F・ショパン

 

 

 

 魅力の源泉は、曲それぞれに柔軟で、それでいて感情移入が滑稽になるほどに客観的で、それゆえに余韻がしみじみと残る・・・、と言ったところだろうか。

 柔軟性を十分に主張して、感情的ではなく、じっくりと弾くタイプの演奏に魅入られることが多い。リストの場合もこれと似ている。

 チェロが「哲学の響き」、ヴァイオリンは「問わず語り」、木管は「夢想」とするとピアノは「心模様」あたりが妥当かもしれない。

 ショパンの音楽は、病的なサロンの優雅さ、等の先入観もあるが、人間の極限状況を救う強靭さが秘められているようにも思う。こんなに強烈な和音の並びや、激情的なメロディーを作った作曲家はいない。現代ピアノで大段平を振りかざすような演奏スタイルはいらない。

そう言えばバッハも異様に激情的なメロディーがあったりする。バッハとショパンは密接に結びついているようで、

 バッハが「悟りの諦観と反骨」とすればショパンは「超克に至る憤懣」かもしれない。

 シューマンのオイゼビウスとしての表現では、ピアノ協奏曲やマズルカを元にして、

Chopins Werke sind unter Blumen eingesenkte Kanonen.(Schumann: Schriften – Kritische Umschau)

と言うのがある。「花々の下に潜められた大砲。」吉田秀和氏の訳では「花かげに隠された大砲。」これはシューマンの目からは反ロシア的なポーランドの魂と言うことになろうが、ショパンの音楽の特徴である、甘く香るメロディと対比的に激情的なパッセージや一種不気味で不穏な和音進行がセットになって、能の般若と小面の組み合わせを見るような緊張感を創り出している部分の比喩としても、納得できる表現と思う。

 

 

 ショパンの作品は、演奏者の心の内を率直に映し出すようで、

演奏技術が上がればあがるほどそれが顕著になるような面白さがある。

誰がどう弾いても風格を保ちつづけるバッハの懐の深さとも少し違うし、

基礎の乏しさを許容しないベートーヴェンとも違う。

 

作品年表

 

ショパン・コンクール 

 

 演奏会の日にも練習されるのですか?と尋ねられたショパンの回答。

「二週間の間、閉じこもってバッハばかり弾きます。

バッハが私の演奏の準備なのです。自分の作品は練習しません。」

  

 

ショパンの書籍類は専門の雑誌もある位だから、いくらでもあると言えば言える。

愛読してきているものは以下の通り。

 

1.P.ニークス:フレデリック・ショパン 全音出版社

2.Y.イワシェケフィッチ:ショパン 音楽之友社

3. B.ジェリンスカ: ショパンの生涯 音楽之友社

4.音楽の手帳 ショパン 青土

 

5.ショパン 音楽写真文庫 著:属 啓成 音楽之友社

 

6.J.J.エーゲルディンゲル 弟子から見たショパン 音楽之友社

ポーランド大使館

ハラシェヴィッチのエチュードがデフォルト。ブライロフスキーのワルツ、フランソアのポロネーズがお気に入り。それとミケランジェリのマズルカ。アシュケナージのように完璧に綺麗で有無を言わせないものよりサムソン・フランソアのように楽譜を超えて人肌を入れ込んだ演奏のほうが親しめる。

 ワルツ

 ショパンの曲集の中でワルツ集は最も懐が深いものではないだろうか。技巧的にも表現的にも老若男女に幅広く取り付き易く、プロのピアニストの演奏にも実に様々な個性的な演奏の自由度がある。ノクターンのように甘すぎず、マズルカのように渋すぎず、ポロネーズのように重過ぎず、プレリュードのように短かすぎず、エチュ−ドのように難しすぎず、しかしれっきとしたショパンの世界なので、一音一音が磨き上げられていないと浅薄なものになってしまう。第一番の「華麗なる大円舞曲」を聴いていると、「ドナウ川の漣」はこの曲を聴いたイヴァノヴィッチが触発されて作ったのではないだろうか等と思ったりする。とは言えショパンのワルツはやはりフランス風の味付けが似合うようでウィンナワルツの軽やかさとは趣が異なる。リパッティの演奏が決定版のように語られたりすることもあるけれど、私にとってはトスカニーニのベートーヴェンがせわしすぎて無価値なのと同様の位置にしかないのは好き嫌いとは言え少し残念。やはりワルツは本質的な優雅さ、洒脱さが命であって、うわべだけの軽妙さや、逆に切迫されたやりきれなさ等に追い込まれてほしくない。シューベルトの即興曲とかモーツアルトのピアノソナタのような天国的な中に、典雅さと諦観の極致が同居する世界とは違うのだから。フランソアやブライロフスキーの落ち着いていて、開かれた世界か、カツァリスの自由度がありながら爽やかな正統派の世界が好ましく、健康優良児的なハラシェヴィチ、ルービンシュタインはなにか平板に感じてしまう。ショパンのオリジナルな世界とは少し違う健康路線だけれども端正実直で説得性があるのが馥郁たるアラウの演奏。

