音盤徒然 

 

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   CDを購入することはもう無かろうと思っていたのだけれどなんと ブルックナー交響曲集のピアノ連弾版が出たとのことで急遽購入の運びとなった。交響曲のピアノ編曲版はマーラーやベルリオーズ を楽しんでいたしベートーヴェンについてはカツァリスのCDでなじんできている。オケ版のブルックナー交響曲では木管のソロなんかに尺八を感じたりすることがあるのだけどこのピアノ版九番なんかでは筝曲を思わせるところがいくつかあったりして、ブルックナーもブラームスのように日本音楽を聴いていたのかもしれないなどと思ったりした。ブルックナー交響曲とベートーヴェンピアノソナタのメロディや曲の運びが交錯するときもあるしこれはそうした楽しさが倍加しているところもある。ピアノ編曲版をスケルトンなどと言ったりするけどこれはまったく別格の熱気あふれる豊かな音楽。ブルックナーと言うと版がどうの演奏者がどうの、と音楽そっちのけでくだらない論議がされていたこともあったけど、これはそういったゴタクとは無縁の純粋ブルックナーの世界。 (2020/3/30 )  
 

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   リスニングルームが極端にライブなオーディオ環境に変わってVHSビデオを数十年ぶりに聴きなおしてみた。CDと聴き比べてみるとかなりのCDが異常に音場が狭くハイ上がりであることが再認識された。大昔のVHSの方がとても音楽的に響く、と言うかライブ環境でのスピーカー音の反射はアナログ音源の方が自然に近いのかもしれない。昨今のディスクレコードの見直しもこのあたりが関係しているのだろうか。商業音楽の流れとしてCDはヘッドホンで聴くようにコントロールされているとか、電子情報取り扱いでのメモリサイズで制限されているのかもしれない。いずれにしてもかなりのCDは感動を再現することもなく断捨離で下取り処分の道をたどる。改めて良いなと感じたCDはフルトヴェングラーとベイヌムくらいでシュナーベルやバックハウスは廃棄処分。(2017/5/12)  
 

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   やはり音楽は生に限ると悟って、所有するCDを大部分下取りに出してしまった。聴いてみたいものは大部分YouTubeで試聴可能だし、知識として音楽を聴くとか、聞き比べをするということ自体にも興味を失ってもうこれらからは完全に卒業状態。だからと言う訳でも無いけれど、庄司紗矢香/カッシオーリのリサイタルに出かけた。最もチャーミングな天才ヴァイオリニストと天国の音色を奏でるカッシオーリでシューベルトやヤナーチェクの世界を十分に堪能できたひと時となった。それにしても庄司紗矢香さんのヴァイオリンは技術難度と言う概念がかけらも無い。どんな音楽でも呼吸するようにさらさら湧き出してくる。ベートーヴェンのスプリングソナタがこんなにあっさり奏されるのは初めて。ホロヴィッツの悲愴ソナタに聴き馴染んでいて、バックハウスを聴いたときの様。シュニトケの古風な組曲も素晴らしかったし、ヤナーチェクのソナタもとても良かった。(2012/11/4)  
 

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   病院で一切音楽から途絶されて静寂の中で一日中里山風景を眺めるだけの生活をしていて、帰宅してから何とは無しにYouTubeで仲道郁代さんの演奏を聴いてみた。なぜ彼女の演奏なのかわからないけれど、仲道さんの幻想即興曲が一番イマジネーションが豊かで性に合っているからなのかもしれない。音色と完璧さでは小山実稚恵さんがベストなのだけれど、表現では例によって大和撫子路線の安定感のある暖かい奏法で、ベートーヴェンなんかではまろやかながら内面からしっかり構築する高揚感のある魅力的な仲道さんがより身近だったからなのだろう。ショパン嬰ハ短調遺作ノクターンがあまりに即物的表現なので、楽譜を見直してみたらこの曲は最初にペダル印が少しあるだけで後はまったくペダルの指定が無い。遺作だから最初に例示して後は同じパターンの繰り返しを省略したのかもしれないし、プレイエルは残響が結構あってペダルは短く指示されているとかで、ブルックナーの交響曲の全休止と似たような理屈かなとも納得してみたりする。そう言えばショパンは音の濁りは禁物で、かつ唄うためには音を伸ばすのも重要などとの記述をどこかで見たような気もする。自分でもべたべた路線で弾いていて「この曲はお涙頂戴で大衆性を獲得しているのだからそれに沿わなきゃ」などと言い訳していたのだけれど、他の演奏家のべたべた過剰ルバートの演奏と比較したときに、やはり「ショパンは甘美に弾くと品が無くなる。」と言う通説に少し肯けるようにも思えてきた。ところがこの曲、ペダル無しで弾こうとするとえらく難しくなることに気がついた。指のしなやかさと運びがしっかりしていないとどうしようもない。(2012/3/31)  
 

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   先のヴィンテージ・スタインウェイ以来、急に楽器づいてしまってネットで「ピアノマニア」と言うスタインウェイ調律師の映画が年明けに封切られると知って、それまで待ちきれずアマゾンでDVDを入手してしまったり、たまたまファツィオリのHPを見ていて、伊藤恵さんの物凄いゴージャスなコンサート案内に遭遇してあわてて聴きに行ったり、さらにはヴィンテージ・スタインウェイを自由に触らせて頂ける機会が振ってわいたりと、大変な実りの秋になってしまった。DVDは独amazonしか無かったのですべてドイツ語版なのだが音と映像は素晴らしいもので、以前に入手していたエマールのフーガの技法CD録音のお話と言うことで、思いもかけずとても親近感が持てるものだった。伊藤恵さんのコンサートはスタインウェイD274、ベーゼンドルファー290、ファツィオリF278、と言う錚々たるフルコンサートグランド3台を舞台に並べて弾き分けると言う随喜物の催しで、それぞれ専門の調律師が完璧に整音した極上の音色を心ゆくまで楽しむことができた。演奏もさすがに見事で、ファツィオリの天国的な明るい豊かな音色はリストやシューマンに良く合っていたし、ベーゼンドルファーの奥底知れぬ深遠な音像はベートーヴェンの「悲愴ソナタ」や「エオリアンハープ」で他には無い、煌くような暖かいような魅力的な世界が形作られていた。結果としてスタインウェイが一番平凡な音色になってしまって、ショパンの作品の演奏自体も無難な型通りと言うか、ときめきや新鮮さは得られなかった。まあ「幻想即興曲」や「子犬のワルツ」のような通俗名曲を地方のコンサートで弾く場合はそうでなければいけないのかもしれない。ひょっとしてさすがの伊藤さんもファツィオリやベーゼンドルファーの音色に舞い上がってしまって、本来の音楽造りが手薄になってしまったのかもしれない。とりわけシューベルト即興曲集でその感が強かった。ピアノ演奏が朗読と同じように、語る技術や心の共感が基本ながら、音声の質も大事なのかもと思ったりした次第。(2011/11/25)  
 

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   久しぶりにポピュラーのCDをいくつか入手。オールド・ロックのRareEarthとファンクのEW&F、さらにそれらのきっかけとなったJ-popのキャンディーズ・ボックスの三種類。しかし30年以上昔のこうしたサウンドは流行り音楽の宿命で懐かしさが先立つのは仕方のないことではあるが、自分にはそれぞれ色褪せない存在感を保ち続けている。合わせてバーンスタインでモーツァルトの交響曲、ケンプのハンマークラヴィール等のソナタほか、同じ頃聴いていた曲をいくつか聴きなおしてみた。これらはさすがにまったく時の経過を感じさせず素晴らしいが自分の好みが確実に狭まっているのがわかる。結局自分にはベートーヴェンのソナタはW.ケンプとコヴァセヴィチが残った感じ。当時熱中したバックハウスは今となっては軽業師でしかないみたい。勿論比類の無い名人芸だけどホロヴィッツやグールドと同じで音楽に浸りきるには各々の個人芸が前に出過ぎてわずらわしい。演奏家の主張を聞くよりも音楽そのものに浸りたい今日此の頃。その意味ではポピュラー音楽は基本的にオリジナルで固まっているためか魅力が振れない。もっともキャンディーズの洋楽カヴァーは素敵なオリジナリティーがあって楽しいけど。いずれにしても音楽は生のものだから自分で演奏するのが最上なのだけれど、できない限りは才能に恵まれた人のコンサートに行くしかないわけだし。(2011/9/30)  
 

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   微かなハムっぽい雑音が出ていた20年以上前のプリメインアンプAU607αが遂に故障してしまった。修理には数万円かかるらしいので買替え調査してみたところ、今やオーディオ世界はフロアは\100万以上、書棚は\10万以下と両極化が確立してしまっていて中途半端な大衆化路線は団塊世代とともに消滅の風情。もちろん後者の範囲でパフォマンスの良いものはないかなと調べたところ、アンプにも倍数則の原理が適用できるようで\1万、\2万、\4万、\8万とレベル分けできて音質もそれに従っている様子。大衆化時代にはいくつもあったメーカーも次々撤退して、老舗は高級路線へ行ってしまって汎用タイプは限定され、比較選定にそれほど手間はかからず今回はA-933で手を打つことにした。PC経由のキャンディーズの歌声やTV音楽から始まって、CDでベルリンバッハのフーガの技法、カラヤン指揮のブルックナー九番、モーツアルトのピアノトリオなど聴き比べてみたところ、やはり昔のサンスイのほうには低音の遊び感とマッタリ感があって、今のデジタルアンプの紋切り型の過渡特性とは趣が違う。いずれにしてもバーチャルの世界で実音とは異なることは変わりなく、これでよしとすると言うか取捨選択の余地も無し。クマゼミの合唱をバックグラウンドノイズとしてゲルナー弾くショパンを聴きながら先日の入賞者披露演奏会を思い出してみた。ブラームスのパガニーニ変奏曲では音色と運指がとても綺麗な演奏だったし、リストのタランテラは丸っこい音色ながらリストの両極面を良く出していた。高校生のアパショナタ終楽章もとてもまっすぐで見事だったし大学生の第一楽章も良い雰囲気で第二楽章も聴きたかった。いずれもコンペ奏法をリラックスさせた感じだけれど、次の野谷先生は根っからの音楽表現奏法で、音場がまったく別の世界に変わった。ラフマニノフの前奏曲は実は前日、レッスンの合間に練習されているのを耳にして正に「諸行無常の響きあり」が創り上げられるのを目の当たりにしていた。当日の和音の豊かさと中間部のさざめき、次の「道化師」でも揺るぎの無い一体感の極致。「道化師」なんかはバラバラになりそうな音楽なのに演奏が凄いせいか本当にピエロが軽々と飛び跳ねてパッと消え去るよう。この曲はペダリングもとても難しいらしい。モスクワ音楽院で学んでクレムリンの鐘も聞かれているはずだからそれらも身に入っていて、芸術世界も技術と同じく三現主義が重要なのだろうか。先生は、小学低学年の子でも教え方で晩年のショパンの味を演奏できると言われていたが・・・。もちろん晩年のショパンの味を子供に教えることができるレッスン技術も半端ではないだろうけれど。(2011/8/6)  
 

