店主つぶやき日誌(毎日更新しています)

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500-4月4日(水)
この桜は、筆者がJRの駅に行くまでに植わっている桜の樹です。

いまちょうど満開です。ここは今、更地です。震災で立派な家が全壊してしまい、そのまま家は建たずに、更地のままなのです。

この敷地には、一般家庭にしては樹木が大きく、おそらく相当昔から、この地に移り住んだことが分かります。そしてこの桜も見事なものです。震災以後は、塀がなくなってしまったので、道路からもよく見ることが出来ます。

昔の東灘あたりは、住宅地として50坪程度の敷地が当たり前のようにして割り振られていました。それほど裕福な人でなくても、この周辺の住宅地は手に入ったのでしょう。震災では、更地になった住宅跡に、井戸や防空壕のあとなども露見していました。そうした昔から植えられた樹木が30年から50年の樹齢に達して、夏になると、蝉たちが、そうした成熟した木々で生まれ、成長し、うるさいほどに啼いていました。

そして夕方になると、駅近くでも、コウモリたちが、ひゅるひゅると飛んでいました。あの彼らはどこへ行ってしまったのでしょう。今度、子供達と夕刻の拙宅近くを歩いて、彼らを捜してみようと思っているのです。

499-4月3日(火)
急に春、といった感じです。
春というものは、かくも急にやってくるものなのでしょうか。今の経済情況からして、春を景気回復に置き換えてみたい気がします。

いったいいつ景気が回復し、神戸に住む我々に笑顔が戻るのでしょうか。これからJaponの景気は後退局面に入るというのですが、それでは今まで後退局面でないとしたら、景気回復軌道に乗っていたのでしょうか。マスコミで流布されているこうした経済解説は、実体とかなり違うものがあります。

最近"街角景気判断"といった、一般消費者と直に接しているサービス業の人たちに、景気状態を聞くという指標があります。この指標の実体と、政府・マスコミで流される景気判断と大きく違うのは何故でしょう。マスコミの諸君も、デスクの上でしか、実体経済を把握していないために、政府発表の景気判断をジャーナリストとして批判出来ないのです。

そして実際に一般消費者と接している経済の現場に生きる我々は、政府・マスコミの"景気大本営発表"を聞かされるだけで、いったいいつこの長すぎるトンネルを抜けられるのか、不安におののいているのです。

筆者は、今年はじめ5月ぐらいから、少しましになるのではないかと思っていたのですが、とんでもないことで、今年の夏から秋にかけて"三番底"が(=新たな景気の底割れ)待っているような気がするのです。

498-4月2日(月)
カルメンの定休日。

筆者の実家は、神戸市垂水区にあります。ちょうど西に向いて建っているので、淡路島と、明石海峡大橋の鉄塔が遠望できます。ここは、昔から結核も治るというぐらい気候温暖の地です。典型的な瀬戸内式気候で、同じ神戸市でも、筆者が住んでいる東部より、暖かく雨も少ないようです。

実家の庭は、筆者の家と較べものにならないほど広く、多くの樹木が植わっています。面白いのは、筆者の庭に植わっていた紫陽花が、ここで大いに樹勢を伸ばしているということです。この紫陽花はもともと、保久良山に植わっていたものをわが家に移植したのですが、震災で拙宅の境界が崩れ、工事をする必要から、実家に避難したのです。やはり植物というのは、陽がたくさんあたる場所の方が、勢いが出るものです。

この日、家族・親族が集まって、庭でバーベキュー・パーティをしました。木炭を用意するという本格的なもので、合計12名が集まってわぃわぃがやがやと楽しいひとときを過ごしたのです。この日はちょうどアウトドア日和で、寒くもなく暑くもない日です。筆者は、ここぞとばかり昼間からビールを飲み、悦楽に浸っていたのです。でも、夕方になると、子供たちは、塾があるとかで、早々に東灘に帰っていってしまいました。

497-4月1日(日)
昨日の話題です。

ユニパーサル・スタジオ・ジャパンがオープンしました。筆者の長男の友達はすでに行ったとかで、周囲でも話題が沸騰しています。テーマパークが全国的に衰退するなか、唯一、東京ディズニーランドに対抗できる存在ではないかと、マスコミは分析しています。

テーマパークといえば、香川県にあった"レノマ・ワールド"が好きでした。ここは大阪花博に展示されていたブータンの民家が移築されるなど、民俗村的な要素があり、筆者の好むところでした。併設された美術館は、現代アートをよく蒐集していて、そのレベルの高さには目を見張ったものです。

ところが、残念ながら、この"レノマ・ワールド"はなくなってしまったようです。コンセプトはよかったのですが、不況とリピート客がつかなかったのでしょう。テーマパークはどこでも入場料が高い上に、園内では食事の持ち込みが禁止されているなど、(関西人の)庶民感覚とずれるところがあります。

テーマパークのうち、筆者の個人的な思いこみで、頑張ってほしいところは、近鉄の"パルケ・エイパーニャ"です。やはり自分がスペイン料理店をやっている限り、同じスペインでメシを喰っている同業者として、声援したいのです。かの場所には、2軒の本格的なスペイン料理店があります。1軒は、カルメンのように、全般的なスペイン各地の料理をチョイスしているレストラン。もう1軒は、ガリシア地方に特化した料理店です。

そのいずれもいい味をだしている店ですので、一人でも多くの人がそこでスペイン料理に接することが出来たら、素晴らしいことだと思っているのです。筆者はこのテーマパークに都合3回ほど行きました。新入社員のために、一度はみせてやりたい場所であるからです。

ただ、あの場所に行くまでの交通費が、距離から換算すれば高く感じるのです。電車の場合は、近鉄の特急料金が高いし、車で行く場合にも、途中何度も自動車道を乗り換えることによって、その度に小銭が減っていくのにも苛立ってしまいます。

またイベントに関して言えば、遊戯施設に関心がない筆者にとっては、今度もまた行ってみようと心動かす動機がもうひとつ見つからないのが、残念なところです。パレードや無料で見ることの出来る人形劇なども、面白いといえば面白いのですが、もう少し、新しい仕掛けが必要ではないでしょうか。

例えば、スペインによくあるバルを作って、立ち飲みの臨場感を味会うとか、本物の闘牛を呼んでくるとか(闘牛というコンセプトで、奄美・沖縄・宇和島・新潟・隠岐から呼んできても面白い)、ツナのバンドを呼んでくるとか、歌劇カルメンをパーク内で、舞台・観客を移動させながら、演じてみせるとか(ロックのカルメンでもいい)。それとも少し本格的なスペインの中世演劇を再演する、あるいは軽歌劇の"サルスエラ"を演じるとか(日本の味付けをしてもいい。吉本の芸人を使うという手もある)、フラメンコの大会をする(コンクールであってもいい)、クラシックギター大会をする、スペイン映画祭をする……などなど勝手なことを考えてしまいます。

勿論、この提案の中には、玄人好みのものもありますが、せっかくスペインをテーマにしているのですから、さまざまな企画があって、それを楽しんでもいいのではないでしょうか。がんばれ"パルケ・エスパーニャ"!!    このままだとUSJに喰われちゃうぞ。

496-3月31日(土)
昼の休憩時間を利用して、フルートの演奏会を聴きに行ってきました。会場は、元町5丁目の"アマデウス"というクラシック喫茶店です。元町商店街の中にあります。ここはそう大きくないところですが、グランドピアノがあり、地下ということで、音響がいいとの評判です。よくクラシックの室内楽コンサートが開かれています。

演奏者は、Nさん。この女性(ひと)とは、25年以上の付き合いなのですが、初めてフルート演奏を聴きました。京都芸大でフルートを学んでいた頃からの知り合いなのです。いつも友達数人とわいわいと集まっていた時に、会っていた人なので、ついぞNさんが本職のフルートを吹いている機会はなかったのです。

フルートは、音量が大きくないのですが、細かい表現が出来る木管楽器なので、ファンの人も多いのです。Nさんは、西区の自宅で、フルートを教えています。会場には生徒さんも聴きに来ていました。またコンサートには、姪っ子も出演。彼女は、今年神戸女学院の音楽学部に入学したてのまだ若手の歌手です。身体つきは大きくないのですが、いい声を出していました。(それにしてもクラシックの歌手というのは、全身を使って発声するものです)

今日の演奏会は、こぢんまりとしたものでしたが、Nさんと姪っ子がソリストであることによって、会場がアットファミリィな雰囲気で、いい感じでした。音楽家というのは、こうして小さなコンサートを積み重ねていって、キャリアを積んでいくんでしょうね。
495-3月30日(金)
寒の戻りでしょうか。少し冷えます。店内は再び暖房を入れています。拙宅に帰っても、ストーブに火が入っていました。

それでも、拙宅からすぐ北の六甲の山々の中腹が、うっすらとピンク色がかっているのです。そうです。桜です。それも地上に近いほど、ピンク色が濃いのです。あのあたりは、登山道に多くの桜が植えられていて、"花街道"が出現するのです。

拙宅のすぐ北に位置する公園の樹木を切ったために、普通は見えない保久良神社の鳥居がくっきりと見えます。あのあたりは、神が降りてくる場所としてあがめられている昔からの聖地です。桜が満開の頃に訪れたいものです。

494-3月29日(木)
ストライプというものをご存じでしょうか。携帯電話につける"紐"なのですが、いろいろと工夫されたものが出回っています。筆者はこのストライプのことを"現代の根付"と呼んでいます。ご存じ、根付は、着物の帯留めが芸術的に進化したものです。大阪・天王寺公園内にある大阪市立美術館の常設展示場に、"根付コレクション"があり、それはそれは見事なものです。

根付は、最初実用品だったのですが、やがて実用を離れ、愛玩のための芸術作品に変化していきます。小さいものですが、加工しやすい象牙などの素材を使って、実に精妙に作られています。ストライプも、こうしたJaponの伝統的な美意識(細かいものにこそ細工を徹底して究める審美感)が反映されています。もちろん、今は、工業的に生産されているので、意匠のディテールに凝っているものはそう多くありません。しかし、その種類の多様さといったら、このストライプで、将来、ひとつの博物館が出来るぐらいの量ではないでしょうか。

筆者は去年夏から、携帯電話を持っていて、姪っ子からもらった"たれパンダ"を付けていたのですが、先日変えました。"第2代"の根付は、韓国製です。JR元町駅より少し西の"高架下"にある韓国衣料店で買った、(名前は知りませんが)紐を、縄文字のように結っているものです。よく韓国女性が"チマ"につけているものの、ストライプ版です。そのストライプにもうひとつ付けているものがあります。ゴジラがサッカー・ボールを蹴ろうとしているものです。これはこれで精妙に作られていて、気に入っています。息子たちと"ペア"で使っているのです(但し息子たちは、塾へ行くときのバックに付けています)。
493-3月28日(水)
もうすぐ、2000年度もおしまい。

ホッとするやら、来年度がコワイというか、複雑な思いです。どうも今年度より良くなる可能性は少なく、筆者の性格なのか、万事悲観的に考えてしまいます。ただ、レストラン業に特化して考えますと、大阪に31日に開業する"ユニバーサルスタジオ・ジャパン"に期待したいと思います。

去年の三宮周辺は、淡路の花博に、お客さんを取られた格好となり、特に5月のゴールデン・ウィークを中心に売上げが落ちたところが多かったようです。また夏もふるわず、淡路と神戸の商圏が同一であるために、神戸までお客さんが回ってこなかったのかもしれません。

今度は、USJが大阪にあるので、大阪のレストラン・飲食関係が打撃をこうむるかもしれません。ただ、神戸のレストランとしては、関西以外から来るお客さんが、ひょっとて神戸(または京都)に回ってきてくれるかもしれない、と期待するのです。といいますのは、大阪は生活する街です。観光都市としては、神戸・京都の方が、魅力あるでしょう。

今年あたり、GWに、神戸のガイドブックを持ったお客さんが、カルメンに戻ってきてくれるような気がするのです。
492-3月27日(火)
新イスパニック・クラブが主催している「スペイン語をしゃべる会」が、3月31日(土)午後1時から、カルメンで行われます。会費は、ランチの代金のみ。午後3時まで、徹底してスペイン語のみの会話を楽しみます。

スペイン語を話す場を探している人、スペイン語圏人、少しでもスペイン語をしゃべれる人なら誰でも参加できます。カルメンのランチは、¥1000、¥1200、¥1300の三種類があります。コーヒーもついているので、二時間過ごすのも、充分間(ま)が持ちます。

参加希望の方は、カルメン(電話078-331-2228)か、新イスパニック・クラブ(電話078-221-2564FAX兼用、koenigin@f5.dion.ne.jp )まで、問い合わせてください。

この会は、毎月一回開かれているもので、先月からカルメンが会場となったものです。どうぞ気楽に参加してください。筆者は、スペイン語はしゃべれないのですが、知っている限りの単語を全部しゃべって参加しようかという"野望"を持っています(笑)。
491-3月26日(月)
カルメンの定休日。

朝からパソコン作業。長男が昼前にクラブ活動を終えて帰宅したので、子供達と三宮へ。"壁の穴"というスパゲティ専門店で食事。この店は、東京が本社で全国展開しているスパゲティ専門店です。筆者が独身時代は今よりもっとブレークしていて、大阪の"ナビオ(現在はHEPに名称変更)"に出店したてのころは、行列がいつも出来ていた繁盛店でした。

久しぶりに、食事をしてみて、20年前と較べ、イタリア料理を食べさせる店が増えたことを実感しました。つまりイタリア料理を食べる機会が増えたことになれます。また筆者がスペイン料理という、イタリア料理に近いと言えば近い料理に携わっていることもあり、評価基準が辛めになっています。こうしたチェーン店は、効率を上げるためと、各店舗間の味のばらつきをなくすために、セントラル・キッチン方式を採用しているところが多いのです。

パスタなり、料理なり、西洋料理の決め手はソースです。"壁の穴"のような全国展開店は、おそらく、レストランのコア(精髄)の部分は、本部から供給されたものと思われます。それはそれで、経営者の立場からすると効率性の観点からも、評価すべきシステムなのです。

ただ、カルメンのように単店舗展開している店の立場からすると、その店の魂の部分であるソースを自前供給していないということは、何か違うなという気がしてならないのです。これだとコシネーロたちも、ただ単に"加工労働者"でしかありません。新しいメニューを開発したくても、チェーン店の縛りがあって、展開しずらいということがあるでしょう。

メニューにはパスタと若干のサラダ類が置かれていました。まあ、夜になるとまた品数が増えるのかもしれませんが、最近の各イタリア料理店の頑張りを見ていますと、魚料理や、パスタ料理、またはリゾットなどもメニューの中に欲しいところです。そろそろこのチェーン店もリニューアルの時期かな、と勝手に決めつけてしまいました。ちなみに味は合格点でした。

あと我々は、星電社とダイエー三宮店に入っているジュンク堂書店へそろって行きました。ここはそこそこにお客さんが入っていました。子供達は『バトルロワイヤル』『イソップ童話』『名探偵コナン』を選びました。でも本好きの筆者からすると、こうした子供達の本の選択はちょっと寂しい限りです。もっと面白い本がいっぱいあるのにとの思いです。

それはともかく、このジュンク堂書店の面白いところは、ワンフロワーで展開しているので、自分が関心のない分野の棚でも、時にふらりと訪れてみることが出来、そこで偶然手にとった本(ジャンル)に惹かれるという楽しい副産物も期待できるということです。
490-3月25日(日)
487話(3月22日)で、次男の卒業式の写真をこのサイトに掲載しました。体育館の正面には大きな日の丸が掲揚されています。これは正面に据えられているので、見ないわけにはいきません。

兵庫県の学校では、日の丸も君が代斉唱もごく自然な形で学校行事のなかで定着しています。しかし、筆者は君が代斉唱の時、起立しません。いつもそうです。同居人の女性(妻)は起立します。彼女がどう行動するか筆者は規制しません。だから夫婦で対応が違うのです。彼女は筆者がいつもこの時に着席している姿を、見慣れているようです。

着席している間、周りを見回しました。同行の志を発見したのです。しかも顔見知りの人です。岡本駅の北にあるプロテスタント系教会のT牧師です。毅然とした風で座り続けています。「ああ、この人は信頼できるな」と思ったのです。

朝日新聞を読んでいると、東京の自治体で、学校行事の君が代斉唱の際に起立しない政党の議員を来賓として呼ぶべきではないとの保守陣営の声があって、学校側もこの声に応えようとしているとの記事がありました。

世の中、悪くなっていきます。
489-3月24日(土)
広島県を中心に地震がありました。午後3時28分ごろです。長い横揺れでした。神戸は震度3。立っている人、歩いている人は気付かなかったかもしれません。死者2人。数は関係なく痛ましい限りです。

Japonの列島は地震の活動期に入り、いつどこで大きな地震がおきても不思議ではないのです。神戸は、震災によって大きく傷つき、今もその後遺症から立ち直っていません。この街にとって、震災以前・以後というのは、大きな区切りです。戦前・戦後に匹敵するメルクマールなのです。人々の日常会話の中で「あれは震災より前のことやったな」といった表現で、生活の中で奥深く定着しているのです。

今回の地震で、これ以上被害が広がらないことを願っています。

488-3月23日(金)
今日は、花束を持った人に多く出くわしました。3月末で、今の職場を去る人、もしくは退職するひとでしょう。今日は金曜日。来週の金曜日は文字通り年度末最後の週末なので、送別会を今日にした会社、事業所が多かったようです。
 

カルメンは、本日満席でした。何組か予約なしで来られたお客様には、帰っていただきました。ゴメンナサイ。これも伝統店の宿命です。懲りずにまたのご来店をお待ちしています。

今日来られた団体さんは、中高年の男性が多く、ウィスキーのボトルや、ビールといった飲み物が多く出ました。また、ワインも赤よりも白の方が人気があったようです。それにしても今日はビールがよくでました。日一日と暖かくなっており、ビールの喉ごしが爽やかになっています。このところの暖かさに、寒がりの筆者もとうとうコートを店に置いて退社するようになりました。春はもうすぐそこ。

春の気配というのは急に訪れるものなのですね。でもまだ、寒の戻りはあるでしょうけど。
487-3月22日(木)
筆者の次男が神戸市立小学校を本日卒業しました。

思い起こせば6年前、次男が入学したのは1995年。阪神大震災の年でした。入学式は、校庭にしつらえられた特設テントでした。体育館は倒壊を免れたものの、被災民が生活していて、とっても使用できる状態ではありませんでした。

卒業式で、思い出を語るコーナーでは、「入学式というのはテントでやるものとずっと思っていた」と証言する女の子もいました。この学年が卒業すると、学び舎に被災民がしばらく同居していたことを知る生徒たちはいなくなるのです。その小学校は、次男の入学でちょうど創立120年を迎える歴史の古い学校です。次男の小学校生活は大変なスタートだったのです。

その小学校、1年生の時は3クラスでした。この校区は家屋倒壊率が高く、多くの住民が家を失い、また家がなんとか残ったものの、筆者のようにライフラインが復活するまで校区を離れていた家族もあるなど、地域に人が戻ってこなかったのです。それが3年になると4クラスに。街に住民が帰ってきたと同時に、倒壊を機に新しく建ったマンションの新住民の子供達が、入学してきたのです。もともと人気のある住宅街です。卒業生の数から一年入学時の生徒数を引いてみると、単純な計算なのですが、三人に一人は転校生ということになります。土地の有効利用度の高い地域ならではの宿命でしょう。

筆者にとってもこの小学校は忘れることのできない学校です。震災があった1月17日から3日間、家族で避難生活をしたのですから。次男がこの学校ですごした6年間は、筆者にとっても重い意味を持つのです。
486-3月21日(水)
カルメンの休みの日。

筆者は、ある事情で、この日一日パソコンをさわっていました。パソコンを購入して4年がたちます。この間、次々と新しい機種が発売されて、筆者の持っている"最新機種"は、もう完全な中古商品。商品の移り変わりは激しいものです。ただ、スキャナー、MOディスク、プリンター、モデムと完全武装していて、パーフェクトにDTPが可能なのです。それに、最近、外付けスピーカーも買って、周辺機種が多くなってきました。

パソコンを起動させるのに、合計七つのスイッチを入れることになります。スイッチの数が多いので、一つ二つ消し忘れることがあり、同居人の女性(妻)に、いつも注意されます。

少し前に、息子のためにiMacを購入しました。DVDが見ることが出来る機種です。しかし、今売り出している機種は、もうその機能は搭載されていません。代わってCD-RWが使えるのです。つまり、何度も書き込めるCD-Rといったところです。この機能があれば、自分好みのオリジナルCDを制作することが可能です。

筆者は、永くFMわぃわぃで奄美の島唄の番組を担当しているので、オリジナル音源がいっぱい溜まっています。このCD-RWへのコピー機能さえあれば、奄美の島唄CDを作ることが可能なのです。タイトル名は「FMわぃわぃ特製/奄美の島唄」といったところでしょうか。
485-3月20日(火)
杉花粉が盛んに飛散しています。

新聞の花粉情報をみると、ここ数日「非常に多い」のままです。いったい兵庫県南部にやってくる花粉はどの地域の杉なのでしょうか。

この杉や檜は、戦後の荒廃した山地に、収益性の高い樹木として、さかんに植林されました。しかし安価な外材が流入したため、山の維持費さえ出ず、間伐すべき時に、人手を入れなかったので、商品としての値打ちにならない杉が、全国各地に沢山でてきてしまった。その戦後生まれの杉が人間に向かって叛乱している-----というのが筆者なりのうがった見方です。

今年は去年の三倍の飛散量だとか。花粉症になるのはもともとアレルギー体質の人ばかりとは限りません。最近となって、カルメンのスタッフ・Tさんが、急に花粉症の症状が出たのです。耳鼻咽喉科にかけつけたら、いつ行っても一杯だそうです。自分でもどうして花粉症になったのか分からないそうです。

今年は飛散ピークが長いといいます。筆者もここ数日は薬なしでは、生きていけません。ずいぶんこれでもマシにはなったのです。それでも鼻水がタラリと不可抗力的に落ちる様は見苦しくていけません。はやく花見のシーズンになってほしいものです。

484-3月19日(月)
月曜日ですが、明日が祝日なのでカルメンは営業しています。

日銀が「量的緩和」に踏みきり、実質上の"ゼロ金利"復帰を容認する姿勢に転換しました。去年8月に"ゼロ金利"政策を解除したのですが、また逆戻りの政策をとることになったわけです。これは最近の急激な株安傾向と、一向に改善の兆しがみられない日本経済の実態に対して、日銀も重い腰をあげたこととなります。

今、Japonの経済は、他国(アメリカ)の店頭株式株(ナスダック)の動向に一喜一憂するという、著しく自律性を欠いた状態になっています。去年の春から夏にかけて、企業収益が順調に回復していったことに、政府がおこなってきた経済政策が効いてきた、あとは個人消費の回復を待つばかり、といった雰囲気になっていました。

