1951年8月1日に日本航空株式会社として設立された。当時日本は敗戦直後で、一切の航空活動が禁止されていたために、ノースウエスト航空に運航を委託し、同年10月1日にマーチン202型機「もく星」号で国内線の運航を始めた。そして翌1952年10月25日には、DC−4で自主運航を開始、機体塗装も一新した。ところが航空機の運航にかかる経費は莫大で、政府の援助は不可欠であった。そこで1953年10月1日には、日本航空株式会社法が施行され、日本航空は半官半民の特殊法人として再出発することになった。ナショナル・フラッグ・キャリアとしての日本航空の歴史はここに始まる。1954年2月2日には、初めての国際線、東京−サンフランシスコ線をDC−6Bで開設。以降日本航空は、欧米航空界からとった遅れを取り戻すべく、日本政府をバックに急激に新路線を展開していく。1960年には同社初のジェット旅客機DC−8を就航させ、国際線の倍速化を図る。時を同じくして、ヨーロッパ線を開設し、以後日本航空は、世界の主要都市に巨大なネットワークを持つ世界の航空会社に成長していく。1970年、ボーイング747−100型が国際線に就航。これを機に機体塗装を一新。1974年には国内線にボーイング747SRが就航。以降、同社のジャンボ機は急増し、遂には、世界一のジャンボユーザーになった。1985年日本航空は空前の航空機事故に遭遇する。乗員乗客520名が死亡したいわゆる日航ジャンボ機墜落事故である。この事故により日本航空は経済的にも社会的にも大きなダメージを受け、相当長い期間その影を引きずることとなった。1986年には、航空自由化が図られ、これまで国際線と国内幹線しか就航できなかった同社は、国内ローカル線への就航を許される。ところが国内路線網では既に全日空が強大な路線網を築いており、また、日本航空がこれまでに築いていた国内幹線路線網から新たに発展させるとしても、これらの主要空港は発着枠に余裕がないか飽和状態にあり、順風満帆とはいかなかった。1987年11月18日、日本航空は完全民営化された。1989年には現在の機体塗装を発表した。その後、同社は着実にローカル線に進出していくが、同社の最も小さなフリートであるボーイング767をもってしてもなお持て余し気味のことが多かった。そこで、同社はDC−8以来のナローボディ機となるボーイング737−400の導入を決定し、1995年9月から就航させた。しかし後発の溝は容易には埋まらず、同社は国内ローカル線の低コスト化による体質改善を図るべく100%出資の新会社JALエクスプレスを設立し意欲的な国内線戦略を展開した。
しかし、世界の航空業界では日毎激しくなる国際競争の中、欧米を中心に生き残りを賭けた航空会社の統合が繰り返されるようになり、さらに追い討ちをかけるように2001年9月11日の米国中枢同時多発テロが発生し、世界的な旅客数の低下を来たし、名門航空会社ですら倒産する極めて深刻な事態を迎えた。その中で同社は、国内第3位で国内路線に強い日本エアシステムと経営統合することで、競争力とシェアの拡大を図る方針を決定した。
2002年10月2日、株式会社日本航空システム(Japan Airlines System Corporation)が設立登記され、正式に発足した。これに伴い、日本航空、日本エアシステムは日本航空システムの連結子会社となり、段階的に統合され、業務別に再編成されることになった。以後国内航空業界は全日空との2強時代を迎えた。
しかし、合併後の社内の混乱は著しく、相次ぐ運航トラブル等を引き起こし、旅客離れが起こるなど、容易には運ばなかった。
2004年4月1日、日本航空は株式会社日本航空インターナショナル(英名:Japan Airlines International Co., Ltd.)に社名変更した。また日本航空システムは2004年6月末に株式会社日本航空(英名:Japan Airlines Corporation)に社名変更を行なった。
2006年10月1日、日本航空ジャパン(旧日本エアシステム)を吸収合併し、4年間に及ぶ統合作業は完了した。
DC-6B 撮影:戸田保紀氏1965年羽田空港 | コンベア880 撮影:戸田保紀氏1966年羽田空港 | ボーイング727(JA8308) 撮影:戸田保紀氏1966年羽田空港 |
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旧塗装のDC-10(JA8546) 撮影:1987年11月3日大阪国際空港 | 旧塗装のボーイング747-300(JA8178) 撮影:大阪国際空港 |
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ボーイング747-400(JA8909) 撮影:1997年8月18日関西国際空港 | DC-10-40(JA8538) 撮影:1997年8月18日関西国際空港 |