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   ネルソン・ゲルナーの音色に魅せられてCDをサーチしていたらReal Chopinと言うセットに遭遇してしまった。すべてエラールとプレイエルで録音されているとのことで小躍りして探し回った挙句、曰く付きだが最廉価だった米国アマゾンから購入。ショパン存命当時の古いピアノやらショパンの孫弟子の古い録音やらで、古色蒼然たる秘境の古寺巡礼みたいなCD集で、当世標準のスタインウェイのフルコンサートグランドによる極彩色とはまるで別世界。しかしショパンの落ち着く先は、やはりセピア色の憂鬱を表現する粋な軽やかさが本命なのかもしれない。確かにこのCD集を聴いていると妙に気持ちが丸みを帯びて、新幹線から在来単線を走るSL列車に乗り換えたような気分になる。バロック風のでこぼこした音量変化を凌駕して音質のストレートな滑らかさも魅力。ダン・タイソンのノクターンは折り紙付だが、語りに徹した正に水を得た魚で機械音の頂点へ行ってしまった現代ピアノでは出せない趣。それとこの音色で納得できたことは、これまでショパンの表現でスケルツォや「革命」などのヒステリック過ぎると感じていた部分がこれらのピアノでは妥当に聴こえることで、ショパン自身は現代ピアノで表現できる強烈さを意図していたのかもしれないけれど、ただでさえ刺激音だらけで、またその効果を競い過ぎている様な風潮の中では、こうした音色のほうが芯から迫力が湧き出るよう。エチュードなどもこのピアノでは機械的羅列にはなり得ない。  
 

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   ツィマーマン以来、久しぶりにショパンの第一協奏曲に聴き入ってしまった。実に繊細で柔軟ながらもくっきりした表情で甘すぎず、かと言って健康第一路線でもない。ピアニストはネルソン・ゲルナーで、音色からは女流とばっかり思っていてびっくり。アルゼンチンと聞いてさらにびっくり、アルゲリッチとは正反対。オーケストラがまた実にふんわりと広く土台から包み込むような表現でピアノを支えている。ショパンの協奏曲は結局オペラのガラコンサートと言っても良いもので、ピアノがソリストとして様々な場面のアリアを歌っていてオケはボックスに入って伴奏するのみで良い。他の作曲家の協奏曲のように舞台に上がって競奏しようとすることはそぐわない。しかしこのオケはポーランドなのだからかどうか知らないけれど、ピットの中で出過ぎずにキッチリ演奏している感じで、これだとピアノも安心して自由に歌える。ゲルナーは実に音色が豊かで最近では、ピアノの詩人にもっとも相応しい原点復帰の演奏家ではなかろうか。2004年来日時のラフマニノフも聴いてみたが実に豊潤でかつ精緻な世界。  
 

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   最近、ひょんなことから郎朗に興味を持っていくつか聴いてみた。このところ万年筆に嵌ってモンブランのNo.24の素晴らしい書き味に惚れ惚れしていて、1960年代の標準品がこれほどならば最新のものは如何ばかりかとNo.145、通称「ショパン」に白羽の矢を立てて入手の機会をうかがっていた所、許容範囲の価格品を見つけたので我が物とした次第。そこに付属していたショパンCDがラン・ランの演奏だった訳で、以前に聴いた彼の印象は、角の無い丸い明るい音色を持っていて名前のとおり明朗爽快能天気で、深刻な内容の音楽は不似合いで英雄ポロネーズやチャイコフスキーの協奏曲あたりがうってつけかなと言う感じだった。調べてみるとグラフマンに師事し、ホロヴィッツの系統を志向しているとか、最近は野だめのシャドウピアニストを引き受けていて、ビジネスマインドとショウマンシップを重視した、なかなか隅に置けない青年ピアニスト。しかし今回聴いてみて、イベリアの表現に恐れ入って見直してしまった。ふっと潮の香りが漂ったり雑踏を映し出したりアルベニスの深みをいとも簡単に音にして見せているあたりがなかなかの腕前。またショパンの第三ソナタは各楽章をここまで素直に速度表示を遵守しながら、描く世界の柔軟で幅広いことも驚き。終楽章の彼の幅広い表現からはブルックナーの第八交響曲を連想してしまった。  
 

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   立春は過ぎたものの寒波の到来で梅の蕾も縮こまってしまった。1992年にNHK-BSで放映された「大バッハの生涯」のVHS録画を時々見ながら、いつかDVDにならないものかと検索していたら2009年からドイツアマゾンで販売されていることが判明して、ドイツ語サイト購入方法を参照しながら一も二も無く入手。送料の方が高いながら画質も音質も鮮やかになった6時間あまりのこの貴重な映画が合計¥3,000余りで入手できるのは天からの贈り物とでも言う他は無い。とにかく大バッハ礼賛一辺倒のドラマなのだけれど、場面のリアルなことや演奏の魅力が半端ではなく、あたかもバッハが活躍していた現場に居合わせたかのよう。字幕も無いのでドイツ語会話を勉強しなおそうかと言う気にさえなりながら取り敢えず第1話を鑑賞していて幻想曲ハ短調BWV906が出てきて、いくつか聴き比べているうちにニコライエヴァの溜め息ものの超名演に捉ってしまった。ピアノの特性をフルに生かしてこの曲の深さを余すことなく伝えている彼女の演奏を聴くと、ほとんどのチェンバリストが馬車馬みたいに弾き飛ばしているのがまるでこの曲を冒涜しているかのごとく聞こえてくる。幻想即興曲のバックハウスの演奏もそうだったが、指の速さをひけらかすための競技場のように名曲が扱われていると、いくら仕事と言ってもそこまで愚昧な大衆に迎合する必要はあるまいと思う。とは言えバッハの時代でさえマルシャンと演奏対決などが出てきている訳だから、演奏家が食べていくためには聴衆がブラボーを唱えるものを提供する中での必要悪な部分なのかもしれない。バッハが時の権力者と戦っているうちに、はやり廃りの音楽の中で孤立して生活もままならなくなっていく映画を見ているとモーツァルトやバルトークの晩年に想いが至る。あらためてマタイ受難曲を聴きなおしたり、ゴールドベルク変奏曲の終曲を練習してみたり。 amazon.co.jp以外にamazon.deで買い物をしてみて、必然的にamazon.comやamazon.co.ukなどもいろいろとサーチしてみたところ、以前から見たかった「ブルックナーの生涯」のVHSが日本では中古しかなかったものが米アマゾンでは新品在庫が廉価で出ているのを見つけた。こちらは英語なので尻尾を振って即ゲットしてしまった。新品の最後の品とあったが、当然ながらやはり店晒しの長期在庫だったようで、どこかで乱雑に扱われたのか中のリールの淵が割れて巻き戻しの途中で停止、仕方が無いのでケースを分解して件の箇所を接着修理する羽目になってしまった。これも大好きなブルックナーがらみの品であれば手数がかかる苦労も楽しみの時に変わる。収録内容のほうは予想通り超弩級で、のっけからヨッフムの第九番で開始される素晴らしさに、これこそがブルックナー芸術と嬉しさで震えが来てしまう。ケンペ、クーベリックなどもあわせて、やはり本物の芸術家が創る音楽は実に心にしみて素晴らしい。ついでながらブルックナーファンサイトをサーチしてみると、どうやらこれもDVD化される様子で今年は2B回帰の年になりそう。(2011/2/11)  
 

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   新春早々、ケフェレックの記事にトラップされてしまった。「電化製品の無い環境で育ち、自分の時間をたくさん持つことが出来た。」と、普通にはそれは逆じゃないのかなと思う中で、炊事、掃除、洗濯を機械にやらせて自由時間が持てているかというと、ういた時間はTV,ラジオ、PCなどの仮想情報に引き回される時間に食われているだけであることに気がついて、はっとしてみたり。彼女は言う、「芸術は技術ではないから。判断するべきものでもない。結果は必ずしも真実ではない。コンクールがメディアと組み、結果を求めるための安易な指針になり始めていることに危機感を抱いている。」と。音楽コンクールがオリンピックになり下がっていると感じているところに妙に符合した。また彼女は「言葉で言いたくないことを伝える試行錯誤が芸術の歴史。静寂を表現するのが音楽の本質であり、そこには頂点も栄光もない。」と続ける。アブデーエワの優勝は、音楽販売がバリバリ系から癒し系に変わってきた証かなと思ったりしていた中で合点が行く内容に意を強くした次第。彼女のショパンを聴くと、あちこち自由に遊び回っているようで、楽譜が単なる台本に過ぎないことをしっかり認識させてくれる。同じ台本でも100人の俳優が演じれば百通りの演技で迫ってきて、そこに金メダルも銅メダルもあるはずも無い。昨日はレニングラード・バレーで「ジゼル」を鑑賞した。何十年ぶりかのジゼルで、第一幕はバレーよりパントマイム的部分が多めだったけれど第二幕のウィリーの群舞は相変わらず息を呑む美しさ。確かに言葉ではいえない美の極致を伝えている素晴らしい時空間のひととき。ケフェレックの弾く舟歌を聴いているとこれらの場面がよみがえって来た。(2011/1/16)  
 

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   八月から急に十月になったような今日この頃、グルダ演奏に惚れ直しベートーヴェンのソナタなどを聴いているうちに病が昂じてショパン集CDを入手してしまった。1930年生まれでショパン弾きのハラシェヴィチより2歳ばかりお兄さん。このCDも二十歳ごろのものでモノラル録音で音は古いけれど演奏は例によって間の取り方が魅力的で、端整が売り物のハラシェヴィチには無い、”グルダ流ウインドウショッピング風”演奏が心地よい。これはアシュケナージのように、完璧な音色だけれど甘くて飽きがくるショパンとは相容れない世界かもしれない。たまたま幻想即興曲の原点の演奏を追い求めてYouTubeを聴き回っていた時に接したホロヴィッツのあの魔性の宿った演奏にも似て、後に引っかかるような印象に残る。なによりも「愛の墓碑銘」と銘打った音楽パフォマンスのオープニングとエンディングに、お気に入りの前奏曲第20番を持ってきている所に震えてしまった。ついでにその昔、賛否両論の嵐となった「グルダ・ノンストップ」も聴いてみた。こちらはジャンルを超越して、ただひたすら耽美の世界なのだがショパンの舟歌の立体的な表現に目が覚める思い。この曲は生真面目に弾いているだけだと、ただダラダラ続くお経みたいなものになってしまうのを彼の即興性というか、おっちょこちょいと言うか、その表情がこの曲をとても柔軟なものにしている。そしてプログラムの最後はしっかりウィーンの香りを満たして終えるこのアルバムもなかなか他では得られない内容でウィーンの三羽烏の面目躍如と言える。  
 

