
漢方という言葉は皆さんが思っているほど古い言葉ではなく、世界に通用する言葉でもありません。
江戸時代末期にオランダから伝わった「蘭方」と区別するために生まれた言葉で、それ以前は流派で呼んでいました。
本家とされる中国では「中医学」と呼び、ここでも漢方とは言いません。
また、ドクダミやセンナなどの生薬を漢方薬だと思っている人も多いようですが、これらは民間生薬と呼ばれる薬で、漢方薬ではありません。
太古の人類は、病気になった時は野生動物と同じように薬草を噛んでいました。
狭い地域の中から経験的に薬を選んでいたのは、洋の東西を問わずに同じです。
やがて、西洋は有効成分を取り出す方向に、東洋は生薬を組み合わせる方向に、歩みを異にします。
日本で卑弥呼が生存していたはるか前、中国で様々な学問の元となった陰陽哲学が集大成されます。
異説もありますが、陰陽哲学と医療が結びついたのが漢方の源だと言われています。
やがて、秦や漢などの広大な土地を支配する国が生まれ、それまで入手困難であった薬草や薬石が中央に集められるようになります。
皇帝達の不老不死・長寿願望と相まって発展が始まりました。
分析技術がほとんどない時代において、適切な量や効果的な組み合わせを見出すには、気が遠くなるような努力と時間が必要だったでしょう。
人体実験という言葉は不適切かもしれませんが、試行錯誤の段階においては、相当の犠牲を払ったと想像されます。
日本に漢方が伝わったのは大和時代ですが、当時は貴族のみしか使えない貴重品でした。
特権階級から庶民に広まり始めたのは安土桃山時代です。
当時の治方は、温補養陰を重視するもので、「後世派」と呼ばれています。
徳川家康が薬好きであったこともあって、江戸時代に入り日本の漢方は大発展します。
ただし、当時の日本は鎖国をしていましたので、一部の薬草は入手できなくなり、学問的な交流も激減します。
中医学と漢方に微妙な違いがあるのは、この時代の影響です。
やがて、根本原理である陰陽五行を重視して攻撃的な治方を行う「古方派」や、後世派と古方派の長所を合体させようとした「折衷派」が登場します。
明治時代になり、西洋のものは優れ・東洋のものは劣っているという尊欧蔑亜の考えが台頭します。
その思想が医療にも影響を及ぼすことになり、西洋医学のみが医療であると時の政府が決定します。
東洋の医学である漢方は一転して冬の時代を迎えることになりますが、先人達の努力で命脈は絶えず、西洋薬と漢方薬の長所を合体させようとする「新折衷派」も生まれます。
昭和後期になって、西洋医学の限界が叫ばれるようになり、全く違う医療である漢方が再注目されています。
意外に思われるかもしれませんが、医学部や薬学部でも漢方の本格的な講義はなく、興味のある人は卒業後に学び習得します。
薬剤師においても、漢方知識には大きな個人差があります。