しかし秋には、また再び経済が失速するようになり、かてて加えて、ずっとおびえていた、いつかやってくる米国の不況が現実のものとなってくると、企業の設備投資や、消費者の消費も冷え込むことになります。

90年代を振り返ってみますと、毎年、1月から3月ぐらいまでは、そんなに調子は悪くないのです。新年となり春=新しい季節・時代を迎えるという期待感が、一般消費を現状維持にさせるのでしょう。しかし、春を過ぎ、梅雨となり夏・秋になると、上半期はしのげるが、下半期はどうも乗り切れそうにないと言う企業が倒産します。

これから銀行の「不良債権」を処理するために、ハードランディング的な処置も断行すると政府は言っています。すると、われわれ庶民レベルでは、企業倒産、失業につながっていくのです。ひょっとして、今年より来年のほうが経済は悪くなっているのかもしれないという、経済の素人なりの危機意識が働くのです。本日は"暗い"話になってしまいました。
483-3月18日(日)
昼の休憩時間を使って、シャンソンを聞きに行ってきました。会場は、神戸市立博物館。歌うのは、森潔さんという芦屋在住の方です。

去年末、筆者がDJをつとめるFMわぃわぃの特別番組「長田人物交差点」にゲストとして出演してもらった方です。筆者と森さんとの出会いは、異業種交流会の"宴会"をカルメンで持つために、その打ち合わせで来店された去年夏ごろからのお付き合いです。

森さんと話してみるとなかなか面白い。もらったプロフィールを読んでいると、法律の研究者になるべく大阪大学法学部大学院まで進んだという"変わり種"です。それが大学の先生にならず、シャンソン歌手の道を選んだというのですから、人生はわからないものです。

初めて会った時、あまりに話が弾んだので、年末のラジオ番組のゲスト出演もお願いしたのです。森さんのシャンソンの特徴は、全篇フランス語で唄うこと。シャンソンなら当たり前のようですが、Japonでは越路吹雪のような日本語で唄うシャンソンもそれなりの歴史と実績があって、日本語だけでシャンソンを歌う人もいます。森さん曰くには、Japonでフランス語だけでシャンソンを歌うシャンソン歌手はごくごく少ないようです。

会場となった地下ホールは、大きさからいってもちょうどいい広さで、筆者のお気に入りの場所です。なにせ市立博物館となるまでは東京銀行(旧・横浜正銀)神戸支店の地下金庫だったらしく、館内の重厚で少しひんやりとした雰囲気がこれまたいい感じなのです。

コンサートは、二部構成。森さんはフランス語の翻訳などを生業としていることもあって、会場には、自分で訳した歌詞集も配られるというきめ細やかさ。派手なステージ・パフォーマンスも、シャンソンと離れたトークもなく、淡々とシャンソンを歌い込むというシンプルな舞台でした。そしてシンプルゆえに、シャンソンの原語が持つ言葉の魅力が、伝わってくるという、いいステージだったと思います。

シャンソンといえば、秋をイメージします。今年11月には、カルメンで、森潔さんの"シャンソン at  カルメン"のディナー・ショーを開くことも検討しています。
482-3月17日(土)
ダイエー三宮店が、リニューアルオープンしました。売り場を全面改装。一階が食料品売り場から、化粧品売り場に。ちょっと百貨店風。食料品はB1F、B2Fに集中。肉売り場などは、確認できず。上の階に行って、まず変わったのは、7階にジュンク堂書店が入ったことです。

これは隣りのサンパルビルから"引っ越し"したもので、売り場面積が増えました。かつてこのサンパル店は、センター街にある本店の売り場拡張にともなって、縮小したばかりです。それをまた再び、ダイエーに移ることで、売り場面積を拡大したのです。その拡大のさまは、並ではありません。

筆者なりに考えますと、ダイエーが集客力をのある書店を、駅前基幹店舗に誘致したのではないでしょうか。ダイエー系には"アシーネ"という書店網がありますが、大型店舗の展開の実績がないのでしょう。テナント料も、ダイエーはサンパルより値引いたのではないでしょうか。ダイエーは今、再建に必死です。収益のあがる店舗については、徹底して底入れしようという狙いなのでしょう。

不況下で、出版物の売上げが低迷している中でも、大型商業ビルに書店が入っていると、魅力です。幅広い客層をそのビルに呼び込むことが出来ます。今回のダイエーの三宮店リニューアルは、言ってみれば、中内さんらしくない商法です。彼は良くも悪くも、スーパー・ダイエーというメディアは、実用品(生活必需品)を売るところだ、文化的装置(劇場や、大学運営など)は、別のメディアで展開すればよろしいとの、考えだったと思います。

今回、ジュンク堂書店を取り込むことで、スーパーの中に今までの非実用品売り場を持ってきたことになります。ダイエーは変わっていくのでしょうか。神戸の流通業も激変の時代になっていきます。あと数年後、そごう百貨店はおそらく消滅し、西武百貨店になっているでしょうから。そうなると、神戸は"パ・リーグ"の街になってしまうのですね。

481-3月16日(金)
筆者が毎日利用するJRの駅に、早咲きする桜があります。だいたい3月末ごろに満開になるのです。なんという桜の種類でしょう。花びらは、薄い薄い、殆ど白に近い色をしています。

桜が注目されるのは、4月上旬なので、いつもこの桜は、筆者が知らないうちに咲いていているのです。3月下旬というのは、世間が年度末だったり、カルメンも忙しかったりで、たいていは満開を見過ごしてしまいます。

今年はデジタル・カメラがあるので、記録に残そうと思っています。これは出勤前に写したのですが、早くも三分咲きのようです。この駅の南側には、低い樹高の八重桜があります。これも4月下旬に向けて、立派な花を咲かせます。桜という花は、Japonの人たちが大好きなこともあって、注目度は高いのです。
480-3月15日(木)
この時期は、春の芽吹きが、都会のなかでも多くの場所で見ることが出来ます。
拙宅の近くに、ガクアジサイが見事に咲く家があって、昨日、春の新芽が出ているのに気づき、今朝さっそくデジタルカメラに収めました。

驚いたことに、昨日よりさらに元気に芽があふれ出すように、成長しているのです。植物にしろ、動物にしろ、育ち盛りというのは、怖いほどに成長のスピードが早いものです。

この家のガクアジサイ。筆者がこの花を好きになった"功労者"なのです。清楚な青を基調に"凛"と咲くさまは、ボテッとした西洋人が品種改良したいわゆるよく見かける紫陽花より気品があるのです。シーボルトが愛したアジサイも、実はJaponの在来種であるアジサイであるのです。

写真に収めたガクアジサイのある家は、3本もガレージ部分に植わっていて、まさに"紫陽花の家"。道行く人の毎年の悦楽を提供してくれるのです。6月7月の開花が今から楽しみです。
479-3月14日(水)
いわゆる"ホワイト・デー"。

ちょうど先月のヴァレンタインデーは、それらしき人たちは多くなかったのですが、今日はカップルの姿が何組か見かけました。最近は、ヴァレンタインデーも"ホワイト・デー"も、かつてほど、盛んではありません。まあ、これらが週末にあたる年はまた盛り上がるのでしょうね。

それにしても、"ホワイト・デー"で女性にあげるプレゼントを選ぶのは、難しいものです。筆者はもっぱら同居人の女性(妻)任せ。彼女は元OLであるため、そういう事務所内で交わされる人間関係がからんだ諸事全般のことについての勘所を承知しているのです。ただ、彼女がOLをしていた時代は、ヴァレンテインデーが普及していなかったそうです。

時代の変化は激しいもので、20年前のOLたちは、伝票はまだ手作業で起こしていたため、今のようにパソコンを駆使する必要はなく、ワープロもまだまだ高価で、普及していませんでした。そんなときに活字入力を担当していたのが、タイピストと呼ばれる人たちでした。このタイピスト(だいたいベテランの中年女性)の機嫌を損ねると、仕事をしてくれないか、遅らされるといったことが、たまにあったようです。

今や、誰でもパソコンを触る時代。あのタイピストたちは、今いったいどうしているのでしょう。WordやExcelなら、男女を問わず若い人の方が早いに決まっています。彼女たちも今やパソコンに向かっているのでしょうか。タイピストという職種も20世紀で"絶滅"した職種の一つなのです。
478-3月13日(火)
今日は、13日の火曜日です。

おや、間違いではないの?  あれは確か13日の金曜日だったはずではと思われるでしょう。スペインでは、13日の火曜日に何か悪いことが起こると信じられているのです。

"martes y trese(マルテス イ トレセ)"と呼ばれるもので、火曜日=martes とローマ神話の軍神Marteが結びついたものであるらしいのです。この日が嫌われたのは、スペイン軍が歴史的にこの"martes y trese"に負けたことが重なったためのようです。いわば「大凶」の日。たかが迷信ですが、やはり気にする人は気にするのです。

諺にも、この"martes y trese"を扱ったものであり、「火曜日には結婚するな、船にも乗るな」というのがあるのです。(『スペインを読む事典』中丸明著、JICC刊)。

ところで、みなさんの13日の火曜日はいかがでした?  筆者は、捜し物が見つからず閉口しました。まあ、整理能力が優れているとは思えない筆者のことですので、捜し物が見つからないのは、この「大凶日」の事に限ったことではないのですが。
477-3月12日(月)
カルメンの定休日。

娘が風邪をひいて休んでいます。昼食は、同居人の女性(妻)と、三人でとりました。せっかくの休みの日なので、食後に昼寝でもしたいところですが、本日はFMわぃわぃ「南の風」の放送がある日なので、準備の仕上げに取りかかります。

本日のゲストは、大山勝男氏。大阪日日新聞の記者で、沖永良部二世。その大山氏が『愛しのキョラ島』(沖洲通信社刊)という本を刊行したので、著者本人に本の中味を語ってもらうことにしました。同書は、前半が、奄美復帰運動のリーダーだった泉芳朗のことについて。そして後半は、教科書密航事件についてです。

大山氏と筆者ならびに、「南の風」の番組でミキシングを担当したFMわぃわぃ・チーフプロデューサーの野村昭彦氏は、共に神戸奄美研究会員。番組終了後、局近くの奄美郷土料理店「うたげ」で、飲み会をひらきました。そこに友人たちを呼び寄せて、合計5人で黒糖焼酎を飲み交わしました。やはり著者にとって、冬場は、お湯割りで飲む黒糖焼酎が身体を冷やさないために、ちょうどいい具合なのです。

この日はちょっと一杯のつもりだったのですが、とうとう店がひけるまで午後11時まで飲んでいました。ついでにJR鷹取駅前の屋台のラーメン屋に立ち寄るというオマケ付き。焼酎だから、翌日は殆ど二日酔いはしないものの、この日一日で一升瓶を一本空け、また深酒をしてしまいました。酒飲みという種族にとって「反省」という言葉の有効期間はごくごく短いようです。
476-3月11日(日)
筆者は奄美の日刊新聞にコラムを書いています。隔月の掲載で名前は「神戸から」というものです。今年一年間だけなのですが、原稿はすべてメールで送っています。そして写真もまたメールに添付して送るようにしているのです。

ひと時代前と較べると、通信環境が大きく変っています。奄美は鹿児島よりずっと南に位置する島嶼群なので、郵便なら、少しでも早く届くように速達にしておこうかという判断が生まれます。まあ、実際は台風でも来ないかぎり飛行機便なので、そんな時間はかからないのですが、やはり郵便は、物理的な距離を意識してしまいます。

この点、メールだとあっという間に送れてしまうのです。あっという間、ということでしたらファックスもそうなのですが、電話料金がはるかに違います。ファックスは送る相手先までの電話料金がかかりますが、メールなら契約しているサーバーまでの市内通話料金ですむのです。

メールはもはや、現代人にとってなくてはならない通信ツールになっているのです。手紙は自筆でなければ、味気ないし、ワープロ文書では"心"が伝わらないという価値観があります。こうした価値観のもとでは、自筆文字、ワープロ文字と分けて使う必要があります。この点、メールだと最初から電脳文字だけなので、筆者のような悪筆家にとっては、随分気が楽なのです。それに、パソコンのキーボード操作に慣れてくると、手書きよりはるかに早く書け、しかも、間違いが少ないという利点があるのです。
475-3月10日(土)
Jリーグの公式戦が始まりました。J1チームの総入場者数は、開幕第一戦に関して言えば、去年より多かったそうです。

神戸のプロサッカーチームである"ヴィッセル神戸"も横浜マリノスに1-0で辛勝。なんとか新生チームの一勝を第一戦で飾ることが出来ました。やはり三浦カズのチーム参加が大きく影響しているようです。神戸スポーツ界にイチローを継ぐスターが登場した瞬間です。

今日の試合は、横浜での試合なので、神戸に帰ってきた時は、確実に去年よりお客さんが増えていることでしょう。なにせ、横浜には去年一勝も出来なかったそうたですから、今年前半は、去年の7位と同程度の活躍が出来るかもしれません。オリックスが去年に較べて、より地味なチームになってしまった分、神戸のスポーツ・ファンは、Jリーグに興味が集中するのではないでしょうか。

そしてオリックスについて言えば、今年は、セ・リーグとの試合日の重複を避けるために、月曜日にペナント・レースが何日か開催されることになりました。これは、月曜日が休みの筆者のような立場のファンには、朗報です。いつ行っても、余裕を持って座れるグリーンスタジアム神戸は、筆者のお気に入りの球場です。今年は何回か見に行きたいものです。しかし、今年、オリックスの年間予約席は、去年に較べて申込者が減っているそうです。"仰木マジック"で新しいスターを作ってほしいものです。
474-3月9日(金)
積もりはしなかったものの、一時、吹雪きました。天気は冬に逆戻り。経済や社会の調子がおかしいと、天気もすぐ過去に戻ってしまいます。

そして寒い。寒波が次々と押し寄せて、コート、手袋が離せません。例年なら、四月中旬の気候の日が、時々あったりするのですが、今年はそうした春の予祝めいた日は少ないのです。

大学時代の友人・Sがふらりとカルメンを訪れ、店を閉じた後、一杯飲みに行こうということになり、筆者が三宮で唯一知っているスナックへ行きました。筆者と同年齢のママがしている店です。

スナックというジャンルの店に行くのは、おそらく40歳代以上の人でしょう。筆者がスナックを嫌うのは、カラオケを歌わせること、じっくりと話が出来ないことのためです。この日もママが「久しぶりに忙しいわ」と言っていたように、カラオケがしょっちゅう鳴っていて、うるさくて仕方ありません。それにウィスキーという飲み物も、水割りかロックで飲むので、冬は身体を冷やすばかりで、調子が悪くなるのです。

それに女の子たちが、グラスのアルコールの量が少しでも減ると、すぐに継ぎ足しにくるのも閉口します。つがれれば飲んでしまうし、断って自分のペースで飲もうとすると、雰囲気を悪くします。

スナックという場所は、カウンター席から見ていると、ママを含めた女性たちが、男たちのために、お客様のためとはいえ、忙しく働く姿を見ることが出来ます。こうした風景は、いまや家庭、職場では(表面上は)見かけなくなったものです。女性が、男のために働くという古風なジェンターが現出している"仮想空間"であり、男達は、このバーチャルな男性優位空間に身を委ねることに、快楽を見いだしているのでしょう。

「カラオケ、ウィスキー、女性の古風なジェンター演出」が苦手な筆者にとって、スナックは、心安まる空間ではないのです。
473-3月8日(木)
雪が降っています。

寒い三月です。グリーンスタジアム神戸で行われたオリックス対広島のオープン戦の途中、雪が降り出し、ゲームが降雪のために中止となったそうです。スタジアムがあるあのあたりは、カルメンがある六甲の南と違って、少し山がちなので雪も降りやすいのです。夏は市街地より涼しくていいのですが。

さて、今年のイチロー抜きのオリックスは、どれほどの成績を残すのでしょう。なんとか上位にくっついていって、優勝争いに加わってほしいものです。しかし、今年のプロ野球の戦前予想ほど面白くないものはありません。筆者は、今秋に実現が"期待"されていると報道されている「ON再対決」なんて全く興味がありませんし、この話題が全面に出てくること自体、他の10球団をバカにしていると不愉快なのです。

とはいいつつも、セ・リーグに関しては、巨人がまた今年も優勝するのでしょ?  あれだけの選手を巨額な金をかけて集めているのですから 、優勝しないほうが不思議です。「だも、しかし、勝負はあけてみないと………」といった淡い期待もセ・リーグに関してはしません。単に徒労に終わるだけです。勝手に優勝すればいいのです。巨人が優勝したって、その経済効果で日本経済は好転することもないし、東京という都市が独り勝ちする現象が加速するだけのことですから。

筆者は、むしろTOTOが始まるJリーグに関心がいっています。このTOTOも、両面性があります。つまりいくらイタリアで定着しているからといっても、金をかけて行う行為には違いないので、サッカーがギャンブルスポーツになりきってしまう怖れがあります。

こうした表現を使えば、筆者のギャンブル・スポーツについての識見を問われるのですが、Japonには、公的にはギャンブルの対象とならない野球というスポーツが根づいているので、どうしてもサッカーは比較されていまうのではないでしょうか。サッカーを楽しむというより"賭け"の対象としてしか、見ない現象も出てくると思われます。

TOTOが普及していい面は、やたら精神主義を唱える野球の胡散臭さと、全く違うレベルで存在する、時にはギャンブルの対象でもある、あっけらかんとしたサッカーというラテン的な国民スポーツが定着するということです。

サッカーという球団は、面白いもので、平気でチームの構成員を大幅にシーズンごとに変えてしまいます。野球という"一所懸命"の選手のあり方、つまり長島イコール巨人とか、村山イコール阪神、といった選手イコール球団と直結したイメージをやすやすと壊してくれることです。野球も少しずつ、選手の移動が盛んになっていますが「所属チームに骨を埋める」的な生き方をしている選手に対して、賛美が集まる傾向があります。

これはJapon社会が〈野球=停年までの一貫就社型〉から〈サッカー=会社を渡り歩く就職型〉のありかたを、許容していく過程とリンクしているのかもしれません。ヨーロッパのサッカー・チームもまた選手の移動が激しいのだとすると、球団そのものが特定の選手やスポンサーでもっているのではなく、そのクラブ・チームを支える地域の共同体の存在が基盤になっていることが、見えてくるのです。サッカーはひょっとして健全なパトリオシズムを育むスポーツなのかもしれません。

472-3月7日(水)
昼間、ドイツ人女性のお客様がいらっしゃいました。

在日30年で日本語は達者。大学でドイツ語を教えています。
ドイツはハノーバー出身。バルト海に近いために、冬でも内陸部より少しだけ暖かいとのことです。いわば北部ドイツ。この国も北と南では様相がことなる土地柄です。(ついでに言えば西と東も違うのですが)その女性自身「南北では言葉も身体つきも違います」と言うように、北ドイツは、大柄な人が多く、顔も直角的。黒髪の人も見かけます。一方、南ドイツは、ミュンヘンという都市にみられるように、ドイツの中では開放的な雰囲気に満ちていて、どこか陽気です。

ドイツという国は、州の自治権が強く、それぞれが一つの小さな国家(state)を形成しています。これは、プロシア〜ナチス・ドイツの極端な中央集権体制の反省から、各地域に自治権を持たせて、中央政府の絶対権力を認めない選択をしたのでしょうか。あるいはもともと神聖ローマ帝国を見ていると、各地域の諸侯が、割拠。そのそれぞれが自治権を行使していて、その上に皇帝が君臨しているという"封建体制"の伝統を踏襲しているのかもしれません。ドイツ史の詳しい知識がないので、これは想像でしかないことです。

今、ヨーロッパの中の"ドイツ"で一番注目を集めているのは、ロシアのバルト海に面した飛び地"カニングラード"でしょう。かつて哲学者カントが住んでいた都市です。(カントの一生はほとんどこのカニングラードを出ることはなかった)。かつてドイツ騎士団領として、そしてハンザ同盟の都市として繁栄していたのです。しかし、第二次世界大戦のどさくさに紛れて、スターリンがソビエトに併合。戦後、この都市から徹底的にドイツ色を排除していきます。つまりロシア人をこの都市に住まわせ、ドイツ人は、ドイツ本国に送りつけるか、それでもこの都市に残るものは、ソビエト内部に強制移住させたのです。

だからこのカニングラードに現在ドイツ系住民は多く住んでいないはずです。20世紀の全体主義というのは、どんな思想に依って立っているかは関係なく、随分と無茶をしたものです。先日の新聞にも今はドイツ本国に住んでいる旧カニングラード住民が、昔自分たちが住んでいた家を訪ねていったり、ロシア内陸部に移住させられていたドイツ系住民が、"故郷"のカニングラードに住み替える人もいると報道していました。

筆者は昔から、歴史地図を見るのが大好きでした。特に高校で世界史を選択したことから、山川出版刊の副教材『世界歴史地図』は、何時間みていても飽きなかったのです。この本は、受験の時にボロボロになるまで見ていたので、30歳を過ぎて、改めて買い直したほどです。

このカニングラードも筆者がずっと気になっていた場所であったのです。周囲と明らかに違う色分けされている都市が、中世から本国ドイツと離れて存在していることに、心ときめいたのです。空想好きな筆者のことです。この事実だけで何時間も空想を豊かにできたのです。それにしてもドイツという人・民族は、商才にたけ、かつ軍事力も伴っていたので、中世から膨張傾向があったのですね。"中欧の覇者"として、周辺の民族・国家に警戒されるのも理解できることです。
471-3月6日(火)
イカナゴ漁が解禁されて、店頭に新仔(しんこ)が並ぶようになりました。神戸に住む人間は、このイカナゴのくぎ煮を食べないと、早春の気分にはなれないものです。くぎ煮は、各家庭によって少しずつ味付けが違い、また年によって上手にたけているいるかどうか、変ってくるので、神戸の人たちは、新仔が登場すると、嬉しさ半分、緊張半分といったところでしょうか。

筆者のくぎ煮の好みは、固くならず、味もさっぱりタイプのものです。新仔をそのまま酢醤油につけて食べるというのも、くぎ煮以上に好きな食べ方です。新仔が大きくならない内は、毎日食べてもあきない食べ物です。

今年の解禁日は、少し遅らせたそうです。1月の寒波で、イカナゴの成長が遅かったためです。そして解禁初日は海が荒れて、出漁出来ませんでした。去年は、淡路の花博会場へ商品として回ってしまったらしく、市場では品薄状態でした。今年はさてどうでしょうか。

カルメンとしては、せっかくの旬の魚ですので、なんとかスペイン料理に出来ないかと考えています。考えられるのは、アングラス・ア・ラ・ビルバイーナのように、オリーブオイル、ニンニク、鷹の爪で味を調えるか、それと似ていますがピルピル(アヒーリョ・ソース)もの、またはフリートスにするかを考えています。今は出回ったばかりなので、高ぶくみですが、3月中旬になると価格も安定してくるので、カルメンの季節料理として、お出しできるかと思います。
470-3月5日(月)
カルメンの定休日。