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   ネットでCDサーチをしていたら1枚2万円なりのブルックナーものがいくつが出てきた。指揮者はズヴェーデンと言うオランダ人でかなり音響に凝ったCD作りをしているようで、その点ではブルックナーにうってつけのようではある。CDもここまで格差社会向けになったかとあきれつつ、その好事家盤には手が出ないので標準廉価盤の9番を入手して聴いてみた。それでも流石に音は上質で演奏もセル/クリーブランド盤の線上にあるようで、さらに全体に暖かく膨らませたような表現は実に素直でその芳醇な世界にはとても好感が持てた。これとは別に入手したDVDで25年から30年以上前の録画ではあるがクーベリック/バイエルンで6番、ヨッフム/ベルリン放送で9番、カラヤン/ウィーンフィルの8番も合わせて鑑賞して、久しぶりに巨匠達の古き良き指揮振りを堪能させてもらった。やはりヨッフムの9番は断然素晴らしく、自家薬籠中のリズム運びは見事な流れでまさに天下一品。またモノラルの貧弱な音ながらも描く世界はハッタリの無い引締まったクーベリックはなかなか説得力があって、味のあるブルックナー世界。これらに比べるとカラヤンの演奏はやはり何かブルックナー魂が希薄な感は否めない。要するにカラヤンは個々の音の響きに固執するあまり、大河のようなブルックナー音楽の流れを損なっているようで、ベートーヴェンで見せるあのスピーディーな構築術がブルックナーには通用していない。このあたりは一つ一つの音を積み重ねて行くだけで物語ができてしまうベートーヴェンと、意識して音楽の流れを組み上げた上で響きを制御していく必要のあるブルックナーとの違いかもしれない。あと随所にある、さりげないソロの一節への重みのかけ方による表現法も両者の作品の相違点でもあるし。  
 

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   TVで辻井伸行さんのコンコールドキュメントを見て早速DVDを入手。視力障害の鍵盤奏者ではH.ヴァルハと言うことで彼のゴルトベルク変奏曲も鑑賞。辻井さんの演奏は以前に聴いたときに、休符の絶妙な表現に驚いたのだけれど、今回ショパンのエチュードを聴いてみて、ありきたりの「ショパン芸術」風ではなくしっかりきっちり達者な演奏と言う感じで、誠実さに溢れているとの印象を強く持った。ただベートーヴェンのハンマークラヴィアなんかは、稀代の難曲を弾きこなしましたと言う実力提示のところに留まっていて、あのアダージョの奈落の世界はまだ無理があるのはこれはこれで当然のこと。成長期に視力を失ったヴァルヒャと違って、彼の場合は変な諦念のようなものが無いところで明るくて伸びやかな音の世界を繰り広げているからなのだろうか。このドキュメントDVDでの白眉はシューマンのピアノ五重奏と言える。眼が見えないために合奏の合わせのタイミングを含め、お互いが音色や音響的雰囲気のなかで密接に連携をとりあってすばらしい音楽になっている。特に終楽章のフガートなんかは凄い境地に至っていて、これは聴きモノ。面白かったのは他の演奏者達の音色と顔の表情の違いで、ショパンのコンチェルトの叙情楽章などでの自己陶酔の顔面表情とは裏腹に、弾いている音色は粗野なものだったりするボジャーノフと、外観表情は変わらなくとも音色の表情が千変万化している辻井さんの演奏はとても興味深いものがある。先輩ピアニストから学んでいく過程で視覚的な要素も否応なしにかぶってくるものなのかと改めて認識し、立ち振る舞いや顔つきが演奏活動で無視できない要素になっていることも再確認して、ある意味「眼から鱗」でもあった。  
 

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   ディスプレイ画面が大きく綺麗になって、DVDを3本立てで鑑賞。1944年の「楽聖ショパン」、1969年ヴィスコンティの「地獄に堕ちた勇者ども」、そして1995年の「ブルックナーの決断」。楽聖ショパンはアメリカの古きよき荒唐無稽な娯楽映画で、時代考証も思想性も無い代物ではあるが全編ショパンのメロディで彩られ、またショパン役のコーネル・ワイルドが若き日のアダム・ハラシェビチにちょっと似ているところもあって面白く、なかなか楽しめる作品。ただ音楽家はリスト、パガニーニだけでシューマンも登場しないとか、引用曲も要を英雄ポロネーズとして、あとはノクターン、ワルツなどの有名どころだけを取り留めなく流すばかりの軽薄さがいかにも残念。次のヴィスコンティはうって変わって、ナチス勃興期の凄惨かつ退廃的で、しかしながらゴージャスな彼ならではの名作。ユダヤ人をシンボライズしたと言う少女のシーンでブルックナー第八番の一節が引用されているところや、ブラスでショパンの葬送ソナタの中間部も聴かれることも魅力のひとつ。5年前にヴィスコンティ映画祭で、第七交響曲のオペラ化と言ってもおかしくない「夏の嵐」を鑑賞して以来、完全に彼の虜になってしまっていることもあって、非常に集中させられてしまった。様々な象徴化にはついていけてないし、歴史背景の基礎知識も足りていないながら、いずれドイツ三部作の残りもすべてを鑑賞しなければとの気も新たにした次第。そして最後が「ブルックナーの決断」で、これは架空ドキュメンタリーとでも言うか、手紙のやり取りを読み上げる形で、モノクロの映像は湯治場で冷泉治療に専念するブルックナーを延々と流しつつ、ミサ曲、第九交響曲、ピアノ曲「想い出」等が綾織りになって音の背景を形作っている。あんな治療を生真面目に繰り返し行っていたから、あんな音楽が出来上がったのかと言ってみたくなったりするが、ヨーロッパ大陸特有の古からの不気味さみたいなものも伝わってきて、彼の音楽の一断面を覗けたような気もする。ちょっと重たい気分になったので「チェリビダッケの庭」を取り出して指揮者の魔術と豊穣なブルックナー浴を楽しんだ。  
 

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   浅田真央選手の滑りを見ていて「仮面舞踏会」が無性に聴きたくなり入手。チェクナヴォリアン指揮、アルメニアフィルの演奏CD。ハチャトリアンの組曲が主体の選集もので彼の作品の主だったところをまとめて聴けるのも楽しい。先日のFMの東京フィルによる見事なシベリウス交響曲第二番の余韻が留まる中ではちょっと華々しいものの、とてもロマンティックで煌びやかな世界で異民族の美意識を鑑賞することができた。このアルメニアフィルの管楽器ソロの表現はとてもしっとりしているし、全体に節度のあるとても優れた演奏。ドイツやアメリカの楽団の一般的な演奏では、ハチャトリアン像を歪曲して喧騒を主体にし過ぎているような感さえする。異文化に対しては相違するところを強調してしまうのは万人共通なのではあるけれど。今度は外山雄三のラプソディが無性に聴きたくなってしまった。まずいスパイラルに入りそう。  
 

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   最近、シューベルトのソナタを見直している折も折、田部京子のD960の2楽章の一節を耳にして、居ても立ってもいられず彼女のCDとついでにアンスネスの1枚を入手。日本人演奏家のCDは価格が高いけれど、まず録音が非常に優秀に出来ている。それで演奏が素晴らしいと、これはちょっと恐ろしい程の音楽体験が居ながらにして得られることになる。CD鑑賞の場合はコンサートと違ってどうしても意識の集中が甘くなってしまう。  
 

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   ハラシェビッチがショパンコンクールで優勝した年に、日本人で初めて入賞したと言う田中希代子の演奏に興味をいだき、3枚入手。一昨年が没後10年と言うことでCDがいくつか出ていた。ショパンの第1協奏曲にしてもベートーヴェンの「皇帝」にしても、とにかく新進気鋭、まっすぐ伸びた青竹の元気印の印象が強く残る豪快な演奏。しかしながら、最も気に入ってしまったのがサン・サーンスの第4協奏曲。がっしりしているようでいて柔軟華奢な彩りの入ったちょっと不思議な雰囲気のピアノコンチェルトで、折をみては名演を探していたのだけれど、ここでこのような名盤に巡り会うとは思わなかった。36歳の彼女が膠原病を発症し、事実上の白鳥の歌となってしまったものかもしれず、そうした背景を知って、半端な気分では聴けないCDになってしまった。ソロではショパンの舟歌、ドビュッシーの花火も元気印で、そんな中でモーツァルトのK331は、とても端正ながら第1楽章なんかはソナタの一部と言うより変奏曲の側面を押し出して起伏に富んだキラキラしたとても魅力的な名演奏になっている。他にベートーヴェンのOp111もCDがでているけれど、この曲は若手が虚栄に駆られたりお門違いのロマンティシズムに打たれて弾いてみても所詮、人生経験不足でオッパッピーになるのが関の山、やはり幾山河を超え渡って60歳あたりを過ぎたピアニストが本当の味を出せるソナタと決めているだけに、彼女のCDはちょっと怖くて手が出ていない。いずれ録音時期を確かめて、ベートーヴェンの諦観を聴くと言うよりか、この粒立ちの鮮やかな田中希代子を聴くことになるかもしれない。  
 

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   20年遅れの「ホルショフスキ」マイブーム。イギリス組曲とパルティータの各々2番と5番。とにかくまろやか。組曲ではバックハウスのような繊細軽妙の極致と、テューレックの深みのあるモノトーンの間を行くようで、自制の利いたロマンティックなバッハ。7歳のときにはバッハの作品を暗譜で自在に弾きこなし、レシェティツキの前でロ短調フランス組曲を弾いて、弟子入りしたとある。彼のバッハ演奏こそがショパンに通ずるポーランド・ルーツなのだろうか。カザルスホールで弾いて、カザルスに聴かせたかったと感想を述べたプログラムのひとつがイギリス組曲第五番。選曲理由はプレリュードの中に無伴奏チェロ組曲のような曲想があるからなのかと思ったら、1950年にカザルスのプラード音楽祭で演奏して最初に録音された曲だったとのこと。それだけに深い思いがあるのか、カザルスホールでの演奏は、冒頭から虚空に吸い込まれるような超越した音楽。この曲のプレリュードには他を寄せ付けない孤高の趣があり、パスピエの無常の淋しさと合わせて何か彼の純粋な思いがそのままピアノの響きに昇華されているよう。彼のバッハは構えたり、決めを作ったりしない率直な流れのみで、外連味の無い、とは正にこうした演奏のことを言うのだなと確信される。これは確かに、刺激をエサに展開されたコピー音楽の商業主義にはまったく不適なものだったのだろう。一時期のグールドのようなグロテスクなバッハが売れた市場では見向きもされなかったのは大いにうなづける。青の時代までのピカソが好きだと言うのと同類の美意識の線上ではあるけれど。彼のモーツァルトは慈愛に満ち、ショパンはダイナミックな味が前に出たりする中で、バッハは一貫して真摯一辺倒。一巻だけが録音された平均律は、リヒテル盤、テューレック盤と並んでピアノで演奏する美の極致に挙げられる。  
 

