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旅 行 記
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香住城崎温泉カニツアー   2020年 

若狭カニツアー  敦賀   2019年 

新名神高速道路をぐるり   2018年 

九州 (福岡、長崎、熊本) 2016年 

宇奈月温泉 北陸紀行   2016年 

宇奈月温泉 北陸紀行   2014年

牛窓・倉敷 大原美術館   2014年

富士箱根・江ノ島・鎌倉   2013年

立山黒部アルペンルート  2012年

東   北             2012年

宮島・門司・津和野      2011年

草津・日光・鬼怒川      2011年

上 高 地            2010年

北 海 道            2008年 

四国・奥道後温泉       2007年 

山 陰 路            1994年

土 佐 日 記          1993年

諏訪湖・善光寺        1992年

松江紀行            1991年

1日500キロ         1991年

城崎温泉旅日記       1991年

城崎温泉旅日記・後日談  1991年

ハワイ旅行           1990年











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  土 佐 日 記 (紀行)   1993年  4月   JA3ARI

   朝9時5分家を出た。阪急電車、阪急バスを乗り継いで空港へ行く予定だったが、蛍が池から空港へのバスが18分以上来ない事が分かった。10時迄に空港 に到着しチケットを受け取るようにと、昨日再三社内放送があった。次のバスを待っていると、10時には着けないかも知れない。予定を変更してタクシーに 乗った、その結果空港には9時45分に到着した。
  今回の、このコースを選んだのには意味があった。と言うのは、今まで何度も大阪空港を利用し ているのだが、一度も電車バスのコースを使った事がない。今までは車で行って駐車場に停めるかタクシーを利用していた。それで、このコースだとどの位所用 時間が掛かるのか調べて置きたかったのです。
  航空機は人数が多いのでジェット機になった。今回の社員旅行は100名の参加があったのでYS− 11には乗り切らない。2機に分けると行動が取りにくい。ANA535便、高知行きは定刻の11時5分には動き出した。飛び上がって上昇体勢が水平飛行に 移ったかと思ったら着陸体勢に入り11時45分定刻通りの到着であった。
  今度の社員旅行が高知と聞いて、不満に思う人も多かった。高知なら 行った人が多いからで、つまらない、見る所がない、と言うのが不満の理由である。実は私は、自慢じゃーないが高知どころか四国に渡った事がない。アメリカ 本土やハワイには行った事があるのに、この歳になるまで四国の土を踏んだ事がなかったのです。一昨年の鳴門行きで四国の土が踏めると思っていたら、泊まっ た所は四国の島だった。本土ではなかったのです。したがって今回はじめて四国の土を踏んだのです。
  食事の後、市内観光が始まった。五台山・竹 林寺、ここは四国の西国巡礼の礼場、お線香を2本あげて来た。五台山にはテレビの送信塔が2本あった。そして桂浜、桂浜には坂本龍馬の銅像が立っていた。 桂浜は泳げない海岸で観光地として綺麗に整備されていた。海水浴場であれば、もっと汚くなっていただろうと思われる。バスは一路ホテルへ、今日はこれでお しまい。宿泊するホテルは、阪神タイガースが安芸のキャンプでも利用する土佐ロイヤルホテル。温泉でもないのに、風呂に3回も入ってしまった。
   9時30分にホテルを出たバスは高知城に向かった。昨日と同じ道だ。はりまや橋を経て高知城に着く。高知城、入場料 一般350円 団体280円。「高 知城、重要文化財、高知市街の中央にある典型的な平山城。慶長六年、土佐へ入国した山内一豊は鏡川と江ノ口川にはさまれた大高坂山に築城工事をはじめ、同 八年に本丸、二の丸が完成したので、入城式をおこなった。同十六年には三の丸が完成。後に[高智山]と改名したが、これが高知の地名のはじまりであった。   高知城パンフレットより」
  天守閣に登る。三層六階の高さ18.5mであるが、小高い山の上にあるのでこのお城より高い建物は、最近出来た と思われる高層ビル(マンション)1棟とNTTの中継塔が2本だけで、県庁その他すべてが見下ろせる高さであった。途中に山内一豊の妻と馬の銅像があっ た、何でも銅像にしてしまう。そして、観光にしてしまう、この銅像の前で写真を撮るとへそくりが貯まる、とバスガイドが言い、さっそく写真を撮る人が出 る。
  山内一豊の妻ばかりが持て囃されて、鏡の裏に10両の小判があったから立派な馬が買えて・・・・・とあるが山内一豊に才覚が無ければ10両小判も役に 立たない。関ケ原の合戦の後、山内一豊は土佐藩主に任命され土佐へ入国した。
   又来た道を走る、龍河洞へ、龍河洞に着いて驚いた。刃物屋さんが軒を列ねているではないか、龍河洞との関係はあるのか、尋ねる事にした。店の主人の話に よると、龍河洞とは何の関係もなく、この地方は昔から鍛造技術が発達していた。その伝統を受け継いでいるのだ、と。ここで包丁を買った人は、帰りの飛行機 の機内に持ち込めない。凶器だものね。

  ・・・太古の夢・・・
「龍河洞」について
  南国の秘境とよばれる龍河洞は悠 久幾億年の歳月を経て、大自然のたゆまざる芸術によって築きあげられた地下の宮殿でございます。そこには、有史以前の穴居民族の遺蹟があり、また雄大華麗 な鍾乳石をはじめ、石筍、石柱等、その洞内の変化は千変万化をきわめ延々4Kmにおよんでおります。昭和6年この洞が発見されて以来、神秘の謎を探る幾多 の探険と学術的研究が営々と続けられその結果、洞内景勝の神技的景観と世界的価値ある史蹟として国の「史蹟、天然記念物」の二重指定をうけ、さらに博物館 を中心とする社会教育の実習の地としても貴重な観光地として、安全な洞内外施設とあいまって皆様のご探勝を心よりお待ち申しあげております。
                     龍河洞入場券より
観覧料、個人850円 団体30人以上780円、100人以上720円

   龍河洞に入る。実際の観覧は1Kmであるが、何しろ登りばかり、先の高知城で変な階段(登城する馬に歩幅を合わせてあるのか)を登り、しんどい目をした ばかり。しかも照明が暗い、パンフレットの写真のように、明るくしてくれていたら良く見えたのに、その上、中腰で通る部分もかなりあり、何といっても地中 である。水滴が落ちて来るし、蝙蝠も飛んでいる。閉所恐怖症の人は行かないほうが良い。印象としては、「しんどい」の一語に尽きる。昔、秋芳洞を見たが、 もっとゆったりと雄大だった印象を持っている。もっとも興味の度合いに依っても異なると思うが。
  龍河洞スカイラインを経て龍馬歴史館へ。土佐が生んだ風雲児、坂本龍馬の蝋人形館だと思えばいい。
「龍馬の御守札
  扨(さて)も扨も、人間の一世は
  がてんの行ぬは元よりの事、
  うんのわるいものハ
  ふろよりいでんとして
  きんたまをつめわりて
  死ぬるものもあり。
  夫(それ)とくらべてハ、
  私などハうんが強く、
  なにほど死ぬるバヘ
  でてもしなれず」
                     通鑑札(龍馬歴史館)より