FMわぃわぃ「南の風」、今日の放送は、前半部分が、去年名瀬市民会館で行われた西和美さんの島唄コンサートの私家版CDを。後半は昨日行われた「ばしゃやま会」のコンサートの様子を放送しました。

前半では、若手中心に選曲。中(あたり)孝介、貴島康男、茂木幸生氏の曲を選んだのです。特に中さんは、ピアノをバックにして上手に演奏するという面白い試みをしています。さすが、島唄の本場・奄美では、若手で、有能な唄者が続々と登場しているのです。

そして、神戸でも、藤山和也氏という有望な新人に注目しました。ばしゃやま会の会長をつとめる米川宗夫氏は「彼こそが、私の後を継ぐ人です」と太鼓判を押す才能の持ち主なのです。そして、米川氏自身も「今年の奄美民謡大会にエントリーしようかと思っているのです」と意気盛んなのですす

放送終了後、筆者の一家は、塾がちょうど春休み期間中ということで、一家そろって食事に出かけました。これは滅多にないことです。同居人の女性(妻)は、数年前から"バイキング・フリークス"。なにがなんでもバイキングの店・ホテル狙いなのです。そこで、筆者と一緒に眺めた「バイキングのHP」から、甲子園の都ホテルを選択。ところが、彼女、この日食べ過ぎたのか、「もうそろそろバンキングを卒業しようかな」っと、ひとりごちていました。
469-3月4日(日)
昼の休憩時間を利用して、JR神戸駅近くにある"シーガルホール"で行われた島唄の演奏会に顔を出してきました。

「ばしゃやま会」という徳之島出身の人が中心となって結成している島唄教室が、創立20周年を迎えたのを記念して発表会が行われたのです。会は「ばしゃやま会」の他に、「上村藤枝教室」「西神戸教室」のメンバーが賛助出演。琉舞の「川田教室」の人たちも華を添えていました。

会の最初は、徳之島の島唄会らしく「徳之島一切節」。複数の三線が合奏され、華々しくオープンします。続いて、「三京ぬ後」「井之川朝花節」など徳之島の島唄。奄美大島の唄もカサン唄を中心に演奏されます。

島唄ばかりではなく、琉舞があるのとないのとでは、大きな違いがあります。やはり沖縄は、宮廷がかつてあったので、舞踏にしろ、音楽にしろ、洗練されています。一方の奄美は、あくまで民衆芸能であるために、ステージ映えする技術を磨く歴史はなかったために、やはり舞台上では、沖縄の出し物に、一日の長があるようです。
468-3月3日(土)
『東西/南北考〜いくつもの日本へ〜』(赤坂憲雄著)について no.2
 

「ひとつの日本」を自明の前提として、この弧状なす列島の歴史や文化について語る手法は、いよいよ終焉のときを迎えている。「ひとつの日本」の呪縛がほどかれてみれば、そこにはさりげなく、「いくつもの日本」が転がっている。


ちょうど、いい具合に本日の朝日新聞夕刊に、赤坂憲雄氏(東北芸術工科大学教授)が〈「いくつもの日本」を求めて〉と題した文章を書いています。この文章は、彼が『東西/南北考〜いくつもの日本へ〜』で書いた内容をコンパクトにまとめたいい文章です。

昨日は、「ひとつの日本」が出来上がった経緯を書きました。近代以降、国家も国民も「ひつの日本」を希求してきたといえます。しかし、はたして「ひとつの日本」なるものは、本当に果たして存在するのでしょうか。

その前に、赤坂氏が考えている「ひとつの日本」というのは、どういうものでしょう。少しこれを追ってみることにします。

 
列島の大きな民族史的景観をめぐって、ある対峙の構図が認められる。無意識に「ひとつの日本」を抱え込みながら、京都や江戸・東京を中心として、同心円状に周縁や辺境へと、あらゆる文化は広がってゆくものと見なす東西論(がある。)


日本という実体を考える時、柳田国男の仕事をどう評価するかで大きく変わってきます。勿論、柳田は東西論に反対でした。日本が東と西で文化や民族、言語、風習などで、あきらかな断層が見受けられるとの論議が高まった時、「蝸牛論」で反駁したのは、柳田でした。これは、「蝸牛(かたつむり)」を表す表現が、京都を中心として、同心円的に共通性している、という理論です。

この理論は、意外と説得力をもって、人々の賛意を得ています。つまり近畿では、和歌山と播磨と人がしゃっべっていると、共通する単語や表現を見つけるといった具合です(播磨と和歌山は京都からちょうど同じ距離にあるので、昔京都で使われた言葉が、京都ではすたれても、場所が離れていても、共通して残っているという理論)。

柳田にとって、日本は「ひとつの日本」でなくてはいけなかったのです。明治以来、近代的な日本国という体裁が整ったものの、精神的には、まだ「ひとつの日本」になっていないのではないかとの、危機感があったようです。勿論、柳田が、「日本」を振り向くようになったのは、「朝鮮」政策に挫折して、内向けになり、その時、沖縄を発見することで「日本」を再定義するという経緯があったのです。沖縄を"原日本"として位置づけることで、日本をもういちど一つのものとして、仮構していこうとの意欲があったことは確かなのです。

しかし、この柳田の理論は、中心と周縁(辺境)という問題を抱え込むことになり、辺境は中心(中央)から常に抑圧され、収奪の対象になるという力関係を前提条件とすることになるのです。その結果、現出しているのは、東京という都市の"ひとり勝ち"=地方の衰退、という現実なのです。日本人が明治以降、創り出してきた日本という国の姿は、こうした繁栄の収斂と、地方の衰退といういびつな構造を生むことになってしまったのです。

これではいけない、いや、この列島というのは、こんなワンパターンな姿ではなかったはずだ、東京と東京以外(京都と京都以外)という様相しかない貧しい場所ではなかったはずた、という声が「ひとつの日本」を疑問視する知の動きに結びついていくのです。
467-3月2日(金)
『東西/南北考〜いくつもの日本へ〜』(赤坂憲雄著)について no.1

さぼっていたわけではないのですが、ひさしぶりに一冊の本を読み上げました。新書なので、そう負担はかからなかったのですが、筆者はどちらかというと、読書のスピードが遅いために、一年に読み切る冊数は多くないのです。

今回から、何回かにわけて、『東西/南北考〜いくつもの日本へ〜』(赤坂憲雄著、岩波新書)の読後感を書こうと思っています。本書は、題名にも表現されているように、〈ひとつの日本〉から〈いつくもの日本〉を構築していこうとする思想表明書です。

ではまず〈ひとつの日本〉について考えてみましょう。

明治からこの方、日本国の為政者は、西欧と対峙するために、近代国家を急いで作り上げる必要がありました。近世期は、自治度が高い多くの藩によって統治され、強烈な"お国意識"が培われていたのです。統一した、一つの制度によって運営される中央集権国家(=強い国家)こそが、西欧列強と対抗できるシステムだったのです。

近代という時代は、ひとつ制度を統一するのではなくて、制度を支え運営していく国民という存在を育てなければなりませんでした。国民は、国が定めた国語を使用し、出身地がどこであろうと、国語によって意志が容易に伝達され、国家の一員として有機的に機能するよう加工されていったのです。

それは産業・軍事・教育のあらゆる方面で、規格が統一された近代的な国民の誕生が要求されたのです。国家は、人々を国民に仕立てあげると共に、列島の各地で独自性のあった文化、言語、風俗を、意識的あるいは、無意識的に排除していく方向を選択したのです。

日本国には"良き臣民"と"非国民"との明確な境が生まれ、まつろわぬ民であるアイヌ・琉球が徹底した矯正の対象となったのです。

そして幾度の戦争や敗戦、高度成長、そして国勢の衰退を経た今、〈ひとつの日本〉は自明の存在と疑わないほどに、われわれ列島民は加工されています。つまり〈ひとつの日本〉であることに大きな疑念を抱くこともせずに日常生活を送っているということです。しかし、〈ひとつの日本〉は本当に実在するのでしようか。
466-3月1日(木)
 春、まだ浅し。

拙宅の前にある公園にある桜(おそらくソメイヨシノ)の、今日の様子です。この桜はちょうど公園の西北角に植わっているのですが、樹勢が弱く、すぐにでも枯れてしまいそうです。毎年、花は咲くものの、この桜の下で花見をしている人を見かけたことはありません。

別に、桜としても、花見をしてもらうために咲いているわけではないにしても、一顧だにされない花というのも、寂しいものです。花は愛でられてこそ"華"ではないでしょうか。

筆者のすぐ北に位置する保久良の山には、山桜が蝟集している場所があって、それはそれは見事です。山がその場所だけピンク色に染まるのです。桜(セレッソ)の季節までもう少し。皆さん、今年はどこで花見をしますか。カルメンにも花見旅行のダイレクトメールが盛んに送られてきます。(ただし、琉球弧の人たちは、もう(ヒカン)桜の花は落ちてしまいましたね。あちらでは、本土のように一枚ずつヒラヒラと散らないのです)。
465-2月28日(水)
雨の多い冬です。

今日、昼間に来た二人連れのお客様は、鰯の料理ばかり三品を食べ、スペイン産赤ワイン(カリニェナ産)を一本あけて、ご満悦の様子でした。その時、自家製のパンもお出しました。これは筆者の姉が自宅で造ったもので、中味がよく詰まった食べがいのあるパンです。

神戸のパンは美味しいのかどうか、筆者には分かりません。神戸以外でパンを食べたことはなく、食べる気もしないので、比較が出来ないのです。――こうした筆者の"神戸っ子"としての矜持には、「神戸はパンが美味しい」との絶対的な前提条件があるのです。

勿論、こうした評価は、思いこみであるし、他都市にいくらでも美味しいパンはあります。しかし、神戸の人たちには、信仰に似たいくつかの教条(ドクマ)が存在していることは事実です。そのひとつが、パン信仰なのですが、もうひとつ強烈なドクマは、神戸の街が一番都会的であるという信仰です。東京や大阪などいくらでも神戸より都会的な超都市があるのにもかかわらず、自分たちが住んでいる街が一番都会として洗練されていると、思い込んでいるのです。

これも全く思い込みなのですが、都市というのは、もともとそういう自己完結した"思いこみ"の体系を内包している場(トポス)なのかもしれません。「この街には何もない」と語り合っている都市は、思いこみの体系が住民間で充分見定められていないのでしょう。

例えば、筆者がしばらくの間、住んでいた西宮市は、神戸でもなく、大阪でもない中途半端な場所です。西宮に住んでいるという自覚は芽生えにくく、アイデンティティを確立しにくい場所です。しかし、最近では、"阪神間"という一体化した地域実体が認識されて、神戸にも大阪にもない"阪神間モダニズム"を過去に発信し、今でも発信している文化的土壌を有している地域として、認識されるようになっています。

阪神間にも美味しいパン屋はたくさんあることはいうまでもないことです。

464-2月27日(火)
昼の休憩時間、コシネーロたちが休憩している間、筆者が、仕事をしていると、階段を昇ってくる男性の声。「ここや、ここや、カルメン」。少し酩酊しているようです。午後3時。まだ日が高い時間です。「ちょ、ちょ、ちょっと、飲むだけ、飲むだけで、ええねん」と。一度はコシネーロがいないからとお断りしたのですが、酒だけという三人のお客さんに入ってもらいました。

カルメンのハウスワイン(赤)を一本。「いつも、ふーふ、夫婦で来てますよ。今日はすんませんな」とそのうちの一人は恐縮しながら、大声でしゃべりあっています。なにか"先生格"を昼間から接待したか、大きな大会を仕切った後なのでしょう。三人とも安堵の表情が浮かんでいます。

かつて、春先なら、三月末など、その年度の営業数字がだいたい決まって、その課の成績が分かり、昼間から、気勢を上げるサラリーマンの人たちをたまに見かけました。まだJapon経済が今のように深刻に落ち込んでいない時期です。そんなこともかつてはあったのです。

そんなかつてのイケイケの"ノリ"をまだ保持しているのは、一体どんな仕事の人たちなのでしょう?
463-2月26日(月)
カルメンの定休日。

午前10時から地鎮祭に参加。寒い日でした。走水(はしうど)神社の神主による祭祀のうち、降神の儀というのが、興味を引きました。「ウォー」と、犬の遠吠えのような声を出すのです。神様をのりうつらせるためのシャーマニックな要素です。

Japonの神道における祭祀は、おおかた儀礼化してしまい、琉球弧におけるユタ・ノロのような憑依常態となる必要はありません。祝詞といっても、本来は言霊(ことだま)を注入する神降ろしの大切な宗教行為なのですが、まるで台本を読んでいるようで"神"が身近に存在する切迫感は感じられないのです。

地鎮祭とは、本来、土地の意趣替えをすることで、その土地におわす神が荒魂(あらみたま)にならず、和魂(にぎみたま)であるように祈念するという宗教祭祀です。実際の祭祀の内容は、極めて現実的、顕教的な色彩が強く、世俗化してしまった典型的な例だといえるでしょう。地鎮祭の最後には、神を送る儀として、再び「ウオー」という雄叫びを発していました。この非-祝詞的な言葉だけが、強く印象に残ったのです。

それから、筆者は、ひさしぶりに、実家(神戸市垂水区)に出向きました。1年以上のご無沙汰です。筆者が過ごした部屋は、姪っ子の部屋となっています。その姪っ子がiMacを買ったので、ソフトを与えるために、"インストラクター"として、行ったのです。

男にとって実家は、なかなか帰る機会がないところです。筆者の家は、自分の実家にも、同居人の女性(妻)の実家とも、ちょうど同じ時間、電車(JR)に乗っていれば到達できる位置にあります。しかし、世の常として、女性の実家のほうが精神的距離は短く、母-娘間の往来の頻度の高さも影響して、男の実家はついついご無沙汰になってしまいます。

筆者の同居人の女性(妻)は義母とべたべたした母娘関係ではなく、比較的ドライな雰囲気であるのに、やはり往来は筆者の実家の往来の数と比較にはなりません。結果、子供たちも女性の実家には、なじみが深く、"地蔵盆"などで、お世話になることが多いのですが、筆者の実家には、ここ数年子供たちは行っていないのです。

嫁とすれば、夫の実家というだけで、緊張してしまい、積極的にかかわりたくない存在かもしれません。しかし、男の方は、実家に行くときはいつも久しぶりで、しかも一人でいくことが多くなってしまいます。夜になり、地鎮祭で祀っていた"鯛の尾頭付き"を両親や姉、姪っ子たちと食べた後、ひとりで自宅に帰る時は、大学時代にひとりで京都の下宿にトボトボと帰っていくような、一抹の寂しさを感じたのです。
462-2月25日(日)
 昨夜、ガタガタと北側の網戸を風が叩きつけます。風が強く吹き付けます。台風でもないかぎり、雨戸を強くたたく音はしなかったはずです。同居人の女性(妻)が、「いやぁ、公園の樹(の枝)を切ったからやろか」などと、先日と打って変わって、人間の樹木への仕打ちを気にしています。

偶然でしかすぎないのでしょうが、少し気になります。写真は、少しわかりにくいのですが、"猫の額庭"に植わっているリラの樹に付いている蕾です。ひとつだけ、蕾が開いて春の訪れを予告しているようです。

少し気が早いようですが、もうすぐ梅の便りが本格的に届く季節となりました。拙宅近くでは"岡本梅林"が有名です。かつては、吉野の桜、岡本の梅林、と言われたこともあるそうです。観梅客を相手に、茶店も並んでいたというのですから、遠くからも見物客がやってきた名所だっのでしょう。震災からは行っていないのですが、無料で入れて、緩やかな勾配地に多種多様な梅が配置され、香しい匂いが、周囲にたちこめ、筆者はここ東灘に来て、梅の良さを知ったのです。今年は久しぶりに行ったみたいものです。
461-2月24日(土)
午後1時から、カルメンで「スペイン語を話す会」が開かれました。主催したのは、"イスパニック・クラブ"。カルメンのホームページでもその活動は紹介しています。出席したのは、3人て少人数ですが、熱心な雰囲気は充分に伝わってきました。

これはまさにスペイン語しか使わずにおしゃべりする会なので、一から十までスペイン語ばかりでおしゃべりします。関西にもスペイン語をしゃべる人、しゃべる機会を探している人、忘れかけたスペイン語をしゃべりたい人など、多くいると思うのですが、意外とないのが、スペイン語をしゃべる場ではないでしょうか。

これまで、イスパニッククラブの人たちは、他の場所でやっていたのですが、2月からは、月に一回、カルメンで行うようになりました。スペイン語をしゃべりたいという人、是非参加してみてください。参加資格はありません(イスパニッククラブに入っていなくてもOKです)。参加者は、カルメンのランチを注文して、食べながら語りあいます。カルメンのランチは、¥1000¥1200¥1300の三種類が揃っています。

「スペイン語を話す会」の次回開催は、3月31日(土)。時間はやはり午後1時から。2時間ぴっしりとスペイン語の会話を楽しんで下さい。

問い合わせ先は、カルメンに直接電話(078-331-2228)か、E-mail  maroad@warp.or.jpへどうぞ。

460-2月23日(金)

拙宅のすぐ北隣りにあるG公園で、数日前、造園業者がやってきて、枝をバッサバッサと切っていきました。「えっ、そんなに切らんでもいいのに」とびっくりしてしまうほど、枝を切ってしまったのです。枝ばかりか、樹高も三分の二ほどに縮められてしまったものもあります。

公園は神戸市が管理しているので、予算がついての行為です。業者の人は仕事でやっているだけにすぎないのでしょうが、毎日、公園を眺めているわれわれ住民にしてみれば、ある日突然何のまえぶれもなく、日常の光景が変わってしまうことに、驚きを禁じ得ないのです。不意打ちをくらわされたような、軽い不快感を抱いてしまうのです。

枝が張って、電線の邪魔になるとか、木が高くなりすぎると、転倒すれば、周辺に被害が大きくなるから、といった素人でも考えられる伐採の理由はあるのですが、正直なところ「そのままでも(=切らんでも)ええんとちゃうの?」と言いたくなります。またこの伐採行為が単なる年度末の予算消化行為だとしたら、切られてしまった樹木になりかわって、怒りたくもなります。

全く筋違いな発言ですが、公園の樹木ぐらい生成(=自然と同じに)のままに放っておいてもいいのではないかと思うのです。枝打ちをすべきは、この国の大方の人工林で放置されたままになって問題になっている間伐すべき若木ではないでしょうか。

今朝、拙宅の北の窓から六甲連山を見ていると、(樹木が大量に伐採されたために)くっきりと山容がみえるではありませんか。見えて嬉しいことは嬉しいのですが、複雑な思いです。同居人の女性(妻)は、「六甲がよう見えてええやん」といとも簡単に言い終わって、筆者の前を通り過ぎていきました。「いや、そんなことじゃなくってェ」と言おうと思ったら、もうどっかへ行ってしまったあとでした。
459-2月22日(木)
近頃、電車の中で、読書する人の姿がめっきり減ったように思えてなりません。読書不足といえば、すぐ若者がやり玉にあがります。確かに、若い時に多くの書物に接していると、それだけその人の人生や教養にプラスになることが多いために(若者=読書をすべき)という構図が出来上がってくるのです。

しかし、読書をしないのは、若い人ばかりではありません。若者の不読書を嘆く、高年齢層の人も読書をしている姿をみかけません。最近では、読書をしている人が珍しいのは当たり前となってしまいました。

筆者もサラリーマン時代、1時間の通勤電車の中で、必ず本を開けるのですが、10分以上乗っていると、ついウトウトして、居眠りしてしまうのです。その時の居眠りが気持ちがいいのです。会社勤めは、疲れます。かといって家に帰って読書をしているかというと、そうはいきません。疲れをとるために早く就寝しようとするためです。読書どころではないというのは、一応は理解できるのです。(そして最近は、なんといっても携帯電話という車内必須ツールが登場しています)。

先日、電車の中で、四六上製の単行本で、500ページは優に越している重たそうな本(しかも12級の文字、2段組み!)を読んでいる青年を見かけました。一心に読んでいる姿をみるのは、本好きの同類として嬉しいものです。大学生は本を読みません。20歳代で本を読んでいる若者といえば、新聞記者、研究者などといった本を読むのが仕事のような人たちです(新聞記者の殆どは仕事以外の本をあまり読んでいませんが)。

筆者が学生時代の頃は、友達が下宿に訪れてくると、必ず書架に目が走ったものです。下宿を訪れるということは、その部屋の主の蔵書をしばらく黙って目視する時間も含まれていたのです。どんな本が並んでいるかで、その人の思想傾向が分かるためです。今の学生諸君も、同じなのでしょうか。
458-2月21日(水)
犬の話です。

筆者がJRの駅を降りて、拙宅に向かって歩いている時、一匹の柴犬が駅周辺をとことこと歩いています。私と一緒に電車を降りた若いカップルは「最近、よくあのこ、駅前でみかけるわ」と言い合っています。

世の中には、こういうことがあるものです。なにげない日常のヒトコマで、改まって話題にするほどでもないのことであるにもかかわらず、地域住民の多くの人が知っている(気付いている)といったことです。

その柴犬は、筆者と同じ方向に向かって走り出します。そこに、一台の乗用車。筆者を追い抜くと、柴犬の前にとまり、一人の男性が車から降りて、「おい、おまえ、なにしとるの」と声をかけて、また車に乗り込み、去っていってしまいました。その声のかけ方は、自分の家の犬ではなしに、自宅近くの家にいる顔見知りの犬に対するような感じでした。

ひょっとして、その柴犬は"東灘のハチ公"か、と勝手に思いこもうとしたのです。主人が帰る時間を知っていて、自宅から抜け出し、主人が駅から出てくるのを待っているのかもしれない。柴犬は、やや小走りになって筆者の視界から消えていってしまいました。きっとこの日は、主人はいつもより遅くなってしまったから、あきらめて帰宅したのに違いないと、美談にしたてようと心の中で決めた瞬間、あちらから、その美談柴犬が、とって返して駅の方へ走っていきます。

あ、あれれ。ひょっとしてあの柴犬は、夜の散歩を楽しんでいるだけかもしれません。正体(というほど大袈裟なものではないでしょうが)が分からず仕舞です。犬(本人)に質問するわけにもいかないので、困ったものです。

457-2月20日(火)
今日は、コンビニの話です。

筆者の住む東灘周辺で、震災以後、急速に増えました。震災前には山手幹線沿いにローソンが一軒あったきりでしたが、今ではファミリーマート、ヤマザキディリー、セブンイレブンが進出してきました。これだけそろえば、一人暮らしの学生やサラリーマン、OLには便利です。

24時間いつでも空いているというのは、筆者にとっても嬉しいものです。筆者の帰宅はどうしても遅くなるので、空いている店は限られてきます。そんな中、どんな時間でもこうこうと電気が灯っているコンビニの存在は、頼もしくもあり、買う物がなくても立ち寄りたくなります。

しかし、筆者にとってコンビニで買い物をすることは殆どありません。たまに雑誌を立ち読みするか、買うとしても"のど飴"程度です。近くのファミリーマートには、酒類も置いていますが、買うことはありません。筆者が飲む黒糖焼酎は、知り合いの酒屋さんでいつもまとめ買いするためです。

