音盤三昧 

 


 コンサートとCD等の録音と言う同じ音楽でも異なる世界は、音楽好きが一度ならず戸惑うところかもしれない。樹木に例えて前者は「自然生えの木」、後者は「盆栽」と見立てたことがある。さらに平凡な実演と巨匠の録音とどちらが有意義か等々、両極端を仮定した場合でも前者は人間活動そのもの、後者は歴史の篩いを経た後日談。コピー文化が標準化された現代にひと時、身を委ねて充足した精神へのインプットとする手段としてまたひとつの価値があると見る。

 音楽を聴くときに実は六つの声が聴こえている。作曲者の声、楽曲自体の声、演奏家の声、楽器の声、ミューズの声、背景の声。背景の声はコンサートであれば一堂に会した聴衆の臨場音と後の批評等となろうか、録音であれば技術者の録音編集技、オーディオ装置の品質、部屋環境の声など。それらの聴きたい声と聴きたくない声のせめぎ合いの中で音楽に感動する対象が、ある時は音盤になったり実演になったりする。感心したり、感激したり、感銘したり、感動したりの貴重な時間。

  好きな音楽はブルックナーの交響曲ショパンのピアノ曲、ベートーヴェンのピアノソナタ(これはバックハウスがデフォルト悲愴、熱情、ハンマークラヴィアOp111ジャズソナタあたりは色々聴き比べたり、ソロモンの演奏CDに感激したり。)そしてモーツァルトのピアノトリオ バッハの鍵盤曲(テューレックさんの素敵なCDに巡り会った。)とマタイ受難曲モーツァルトのレクイエム(これはブルックナーの交響曲第九番バッハのフーガの技法と並んで、私のクラシック音楽の軸を為す「未完の三大ニ短調」)。バッハの鍵盤曲ではパルティータが頂点、ゴールドベルク変奏曲や平均律曲集を始めとする数々のクラヴィア曲、オペラはやはり魔笛が楽しい。

  

 コンサートでは、若い頃は強く印象に残ることが比較的少なかったのは感性の低さのみならず、妙な緊張感があったり、若気の勝手な思い入れが過ぎたせいのよう。演奏者の創造する世界に対して、偏狭な自分の世界を当てはめようと臨む姿勢自体が音楽鑑賞への態度から乖離していたわけだし・・・。最近では、あらゆる音楽の実演奏を楽しむことができるようになってきた。その分、名演奏での感動の深さも、より深くなってきたかも。

 CDの中で特に印象に残った時は、音盤徒然で感想などを、一人ごちたりする。よその同病のHPなどを覗きに行けば100人100様の感想、コメントを拝読できるしそれもまた楽しいこと。CDやLD音楽聴き比べなんかは、例えれば「百名山」の写真集で山々を比較して、この山はうんぬん・・しているようなもので、ピントはずれの簡易的な楽しみに過ぎないのだけど、音楽へのイメージをふくらませる楽しさとしては、なかなか捨てがたいものがある。コンサートは一回限りだから、よくも悪しくも再体験は出来ないし・・・、人の熱気に疲れてしまうことも多いし。そのあたりのことは、別の頁で独り言として折に触れてつぶやく。

 

 音楽なしに生きていけるか?と問われると所詮、享受する側でしかないのだから、美術館へ行かなくても生きていけるのと同じ類の位置付けかもしれない。ただ、いろいろそこに求めたい対象であり、そしてそこから充実感と活力が得られるから対峙する。「そこに山があるから・・」と同じ理由。