   この龍馬歴史館の蝋人形は、実にリアルに出来ていて、人間のアルバイトがパフォーマンスをやっているのか、今にも笑いだすのではと顔の前に手を出して 振ってみたくらいだ。最後には吉田首相やマッカーサー、レーガン、サッチャー、ゴルバチョフ、などが登場してお笑いだったが、そっくりに出来ていたのは、 さすがだった。
  この坂本龍馬については、歴史上の人物として、またドラマとして、たびたび登場しているので、先刻承知だと思う。私は少し違った観点から彼を捉えてみ た。
   坂本龍馬は生来、人に好かれる人懐っこい人だったようだ。青少年の頃は郷士の子でありながら上士の武市半平太に可愛がられ、のちに志士の仲間から武市先 生と呼ばれるようになっても龍馬だけは武市半平太の前であぐらをかいたり、好きな事を言い合う仲だった。勝海舟と出会い、勝海舟にも可愛がられた。革命の 士である坂本龍馬を幕府の軍艦奉行が取り立て引立てて行った。犬猿の長州の桂と薩摩の西郷を取り持ち薩長連合を、そして自ら海援隊を作り上げる事が出来た のは、龍馬ひとりの力ではない。そこには縁と、その人を盛り立ててくれる人々が必ず居る。
  私は、この坂本龍馬の歴史館を見て、人の縁、つなが り、いわゆるコネ、が如何に大切かを思い致した次第です。人の付き合いと言うのは大事にしなければいけません。日本は個人主義の時代に入っているようです が、偉そうな事を言っても自分ひとりではたいしたことは出来ないし、何も出来ないのです。
  高知の市内をあっちに行ったり、こっちに来たりの2 日間でしたが、やっと終わりました。高知空港に5時到着、現地解散、と言っても乗る飛行機は一緒です。ANK(エアーニッポン)412便 18時20分 発、定刻を15分ばかり遅れての離陸でした。大阪空港へは、きっちり15分遅れて19時15分。

  これより先、高知空港でJAS18時 15分発、名古屋行き最終便が駐機していました。ロビーで酔っ払いが大きい声で叫んでいるのです。JAS(ジャパンエアシステム)の飛行機を指差して、 「あの飛行機は危ない、あんな玩具のような飛行機は落ちる」そして、ぶつぶつ言って、また「あの飛行機は危ない!」  酔っ払いが何を言ってるのかと気に もとめませんでしたが、翌日のニュースを見て驚きました。名古屋発のJAS同型機が花巻空港で着陸に失敗し炎上した。高知空港で見た名古屋行き最終便、そ して翌日名古屋から花巻空港へ午前中の便、ひょっとして私が見たのは花巻で炎上した機の最後の姿。そして、酔っ払いは、予言者だったのか・・・・・・・・


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  諏訪湖、善光寺   1992年  5月   JA3ARI

