)といった面々が参加。楽しい夕べでした。続いて"くまたか"という飲み屋へ。ここで、神戸名物の"そばめし"を前利氏に薦める。筆者は二日続いての痛飲となったのです。
501-4月5日(木)
奄美・沖永良部島から前利潔氏が来神しました。自治労の研修大会が神戸で開かれたためです。前利氏は、知名町役場に勤める公務員ですが、40歳にして、奄美を代表するイデオローグの一人といっていいと思います。彼のエネルギッシュな活動は、奄美から日本(国)のありようを相対化する力となっていて、これからも彼が紬出す言説から目が離せません。今日は鹿児島の自治労の人と一緒にカルメンにやってきて、店を閉めた後、二人で、近くの飲み屋で飲み続けていました。「朋遠方より来たる」といったところです。