■稲葉民談記
輪違 丸に三つ柏
【出雲・但馬 高岡系譜】Takaoka clan
【始祖】高岡八郎左衛門尉源宗泰 【本貫】出雲國神門郡塩冶郷高岡邑
【世系】高岡氏は宇多源氏出雲佐々木流。佐々木義清の息子で隠岐泰清の八男、
八郎宗泰が出雲國神門郡塩冶郷高岡邑を領してより高岡氏を名乗る。
【歴史】暦応4年(1341)4月3日塩冶判官高貞讒死のち山名時氏に仕へ、
明徳兵乱の後(1392)一旦但馬へ遷るも、山名氏領備後國の代官となりて、彼國に下り世々備後の城持大将と為る。
天正5年(1577)織田右府の手先羽柴小一郎(秀長)、但馬に討入て同州之城数々陥て
乱妨す。翌6年(1578)正月山名氏政、竹田城の羽柴小一郎のもとに参向致し、
山名氏が織田方に帰したると雖も高岡筑前守宗孝、同國二方郡阿勢井の
亀ヶ城主塩冶周防守高清を頼り食客す。同8年(1580)羽柴小一郎をして6400の兵にて、
但馬に再ひ討入たる之時、5月16日出石有子山城開城し、山名韶熈は降参す。
國人垣屋隠岐守恒総、垣屋駿河守ら諸兵は、気多郡水生山城主の
西村丹後守を頼り対峙す。
このとき宗定は、二方郡阿勢井にて羽柴小一郎(秀長)の兵と戦ふも
多勢にして利を得ず、更に因幡鳥取城の山名豊國を頼り塩冶高清とともに
因幡へ退去したるが、同8月豊國侯、羽柴の兵を観るに怖気附て、早々に少輩を引連れ
夜隠にて逐電致し、剃髪して名を禪高と相改め羽柴美濃守(秀長)が陣へ降参す。
『鳳鳴記』の記すところに拠らば、高岡筑前守宗孝はこの禪高の逐電を潔良しとせず、ゆゑに翌9年(1581)正月鳥取城に入りたる石見國福光城主
吉川經安の嫡子、經家が麾下に仕へ因州雁金城にて防戦いたし、其節、筑前守討死仕り候。
然而敵兵無勢にして刃が立たず、同10月24日同州丸山城に於いて城将塩冶周防守、
奈佐日本助、佐々木三郎左衛門ら...
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【家紋】輪違・丸に三つ柏
∴@高岡八郎左衛門尉 隠岐守護代
(48)宗泰(1255-1326)
|母葛西伯耆守清親女
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| |A高岡八郎 |富田佐渡守師泰室|高岡八郎宗義室
(49)多寳丸( - ) 宗義(1280-1330) 女子( - ) 女子(1284-1360)
早世 |養子實富田肥後守義泰五男 念智禅定尼
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|B高岡八郎左衛門 遠江守
(50) 師宗(1302-1341)
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|高岡八郎太郎 |C高岡尾張守 |高岡四郎 |高岡五郎 |高岡六郎丸 |
(51)義宗( -1341) 重宗( - ) 師重(1332- ) 直宗(1336-1402) 泰重(1339- ) 高圓( -1399)
|母塩冶貞清女 夭逝 出家
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|D高岡七郎
(52) 高重( -1391)
|母富田秀貞女
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|高岡貞重室 |E高岡右近將監
(53) 女子( - ) 貞重(1387-1427)
念妙禅定尼 |養子實東景高次男
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|F高岡民部允
(54) 重頼(1411-1474)
|仕 山名金吾入道
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|G高岡八郎將監
(55) 重泰(1437-1493)
|母佐々木筑前入道女
+――――――――+――――――――+
|H高岡小八郎 |高岡備後入道 |塩冶彦十郎室
(56) 仕 山名俊豊公與 重盛( -1493) 浄安(1460-1533) 女子( - )
備後衆等但馬討入 |母塩冶周防政清女|母同右
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|高岡 | |I高岡
(57)千寿丸( - ) 女子( - )= 宗明( -1510)
早世 |幼名松笠丸
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|J高岡勘解由
(58) 宗政(1509-1565)森山城主
| 仕 山名誠豊 祐豊公
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|1.高岡筑前守 初仕 山名祐豊公 |K高岡志摩守
(59) 宗孝(1538-1581) 後仕 吉川経家公 宗房(1536- )
|討死於因州岩見郡雁金城 |仕 大内氏 後仕毛利氏
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|2.高岡勘解由 仕 小出遠州秀家公 |L高岡志摩守
(60) 義孝(1560-1600) 奥州上杉景勝征伐併 輔房(1563-1593)高麗陣歿
| 濃州関原役御陣奉公 |