 多くの人がブラヴォを呈するリパッティ。古い録音で音像の線も細いのだが、それに当時の状況も相まってショパンのワルツに最適な条件が整ったのだろうか。フナに始まりフナに戻るではないけれど、ショパンの「白鳥の詩」はワルツなのかもしれない、と確信してしまう演奏。

 アンコールでワルツを弾くピアニスト、その心はこれらが軽い曲だからと言う認識だけなのか、簡素だけれど奥が深い故の選択なのか、興味の沸く部分ではある。

 

アダム・ハラシェビッチのショパン DECCA4428746)

 

 ハラシェビッチのショパンはどれもこれも実にソフトで自然な音楽になっていて、まったりとした鮮やかさみたいな、各曲ごとに定まった無意識の呼吸のよう。高貴な深遠さとか、病的な幻想性とか、鬱積した憤懣、焦燥にかられた憂鬱等、いわゆるショパンらしい味付けっぽいものがまったくと言って良いほど施されていない。ショパンへの憧れに溢れる感情世界の対極にある、「自分が普通に弾いたら、すなはちそれがショパン。」とでも言うような演奏。しかしながら協奏曲などは丁寧に弾き込んでいるかと思えば、エチュードやプレリュードでは薄くヴェールをかけたような表現となっていたりして、非常に多彩で一本調子ではない。ショパンの初期の頃の、地味であまりほかのピアニストが弾かない曲の表現の鮮やかさが耳に残る。いわゆるショパンの名曲の大部分がグローバル標準化されたもので溢れていて、本来のポーランドのショパンの原点からは離れていってしまっていることを再認識させてくれるような演奏。アナクロニズムな書評にまだ散見される、「マズルカのリズムはポーランド人にしか出来ないもので・・」とか言う類、津軽三味線は青森県人にしか出来ないみたいな、そうした無意味なコメントとは違って、足元を見直しながら視点をより広げて音楽を感じさせてくれるような演奏と言うのがハラシェビッチの真骨頂のような気がする。例えば、大衆化された現代のエチュードに、多くの人が求めるものは速度と正確さ、音色の綺麗さ。そこにショパンの音楽そのものを求める人はどれくらい居るのだろう。もっとも逆に、練習曲として曲の組立て素材に決まったパターンの指の動きを規定した曲で、自由な音楽世界が構築できるのだろうか。練習曲と言う構造から表現手法が制限されているなかでは、無限で自由なイマジネーションは相矛盾するものとなるわけだから、そしてさらにその芸術性もある意味、機能美のような部分が占めてしまう訳だから。ありていに言えば「別れの曲」を「別れの曲」としてそこに浸りきろうとすると中間部のピアニスティックな部分は気分の妨げになってしまうみたいな感じ。しかしハラシェビッチはショパンの曲全体の中でその辺の折り合いをうまくつけているように思う。もっとも難しい部分を、もっともさりげなく表現する、いろんなプロの世界での常套的手法、それを不言実行しているのがハラシェビッチだろうか。大衆受けはしないけれど。

サムソン・フランソアのショパン (EMI 5 74457 2)

 

 ショパンに求めるものについて、明快な回答をしてくれたのがこのサムソンと言うことになるのかもしれない。コンピュータの汎用化によって生活の中にディジタルなものが浸透し、商業主義の中で価値基準化されて、人間本来のロマン的なものが追いやられてきた傾向が今になって見えてきたように思う。その究極の一つがポリーニ弾くエチュードだったということになろうか。建物の壁面等で言えば、ミクロン単位で精巧に作製されたタイルを、これまた精密な機械加工技術で施工してできたものと、ランダムに割られた鉄平石をそれぞれの凹凸にあわせて専門職人が組み敷いたものと。市場において切り捨てられてきたのが後者、言ってみればブライロフスキーやこのサムソンのショパンかもしれない。それは音楽表現以前に、物理的音響商品価値のレベルから最新高忠実度録音の乱造の形でも意図的になされたのだろう。

 ポリーニのエチュードは確かに感心するし、一般にももてはやされたが、彼のワルツに対して評価はあまり聞かれない。私の場合は幸か不幸かエチュードに関しては、ハラシェビチの演奏がすでに刷り込まれていたことが、ポリーニを退けることになった。サムソンに魅入られたきっかけはワルツ。ワルツはショパンの中でも最も技巧的に容易で内容的にもノクターンと並んで平易とされているけれど、コンペティション向けに弾いたワルツは感心する綺麗さだけで素通りしてしまうから、逆にそれゆえにショパン音楽としての表現は難しいものになるのかもしれない。ワルツをやたら早く弾く人はそれがわかっているのだろう。「子犬のワルツ」に魂を揺さぶるものを求めるのが愚でなければの話だが。仏蘭西のエスプリが備わっている演奏家は、無意識に隠し味にできてしまうのかも知れないのか、サムソンのワルツにもエチュードにもポロネーズにもしっかり心に溜まるショパンが聴かれる。