チケットピアを利用しようとしたことがありますが、夜は端末機が使えず、結局コンビニが持っている便利な機能の殆どを使っていないということになります。ただ、同居人の女性(妻)は、コンビニが拙宅から一番近い店という理由で、時々、うどん玉などを買っているようです。コンビニは主婦の買い物向きには出来ていないのですが、全く使わないと言うことではなさそうです。

筆者の希望としては、現在"POS"に支配されている商品構成を少しでも、単店舗ずつ、違うものを置けば面白いと思うのですが。例えば、雑誌類。ここに並べられているものは、コンビニという空間でしか"棲息"できないようなジャンル、レベルのものが殆どで、一般書店に並べられている商品構成と全く違う世界です。せめて『AERA』や『芸術新潮』などを置いてもらいたいものです。

456-2月19日(月)
カルメンの定休日。

午後4時からのFMわぃわぃ「南の風」の放送のために準備をします。
今日は、1月に奄美大島南部の古仁屋で収録したインタビューを中心に放送しました。
出演していただいたのは、郷土誌『しまがたれ』を編集・発行している義(よし)富弘さんです。

瀬戸内・古仁屋には、相反する性格が風土に刻まれています。極端に保守を重んじる傾向と、革新的な行動に走る傾向と。義さんは、こうした傾向を"ヒギャヤバン"という言葉で咀嚼してみせます。瀬戸内・古仁屋の人たちは、普段はおとなしそうに構えているが、"芯"の部分では、反抗(抵抗)精神があり、時々それが爆発するのだとの説明です。

義さんによると、瀬戸内の歴史をみていると、この二つの側面がいつの時代にも、見受けることが出来るというのです。

番組の用意をして、FMわぃわぃに赴いたところ、徳之島出身の向江登美子さんが、ソファに座っていました。3月4日(日)にJR神戸駅前にある"シーガルホール"で、島唄と踊りの会をするので、その宣伝のために来てくれたのです。そこで本人みずから宣伝してもらおうと急遽、番組の中でしゃっべっていただくことにしました。筆者もその日、会場にお邪魔しようと思います。

「南の風」の放送が始まって今年で5年目に入っています。そろそろ地域の人たちに浸透しだしたのではないでしょうか。
455-2月18日(日)
息子に続いて、姪っ子もiMacを購入しました。これで筆者の一族は、ほとんどMac派となりました。

しかし今再びMacの前途が多難になっています。Cubeの失敗に加えて、iMacが製造中止になるというウワサで持ちきりです。ノート型パソコンはチタンを使って軽量化した新PowerBookが売り出され、"夢"が継続されましたが、本体の広がりは少し手詰まりのような気配です。

それでも、筆者の周辺にはMac使いが殆どなので、寄ったもの同士の強さで、少し危機感は薄いようです。パソコンにとってOSは、"魂"のような存在です。これがなければ、パソコンはただの産業用ゴミです。なんとかMacはこれからも独自のOSで孤軍奮闘してもらいたいものです。

さあ、息子と姪っ子は、iMacをどのように使うのでしょう。これからの時代は、家族にパソコンが一台ずつあるのは当たり前。特に長男は、理科系のようなので、パソコンを使いこなしているのが当たり前の世界です。筆者の次の世代がiMacをどのような使いこなすか、楽しみです。
454-2月17日(土)

今週から始まった新しいカルメンの料理企画を紹介しましょう。

イワシの料理です。7種類を用意しました。好評です。

イワシといえば、筆者の世代(1955年生まれ)は、健康食品として、エコロジカルな視点から見直された魚というイメージが強いのです。また近年の漁獲量の減少から、昔ほど"大衆魚"というイメージは薄らいでいます。もっと若い世代は、イワシに対する予見はないようです。

カルメンで出しているイワシ料理は、いつもはありません。新鮮なものがあれば仕入れます。昔からとれたての鰯のことを「てて(手手)かむイワシ〜」と言って売っていたそうです。筆者はこのフレーズが好きです。

1.イワシのマリネ(または、エスカベッチェ)        ¥800
2.いわしのトマトソース                                ¥1200
3.いわし入りオムレツ  バレアレス風                         ¥1200
4.鰯のフリートス  (ただし、ヒラコイワシ入荷の場合)  ¥800
5.いわしのピルピル (オリーブオイルいため)                    ¥1200
6.ガリシア風鰯の香草つつみ焼き                         ¥1200
7.いわし入りグラタン                              ¥1200

さあ、みなさん、どうです。いわし料理をスペイン風に味わってみませんか?  

453-2月16日(金)
拙宅の近くに"新古本屋"があります。

国道2号線に面しているところに立地していて、かつて電器店が入っていた場所です。"新古本屋"とは、本の内容(希少価値など)で売ったり、買ったりするのではなく、定価の何割かで買い取り、そして定価の5割から7割で売るという統一規格を設けている新しいタイプの古本業です。

この"新古本屋"の利点は、既存の古本屋だったら、ベストセラー本は買ってくれなかったり、文庫本や実用書でも古本市場においてマーケティング価値が低ければ、屑値で引き取られていた本でも、ちゃんと一冊ずつ買い取ってくれるということです。

つまり世の中はベストセラー本が大量に売れています。沢山売れるということはさまざまな読者のタイプがいるということで、読んでしまえば、書架に並べなくてもいいと思っている人、置きっぱなしにしているなら現金化したいと思う人、気が付けばベストセラー本ばかり買っている自分がイヤになって売ってしまう人などがいるでしょう。それにJaponの家は狭いので、壁面に書棚を置くためのスペースなどないのが現状です。

その"新古本屋"は、漫画本が8割ぐらいスペースをとり、あと残りは一般書といったレイアウトです。一般書のコーナーを見ていると、やはり流行作家やベストセラー本がずらりと並んでいます。新刊書店でどのような本がよく売れたかという証明を再現しているかのようです。

筆者は昔から意地でもベストセラーなるジャンルの本は読まないタイプの人だったので、そうした"売れ筋"の本は全く興味がなく、こうした"新古本屋"には似つかわしくない、普通の古本屋に並んでいそうな本(文芸、思想、評論、民俗学など)を見つけるのに目を凝らすのです。

去年の暮れ、初めてこの本屋を訪れた時に買い求めたのは、『金芝河詩集』。訳がなんとカンスン氏なのです。驚きました。まさに掘り出し物です。しかも65円コーナーで見つけたのです。筆者の在日の知人には内緒です。カンスン先生の訳書が、こんな値段で売り出されていたと知ると熱を出すかもしれません。

筆者は13日のカルメンの休みの日にも再び訪れたのですが、一般書には掘り出し物がありませんでした。仕方ないので、膨大な"コレクション"を誇る漫画コーナーへ。ありました。筆者好みの漫画が。『虹色のトロツキー』という本で、旧満州(中国東北部)が舞台です。満州帝国の首都・新京にかつてあった満州帝国立「建国大学」が登場します。実はこの大学に筆者の父(初代)が通っていたのです。今は当然、潰えてありません。

漫画は建国大学を選んだ面白さもさることながら、父から小さい頃から聞かされていた若き学び舎のことが、漫画という視覚的に表現によって再現されていることです。この漫画や満州、そして建国大学については、今度じっくり紹介することにしましょう。
452-2月15日(木)
今日、ふらりと筆者の遠い親戚のA・Tさんがカルメンを訊ねてきてくれました。

化粧品の資生堂に勤務しています。資生堂といえば、化粧品業界のトップ企業。最近の日本経済の特長として、トップ企業だけが独り勝ちして"ガリバー企業"になるという傾向があります。この業界も資生堂の頑張りが目立ちます。

A・Tさんいわく、Japonの化粧品業界は成熟産業であるために、大きな収益増加はもとめられないものの、これからは中国が有望な市場であると力説していました。大陸の女性達にいま売れているのは、シャンプー。「次はファンデーションをすることを覚えてもらって、次は化粧かな」。なにしろ"億"の単位で若い女性がいる国です。その潜在購買力は計り知れないものがあるでしょう。

A・Tさんと筆者はほぼ同世代。学生時代は互いの家(神戸と浦和)を行き来していました。一緒に旅行をしたことや、筆者が下宿していた京都にも泊まりに来てくれたこともあるのです。しかし今は二人とも仕事と子育てで手一杯です。この日も大阪出張の忙しい間を縫って会いに来てくれました。

筆者はA・Tさんに「お互い年を取ったら、昔みたいな"弥次喜多道中"をしようよ」と提案しました。われわれの老後、果たしてそんな余裕が生まれるのでしょうか。
451-2月14日(水)
バレンタインデーです。

今年は見かけませんでしたが、毎年この日になると、気前よくレジに立ちはだかる女性たちの姿をよく見かけたものです。この日は、女性たちが会計をすませる人が多いのです。

チョコレート業界の陰謀だとか、たかが商業主義の上滑り的現象だとかいろいろ評価されてきたバレンタインデーですが、そうした批判に応えてということではなくて、やはり不況のせいで、若い女性達の財布のヒモが固くなったのでしょう、昔日のような勢いはありません。

ただ、学校現場では、まだまだ現役であるようで、人気のある男子は女子からチョコレートをもらっているようです。ちなみに筆者の息子たちは今年どちらも収穫ゼロ。去年は弟がひとつもらって、大勝利。日頃、おにいちゃんに頭を押さえつけられている弟なので、悦びはしとしおです。でも今年は二人ともお呼びではなかったようで、バレンタインデーの話は家庭内では、殆どでません。筆者が持って帰ったチョコレートをじーっとみていた兄弟でした。

450-2月13日(火)
カルメン、休みの日です。

昼近くまで寝ていました。12時のNHKテレビのニュースを見て、筆者の姉が作った自家製のパンをほおばった後、外出です。

自転車に乗って、南へ。2号線、阪神電車、43号線(阪神高速)をまだ下ります。目指すは、元の青木(おおぎ、と呼びます)フェリーセンター。今は、"サンシャインワーフ"という名の大型商業施設となっています。30年前なら、臨海工業用地としてなっていそのような場所が今では、商業施設か住宅地に変わっているのです。

お目当ては、大型電気店の"W"。二、三日前に入っていたチラシに、デジタルカメラが、三宮の"N"より200円安いと印刷されていたので、わざわざ自転車を飛ばして買いに行ったのです。ところが、"W"の店員は、開口一番「画像が悪いですよ」と突き放したような言い方。でも38万画素もあるので、まあ最低限は写るだろうと思って、在庫をただしたところ「ない」との返事。低価格商品は売りたくないとの態度がミエミエです。こりゃあかん、接客態度がなっとらん、それならチラシに載せるなよ、とあきれて"W"を出ました。

せっかく寒いところを買いに来たのに、とブツブツどこかあきらめきれない気持ちを引きずって、"サンシャインワーフ"を見学することにしました。海にすぐ面している施設の開発は、神戸市の18番ともいえるものです。垂水漁港横の商業施設は、成功しています。まっすぐ西には、巨大な明石海峡大橋がそびえ立っていて、大橋越しに眺める夕日は絶品といえるでしょう。

"サンシャインワーフ"は、港湾・工場施設に囲まれているので、景色という店では今ひとつですが、自転車でいける場所にあるというのは、嬉しい限りです(筆者は車を持っていないのです)。しかし、核となる施設にいまひとつパンチ力がないのが少し寂しい感じです。こういう場所にありがちなイタリアンレストランが見受けられないのも残念です。

筆者が入った店は、100円ショップとして有名な"D"。岡本のコープ神戸の三階にもありますが、ここの規模ははるかに大きい。びっくりしました。いくつかカルメンに必要な什器類を買い求めたのです。

それでは帰ろうと思ったとき、ある筆者が大好きなものが目に入りました。"サンシャインワーフ"の東隣に位置する新明和の敷地に置かれていたものです。それは"水上艇"。海上自衛隊のものです。修理に出しているものかと思ったののですが、どうも新鋭機のようです。

筆者は少年の頃、さかんにプラモデルを作った世代です。いまでは一つも残っていませんが、特に飛行機の制作が好きでした。旧日本軍のものでは、ゼロ戦とかいったスマートなものより雷電といった少し"もっちゃり"した機体のもの、爆撃機で機体の上や下に、機関銃を打つ丸い小さなドームが付いてるもの、そして水上艇がお気に入りでした。

水上艇は大型戦艦(大和や武蔵)のプラモデルを買うと必ず小さいものが付いていて、筆者のお好みでした。この水上艇は、なんでも旧日本軍のころから技術的に世界のトップレベルのものであるらしく、戦後、大方の戦闘機がアメリカ製のものを輸入(あるいはライセンス生産)している中にあって、水上飛行艇だけは、Japon独自の技術だけで、生産できたようです。

製作している新明和は、戦前の川西航空機と関係があったはずです。筆者はかつて西宮に住んでいた時、戦前から旧日本軍の戦闘機を設計していたというTさんと同じ県営住宅でした。今から30年前でしょうか、自衛隊に納入する前のテスト飛行の様子を納めた8ミリ映画を見せてくれたことがあります。

水上飛行艇は、海さえ凪の状態であれば、飛行場が不要なすぐれものです。つまり世界中の海なら、どこへいっても着水できるという飛行機なのです。筆者は、その水上艇が見える一番近いところまで近づいて、金網に両手をかけ、少年のように瞬(まじろ)ぎもせずその水上艇を眺めていました。至福の時間です。いつまでもいつまで眺めていたい、そんな気分です。どこかプラモデル屋にいって、旧日本軍の水上艇をもう一度つくってみようかと思ったほどです。

新鋭機は、筆者へのサービスでもないでしょうが、エンジンテストのためか、プロペラをひとつ回し始めました。その時の胸の高まり。米国の原潜が、Japonの水産学校の練習艇を沈没させてしまったという悲惨な事件があったばかりなのですが、筆者の悦びは押さえようがありませんでした。

それにしても神戸という街は、戦後55年たっても軍需産業都市であることに変わりはないのですね。深いため息が出ます。

449-2月12日(月)
月曜日ですが、振替休日なので、カルメンは営業しています。

そういえば昨日はいわゆる"建国記念日"というやつでしたね。

歴史学者からは実在を否定されている神武天皇が"即位"した日というのですから、神話時代の"事実"がもとで国民の祝日になっているわけです。筆者はこの日を祝日と認めてはいません。昔から、働くことにしています。つまり平日扱いとしているのです。

歴史というものは実証をもとに、議論なり論証を重ねなくてはならないと教わった筆者ですから、このような神武天皇の存在など認めるわけにはいかないのです。

隣国の韓国・朝鮮にも民族の始祖である檀君という神話上の存在があり、この人の生誕日か即位日を基点とした"檀紀"という元号があります。それによると今は檀紀5000年を優に越えているのです。

この"檀紀"についてですが、筆者の知り合いの在日のインテリの人の中にも、檀君の実在を信じている人がいます。Japonではいえば、教養をつんだ読書人が神武天皇の存在を認めているようなものです。Japon的な尺度では、フライング気味な知的営為と見なされてしまうのですが、韓国・朝鮮・在日の世界では、事情が少し違ってきます。

韓国と北朝鮮が分断して早くも半世紀。この二つの国家間に"同一民族"でありながら、少しずつではありますが、差異が生まれていっています。例えば、言語(韓国語・朝鮮語)です。言語(国語)は国民国家的な発想による"民族"が成り立つ重要な基礎用件です。本来ひとつの規範で統一されているべき言語(韓国語・朝鮮語)が、この半世紀で"朝鮮半島北部表現"と"朝鮮半島南部表現"とが並立しようとしているのです。

勿論、社会体制も違いますし、人々の体制の中での"幸福感"も違ってきている。このまま二つの国が別個の国として永続するのではないかとの"危機感"。政治実体はすでに二つの別個の独立した国家として、国連にも別々に加盟しています。いま現存する二国家を統べる"統一原理"というものが、希求されるとすれば、民族の始祖である檀君を持ち出し、それを最大限顕彰することで、統一原理にできないかという政治的思惑が生まれても不思議ではありません。

筆者の知っている在日の人も、檀君が神話上の存在であることは百も承知です。しかし檀君を持ち出さざるを得ない分断国家の現状を考えるとき、必ずしもJaponの規範に従って、民族の始祖を全面的に否定するのは、考えてしまいます。しかしだからといって、神武天皇を顕彰する可能性を認めるといっているのではありません。神話は神話としての機能はあるのは認めつつも、これを政治的に利用しようとする人・勢力がいるかぎり、用心深くならざるを得ないのです。

448-2月11日(日)
三宮センター街に"Michan"という輸入雑貨店があります。神戸っ子なら「ああ、あそこね、知っとお、知っとお」とすぐ反応がかえってくる有名な店です。

筆者が10代だったころ、いまから30年前は、たいそう流行っていました。平日でも細長い店内は、通勤電車なみの込み具合でした。活気があったのです。当時は、まだ1ドル360円の時代でしたので、舶来ものは高く、特にブランド商品ものは、おいそれと買える代物ではありませんでした。

"Michan"の魅力は、プランドもののバックや化粧品、小物類が正規に輸入されているデパートなどよりも安いことでした。またここでなければ売っていない商品もいっぱいありました。お客さんの9割ぐらいが女性で、中年女性から女子高生まで幅広い客層を獲得していたのです。店内は、多くの店員たちが立ち働いていて、品物の補充や、お客さんからの問い合わせで、大忙しでした。

繁盛している店の特性として、店員の無愛想があります。勿論、繁盛していても丁寧な対応が出来ている店は少なくありません。しかし、お客さんに対して無愛想に接しても、それでも繁盛する店は、接客態度は変化しないものです。"Michan"の店員は、少なくとも10代の少年に対しては無愛想でした。

筆者はここで中国製の万年筆"英雄"を買っていました。ペン先が細いもので、すぐ壊れたのですが、当時としては格安な万年筆だったので、よくこの店で購入したものです。ドイツ製やアメリカ製の筆記具もここで買い求め、それらがシティーボーイにとっての、小さな小さなステータスシンボルとなっていたのです。

今日、"Michan"の前を通ったのですが、店内には店員が一人立っているだけ。何年か前から、昔日のような店内混雑がみられなくなりまた。円が強くなって、輸入雑貨が安くなり、"Michan"以外にも購入できる店や手だてが増えたからということ、それに輸入雑貨そのものの価値が変わってしまったのです。昔は"舶来品"とあがめていたのに、今では、輸入品イコール安物、粗悪品のイメージとなってしまいました。

今では、むしろ"Michan"店員の無愛想が懐かしいぐらいです。当時は、無愛想を乗り越えるお客さんの購買意欲がありました。時代は変化していきます。今の時代に必要な輸入雑貨は、奢侈品ではなく、生活雑貨なのです。

447-2月10日(土)
ハワイ・オアフ島沖で、米軍原子力潜水艦が、愛媛県立宇和島水産高校所属の練習船「えひめ丸」と衝突。「えひめ丸」は、まもなく沈没。乗組員は海に飛び込んで避難し、米沿岸警備隊などに救助されたものの、まだ9人が行方不明になっています。

この衝突事故は、米軍原潜が浮上中に、「えひめ丸」の存在を確かめなかったためと報道されています。生存者の証言によると、いきなり原潜が浮上してきたので、衝突は防ぎようになかったようです。

原潜は米海軍の最新鋭クラスに属し、「えひめ丸」の魚群探知機からの電波も吸収してしまうほどの性能であるらしく、「えひめ丸」側から衝突を回避する手だてはなかったのでしょう。

テレビの画像でははっきり分かりませんが、原潜の乗組員が積極的に「えひめ丸」の乗組員を救助したかどうかは、判明されていません。かつてJaponでも東京湾で自衛隊の艦船と民間の釣り船が衝突、釣り船が沈没したという海難事故がありました。この時も、自衛隊の艦船が積極的に救助の手を差し伸べたということは報道されていませんでした。おそらく、今回の衝突事故でも、潜水艦の兵士たちが、艦を出て救助活動を積極的に行った事実はないだろうと思われます。

これが軍隊の本質でしょう。軍隊というのは、国民・市民を守る組織ではないということです。彼らが「守っている」のは、もっと抽象的な「国家体制」なのです。災害救助にでかける彼らは、いわば本来の軍務とは違う"余技"のようなものです。かれらの本来的な使命感は、敵(敵国、軍、国民)を攻撃し、自軍を守るということです。

だから、衝突事故を起こして、いままさに目の前の海で溺れかけている人がいようと、こうした人たちを助けるというのは、彼らの"仕事"としてインプットされていないので、他人事のように傍観しているだけなのです。

さあ、この事故は本来なら、外交問題に発展する大事件ですが、もともと対米関係では"腰が引けている"自民党・政府のことですから"大人の態度"をとって、抗議はせず、自国民が被害にあいながら、他人事のように振る舞うでしょう。特に外務官僚は、米国に追随することしか考えていないので、公的に抗議することはありますまい。ましてや、先の沖縄県知事を"バカ"呼ばわりしたメールを送りつけた事件とリンクさせて、予算作成の時期に「こんなことでは、駐留米軍への思いやり予算を減らすぞ」と恫喝するほどの根性をみせる議員もいないでしょうね。(類似の発言をするとすれば、前幹事長のN氏か、元首相のN氏あたりでしょうか)
446-2月9日(金)
東京電力が今後3年から5年間は、発電所の新規建設計画を原則として凍結すると発表しました。これは不況による電力需要が伸び悩んでいることや、電力自由化によって経営の効率化をすすめる必要から、これまでのコスト感覚とは無縁の、限りなく国策会社的なノリの、親方日の丸的体質をほんの少しだけ軌道修正するということです。

21世紀は、エネルギー問題が大きな関心を集めると言われてきました。石油などの化石燃料は、地球上に無尽蔵にあるわけではなく、やがてあと何十年後かに、取り尽くしてしまいます。今のガソリンカーはやがて、歴史上の存在になるでしょう。つまり"博物館行き"です。これにかわるエネルギーは、CO2を排出しない燃料電池を使う車だとか、今さまざまなものが試作されています。

東京電力や関西電力といった大口の電力会社についていえば、まだまだ原子力発電に対する期待と依存は強く、高度成長期に策定したままではないかと思われる電力需要の右肩上がり的伸び予想に従った発電所建設を当たり前のように考えています。こうした"電気官僚"と話していると、「おれたちは、国家のために安定的に電力を供給しているんだ」という気概がともすれば、鼻持ちならないエリート意識となり、一方的な電力供給者としての権力者の素顔が浮かび上がってきます。「気に入らなければ電気を止めてやる」といった独裁者の権力行使が可能な立場なのです。

これに対して電力の双方向性が、少しずつではありますが、拡がってきています。いわゆる電力会社に対する"売電"です。神戸製鋼といった大口から、家庭の屋根にしつらえた太陽電池パネルで発電するといった小口まで、量の多少はありますが、一方的に電気をうけていたばかりの時代と較べると、大きな違いです。