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   最近の音楽ショップのCD棚を見ているとバブル時期の、作って宣伝すれば何でも売れたパターンはDVDに移り、媒体ライフとしても終焉を迎えつつあるCD市場では、テープカセットの末期のように万人向けする当り障りの無いものとブーム品の間で、当時は忘れられていた良質な演奏のものが復活している確率が高いように思う。マリア・ティーポのバッハ集と、1982年ヨッフム/ミュンヘンフィル実況盤のブルックナー第九番を入手。ティーポ女史はテューレックさんと似て、美貌のバッハ弾きあるいはスカルラッティ弾きから、演奏を止めて教職へ移ったりとかと活躍されているイタリアの往年の名ピアニスト。インタネット検索すると2220件ヒットし、かたやテューレック(テュレック)で480件なのだが、ティーポについては名前演奏も出版物も知らなかった。ただバッハのみCD5枚も入れているわけだから、きっとバッハ弾きなのだろうと想像しただけ。クレメンティやスカルラッティも十八番とされているので、セイガーと似た音楽を指向しているのかもしれない。このパルティータは豊かな音色でとても優美にしっとりとしてかつしっかりとした世界を創り上げている。テューレックやセイガーのようなモノトーン派の魔力には乏しいものの、とても端整で美しい多色刷り一級品パルティータ。ブゾーニの編曲ものではトッカータとフーガなどはオルガンの厚みをピアノの音の豊かさで表現するなどして、これもまたとても魅力的な世界を作っている。このあたりはバッハの音楽をグランドピアノで表現する素晴らしさが表向きに出てきている。逆にピアノの音色をモノトーンを基調に磨き上げることによって魅力が増すのがパルティータと決め込んできていたわけだけれど。ゴールドベルク変奏曲はその中間と言うか、ただチェンバロの世界をも醸し出そうとする試みもわかるけれど、モノトーンで通しても良いようにも思う。興味深かったのはピアノ版シャコンヌ。この曲は原曲とは別世界の非常に特殊な音楽で、ベートーヴェンの後期のソナタ等もそうなのだけれど、いくら達者なテクニックで良質な音のピアノを使っても、深く語るべきものを意図せずに弾いている限り、聴いていて感心する演奏に留まってしまう。音楽は「クールな頭とホットなハート」で演奏するものと言う名言があるけれど、それ以外に苦節を超越した人生経験みたいなものが、このシャコンヌではピアニスト自身の語りとして、理性や感情をぎりぎりまで追い詰めて演奏することによって、初めて鬼気迫る真の形相が姿をあらわすような気がする。理性だけでミューズの神を呼び出せるのかどうかは知らないけれど技術的難度を超え、何か全身全霊の集中した自己表現が達成されたときのみ、聴衆に感心を超え、感激、感動を超え、感嘆、感銘を超え、究極の感涙のみの世界が開かれるような、そういう演奏になるように思う。それが名演と言ってしまえばそれまでなのだけれど、私にとってシャコンヌは聴き比べは無意味、だだシャコンヌ体験を有するか、また機会にめぐり合えるのか否かだけ。全身全霊の演奏を生で聴けるか、媒体で聴けるか、生であっても型通りの演奏会なのか。常にオリジナルとの比較で不利な価値付けをされがちな編曲世界だけれど、このシャコンヌはオリジナルの弦一挺で創り上げられるのとはまったく違うゴージャスな別世界でありながら、奥底知れぬものが迫ってくる点は同じ。  
 

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   TVのピアノレッスンで、ミシェル・ベロフはやはり凄い達人とあらためて感じ入ってしまう。ピアノ演奏の「メリハリ」には「精度」のレベルが密接にかかわっているのだけれど、ピアノフォルテの名称さながらに強弱のみならず、音の様々な対比的要素がピアノ音楽の表情形成に要となっていることが良くわかる。たまたま生徒さんがおっとりタイプでベロフとは対蹠的なのだからかもしれないけれどしかし、やはり音楽の活きにメリハリは欠かせない。最近聴き直したハイドシェック弾くベートーヴェンのピアノソナタを思い出してしまった。これまでこの定番はバックハウスで、開始から最後の和音まで終始一貫、流暢に流れるシームレスな曲構成が当然のように刷り込まれていてグールドやグルダにしてもその基本的構成は同様なのだけれど、ハイドシェックの場合はフレーズごとと言うか一小節ごとに起承転結させたような構造の集合体で一曲が形成されているような感じを受ける。メリハリを究極へ持っていくとこんな音楽つくりになるのかもしれない。ショパンの前奏曲Op28を一曲として聴くか24曲として聴くかの世界に近いものがある。作曲する側も音楽が時系列芸術である以上、溢れ出てくるものを時間軸に配列しなければならず、当然、始めと終わりがあってその間をなんらかの起承転結で埋めることになる。それがたとえ同じ音の繰り返しであったとしても演奏者を含め、聴き手に価値を植え付ける上で不可欠だし、集中度を持続させるための有用な工程なのかもしれない。メロディーを映画とすると、和音は絵画と言うことになるのかもしれないが、このオムニバスのようなハイドシェックのベートーヴェンの魅力はその音色の美しさと相まって当分、耳から離れることは無さそう。  
 

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   ン十年ぶりにようやくハラシェビッチ弾くショパンのエチュードが再リリースされた。すべて彼の演奏のショパン全集CD10枚セットで\3500ちょっとと言う価格は超お買い得。アラウが1956年に録音したエチュードも合わせて購入したけれどもこちらはまったく駄目。アラウらしさが微塵も無い。それに対してハラシェビッチは本当に美しい演奏。今でこそショパンのエチュードの名録音は邦人、外人を問わず溢れかえっているが当時はエチュードのレコードはコルトーくらいで、ステレオ盤はこのハラシェビッチが最初だったはず。その中でブーニン盤が私的にはベストエチュードで来ているのだけれど、ハラシェビッチのまろやかでケンの無い表現は、大方のCD演奏がコンペモードで力が入っているものや結果的にひけらかしが目的化してしまったようなものだけにこのハラシェビッチの、エチュードを手段としてショパンの世界を描ききっている演奏は正にしっとりと癒される。ついでに全集の中から、練習中の「別れのポロネーズ」を聴いてみたところ、これまた虜になってしまった。この曲はメロディが綾錦と言った風情で統一感がとりにくいのだけれど、ハラシェビッチは実に自然に纏め上げていく。冒頭の三連符が連なるメロディラインに妙なアクセントをつけている演奏を聴き慣れていただけに、気品ある彼の表現は実に新鮮。これだったのか、と言う感じ。ショパン全集はアシュケナージと言うのが定番だけれど、どれだけ繰り返し聴けるかと言うとこのハラシェビッチ盤になるのじゃないだろうか。ショパンの誕生日の翌日に、とても良い買い物ができた。  
 

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   梅の木の魅力は、梅酒の実の収穫でもなく、花そのものでもなく、冬枯れのこの時期にしっかりふくらんだ数多くの蕾で枝枝を飾って、春を予感させるところかもしれない。最近はコピーサウンドには手が伸びなくなっていたのだけれど、店頭でハイドシェックのベートーヴェン・ピアノソナタ全集を見つけてしまった。10年前に発売されて、去年再販されているらしい。ハイドシェックと言うと宇和島騒動?が有名みたいで、怖いもの見たさも手伝って入手。映画「敬愛なるベートーヴェン」を観てから、何かと二極対立的なものの見方に支配されていて、音と沈黙、緩と急、短と長、からはじまって、歌と踊り、教会と盛り場と言う西欧音楽の原点にまで立ち至ってしまう。古典作曲家はその間で自らを追及する場として、理が先立てばフーガを、情が優先すればバリエーション(ファンタジー)をと、分かたれたようだ。ベートーヴェンは交響曲でファンタジーを、弦楽でフーガを、そしてピアノソナタでバリエーションを選択して最後を迎えたとでも言うべきか。彼は、ある意味で自身が神だったのか、キリスト教会音楽の色合いは実に薄い。葬送曲の沈痛なメロディーやアリアは随所にあるけれど。ピアノソナタ全集の中では、舞曲、葬送曲、アリア、フーガ、バリエーション等が様々に、基本対立主題と絡み合って各曲が築き上げられ見事な山脈を形成している。ハイドシェックの演奏は、ソナタの演奏に時折見かける、情に走るとか、勢いに任せると言う部分が皆無。フレーズ毎に間を置くと言うか、一単位一単位大切に磨き上げて、それらが集合して音楽を形作っているような不思議なソナタを聴かせる。リズムも畳み掛ける連続性は無く、ルバートでクッションしているよう。そう言えば彼はコルトーの弟子だった。それに音色が実に美しい。一貫して流麗に流れるのでもなく、構造に忠実な堅固さを誇るのでもなく、絢爛ではあるけれど、ふっと抜いた、瞬間癒し的な味わいを効かせたこの表現は実に新鮮で魅力的。フランスだからエスプリなどと言うステレオタイプなものとは違う、白ネクタイで皺一つ無い正装なのだけれど、首周りはソフトに緩く、肩に引きつりなども無いゆったりした着こなし、そんなソナタ全集。各曲の緩抒楽章が絶品。  
 

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   パルティータを中心としたアラウのバッハ曲集CDを購入。パルティータの4番と6番が入っていない。ゴールドベルク変奏曲とインベンションが6曲、そして半音階的幻想曲とフーガ。パルティータではアラウ御大ならではの、たっぷりとした悠揚せまらぬ優雅な世界造りは予想通り。興味深かったのはインヴェンションとシンフォニア。もともと教則本的な内容のためか、型通りのきっちりした演奏が多く、時々名人芸を注入した演奏が散見するCDが並ぶのはモーツアルトのソナタと似ている。アラウも同様に教科書的に演奏しているのだろうなあと思っていたら見事に予想を裏切られた格好。結構ロマンティックで、バックハウス弾く組曲のような瀟洒な雰囲気を少し漂わせて、それぞれが綺麗な小宇宙を築いており、もし全30曲を続けて聴けたら、ゴールドベルクと同じくらいの充実感が得られるような中身の濃さ。40歳頃の録音と言うことなので、まだ「大家」になる前?、で円熟期とはいえ第二次世界大戦がかぶっている時代の演奏。「半音階的・・」も同じ年の録音で、こちらは彼のそのスタイルが曲想に丁度おあつらえ向きでゴージャスな幻想曲。フーガの方も、よくこれ程までにまろやかなフーガを構築できるものと聴き惚れてしまう。古い録音で音質がやや乏しいけれどピアノならではの柔らかくふくらむ世界。そして興味深いのは1942年録音のゴールドベルク変奏曲で、時期がテュレックよりも前で、ランドフスカに次ぐ二番目の録音とか。彼の演奏は「正統派」とか「正攻法」とか言う言葉がまず浮かんでくるような信頼感を裏切らない表現でありながらロマン的で、ショパンが演奏するバッハはこんな感じかなとも思ってしまう処もある。繰り返し部分のところは音量を落としたりテンポを落としたり、内声部の旋律線を垣間見せたりして幅と奥行きを広げていて、エキセントリックと全く対極にありながら、けっこう色々な味付けを施している。カークパトリック監修の楽譜の解説で、「この曲では、斬新な味付けや新鮮な表現などを施して人気を博しても、繰返しているうちにマンネリ化してきて、それらをより強調しているうちに見苦しいものとなるだけである。」みたいなことが書いてあった。アラウの演奏を聴いてアリアと終曲を練習してみる気になった。シンフォニアではないところが面白い。  
 