  5月3日、スタートは6時13分だった。ゴールデンウィークの事とて混むのは承知しているとは言え、やはり出来ることなら空いていてほしいと考えるの は誰しも同じ、4年前の富士五湖巡りも5月3日で朝の5時にスタートした。ところが名神豊中ICを入ってしばらくの所で事故、このため折角早く起きてス タートしたのに、ここで時間を取られて結局は遅れを取ってしまった。この経験から(でもないが縁起を担いでとでも言うか)今年は名神豊中ICをやめ、中国 道豊中ICから入った。
  思惑通り中国道は快調、吹田ICまで空いた道で今年は時間を稼いだ。名神は混んでいた。これで名神豊中から入っておれば入った所から混んでいたと推測 される。しかし、今年は前回と違い常に混んでいる天王山トンネルも比較的早く通過できた。とは言うもののゴールデンウイークはゴールデンウイークである。 大津SAは人人人、  それから尾張一宮までは、のろのろ運転はあったが渋滞で止まる事もなく通過した。前回は既に渋滞で完全に停車していた場所も 40〜80キロで通過できた。しかし、一宮にはいるとやはり車は完全に止まってしまった。一宮から小牧JCを過ぎるまでは何時も混むのにパーキングエリア がない。したがってトイレが行けない、これには前回も今回も難儀した。(前以て準備していても駄目なくらい時間が掛かる)やっとの思いで小牧JCを過ぎ、 中央自動車道に入ったら、これがまた名古屋の車で混雑し、なかなか次のパーキングエリア迄行けない。
  内津峠PAでトイレに行き、やれやれと思っていたら、止まったり進んだりの渋滞中に名張の人の車に追突されてしまった。よそ見をしていたようですが迷 惑な話しです。そんなにスピードが出ていなかったので、同乗の妻にも異常なく鞭打ち症にもならず無事でしたが、これからの警察への届け出、車の修理を考え ると憂欝になります。それでも、「トイレに行ってて良かったなーっ」て・・・・・車のトランクも閉まりましたので、そのまま旅を続けることにしました。う しろが少し格好悪かったけれど、こちらは被害者だし・・・・・幸い路側通行者の取り締まりをしていた岐阜県警のパト隊に出くわし事故の届けが出来ましたの で助かりました。
  混んでいたのは恵那ICまでで中津川、恵那山トンネルは順調に飛ばし、それでも駒が岳SAに着いたのは12時を少し回っていました。諏訪SAで昼食の 予定をしていましたが少しずれてしまいました。仕方なく駒が岳SAでお昼を食べました。ここは前に南アルプス、うしろに駒ケ岳がそびえ、晴天とあって見晴 らしの良い所。しばらくの休息をここで取ることにし(空いていたし・・)雪を頂いた山々を眺め、これからの予定を決めました。考えれば4年前は名古屋を抜 ける前にお昼になっていましたから事故が無かったら、もっと順調と言えたでしょうに。
  諏訪湖SA着、湖を眺めるが思ったより綺麗でない。ただし八が岳の眺めはなかなかよろしい。・・・・・もともと急に諏訪湖に行きたいと言い出したのは 妻で、富士五湖めぐりからの帰りに中央自動車道の諏訪湖SAで休息した時の夕闇迫る諏訪湖の景色が素晴らしく見えた。それが網膜に焼き付いていたのと、テ レビの紹介で行って見たいと思ったのでしょう。あわてたのは私で、日本旅行の我が社の担当の人に諏訪湖周辺の温泉旅館の手配を依頼。しかし、連休目前の事 でもあり、予算も制限をしたので、無理と思っていたら諏訪湖から1時間くらいの所にある宿を取ってくれたのでやって来た。あとで分かった事だが、諏訪湖周 辺は全国的に有名な諏訪大社の御柱祭があり、旅館は満員だったのだ。これもあとで分かったが手配の旅館は1時間では行けなかった。
  そうとは知らない私たちは諏訪ICが超満員で一般道へ出るのに時間が掛かってしまったが、ともかくも諏訪ICを出てテレビで紹介のあった高島城に向 かった。諏訪の高島城、お城だから高い筈だ、それが見えない、見えないはずだ。諏訪高島城天守閣入場券(¥150)なるものを買わされて登ってみた。石垣 を入れて高さ20メートル、20mと言えば8階建てのビル程度の高さである。そうすると我が家は、この天守閣の高さからいつも下界を眺めているのか?   しかし、しかしである。天守閣へ登って驚いた。この天守閣の位置から富士山が丸見えなのだ。これはえらい所に天守閣を建てた。周囲にあれだけ高い山々があ りながら、丁度うまい具合に富士山まで一直線の谷間になっている。始めは疑っていた、しかし、立体地図が展示してあったのでそれと分かった。富士山は午後 の陽に影を落として凹凸がはっきりして見えた。(但し望遠鏡でHi)歴史の話をするわけではないが、説明書には武田氏と諏訪氏の関係が書かれている、その 中に、ここから3k程の所に桑原城がある事も知った。武田氏に落城し今は城跡だけだそうな。
  時間が無くなってきたので、片倉館、千人風呂などは帰りに時間があれば寄る事にして諏訪大社に向かう。ここで大木を湖のなかに放り込む祭りが此処の祭 りと知る。
  諏訪大社(御柱祭、上社5月3〜5日、下社5月9〜11日里曳き)里曳きとは、神輿のように大木を引きずって町中練り歩く事で、この時は町中通行止め になる。諏訪大社でお詣りをして気付いたこと、つなぎ服で重装備の若い人たちがやってきた。その人達がどうしたか、お賽銭をあげ柏手打って拝んでいる。メ カニックで暴走族を連想させ、神様と一見縁の無いような様相と、神様の取り合わせ。なにかコミカルな感じがした。妻の申しますには、暴走族とて人の子、特 に交通事故は無いに越した事はない、だから神様に無事故をお願いしているのだと。
  目指すは戸倉上山田温泉、諏訪から100キロもある。なにが1時間で行けるものか、峠と山田市内を時速100キロで走らなければ1時間で行けない。高 速道路でもあるまいに。案の定、峠を越え(有料トンネルがあった)、片側通行信号待ちなどがあって、上田市に入ったのは夕方の6時。上田市内は車が多くな る。旅館に電話してガソリンを入れて戸倉上山田温泉に着いたのが日も暮れた6時40分。ああ、ここまでは遠いわ。トリップメーターは465Kmを指してい た。
  山が迫っているせいか雨が降りだした。ホテルと名が付いていても和風旅館ですが部屋を作り替えたとかで真新しい部屋に通されました。ゴールデンウイー クは宿泊費も高くなっている中で、当日の金額としては安い方で予約したので、大した部屋には泊まれない、それでも泊まれる所があるだけましだと、諦めて居 ましたので、まさかと思いましたがラッキーでした。部屋には温泉流しっぱなしの風呂が付いており都会の我々にはもったいない、と言う気持ちがもたげてくる のですが、旅館の人は気にするふうもありません。
  翌日は9時にスタートし善光寺へ、昨日と違ってお天気は曇りがち、長野市に入り中心街に近付くにつれ車が多くなる、そして善光寺間近になると動かなく なった。知っている車は横道にそれる。旅館で貰った地図で山勘を付けて私達も次の信号で曲がる、直進は数珠つなぎである。あとで分かった事だが、善光寺の 駐車場まで行かずに、信州大学の横の駐車場へ停めた方が善光寺の正面から入れるし、善光寺の裏まで行列をしなくて済む。善光寺の駐車場は裏側にあるので、 そこまで長い行列をして待たされた。それでも、やっと駐車場に車を停めた私達は結局、善光寺の裏側から正面の一番外の門まで行き、改めて正面から歩いた。 ここは門前町、あっちの店、こっちの店を見ながら歩く、これが楽しいのに、会社関連の旅行の時は、同じように裏の駐車場に車を停め、裏から善光寺さんにお 参りして、また裏に抜け、土産物を買って終りだったので、正面からは初体験と言える。ここは、旅館が決まった時から行こうと決めていた所なので時間を取る ことにした。
   第一の門を過ぎてしばらくした所で皆が行列して頭を差し出している。なにをしているのだろうとよく見ると傘が見える、と、その下に高僧とおぼしき僧が数 珠で頭を順番に撫でて行っている。高僧の得を貰っているのだ。別にお布施が要るわけでもない。始めは特別の人だけかなと思ったが、そうでも無い様子。で、 妻と行列のうしろに付いて高僧に数珠で頭を撫でてもらった。人間と言うのはおかしなもので何か得をしたような気になった。考えてみれば、1分、いや30秒 遅くそこに来ておれば人の波があるだけで、そのような存在は見いだせなかった。それはほんの一瞬だったのです。全くの偶然としか言いようがありません。
  善光寺をあとにして、次に戸隠バードラインを登る予定でしたが、その方面も車が多く、諦めて帰路に着く事にしました。なんと善光寺方面への渋滞は、我 々の時の3倍にも5倍にも延びていました。あの人達はきっと一日仕事になるね。早く行って良かったなーっ。車は長野市から(6年先に冬期オリンピックがあ るので道の工事をしていました。オリンピックまでには高速道路もついて良くなるだろうと思います。)上田市に入りましたが、途中帰り道を見失い(標識が出 ていなかった)上田市から小諸市へ、ビーナスラインを目指していたのですが、上田市で見付けておいた靴屋で靴を買ったり食事をしたりしていたので元来た道 が分からず、やむなく小諸市のガソリンスタンドで道を聞き、予定を変更して白樺湖へ。
  地図を見てもこの辺の道は入り組んでややこしく、用意した二つの地図は全く違う道を示していました。これは聞くのが早いとガソリンスタンドへ。スタン ドの小父さんの教えがうまかったのか迷わず、白樺湖の近くまではスムーズに来ました。ところが距離計にして2キロ手前から車が渋滞して全然動かず、白樺湖 へ着いた時はカメラのシャッターが切れる明るさのぎりぎりで夜が迫っていました。この辺りは風光明媚で途中の女神湖など環境は抜群です。
  ところがその白樺湖ですが、白樺湖も遠目には美しいが、近付いてみて幻滅しました。学生の頃、友達から聞いた白樺湖。絵はがきで見た白樺湖。そして、 この旅行の為に最近買った地図に載っていた写真は昔の物。車を降りて見た白樺湖は汚いただの池だったのです。商業主義に汚され毒され、自然が破壊され、こ れでは早く日が暮れて呉れたほうが良い。旅行の最終目的地が、これか!  まわりの山々は美しいのに・・・・・
  失意のうちに、早々に白樺湖をあとにしました。諏訪ICに向かって国道299号線までは順調。ところが299号線に入った途端に大渋滞、茅野市迄の 11Kを2時間掛かって抜け、諏訪ICから諏訪湖SAを出たのが夜も9時半。あとは一路大阪へ、養老SAまでは問題なく、ここで人も車も腹ごしらえ。
  夜中の12時を越えていると言うのに栗東辺りで渋滞11キロとはゴールデンウイークならではの事、これに巻き込まれトロトロ走行で、ついに睡魔に襲わ れ、堪らず草津PAで休息、少し寝ようと思ったが、走っていると眠いのに寝ようとすると眠れない。仕方がないので外気に触れてコーヒーを飲んで、辺りを見 渡すと車が沢山停まっているのに人が疎ら、よーく見るとみーんな気持ちよさそうに寝ているのです。時計を見ると夜中の1時を廻っている。みんな眠くなるの は当たり前。
  目も覚めたので再び高速へ、中国道豊中ICを経て帰宅したのは5月5日の午前2時40分でした。ゴールデンウイークは混む事は承知、で、出掛けたとは 言え、やはり疲れる。 走行距離487キロ、合計952Kmの旅でした。
  このゴールデンウイークに出掛けた人、みなさんお疲れ様。本当に無駄な疲れ方をしていると思う。車で出掛けた人も、この有様です。海外旅行をしてきた 人も、我々が30分掛からなかった通関に、2時間以上も掛かっている。そのために観光の予定も削られるとか。本来時間があれば見られる所が、混むために無 駄な時間を費やし、折角現地に行きながら見られないなんてお互いにもったいない事をしているのです。
  この渋滞には、4年前に懲りたはずなのに、またやってしまった。おそらく来年は行かないでしょう。家でじっとしていてテレビを見て、ああ混んでる。な んて言ってる事でしょう。そして、4年経ったらまた行くのでは、と、これを書きながら笑ってしまいました。
  でも、行って良かった旅でした。 チャン!チャン!



