洋琴戯奏 

【稽古物語】

 偽音奏者の鍵の聲、作業苦情の響あり。

そるふぇーじゅの音の色、聴者必睡の理をあらわす。

驕れる人も久しからず、只、打鍵上のミスの如し。

弾ける者も遂には滅びぬ、ひとえに暗譜曲の度忘れに同じ。

 

 

   その昔、子供時代に6年間程ピアノを習ったものの極意を掴む事ができず、上達の遅さに意欲も萎えて沙汰止みしていたものが、あるきっかけから「細く長く」と言う事で再開。様々な形でピアノに向き合っている方々とネットの上でのコミュニケーションを通して音楽を深めることができて現在に至っている次第。楽しむ曲も自己満足ながらも、少しずつレベルアップをはかりつつ練習を続けている。 素晴らしい先生に習う縁に巡り合えた事と、匠の域で仕事をする調律師さんに出会い、ピアノを弾くことの本質が見えるようになってきた。

【習い事】

道具、楽器: 「弘法、筆を選ばず」 と言うことは弘法大師以外は筆を選ぶわけで、楽器は筆なんかよりもメカが助けてくれる部分が圧倒的に多い。最初に使ったものはヤマハの第一期量産型アプライトU1D(1963.Jan出荷,lot.232677)で、 ワインレッドのなかなかおしゃれなピアノで、今では下取りでは値段が付かないけれども、まだ修理して使っている人もいる様子。弾きやすいし音色もなかなか好ましく、より良い楽器が欲しくなると言う段階までには当時は至らなかった。

  就職して5年ほどピアノの無い生活の後、今度はVanBroad V30-A、LotNo.7179に遭遇。東洋楽器(株)製 1961/7/3出荷。東洋楽器(株)は愛知県名古屋市に在ったメーカーとか。音色はけっこう豊かで、納得して弾ける時があったけれどキーのレスポンスが良くなかった。弦楽器の名器の場合は演奏技術が伴っていないと楽器本来の音が出ないと言われるけれど、ピアノの場合は確実なメカニズムが備わっていないと音が作れないとか・・・。物理的にも納得できることだけに、能力と経済パフォーマンスの間で逡巡しつつ幾星霜。 

 人生が見通せるようになってきた頃、ピアノを弾くことに再び価値が増してきて、縁あってシュベスターのアプライトに注目。まずピアノと言う楽器はグランドピアノのことであって、アプライトはアプライトピアノと言う別の楽器であることの認識とともに、その両者に「楽器」と「練習機械」の2種類があることを確認しながらターゲット を絞り込んで行った。その過程で電子ピアノなるものも経験し、結論としてピアノとカメラに関しては「デジタルものは芸術モドキ止まりの機械」と結論し、それ以後は永久に訣別する。デジタルカメラもデジタルピアノも 商業主義の道具であって芸術とは違う世界。 もっとも人類の歴史過程で「芸術の時代」は「宗教の時代」、「哲学の時代」と共にもう終わっているのだけど。

 

ピアノにしろアプライトにしろ、「練習機械」と「楽器」の違いをどう見定めるかが、きわめて興味深い事柄と で当然ながら明確な区分点は無くて、これは八割がた練習機械とかこれは文句無く楽器であるとか、音楽家の手にかかると 練習機械も楽器としてある程度、表現手段にしてしまえる部分もある訳だし。

練習する のだから練習機械で良いと言う見方もあるなかで、とりあえず判断基準としてどこまで手造り品か 機械的量産品かと言うことと、あとは価格がある値以上かという点で区分けして選定することになる。ピアノと言う楽器は\200万以上ですと言われてしまえば実も蓋も無い けれど。

自動車と言うものは\500万以上するもので、それ以下は子供騙しの量産された移動道具、みたいな感じか。

 