また、風力発電なども各地にさかんに建設されていて、非原発の発電比率を少しでも高めようと言う試みがなされています。近い将来、新築一戸建てや、公的施設(学校、病院、役所、公民館、美術館など)の屋上には、必ず太陽電池パネルによる発電施設の設置が義務づけられたら、面白いと思います。

目指すは、電力の自律です。これは琉球弧のような島嶼地域においてまず実現できるのかもしれません。島嶼地域には、原発は不要です。大きな電力需要がないからです。こうした地域での理想は、地域住民が、風、太陽、波、地熱などを利用して、自分たちで電気を起こし、それを電力会社が集め、安定化し、不足量をたして、各戸に供給させるということ。電力会社はあくまで、電気の仲介役を務めるという役目です。

これからJaponは人口が減少し、産業構造も大量の電気を必要としない業態と変化していきます。今以上の電気需要の増加があるのか、もういちど検討する必要があるのではないでしょうか。

445-2月8日(木)
姪っ子から、兵庫県内で座禅が出来る有名な寺を教えてくれとのメールが入っていたので、神戸市垂水区にある"太山寺"を教えました。ここはかつて、山田無文師が住職を務めたこともある名刹です。宗派でいえば、臨済宗でしょうか。

太山寺では毎週日曜日に一般の人も参加出来る座禅が行われているはずです。残念ながら筆者は神戸市内に住んでいながら、一度も同寺で参禅したことがないのです。

仏教といえば、筆者の周囲には、浄土系の僧職の人が多く、関西という土地柄を感じます。筆者もどちらかというと、浄土系の仏教思想と身近に接する思想環境にいました。しかし、明治以降の仏教革新運動を支えてきたのは、法華経系の人・団体が中心であったことは忘れてはいけません。

意識的に遠ざけてはいないのですが、筆者と禅とは、関係が深くありません。しかし、筆者がずっと注目している華厳の哲理は、禅で華開いたことを考えると、筆者の仏教観というのは、意外と禅に近いのかもしれません。同じ華厳をベースとしている密教の方には、心が通じないと思うのです。(詳しく説明すると、Japonの仏教が"選択(せんじゃく、または、せんちゃく)"よって獲得した到達点を踏襲したいとの思いがあるからです)。

禅は、明治以降のインテリたちの心を捉えました。筆者にとっての禅理解は、鈴木大拙に始まります。大拙が描いた禅に対する位置づけに大きな影響を受けています。しかし、浄土系の仏教は、筆者の周辺で民衆に深く根づいています。奈良や大阪などの親類には、呼吸をすることイコール南無阿弥陀仏を唱えることと同じであると実行している信仰の篤い人がいます。Japonの人たちは、浄土系の信仰を獲得することで、真の意味で仏教を自分のものに出来たのでしょう。

機会があれば、参禅をしてみたいと思っています。道元が依拠した永平寺で座禅できないかと、インターネットで調べたところ、最低三泊四日を寺で過ごし雲水と同じ毎日を過ごさなくてはなりません。これは日程的に無理です。どこか一日だけでも参禅できる禅寺を探したいと思います。座禅することで、もういちど大拙の本を読み直してみたいのです
444-2月7日(水)
本日、ひとつの旅館の歴史の幕が閉じました。大野屋旅館。JR元町駅と神戸駅の中間に位置する純和式旅館です。通称"モダン寺"のすぐ北にあります。

この花隈周辺は、昔から、料亭旅館などが多くありました。第一次世界大戦の好況期には、戦需成金が、料亭に入店する時に、ビールで足を洗ったとか、ある旅館からの帰りしな、玄関が暗かったので、自分の靴がどこか分からず、札束を燃やして探した、といった豪毅なエピソードが多く産み出されたのです。筆者が幼かった昭和30年代、40年代には、花隈にも多くの芸者がいて、「花隈検番」という性病をチェックする施設もあり、時々、どこからか、三味線を練習する音が漏れ聞こえてきたものです。

しかし時代は変化し、大野屋のような純和式の旅館が神戸の都心で生き残っていくのは難しくなっていったのです。そして阪神大震災。その数年前に改装したばかりだったのですが、建物に大きな被害が出ました。さらに震災は極端に神戸経済を悪化させてしまい、存続自体が危ぶまれるようになったのです。

この大野屋旅館、筆者の祖父が昭和30年代に、知り合いから経営権を譲り受け、始めたところなのです。ある兵庫県庁OBの人に言わせると、大野屋は格式が高く、県庁の部長以上でなければ、利用できなかったそうです。祖父は、侠気あふれる人で、典型的な"明治の男"でした。生田旅館組合の組合長を歴任したり、もっと若い時には、出身の尼崎・七ツ松に公民館をまるごとひとつポンと寄贈するなど思い切りの良さがあるかと思う反面、家庭に居つかず、祖母とは違う女性と所帯を持ち、その子供たちも一時大野屋で同居させていたこともあるといった人生を歩んだ人でした。

祖母・祖父が死に、代がかわって筆者の3歳違いのいとこが大野屋を経営していました。そして今日、そのいとこと、筆者とで、大野屋の土地を売却する手続きを完了したのです。売却先はすぐ南隣にある"隈病院"。甲状腺の専門病院として評価が高いところです。同病院は、全面リニューアルにして、病室もすべて個室にする方針とのことです。

隈病院に大野屋のカギを手渡して、売却が完了したわけですが、最後に大野屋の敷地を見回すことにしました。玄関入ってすぐ南のところに、10メートルほどの見上げんばかりの南天の樹があります。ちょうど赤い実を多くつけています。いっぱい成っているので、拙宅の"猫の額庭"に植わっている南天を食べに来るわれらのヒィヨたちに知らせてやりたいと思ったぐらいです。

大野屋には和式旅館らしい立派な造作の庭があります。筆者は小さい頃から何度も何度も転居していて、しかも都会育ちなので"故郷"や"古里"あるいは"実家"というものがありません。この大野屋旅館が、ずっと幼いころから原型をとどめている、筆者の原風景ともいうべき場所でした。庭に向かった廊下は玉砂利を敷き詰めた意匠になっていて、今日でもうこの足裏がジャリジャリした感触を味わえないのだと思うと、感傷的になってしまいます。

祖父から数えて3代あとになる筆者といとこの二人で、今日、大野屋の歴史の幕を引きましたい。感無量です。

そしていとこは既に次の事業に取りかかっています。その事業については、もっと具体的な形がみえてきた時に、読者の皆様にお知らせしましょう。
443-2月6日(火)
昼間、29人の団体さんです。ある高校の保護者の人たち。全員女性です。司会役の女性が簡単な挨拶をした次の瞬間、店内はおしゃべりの渦。食べて呑んで、あっという間に2時間。ずーと、皆さん、しゃべりっぱなしでした。

もともとカルメンは女性のお客様が多い店です。7割程度が女性でしょうか。先週のある日などは、気が付いてみれば、お客様は全員女性でした。

今日は、ワインが何本か出ました。スペインは赤が美味しいので、赤ワインが沢山でた日は、こちらも嬉しくなってきます。昼間の団体さんには、カリニェナというDO(原産地呼称)ワインの1995年産クリアンサを6本ほど出しました。勿論きれいに飲み干してくれました。お客さまは正直です。"いけてる"ワインなら、一口のんだだけで、何カ所から「これ、おいしいわ」との声があがります。

カルメンは、ワインの値段を下げていることもあって、お手頃価格でワインを楽しんでもらえます。さきほど紹介したカリニェナの95年クリアンサは2500円です。飲みやすく、ワインを飲み慣れていない人でも、おいしさがわかる逸品です。
442-2月5日(月)
カルメンの定休日。

昨夜は、夜遅くまでインターネットをしていたので遅めに起床。筆者はテレビを殆ど見ませんが、毎週、だいたいチャンネルを合わせる番組があります。日曜の夜(正確には月曜の午前)の12時20分から始まる"吉本超合金"という番組です。

この番組名を聞いた人はびっくりする人がいます。筆者のイメージと違うからです。筆者が見るテレビ番組は、ニュース、報道特集、科学特集、動物生態ものといったジャンルで、エンターティンメント、お笑い番組は殆ど見ません。30歳を過ぎたころからつまらない番組なら途中でテレビのスイッチそのものを消せるようになったからです。

ちょうど休みの前の晩は、テレビでも見ようかとの余裕が生まれます。かつて"X-file"を見ていましたが、番組が終了したので、今は"吉本超合金"を見ています。明日が月曜日なので。筆者と同世代のお父さん世代は寝ているか、インターネットをしている時間です。この番組は、吉本興業に属する"FUJIWARA"という芸人コンビが繰り広げるドタバタ番組です。

関西発の低予算で作られる番組は嫌いではありません。予算がないために、街頭に出かけることが多いのです。大阪・関西は基本的に素人に"おちょくり"が多いので、素人が多く登場しても不思議と番組が一本できてしまうのです。"FUJIWARA"のコンビは特に才能があるとは思えません。しかしテレビにレギュラー番組を持ち続けることで、テレビという画面の枠内でどのように"演技"すればおもろいかを経験的に知っている妙味があります。

こうした番組の面白さは、スタッフの発想力でしょう。しゃべくりで際だった才能も感じられない"FUJIWARA"のことなので、番組スタッフの企画力が問われます。またこの二人にしても30歳を越えているので、いつまでも"二丁目劇場"的ノリでは、お客さんが離れていってしまいます。

昨日の番組は、目隠しをされた"FUJIWARA"の二人が徳島県の山奥に連れて行かれ、所持金なしで、大阪のミナミまで帰ってくるという企画の後半でした。カメラは二台。おそらく性能のいいデジタルカメラでしょう。カメラが小型化、高性能化した威力が発揮されています。筆者が珍しく最後まで見た日でした。

そして今日は、先週に引き続いて、FMわぃわぃ「南の風」の生番組。今週も、筆者が奄美大島南部の古仁屋という場所で収録した島唄を放送しました。唄者は、富島甫さん、三線とハヤシは、徳原正照さんです。
441-2月4日(日)
どうした風の吹き回しか、いき筆者は拙宅で、片付けものをしています。郵便物はほっておいたらどんどん溜まります。そして写真類も増え続けます。筆者はどちらかというと片づけは苦手なタイプなのです。ところが間欠泉的に、思い出したように突然、徹底して片づけをし出すのです。

筆者が小さい頃、両親は、子供別に丁寧なアルバムを作っていました。それがのちのちその人の財産になっていくのです。ところが最近の親たちは(筆者を含めて)アルバムを整理するという心のゆとり、時間のゆとりを無くしてしまいました。

筆者はいくらでもたまる写真類の整理方法は次の通りです。DPEショップでくれる無料簡易アルバムに、筆者なりに写真を入れる重要度を決めて、はさみこんでいきます。そしてその簡易アルバムに、ネガを貼りつけておくようにするのがミソです。本で言えば"表3"の部分に貼っておくのです。紙焼きした写真とネガというのはだいたい分離して収納していることが多く、いざ写真の焼き回しが必要になった時には、ネガはどこかへいってしまったという話はよくあることです。

筆者が片づけものをしていると、同居人の女性(妻)も、片づけ症が"伝染"するのか、子供達のアルバムを整理しようかと、言い出しました。

子供の成長というのは早く、つい2年前までの顔はもうずっと昔の子供のころの写真ではないかと思うほど違います。事務的な作業のはずが、思わず手を止めてしまうのも写真整理です。また「あんた、髪の毛、薄くなったわね」「いやいや髪型のせいだよ」「いや違うわ、薄くなったわよ」と同居人の女性(妻)の"へらず口"をきかされるのもこの写真整理の時なのです。
440-2月3日(土)
まかない(従業員用の食事)の話ですが、白インゲン豆を使ったスペイン料理を食べました。"Judiones del Real Sitio con Oreja Pie de Cerdo"という長い名前です。訳すと"白インゲン豆と豚足の煮込み"となります。豚は、豚足の他に耳もいれます。

豚足料理は、世界中の多くの地域で作られています。勿論、豚肉を食べてはいけないイスラム教国やユダヤ教徒には、豚料理はありません(イスラエルには、東欧・ロシアなどからやってきたユダヤ人が豚肉を食べているとの報告もあるようですが)。Japonでいえば、豚肉文化圏である沖縄に"アシチビチー"という料理があります。また韓国料理にもあり、焼肉料理店などで、食べた人もいると思います。

カルメンの若きコシネーロたちが作った"白インゲン豆と豚足の煮込み"は、豚足と耳をじっくり一日かけて煮込んだのでトロリとした舌触りが絶品でした。豚足料理の妙味は、ゼラチン質の美味しさです。豚は巨体を支えるために、四本の脚は短く頑丈にできていて、肉質もしまって美味しいのです。

この料理の面白さは、いろいろなものを煮込んで、それぞれの食材にその複雑な味が沁みているというところではないでしょうか。スペインには、こうした豆をじっくり煮込んだ冬向けの料理が多くあります。いずれカルメンのメニューにも企画料理として登場すると思います。楽しみに待っていて下さい。
439-2月2日(金)
携帯電話が進化しています。JAVAというパソコンを動かすためのソフトを取り組むものも売り出され、ゲームなどが、簡単に出来るようになります。つまり、今まで文字や静止画像しかダウンロード出来なかったのが、動画も取り組む=送ることも可能になるのです。

こうした機能は、すでにパソコンでは当たり前のことですが、携帯電話で出来るというのは、わくわくすることです。

しかし、筆者に限っていえば、ドコモのiMode対応機種を使ってはいるのですが、インターネットは殆ど使いません。電話代が跳ね上がるからです。使っているのはもっぱらメール機能です。携帯から、限度いっぱいの250文字を打ち込む"メール通信"を発信しています。現在52号まで発信済み。この通信は100号まで"発行"するつもりです。いつでもどこからでも、空に向かってメール通信を発信できるというライブ感はたまらなく快感なのです。

勿論、メールは仕事関係の伝達手段としても使用しています。しかし困ったこともあるのです。友人のメールニュースに掲載する原稿が締切りが過ぎてしまった時のこと、メールニュース主宰者から、「原稿まだですか」とのメッセージが携帯にまで入るのです。これには参りました。
438-2月1日(木)

21世紀は早くもひと月すぎました。

今年の冬は寒いのにもかかわらず、気象庁は昨秋に発表した「暖冬」予報にこだわり、2月は「暖冬」になるとの予測を変えていません。

これはまるで「引き続きゆるやかな回復が続いてる」と言い続ける政府の経済観測(=大本営発表)と変わりません。官僚という種族は哀しい人たちです。自分たちの失敗をなかなか認めようとはしない。すぐ責任逃れをする。組織全体がそういう言説に支配されているので、おかしいとは思わないのでしょう。組織に官僚的言説を正当化する仕組みが縦横に張り巡らされているからです。

21世紀になっても景気のいい話はないものです。

そごう百貨店がどうも、西武百貨店の子会社的な存在になりそうです。大阪で100年以上前に誕生し、関西では馴染みの深いデパートが、東京系企業の傘下に入ることに一抹の寂しさを感じます。比較的好調な業績を示している三宮店の中に、"無印良品"が入るかもしれません。大阪はともかく神戸におけるそごうブランドは、しっかりしたものがありました。それも経営者の判断次第で、変わってしまうものです。

変わるといえば、住友銀行とさくら銀行が合併して"三井住友銀行"という仮称になるそうです。ちょっと待って下さい。どうしてここに三井がでてくるのでしょう。さくら銀行は合併する前、太陽神戸三井銀行といっていたではありませんか。それがいつの間にか、太陽と神戸の名前は消えてしまい、三井があぶり出されてしまったのです。だいたい住友と三井なんて水と油ほど体質が違う財閥気質です。合併して本当にうまくいくのでしょうか。

う〜ん、今日はどうも愚痴ばかりになりました。こんな日は早く寝ることにします。
437-1月31日(水)
筆者が属している同人誌の同人が、去年暮れ、急逝していたことが分かりました。
西谷民五郎さんです。

西谷さんとは、詩誌『メランジュ』の同人となる前にも、氏が「灌木第2次」に属していた頃、詩集『心象の秋』を編集担当したことがあります。この時、須磨区のご自宅に本を持ってうかがったこともあるのです。1986年のことです。(もう15年も昔のことになるのですね)

そして1990年代となって、筆者が『メランジュ』に属するようになると、"先人"として西谷さんが所属されていました。

民五郎さんは年末(12月29日)にお亡くなりになったのですが、夫人の意向でわれわれ同人に伝わるのが遅れました。夫人からのファックスによりますと「前の日は夕方から焼酎を1本空け、翌朝は頭が痛いと言い、例によって布団の中で読書、うたたねをくり返しているとばかり思っていましたので、異変に気が付いたのは夕方でした」。

死因は心筋肥大症による病死。心臓が人の2倍ほどにもなっていたそうです。民五郎さんは1947年生まれ。団塊の世代そのもの。筆者は去年の夏、全く同年齢の義兄を失ったばかりです。53歳、働きざかりです。人の生命というのは、こうも簡単に終わりを迎えるのでしょうか。

民五郎さんは、高校教諭。1997年に『嗚呼 花の機動隊』という第五詩集を出されています。『メランジュ』にも最近は、出自の但馬のことをテーマとするなど積極的な創作活動をなさっていただけに残念です。去年の「ロルカ詩祭」にも初参加され、独得の朗読世界を披露してくれ、今年も引き続き出演してくれるのを楽しみにしていたところです。

『メランジュ』に最近だされた作品が特によく、合評会でも筆者は絶賛していただけに、いまだ民五郎さんの早すぎる死は信じられないのです。
436-1月30日(火)
インド西部の大地震の被害拡大に心が痛みます。

暑いインドでも、1月はさすがに寒く、ヒマラヤに近い首都デリーでは、みぞれや雪が降ることもあるらしく、凍死する路上生活者もいるのです。筆者がインドに行った25年前は、"リキシャ"という呼び名の人力車が、重要な交通手段でした。その"リキシャ"の上で運転手君たちは寝ていました。

あれから四半世紀、インドはどのように変わったのでしょうか。電力事情が不安定で、銀行や病院のビルは自家発電しているところが多かったのです。なにしろ突然電気が消えるのです。インドを旅していると、この停電は計画的に行われていることが分かります。つまり24時間こうこうと明かりを灯す程の電力供給量がないのです。

この時気がついたのは、地球上で24時間電気がずっとついているのは、面積的には工業先進諸国のごくわずかな地域でしかないということです。Japonに住んでいると、どうしても欧米と同じ規準で世界をみてしまいます。しかしアジアの同胞たちは、まだまだ電力が安定的に供給されていない環境のもとで、生活しているのだということを知ったのです。

こうした環境に住んでいれば、環境に適応するための智慧と手段は働くものです。インド社会ではローソクは必需品でした。筆者がバナラシという宗教都市を訪れた時、ちょうど結婚式シーズンで、白馬にまたがった花婿が、楽隊と"散華"をする少年たちに先導されて、しずしずと花嫁のいる家に向かいます。途中、町中を通過するのですが、ちょうど停電していました。ローソクの灯火の中を進む結婚式の一行は、それはそれは幻想的な光景を演出していたのです。

もうすぐインドの総人口が中国を抜かすといいます。インド人も中国人も共に"中華思想"の持ち主。決して仲がいい同士ではありません。筆者にもひとつの経験があります。これについてはいずれ書くことにしましょう。インド人は人なつっこく、議論好きで、辟易するほど同じことを繰り返してしゃべる人たちです。
435-1月29日(月)
カルメンの定休日。

筆者は土曜日、日曜日や祝日と働いているために、子供達の休みとなかなか一緒になりません。そのかわり同居人の女性(妻)と、二人だけで行動する機会が年に何回かあります。

筆者と同世代の親たちは、休日には、家族全体で行動したい(いやするべきだ)という、家族という共同体を"主宰"している側の意思が働きます。子供達が小さい頃は、ついてきてくれるのですが、大きくなってくると、親の思うとおりに動いてくれません。子供達が友人同士で動いたり、塾やクラブで多忙になるからです。たまについてきてくれても父親だけが行動して母親は家にいるとか、別行動というパターンが少なくないようです。

それでは、子供たちを無視して、夫婦だけで出かければいいようなものですが、Japonの人たちは良くも悪くも、子供中心の家族環境が出来上がっていて、子供達をさしおいて、二人で出かけることに大きな抵抗を感じるのです。夫婦二人で出かけるというのは、冠婚葬祭といったやむにやまれぬ場合が多いのではないでしょうか。夫婦だけで出かけることに対するはにかみもあります。

今日、二人が出かけたのは、近所のイタリア料理店。歩いていけるところです。幸いにも、筆者の住んでいる地域には、こうしたイタリア・レストランを初めとした気楽に行ける店が数軒あって、重宝しています。

そこは小さなスーパーのあったところで、去年の秋ぐらいにオープンしたところです。ランチタイムに行ったのですが、一人はパスタ・ランチ(前菜かスープ、パスタ=2種類の中から選択=)、一人はアラカルトを頼みました。水蛸のマリネや、ワカサギとマグロのサラダ、トマトソースのスパゲッティなどです。

飲み物は、一番安い2500円のミディアムタイプのイタリア産赤ワイン。昼から気心しれた人と飲むワインの美味しいこと。会話もうんと弾みます。こういう時の料理は、陽気な地中海系のスペイン料理かイタリア料理がピッタリあうのです。フランス料理は概して高額なために、「今ぼくたちは、高い料理を食べているんだ!」というコワバリから離れられず。食事を楽しむまでにはテンションアップ出来にくいのです。

夫婦とも赤い顔をしながら帰宅。筆者は休む暇もなく、長田区にあるFMわぃわぃに向かいます。「南の風」の生放送です。今日の放送は、先日奄美へ出かけた際に録音してきた古仁屋(ヒギャ)の島唄です。唄者は、古仁屋で生まれ育った富島甫さん(76)、三線とハヤシは徳原正照さん(加計呂麻島諸鈍集落出身)です。

二人の島唄は、戦前の瀬戸内町におけるウタアシビの様子をよく伝えています。ウタアシビといえば、まず座開きの曲として"朝花節"だろうと思っていたのですが、戦前は"ほこらしゃ"から始めたそうです。しかもこの"ほこらしゃ"に、いきなり踊りが入ることもあるそうで、その踊りが入った場合のテンポの速い別バージョンも演奏してもらいました。

この"ほこらしゃ"を最初に唄うというのは、諸鈍シバヤで最初に唄われるのがこの唄だという影響のようです。また"朝花節"では、出だしの(ハレ〜)が、素朴で飾り気のない調子なのにはビックリしました。富島さんに言わせると、今のヒギャ唄の主流になっている福島幸義氏の唄い方は、彼が戦後復員してから島唄を始めたので、それまでの歌い方と違い、新しいヒギャを作ったのだと証言されています。だから「福島さんや、武下和平さんの(ハレ〜)はどうもなじめない」と言っていました。
434-1月28日(日)
筆者の友人である詩人の福田知子さんが、トーアロード近くの"ロッコーマン"で、詩の朗読会をしました。伴奏は原公一郎さんのギター。この人はすでにCDを6枚ほどだしている人で、最近では"さくら銀行"のCFにも採用されている曲もあるそうです。

