『鳳鳴記』の史料的意義
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『鳳鳴記』は、出雲源氏を起源とする高岡家の歴史を綴ったものである。
この書は、但馬国養父郡上野村の高岡家に傳来したもので、甲本、乙本の2種が現在傳わっている。内容はほぼ同じながら多少異同がある。 またこれとは別に、この本の元となったと思われる『法名記(ほうみょうき/ほうめいき)』という古本の残欠がある。

『鳳鳴記(ほうめいき)』の名の由来は、その序に示すように詩経の「鳳凰鳴矣于彼高岡(ほうおうなけり、かのたかおかに)」また「鳳凰高岡に鳴木梧桐(あおぎり)を生ず」の言葉に由来するようである。その意味する処は「皇帝の徳が治まった世の中となれば、高い岡に鳳凰が飛来する」という古典にみられる文言である。高岡家の歴史をつづるにあたって、理想社会に出現する瑞鳥の飛来地「高岡」を掛け合わせた名前となっていると考えることができる。しかし、一方で、この本の元となったと思われる高岡家歴代の戒名と小傳を記した『法名記(ほうめいき)』という古本の残欠が存在する。この題にみるように、元々は、高岡家の過去帳として伝来したものがありその表題が『法名記(ほうめいき)』と書かれたがゆえに時代の変遷とともに、『鳳鳴記(ほうめいき)』の佳字を宛てたのではないかと考えられなくもない。

所収内容は、宇多天皇よりはじまるが、佐々木秀義までの内容は極めて簡素である。佐々木秀義以降の歴史はやや詳しくなり、五男・義清の誕生以降は詳細に記す。源頼朝の挙兵当時は、義父に従い一旦は、兄弟と袂を分かち平家に味方したのち、黄瀬川の戦いで 源氏方に投降したようである。佐々木義清は、承久の変で幕府に味方して功があり隠岐・出雲の守護職となり彼地に赴任し、隠岐源氏と出雲源氏の開祖となった。義清の次男・泰清の八男で八郎左衛門少尉宗泰が、出雲国神門郡塩冶郷高岡里を領して、 高岡氏を名乗ったようである。そのあたりの経緯は、『鰐渕寺文書』でも裏付けられる。また系譜についても南北朝時代から室町時代初期にかけて洞院公定が編じた『尊卑分脈』や、『群書系図部集』でも概ね確認が可能である。また、出雲国守護の塩冶判官高貞が讒死したあと、高岡師宗の三男重宗以下は、幼少のゆえに山名時氏に助命され、一旦は、佐々木の姓に戻して山名氏の家臣となり、成人してまた、高岡に戻している。明徳2年(1391)の山名満幸の挙兵に従って高岡重宗、高重親子は敗れ、出雲の本領を失った。その後は、重宗の異母弟・直宗が後を継ぎ以降はこちらが本流として栄えたようである。

高岡家の歴史が連綿と記されて残された経緯は、種々考えられるが、直接の動機となったのは、江戸初期以降、 和泉国小出陶器藩士として、高岡(佐々木)家として続いていたのが、藩主の夭逝によって無継断絶し浪人となったため、 仕官(再就職)の必要から自家の来歴を伝来した古文書に基に編纂したようである。この陶器(かわらけ)藩の御家断絶より後に、 一から編纂されたとするのには、内容が詳細かつ膨大であるので、元々傳世された資料があったと見るべきであろう。 『鳳鳴記(ほうめいき)』の佳字が宛てられたのはこの時か。

高岡家は、江戸で陶器藩の縁戚の出石藩に仕官を試みるがその最中、出石藩主も同じ年に無継断絶してしまい、さらに出石藩小出氏の分家である、旗本・小出氏に関ヶ原の時の縁故(小出秀家の兵の忠勤によって改易を逃れた件)によって召抱えられ定府した。子の代に算術の才能によって御国元(但馬国養父郡)の年貢の検見など勤務を命ぜられ、国詰役人となったようである。



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