故あって、スタインウェイのフルコンサートグランドを何台も好き放題に 触れる機会を得ることができて、またもや目から 鱗。ヤマハのグランドを触ったときは当然アプライトとはまったく違うものの、それほどの差は感じなかったのだけれど、これらのスタインウェイは全然別物と言えるハードな代物だった。プロ仕様とはこう言うものなのかと ホロヴィッツなど思い出しながら底知れぬ異次元を思い知ったひと時。

 

製造技術と調律:

 楽器に限らず道具は素材と加工精度をどこまで追い込めるかでその品質が決まってくる。そしてそのメンテナンス。ピアノの場合、饗板の材質、スプルース、赤蝦夷松などで産地別、乾燥等の処理レベルの度合いなどでピアノの品質が決まってくると言う。手造り品では、メンテナンスの影響も大きく、生かすも殺すも調律師さん次第と言うことになるし、設置環境も無視できなくなる。

これまた縁あって、様々な技を修めた調律師さんにようやく出会うことができた第。

彼の調律技にかかると、ピアノに音色の魂が吹き込まれたとでも言うか、外出していたミューズの女神を呼び帰してくれたとでも言うか、ピアノ空間がまさに別世界となる。猫が鍵盤上を歩くにしても、音色よく調律された鍵盤上のほうが良いに決まっている。下手な指さばきは最良の音色で補うことが必須なのだ、と言うか和音だけでひと時を楽しむこともできる、そんなピアノにしてもらえる。

レッスン

バイエルを終わりチェルニーに入ってソナタアルバムの頃からだったろうか、自分の出す音とFMやレコードのピアノの音が似ても似つかないことが不思議に思うようになった。楽器が違うこと、プロの演奏とはそう言うもの、あるいはこれが才能が無いということなのか等とも思ったりしながら時を重ねていた。先生について習うことをやめて20年以上立ってから、いくつかの偶然が重なってスタインウェイのピアノを使って レッスンを受けると言う機会を得るに至った。一時間ちょっとの受講だったけれども、「目から鱗」伝説は本当だった。突っ込むのではなく、引張るように打鍵するとか様々なアドヴァイスどおりに姿勢と指の使い方を変えると嘘のように弾き易くなって、音色が豊かに出せるようになった。目の前で何度もゆっくりとわかる方法で説明される要となる改善点の数々。実際には何度も言われていたかもしれないけれど理解できるだけの受け皿が自分に備わっていなかったのかも知れなかった。ピアノ奏法を伝授する、伝授されると言うことの難しさに関しては、音楽のように形に残らないものの場合は感受性のレベルの差がどうしようもない障壁となる。 ピアノの先生はピアノ演奏のDNAを持った人だけがふるい分けられてきた人たちだけれども生徒の方はDNAの無いただの横好きも結構いるわけで、DNAの無い人には教えようがないのは必然的事実。そんなわけでピアノ音楽レベルになってきた時点でこの先生と は決別。

 

一年以上間が空いて、たまたまラザール・ベルマンの薫陶を受けたと言うピアノの先生に縁あってレッスンを受けることができた。豪快華麗なロシア派の系統と言うこともあってしっかりピアノを鳴らすこと を基本とされているようで、これまでの微弱な繊細さの追求とは真逆の路線となった。これは今の私に必要な基本項目 と自覚させられて非常に有意義なレッスンとなった。その昔ベルマン弾くショパンのポロネーズ集に感動したのだけれども彼はショパンコンクールに落選していてショパンは弾かないと決めていたそうな。リスト弾きとして知られていたようなので遅まきながら彼のCD集を急遽発注。 練習中の悲愴終楽章もゆっくりでいいから正確なリズムでしっかり音出しするところから再構築開始。 もっともベルマンの悲愴を聴いてみるとやはりホロヴィッツと同系統の思いっきりロマン的なベートーヴェンなので、これからのレッスンはどうなっていくのかも大いに楽しみ。

三宅榛名さんが書いていた一節・・・、

 他人の弾くバッハはそれが必要十分に満足行く演奏であろうとも、結局自分が弾いて音を出している結果ではないと言う理由から、面白さとは遠い気がする。恐らく自分で音に還元し、生きた音として蘇らせる、と言うことが音楽に関与することの確定的な核心部分なのだろう。