会場は30人ほどが入り、詩の内容によって、曲想を変えていく原さんの伴奏効果が効いて徐々に盛り上がっていきます。この二人の出会いは、原さんがギターを演奏していると、福田さんがその曲に刺激されて、演奏している間に一つ作品を書き上げ、それを見ていた原さんが感激して、いちどジョイント・コンサートをしようということになったのです。

コンサートでは、原さんのギター独奏があり、すべてオリジナル曲を何曲か披露してくれました。ギターは、ユーラシア大陸の西の果て(ポルトガル・ギター)から東の果て(琵琶)まで分布する表現力ゆたかな楽器です。福田さんもギター一本の演奏だけで、約1時間半もたせるというのも、さすがというべきでしょう。コンサート会場を出てくる人たちは、皆満足した顔をしていました。やはり詩の朗読というのは、Japonの人たちにとって、とつとつと語りかけるのが、好評のようです。

最近、詩の朗読会をやっている人(表現者)に出会うことがあり、以外と筆者の知らないところで、詩を読む=口誦性の表現活動をしている人が多いことが分かるのです。

カルメンも8月19日に今年も"ロルカ詩祭"を行います。今日の福田さんの朗読会に刺激を受けて、第四回目にあたる今年もより充実した会となるよう、今から準備を開始しようと思っています。
433-1月27日(土)
北海道出身の人としゃっべっていると、羊肉の話となりました。ジンギスカンで羊肉を使うのはよく知られていますが、北海道ではしゃぶしゃぶにも羊肉を使うとのことです(豚肉も入れるそうです)。ご存じのように、関西で"肉"といえば、牛肉を意味します。しかし、関東そして北海道では"肉"は豚肉に相当するのです。これは大きな食文化の違いです。

北海道は、羊に対して親近感があり、昔からよく食卓にのぼってたようです。そういえばかつて日本で、食肉の自給率を高めるために、農家で羊を飼うよう国家が奨励していました。明治から戦前までの話です。羊に与える餌は、特別のものは要らず、自然に植えているものをあてがえばいいのです。ミルクや羊毛、食肉と用途の広さが魅力です。戦後の食糧難が深刻化している時にも重宝されていました。

ところが戦後社会が安定化に向かい、国民の食糧事情が良くなると、途端に国の統計から羊の数が減ってしまいます。理由は簡単です。食肉が安く手に入るようになり、飼育していた農家が付加価値の高くない羊を食べてしまったか、あるいは食肉業者に売ってしまったのです。

いまJaponで、羊肉を食べ続けているのは、北海道ぐらいではないでしょうか。

432-1月26日(金)
今日は、カルメンの特別料理を紹介します。

"新春のフルコース"と名打った料理企画で、4月8日まで受け付けています。
今回も多くの新作料理を用意しました。また、料金も値下げしましたので、価格面でも皆様にはプラス面です。ちょうど年度末のお疲れさま会、歓送迎会にもご利用していただけます。

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新しい世紀、新しい年にふさわしい料理企画です。今回もオードブル、サラダ、メインディッシュ、デザートと新作メニューがぞくぞく登場します。日本人の繊細な感覚も充分満足させてしまう内容です。日頃、食べる機会の少ないスペイン料理をこの機会にぜひ召し上がって下さい。

1.セルベッサ(スペイン産ビール)
2.プルポ(蛸)とアスパラのマリネ グリーンソース添え
3.ほたて貝のコキール ガリシア風
4.(スープ)ソーパ デ ケソ(スペイン式チーズのスープ)
5.アンチョビ入りのミックス・サラダ
6.タラと豚肉のポルトガル風アサード(オーブン焼き)
7.a.仔羊のシチュウ
 b.牛フィレ肉のステーキ(伝統の一品)
  a b いずれかを選択
8.a.海の幸のパエリア
   b.山の幸のパエリア
   c.パン
  a b c  いずれかを選択
9.(デザート)カボチャのフラン
10.a.コーヒー
    b.紅茶
    c.シェリー酒甘口

                                            平常料金/  8380 円相当
                                            優待料金/4300円
                                                (お一人様)(税別・サ無)
                                     期間/2月1日(木)〜2000年4月8日(日)
                                      (月曜定休。但し2月13日、3月21日は休業。
                                               2月12日、3月19日は営業します)
431-1月25日(木)
珍しく一日中雨です。朝、傘をさして出勤し、夜の帰宅時も雨が降っていました。
冬の雨というのは、なんだか中途半端です。ひと雨ごとに暖かくなるわけではなく、雪に変化(へんげ)するわけではないのです。

昨夜、友人の詩人が、画家の女性とともに来店し、店が引けた後、一緒にあるスナックに行きました。筆者は、冬に身体を冷やすバーボン、ウィスキー類が苦手です。去年11月には、それがもとで約3週間にわたる風邪をこじらせてしまいました。

その店にはイモ焼酎があり、お湯割りで飲むことにしました。スナックに焼酎が置いてあるのは、まことに珍しいのではないでしょうか。焼酎のお湯割りには、ひとつのルールがあります。先にお湯をつぐこと、焼酎を入れた後も(マドラー)などでかき混ぜないこと、だそうです。

筆者の飲み方は、焼酎を先に入れます。焼酎もお湯も同じ無色透明なので、焼酎3に対して、お湯7ぐらいの割合で飲むので、先に焼酎を入れないと、どれくらい入れたか忘れてしまうので、自己流で通しています。焼酎のお湯割りについて、奄美では面白いエピソードがあります。

鹿児島の人は夏でも焼酎をお湯割りで飲むことが多く、お湯割りも先にお湯を入れるので、焼酎の飲み方(お湯の使い方)いかんによって、"薩摩のスパイ"かどうか見極めたそうです。奄美は1609年以降、近世を通じて、薩摩藩の植民地的支配にあえいでいたこともあり、抑圧者として奄美に赴いた権力行使者かどうかを見極める必要があったのです。

430-1月24日(水)
先日、名古屋に住むある男性からメールがありました。

その男性の友人が、スペインにフラメンコ留学することを決意したそうです。現地(ヘレス)でアルバイトを希望しているのだが、可能かという内容です。

筆者はスペイン料理経営者なので、その方面の事情は詳しくないので、中川マリさんなど数人のバイラオーラに聞いてみたところ、かなり厳しい事情が伝わってきました。マリさんは、毎年セピージャに一定期間滞在するそうですが、スペイン人ですら、雇用の場所がなく失業率が高いのに、外国人が気軽にアルバイトできる場所はないとのこと。Japonに較べて比較的経済が好調といわれるEUですが、スペインはそれでも10%以上の失業率が常態化しているのです。こうした事情をメールの発信者に伝えました。

最近では、セピージャやヘレスの少し名の知れたフラメンコ教室なら、Japonから来た人が必ずいるとのこと。大人の生徒たちは、Japonの人が中心だそうです。あちらの人たちは、子供のころから習っているので、20歳代ではすでにプロとして踊っているからです。

メールをくれた人の友人は、会社勤めをやめて本格的にフラメンコを習うため、スペインに渡るのでしょう。この今の不況下で、若年層でもリストラにおびえて暮らしているよりも、スペインに渡って、好きな道を歩み、そして人生を楽しむスペイン流生き方に接する方が、よっぽどその人のプラスになるものと思っています。
429-1月23日(火)
また寒くなってきました。

そろそろ餌がなくなったのか、拙宅の"猫の額庭"にヒィヨが南天の実をついばみにやってきました。器用に身体を逆さにして実を取っています。

彼らはこの寒い天候のもと、防寒設備のない野外で過ごすわけですから、身体にそうとう影響するはずです。彼らの寿命が長くないのも、こうして一年中、野外で暮らしているからでしょうか。

防寒といえば、拙宅には炬燵がありません。同居人の女性(妻)が嫌うからです。炬燵は長居が快感です。この暖房器具の近くには、テレビがあります。〈炬燵--テレビ〉というセットは、冬の極楽装置の代表格です。

彼女は、この極楽装置に子供達がへばりつくことを極端に嫌悪するのです。それに筆者の見立てによりますと、平面があれば、なにかとモノを置きたがる彼女の性格からして、炬燵の上にも際限なくモノが積み上げられていくことに対する自己防御の精神が作動しているようです。

学生時代に愛用していた炬燵ですが、今は納戸にしまいっぱなしです。筆者がちょっとした作業のために出しても即座に片づけられてしまいます。食卓で子供達が勉強していると、テレビを見てくつろぐ習慣のない筆者の行き場所がなくなり、家に帰っても安堵する場所がなく、落ち着かないのです。
428-1月22日(月)
カルメンの定休日。

もそもそと昼食を一人で食べ、FMわぃわぃの放送準備にとりかかります。
今日が「南の風」奄美篇の今世紀における第一回目の放送です。

番組は、筆者が15日から4日間、奄美を訪れて収録した島唄の数々を総括的に紹介する内容です。この日、京都から高嶋正晴氏(立命館大学産業社会学部講師)が、スタジオに遊びに来てくれ、"奄美ひと口情報コーナー"で、島尾敏雄と加計呂麻島についての二人で話しました。

高嶋氏も去年の夏、加計呂麻を訪れており、海水浴も楽しんだそうです。奄美大島は、沖縄より本土に近いのですが、不思議に航空運賃が高いために、観光客がそう多くなく、ビーチもきれいです。ゆっくり過ごすのには最高の場所といえましょう。最近では、スキューバ・ダイビングを目的にした観光客も増えていて、洒落たペンションも何軒かあるようです。

番組終了後、高嶋氏とJR鷹取駅近くの"うたげ"へ。ここは徳之島・伊仙町出身の人がオーナーを勤める店です。ここで黒糖焼酎を飲んだ後、高嶋氏ともども元町の"木馬"へ行き、筆者が所属している詩誌『メランジュ』の編集会議に臨んだのです。
427-1月21日(日)
昼からFMわぃわぃ開局5周年記念事業に参加するために、長田区の鷹取教会へ。ペーパー・ドームが記念式典の会場になっていて、筆者が到着した時は、祝辞が述べられていました。

この日、筆者と共に局に向かったのは、奄美の島唄を唄う勝島伊都子さんと田中俊三さん。午後1時からアトラクションが始まり、8言語で放送しているわぃわぃならではの多彩な民族芸能が披露されました。奄美の島唄も15分ほど、そのアトラクションに参加できたのです。

筆者が少しだけ番組と奄美と島唄について紹介した後、勝島さん(唄)、田中さん(三線、ハヤシ)のコンビで、1.朝花節 2塩道長浜節.3.イト(仕事唄)4.六調の4曲を披露しました。イトと六調は、太鼓が入る陽気な曲です。この日、奄美の太鼓"チヂン"を持参していなかったので、わぃわぃスタッフに頼み込んで、韓国舞踏で使う"チャンゴ"とバチを借り受け、筆者が太鼓を担当したのです。

この二つの曲は、誰でも参加して踊れる曲なので、会場へ参加するよう呼びかけたところ、全ミオクさん(FMわぃわぃジェネラル・マネージャー)が真っ先に踊ってくれ、あと次々と様々な人たちが踊り出してくれ、楽しい思い出となりました。

Japonの人たちは、こういうとき、踊り出す人は多くありません。いつからJaponの人たちは、自然と身体が動き出す"おどり"をしなくなったのでしょう。今、Japonで"おどり"というのは、高度に発展した身体芸術でしか目にすることはなく、上手下手関係なしの"おどり"を披露することの場が欠如していることが大きいのかも知れません。また盆踊りでも、"型"を大切にするあまり、型のない自由な"おどり"は、存在しずらいのです。

また、本来こうした文化的規範から自由であるはずの若者たちも、ヒップポップなど、踊る行為は見せる行為と直結しているため、参加する"おどり"は考えにくいのかもしれません。今、踊らないJaponの人たちが、殆ど間違いなく踊れるのは、"ラジオ第一体操"だけかもしれません。

426-1月20日(土)
早朝は雪だったのに、午前10時を過ぎるころには雨となりました。雪がはらはらと降っている方が情緒があります。どうせ寒いのだから、雪の方がいいのに決まっているのです。

筆者が出勤しようと、カルメンの階段を駆け上ろうとしたとき、ひとりの女性に引き留められました。カルメンのちょうど南にある"しんせい堂"という"おかき屋"さんの女主人です。「今月で店を閉めることになったんです」。

えっ!

今では細い路地で隔てられていますが、昭和52年までカルメンと"しんせい堂"さんはお隣り同士。筆者は2歳ごろまで、カルメンの三階に住んでいたので、その女主人とは年齢的にも近く、"幼な友達"であったはずです。母などからは、知らないうちに家を出た筆者は"しんせい堂"に入って、おかきをもらっていたこともあったそうです。

"しんせい堂"は創業52年といいますから、カルメンより歴史が古い店です。スナックやクラブなどに入るとまず最初に出てくるちょっと高級感のあるおかきを扱っています。商売相手となっているスナックやクラブが不振を極め、テナントとして貸している"イタリア料理風"レストランが撤退したダブル・パンチで、閉店を決めたそうです。

"しんせい堂"といい、スナック"L"といい、昔からこの界隈にあった店が閉じることとなり、寂しい限りです。ずっとずっと昔、昭和30年代には、この南北の筋の店屋さんだけで、親睦旅行をしたことがあります。"商店街"的気風が残る界隈でした(都心といってもまだ都会化されていなかったので、店舗の上に住んでいる人も多かったのです)。今ではビル化が進みみここに住む人はいなくなりました。

加えて、震災と不況というアクシデントです。あと"のんちゃん"とかいった老舗もいくつか頑張っているものの随分寂しくなりました。Time  is  change.

425-1月19日(金)
フィリピン政局が激動しています。

エストラーダ大統領の辞任を求める抗議集会にフィリピン国軍のトップの面々が参列したことで、大統領が追いつめられているのです。

今日の時点では、今年5月の大統領選挙を繰り上げして実施し、自分は立候補しないとエストラーダ氏は声明を出しましたが、反対派は納得せず、引き続き即時辞任を求めています。

去年から今年にかけて、かつてスペインが宗主国だったペルーとフィリピンで似たような政治状況となり、大統領が辞任に追い込まれる事態が発生しています。そのどちらも20世紀的カリスマ性をもった古典的キャラクターです。

いっそ、エストラーダ氏もJaponに"亡命"すればいいのです。そしてフヒモリ氏と結託して、"太平洋ラティーノ亡命連合政府"をうち立てたらどうでしょう。あの森さんもきっと祝電を打ってくれるでしょう。電文はこうです「身の振り方、おおいに参考になります。あきらめずに頑張って下さい」。
424-1月18日(木)
(01年/奄美冬紀行/4)
旅の最終日。

浅丘ルリ子が泊まったという部屋のバスにたっぷりめのお湯を入れて、ゆったりと入浴。今回の旅行で、すっかり朝風呂が気に入ってしまいました。酔っぱらって部屋に転がり込んでも、もう寝るだけなので、朝に入浴する方が、ずっと気分的に楽なのです。

フーチャランドの山本一男氏をFMわぃわぃ用にインタビュー。西宮生まれの山本氏は、養鶏業を営んでいましたが、喘息がひどくなり、転地療養も兼ねて、沖永良部島にやってきてペンション経営を始めたのです。徳之島が遠望できる絶景の場所は、長く海を眺めていても飽きることはありません。都会からやってきた女性客は、どこへも出かけず、ペンション近辺を散歩するだけで、都会に帰っていく人もいるそうです。

筆者が泊まった部屋は、山本氏がかつて手がけていた輸入雑貨商の名残りで、アジア・アフリカの置物や調度品がずらりと置かれ、不可思議な空間を演出しています。このペンション周辺は、人家がほとんどなく、働き者の沖永良部の人たちが立ち向かっても、"塩害"がひどく耕作地にならない場所だそうです。

山本氏はこうもいいます。「このペンションを、リタイアして人が長期滞在できる場所にしたい」とも。しかしここ数年、右肩上がりで推移してきた客数も去年は頭うちとなったそうです。休暇が終わると、会社に自分の席が残っているかどうか分からないという女性客もいるそうです。ここにも不況が浸透しています。

"フーチャランド"に別れを告げ、沖永良部空港へ。空港に待っていたのは、エアードルフィン一番の大型機。9人乗りのもので、筆者は安心しました。しかしこのサイズの飛行機に乗ったことがない音谷氏は「なんだか模型みたいやな」と驚いています。

空港待合室には、エアードルフィンの事務員らしき人が一人、乗客リストを持って立っています。名前を告げると、料金を振り込んだのが一週間前だったので、チケットがなく、その事務員の人が携帯電話で振込があったのかどうか確認しています。

那覇の本社で振込が確認されたらしく、いざ出発です。出発口に入ると、その事務員の人が、金属探知センサーを搭乗者の身体にあてて、チェックしています。その後、飛行機の先のとがった部分に荷物を預けるのですが、それもその男性が慣れた手つきで入れていきます。

搭乗者が乗り込むと、なんとパイロット席に座ったのは、その事務員さんでした。「ラジャー」とかなんとか、アメリカっぽい発音の英語をペラペラ管制塔と話しながら滑走路を移動していきます。運転手席とわれわれの座った席の距離はまったくありません。パイロットの動きがすべて見て取れるという身近さです。ヒュヒィーンと離陸するとまたたく間に、上空に駆け上っていきます。

筆者はこの沖縄--沖永良部航路を乗ったのは、これで三年連続なので、比較的心おだやかに乗ることが出来ました。約1時間で那覇空港に到着。エアードルフィンの格納庫まで、飛行機をつけた後、ターミナルまで行くリムジン・カー(ワゴン・タイプ)が待っています。その車を運転してくれたのは、これまた事務員兼パイロットの男性。飛行機の荷物もそのワゴンに詰め替えてくれます。

広い飛行場をぐわーんと遠回りして、ようやく出口に到着。「ちょっと待って下さい」と、事務員兼パイロット兼リムジン・カー運転手の男性が言うと、運転者席を降りて、金網のカギをあけ、ワゴンを通し、通過した後は、また車を降りて、カギを閉める。その動作の手際のいいこと。下車場所に到着すると、荷物を下ろしてくれる。要するにその人は、事務員兼パイロット兼リムジン・カー運転手兼空港職員などなど全部一人でこなしているのです。航空産業というのは、あまたの人が乗降員・事務員としてかかわっていると思い込んでいるわれわれには、なんでも一人でこなすそのありように、ただ脱帽するばかり。

「ありがとうございました」。リムジン・ワゴンを降りていく時に軽く頭を下げ、挨拶したのは、われわれお客さんの方でした。無事に飛行機を到着させ、こまごまとした仕事をこなす彼の八面六臂の活躍に、自然と感謝の気持ちが沸き起こってきたからなのです。

到着した那覇は26度の暑さ。真冬の格好をしていた筆者の身体から汗が出てきます。空港でいったん音谷氏と別れ、筆者は琉球新報社へ。仲田文化部長と3カ月ぶりに会い、よもやま話。仲田部長から、新報のコラムに載せるために来琉の理由を取材されます。さらに、文化面に掲載する原稿の執筆依頼を受けました。去年刊行された『島尾敏雄事典』についての所見です。

帰路の機中では、ヤマトに近づくにつれて、雲が多くなり、雪がちな天候であることがわかります。ヤマトは寒い。真冬の最中なのです。

423-1月17日(水)
(01年/奄美冬紀行/3)

名瀬のビジネスホテルで目覚めたのが午前8時すぎ。音谷記者が別室から電話を入れてくれたので起きることが出来たのです。ぐっすり寝ていました。頭がまだガンガンします。黒糖焼酎がいくら二日酔いしないといっても、限度を過ぎると、やはり身体にこたえます。そして時計を見た時、叫んでしまいました。

「しまった!!」

今日は1月17日。阪神大震災が起こった日です。1995年の震災以来、毎年この時間には起きて、黙祷を繰り返しているのです。それが震災以来はじめて寝過ごしてしまったのです。今年は仏教的にいえぱ7回忌。神戸ではさまざまなイベントが繰り広げられています。FMわぃわぃもニュースステーションで生放送で中継されているはずです。後悔することしきりです。

しかし不思議なことに、ホテルの朝食は食べることが出来たのです。午前9時の空港行きリムジンバスに乗り込み、奄美大島から沖永良部島に向かいます。飛行時間は1時間弱。あっという間に着いてしまいました。

空港では、この島の一番徳之島よりに建っている"フーチャランド"というペンションを経営している山本一男氏が迎えに来てくれました。まずはそのペンションへ。絶対睡眠不足の筆者は、小一時間ほど、大きいベッドの中で眠りこけていました。そして豪華な昼食。午後1時すぎに、わが畏友・新納忠人氏が出迎えに来てくれた。

新納氏は、黒糖焼酎の蔵元である"新納酒造"の当主です。筆者は四季をとわず、新納酒造の一升瓶"天下一"を拙宅で愛飲しているのです。面白いもので、同じ沖永良部島で造った焼酎でも新納酒造のものは、ほのかに"優しい"味がするのです。これは新納氏と作り手の人たちの"柔和"が味に反映しているのに違いないと、筆者は勝手に思い込んでいるのです。冬はお湯割りが最高です。また夏は、ロックにすると五臓六腑に染みわたるのです。

三人はまず14世紀にこの島を統治した世之主の墓へ行きました。亀甲墓以前の古い墓様式をたたえた貴重な遺跡です。ここはいわば沖永良部島のヘソにあたる"聖地"といっていいでしょう。世之主が依拠した城郭もありますが、ここの発掘はまだこれから本格的に始まるのかもしれません。

続いて、田皆という集落にある新納酒造の工場へ。筆者がここを訪れたのは、二回目です。しかし今回同行した朝日の音谷記者にも奄美を代表する産業の黒糖工場の現場を見て欲しくて再び見学しようと思ったのです。新納社長は、丁寧に酒造りみの工程を説明してくれます。説明を聞いていて、だいだいしか分かっていなかった黒糖焼酎づくりが少しずつつかめていったのが成果でした。

そこで筆者が"発見"したことを挙げておきましょう。 
1.黒糖焼酎づくりは、まず米を発酵させて、あとに黒糖を入れているのですが、配分率は、米1に対して、黒糖2 であるということ(筆者は逆だと思い込んでいました)。
2.その米は日本の本土米と思っていたがそうではなく、タイ産の粉砕米を使用していること(粉砕米の方が加工しやすいからかもしれません)。
3.麹(こうじ)は白麹を使用していること。黒糖焼酎だから、麹も黒麹だろうと思っていたのですがそうではなく、白麹を使っていた(昔は黒麹だったそうだが、工場内が真っ黒になるので、白麹がどの蔵元でも好まれているとのことです)。

新納酒造では、去年創業80周年を記念して造った"寿"をそれぞれ一本ずつ戴いた。工場見学の後は、田皆岬にいって"絶景"を見学しました。しかし、筆者はどうもこうした絶壁の場所は苦手です。足がすくむのです。絶景を楽しむはずが、早くこの場から遠ざかりたいとばかり思ってしまうのです。