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  松 江 紀 行   1991年 11月   JA3ARI

  朝は8時過ぎに家を出た。9時集合と言う事だったが少し早かったかなと思った。案の定、祭日の所為もあって空いていて悠々一番乗りだ。それぞれの車は 会社に留め、2台に分乗して出発した。途中で1台合流して3台で走る事になる。車は宝塚から中国自動車道へ、待ち合わせの赤松パーキングエリアに向かう。 インターチェンジを入った途端、車の洪水に見舞われた。混んでいる。予定通り30分以内に赤松パーキングエリア迄行けるか? と思われた。しかし、それは トンネルに入る前までの話し、トンネルに入ると不思議に流れだした。
  赤松パーキングエリアには思ったより早く着いた。パーキングエリアは車で一杯、待ち合わせの車が見つかるか・・・ご心配めさるな新兵器が(でもない、 もう旧兵器だ)ござるわ。
  430MHzトランシーバーが3台用意された。ともに3W機のハンディーだ。私は古いスタンダードのハンディーを持って行った。これが一番音が良く明 瞭度も良いとの評価を得た。最新式のハンディーより良いと言う、この、水晶が3つしかないハンディーの音が良いのは旧式でナローバンドにはなっていないか らです。したがって変調が深い、その上に専用のハンドマイクが付いている。おまけに飛びも良かったようだ。
  「古いものだとお思いでしょうが、古いものでも役に立つものでござんすよ。」乾電池を2セット用意して行った。1セット(単3、8本)で1日以上保っ た。
  と言うわけで3台の車でやりとりをしながら2時間も経たないうちに落合に近付いた。落合と言っても中日の落合ではないよ、お立ち合い、落合ICの事だ よ。(そんなこと分かっとるわ、と、叱られそう)落合ICを出て、無線で議決をとる。曰く「出雲に行きたいか、大山に行きたいか」多数決で決めようと言う わけ。 中には委任状も有ったりして、「おーまーかせ!」すると言うので、大山に決定した。
  行き先によって道が違う。米子市へ向かうルートからそれて蒜山(ひるぜん)高原に向かう。お昼が過ぎたと言うのに食事するドライヴインがない。仕方が ないので蒜山高原で「昼膳にバーベキュウしよう」と期待を持たせて、ひたすら走る事にした。そして蒜山高原に、昼前(ひるぜん)ではなく、昼も大部過ぎて からの到着になった。
蒜山高原は賑わっていた。今日は祭日だ、ごったがえしていると言っていい。ああ腹がへった、この人出の中で果たして食事が出来るのか。おもてに出ても大山 は雲の中で良く見えない。昨夜の天気予報では、日本海側を中心に天気が崩れると言っていた。保ってくれれば良いが・・・米子市へ向かう途中、雲が切れ大山 が頂上まで見えた。米子自動車道を経て皆生温泉へ直行した。幸い雨にはならなかった、期待どおり。
  旅装を解いてみんなで温泉に、そして夜は大宴会だ。女将が挨拶にくる、ラウンジのママは応援に来るわで大いに盛り上がった。若い連中は2次会3次会を 考えていたが、あいにくおもては雨。興をそがれて可哀相。さあ、我々若者でない組はもうひと風呂あびて寝るとするか・・・・・夜中には激しい音を立てて雨 が降っていた。とうとう明日は雨か?

