この曲についても、夥しい数のページがネット上にアップされています。それだけこの曲を愛している人が多いのでしょう。私の音楽趣味の柱となった「未完の三大ニ短調」(ブルックナーの交響曲第九番、バッハのフーガの技法と、このモーツァルトのレクイエム)」のひとつとして、私自身はピアノ曲で魅入られたF・ショパンがこの曲を自らの葬儀の音楽に指定し、遺志どおり演奏されたと言うことを通しても特に思い入れがあります。さらにブルックナーファンの側からも、未完のニ短調と言うだけでなく、他人の手が加わったスコアで、それを校正して現在につなげているキーマンがL・ノヴァーク博士であることも何か共通項を感じるし。 ブルックナーは1885年(61歳)、バッハとヘンデル生誕記念の年の八月三日、クレムスミュンスター、ベネディクト修道院教会にてオルガン演奏会を行った。その時の即興演奏のテーマは第八交響曲第二楽章の一主題と、このレクイエムの二重フーガに基づいて演奏したと。 レクイエムはこれまで、演奏によってまったく異なる印象を受けてきていて、調べてみると版も数種類(バイヤー版、モンダー版、ランドン版、ドゥルーズ版等)あり、内容が内容だけに表現方法による違いも非常に大きく影響するようです。深刻沈痛な演奏と、逆に簡素にあるいは即物的に演奏したものとでは、別の曲みたいになってしまい、さらにフィクションとは言え、映画「アマデウス」のイメージ刷り込みまで加わって、この曲はどう聴いたら正しいのだろうかと迷いはじめると「いったいどこまでが真のモーツァルトなんだ」って言うところまで行ってしまう。マタイ受難曲やブルックナーの交響曲はどんなに解釈が異なってもそれぞれ楽しめるのだけれど、この曲は良いものと聴くに堪えないものとに峻別されてしまうのはそのせいだろうか。私の場合、前者の例はムーティ盤で、聴くたびに感動新たなものがあるが、後者にあたるホグウッド版は棚の隅でほこりにまみれていて、もう一度聴こうと言う気にはならない・・・。 しかし、なぜショパンは自分の葬儀にこの曲を指定するほどモーツァルトを尊敬していたのだろう。ショパンが若い頃に音楽的影響を受けたのがモーツァルトのオペラであったことにつながっているのかもしれない。ドンジョバンニから引用した主題による変奏曲で世に出て、最後は彼のレクイエムで締めくくられたショパン。彼だけでなくロマン派の傾向かもしれないが、ゲルマン系作曲家には究極の調性とでも言えるニ短調の調性ではショパンはほとんど曲を書いていない。有名なのは前奏曲集で最も壮大な最後の24番、それと遺作の小規模なポロネーズ位。 このレクイエムについてヨッフムとショルティでそれぞれミサの実況盤が出ていて、先のモーツァルトイヤーにはショルティのものが衛星放送されていた。演奏は感動的ではなかったように思う。 |