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|3.高岡 |高岡彦左衞門尉 |M高岡嘉左衞門尉
(61) 義勝(1588-1636) 信勝( - ) 宗勝( -1643)
|陶器小出家中 紀州浅野家中 |
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|4.高岡勘解由 | |N高岡勘右衞門尉
(62) 義盛(1610-1645) 女子( - ) 宗慶(1607- )
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|高岡 |5.高岡掃部助 |高岡 |高岡勘右衞門 |高岡助三郎 |O高岡加左衞門 |高岡弥右衞門
(63) 某 ( - ) 義永(1633-1683) 某 ( - ) 宗武( - ) 宗清( -1670) 宗巖( -1685) 宗方( -1700)
早世 | 法名休安宗清居士|母佐々木清高女
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|6.高岡勘解由 元禄9年(1696)8月12日和泉 |高岡勘太夫 |P高岡コ左衞門
(64) 義順(1654-1699) 小出家無嗣断絶因為浪人矣 某 ( -1706) 宗盈( -1700)
|玄庵宗觀 ↓ |法名夏月道泉居士
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|7.高岡 |高岡一學 但馬養父郡旗本小出 |高岡條右衞門 |Q高岡コ左衞門 |了夢童子
(65)義兼( - ) 義倫(1686-1771)英輝英方英都家來住 宗景( -1711) 宗理(1685-1727) 某 ( -1696)
| |玄徹宗圓 居於江戸芝三田寺町 |
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|高岡宗コ室 |高岡靜馬 |高岡宗意室 |8.高岡コ左衞門 |R高岡源七郎 |泉譽妙還大姉 |眞如智賢信尼
(66)女子(1709-1775) 義禮( -1725) 女子(1711-1768) 宗コ( -1782) 宗意(1709-1755) 女子( -1733) 女子( -1733)
歿於江戸 ↓幼名弥助 |
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|S高岡源七郎 |21高岡嘉右衞門 |高岡三之丞 |高岡貞兵衞 |高岡勘助 |高岡弥七郎 |智空童女
(67) 義暢( -1760) 義通(1734-1795) 某 (1736-1744) 義定( -1765) 義之( - ) 義重(1742-1803) 女子( -1747)
|舎兄義暢為養子 眞教童子 |法名覺林玄夢居士
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|22高岡藤左衞門 |惠春童女 |覺円童女 |妙貞童女 |高岡玄蕃
(68) 義熈( -1825) 女子( -1765) 女子( -1772) 女子( -1776) 重房( -1822)
|室土江羽右衞門女 早世 早世 早世 ↓法名雪窓良白居士
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|高岡因幡 |23高岡嘉右衞門 |幻喜童子 |傳燈阿闍梨 即成 |幻無童子 |高岡辰蔵
(69)重里( -1873) 義隣( -1851) 某 ( -1807) 弘融法印( -1864) 某 ( -1812) 某 ( -1818)
高岡重房為養子 |前名源治郎 弘元上人弟子 早世 一心本居童子
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|24高岡條右衞門 |橋本善右衞門 |覺幻童子 |高岡弥惣次 |智鏡童女
(70)義鑑(1834-1898) 順治(1839-1924) 某 ( -1843) 某 ( - ) 女子( -1836)
|母佐々木孫三郎女↓橋本順コ為養子 早世
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|覺稔童子 |25高岡 |高岡 |高岡 |佐々木久吉室 |橋本弥蔵室
(71) 某 ( -1868) 良蔵(1872-1946) 某 ( -1878) 民蔵(1881-1944) 女子(1860- ) 女子(1862-1955)
早世 | 頓悟無相童子 高岡靜觀為養子 佐々木清市郎母 橋本巻蔵母
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|高岡 |26高岡 |高岡 | |高岡 | |
(72)男子(1894-1897) 男子(1896-1970) 男子(1901-1959) 男子(1903- ) 男子(1906- ) 男子(1908- ) 女子(1898-1979)
早世 ↓ 養子 ↓ 養子
(※『檀越中過去靈名記』の記載により一部加筆訂正)
『雲州源姓高岡家譜』
『檀越中過去靈名記』
『出石高岡系図』
『鳳鳴記』
『高岡年譜』小出秀道所蔵
『高岡系譜』高岡嘉右衞門尉差出控
『(村岡)藩士分限下調帖(1859)』岡村家文書所収
『兵庫県下旧藩士族生計一覧表』
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