  朝、空を見た。雲が切れて青空が見えている。しめた。さすがに晴れ男の数が多いので、それが効いたか。最後の温泉に浸かり、型通り朝食。ラウンジで朝 のコーヒー。
   さあ出発だ。帰りの時間を考えると出雲までは無理だが松江までは行ける。そこで松江城と小泉八雲(ラフカディオ・ハーン----イギリス)邸を見に行こ う。車は米子市をスタート。しばらくすると雨が降りだした、これはいかん雨では見物が出来ないではないか。雨足はますます激しくなる、しかし、とにかく 行ってみよう。
  安来市を通過、東出雲町を過ぎる頃から雨が小降りになってきた。それにしても30キロ程の道程なのに長く感じた。やっと松江市だ。雲の切れ間に青空が 見える。
  今日は日曜日、松江城の駐車場は満員で車が並んでる。我々は島根県庁の裏の図書館の駐車場に車を入れる。ここは「ただ」だ。
  松江城。別名千鳥城とも呼ばれる。高さ25mの亀田山に30mの天守閣。合わせて55m。擦り減った木の階段を登って楼上に立てば眼下に町並みが広が る。驚いた事に、このお城より高いビルはない。松江市ではお城が一番高い建物であった。宍道湖、中海が見える。雨上りの空だ。
  重要文化財、松江城は、全国で現存する12天守の一つで山陰では唯一の天守閣である。天守閣の大きさ(平面規模)では2番目。高さでは3番目。古さで は6番目である。慶長16年(1611)出雲の領主・堀尾茂助吉晴が5年の歳月を掛けて完成した。
  堀尾氏3代、京極氏1代の後、徳川家康の孫にあたる松平出羽守直政が松江城主となり、松平氏10代234年間出雲18万6千石を領した。
  明治初年、城内の建物は全部取り壊されたが天守閣だけは有志の奔走によって保存され、昭和25年〜30年の解体修理を経て現在に至っている。
  天守閣は、望楼様式を加えた独立天守で、外観5層内部は6階である。壁は白壁でなく、黒く塗った雨覆板−−下見板張り−−でおおわれ、その安定感のあ る武骨な体裁に、桃山風の荘重雄大な手法を見る事が出来る。と入場(城)券の裏に書いてあったので転載した、いやに詳しいと思ったでしょう。こんな事、 知ってるわけ無いものね。
  お城から出てくると、雨がポツポツ、それと時間が無くなってきた。さーっ、お土産を買って帰るとしょう。小泉八雲邸跡を見ている時間はない、パスす る。土産店まで車を廻し、それぞれ思い思いに土産を買って車に帰ってきた。
  しゅっぱーつ。・・駐車場から出た途端に雨がザーッと降ってきた。何という天気、何という幸運。晴男と雨男の戦い。天気予報では山陰は雨と出ていた。 しかるに、晴男が勝ったのである。雨は確かに降ったのだが、我々が車から降りて行動する時は止んでいたのだ。おかげで持って行った傘は使わずに済んだ。
  松江市を発って車はひた走り、食事、給油、トイレ、の休憩は有ったものの、中国自動車道を赤松パーキング・エリアまで、ここで1台分かれ、2台にな り、6時50分無事帰着、解散した。
                                       おわり

     資料  中国自動車道  宝塚−落合    3,750円
          米子自動車道  江府−米子      550円



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  1日500キロ   1991年 10月   JA3ARI

  10月の、日曜日の朝だった。日曜日はいつも朝は10時頃まで寝る事に決めている。それが6時半、突然電話のベルが(今でもベルと云うのだろうか) 鳴った。訃報である、岡山の伯父が亡くなった。
   各所に連絡を取り、親戚代表を新大阪に集めた。私の車で走ろうと云うのだ。これより先、明日行くか、今日行くか、新幹線で行くか、色々な案が出た。明日 は皆仕事だ、岡山は山の中だ、しかし、車で行けばお通夜に出て、とんぼ返りが可能だ。新幹線では、とても日帰りは出来ない。で、決まった。
  お 昼の12時きっかりに出発した。新御堂筋、中央環状線を経て中国自動車道に入る。幸い道は空いている。一気に突っ走る事にした。吉川ジャンクションを過ぎ ると車は疎らになった。沿道の山々の木々が所々黄色く変色して枯れている。この前の台風の影響か、自然の力は凄い。お天気が心配だ、今日は夜から雨だと 云っていたが保ってくれれば良いが・・・・・行けども行けども兵庫県である、さすがに日本で二番目に広いと云うだけ有って兵庫県を十分堪能した、その上に 雨まで降ってきた。走行距離が200キロを越えた。こんな筈ではなかった、たかだか片道150キロ往復で300キロ位だろう、とたかをくくっていた。それ が間違いの元で思ったより遠い。中国自動車道を出る前に腹拵えをして置こうと真庭パーキングエリアに停車した。
  北房インターチェンジで下り る。本当は新見の方が近いのだが道が分からない。幸い北房で下りた所に「吹屋ふるさと村」の案内看板が立っていた。実はこの「吹屋ふるさと村」が目指す所 だ。国道313号線を高梁市へ向かう。市街地を抜けてから、かなり走ったが信号機がない。もう少しで高梁市と云う所で右折、国道180号線に。今度は新見 市に向かって走り始めた。伯備線の備中川面(びっちゅうかわも)を過ぎた所を左折した。
  この伯備線には思い出がある。もう28年前になるか、 母と田舎(母の生れ故郷)へ帰る途中、高梁市の母の恩師の家に泊まった事がある。この家の庭には、なんと伯備線のレールが走っているのだった。そして家人 曰く、毎晩12時に貨物列車が通過する、この音には家に泊まった大抵の人は驚いて目を覚ます。話をしている間にも、時折列車が通過した。その頃は汽車で電 車とは比較にならない凄い音がした。その夜疲れていた所為か、ついぞ貨物列車の音を聞かずじまいであった。
  今では伯備線も電化されているが、更にその昔、私が小学校にも行かない子供の頃、山陽本線も汽車で、車内も身動きが取れない程満員だったのを覚えてい る。
   そして左折した道、この道は車が一台しか通れない。しかし、このような道も今ではちゃんと舗装してある。さすが経済大国日本だ。時折対向車とすれ違う、 広い所でどちらかが待避し離合する。曲がりくねった道をひた走りに走ったが、それらしい所に出くわさない。ひょっとして通り過ぎているのではないか、二度 にわたって道を尋ねた。驚いた事に7キロも手前の人がこれから向かう家の訃報を知っていた。やっと標識が出てあと3キロと分かったその目前に大きなお城の ような豪邸が忽然と現われた。刈谷邸?(名前はハッキリ憶えていない)と云ったか、吹屋ふるさと村のいわゆる一つの名物?でもある。100円払えば中を見 せてくれる。
  やっと見覚えのある家の前に着いた。時計は午後4時を指していた。ここは母の生家でもある。「吹屋ふるさと村」は昔銅山があった そうな。その銅山の坑道は総延長87里にも達するそうだ。今は村おこしで坑道が整備されて、やはり2〜300円払えば中に入れる。おそらく人形があって当 時の採鉱風景を再現している事であろう。
  お通夜は生前の話しなど、思い出話は尽きない。今にも雨の降りそうな天気では日が暮れるのも早い、辺りが暗くなって来た。周りの山々にとばりが降りて きた。名残惜しいが、お別れして帰る事になった。日が暮れると道に迷いそうだ。
   午後5時半スタート。来た道と違う、新見市の方向へ走りだした。途中やはり道に迷った、それも3度も、しかし、最大で30メートル程行き過ぎたに過ぎな かった。途中に銅山の栄えた頃の門前町が昔のまま残っており、これも名所の一つになっていた。遺蹟、資料館など、色々あり、今日は急いで帰らなければなら ないが、これは改めて来てみる価値がありそうだと思った。
  やっと180号線に出た。日はとっぷりと暮れた。後は新見から中国自動車道に乗るだけだ。
   中国自動車道をひた走り、津山インターを過ぎた頃から雨が降りだした。だんだん雨足が激しくなり、前が見えなくなって来た。雨が降る前に150キロは出 ていたと思うスピードで、追い抜いていったバイクの一群は今ごろこの雨でどうしているのだろうか。この雨のなか、ヘルメットの中からはどのように見えてい るのだろう。ヘルメットにはワイパーはついてない。夜の雨でさぞかし視界が悪かろう。
  特にトラックの後ろは最悪だ、水飛沫で何も見えない。仕方なくなく追越しを掛ける。130キロは出てる、雨のなか、こういう時に事故は起こる。慎重に 走らなければ、と思いつつ、前が詰まるとついつい追越しを掛けたくなる。
  そして、ついに出た。三田西、事故、通行止め、の電光表示板。これには、ひょっとして引っ掛かるかも知れないな。雨足はますます激しくなる。とにかく 走行車線を走ると水溜まりでハンドルを取られる、追い越し車線の方が楽だと云う現象が出て来た。
  三田を過ぎた、やれやれだ。しかし、雨は止まない。向こうで雨に降られなくて良かったね。と慰めつつ車を新大阪に横付けした。帰宅は午後9時半丁度。 所用時間9時間30分。 の旅でした。