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 ポリーニの悲愴を聴いた。ベートーヴェンのソナタは古典派で、墨絵の如き演奏でなければならぬ、と決め込んでいる向きからはブーイングかもしれない。明快な水彩画のようで、綺麗な音色と相まって緩急豊かに熱く青春を語っているような表現。若い頃に録音した後期三部作はショパンのエチュードのノリで弾き込んでいたみたいで違和感が大きかったけれど今回の初期の作品の録音は、とても艶やかで良いものになっている。購入したCDはバックハウスの1950年代のショパン集。ソナタ2番と練習曲集、バラード1番。これがまた音も良く、素晴らしく端正なショパン演奏。ポリーニ弾くベートーヴェンのソナタと、バックハウス弾くショパンのソナタと練習曲。偶然とは言え、攻守ところを変えたような夢の組み合わせにひと時が楽しめた。もともと若き日のバックハウスのショパン練習曲全集は、ポリー二版のように時代の標準だったそうで、「木枯らし」の誇張の全く無い繊細流麗な指さばきに、年齢を引き算して想いをはせることも出来た。「ショパンのエチュードは競技会の道具ではなく、豊かなピアノ語りなのだよ」と諭すような演奏。ベートーヴェンのソナタをあれだけ流麗に弾きながら、葬送ソナタでは対称的な位にゴツゴツしているものの、マーチの中間部をこれほど簡素に弾いて、深みのあるはかなさを描いているのも流石。最もロマンティックに洒落っ気たっぷりに弾いているのがワルツOp34-1で、ショパンのワルツをきっちり聴かせるピアニストはやはり凄いとしか言い様が無い。 他には、ワイセンベルク/スクロバチェフスキでショパンのコンチェルト。このところショパンの第一コンチェルトの美しさに惹かれなおして、バラキレフ編曲のロマンツェを練習しようとしたり、原智恵子のCDを聴き直したりして、音色のダイナミックなものが欲しくなり購入した次第。この演奏はオーケストラがやや粗野な表現ながらピアノのほうは期待に違わぬ骨太で且つ充実した内容。 もう一枚は、リステンパルト/ザールによる名盤のフーガの技法。ヴィンシャーマンのオーボエ、ラリューのフルート、ラクロアとドレフュスのクラブサンを擁するアンサンブルは、学生の頃発売されて、たおやかでありながら濃厚精緻な世界に聴き惚れたなつかしのCD再版。多彩な楽器を用いながらモノトーンの抽象世界をしっかり保持して、創造性を掻き立てる妨げとしない見事さは演奏手法なのか編曲の技なのか。

 
 

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 雨森朝子のヴァイオリン、武沢洋のピアノ伴奏のCD「愛のあいさつ」を聴いた。表題の曲以外はスメタナ、ストラヴィンスキー、ブロッホ、スークと言った、ちょっと通好み?の選曲。特徴的なのはラテン的なはじけ方と日本情緒的泣かせ節の一見ミスマッチ風な味付け。骨太なヴァイオリンに対してピアノ伴奏が滋味溢れる端正な下支えをしていて、なかなかバランスよくこれが上に挙げた作曲家達の作品、スメタナの「我が故郷より」、スークの「四つの小品」に絶妙な味を添えているように思う。前日のFMリサイタルで島根恵のヴァイオリンでタイス、サラサーテを聴いたけれど、こちらはソフトな音色で立体感のある大きく暖かく包み込まれるような素晴らしい音楽だった。ツィゴイナーワイゼンをこれほどヴォリュームのある豊潤な表現で聴いたのは初めてだった。どちらの演奏もなにか日本の伝統の香りのようなものが息づいていて快い興奮で神経の癒される充足できるひと時が味わえた週末となった。

 

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 スヴェトラノフの第八番は、スクロヴァチェフスキ/ザールでのコンサートに行った後で聴きなおしてみたわけだけど、CDと実演の次元の違いを超えて、音楽創りへの共通した集中度の高さがひしひしと感じられる名演奏。第一楽章の朗々たるトランペットを配した荘重な表現は非常に感動的。 そのトランペットは第二楽章では軽やかな表情でこのスケルツォをさっぱりしたものに仕上げていて、これがなかなか良いバランスになっている。特徴的な透明感が本領を発揮するのは第三楽章のアダージョの世界。ブルックナーはハープをこのように響かせたかったのだよとスヴェトラノフが語っているよう.な極楽浄土の描き方は見事。そして第四楽章でもシベリウスを思わせる一種爽やかな北欧的透明感は維持されている。素晴らしいCD。

 
 

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 ようやく、ベートーヴェンのピアノソナタ全曲をグルダの演奏で聴くことが出来た。AMADEO盤1968年録音もの。協奏曲まで5曲入り。ウィーンの粋とでも言うのか老舗本家の強みとでも言うのか、完璧なベートーヴェンのひとつ。芸術家のみが橋渡しできる楽譜と音楽の間にある深い淵をあらためて実感した。こうした音楽の鑑賞は、同じレシピから作られた料理が素材と料理人によって様々に違った味になるのを楽しむのとも似ているけれど、こちらはどれだけ聴いても体重は変わらない点が良い。 先日購入したCDは、クイケン・カルテットによるモーツァルトのレクイエム編曲版、アーノンクールの解説つき第四楽章を含むブルックナー第九番、シフラのショパン、スヴェトラノフ指揮のブルックナー第八番。いずれも定番のサウンドからは一風変わった新鮮な味わいの音楽を聴くことができる。瀟洒で清廉な美しさを示すのがクイケンのレクイエム。単に私が交響曲のピアノ編曲版を好む嗜好を有して、その線上で楽しんでいるだけなのかもしれないが、この天才モーツァルトの真髄を研ぎ出して墨絵にしたような演奏は秋の夜長にぴったりくる。アーノンクールによる九番の第四楽章遺稿演奏は、逆に天才が残した断片を生々しく描き出してぞくぞくする興奮を与えてくれる。

 

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   久し振りのCD購入。ルビンシュタインのベートーヴェン・ソナタ集、ラローチャのモーツァルトのソナタ、グルダのベートーヴェンのソナタとモーツァルトのそれ。グルダ・ベートーヴェンの全集は廃盤とかで、デッカ盤の若き日の演奏を一枚づつ集めるしか無さそう。以前にグルダのCDを聴いたときはソフトで上品すぎるかな位に感じていたのが、先日のTV番組で目から鱗・・・。予想に違わぬ素晴らしさ。イヴ・ナットのような、バックハウスのような、完璧な技術を外向きでなくまろやかで鮮烈なベートーヴェンの世界創りに捧げている。老成した大家の境地を二十歳代で達成してしまったかのよう。言わば「こくがあるのに切れがある」味わいとでも表現すべきか、「熱情」の、激流に身を任せる一般的な表現とは違って、終始一貫した流暢さと、かといって内に篭るでもなく「冷静な激情」!。「告別」の第三楽章にも聴かれる、注意深く大喜びするとでも言うような風情・・・。この味わいには嵌まるものがある。こうなるとルービンシュタインのベートーヴェンは、ちょっと大味に騒々しいと言うか、確かに雄大なベートーヴェンで率直ではあるけれど機微に触れるあやに乏しい。グルダ弾くOp90のホ短調ソナタの第2楽章なんかは、ふるいつきたいような超絶品の世界。「ハンマークラヴィア」は演奏時間があまりに短いので買わなかったけれど、この世界つくりには快速性は必要な要素だし、録音の古さも無関係のようなので、次回のお楽しみ。ベートーヴェンは「意思の人」みたいな先入観でとらえてしまうけれど「さりげなく」がピアノソナタでは、むしろ要なのがようやく判ってきた、と言うかグルダの演奏で再認識させられた。  
 

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   リュプザム弾くイタリア協奏曲。とてもまろやかでソフトな演奏は、これまで聴かされてきた刺激的なたたみかけるような定番的表現とは全く異なる世界。「半音階的幻想曲とフーガ」も詩的かつロマンティックでシューマン的雰囲気。もともとドイツでヴァルヒャとM.C.アランに師事したオルガニストの側面がそうさせているのだろうか。フランス組曲ではピアノの音色自体をクラヴィコードのような響きで演奏していて、ときにはリュートのような響きも感じさせたりするところもあってとても落ち着く。ちくま新書「女は男のどこを見ているか」を読みながら聴いていて、女性は男性に意思決定と美しい行為を期待する、と言うくだりと妙に重なってしまった。このNAXOSの廉価版CDに、従来のブランド的音楽CD価値基準を対比させて、「失われた十年」の中で、落ち着けるCDがなかなか見出せなかった事と、魅力的な男が日本人から消え去った現象が妙に符合しているように思えて。さて何からどう手をつけようか・・・。  
 

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   ブーニン弾くショパンのエチュード。「アピール・ツール」としてではなく「ショパンの歌」として味わい深く表現している名演奏。ハラシェビッチ以来、求めていたショパンのエチュードにようやく巡り合えた気分。こうした曲はバッハの曲とも似て、メカニカルな技巧的側面と、情緒的デフォルメの両側面のはざまで、賛否両論が堂々巡りをしながら現在に至っているのだろう。(両者ともよくジャズ化されるし。)景気の波や技術革新の波にも連動して、PCの発展と共に競い合い奪い合う文化の隆盛の中で、金銭換算しやすいメカニカル・コンペの側面で供給されてきたこの曲集の録音。それらの基準の対極とも言えるブーニンの解釈。アラウやサムソン・フランソアと並んで、繰り返し聴くことになりそうなショパンの一つとなった。最近のCD購入のめどは、ブルックナーでもそうだけれど、どちらかと言うと演奏時間の長いものを選ぶようにしていることと無関係ではなかろう。なるべく長い時間ひとつの解釈の音楽に浸りたい。ボブウォッカとも共通する、他に媚びる事無く、よく熟成させたショパン。これまでの基準ではCD売上は低かろうが、壮大でロマン的で「ブルックナー的な」エチュード。  
 

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   エヴァ・ポブウォッカのショパンに魅入られている。ちょっと癖のある歌いまわしと柔らかな残響豊かな音色を用いて音楽に大きなうねりを形作るのが特徴的で、バッハのパルティータに新鮮な美しさを感じていたものが、新しい録音の「子犬のワルツ」を聴いて、あらためて惚れ込んでしまった。じっくりと音楽を作り出す手法はアラウのショパンに少し似たところがあって、純粋に豊潤なショパンに浸りきれる。大概の「子犬のワルツ」は硬質な音色で「一分間ワルツ」を具現化するが如く、ひたすら華奢な急テンポで弾き飛ばし、最後の和音はフォルテ表示も無いのに「はい、一丁あがり!」見たいな印象に叩き切って終わるものが多い。彼女の音楽はそれと全く逆・・。ショパンを指自慢の具にするような商業主義的コピー音楽あるいは競技必勝法的演奏の終焉を予見している演奏のひとつかもしれない。彼の弾くワルツは、美しさを目一杯引き出して最後は前奏曲Op28-7にも通ずる深い余韻さえ感じさせるエンディング。19世紀ロマン派的とも言えるけれど、結局、ワルツなんかではこの方がショパンの音楽の本質に近いように思う。そぐわないのがマズルカだけれど、最も効果的に現れるのがノクターン。フィールドやフォーレのノクターンを全曲録音しているのも聴いてみたい気もする。彼女のショパンは彼女自身が漏らした言葉に尽きる。「私はコンクールに優勝したての美少女でもないし、老練な巨匠でもないが、ショービジネスとは無縁のところで音楽を奏でるゆとりを持っている。」せかされることも無く、恐れ入らされることも無く、自然にショパン音楽のゆりかごに身を委ねる事ができる。  

