作曲年 1887/9/21-1894/11/30(adagioまで) 

編成: 3fl,3ob,3cl,3fg,8hn(5-8Wagnertba),3tp,3tb,tba,timp,5st  

(1):2/2 荘厳で神秘的に (2):3/4 運動的、活発に trio:速く (3):4/4 遅く荘厳に (4):4/4 神秘的に、急がず。

 
 

 

  @原典版(OREL/HAAS版);1887/9/21-1889/4/4-1894/11/30 初演;1932/4/2 Munich,ハウゼッガー

  A原典版(NOWAK版);1887/9/21-1889/4/4-1894/11/30 初演;1951 Munich PO

  BLOEWE改訂版;1903 初演;1903.2.11 Vienna, F.Loewe: *.Finale;1894/5/24-1896/10/11 


 「交響曲の王」としての彼の最高峰が交響曲第九番ニ短調である事は疑いも無いところ。終楽章が未完成に終わっているマイナスも、完成した三つの楽章の内容の深さが補って余りある。彼の最後の3作、第七番、第八番とこの第九番はあたかも三部作のように、それぞれ異なる性格を持ちながらも一体となって結び合わさっているような趣がある。第七番は人間の喜びと優美な平和、第八番は大自然の壮烈さと怒り、そして第九番はそれらを止揚した宇宙あるいは神の絶対的意志、無常が最終的表現として残され、静と動と時、人と大地と神と言った三元世界の集大成とも言うべきか。この九番の演奏スタイルとしては、第1楽章を24分以内のテンポで進めるか26分以上かけるかの2つのタイプに二分される。23人の27通りの演奏の各楽章平均所用時間は第一楽章:24分47秒、第二楽章:10分33秒、第三楽章:26分02秒となり、ブロムシュテットの演奏が比較的この平均値に近い。そうしたテンポ設定と、金管の強調度合い、アチェレランドの頻度、それらをどこまで強調するかで描く世界が大きく変わる。第一楽章の古典的な解釈は、全体に速いテンポの中でアチェレランドを多用し、トランペット等を強調して華やかさ、激しさで彩る。最近はそれらの逆。ゆったりしたテンポの中で金管を押さえて、和音を重視して分厚くかつマイルドに奏し、ゲネラルパウゼを十分利かせた「大人のムード」。前者はヨッフム、ドホナーニ、ムラビンスキー、フルトヴェングラー等で「情熱派」、後者の「大人派」はヴァント、朝比奈、チェリビダッケ、ジュリーニ、中間に位置するのがシューリヒト、シャイー、ブロムシュテットやバレンボイム。マタチッチやハイティンクは昔の録音は情熱派で後年の録音では中間派になっている。ブルックナー自身がオルガン即興の名手だったと言う面では「情熱派的」演奏が彼らしいといえるし、第九が「白鳥の歌」と言う面では「大人派的」演奏が彼の望むところなのかもしれない。ブルックナーがこれらの演奏を聴いたら、一体どの指揮者に満悦しきってターラー銀貨を手渡すのだろうか。ちなみに第一楽章より第三楽章の演奏時間が短い指揮者はヴァントの新盤、ワルター、シューリヒト、アイヒホルン、朝比奈の5枚。これは第三楽章を終曲として見なさず、来るべき回帰の終楽章を第一楽章に託したのかもしれない。していない演奏解釈なのではないだろうか。将来、学習型のコンピューターが進歩したら、ブルックナーのすべての楽譜データを時系列に入力して、未完に終わった終楽章の断片スコアを入力解析処理して完成再現する日が来るだろうか。現在、補筆演奏されているものを聴くたびにそんなことを考えてしまう。

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マタチッチ: どちらかというと現代的解釈で、オーソドックスだが非常に堅実で感動的である。2楽章のトリオの表現は最高。トランペットの歌わせかたが重厚な表現に華をそえている。第3楽章の弦の流れは節度ある法悦、エンディングの弦の刻みも絶品。

ムラビンスキー: 実に生命感あふれる、筋のしっかりした演奏。小細工の無い自然な音楽の運びに加えて金管のうたい回しの見事さ、管弦両者のバランスの良い豊かな表現で、この曲にありがちな抹香臭さを吹き飛ばす壮快さで独特の魅力を与えている。弦の流れはチャイコ節に通ずる解釈なのか誠に流麗。

朝比奈: 東京フィルとの新盤は録音の良さとも相まって超ド級の9番となっている。1楽章が大きな塊になって密度が高く、かつ雄大な空間を作り出しているがここまで行くとちょっと怪物的で恐いくらい。大阪フィルとの演奏(旧盤)は音が濁っていて、表現が確立していないようで完全に曲に押されている様子。

アイヒホルン: 大星雲のように、どこまでも広がってゆく最も壮大な第九番。最終楽章の試みもつぎはぎだらけの楽譜から可能な限りブルックナーの香りを引き出している。と言うより、つぎはぎだらけのゆえに、ちょうどパルテノン神殿の柱と崩れかけた梁の部分から、当時の壮麗な全体の姿を想い描き、現物がないが故に無限の空想力で補えるのに似て、究極の第4楽章に想いをはせるきっかけとしてはあまりある優れた音像である。(このあたりは、批評家と違って愛好者の最も幸せな特権で、批評家はあるものをそのまま捉えなければならないけれど、我々は自由勝手な想像力で感動してしまえる。)