     走行距離  502.5キロ
     時  間   8時間
     平均時速   62.8キロ  (所用、食事、含む)
     ガソリン   36.6リットル
     1リットル当り 13.7キロ
     高速 代  池田−北房  4,100円
            新見−池田  4,600円



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  城崎温泉旅日記   1991年 8月   JA3ARI

  今年の夏は何も考えていなかった。何処え行くつもりもなかった。それが7月も終わりに近付こうかと言う頃になって「休みも長い事だし、どこかへ行こう か」と言う事になって「山へ行こうか」「上高地辺りは、大山は」しかし、お盆休みだし何処へ行っても混んでるだろうな。
  ふと、一昨年のゴールデンウイークに富士五湖を廻った時の事を思い出した。朝5時に出発し、名神、東名を走って三島に着いたのが夕方の6時。これでは 東名名神のない頃、国道1号線をひた走り、富士五湖を廻った時の所要時間と変わらない。おまけにサービスエリアと言うサービスエリアは人で一杯、トイレは 長蛇の列。
  そこで遠い所はやめよう、近場で探そう。JAFの盆休み道路混雑情報を見ると中国道が狙い目である。盆休みも早い時期だとあまり混まない事が分かっ た。しかし、何処という当てもない、旅慣れていない私はこころやすいツーリストを知らない。そこで、J−NETの旅行相談へメールを送った。すると、返事 が来た。いわく「範囲を絞って下さい」。範囲を絞る段になって、「同じ泊まるなら、ただのホテルより温泉がええなー」。再びメールを送る。温泉・・・あま り残っていない。それでもあちこちの情報を送ってきてくれた。候補を決め、メール。・・残念タッチの差で無くなった、別の所を仮押さえしたが・・・日が合 わない。それなら、こっちはどうか?・・・・・・
  その日は幸いな事に土曜日で会社が休みだったので、それからは1時間置きにJ−NETとメールのやりとりを始めた。それを3回位続けたでしょうか、お 昼すぎに、やっと、城崎温泉に決定した。
  私は内心可笑しく笑いをこらえた。それは、最初のメールの時から、こちらの電話番号を書いて送っているし、私もJ−NETの連絡用電話番号を知ってい る。それなのにお互いが直接電話で話をする事をせず、パソコン通信にこだわった。パソコン通信でホテルを予約した、最初の出来事だったのです。
  次の問題は、そのクーポン券の受け渡しである。J−NETの事務所へ来てくれと言われた、が場所が分からない。地図送れとメール。地図を送ってきてく れたので、代理人が火曜日に行くからとメールして、やっと終了したのである。
  だいたい盆休みの計画は正月頃から始めると聞いてます。遅くとも春頃には終わっていなくてはいけないと言われます。従って今回の計画はどだい無理だっ たのでしょう。でも、J−NETのお陰で実現したのです。

  当日(10日)朝はゆっくりに起きた。そして9時半頃家を出た。いつもなら4時起き5時出発が常である。10年前ならこれで良かった、しかし、近年は 殆どの方が朝早く出発される。そこで時間をずらす事にした。朝のラッシュをやり過ごし、すいた頃に出掛けよう。
  それでもラジオは西宮北を先頭に20キロの渋滞と言っている。吹田まで続いているとも言っている。仕方なく池田から入るつもりをやめて、伊丹から宝塚 へ廻った、下の道は空いていた。宝塚インターから中国自動車道へ入った。
  成る程覚悟はしていたが車が一杯だ。しかし40〜50キロで流れている。この調子で走ってくれたら万万歳だ。西宮北からはスピードがぐーんと上がっ た、しかし赤松パーキングエリアは一杯で車がはみ出している、中に入れない。それを横目にぐんぐんスピードを上げた。吉川ジャンクションを過ぎると殆ど車 が無くなった。ラジオは相変わらず中国道20キロの渋滞と放送している。
  10時半には福崎インターに到着した。出来過ぎである。もっと渋滞を予想していたのに、拍子抜けしたが、時差出発が功を奏した、これは好運。福崎から 播但連絡道路を北上、ここも車がちらほら、全く空いている。それでも和田山から9号線に入ると、のろのろ運転になった。しかし、これも市街地だけだった。 ドライブインで「出石そば」の看板を見た。通り過ぎた。これを女房が残念がった。
  この旅をする前に会社で「そば」の話を聞いた。福知山から車で1時間程の所にそばの美味しい所がある、と。しかし京都寄りだと聞いていたのでピンと来 なかったがどうもこれらしい。看板がよく出る。 それでは明日は「そば」を食べに行こう。と言う事になった。
  お昼を食いそびれ12時半にはホテル(洋館和式旅館)に到着してしまった。仕方がないので一旦チェックインし、近在を巡る事にした。