 

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   ザンデルリンク指揮/シュトゥットガルトでブルックナー交響曲第七番、ムーティ/フィルハーモニアでヴェルディのレクイエム、それとG.クーン指揮のペルゴレージの「悲しみの聖母」。期待にたがわぬ圧巻はザンデルリンク。久し振りにスケールが大きく、かつクリアで清浄な神々しい七番を聴けた。このような七番を繰り返し聴いていたら、そのうち即身仏になってしまうのではないかな、とも思う。今回のCD選曲の気分からかもしれない。予算が許せばブリュッヘンのマタイ受難曲にも手が伸びていたのだから。ムーティは期待に反して作りが小さく、ヴェルディの脂のノリが乏しい。歌唱のほうが充実しているだけに少し残念。スタバト・マーテルは色々な作曲家のものを集めてみたいとは思いつつ、厭世観にとらわれそうで先延ばししてきている。バッハのマタイやヴェルディのレクイエムのように超越した芸術性に絞りきれない。  
 

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 2003年最初の買物はグールドのパルティータ。宝物を廉価版で探す庶民の楽しみとして、いかにも昨今の経済環境を反映した幕開けとなった。昨年最後のCD購入はグールドのフランス組曲、ヨッフムのブルックナー九番(77年ベルリンライヴ)、ラローチャでショパンのピアノ協奏曲第二番だったし。グールドはいつ聴いても鮮烈で、禁断の地のバッハにはすっかり取り憑かれてしまい、収拾がつかなくなる。ヨッフム/BPOの九番はデフォルトであるにもかかわらず、今ひとつ一体感が無かった。このショパンのコンチェルトでは二番よりも一番のほうが昂揚感があって好ましい。オーケストレーションともども曲自体の本来の完成度なのか、指揮がロリン・マゼールなのだからか。ピアノ演奏自体はやや杓子定規のような感じのマルガリットよりラローチャの幅のあるシットリ感に溢れた二番が良い。叙情楽章の価値付けは、創り出す側も聴く側も時代環境のせわしさの度合いと密接にかかわっているようで、コンピューターが速さを売り物にしていた時代から、落ち着きと拡がりをヴァーチャル演出する方に価値シフトしてきていることとも無縁でもなかろうか。いずれにしても電気が切れたとき残るものが真実なのだけれど、その時に音楽どころでなくなるのか、音楽が拠り所となるのだろうか。

 
 

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 マヌーキアンによるショパン・オン・ヴァイオリン、原 智恵子のショパンのピアノ協奏曲第一番、それとフルトヴェングラー/BPOでブルックナー交響曲第六番のCD、計3枚。17歳の弾くショパンのヴァイオリン編曲版は1999ショパン年に合わせた企画だそうだが、選曲、演奏とも若さいっぱいの無限の将来を秘めたメランコリーと快活。ロ短調ワルツと遺作のイ短調ワルツ、エチュードOp10-4が象徴的な表現かもしれない。伴奏が厚かましい編曲との評もあるけれど、若さの発露としての邪気の無い厚かましさは、過剰な感情の装飾として若者の勲章の一つでもあって、とても好ましい。まっすぐ素直な音色は病的な陰を完璧に取り去った健康なショパン。ショパンの本質を正面から追い求める人ははじめから大御所のピアノ演奏を聴けば良いだけのこと。では、原 智恵子のショパンは、と聴いてみた。正にショパンの本質を真正面から表出した素晴らしい演奏。音色の変幻自在の美しさと洒落っ気の香りを効かせた幅のある表現。オーケストラが又ぴったりと息が合って一体となった世界。日本人最初のショパンコンクール入賞者で1962年の録音だそうだが、商業主義に使い捨てにされてきたクラシック音楽の暗黒の半世紀をすべてキャンセルするような音楽と言えるだろうか。ノイズレベルだミスタッチだ、と芸術を換金効率で支配しようとした物質主義をたしなめている様。ドビュッシーが又とても良い。リズムと休符で無言の雄弁さを大いに発揮しているところは、ブルックナーの名演奏と似ている。そしてフルトヴェングラーのブルックナー六番。第一楽章が遺失した録音だけれども、この曲の頂点であるアダージョが聴ける訳だからありがたいと言うしかない。この曲の初演が2、3楽章だけだったこととも思い合わせると、当時、この曲をはじめて耳にした聴衆の一人になった気分も味わえるとやせ我慢してみる。もともとブルックナーファンは第九交響曲の第四楽章を奪われている不治のトラウマを負っている訳だし。この演奏で意外だったのは、彼特有の「引き回し盛り上げ」が前面に出ていないことと、古い録音なのにアンサンブルの美しさがこの曲の清浄な世界をしっかりと再現しているところ。最新録音でありながら歪みっぽい音の重なりでこの曲の透明感を失っているCDがけっこうあるのに。楽章なんかは、あとへ続く後期作品ではなく、初期の交響曲の味わいが聴かれたりするところも予想外。圧倒的な終楽章を聴き終ると、やはり一楽章が欲しい。このテープが旧ソ連軍に接収されて当時、生テープ不足からこの部分が別の録音に再使用されてしまったらしいとのことだが、PCで間違いファイルを上書き保存して、ほぞを噛むのとは訳が違う。いずれにしても記念碑的録音ではある。

 
 

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 どうにもヴァイオリンのOp10-4を聴きたくてCDを探した。カテリーナ・マヌーキアンの演奏だった。例によって美貌のヴァイオリニスト。それは予約して、別に2枚CDを購入。「ワンス・モア・ショパン」、演奏はヤゴジンスキ・トリオと言うポーランドのジャズトリオ。モダンジャズはJ・ルーシェのゴールドベルクばかりだったがこのアルバムもとても素晴らしい。Op25-2やOp25-9など、実に当意即妙、軽妙洒脱の味のある音楽。確かにオイゲン・キケロの世界と共通するものを感じるけれど、こちらのほうは不案内でコメントは出来ない。プレリュードOp28-6やノクターンOp9-2なんかは流石にショパンの国の人々のアレンジ演奏なのかなと思わせる。ショパンにせよバッハにせよ大好きな音楽ゆえ、こうしたモダンジャズ編曲にとても気持ちの良い雰囲気を楽しめるのはありがたい限り。購入したもう一枚はオーソドックスにレオンハルトのフランス組曲。ポブウォッカのパルティータにも熱いものを感じていたので彼女のショパンのピアノソナタCDにも食指は動いたが、あれは次の機会。バッハもピアノ演奏に馴染んでしまうと、本来のオリジナルであるチェンバロ演奏にむしろジャズに通じる即興的なもののスリルを感じてしまう。バッハの鍵盤音楽の本質の一つなのだろうけれど。 

 
 

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 ショパンのロ短調ワルツと練習曲Op10-4のヴァイオリン編曲版を耳にした。夜想曲遺作などは何度かCDでも馴染んでいるのだけれども、お気に入りのロ短調ワルツは、メロディのシャンソン風味付けが実に軽妙に表現されていてピアノ伴奏の装飾も良い雰囲気を出していた。エチュードのほうもとても新鮮で、強烈な主旋律とその展開はまさに、ヴァイオリニスティック?!とも言うべき出色の音楽。メロディアスなノクターンばかりがヴァイオリン編曲されていると思いきや、これはとても示唆に富む編曲版だった。このところパルティータをいろいろ聴き比べていて、結局、テュレックのピアノ演奏とレオンハルトのチェンバロ演奏が、居心地の良い世界として残ってしまう感じとなにか重なってしまうのは何故だろう。リコーダーで気に入ったメロディーをいろいろ浮き散らして遊んだ幼少期の昂揚感と何か似通った感じ。メロディを主体に構造が刷り込まれた音楽では、演奏楽器がどう変わろうと土台の部分を忠実に再現している限り、普遍的な感動が呼び起こされると言ったところだろうか。八木節をテーマにした外山雄三のラプソディが欧米で異常にもてはやされる現象、こちらはリズムベースであろうけれど、解釈のヴァリエーションが編曲と呼ばれるところまで拡張されても、すべてが包含される、音楽の懐の深さかつその旋律の作り出す世界の普遍性に気持ちが和まされる。いずれにしてもあのCDはゲットせねば・・・。 

 
 

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 気がつけば11月も最後の週になってしまった。ロン・ティボー・コンクールでもヴァイオリン部門で日本人が最年少でトップに入ったとか。救い様の無い低レベルの中高生が増加する一方で、世界のトップを極める者達が着実に育っている日本。両極化が一段と進んでいると言うことなのか。親の育て方なのか本人の資質なのか、はたまた腐りきった日本を捨てて西洋で生活することが鍵なのか。このところ低調な音楽生活の中でFMではラトル/BPOのマーラー5番、ワイセンベルクのショパンのピアノ協奏曲の雄大で華麗な音楽が耳に残っている程度。コンサートに行くことも無くPC作りにかまけている間に今年の秋は終わってしまった。自らのみならず、日本を取り巻く状も国内の状況も、ゆっくり音楽を鑑賞する余裕が急速に失われつつあるようで、なんとも心寒い。いつものようにフランス組曲3番の楽譜を開いた時になんとなく2番に目が行った。技巧的には容易とされているけれど非常に美しい楽曲であることに気がついた。バッハであるから当然と言えば当然なのだが。練習する曲がまた増えてしまった。AIRからはじめようか。

 
 

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 五月も終わりに近づき、小山実稚恵の「ファンタジー」、ポブウォッカの「パルティータ全集」、ペライアの「ショパン練習曲集」のCD3つを購入した。小山さんはFMでモーツァルトのニ短調幻想曲とバッハの「半音階的幻想曲とフーガ」を聴き、そのスパークリング・ファンタジーに感激してしまったから。バッハの幻想世界、モーツァルトの幻想世界、ショパン、シューマンのそれ、とこれほど多彩で多様な演奏は正に初体験であったな。「半音階的幻想曲とフーガ」は大好きな曲の一つで、色々な人のCDを聴いてきたが、これほど自由で幅のある、文字通り「幻想的」なものははじめて。またフーガも交響的拡がりがあって、この曲はバッハの中では特異的に演奏者の自由度が大幅に許容されていると感じた。今年巡り会った最大収穫のCDになるかも・・。スクリャービンの「幻想ソナタ」もなかなかのもの。ポブウォッカのパルティータ演奏は録音がちょっと響き過ぎているが正統的で、かつややエキセントリックなパルティータ。リヒテルとグールドのはざまに揺れるバッハがなかなか楽しい。その葛藤がなんとも言えない魔力を醸し出して、ヒューイットなんかの安定した普遍的世界とは少し違ってロマンティックながら実直な表現が好ましい。ペライアのエチュードは期待が大きすぎた為か、音色の美しさも表現の精緻さも今ひとつ物足りない。完璧な名人芸で飽和しきっている領域だから、これ以上の我儘は望めないのだが即物的側面がやや強いようで、好景気のときならいざ知らず、この経済環境ではもう少し「癒し系」のトーンが勝ったサウンドを欲していた・・・、と言うのは聴き手の手前勝手と言うことになるのかも。

