Die Kunst der Fuge 

 


 

 

 

 以前はこの曲の専門サイトがありましたが今は無くなっているようです。しかしMIDIの作り込みや、楽曲解説はあちこちで進められています。ブルックナーが16歳のとき初めて教材として接したのがこの「フーガの技法」だったとか。

このバッハの作品、BWV1080の表題の日本語翻訳名は「フーガの技法」。辞書では「技法」の意味するところは文学・美術等での表現技巧上の方法、手法とありますが、最初にこの言葉をこの曲に当てはめたのは誰なのでしょう。

なぜ「フーガの芸術」としなかったのでしょう。独和辞典では、Kunstの第一義が「技術」で、第二義に「芸術」と記載されています。英語は「Art of Fugue」ですから異論の無い翻訳ですが・・。私としては「フーガの至芸」とでも訳したいところ。

 

 作曲志望学生用教科書として作った訳でも無く、教会のためでも無く、鍵盤楽器学習者のためでも無く、オルガンやクラヴィコード等の楽器のためでも無く、勿論、糊口をしのぐ生活のためでも無く(この曲の初版は30部しか売れなかったと!)、バッハがひたすらフーガと言う楽曲形式を極める自己満足の境地で創り上げたのでしょうか。涙が出るような叙情的で美しい曲が山ほどあるバッハの作品の中で、この作品はとても特異な位置にあるように思えます。最晩年に視力を失いながら、また家計を圧迫しつつ彼が全力を込めたと言う作曲経緯を知らずに、この中の一曲を聴いて、どれくらいの人々に音楽的感動が去来するのだろうか。

 基本知識の欠如から、幸か不幸か対位法の神業的技法について感心や感嘆する素地は無く、学生の頃にスイングル・シンガーズによるスキャットコーラスにアレンジされた第九曲を耳にしたときの軽い驚きが、この曲との出会いの最初だった。問いかけか掛け合いのような活発な旋律の絡み合う中で突如、低音部から男声で湧き上がってきた、たまらなく魅力的な伴奏形のようなメロディが実はメインテーマだったと・・・。動と静の同時進行の複合性の新鮮さに引きつけられた。

 もうひとつ、音楽エッセイだったか何かで「日本が無条件降伏して敗戦が決まった日の夜に、どこからともなくピアノでコントラプンクトゥス第一曲を弾いているのが聴こえて来て、例え様の無い感動におそわれた。」とあって、一体どんなメロディなのだろうと強く惹かれたことを覚えている。

 この曲を減衰音楽器で弾くことはバッハの意図にそぐわないとかの記述も同じ頃、目にした様な気もする。管弦楽によるもの、弦楽四重奏によるもの、オルガンによるもの、そしてチェンバロやピアノで演奏されたものを色々聞き比べて、たどり着いたのが、ソコロフによるピアノ演奏とレオンハルトによるチェンバロ演奏CD。ヴァルヒャやグールドのオルガン版、リヒターのチェンバロ版、他のピアノ版、ミュンヒンガー等の管弦楽版、名盤と言われているものは数々あれど、ロマンティックなソコロフ盤と透徹したニコライエヴァと温かみあるレオンハルトを聴き回すことで、今のところ十分。ソコロフのCDからは「フーガの技法のピアノ演奏究極技法」みたいなところも目をみはらされる。

 この曲にはパイプオルガンは妥当な楽器とは思えないし、それよりも基本的にCDでパイプオルガンを長時間聴き続ける事自体が駄目だし、管弦で色付けしたものの鮮やかさも捨てがたい。(合奏演奏する側にとっては至福のときだろうなとうらやましい気にさえなる・・・)、クラヴィコードによる名演があればそれは座右におきたいのだけど。やはりなるべく無機的なと言うか、客観的な音色、コンピュータ演奏なんかが結構ふさわしいのかもしれない。