  日和山から竹野浜を廻って見る事にしてスタートする。丹後半島はしばしば巡ったが、この地は初めて。日和山はすぐ近くだと聞いた。  先ずは「日和山 遊園」話の種に寄って見た。猫の額のように狭い遊園地(海)ですが地元の人々には時折訪れる憩いの場なのでしょう。丁度土曜日とあって沢山の人で賑わって いました。駐車場に車を入れ徒歩で入り口近く迄行きましたが、入らず外から眺めただけで車に戻りました。  そして但馬海岸有料道路へ、展望の良い所で時 折車を止め、降りて見るのですが、草が生い茂っていて前の海が見えない。何のための展望台か。
  「竹野浜海水浴場」。外海を望んで遠浅、なかなか良い海水浴場のようだ。山へ行きたいと思っていたのに、なぜか海に来ている。やはり私は海型人間なの だろうか。出発にあたって何故か水着を持参しているのである。機会があれば何時でも海に飛び込めるように。
   竹野浜を左折、豊岡へ戻る、そして「玄武洞」へ、ここは予定に無かった。ホテルで教えてもらったのだが、マグマが急速に冷える時に出来たと言う自然の驚 異、岩が六角形になっていて、丸で(いや、角で)鉛筆を並べたよう。しかも、それが直線でなく湾曲している。色々な名前が付いていた。正直言って日和山遊 園より、この玄武洞の方がインパクトがあった。六角形の岩は正確には五角形に見えたが錯覚か?道が細目のためか訪れる人も少なめであった。折角この地に来 て見逃すのは惜しい。帰り道、それにしても道が細い、乗用車の離合も困難な所がある。そして、4時頃ホテルに戻った。先ずは温泉・・・・・

  夕食は山海の珍味で一杯だ。こんなに食べられるだろうか、夕食を早くして良かった。平らげるのに2時間も掛かった。さすがにJ−NET,JTBの手配 だ。  お腹が一杯になったので、次は減量作戦開始。外湯巡りをする事になった。七湯巡りと言っても、この地は初めて、女中さんなどから情報を収集(大げ さな!)、鴻の湯が一番人気と分かった。しかし、鴻の湯が一番遠い、それなら遠い所から順番に入浴して行くか。
  鴻の湯、まんだら湯、御所の湯、一の湯、地蔵湯、これで打ち止め。家に帰って子供に話したら笑われた。ようそんなアホな事するなー!!  石けんも使 わず浸かるだけでしたが、そんな中にも頭まで洗って髭まで剃っている人がいました。必ずしも旅館に泊まっている人ばかりでは無いようです。
  ここまで来ているのだから10年前迄10年間(ややこしい)にわたって夏になれば来ていた「琴引浜」へ行って、どのようになっているか確かめて見よ う。そして、丹後半島を巡って帰ろう、と予定していた。  ところが昨日の出石そばの一件がある。そこで予定を変更して琴引浜迄行き、バック(Yターン) して出石町へ向かう事にした。

  朝、名残りの温泉に浸かり、昨日と同じ9時半頃スタート。網野町にある琴引浜をめざす。途中「気比(けい)の浜海水浴場」に寄る。この浜は城崎温泉か らすぐの所にある。気比の浜はキャンプ場もあり、しかも遠浅である。しかし、この字が読めない。駐車場の小父さんに聞くと「けいの浜」と教えてくれた、つ いでに「折角来て下さったのだから」とパンフレット迄くれた。気比の浜から久美浜に向かう、よく考えて見ると海水浴場巡りをしてるのだ。城崎町から久美浜 町、続いて網野町だ。
  「久美浜」に着く、以前来た時と全く様子が変わっている。それもそうだろう15年は経っているのだから。中の様子を見ようと停まったらパトカーから駐 車禁止だ動けと言われた。不粋なパトカーだ、こんな所に長居は無用と、網野町に向かう。途中の道路が見違えるように良くなっている。部分的だが、
  木津温泉を横目に走る。この「木津温泉」は丹後半島と付き合う切っ掛けになった温泉で、車の雑誌で丹後半島周遊道路がつながったニュースを読んで、そ の雑誌に載っていた周辺紹介の記事でこの温泉を見付けた。五月のゴールデンウイークの朝「今日の夕方には行きますから」と電話し、飛び出した。木津温泉は 田圃の中に数軒の旅館が集まっておるだけで、分からず通り過ごしてしまった。途中で聞いて引き返す始末。やっと到着した旅館では四畳半一間の女中部屋のよ うな部屋、これでは可哀相と旅館と交渉の末、今度は一転二部屋もある大きな部屋に代わった。丹後半島の周遊道路はやっとつながったと言うだけでほとんどが 地道(石ころ道)で村落の部分がアスファルト舗装してあるだけ。それでも翌日丹後半島を廻って帰ってきた。その時のきれいな海、景色に魅せられて、夏は丹 後半島へ行こうと思ったのでした。(その数年後に廻った時は完全舗装されていました。)
  網野町。国鉄時代の網野駅は木造の田舎の駅と言う感じでしたが、今やJRから切り離され、第三セクター経営の北近畿丹後鉄道に生まれ変って、宇宙時代 を思わせるような建物で、その屋根は銀色に輝いていました。その風景はまさしく宇宙時代にふさわしく周りから浮いておりました。ハィ
  通い慣れた道を琴引浜へ、網野町の中心に入る。町並みはさすがに変化は少なく、一部に土産物店などが増えては居たが見慣れたままだった。琴引き着、驚 いた事に浜に通じる道路が封鎖されている。町の人が五六人出て整理している。何事かと聞いてみると駐車場が満車で入れないとの事、ちょっと見るだけと言っ ても駄目。しかし、近くに車を停める所を教えてくれて、そこから歩いて行ってくれと言うので仕方なくUターン。

