高岡八郎左衛門尉源宗泰
Takaoka Muneyasu
(1255-1326)


隱岐出雲両国守護佐々木五郎左衛門尉源義清の孫。 (隱岐泰清の八男)御母は葛西伯耆守平清親の女なり。出雲高岡氏の始祖。 諱は宗泰。致仕してからは覺念と号し、幼少の名は千手麿という。官は左衛門尉。 八郎と号す。佐々木宗泰とも称す。紋は花輪違。

建長7年(1255)京都に生る。 弘長4年(1264)出仕、文永6年(1269)首服。同11年(1274)12月異国警固番役として、 筑紫国遠賀郡黒崎附近を防衛する。


                       蒙古襲来絵詞より

建治3年(1277)4月隱岐国守護代となる。(建治2年(1276)までは父泰清が守護)

弘安4年(1281)6月15日蒙古異賊が襲来する。
同10年(1287)出雲国神門郡鹽冶郷高岡邑(現島根県出雲市高岡町)を領し、佐々木を改めて高岡と称す。 (一説 弘安元年(1278)領すとも言う)
永仁5年(1297)6月3日出雲鰐淵寺に高岡邑(采地壱町)を寄進する。(鰐淵寺文書)
嘉元2年(1304)北條宗方狼藉の時、蒙 命追討。
嘉暦元年(1326)2月23日父泰清の供養塔出雲鰐淵寺の三重塔が炎上した件についての書状を、同年(1326)6月5日したためる。沙弥覺念と号す。(鰐淵寺文書)
同年(1326)7月15日寂 行年72歳。


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