高岡重泰
Takaoka Shigeyasu
(1437-1493)


諱は重泰。佐々木重頼の嫡男。但馬守護山名宗全、教豊、政豊に仕ふ。 のち備後守護山名俊豊に仕ふ。

高岡重泰は、但馬守護山名金吾入道宗全に仕へ應仁兵革の後、山名政豊に仕ふ。 政豊が嫡子俊豊を備後守護に任じたときに備後に下向した。長享元(1487)の近江六角征伐に参陣。

文明15年(1483)西備前の金川城主松田元成は、赤松氏を討たんと欲して厳島参詣と称し備後に下り、山名俊豊と赤松氏征伐の密約を交した。
元成は備前に帰るや軍備を整え、赤松氏の備前守護所(守護代は浦上則國)のありし福岡城註1)を急襲するも城兵の反撃に遭い松田氏一族は敗退した。 山名俊豊はかねてよりの密約の通り、備後守護代太田垣美作入道宗収をはじめ、三吉氏、杉原氏、木梨氏、山内氏、多賀山氏、和智氏、江田氏、涌喜氏、 敷名氏ら備後の有力國衆(備後衆)三千の兵を率いて備前に討入註2)った。 重泰は山名俊豊の麾下にて、「散々合戦」したる註3)という。
備前守護代浦上則國は福岡城に籠城するも、翌文明16年(1484)正月下旬には戦意を失い、 城を捨てて一旦播磨へ退去した。こうして備前、播磨の両国は山名氏の支配に下り、美作も半ば山名氏の領国註4)と化した。

しかし、文明17年(1485)には赤松方の反撃が始まり、2月には備前福岡城で山名方 の武将田総豊里が討死註5)し、閏3月5日の福岡城周辺の土師河原註6)、 砥石城註7)の合戦では、赤松方の武将浦上則國が討死するなど 双方に被害を出しつつ一進一退の攻防を繰り返し註8)たが、 赤松政則と浦上則宗の軍が合わさるや赤松方が優勢に転じた。

翌文明18年(1486)正月播州英賀註9)の合戦、4月28日の書写山坂本の合戦で 山名、赤松両軍は干戈を交えるが、赤松方が勝利を得る。

この乱戦のさなかの長享元(1487)8月上旬、9代将軍足利義尚公は、近江六角高頼討伐の命を 下し各國の守護に参陣を求めたため、やむなく山名俊豊と備後國人勢は、 政豊の名代として近江に向かわんがため、同9月には備前、播磨の戦線より離れた。

六角氏は近江佐々木氏の嫡流であり一大勢力を誇っていたため、それに対峙するため集められた 諸國の士は、斯波義寛、細川政元、細川元有、畠山尚順、土岐政房、山名俊豊、赤松政則の名代、 大内政弘、京極政経、京極高清、上杉氏の名代、小笠原氏、武田国信、富樫政親等諸大名、 幕府被官で、都合10万餘騎の大軍であった。重泰は塩冶周防守に属して参陣。 高岡氏と塩冶氏は同族でともに出雲佐々木氏の流であり、重泰は塩冶周防守政清の娘と婚した。

長享2年(1488)4月8日更に坂本城下で猛戦の末、山名方は合戦に利無きことを悟るや、 同7月18日主将山名政豊は播州坂本城を退去し、同7月20日には備前福岡城を守っていた 山名俊豊の率いる備後國人衆も、但馬に向けて退去し出石の桜尾(備後衆山)に布陣註10)した。

延徳3年(1491)8月23日10代将軍足利義材公による近江六角高頼征伐の命を受けて俊豊に従い合戦する。 文明15年(1483)以来はからずも備後へ戻らず但馬へ来ることになった備後守護の俊豊と備後衆は、 連戦状態にも関わらず不当な処遇にしだいに山名政豊への不信をつのらせ、 政豊を隠居させ俊豊を山名惣領にせんとの思いが奮発した。しかるに政豊は嫡子俊豊より致豊を溺愛して、 俊豊を廃嫡せんとしたため、明應2年(1493)7月8日義憤に耐え兼ねた山名俊豊に従い、重泰は、塩冶氏、 村上氏等備後國人衆と政豊の居所である九日市城に討入った。 山名政豊と争ふも敗れて、同7月13日俊豊は逃れたものの、重泰も塩冶周防守、 同息彦次郎、村上左京亮らと討死註12)した。

なおこの後、政豊は目論見通り致豊に跡を継がしめたが、致豊の専制に嫌気のさした但馬國人たちに、致豊は遂に永正9年(1512)離反され、守護職は致豊の弟誠豊に移された。


註1) 現 岡山県邑久郡長船町福岡
註2)『備前文明乱記』による。
註3)「文明15年(1483)備前福岡城江討入散々合戦仕候。同18年正月於播磨英賀合戦仕候、 併同四月廿八日於書写山坂本城色々合戦仕候得供、不得利候而。[長享2年(1488)]7月廿日 従備前福岡城皆々退去仕而、但馬表江罷越櫻尾山罷在候」による。
註4)『實隆公記』による。
註5)『蔗軒日録(田総文書 所収)』による。
註6) 現 岡山県邑久郡長船町土師
註7) 現 岡山県邑久郡邑久町豊原
註8)『備前文明乱記』による。
註9) 現 兵庫県姫路市
註10)『但馬旧事随録』による。
註11)『蔭凉軒日録』による。
註12)『蔭凉軒日録(明應2年(1493)7月22日條)』によると「今月(明應2年(1493)7月)八日於但馬國合戦有之、 山名一家(政豊方)之衆三人討死、其外面衆十四五輩討死、是者少弼殿方事也。其後又十三日大合戦有之、 (山名俊豊)霜臺見剪腹、鹽冶周防守、同息彦次郎、村上左京亮、其外面衆悉討死定一之由注進有之云々」とあり。 「俊豊が自害した」とあるのは誤報である。
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