 
 

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 ちょっと毛色を変えて、気になっていた音楽映画の邦画DVDを二つ買った。「カルテット」(監督:久石譲)と「連弾」(監督:竹中直人)。前者は劇場で観ようと思いつつタイミングを失していた物。それぞれクラシックジャンルの曲を軸と据えて、それをめぐって4人の人間模様がハーモニーとして一つになっていく展開を切り取って示している点で共通したテーマ内容。クラシック音楽は検証性、正確性の追及が基本となっていて、他方、映画は虚構、見せかけが本質である世界で、音楽映画はフェイクの中のアンチフェイクと言う相反する興味深い芸術活動である。しかも映画は小説等と同じく、対象となった道のプロから見れば、「噴飯モノ」か、よくても「努力を評価する」程度に終わってしまうもので、創るほうも映画のプロは音楽のプロと両立は出来ない。カラヤンがビデオにこだわったことは音楽のコピー大衆化を推進し、音楽ビジネスの集金機能として有効化は出来たが、記録映像やミュージカル映画と違ってこうした音楽映画は、コピー文化が飽和している昨今では、音楽ファンからも映画ファンからも辛い評価を受け、一般からは内容を理解されず、立つ瀬が無いジャンルになっている様に思う。残された拠り所はコミック性、ロマン性あたりになろうか。それはともかく、両方を鑑賞して、いずれにもひさしぶりに感動し、感心し、楽しめた。「カルテット」では、久石監督自身も語っているように「音楽をしながら、音楽についてを言葉にしようとすると、言わぬが華、の様な結果になってしまう。」それを承知の上で、あえて「言わずもがな」のせりふを喋らせながらも、音楽にかかわるキーワード、小道具類の配置に非常にこだわって制作されていて、繰り返して観るごとに「なるほど!」と納得する部分が随所にあって、ストーリーの展開にあわせた演奏レベル設定を含め、その質は素晴らしいものになっている。この映画に対して、役者の指やボーイング演技に不満を呈したり、ストーリーの単純素朴さを批判したりする論調があるが、そのような「樹を見て森を見ず」みたいな観点でしか捉えられないのは実にもったいないと思う。日本の音楽環境の悲しい点は、知識や体験の蓄積と共に、見栄やコンプレックスや権威主義みたいなものが同時に肥大していく傾向があることで、その度合いは、こうした映画にどこまで感動できるかで、測ることができるのではなかろうか。「連弾」のほうは、「カルテット」のようなプロの世界ではなく発表会と言う、より一般的な設定で日常性を扱っていることから、素直に映画として楽しめ、良質な満足感に浸ることができた。これも音楽の先生では、そう単純には楽しめないかもしれないけれど。 コミック性をもう少し工夫してクラシック音楽に沿わせればさらに良くなって「Shall We Dance」あたりのレベル位には出来たような気がする。音楽の質と映画としてのこだわりの楽しさから「カルテット」のほうが繰り返し観る頻度は高いだろうな。現代音楽の存在意義を示唆してくれた面でも負うところは大きいし、久木田薫さんが実に良い味を出しているし。実に価値あるDVD。

 
 

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 四月も中旬過ぎて、このHPも一年経った。誕生祝と言うわけでもないが、お気に入りの曲集であるパルティータのCDをさらにひとつ買ってみた。カール・ゼーマン、古典派のバイオリンソナタ等でシュナイダーハンの伴奏者をつとめているCD位しか知られていない様子。教会オルガニストの経歴を持つ、1910年ブレーメン生まれ。実に滑らかで歌謡性に富んだ表現が、暖かく伸びやかなバッハの世界を作り出している。なんとなくフランス組曲やイギリス組曲にそうしたものを求め、パルティータには先鋭的なものを思い込みとして持っていたのがくつがえされた格好。典雅な表情の中に、一本筋を通した曲つくりがとても魅力的。特に左手の渋い味わいが大人の雰囲気を演出しているよう。のゼーマンとストイァマンがドイツ流で、テューレックとヒューイットがアメリカ流といえるのだろうか。この4つのパルティータの聴き比べはまた実に楽しい。

 
 

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 ピリスの弾くベートーヴェンのソナタ。女性らしいソフトで丹念な音楽造りは滋味のある丁寧な表情と透明感が備わって、かつ暖かな音色。シューベルトの世界を思わせるところは晩年のケンプと似ている。60歳を超えたピアニストが弾くベートーヴェンのソナタは有無を言わせぬ説得力がある。それと同じような印象を持ったのがこのピリスの新録音。いつのまにか彼女もそう言う域に近づいていたとは。それとは別に、Steuerman弾くところのパルティータに惚れ込んでしまっている(Philips456 068-2)。一緒に入っているイタリア協奏曲は素直で、テュレックさんのような強烈な魅力は無いが、このパルティータは録音の新しさ分だけテュレックを凌駕する世界を創っている。純然たるピアノによる世界で溜息の出る繊細さとメリハリが効いて浄化された美しさ。舞踏の妖精が舞い降りた様。ヒューイットなんかはこれと比較するとちょっと動きすぎて、バッハのこの世界は演奏を抑制すればするほど雄弁になることを示す良い見本みたいになっている。

 
 

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 これまた、あっという間にニ月も終わってしまった。FMでイングリット・フリッター弾くハイドンやベートーヴェンの抑制の利いた、曲の本質に迫る見事なソナタやヒラリー・ハーンの驚嘆ものの充実した無伴奏パルティータ等も聴き、実演ではピアノ伴奏版のヴェルディのレクイエムと、大町さん指揮の生気あふれるブルックナー3番も含め、充実した月になった。今年になって練習を始めた「幻想即興曲」もだいぶ音がつながるようになってきた。練習耳を鑑賞耳に切り替えてこの曲のCDをアラウ、フランソア、ハラシェビチ、ペライアで聴き比べてみたが、これに関する限りペライアが断然素晴らしい。とびきりの音色の美しさと理性的な表現で、清浄なイマジネーションが広がる。ショパンでは、何度も出てくる同じ旋律形を表情を変えて演奏する、その変化のつけ方のセンスで曲が表情豊かになったり、くどくなったり平板になったりする。この曲はフリッターさんで是非聴いて見たい。購入したCDで気に入ったものは、ソロモンが弾くリストのハンガリー田園幻想曲、シューベルトのソナタD.784がとても印象に残った。フジコ・ヘミングさんによるショパンのコンチェルト室内楽版のコンサートチケットも取れたし、そろそろ春になっても良いかな。

 
 

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  あっという間に一月も終わってしまった。白神典子のショパンピアノ協奏曲室内楽版、W.クリーンとブフビンダーのベートーヴェンピアノソナタCDを買った。ショパンの方は弦五部が豊かに表情をつけて生き生きとしているのに対し、ピアノのほうが即物的と言うか、艶っぽさが少なく、通常のピアノ協奏曲とまったく逆の雰囲気で、ある意味で面白いがやはり物足りなさは残る。ブルックナーでみせた味わいの深さが嘘のよう。録音時期が5年くらい前なので、経験の積み重ねの差かもしれない。ベートーヴェンの協奏曲についても室内楽盤を出しているようなので、むしろそちらに興味がそそられる。ベートーヴェンのソナタのCDでは、W.クリーンの素晴らしさに驚いた。グルダと同じ1928年生まれで、「ウィーン三羽烏」に入っていなかったのが不思議なくらい。「熱情」が実に自然な音楽運びで、ダイナミックで厚味のある和音と繊細なピアニシモが絶妙に織り成す、粋を極めた演奏。他には「悲愴」と「月光」がカップリングされているがいずれも洗練された上質なベートーヴェンで、予想外の良い買い物だった。逆に期待していたブフビンダーは何か小さくまとまりすぎているようで魅力に欠けるものだった。

 
 

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  2002年になって初のCD店詣で。アルカンの「鉄道」を実ピアノで聴きたくなりNaxos盤(8.553434)を一枚、それと白神典子(しらが ふみこ)演奏のブルックナー・ピアノ曲集、アラウでショパンのワルツ集、ヨッフム/バンベルクのブルックナー八番。BSで「The art of piano」と言う番組を見て、往年の名ピアニスト達の至芸に触れ、商業主義コピー文化以前の真のピアノ芸術が再認識できた上で、こうした買い物になるところも面白い。番組のなかで、ピアノ演奏は「愛」でありコンピュータ的精度や競馬の競争ではない、との弁に大いに共感した。ではアルカンの鉄道に愛は見えるかと・・・。実に不思議な魅力にあふれた作品で、機械文明に遭遇したロマンピアニズムの率直な愛のレスポンスか。アラウが奏でるショパンのワルツは同時代の作品とは思えないもので実に味わい深いが19曲通して聴くと流石に少し重たい。とは言えショパンのワルツを聴くとそのピアニストのスタンスが明確にわかるような気がする。白神さんは欧州で活躍中のピアニストでショパンやベートーヴェンのピアノ協奏曲の室内楽盤を出していると。ブルックナーのピアノ曲をここまでチャーミングに解釈したものは初めてで、ソナタ断章や秋の夕べなんかは実に魅力的。第7交響曲アダージョは流石に捕まえるのに苦労されている様子だが、スタインウェイではなくベーゼンドルファーでやってくれたら雰囲気も変わったかもしれない。全曲盤を聴きたいところ。さて八番、ヨッフムでバンベルクでノヴァーク版のライブとこれだけ揃えば超ド級になるのは当り前というところか。久しぶりに有無を言わさぬバリバリ硬派の男の八番を聴いた。ブラヴォの嵐は当然と言える演奏内容。

 
 

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 12月も半ばになろうかと言う時期に相応しい寒気到来。CDで以前から狙っていたシュナーベルのベートーヴェン・ピアノ曲集を購入。1930年代の録音とは言えCD14枚で4000円ちょっと。内容はうわさにたがわぬ往年の超名人芸。アレグロとアダージョのめりはりの鮮やかさは尋常ではない。「田園」のアンダンテの美しさ、「熱情」の終楽章の目もくらむばかりの疾駆。ベートーヴェンは正にこのように演奏していたのじゃないだろうか、と想いをめぐらしてしまった。またグールドはいくつかのソナタでこのシュナーベルの世界を再構築しようとしたのかもしれない、とも。他のCDではサラ・ブライトマンのアヴェマリアにも食指は動いたが、カタログでブルックナーのピアノ曲集が目にとまった。日本人の演奏家なのに輸入盤とのことで予約注文。これは楽しみ。あとはサムソン・フランソアのショパン、大部分の曲は収録されている10枚組。個性的癒し系の時代に入って、いよいよ輝きを増してきたこの演奏家のショパンは、えも言われぬ充実した時を与えてくれる。ほかには、どういうわけかテュレックさんのヴィデオが破格の値段で売られていた。1961/62年の演奏のお宝的映像。勿論、即購入。ューレックさんの映像: VAI、から3本のビデオが出ている。1992年のコロンでのライブ(VAI 69081)、1995年のペテルスブルクでのゴールドベルク(VAI 69220)と、今回バーゲンで入手した、アメリカでのTV番組を編集したもの(VAI  69225)。これは1961-2年の録画なので当然、白黒で音も画質も良くは無いが彼女の演奏スタイル、タッチを楽しむには十分すぎる映像。まず驚いたのが、指と上半身の強靭さ・・・。10本の指が精巧な鋼細工というか、徹底的に鍛え上げられているようで、さりげない装飾音符の一音一音まで完璧に最適な音に変換できる、しかもあらゆる色彩を付与して。また、鍵盤を縦方向に十分に使っているのが目を引く。これはチェンバロの二段鍵盤演奏と関係しているのだろうか。スタカートを弾く時の独特のはじくような打鍵も興味深い。しかしなによりも素晴らしかったのは、コロンの演奏会でアンコールに弾いたニ長調のミュゼットのあの例え様もない極上の表現が目の当たりにできたこと。パルティータ第1番のジーグ演奏をチェンバロとピアノの両方で見るのも楽しいし、独特の味付けをしているイタリア協奏曲の弾き方も魅力的。ゴールドベルクの抜粋も、見ていると全曲収録した物が欲しくなってしまう。