続いて、午後5時から沖永良部島の島唄を録音するために、和泊へ。国頭集落の鍋田武則さんが経営する料理店で、待っていてくれたのは、鍋田さん(サンシル、唄)、東ヒロ子さん(唄、ハヤシ)、そしてこの島の唄者の重鎮である林茂さん(サンシル、胡弓、唄)の三人。鍋田さんが風邪をこじらせている最悪のコンデションだったが、長老の林さんが元気。太い声で唄う島唄は、迫力いっぱい。充分堪能させてもらった。

この島唄は、FMわぃわぃ「南の風」用に録音されたもので、8曲唄ってもらった。1.イキント節 2.サンゴウ節 3.石ん頂(ちぢ) 4.犬田布嶺 5.西目ちゅっきゃり節6.アンチャメー小(ぐわ) 7.ヨーテー節 8.サイサイ節。

続いて先田光演先生が別に準備していただいていたジュウテの皆さんがわざわざ迎えにきていただき、一緒にフーチャランドに。"あそび唄"ではなく、"おどり唄"を収録できた。曲は3曲。1.グシャヒンヨー 2.竿打踊(さわうちおどり) 3.ヤッコ。演者は、宮内利明氏(サンシル、唄。昭和7年11月生まれ)、長田栄智氏(唄、昭和8年8月生まれ)とその子息である長田冨和さん(昭和37年2月生まれ)。すべて国頭集落の出身です。これもFMわぃわぃで放送します。

無事、二本分の番組収録を終え、再び和泊の鍋田さんところの店へ。そこに待っていてくれたのは、前利潔氏、新納忠人氏、先田光演氏、徳洲会の永田氏ら。この日も遅くまで鍋ほつつきつつ、熱い議論が闘わされたのです。(歴史学と民俗学を研究している先田先生には、今回もいろいろ教えていただきました。この日誌ですこしずつお知らせしていきたいと思います)。

議論は加熱し、この店では収まりきらず、フーチャランドに場所を移し、前利、新納、音谷各氏と午前3時ごろまで熱弁をふるっていました。(それにしてもよくしゃっべって、よく飲んで、よく食べました)

422-1月16日(火)
(01年/奄美冬紀行/2)

古仁屋の旅館で目覚め、この日は朝一番に瀬戸内町図書館に出向き、義富弘氏をインタビュー。『しまがたれ』という郷土誌を発行している人で、義さんの瀬戸内町各地を巡る紀行文が優れています。筆者が義さんと会いたいと思ったのは、この優れた紀行文を書く人に会いたいからでした。

筆者がインタビューをしている間、音谷記者は、沢さんに先導されて図書館内を散策。フェリーの出発時刻となり、港へ四人で急ぎます。町営のフェリーは、25分ほどかけて加計呂麻島へ。筆者が一度訪れてみたいと思い続けてきた島です。海岸べりには野生の山羊がいます。かつて山羊はどこの農家にも飼われていたのですが、高齢化が進んで、集落の維持さえも危うくなっている状況のため、飼われていた山羊も山の中に入って野生化したのでしょう。

加計呂麻は昔から軍事的要害の地。かつて琉球軍が大島攻略の橋頭堡としたのも、同島の諸鈍という集落でしたし、倭寇が活躍する時代は、商船=海賊船が閑かな大島海峡を利用したでしょう。また先の大戦では、旧日本軍が早くも加計呂麻の持つ軍事的プレゼンスの高さに注目。対岸の古仁屋を含めて、陸軍・海軍が陣地を構築。一挙に軍隊の島となったようです。だから戦前は島に渡るだけでも軍の監視があったといいます。

筆者が行きたかったのは、島尾敏雄が隊長をしていた震洋という特攻艇基地跡がある呑之浦です。島尾は加計呂麻を「ここは『古事記』の世界そのものだ」と形容しています。基地跡は、少し奥まったU字型になっていて、閑かな入り江でした。戦争を忘れてしまいそうな平和すぎる場所です。時間が止まったような、まるで島尾文学の主要テーマである"夢"の世界が具現したかのような場所でした。

島尾隊は、総勢180名ほどいて、軍からの突撃命令を待っていたのです。戦局は逼迫していました。いつ死んでもいい情況であったはずです。大平ミホさんは、隣り集落に住んでいました。島尾隊長が漢籍を多く所持しているミホさんのお父さんにしばしば会いに行き、そこでミホさんと出会うのです。そして二人は心ひかれる関係へとなるのです。

二人が過ごした場所は、呑之浦の入り江を出て、対岸の古仁屋が見える浜辺だったのでしょう。島尾隊長は、ミホさんと会うときは、伝令役に部下にを走らせて、何時に部隊の門衛のところに来るようにとの伝言を託していました。ミホさんが住んでいる押角という集落は、呑之浦の隣りなのですが、奄美の昔は集落を行き交うのに、山道は不便で時間がかかり、大抵は"板付け舟"という舟を使っていました。しかしミホさんは、少しでも早く会いたいために、岩がゴツゴツした海べりの道を選んだのです。

しかしある文芸評論家がその岩場を見た途端「ここを本当に渡ったのですか!」と疑ったという。愛の力は、すべての障害を乗り越えるものなのです。

続いて訪れた集落は、諸鈍。海岸べりには、デイゴの並木があって、映画"寅さん"の最後の作品のロケ地です。ここに住んでいたのが、リリーこと浅岡ルリ子。そこに寅さんが居候として同居するのです。ロケとして使われた家は、実際に人が住んでいるいます。ここでロケが行われたと書かれたプレートがはめ込まれ、観光案内板も設置されている念の入れようです。

ここ、諸鈍は、三カ月状に曲がった広くきれいな海岸があることで有名です。かつてここに林家と関家という二つの豪農(ユカリッチュ)が権勢を競っていました。林前織主という人が当主を務めた時代には、債務奴隷であるヤンチュ(家人)が300人以上いたといわれいます。この時にヤマという遊女が諸鈍にやってきました。加計呂麻島からまだ南にある請島の出身です。遊女といっても当時は"マワリズリ"といって、一カ所にとどまらずに回遊する春をひさぐ女性でした。同時に芸能の民でもあっでしょう。

このヤマという女性がたいそう美人だったらしく、林前織主は、ヤマに入れ込んでしまいます。この経緯は島唄「請くま慢女節」に詳しく唄われています。権勢を誇った前織主ですが、その権勢に見合った女性を"所有"する"資格"を持っていると思ったのでしょう。しかし周囲からさんざん意見されたようです。二人の恋の顛末はどうなったのか聞かなかったのですが、気になるところです。

今この二人の関係を物語る痕跡は諸鈍に残されていず、立派に残っている前織主の墓だけが、ヤマへの愛情を記憶しています。ちなみに前織主の墓石には、戒名(法名)が彫られています。仏教が殆ど浸透していなかった当時の奄美で、墓石に戒名が彫られていること自体、薩摩公認の禅宗の坊主に多額の金品を払って戒名(法名)を取得したことを意味するのでしょう。当時のユカリッチュの力の大きさを伺い知ることが出来ます。

しかし、この林家、関家ともども今は、屋敷の跡地はあるものの、建物はなくただ草が茫々とはえているだけになっています。さしものユカリッチュとはいえ、200年300年後に、体制・社会が変化して後も栄えることはありません。まだ両家の当主はどこかに生きているのかもしれませんが、一抹の虚しさを感じます。

諸鈍を後にした我々は、先の戦争で米軍と戦火を交えた高射砲地などを巡り、加計呂麻を出発します。古仁屋行きフェリーを待っていると、後部が荷台になっている軽四輪に、イノシシが両手両足を縛られて載せられているのを発見しました。大島側の人が、罠をしかけて捕ったのです。対岸の大島ではイノシシは減っていると聞きます。ところが加計呂麻は反対にイノシシが増えていると義さんが教えてくれました。イノシシはどうやら大島海峡を泳いで加計呂麻に渡っているようです。加計呂麻は過疎の島です。しかしそれは自然を"破壊"する人間の文化行為が減少しているだけのこと。イノシシにとっては自然が恢復して、食糧が増え、住みやすい場所になっているのかもしれません。イノシシや山羊にとっては、良い島なのでしょう。

古仁屋港で南海日日新聞の久岡学記者が迎えに来てくれました。筆者は、久岡氏と共に名瀬へ。音谷記者は、義さんと一緒にさまざまな場所をまわるとのことで別行動をとることにしたのです。筆者は南海日日新聞を表敬訪問した後、唄者の西和美さんがしている"かずみ"へ向かったのです。

筆者は名瀬によると必ずこの店に寄ることに決めています。島唄が聞けるからです。和美さんは、料理を作りながら唄を歌う人です。島料理も美味しく、去年は山羊汁、今年は"マタジル"をリクエストしたのです。これはイカスミで出来た料理で、具にはイカと豚肉も入っていました。

"かずみ"に集まったのは、奄美の言説を日々産み出しているそうそうたるメンバー。瀬戸内からの義さんも加わり、百花争鳴です。果てることのない議論が展開されました。筆者が店についたのが午後7時。本格的にメンバーが揃ったのは午後9時。解散したのは、午前2時。さらに午前4時まで二次会会場で飲んでいました。
421-1月15日(月)
(01年/奄美冬紀行/1)

この日から4日間、奄美・沖縄の旅に出ました。

琉球弧への旅は、阪神大震災の翌年(1996年)から行っているもので、今年で6年目にあたります。なぜ毎年この時期に琉球弧を訪れるのかとよく聞かれます。ひとつには、カルメンの休みが正月あけの"小正月"前後に3日間あるのを利用していること。二つ目には、震災で生き残ったからには、何か継続したことをしなくてはいけないような心情になっているからです。いわば、6000余人の震災犠牲者と、震災で死んでいたかもしれない自分に「生きているんやったら、なんかしてみぃ」と背中を押されての紀行なのです。

今年の"奄美冬紀行"の同行者は、朝日新聞大阪学芸部記者の音谷健郎氏です。この人、金沢支局長もこなした人なのですが、今は管理職の道ではなく、本社学芸部の記者として、バリバリ文化関連記事を書いている人です。署名記事を多く書いている人なので、関西方面で朝日新聞を取っている人は、なじみがあると思います。

早朝、伊丹空港から鹿児島空港経由で、奄美大島に入る予定が、この日、Japonの列島はどこも大雪で呻吟しています。特に南日本にも大雪の情報が寄せられ、伊丹発大分行きが欠航するとのアナウンスがあったときは、ひょっとしたらダメかも知れないと思ったのです。筆者は、鹿児島の冬が決して温暖ではないことを知っているために、覚悟は出来ていました。

飛行機は、15分送れて搭乗手続きに入ったものの、鹿児島空港の天候事情が悪ければ、宮崎空港に降りることを了承させられたのです。しかもわれわれ二人は、搭乗カウンターに呼ばれ、離陸時間が遅れるので、奄美大島行きの便との待ち合わせ時間がないために、飛行機の一番前の席に座るよう言われたのです。

鹿児島空港に到着してみると、一面銀世界。吹雪いています。待ち合わせの時間がないどころか、奄美大島行きの飛行機(福岡発鹿児島経由)が到着していません。結局大島に到着したのは、2時間遅れ。奄美では決して雪は降らないものの、今日のヤポネシアは全域凍えた一日でした。

空港から名瀬到着後、"さねんばな"の佐竹京子さんにまず挨拶。続いて、"本処あまみ庵"の森本眞一郎氏のもとへ。音谷記者がその奄美関係書籍の充実ぶりに、目を見張っていました。そこで待ち合わせしていたのが、「奄美ルネッサンス」を研究している間(はざま)弘志氏。森本氏を含めて4人で、鶏飯汁屋に行って食事。その店で間氏をインタビューしました。このインタビューは、筆者がDJをしているFMわぃわぃ「南の風」用に収録したものです。

インタビュー終了後、再びあまみ庵へ。筆者はここで島尾敏雄関係の書籍を数冊購入しました。奥野建男、吉本隆明の各島尾敏雄論、そして島尾が"女・島尾"と呼ばれた久坂葉子をモデルにしたという「川流れ」という作品が入った全集などを買い求めたのです(筆者は最近、島尾文学について奄美・沖縄の新聞に書く機会が多くなったので、島尾作品と彼に対する評論を徹底して読む必要があるのです)

午後3時半のバスで、古仁屋へ。つづら折りのカーブを何度も何度も曲がって、奄美大島南部の"大都市"古仁屋に到着。まずは瀬戸内町役場によって、この町の文化行政を担っている沢佳男氏と会見。午後6時からヒギャの本場で島唄を録音するために、義富弘と会うつもりが、筆者が勘違いして会えず、こりゃあ、あきらめた方がいいかもしれないと、音谷氏と二人で、重野書店におもむきました。ここの"名物かあちゃん"に会うためなのです。

今をさること16年前、筆者はある用件で古仁屋の街にやってきていた。ひさしぶりに対面して喜んでくれた上に、お土産に黒糖焼酎もいただいたのです。義さんと会えないと事情を伝えると、「あの人はそんな約束を違える人ではない」と義さんの家にも電話をいれてくれたのです。

宿泊予定のホテルに戻ってみると、義さんからメッセージ。筆者のミスに気付き、あわてて連絡。約束した時間より1時間以上遅れて、唄者の家にたどり着くことが出来ました。

奄美大島の島唄は大きく分けて、"カサン唄"と"ヒギャ唄"に別れます。古仁屋を含む瀬戸内町は、この"ヒギャ唄"の本場。奄美の島唄の代名詞ともなっている陰翳の深い起伏のとんだ"哀しげ"な島唄が聞けます。

唄者は、富島甫氏。古仁屋出身。80歳に近いものの、声の張りに衰えはありません。三線とハヤシを担当するのは、徳原正照さん。加計呂麻島・諸鈍集落出身です。二人の唄は、戦前から歌い継がれたヒギャの素朴で伸びやかな島唄でした。
420-1月14日(日)
昨日は、遠くて遠いアフリカの国の話をしましたが、なんのなんの先週から始まったNHK大河ドラマ「(北条)時宗」を見ていると、鎌倉時代のJaponも、武力を背景にした血なまぐさい軍事クーデターが起こっていたのです。

北条家というのは、源氏の"御家人"のひとつでしかないのですが、"執権"という実力者の立場を奪取したために、他の御家人集(三浦家や足利家)よりも優位な位置にあったのです。もともとは同じ"御家人仲間"であったのが今は頭を下げなくてはいけないことに、ルサンチマンを感じていた三浦家がまず北条家に蜂起して、粛正されてしまいます。

この時、足利家は動かず、後に北条=鎌倉政権に対して反旗を翻します。考えてみると、北条=鎌倉政権は軍事的優位にのっかっているだけの危うい政権基盤だったようです。武にたつものは武によって滅びるといいましょうか。それに「いざ鎌倉へ」という言葉は、北条=鎌倉政権そのものを支えようとする気迫を表したのではなく、自分たちが属している主家のために軍都・鎌倉に馳せ参じるという意味だったのかもしれません。

それにしても、この国の脚本家は、軍人たちのドラマツルギーを書くことが上手です。遠い昔のことでも、民族が継承している武人(軍人)としての"血"が、かれらの生きる心構えを活写するのでしょう。(筆者がここで言いたいのは、この大河ドラマが女性を主人公にしたてたり、歴史的人物をホームドラマ仕立てに作ったとしても、その登場人物はほとんど"武人"であり、農民や商人ではないということです。また天皇も主人公になることはありません。後醍醐天皇や後白河院、花山院、継体天皇、明治天皇、昭和天皇など面白い人は多いのですが………)
419-1月13日(土)
寒い寒い一日です。夕方から神戸でも雪が降るとの予報です。

震災の日が近づくに従って、マスメディアでは、阪神大震災に関することが特集されています。昨日も午前8時すぎ、地震がありました。筆者はまだ蒲団の中。〈寒い--1月--朝の地震〉となれば、否が応でも1995年1月17日のことを思い出します。悪夢でした。

95年以降、阪神大震災以外にも、三宅島噴火など大型自然災害が連続して起こっています。政治が悪いと、自然災害も増えるのでしょうか。それとも自然災害の増加と、政治の悪さというのは、どこかでリンクしあうのでしょうか。「悪王は災いを呼び、災いは悪王を招く」とはどこかの国の格言でした。

その"悪王"は、今ナイジェリアにいます。この国は、オバサンジョという人が、2年前の選挙で大統領になっています。久しぶりの民選首長です。この国は、しばらく軍人が政権を握っていました。西洋的な論理では、軍人支配という政治形態は、民主化されていないプレ・モダンな下等なものと判断されます。しかし実態は部族間の主導権争いであったり、実力者同士の権力争いに過ぎないことも多いのです。

ナイジェリアの不幸は、石油を産出することです。この冨を独占するのは、一部の特権階級で、一般国民には、巨額の外貨は還元されることはありません。
1960年代、"ビアフラ内戦"で国土が荒廃していたナイジェリアですが、石油産出が軌道に乗ると、冨の奪い合いです。「金のないとき心は安定する」----いい格言でしょ。ナイジェリアの為政者たちに送ってあげたいものです。これは筆者の携帯に配信されている「今日の6月生まれ運勢」です。
418-1月12日(金)
震災前のイベントが今年も無事おわり、今はホッとしています。神戸に生きる我々は、何年たっても阪神大震災を忘れることはなく、多くの人が、多くの方法で、震災体験を忘れないために、"記憶"の継承装置を持てばいいと思っています。筆者にとっては、それはフラメンコによる鎮魂の踊りです。

スペインという国はフラメンコという素晴らしい表現手段を持っています。そして最近では、多くのJaponの人たちがこの舞踏に魅了され、それぞれのフラメンコ教室は隆盛を極めています。身体表現であるフラメンコに惹かれるというのは、われわれの日常の身体所作があまりに、合理的・目的的になりすぎてしまっている証拠ではないでしょうか。"からだ"は合理的機械として機能することは求められても、"こころ"を写し出す表現媒体としては機能していないのです。

フラメンコ教室に女性が多いというのも、女性達は、単に変わった"お稽古ごと"として選んだのではなく、いまだJaponの社会が、企業内の女性という存在に対して"定型の"所作・言語・行為を求めているために、これに対する"アンチ"を求めているからではないかと思っています。

417-1月11日(木)
今年も、阪神大震災の鎮魂のためのフラメンコ・ディナーショーを行いました。

出演したのは、中川マリさんとアルテ・フラメンコ舞踏団の皆さんです。震災5年を前にした去年のテーマは"鎮魂"。そして今年は"復活"をテーマとしました。ショーは、午後7時30分からスタート。今年は、少し華やいだ雰囲気で踊ってもらいました。

"復活"というテーマは、神戸に住む人間にとって、あくまで「希望」です。まだまだ神戸の現実は厳しく、とっても心晴れやかな気分になれるものではありません。しかし、今日はJaponを代表するマリさんのソウルフルな踊りと、時にお客様を巻き込んでのフラメンコは楽しいひとときでした。

今日のイベントでビックリしたのは、マリさんがお客様にどうぞ参加してくださいと声をかけると7〜8人の方が踊っていただいたということです。たくみにお客様を誘導するマリさんもさすがなら、踊っていただいたお客様も上手な人がいて、びっくりしてしまいました。

カルメンでのフラメンコ・ショーの醍醐味は、ごくごく近くで、フラメンコを見ることが出来るということです。タブラオというのは、一応は専門の舞台がしつらえられているので、お客様との距離が生じます。しかしカルメンはレストランの中でするので、身近に感じることが出来るのです。

やはりフラメンコというのは、一度ギターがかき鳴らされ、バイラオーラが登場して、ステップを踏み出すと、一瞬にしてそれらしい雰囲気になるのが不思議です。筆者は今日はじめて、ガルシア・ロルカの"Verde"という曲を原語で聴きました。"緑"を意味するこの詩は、スペインの国民的詩人であるロルカの代表作のひとつです。フラメンコでは、ロルカの作品を題材にフラメンコを踊る場合もあるし、ロルカがフラメンコ用に詩を作ることもあります。

カルメンは、毎年8月19日に「ロルカ詩祭」という文学イベントをやっています。ロルカの詩の朗読もします。いずれこの詩祭でもフラメンコとの競演を実現してみたいものです。

416-1月10日(水)
最近、ネット上からの予約が増えています。

今日東京からお見えになった人も、メールで予約を問い合わせた方です。
料理という決して、デジタル化できない世界に生きていても、確実にIT化が進んでいます。団体の予約客の人たちが持参したカルメン周辺図も、ホームページからダウンロードした地図がコピーされているなど、カルメンもインターネットなしではやっていけない状況になっています。

いまや国民の約半数が携帯電話を持っている時代です。携帯からアクセスする人も増えてくるでしょう。ただ、携帯からのi-modeは接続料が高く、筆者は携帯を持った当初使用していましたが、高くつくので、やめてしまいました。もっぱらメールを使っているのです。

今年から新世代通信がスタートしますが、接続料の高さがネックです。つい先日、ランチを食べに来店した筆者の友人は、J-Phoneのデジタルカメラ付き携帯を持っていました。筆者も試しに写してもらったのです。逆光だったので、写りはよくなかったのですが、こうした画像も転送する時間が省略されます。環境が整えば、デジタル・ビデオカメラとして、携帯が使え、ライブ演奏の実況や、ドキュメンタリー制作用としても利用できそうです。消費不況といわれている現在でもこの携帯電話だけは、新商品がブレークしそうです。

415-1月9日(火)
カルメン、本日は休みです。

レストラン業をしていると、土日、祝日に働くので、子供達と休みの日がなかなか合いません。今日は、始業式で早く帰宅するのを利用して、子供達と映画を見に行くことにしました。

「ゴジラ vs メガギラス」----なーんだ、怪獣映画かと思われるかもしれません。ゴジラ映画は、コンピュータ・グラフィックス全盛の時代に、まだ着ぐるみの中に人間が入った原始的な活劇の基本は崩していません。相変わらず、セットのビル群をぐしゃんぐしゃんと潰していくシーンが売り物です。阪神大震災を経験した人間にとっては、ゴジラが破壊した後や、怪獣同士が戦ったその後の光景は、神戸の6年前とだぶり、まともに直視できるものではありません。たかがセットが潰れただけのことなのですが、われわれ神戸の人間は、破壊されてしまった家・ビルの一つ一つの哀しさが見えてくるのです。

筆者は90年代、ゴジラ映画を子供たちとつき合って見てきました。ゴジラ映画の見所は、その時々の科学・生物研究の最新情報を織り込んでいることにあるでしょう。パソコンを使うのは、当たり前の世界です。今回の作品は、ゴジラ・シリーズの中ではまあまあの出来で、出色というほどのものではありません。筆者の息子は「ゴジラ映画は人間の登場場面が増えるとつまらなくなる」とずばり分析しています。そういえば、今回、ゴジラはそう多く登場せず、いかにゴジラをやっつけるかに主眼がおかれ、人間ドラマっぽくなっていました。