ヨッフム: BPOとの共演が最も豪快華麗な内容表現で、金管積極表現派の最右翼。ロマンティックな解釈にそそぎ込むエネルギーがBPOの音質とぴったり合って、第1楽章のコーダは聴く度に身震いする。同じ表現ながら金管を抑えて落ちついて聴けるのはやはりドレスデン版だが。晩年のミュンヘンフィル盤はいろんな意味で優等生的九番。

ヴァント: 豪放闊達、重厚でガッチリと構築されている。1楽章のコーダの管の刻みはなかなか印象的。SNRDは弦がきれいでない時があるが、ここではなかなか良い様。新盤は少しもやっとした感じ。

シューリヒト: とにかく弦と木管が流麗で美しく、一般に一本調子になりがちの金管の扱いを、彼は豊かな表現描写に成功している。くっきりとあか抜けていてしかも確かな重みが感じられる。3楽章はやや軽すぎるテンポだけれど、音楽内容の重さを考えるとこれくらいの方がバランスがよいのかもしれない。ただ、この演奏は第3楽章を終曲として表現していないみたいで、無性に第4楽章が欲しくなってしまう。

チェリビダッケ: 例によってゆっくりした足どりでポリフォニックな表現がピカイチ。各楽器の旋律が積み重なって和音を形成していることを明確に示し、彫りの深い繊細な表現となっている。2楽章ではティンパニィの使い方が際だっており、また駆け抜けるだけの演奏が多いこの2楽章を見事に詠いきっている。小編成で奏でる部分の絶妙な響き合い。正に逍遥の極致。

フルトヴェングラー: 思い入れはわかるけれど感情的に振り回しすぎ。演奏当時と時代背景を勘案に入れて、そこに身を入れて鑑賞する必要がある。彼のベートーヴェンの第9の名演盤はそんなことをしなくて良いのだが。弦の旋律表現の美しさは例えようも無く魅力的だ。

ドホナーニ: 一番端正でさわやかで繊細酒脱な第九番。これを聴くと彼がシューベルトの延長線上にいると言う説に頷いてしまう。管楽八重奏に弦のバックがついたみたいだけれど枯淡の境地とはまた違う感じで良い。

バレンボイム: 第2楽章の集中度が高く、中身が濃い。第1楽章は少し冗長だけれど、楽章を追う毎に良くなってくる。しかし何か優等生的で、えも言われぬ魅力というか、ある種の毒に欠ける。ブルックナーの交響曲は毒スレスレを楽しむフグ料理みたいなところがあるから。

ジュリーニ: 何から何までゆっくりやれば良いというものではない。「チェリのまねをするジュリ、楽に溺れる?」が、この清浄な広大さは実に素晴らしく、聴く頻度は結構多い。録音も良いし、いろんな意味でフルベン盤の対極にある。

ハイティンク: 一楽章コーダの打楽器の表現が印象的な名演。旧盤が彼らしいけれど、新盤の方が円熟味のある大宇宙を表現できている。このような上品な豊穣さもまた格別。

バーンスタイン: 晩年の諦観が重なり合った広大無辺の実に素晴らしい演奏である。これを最終解脱というのかもしれない。曲が終わった後、永遠に沈黙が続く。普通はこの曲は聴き終わると、また最初から聴きなおしたくなるのだが。

ワルター; 曲の本質をとらえてメリハリを利かせた魅力的な名演奏。山高きがゆえに尊からず。ブルックナーは録音技術の進歩で日の目を見た人のようだけれど、最近の超弩級戦艦大和みたいな9番が目白押しの中では、かえって素直に波に乗れる表現。

スクロヴァチェフスキ; 緩急を明快に、やや諧謔的ともとれる味付けもあって、すっきりあか抜けた好演。ミネソタ版もザール版も同様に第1楽章から第3楽章へ上りつめる形の筋肉質の九番だがザール版のほうが良い。

コンヴィチュニー: 録音は古いが一度聴いたら手放せなくなる究極の九番のひとつか。小細工を廃し、ひたすらブルックナーの精神に忠実に曲を表現している。

カラヤン: 体内メトロノームが若干早めで、若々しい爽快なベートーヴェンを奏する彼がこの曲をどう表現するのだろう?。この問が予想させるとおりの演奏と言える。時に若々しく、ある時は老成して、音量の対比を強調するのはともかく、フレーズごとのテンポの対比が強調されて感じるのはこの演奏の特徴。なかでも第一楽章では特に良い世界ができていると思う。

ズヴェーデン:ズヴェデン聴かぬば男の恥、とばかりに安いほうのCDで鑑賞。ブームが去って模範的演奏が残ったと言う感じか。しかし何か表面仕上げに留まっているようで繰り返して聴く手が出ない。


 
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