高岡筑前守宗孝
Takaoka Chikuzen
(1533-1581)


諱は宗孝。筑前守。但馬國守護山名氏の臣。城持大将なり。高岡宗政の二男。

永禄12年(1569)6月、但馬守護・山名祐豊は因幡奪回を意図し、出雲の失地回復を狙う尼子勝久、 山中鹿介らを支援し彼らに毛利元就を攻めさせた。そこで同年7月毛利元就は、織田信長のもとに 朝山日乗を使者として派遣し、織田方へ但馬攻略を要請した。これにより信長は木下藤吉郎、 坂井政尚らに摂津伊丹衆、池田衆二万餘兵をつけて出兵させ毛利方の朝山日乗も軍監として従った。

この軍勢は同年8月朔日に但馬に討入り、約10日間で18の城を落城註1)させたという。 不意の但馬討入りに浮足立った山名祐豊は、但馬を出奔し泉州堺の商人渡邉宗陽を頼った。 祐豊は堺で信長と親しい商人今井宗久に接近し、宗久を通じて信長と和議を結び、 信長に礼銭1000貫文を納めることを條件として、翌13年(1570)正月7日但馬に復帰した。 このとき祐豊は名を「韶熈」と改め、また居城の子盗城(此隅山城)も「子守城」と改めた。

これより5年程但馬は織田方の領國となるが、織田方を嫌う勢力が台頭し、天正3年(1575)正月には 毛利方の取次役吉川元春と、山名方の取次役太田垣輝延を介して、毛利輝元と山名韶熈の和睦(藝但和睦)が 成立したため、天正5年(1577)11月には、羽柴小一郎が織田方の兵を率いて但馬に討入り、 八木豊信(八木城主)、三方左馬介(三方城主)、朝倉大炊(朝倉城主)、 橋本兵庫(坂本城主)、 宿南右京(宿南城主)等を約18日間で降参させた。
その後但馬竹田城に入った羽柴小一郎は、青木勘兵衛を出石に派遣して、「出石、城崎、美含、 二方の4郡安堵」を條件に、山名韶熈、氏政父子に和平を提案した。

翌6年(1578)正月山名氏政が、竹田城の羽柴小一郎のもとに参向し、但馬山名氏は再び織田方に帰服したが、 この動静を快く思わざる國定は、山名氏の影響力も弱まり織田方も実質支配の及んでいない、 二方郡阿勢井(亀ヶ城)城主の鹽冶周防守高清を頼り食客した。
ほどなくして天正8年(1580)織田信長は但馬平均を発向し、羽柴小一郎をして6400の兵をつけ、 再度但馬に討入らせた。南但馬の勢力は、既に織田方への帰順を決めていたがためにさしたる抵抗の無いまま、 織田方の兵は出石の有子山城へ進み、同年5月16日山名韶熈は降伏して開城した。

これに不満の垣屋隠岐守恒総、垣屋駿河守ら諸兵は、気多郡水生山城主の 西村丹後守を頼り、頑強な抵抗を見せた。 また山名氏政も因幡に出奔した。このとき國定は、二方郡阿勢井(亀ヶ城)城 にて羽柴小一郎の兵と戦うも多勢にして利を得ず、更に因幡鳥取城の山名豊國を頼り鹽冶高清とともに 因幡へ退去したが、因幡の豊國は怖気づいて戦意が無く、同8月豊國が早々に城を抜け出して降参し、 出家して禅高と称したるに及んだ。
この行為を「臆病之極」として潔しとせず、更に遷りて吉川經家を大将に迎え、 因州雁金山城にて防戦のところ、敵兵無勢にして刃が立たず、翌9年(1581)10月頃討死註2)した。

註1)『朝山日乗書状案』によると「始(生野)銀山、子盗(此隅)、垣屋城(楽々前城)、十日之内 十八落去候、一合戦ニテ如此候、田結庄、観音寺此両城相残リ候」とある。
註2)『出石平尾岫雲斎文書(兵庫縣七美郡村岡誌 所収)』によると但馬國守護山名氏の臣で、 永祿11年(1568)頃の城持ち大将は、「神保掃部介、守津若狹守、福田安藝守、福田若狹守、 太田垣土佐守(輝延)、中澤備前守、秋庭(田公)伊賀守、三宅豊後守、泊瀬惣左衞門尉、池田和泉守、 山本出雲守、八木但馬守(豊信)、八木弥左衞門(八木亮樹)、萩四郎左衞門、田結庄右馬允、 垣屋遠江守、福富甲斐守、高岡筑前守」とあり。
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