【歴史】
暦応4年(1341)4月3日塩冶判官高貞讒死のち山名時氏に仕へ、明徳兵乱の後(1392)一旦但馬へ遷るも、 山名氏領備後國の代官となりて、彼國に下り世々備後の城持大将と為る。 天正5年(1577)織田右府の手先羽柴小一郎、但馬に討入て同州之城数々陥て乱妨す。 翌6年(1578)正月山名氏政、竹田城の羽柴小一郎のもとに参向致し、山名氏が織田方に帰したると雖も 高岡筑前守宗孝、同國二方郡阿勢井の亀ヶ城主塩冶周防守高清を頼り食客す。 同8年(1580)羽柴小一郎をして6400の兵にて、但馬に再ひ討入たる之時、5月16日出石有子山城開城し、 山名韶熈は降参す。國人垣屋隠岐守恒総、垣屋駿河守ら諸兵は、気多郡水生山城主の西村丹後守を頼り対峙す。 このとき宗定は、二方郡阿勢井にて羽柴小一郎(秀長)の兵と戦うも多勢にして利を得ず、更に因幡鳥取城の山名豊國を頼り 塩冶高清とともに因幡へ退去したるが、同8月豊國侯、羽柴の兵を観るに怖気附て、早々に少輩を引連れ夜隠にて逐電を致し、 剃髪して名を禪高と相改め羽柴美濃守(秀長)が陣へ降参す。

鳳鳴記』の記すところに拠らば、高岡筑前守宗孝はこの禪高の逐電を潔良しとせず、ゆゑに翌9年(1581)正月鳥取城に入りたる石見國福光城主 吉川經安の嫡子、經家が麾下に仕へ因州雁金城にて防戦いたし、其節、筑前守討死仕り候。 然而敵兵無勢にして刃が立たず、同10月24日同州丸山城に於いて城将塩冶周防守、 奈佐日本助、佐々木三郎左衛門ら悉く自害して相果て候。 依りて筑前守嫡子勘解由(義孝)、次子義治儀、遂に織田右府公麾下宮部中務法印(善祥坊繼潤)の軍門に降り 御預けと相成候。

豊太閤文禄元年(1592)唐入り御陣の時、(善祥坊養子)宮部長熈公の旗下にて高麗國慶尚道にて 軍役奉公す。役おさまりて高麗表より帰朝の後、有故て宮部兵部少輔(長熈)様の御勘氣を被て、 永の御暇を下さる。 泉州堺にて籠居の後、同州岸和田にて小出秀政侯へ被召出之候。 大権現様慶長5年(1600)奥州会津上杉景勝御征伐之節、勘解由(義孝)儀、 小出遠州(秀家)様江召加られ、東下致せる。 於時石田治部少輔(三成)之有謀叛により、大権現(家康)様御西上て濃州関原にて御成敗致される。 勘解由(義孝)儀終始御軍役奉公し、役終るの后、泉州石津浦にて長曽我部秦盛親等が残党、 狼藉致せるを討取りて功あり。

小出遠州(秀家)様忠勤たるによりて、大名御取立の御内話ありしを、前の役、遠州様御舎兄吉英公が 石田治部(三成)の指揮にて田邉城責めの勢に加はりたるかゆへ、御一身の功に変えて、 御父兄両君の責めを救ひたるなり。
ゆへにて、御主家無事故にてご本領安堵いたされ候。遠州(秀家)様御逝去の後、神君(家康)これを悼み、 関原之功を賞せられ、御舎弟三尹公に、特に遺跡を継がしめ更に御加増ありて、 壹萬石の諸侯とならせ給ふによりて、(義孝嫡子)掃部助義直儀、河内錦部郡の代官を相勤め候。 歴世小出侯に仕へたるゝも、先般元禄9年(1696)8月12日重興公無嗣にて御家断絶と相成り、 召抱を相御トキ放チ有りて、見下浪ゝ人致し候之后、但馬出石小出本家へ罷越したるも、 同年10月27日小出本家も無嗣断絶に相成り、仕官を果せず候のところ、 関原爾來之縁故を以て同國養父郡領主小出家へ召抱へらるといふ。