しかしどんな楽器であれ、何人でどんな演奏解釈するのであれ、この曲と触れ合うことが理想的な時の過ごし方に近づく、と多くの人が感ずるようになれば素晴らしいわけで・・。バッハの懐の広さで、この曲もJ・ルーシェのゴールドベルク変奏曲みたいなところまで行けるのではなかろうか。

 最近購入したアルテノヴァのレーベルでベルリンバッハアカデミーのCDが、正にその一つだった。この曲の求道者的アプローチも底知れないものがあるけれど、表向きそれとは逆に多様な楽器の組み合わせで外面的音色的拡張するアプローチも、かえってまたこの曲の深みを表現する結果になってくるのも興味深い。バッハに共通する点であるのだけれど。

 第一曲はオーソドックスな弦四部で演奏しているものの表現はかなり情感的、「これはちょっと」と思いつつ第二曲に入ると、本人曰く、クール・ジャズの世界とか。2台のピアノとヴィブラフォンと2台のコントラバスでスイングっぽい表現。もともとシンコペーションが印象的な曲だけに、実にご機嫌な解釈。第9曲も予想を裏切らない良い雰囲気。曲によってオルガンも使用しているが、小型オルガンの場合はなかなか良いものとなっている。現代的解釈もここまで感性を広げてかつ基本軸を確保した演奏は見事。曲によって木管だけとか、金管だけとか、音色を広げているようで妙な束縛を持ったこれまでのクラシックアンサンブルより、ここまで自由な楽器選択を入れたほうがはるかに充実した音楽となる。華やかな楽器編成で最後のフーガを途中で断ち切られるのは、実にやりきれない想いが残る。

 学生の頃、アンサンブル編曲版では「決定版」と確信するほど感動した演奏が、カール・リステンパルト指揮のザール放送室内管弦楽団によるもの。この演奏のCDが入手できるとは思わなかった。当時は良くわからなかったけれども、演奏者を見直してみるとヴィンシャーマン、ラリュー、ラクロア、ドレフュス等と名手が集まっている。曲ごとに木管アンサンブルと弦楽器アンサンブルで区分けしてカノンはクラブサンで演奏する見事な安定感は単一楽器で演奏した場合のモノクロームの美を十二分に再現している。各演奏者の表現力が卓越していることは言うまでも無いのだろうが、ここまで完成度が高いと言うことと最後の未完のフーガを収録していないと言うことが不条理となってしまう。もし演奏されていたら正に、これは「歌詞の無いマタイ受難曲」となってしまったに違いない。

 

 久し振りに、ピアノ版の新しいバージョンを堪能できた。演奏はP.L・エマール、現代音楽演奏の第一人者で、50歳の録音。ピアノ版ではこれまでソコロフをそのロマン性の観点からお気に入りにしていたところに、まさにレオンハルトのピアノ版とでも言うか、実に明瞭かつ闊達な演奏に真正面から描き出す世界の惹き込まれてしまった。現代音楽演奏家が、よりによってバッハのこの曲をこのように表現する。黒人のコンピュータ技術者が坂本冬美の「夜桜お七」等の演歌を謳い上げる最近の驚きと少し共通する感覚。

 

 
 
演奏者 楽器、録音年 CD番号
グレゴリー・ソコロフ ピアノ、1982年 OPS52-9116/17
グスタフ・レオンハルト チェンバロ、1969年 GD77013
タチアナ・ニコライエヴァ ピアノ、1992年 CDA66631/2
マリークレール・アラン パイプオルガン、1992年 4509-91946-2
ヴォルフガング・リュプザム パイプオルガン、1992年 8.550703
リナルド・アレッサンドリーニ:指揮 イタリア合奏団 OPS30-191
カール・リステンパルト:指揮 ザール放送室内管弦楽団 7WPCS-22073/4
ヘリベルト・ブロイァー:指揮 ベルリンバッハアカデミー 74321 74465-2
デヴィット・モロニィ チェンバロ、1985年 HMA1951169.70
ピエール=ロラン・エマール ピアノ、2007年 UCCG1386