佐々木五郎左衛門尉源義清
Sasaki Yoshikiyo
(1161-1242)


諱は義清。佐々木五郎。左衛門尉、出雲守、隱岐守。出雲・隱岐守護。 紋は花輪違。佐々木秀義の五男。 母は澁谷庄司平重國の娘。

平治の乱で敗れた佐々木秀義は、近江佐々木荘領家・預所職を没官されて奥州藤原秀衡を頼り東下するが、 途中相模で秀義の武勇に惚れ込んだ澁谷庄司平重國に引き留められ娘婿になる。 平重國の娘との間に生まれたのが佐々木五郎義清である。義清は成長すると、 大庭景親の娘婿になり、治承4年(1180)頼朝挙兵の時、兄定綱・経高・盛綱・高綱等は頼朝の幕下に参陣したが、 義清は澁谷重國らへの恩義から実父秀義と共に岳父大庭景親に従い平家方に参陣した。

頼朝打倒のために大庭景親の出陣に応じた武士は、股野景久、海老名季定、河村義秀、曽我祐信、 佐々木義清、澁谷重國、熊谷直実、飯田家義、梶原景時その他家の子郎党を含め三千餘騎であった。

両軍は石橋山(現 小田原市石橋)の谷を隔てて対峙した。平家方は、頼朝方に馳参ぜようと三浦を出て、 丸子川(酒匂川)の洪水で行手をはばまれている三浦義澄を総帥とする三浦勢が、頼朝に合力することを恐れ、 同夕刻攻撃を開始した。頼朝に従った武士達は三百騎、数の上でも圧倒的に勝る平家方に惨敗し、 頼朝はわずかの郎党とともに土肥杉山の洞窟に身を隠した(相模石橋山合戦)。

一命を得た頼朝はその後、土肥実平の助けにより真鶴から安房に逃れ、ここで三浦氏一族らと合体し、 再び反平家の旗を挙げることとなった。 その後、黄瀬川の合戦に敗れた義清は、 同年12月26日囚人として兄盛綱に預けられたがまもなく赦免され、近江守護に補任された父秀義に同行した。 元暦元年(1184)7月伊勢・伊賀平氏が挙兵して伊賀守護大内惟義が敗れると、 秀義・義清父子は直ちに甲賀軍を率ゐて出陣し撃退するが、秀義は流れ矢に当り戦死。 秀義は死後功績によって近江権守を贈られた。

文治5年(1189)奥州藤原泰衡追討では、兄盛綱とともに従軍し、以後義清は有力御家人の一人として、 幕府の諸行事に参列した。建永元年(1206)11月20日将軍御出のことを掌る奉行になる。 建保元年(1217)5月の和田義盛の乱では将軍の御所を守らんと、結城朝光とともに大倉に陣を張る。 承久元年(1219)正月左衛門尉に補任。(『吾妻鏡』同年正月25日条に御調度懸として「佐々木五郎左衛門尉義清」の名がある)。 承久の乱で武家方として活躍し、宮方歿官領の出雲(のちに隱岐も)守護職を賜ふ。

嘉禄元年(1225)正月27日に出雲守に補任(『明月記』嘉禄元年正月28日条)。 安貞元年(1227)3月11日隱岐守に補任(『明月記』安貞元年3月11日条)。 出雲・隱岐守護職は長男政義(隱岐太郎左衛門尉)・次男泰清(隱岐次郎左衛門尉、信濃守)に世襲され、 時清の子孫から隱岐守護隱岐氏、 頼泰の子孫から出雲守護鹽冶氏が出る。 隱岐氏・鹽冶氏は、引付衆・評定衆等に列すること多しといふ。



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