気になるのは、90年代ゴジラの存在や動きが、ひたすらシリアス路線を突っ走していたのに、今回のゴジラは少し変化があったということです。メガギラスに変態する前の巨大トンボ群に襲われた時、ゴジラはしっぽをぐるぐる回し、巨大トンボ達が目を回していると、バチッとしっぽでたたき落とすシーンだとか、突然飛び上がって敵のメガギラスを攻撃したりするシーンがありました。子供うけを狙ったようですが、この路線だとかつてゴジラに"シェー"をさせて、結局は飽きられてしまった過去のあやまちを繰り返すことになりかねません。
414-1月8日(月)
成人式の日。

昨日までとは、一転して暖かい穏やかな日です。神戸は日中気温が10度まで上がるそうです。

朝から、晴れ着を着た女性たちが、JRの電車で多く見受けられます。女性の華やかさに較べて、男性はまだ着慣れていない背広姿で、そこに"華"はありません。やはり女性の二十歳(はたち)と男性の二十歳(はたち)とは、意味や成熟度が違うのでしょうか。

筆者の成人式はもう四半世紀も前のことです。成人式には出席しませんでした。「行政から(今日から大人だと)決めつけられなくても、(自分で)勝手に大人になるわい」といった意地がありました。それに京都で下宿生活をしていたので、周囲の友人たちは、ほとんど全国各地から来ていました。成人式のあった1月15日は、新学期や後期試験のために京都へ故郷から出てきているので、成人式のために再び故郷に帰る資力がなかったのが本当のところではないでしょうか、成人式についての話題は殆ど出なかったと思います。

関東の方では、成人式会場に、出身中学校別のゾーンを作っている自治体もあるそうです。成人式といっても、出席者にとっては同窓会的な側面が強いために、行政が期待するほどに、厳粛な式とはなりにくいのではないでしょうか。最近は首長や来賓が挨拶をしても若者は話をほとんど聞いていません。行政側にしてみれば、せっかく予算を組んで会場を用意し、首長が挨拶するという気の入った行事であるのに、それを無視されたのでは、怒りもします。しかし、若者たちにとっては、成人式にために集まる場所がたまたま自治体が用意した会場でしかすぎないわけですので、両者のギャップは深いものがあります。
413-1月7日(日)
21世紀最初の年も今日でちょうど一週間目。

みなさん、いかがお過ごしでしょうか。
相変わらず寒い日が続き、もうひとつ新春らしくありません。
新年早々、不況の話で申し訳ないのですが、今月になって気が付いてみると、看板の電気がついていない店や、店舗撤去のために覆いが作られたところなど、何軒か発見しました。同じ業界人として、閉店・廃業の動きに関しては敏感になるのです。

休業店の一つに、カルメンのちょうど南側に位置するイタリア料理風レストラン"I"があります。ランチは850円でした(カルメンより安い。味・量は知らず)。最初二人のスタッフでやっていたため、昼時になると生田筋に一人がチラシを配りに出て誘客するなど、頑張っていました。

ところがいつのまにかスタッフが一人となり、昼間には残ったスタッフが、大型バイクの愛車を磨く時が多くなりました。秋の本格不況が始まった時期です。そして12月に入ってすぐに「空き店舗あり」のボードが。この不動産業者の名が入ったボードは今、三宮にあふれています。このテナントが入った場所は、震災で建て直した時から、もう何軒か店舗が変わっています。まったく人ごとではありません。飲食業界は今、寒風が身にしみているのです。ちょうど今日の天気を生きるように「いつかは晴れるだろう」との希望をポケットにしまいながら、寒さが通り過ぎるのを待っているのです。
412-1月6日(土)
朝、東灘では雪がちらついていました。

"暖冬"の予想とは違い、新年となって寒い日々が続いています。どんより曇った上空から、時折雨がポツリポツリと降ります。六甲山頂あたりでは、積雪があったようです。山頂は標高約1000メートル。里も寒いのに、あのあたりはもっと寒いでしょう。

神戸は六甲が冠雪すると本格的な冬が到来したとの"しるし"です。そして面白いことにもう少し冬が極まると、六甲の山肌が黄色みを帯びてくるのです。

今年は新春らしい暖かい日が少なく、今日の"大安"を選んで発足した新しい政府の省庁の未来もどうやら、スタートは芳しくないようです。

この"大安"というやつ。現在のJaponの人たちの多くが信じています。先勝--友引--先負--仏滅--大安--赤口、という六進法で進みます。途中、この順番が途切れる時が、旧暦(太陰暦)の月代わりです。つまり総ての月の第一日目は「先勝」となるわけです。

これは近世に、博打打ちが縁起担ぎのために、採用したものが、庶民生活に浸透したものです。結婚式は「大安」がいいだの、葬式は「友引」はダメなのといったことは、Japonの人たちの"社会的常識"になっています。また世間にこうした常識があるために、仏滅に結婚式を挙げると、会場が空いていたり、式場によっては値引きしたりするところもあります。

こうしたものには科学的根拠はないものですが、みんなが気にしていますから、世の中のスタンダードを踏襲すべきであるとの世間智を持っている人には有効です。

ところで、筆者の次男が、「あかぐち、って何」と今朝聞いてきました。「しゃっこう、だよ」と親子の会話が始まりました。「大安」「仏滅」「友引」の説明は出来るのですが、「赤口」や「先負」がどんな意味なのか、世間智にたけた(?)同居人の女性(妻)も知りません。

「でも、赤口や先負ってみんな使うの?」と次男は質問してきました。質問の意味が分からず聞き直すと、拙宅にあるカレンダーを見比べると、総ての日付の下に書き付けているカレンダーもあれば、「大安、仏滅、友引」しか載っていないカレンダーもあるのです。「だって"一遍"はそうだよ」と次男坊。

筆者が去年末、一遍が滅した神戸の真光寺で譲り受けた時宗青年会が作成した一枚物の"2001年一遍カレンダー"には、確かに「大安、仏滅、友引」しか載っていません。こんなカレンダーを見るのも初めてです。つまり坊主集団(=お寺さん)にとって、葬式事業を営む関係から、興味のあるのは、この三つだけなのでしょう。次男坊は面白い発見をしたものです。
411-1月5日(金)
去年末に会った周見さんについての続報です。

周さんは"下放"世代なのです。
"下放"は、文化大革命の落とし子です。1952年生まれの(ほぼ筆者と同じ世代の)周さんが、"下放"を経験したとは驚きです。

1960年代後半から70年代にかけて、中国では毛沢東が文化大革命を推進していました。その運動を中心的に担ったのが、紅衛兵という10歳代後半の青年たちでした。『毛沢東語録』を振りあげて、毛思想を狂信的に実行。少しでも反革命的な人物がいれば、青年達が職場や家庭に押しかけていって、自己批判を繰りかえさせ、市中をさらし者として練り歩かせたり、投獄するようしむけたりなど、ファナティックな行動をとっていたのです。

毛沢東は最初、自分の政治闘争の駒として紅衛兵を活用していたのですが、期待していた役割以上の"活躍"を演じ始めたために、疎ましく思い始めます。毛が次に打った手は、「都会の知識青年は、農村へ入り人民に奉仕すべきである」との方針転換です。毛を信頼していた都会の子供たちは、大きな義務感に燃えて、電気もガスも水道も本も電話もない中国の"辺境"に、"下放"し地を這うような労働の日々を送ったのです。

周さんは3年で"下放"を切り上げましたが、5年10年と"下放"生活が続いた人はざらです。今でも"下放"した先で生活している人も少なくないようです。中国というのは、たいへんな100年(20世紀)を経験したものです。革命あるいはスペインのように反革命を経験した全体主義の国家や民族というのは、革命(反革命)の軍事的解決後に、国内で国民を巻き込んだ"惨事"が起きるものです。スペインもフランコによるファランヘ政党が政権を握ってからの"左"陣営に対する弾圧はすさまじいものがありました。

中国の"下放"は青年達による自主的な面も否定できないものの、「革命」という名のもとに、家族、きょうだい、地域社会を切り裂いてしまったのです。筆者は周さんにそっと聞きました「"下放"でさんざん国家からひどい目にあって、国家を恨んだりしないのですか」と。周さんは「いやそれとこれとは別の問題です」。中国(人)にとって、経済・文化・社会の総体的結合体である「国家」を強くすることが、なによりも大きな目的なのでしょう。
410-1月4日(木)
日本海側は大雪です。

"雪国"からアクセスしていただいている読者の皆さん、降雪の後の雪下ろしが大変です。無理をなされないよう。
近畿は北部が大雪なのに中・南部は、雪も雨も降らず、ただひたすら寒い日々が続きます。関西は1月なら、冬とは思えない暖かい日が続くことがあるのですが、今年の寒さは元旦から本格的です。

元旦の午前中は、雨時々曇り時々晴れ、といったすべての天候が共存している奇妙な様子でした。夕刻になってようやく雲の切れ間が拡がるといったところだったと思います。まるで今年の景気をこの日一日で占っているようでした。

筆者の見立てによりますと、今年の(神戸経済の)元気さのポイントは、一度が5月、そして後半は11月となるような気がします。1月から4月までは厳しい数字がずっと続くでしょう。

景気といえば、いくら大手企業の業績が回復基調だといっても、"人"を切り捨てて(=リストラして)の回復なので、この国のGDPの6割を占める個人消費を活性化することとは結びつきません。個人消費を担っている"人"が元気になってこそ、本格的な景気回復に向かうのす。むしろ政府は"国滅びて人栄える"というぐらいの気概で政策を展開しないと、この国は萎れるばかりでしょう。
409-1月3日(水)
さて、カルメンは仕事始めです。

去年暮れから、三宮駅北にある東西のサンセット通には、一条の縄が張られ、ここが生田神社の結界の中であるとのサインが出されています。たった一条の縄に過ぎないのですが、街の様子が一変します。ここに神々の領域であることがはっきりとが関わっていること視覚的にも見て取れるのです。

生田神社への初詣客は、感覚だけで推量しているだけですが、去年より少ないようです。やはり、こう不況が続くと、拝む人の神頼みも疲れが見え始め、神さんの神通力も疑問視されているようです。

それにしても、面白いのは、わざわざ神道の聖域の参道に乗り込んでいるキリスト教団体の布教団がいることです。大型のプラカードには聖書の文句を書き込んで、スピーカーで怒鳴っています。彼らにしても、もはや"世紀末"の危機は唱えることは出来ないので、どんなことをセールスポイントにするのでしょうか。

面白いといえば、道端でJEW(宝石)を売っているJewish(ユダヤ人)の若者たちです。何かのテレビ番組で、彼らはイスラエルの兵役を果たす前に、世界中を商売をしながら、人生体験をするのだということです。Japonはユダヤ人に対する差別が少ない国です。その彼ら、年末にはふざけているのでしょうが、サンタの帽子をかぶっていました。「おいおいそれは(宗教が)違うだろうが」と思わず目をむいてしまいました。でも彼ら、全員がユダヤ教徒なのでしょうか。

408-1月2日(火)
同居人の女性(妻)の実家へ、家族全員で出向きました。

そこは大阪市内なのですが、しばらく鉄路の便が悪かったせいで、都会にもかかわらず、古い街並みと、昭和30年代まで全国各地に存在したであろう地域社会が、機能している都会の中の農村的社会なのです。京都に中世存在していた寺社を中心に形成されていた都会の共同体「寺内町」の様子をひょっとしたら継承しているのかもしれません。

ここには有名な香具波志神社というのがあり、かつて上田秋成が神社に隣接する場所で医院を開院していたこともあるという由緒ある土地柄なのです。神社の成り立ちは、10世紀に成立した延喜式という法律集(当時存在した各地の神社の所在地も書いてある)には記載されていないものの、11世紀あたりには成立したであろうという、とんでもなく古い歴史を持つ神社です。

ここの宮司を勤める藤家は、代々文芸を大切にする家柄です。秋成も藤家を頼って移り住んだのです。中世には連歌師が逗留するための"連歌堂"を境内に作っていたようです。連歌師といえば宗祇が有名です。当時、連歌師は単なる文芸者ではなく、全国を漫遊して、歌会というメディアを利用し、その土地の実力者とさまざまな情報交換をしていたという役割を果たしていました。神社というメディアがかつて果たした地域の中心的役割を考える時、ここは興味深いありようです。
407-20011月1日(月)
明けましておめでとうございます。

さて、いよいよ21世紀が始まりました。皆さんはカウントダウンをしましたか。
去年は1000年に一度、そして今年は100年に一度という少しトーンがダウンしていますが、区切りのいい年であることは確かです。

筆者は、ずっと拙宅周辺を動かず、正月を迎える準備をしていました。
そういえば、筆者の息子が「どうして門松のある家とない家があるの?」と家族が揃っている時に話し出したところ、同居人の女性(妻)が「門松があるのは金持ちの家よ」と簡明に言っていたのには笑ってしまいました。

門松を立てる家が金持ちがどうかは別として、Japon本土の人たちは、正月に"歳神"を迎えるためのその依代(よりしろ)として、門松や注連縄などを家屋の入り口にしつらえます。この国の神というのは、いつもそう長く滞在しないのが特徴のようで、"歳神"もまた正月に"幸"をもたらした後は、人知れず去っていきます。どこへ去る=戻るかというと、これぞまさしく"神の国"であって、現世は決して"神の国"ではないのです。

Japonには多くの正月の迎え方があります。例えば、門松。日本全国どこへ行っても"松"とは限りません。カルメンの近くにある生田神社では、"松"ではなく、"杉"を使います。だから"門杉"。これはかつて生田神社がもっと東の旧生田川添いにあったころ、大雨で山が崩れ、土砂流となって、山に植わっていた松が大挙して社殿を襲い、壊滅させてしまったことがあります。以来、神社側は松を忌避して杉を使っているとのです。

406-12月31日(日)
昨日、ゲストとして出てもらった周さんと、番組終了後、三宮の立ち飲みスタンドへ行って、生ビールを傾けました。番組では聞かなかった「台湾問題」について意見を交わすためです。周さんは、仕事柄中国の国益を代表する立場にあるため、台湾についても日頃マスコミで接している中国政府の見解とそう違いはありません。しかし、直接中国の人と台湾独立について意見を交わすことは滅多にないことなので、面白い経験をしました。

中国政府にとって、台湾は中国の一部であり、中国と台湾は一つの国家になることは当然であるとの見解はいささかの変更はありません。一方の台湾の民衆は、"独立派"一辺倒ではなく、大陸との"統一派"もあなどりがたい勢力をなしています。北京政府はこの問題については、実利を重んじる中国人には珍しく、頑強に原則論を変えようとしません。

これは中華民族にとって、一つのリベンジだと理解すれば早いかもしれません。中国の20世紀は、1949年になってようやく共産党による統一国家を形成し得たものの、外国から侵略されたことで遅れた社会基盤を整備し、産業を発展させるために多くの努力を必要としました。いわば民族としての誇りを傷つけられた屈辱の100年でした。新中国の誕生によって、満州族がうち立てた清の領土をほぼ回復したものの、レコンキスタ(国土回復)すべきは、台湾・マカオ・香港でした。

中華民族にとって、理想(世界)は未来にあるのではなく、堯・舜が生きていたような過去の世界にあるのです。過去を大切にする民族です。このため、過去の時期に所有していた台湾をこのまま放置しておくことは、あり得ないことなのです。しかし台湾にしてみれば、20世紀は日本、国民党(中華民国)という台湾以外から来た政治勢力によって支配されてきました。支配者が変わるごとに、台湾社会が翻弄されてきた苦い経験があります。90年代になって本省人(=台湾出身者)である李登輝が出現することによって、ようやく台湾人としてのアイデンティティを確立することが出来たのです。台湾人はその成果を大切にしようとしています。自分たち(台湾)の将来は自分たち(政治立場に関係なく台湾の住民)で決めたいとの思いが強いのです。

台湾人の殆どが望んでいることは、統一でもなく独立でもない今の現状が続いてくれたらということでしょう。台湾側には「あと50年たてば中国本土が台湾化する(その時に統一してもいい、あるいは北京も統一を言わなくなるだろう)」との楽観論があります。そして北京側にしても、香港の一国二制度を提唱したような永いスパンでみる戦略家が国家のトップになることが望ましいのです。今の江沢民にその度量を要求するのは、中国国内における政権基盤の強度からして、少し難しいのかもしれません。
405-12月30日(土)
今日からカルメンは正月休みとなります。

筆者はFMわぃわぃの年末特別2時間特別番組を担当します。
いつもは二枠番組を担当するのですが、今年は、年末だけとしました。
内容は、さまざまな世界で活躍している人をゲストにお呼びして、おしゃべりと音楽を楽しむトーク番組です。

ゲストは3人。まず中国からのお客様で、周見さんです。北京の政府系シンクタンクで日本経済を専門としている研究者です。10年前に神戸大学に留学。現在は研究者として、3月まで同大学に滞在しています。周さんには日本経済の分析から、長田に多い中小企業のこれからの展望についてなどをお聞きしました。

二人目は、森潔さん。芦屋在住のシャンソン歌手です。森さんはフランス語でしかシャンソンを歌わないそうです。意外なことですが、日本のシャンソン歌手の人たちは、フランス語だけで唄う人はわずかだそうです。

そして三人目は、フラメンコ・ダンサーの中川マリさん。日本でも有名なフラメンコ・ダンサーで、大阪に住んでいらっしゃいます。ひとつフラメンコだけを踊るばかりではなく、毎年大阪で開いているリサイタルでは、能やインド舞踏といった他のジャンルとフラメンコをぶつけ合うといった創作舞踏も続けられているのです。

番組は一人40分をあてて紹介とトークを繰り広げ、あっという間に終わりました。楽しいひとときでした。

404-12月29日(金)
20世紀最後の営業です。

今年1年、カルメンを愛顧していただきありがとうございました。

また、この「店主のつぶやき日誌」を愛読していただいるごく少数の読者の皆様、本当にありがとうございます。"飽き性"の筆者としては、一度きめた「毎日更新」のルールをなんとか守り(時には数日分まとめて更新しますが)、21世紀も引き続いて日誌を続けていきたいと思っています。

カルメンの営業が終わっても、拙宅から更新することになります。よなさま良い年をお迎え下さい。2001年こそは永い永い不況を脱したいものです。特に神戸の皆様はまだまだ厳しい経済状況が続くことが予想されます。この街は1995年から、運に突き放されたように、なにかと低迷しています。

しかしその中でも、オリックスの2年連続パ・リーグ優勝、ヴィッセル神戸のJ1昇格、ラクピー・神戸製鋼の日本一奪還と、神戸を本拠地とするスポーツチームが健闘しているのは、それでなくても涙腺がゆるんでいる神戸っ子の涙量が増えることとなりました。来年1年、なんとか踏ん張って生きましょう。嵐はやがて去ります。雨もやがてあがります。もう少し待ちましょう。
403-12月28日(木)
カズこと三浦知良選手のヴィッセル神戸入りが決まりました。

先日、神戸のプロ球団の二つ(ヴィッセル神戸とオリックス)は、地味な選手が多いので"華"がないと書いたところなのですが、ようやく神戸で有名選手がプレーすることとなりました。これもパープルサンガが、カズを罷免してくれたおかげです。

サッカー選手としてのカズは、ピーク時を過ぎています。しかしまだ33歳。ファイトある試合姿勢は、多くのファンを魅了するでしょう。ファンというのは、勝っても負けても、J1にいようがJ2にいようが応援するのがファンというものです。

しかし西宮に本拠地があるセ・リーグの人気球団のように、名監督を招いても最下位脱出が出来ないチームはあきません。よほどこのチームの性根が、「勝たんでもええんとちゃうの病」にかかっている証拠でしょう。今年友人とこのチームが何位になっているか賭けたのです。筆者は優しさ溢れる態度で1位を予想しました。ただ1位といってもBクラスの1位、つまり4位と予想したのですが、見事にハズレ。今年も6位という不動の位置を頑として動こうとしませんでした。

巨人ファンが今年前半言っていた「巨人が優勝すれば景気回復する」と言っていたのが真っ赤なウソであると分かった今なので、来年こそは、かの関西セ・リーグ人気球団が最下位をもしか(もしか)脱出できたなら、近畿圏内の失業率の悪化が止まる、と大予想をしても、バチはあたらないでしょう(やや控えめすぎる予想ですが)。
402-12月27日(水)
いよいよ世紀の変わり目が近づいています。

根元的には"私暦"に過ぎないのですが、現在の地球規模でほぼ標準暦となっている西暦のせっかくの100年に1回の変わり目です。各地でさまざまなカウントダウンのイベントが催されるようです。

それで筆者の予定はというと、カルメンが12月30日から2001年1月2日まで休むうち、30日はFMわぃわぃの年末特別2時間番組の制作&ディスクジョッキーをする予定です。あとは、ずっと休養するつもりです。12月は定休日が少なく、仕事も密度が高いため、また正月も早くから仕事が始まるので、毎年ゆっくり休むようにしています。

昨晩、遅めに店に来た筆者の大学生時代の友人・Sは、明日から有給休暇をとって、家族全員でスキーに行く予定だそうです。高校1年生と中学2年生の二人の息子がいます。今年は受験の狭間なので、家族全員でいくとのことです。家族全員で行動する旅行やレジャーなどは、子供の受験年となると、どうしても中止してしまいます。そしてそろそろ子供達が親と一緒に行動をするのをイヤがるようになり、自然消滅。筆者の世代の家族旅行もそろそろカウントダウンに入っているようです。
401-12月26日(火)
筆者が住む東灘の人口が、阪神大震災があった年の人口数に回復したそうです。

これは今日の読売新聞朝刊に掲載されていた情報で、震災があった1995年の10月に行われた国勢調査では、191.716人だったのが、今年10月に行われた国勢調査に基づき推計した結果として、今月1日時点で192.077人となったようです。これは神戸市内の「激震地域」である東灘、灘、中央、兵庫、長田と須磨区の一部で、震災時の人口を回復したのは、東灘が初めてということになります。

なぜ、東灘が5年後に人口が回復したかは、理由は簡単です。もともと阪神間の中で、人気のあった住宅地であったという下地があります。それが震災で50坪から100坪ぐらいの敷地に建っていた、戦前から昭和30年代にかけての"昭和モダニズム"の佳き伝統をもった民間住宅が根こそぎ全壊したために、それをキッカケとして、マンションになった場所が、数多くあるためです。

拙宅のある周辺も震災後は、"住宅地"がコンビニや小飲食店が多い"街"になってしまいました。それが悪いかどうかという問題ではなく、この人気地帯に住みたい人は多かったのですが、なかなかチャンスがなく、価格も高かったところ、震災が入居のチャンスを広げ、不況がマンション購入価格を押し下げたということになります。

拙宅の前にある公園には、就園前の幼児を連れた母子づれが、年をたがえても、世代が変わり絶えることはありません。若い夫婦づれがこの地を生活の場、子育ての場として選択しているのです。東灘はまだ老いの影はそう深刻に差し迫ってきていないのです。高齢化が進むJaponの中にあっては、例外的な場所でしょう。