 

 

   過去にNHK趣味百科と銘打って何回か番組が放映されていた。講師はW.クリーン、C.カツァリス、G.オピッツ、B.ゴルノスタエヴァ。世界でもトップクラスのピアニストや音楽教授の本職の方々、生徒さん達もその道を目指す凄腕の人ばかりで、およそ一般人の言う「趣味」と呼べるレベルとはかけ離れたものだった。逆に、これ位の内容を持って、アマコン等で入賞したりしないと「趣味」と言ってはいけないとすると、ちょっと淋しいものがある・・。    

 それはさておき、これらの番組はとても魅力的な内容だった。受講生は皆上手なのに、講師の方の一言でさらに別世界にワープしたように、表情や表現が豊かなものに変わるのはミラクルそのものだった。 

 

 心で弾くピアノ - 音楽による自己発見 - セイモア・バーンスタイン: 音楽之友社

 

 才能とは継続的意志、と言うベースでプロのピアニストからアマチュアピアノ愛好家、ピアノ教師と、あらゆる人々にピアノカウンセラーとしてアドバイスを与えている。何故ピアノを練習するの?と言う問いかけで、ピアノの練習が即ち、自分の人生充足の一部をなし、ピアノ技法の習熟から音楽表現のレベルアップへの努力が人間としてのレベルアップをもたらすプロセスを熱っぽく語っている。アマチュアピアノ愛好家はアメリカでも偏見の対象のようで、様々な面から擁護する論陣を張っている。その上で幾通りもの効果的な練習法を例示しているが、音階の練習曲が嫌ならモーツァルトのソナタで練習すれば良いが、「集中と一貫性」が決め手であるとか、シュナーベルが、あるパッセージを200回練習していたがそれは200回繰返していたのではなく200通りの表現を試していたのだとか、腕輪の重りをつけてピアノを弾いて、手の重みによる打鍵を体得させるとか、バラエティある話の興味は尽きない。きわめつけは演奏前にあがるのはどうしたら良いかについては、ピアニストのクォリティの高さとアガリの度合いが比例すると言いつつ様々な対策を紹介している。特に自分の意志でコンクール等に参加する本人の場合は自分自身の問題だが、親や先生に参加を強いられた子供の場合の演奏前の緊張については慎重なケアが必要と述べている。当り前のことだけど、結構こう言う視点は忘れることがあるようにも思う。

 

   平成六年のこの番組の生徒さんの名前を見ていたら、あの上原彩子さん、 上原ひろみさん、鈴木弘尚さんが出演している。後藤正孝さん、向井小百合さんも、ヤフーで検索するとそれぞれにピアノでご活躍の様子。このときの演奏から、彼らの成長をどれだけ予想できたのやら。講師の先生はヴェーラ・.ゴルノスタエヴァ。いろいろな曲を扱っているけれど、やはりチャイコフスキーになんとなく焦点が合ってくる。失われた10年と言われながらもスポーツ分野や、こうした芸術分野では日本人が活躍しているのは心強い限り。今の日本の精神的荒廃の中にいては芸術的感性や素養などは育つはずはないから、と言う理由ではなく、やはり欧州を起源とするものは、欧州を拠点として学ぶのが正しいのだろう。 

 *後藤正孝、優勝!第9回フランツ・リスト国際ピアノコンクール

 

 原田光子著になる「大ピアニストは語る」再読。

 大ピアニストの言葉の数々がゴルフの達人のそれらと重なる。当り前だけれども常人に実践困難な事柄が繰り返し語られる。内容を理解しつつも、それがどのレベルの学習者に向けられた言葉なのかを区分認識しておかないと、参考にならないどころかむしろ混乱するだけのマイナスな結果になってしまうこともある。いずれにしても、人間同士の勝負となった時は、獲得形質の範囲ではなく、先天的要素と運が無視できなくなる。