   「琴引浜」。あの鳴き砂で有名になってしまった(残念)琴引浜は何時もだと車でスイッと行けるのに今日は歩きだ。  初めて来た時は網野町の町の中の旅 館だった。そこから近くの浜に行っていたが旅館の人に車で10分の所にきれいな浜があると聞いて出掛けた。それが琴引浜だったが松並木の間に車を停めて泳 ぐ、設備も何もなく帰りはそのまま車に乗り込むので車の中が砂だらけ、旅館へ帰って体を洗わねばならなかった。しかし、まさにプライベートビーチだった。 泳いでいるのは、ほんの数組だった。
  翌年、松並木の奥に民宿が出来た。しかし車は自由に停められた。その次の年は駐車料金を取るようになった。が宿泊客は無料、松並木の間である。その後 モータリーゼーション盛んな時代になって松並木の間だけでは足りなくなった。駐車場が増設され。それも行くたびに増えていった。今では5倍を越えているの では。広大な面積が駐車場になっていた。それが車で埋め尽くされていた。だいたいこの地は不便な所で車でないと来られない。町からも外れているし、汽車で 来た人はここまで来なかったが、この頃はみんな車を持っているので。
  浜へ出た、人人人、ビーチパラソルの花盛り。まるで須磨か、江ノ島か、長さ1.8キロあるこの浜が人で砂が見えない程である。そして砂浜もその辺りも 人が多いだけ汚染されていた。キャンプ場のある太鼓浜の方が人も少なくきれいなように見えた。日本人は折角の、このような環境を使うのが下手だ、何故もっ ときれいに使えないのか、やはり自分さえ良かったらそれでええ、 と言う考えが・・・・・か、何も考えてないか。
  この浜は魚が一緒に泳いでくれる。水中眼鏡で見ていると自分の周りに魚が、砂の中にも魚が、貝が、岩場にはカニが、子供連れにはもってこいの浜でし た。それがこんなに俗化てしまった。
  砂浜から周りを歩き廻った。以前にあった旅館で無くなっている所もあった。その代わり、脱衣場シャワールーム、トイレなどの設備が良くなっていた。定 宿にしていた民宿旅館の小父さん元気かな?  いたいた元気そうだ、私を覚えているかな、 声を掛けた。  ひととき話が弾んだ、3年後にはここも大きく 建て替えるとのこと、夏だけではなく冬もやる。冬はカニだ、道が良くなったので雪が降っても通行止めになる事はなく、大阪から2時間半だから、・・・・・ 帰りには土産まで貰った。  これじゃあ又こなくっちゃあ。
  車でなく歩くと色々な発見がある。車まで帰る途中でおもしろいものを見た。それぞれの家の前に足跡マークがペイントされている。なんだこれは? 色々想像したが分からない。何でも見てやろう知ってやろうと言うわけで、またまた町の小父さんに声を掛けた。小父さんは、こんなの知らんのか常識だがや、 と言う顔をして教えてくれた。曰く「車が多いので子供が家を出る時、必ずこの足跡の上に止まって、左右を見る」成る程、この道はよそ者の車がよく通る、こ れは町の自衛策だったのだ。

  丹後半島周遊をやめ、車は元来た道へ。久美浜から豊岡へ向かう。途中の峠で大雨に会い前が見えない。霧のような雲、あれに入ればヘリコプターも堪らな い。豪雨で突然出来た水溜まりにハンドルを取られながら進む。豊岡から出石町へ、網野から43キロの道程。近道をした積もりが地図に無い道、途中で道を尋 ねる始末、国道426号線に出てやれやれ。

  「出石町」。琴引浜で思わぬ長居をしたのでお昼はとっくに過ぎていた。聞いて来た「振鼓堂」を探す。「辰鼓楼」はあった、だがどうも違うようだ。ガソ リンスタンドで時計台を尋ねる、確か時計台の前とか言っていたなー。  やっと見付けた時計台、話の通り駐車場もある、しかし、この賑わいはどうした事 か。人出が凄い、駐車場も運よく1台、あとは満員で停まれない。観光バスも何台か停まっている。車から降りて「振鼓堂」を探す。あちこち歩き廻ったが見つ からない。どうしても見つからない、ちなみに時計台の名前が辰鼓楼と言って「辰(たつ)の刻に時を告げた」のだと言う。
  仕方なく車の整理をしている町の人に聞く、辰鼓楼と言う店はあるが、振鼓堂は無いと言う。そこでついでに美味しい店を教えてもらった。と言うのも「そ ば」を食わす店は幾つもあるからだ。折角店の名前を聞いてきたのに時計台の前にあるのは「湖月堂」だけだ。どうやら時計台の名前と店の名前がごちゃごちゃ になっているのではないか。 では、何処で食べれば良いのか、迷ってしまう。
  件(くだん)の小父さんは「町の仕事をしているので店のえこひいき(依怙贔屓)はしたくないが・・・・・」と言いながら店を教えてくれた。  時計台 からは少し離れた所で、あまり大きくないが、店は結構はやっている。通の人は大阪から月一回はそばを食べに来るそうな、そこまで行かなくても、これから近 くまで来たら寄ることにしよう。ああ美味しかった。

  お腹を一杯にして帰路につく、先ずは福知山。峠越えで9号線に、市街地に入れば、やはり混んでいた。ショックだったのは琴引浜の帰りには必ず寄ってい たドライブインが潰れていた。姿はそのままで、まるで幽霊船のように・・・・・・車が一杯停まり、賑わっていた過ぎし日の事を瞼の下に思い浮べた。
  突然渋滞が解けた。目の前には車がほとんど無い。途中大阪へ抜ける旧道を横目に近畿自動車道まで直進する。9号線をかなり走ったところに近畿道は有っ た。

  近畿自動車道は一部減速した所はあるが、あっと言う間に中国道に達した。結局帰りも大した渋滞もなく、予定時間より早く帰着することが出来た。今度の 旅は新しい発見あり、過去の思い出あり、いろいろの収穫があった。事故もなく、危ない目も無く、好運な旅であった。
                              完
  <参考資料>
        中国自動車道      宝塚 − 福崎  1,700.−
        播但連絡有料道路               310.−
           仝                      200.−
        日和山遊園駐車場               600.−
        但馬海岸有料道路               200.−
        近畿自動車道中国道  福知山 − 宝塚  2,050.−



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  城崎温泉旅日記・後日談   1991年 9月   JA3ARI

  件(くだん)の「出石そば」は、帰ってきて問い正したところ、「辰鼓楼」が正解だった。辰鼓楼であれば一度は駐車場にまで入ったのに、残念であった。振り子のつづみ(鼓)のお堂だと教えるから間違ったのだ。振り子の「振」では無く辰年の「辰」(しん)だった。
  しかし、皆さん、そのようなわけで今度行かれる方があったら、「辰鼓楼」へも行って上げてください。時計台の辰鼓楼からは少し離れていますが、国道426号線沿いにあります。看板が出ています。細い道を曲がった所に専用駐車場があります。
  そして、琴引浜には息子達が行く事になった。早速電話して「先日は・・・・・」予約をしておいて出掛けて行った。これで帰りに土産を貰った負担が返せた。やれやれ・・・
  息子達は、念の入った事に土産の中に「いずしそば」を買ってきていた。いつまでも話題を提供してくれる出石そば、だ。
  浜は台風通過後で波が高く数日前に水死者が出た(ニュースで聞いた)が、警察が出て本部が出来ていたと言うので、未だ遺体が上がってないのだろう。
  ついでに舞鶴へ寄って軍艦、いや護衛艦も見てきたそうだ。舞鶴へは息子がもっと子供の頃に連れて行って見せた事がある。きっとそんな話をしたのだろう、友達が行きたがったとのこと。
  軍艦と言えば、舞鶴もそうだが、呉へ行った時は潜水艦がずらーっと係留されていて壮観だった。写真も撮ってきたが、誰も何も言わなかった。これが戦時中なら、たちまち特高警察か憲兵に引っ張られてスパイの嫌疑を掛けられていた事だろう。とにかく自由で平和な世の中で良かった。  かくして、夏は終わる。  (1991.09.01.作成  2011.08.18.掲載)