 
 

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 バラが真っ盛りで秋苗に食指が動く中、ショップへ出かけてラフマニノフのピアノ協奏曲2番と3番のカップリング(Naxos盤)DVDとグレゴリアンのセカンドCDを入手。FMで日本人演奏会による、とても充実したシューマンのピアノ協奏曲とベートーヴェンの第七交響曲を聴いたり、宮沢賢治が聴いたと言う運命交響曲のレコード音をTV番組で耳にした後で、音楽とその背景等、いろいろ考え直したりした。「SPレコード」と「カラー映像&ステレオ録音DVD」の物理的情報量の違いよりも、鑑賞する側の想像力の豊かさの度合い、向かい合う真剣さの方がはるかに大きいこととか、ヒーリングと銘打った、グレゴリオ聖歌に様々な楽器やビートを加味した音楽より、ラフマニノフの超絶技巧的な協奏曲のほうに安らぎを感じてしまったりとか。DVD映像のエカテリーナ宮殿やペトロ・ドヴォレツの壮麗絢爛たるインテリア、エクステリア共々完璧な技術に支えられた芸術の粋とヒト・モノ・カネの集大成によってのみ表現される世界に圧倒されながらも、その国が生み出した音楽と建造物を同時に鑑賞できるDVDシステムそのものに感動もしてしまった。と同時に、これまでに購入したCDとビデオの行く末がLDもろともSPレコードと重なって見えてきたりもして・・・・。

 
 

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 12月初旬と言われた冷え込みも少し和らいで、買い物日和。購入したのは「悲愴」の楽譜とサムソン・フランソワのショパン集、ワルツ、バラード、スケルツォ、アムプロムプテュ。それとサラ・ブライトマン、ENIGMAのCD。音楽ライフとしては、中抜け。健全なクラシック趣味としては、巨匠の記録音楽を鑑賞し、コンサートへ行って演奏家の生を聴き、楽譜を買って自分でも弾く、と言うものなのだが肝腎のコンサートになかなか行けない。それはともかく、フランソアのショパンはとても鮮烈。音の綺麗さとリズム感が絶妙なワルツは極上品。他の曲も、暗闇に抜き身が閃くような鬼才の断面が聴かれて、ミケランジェリと似たところがある。「悲愴」の楽譜は園田氏の編集によるもの。ペダリング等が細かく表示されているほか、音の作り方が細かく記載してあって新鮮な感じ。楽譜を変えてみると暗譜していたところもすべて確認し直せるのは有益。第一楽章はグラーヴェから繰り返すのが正しいと説明されている。何も考えずに最初から繰り返して練習していたが・・。サラ・ブライトマンはリナルドの「私を泣かせてください。」が無性に聴きたかったから。カストラートのほうが迫力があるが、アダージョなんかは爽やかな声の美しさがとてもチャーミングで良い。 ENIGMAはヒーリング系グレゴリオ聖歌の味付けよりカルミナ・ブラーナ系のほうが面白い。

 
 

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   お彼岸も過ぎてどうやら、秋も確定・・・。ソロモンとギレリスの魅力に完璧にはまってしまった。どちらもハンマークラヴィアの聴き比べだけのつもりだったのに、それぞれのベートーヴェン・ピアノソナタ集を買ってしまった。ティントナーのブルックナーもしっかり補充したが・・・、ベートーヴェンのソナタの聴き比べにおされ気味。ギレリスを聴いていると、初期のソナタ群がかくも内容が濃く、存在感のあるものばかりであったかを思い知らされる。様々な名手達の「悲愴」を聴いていると、自分の練習の方も俄然面白くなってくるのはどうしてだろう。オピッツさんのNHKのテキストを読み直したり。悲愴の第三楽章は、シンプルな音符だけでどうしてこんなに魅力の極致のような音楽ができるのだろうか。遊び音が無いから演奏が難しいわけだ。  
 

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    台風一過とも言えず蒸し暑さがもどっている。CDショップでNaxos「音楽の旅」シリーズのDVDを見つけた(http://www.dvdinternational.com/Naxos_special.htm)。二十巻ほど出ている中で「ブルックナー」があったので早速購入。交響曲第四番「ロマンティック」、演奏はG.ノイホルト、ロイヤル・フランダース・フィルで内容詳細は「ブルックナー放談の頁」に載せたが、実に心にくいばかりの音楽と映像のひととき。「ベートーヴェン」巻はピアノソナタとピアノ協奏曲の各第一番を収録したものと第三交響曲「英雄」巻のふたつ、「モーツァルト」巻では、一巻は交響曲40番、28番といくつかのオペラの序曲、もう一巻はピアノ協奏曲20番と13番。こちらの映像はザルツブルグとその周辺の町並みだけだが、13番では春から夏の風景、20番では一転して真冬のザルツブルグ周辺の村、ザンクト・ヴォルフガングやヴァインゼーと、両曲の長調、短調の違いに対してもツボを押さえた編集をしている。バッハではドイツの町並みやインスブルックやチロルのアルプスの風景等、ベートーヴェンではイタリアの町の名所旧跡等を紹介している様子。選曲、演奏者、映像ともにパフォーマンスは優れていると見た。例のNHKの5分間番組をもっと集中度を高め、映像を吟味した上に字幕を取除き、60分程に拡大したとも言えるが、かなりな大曲を丸々すべて収録して、かつつながりのあるヨーロッパの情景をセンスの良いアングルでディスプレイしているこのDVDは演奏内容ともどもお勧めはできそう。    

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 久しぶりにCDのためだけに炎天下の中を出かけた。目的は、シューベルトのアレグレットD915ハ短調。スティーブン・ビショップがお薦めとの情報だったが、在庫はM.ピリスの特別なCD「すばらしい旅」と名付けられ、リヒテルに捧げたシューベルトの即興曲集を中心としたアルバム。その中に目的の曲はあった。ベートーヴェンの一節を編曲した様でもあり、ブラームスの様でもあり、曲名がわからなかったものがインタネットで判明するところとなったもの。 結局、シューベルトの珠玉の一つであることを確信し、よりによって願っても無いアルバムに収まっていることも確かめられた。中村紘子さんがルビンシュタインに捧げたCDのアパショナタのすばらしさも思い出したが、女性ピアニストはこうした動機でもこのような超一級の音楽を具現化してしまうのだろうか。シューベルトと言うと爽やかなメロディと転調の魅力が前面に出て、ピアノの音色自体は少し翳りのあるウィーンの香みたいなステレオタイプな聴き方をしていたけれど、こんなに豊かな響きで深みのあるシューベルトがあったとは。まさに至福の旅のひととき。筆舌に尽くせぬ絶品とはこんな演奏を言うのだろうか。ピリスを見直し、シューベルトを見直し、即興曲を見直し・・・。目的のD915にも溜息が出たし、上半期最大の収穫CD。(4年も前に出たものの、遅ればせながら。) 一緒に買ったのはモロニィ弾く「フーガの技法」とブルックナーの八番と九番が入ったコンヴィチュニー集。九番を二重買いしてしまった。フーガのCDは未完のフーガをモロニィが完成させて弾いているものが入っている。それはさておいて、チェンバロの響きがとても自然で魅力的なとても良い演奏のフーガの技法。レオンハルト版のような、格調の高さの分だけ気合を入れて聴かないといけない、みたいなところが無い。本当に自然体でしみじみ聴けるフーガ。

 
 

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 真夏の熱風吹く週末、またCD屋さんに立ち寄った。グルダ、アラウ、ケンプのベートーヴェンのソナタ全集がそれぞれセールになっていた。しかし購入したのはヒューイットのパルティータCDと、昨年にヴァント/ブルックナーファンが熱狂した日本でのライヴ版DVD。九番命のkuniさんをして「もう新たに何も聴く気がしない。」と言わしめたコンサートの記録。絶対音楽に映像は要らないとしてきたものが「フジコ」DVDで覆った矢先でもあり、とても興味をそそられた。記録として客観的に聴く限りヴァントの九番であって、自分が頂点においているヨッフムやコンヴィチュニーの興奮は無い。しかしオーケストラのクリアでかつ芳醇な響きと、ヴァント節とでも言える音楽の流れの積み重なりは圧倒的なものがあって、瞬間瞬間のヴァントさんの表情や各楽器の演奏家の動作を目にしながら「豊かなぶるっくな〜」なひと時を過ごせた。 音楽演奏が「磨き上げられた結晶」とは言え、人間業である以上、音響記録と共にその仕業が映像として示されることはやはり重要。「聴いて感動、見てがっかり」は「西洋文化のガラパゴス」である日本では一般的なところだけれど、この最後のスタンディングオベイションには驚きとともに、とてもうらやましものが感じられた。コンサートに行った人にはこれは正に一生に一度あるか無いかの最上級の音楽体験だったろうと思う。 ヒューイットのパルティータは、予想にたがわないとてもすばらしいバッハ。最近は、特にピアノソロについては、演奏者が音楽そのものより指の冴えを誇示していると思われるものには、一切拒否反応が出るようになった。従って、演奏時間の短いものは原則として敬遠するようになっている。それとリズムに変化の無い演奏。「機械じゃあるまいし!」とはき捨てるようにつぶやいたフジコさんの表情が思い出される。古きよきロマン派の解釈に戻っている自分の感覚は年齢的なものか、馬鹿げたバブル期の会社主義に浸りきっていたことへの反省か。バッハの曲については、演奏者の指自慢の種にされるものは少ない。作曲されたときはバッハの指自慢の材料だった曲もたくさんあるようなのだが、今ではベートーヴェン以降、ロマン派の作品が山のように用意されているから。逆にいえば、現代ピアニストでバッハばかり弾いている人の演奏には安心して接近できるような感もする。日本画家で杉の樹ばかり描いていた人がいたことを思い出した。でも実はバッハをピアノで弾いて音楽にできることはとてつもない指自慢なんだろうな。

 
 

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